< 承前 >
茶臼山古墳の前の休憩所からの眺めもなかなかいい。
正面に近江富士の三上山。手前の橋は近江大橋である。
国道1号線に戻り、南へと走る。JR・京阪石山駅の少し手前の三叉路を右に入って300m程行くと、御霊神社がある。
大友皇子が祭神である。壬申の乱の頃のこの地域の人々にとっては大海人皇子軍は侵略軍・反乱軍、近江朝廷・大友皇子に心を寄せていたに違いない。大海人軍に滅ぼされ、大友が自害した後も、ひそかにその霊を祀ったりもしたであろう。この地域に大友皇子を祀る神社が多いのも、そういうことかも知れない。御霊神社というと、祟り神を鎮めるという怨霊信仰によるものや祖先神の「み魂」を祀るもの、五柱の神(五霊)を祀るもの、など性格も色々あるようですが、大友皇子の場合は怨霊信仰に依るものと考えてもいいような気もします。
天災や疫病など凶事が発生した際に、何の祟りかと思いめぐらして、この地の人々が先ず思い浮かべたのが、無念のうちに死んだ大友皇子であり、その祟りだと考えたとしても不思議はない。
大友皇子の子孫が今も居られて、茶臼山古墳の上に大友の墓だという「葬り塚」があり、少し先には、近江朝廷が滅ぶこととなった最後の戦いの場、瀬田の唐橋があるのだから、大友皇子にまつわる神社が多いのも納得というもの。
上の写真の鳥居の内側には沢山の自転車。これは境内で「隠れんぼ」だったか「鬼ごっこ」だったかをしていた小学生たちの自転車。
上の御霊神社から500m程南の鳥居川町にも御霊神社がある。京阪線唐橋前駅の直ぐ裏手(西側)になる。
北大路の御霊神社から南へ、最初の辻で左(東)に入るのだが、何を勘違いしたか、右(西)に入ってしまった。本人は東に向いて走っている心算だからいけません。何か変だと気が付いた時には新幹線の前まで来ていた。方向感覚がここでやっと正常に回復し、南に来過ぎていることに気付く。
そんなロスを経て辿り着いたのが鳥居川町にある、もう一つの御霊神社。
鳥居前にトレンクルを駐輪(写真上)して、社殿へと向かう。ここの祭神も大友皇子である。
御霊神社を出て、京阪石山坂本線・唐橋前駅に出る。
ここまで来れば、瀬田の唐橋を渡る他ありませぬ。
瀬田川には中の島がある。従って、瀬田の唐橋は、西岸と中の島に架かる短い橋と東岸へと架かる長い橋という二つの橋で構成される。どっちからも「から橋」です。
中の島の高みから撮影した長い方の唐橋が上の写真。撮影して振り返ると何やら像がある。三上山の大ムカデ退治伝説で有名な俵藤太こと藤原秀郷の像だ。
ムカデの話まで書くとページが尽きてしまう。それは何じゃ?というお方は下記をご参照下さい(笑)。
<参考> 藤原秀郷・Wikipedia
唐橋には、日本武尊を祀る建部大社の幟が翻っている。
ならば、と建部大社まで足を延ばすことに。いつの間にやら歌碑散歩が神社散歩になっている(笑)。
「かひなくたたむ名こそをしけれ」ではありませぬが、「歌碑なく行かむ神のみやしろ」でありますな(笑)。
唐橋を渡って400m程行くと建部大社の一の鳥居である。建部大社の説明は下記に譲りましょう。
<参考> 建部大社ホームページ
さすがに近江国の一之宮である。参拝の方が多い。
本殿脇にはヤマトタケルに所縁の方々を祀る祠が沢山並んでいるが、目に付いたのを二つばかり。
一つはその父・景行天皇の祠で、他の一つが大伴武日の祠。
大伴武日と吉備武彦はヤマトタケルの東征に随った家来。武日は家持から見れば9代前のご先祖様。武日の息子の武持(武以)の時に「大伴」の姓を賜っているから、武日は正確には「大伴」という姓ではないが、そういうことは、まあどうでもいいでしょう。
本日はここまでとします。( つづく
)
飛鳥川銀輪散歩(下) 2024.11.11 コメント(4)
飛鳥川銀輪散歩(上) 2024.11.10 コメント(2)
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