( 承前 )<1月11日(1)>
さて、今日からは11日の大宰府周辺の銀輪散歩の記事となります。
朝食を済ませてホテルを出たのは朝8時過ぎ。ホテル前の道を北へ。筑紫野市役所の前で道は右に大きくカーブ、JR鹿児島本線のガードを潜ると県道112号に出る。これを左に取って、300m程先を右に入ると西鉄二日市駅である。これを左に見て直進。国道3号を渡り、西鉄五条駅を右に見て更に300m程で県道76号に出る。これを右に進むこと600m位で太宰府駅である。
どうもややこしいのだが、太宰府市、大宰府駅、大宰府天満宮は「太」で、大宰府政庁跡は「大」である。日本書紀などの古文献は「大宰府」なのに対し
、平安期以降から「太宰府」と言う表記が登場し、やがてこの方が一般的となることから、市や駅名は「太」を使い、奈良時代の色合いの濃いものについては「大」を使うことのよう。従って、万葉では「大宰」ということとなる。太宰治も天平時代に生まれていたら「大宰治」であった筈(笑)。
太宰府駅到着は8時40分頃。30分程度で来れたことになる。
駅前から東へと続く天満宮の参道はご覧のように未だ殆ど人影がない。店も閉まっている。まあ、それはどうでもよろしい。御笠川を渡った処にある大町公園にある山上憶良の歌碑へと向かう。
妹が見し 楝の花は 散りぬべし
わが泣く涙 いまだ干なくに (山上憶良 万葉集巻5-798)
この歌は、妻を亡くした大伴旅人の身になって山上憶良が作った日本挽歌(長歌1首、反歌5首)のうちの1首。左注に「神亀5年7月21日筑前守山上憶良たてまつる。」とある。
なお、楝(あふち)はセンダンのこと。ホトトギスが鳴く初夏にやや藤色がかった白い花を付ける。ホトトギスは現世と常世を行き来する鳥とされているから、楝の花が散ってしまうとホトトギスも来なくなる、そんな意味も込められているのかも知れない。
旅人が大宰帥として赴任して来た時には、憶良は筑前の国守の任にあった。その結果、万葉第3期を代表する歌人、憶良と旅人を中心にこの地の歌が万葉集に多く残されることとなる。筑紫歌壇などとも呼ばれる。
長歌は引用が大変なので、他の反歌4首を参考までに下に記して置きましょう。
(参考)
家に行きて いかにか我がせむ 枕づく
つま屋さぶしく 思ほゆべしも(5-795)
はしきよし かくのみからに 慕ひ来し 妹が心の すべもすべなさ(5-796)
悔しかも かく知らませば あをによし
国内 (くぬち)
ことごと 見せましものを(5-797)
大野山 霧立ちわたる 我が嘆く おきその風に 霧立ちわたる(5-799)
大町公園を探しあぐねて時間をロス。上はその迷い道で見つけた白鷺。
太宰府天満宮境内にも万葉歌碑があるので、立ち寄る。既に大勢の参拝者で賑わっていました。御笠川沿いをウロチョロしているうちに参拝者がやって来る時間帯になっていたようです。
よろづよに としはきふとも うめの花
たゆることなく さきわたるへし (佐伯子首 万葉集巻5-830)
この歌は天平2年の観梅の宴の折の歌。筑前介の佐伯子首の歌。漢字まじりにて記すと「万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし」である。
わが苑に 梅の花散る 久方の
天より雪の 流れくるかも (大伴旅人 万葉集巻5-822)
これも観梅の宴の歌。主人役の旅人が詠んだ歌である。万葉集に登場する梅は全て白梅。雪に見立てるのは漢詩の常套的表現ではある。そう言えば息子の家持の歌には李 (すもも)
の花を雪に見立てたのがありますな。
(参考)
わが園の 李の花か 庭に降る はだれのいまだ 残りたるかも(19-4140)
ここにありて 筑紫や何處 白雲の
たなびく山の 方にしあるらし (大伴旅人 万葉集巻4-574)
この歌は、大伴旅人が大納言となって京に帰って行った後、大宰府の地に残った沙弥満誓から「あなたが行ってしまわれて寂しい朝夕を送っている」という趣旨の歌が贈られて来たのに対して、京から彼に旅人が返した歌である。まあ、今風にはメル友の二人ですかな(笑)。
そろそろ字数制限にも近くなりましたので、ここで区切りとします。
( つづく
)
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