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今年もまた暑い。京都の暑さは札幌出身の私にとっては耐え難いものだ。オジー・オズボーンの曲に「月に吠える」という曲があったが、私も吠えたい。相手は月じゃない。暑さだ。「暑さ反対」と書かれたプラカードを掲げハンガーストライキも辞さない覚悟をもって吠えたい。吠え方はコーンのセカンドのジョナサンのような吠え方を想定している。そうだ、かのアルバムには「アイ・ハヴ・ノー・プレイス・トゥー・ハイド」という曲が収録されていたと思う。暑さからは逃れられないとわかっているからなおさら吠えたい。吠えることによっては現状を変えられない。だから吠えることによって外的環境を変えようというわけではない。私が望まない暑さが目の前にある、そのことによって自分の中に棲家を得た何かわからぬものが吠えたがっているのである。吠え出すと、どんどんその吠え方は絶望に染まり、その昔好んで聴いていたアリス・イン・チェインズの「ダート」での故レインのような吠え方になると思われる。それでも、吠え続けるとどのようになるだろう。そうだ、PILの「デス・ディスコ(スワンレイク)」におけるジョン・ライドンのようなものになるだろう。背後のキース・レヴィンの神経質そうなギターが冷ややかである。冷ややか・・・・・そうだ、それならキースのギターで涼むとしよう。しかし、ジャー・ウォブルのベースは暑苦しいな。ダブに傾倒しているだけある。台無しだ。仕方がない、レイザーラモンRGにでも冷してもらうとするか。いや、それでは芸がない。パキパキのエレクトロニカが適しているかもしれない。まずはオウテカの作品からから適当な音源を捜してみるか。でも、そんなにパキパキしてないな。う~ん。仕方がない・・・・・エアコンを入れるか。しかし、今そのボタンを押しては取り返しのつかないことになるような気がしてならない。ボタンはすぐそこにあるというのに、なんということだろう。近いけど遠い、そんなせつない関係性である。うむ。これを題材にして小説を書こう。「押したいボタン」いいね。彼女はボタンといつまでも対峙している私を見て、もどかしさを感じているようだ。しかし、既に今年も半分が過ぎた。今回のそれも有意義なものであった。年を重ねるごとに有意義になっているような気がする。う~ん、ダンディズム。いや、だた「ダンディズム」という言葉を使いたかっただけなのだ。男の男の男の男の男の男の男の男のダンディズムというわけで、思うがままに文章を書くとこのようになってしまう私でした。こんな私をあなたはアホと評価するのかな。最後に、私がこのような文章を書いたのは、先日受けたテストの結果があまり良くなく、それでいてダンディだからである。最後のダンディ云々は照れ隠しだと思ってもらって構わない。完
Jun 30, 2006
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久しぶりに「サライ」を買った。まだ若いのになんと渋い男なのだろう、と悦に浸ったとか浸らなかったとか。まぁ、それは本題ではない。今月号の特別付録が「唱歌・童謡CD」である。特集が「もう一度口ずさみたい唱歌」で、それに関連しているのだが、かなり強く惹き付けられて気がついたら購入していた次第である。収録されているのが、「仰げばとおとし(←なぜか変換できない泣)」、「しゃぼん玉」、「われは海の子」、「春の小川」など厳選された29曲。聴いてみると渋い。なんとも渋い。そして緩い。心の奥底から湧き出てくる懐かしさのようなもの。いつしか静かな洪水である。私の井戸はまだ枯れてはない。2006初夏。僕は、なんて素敵なものをゲットしてしまったのでSHOWTIME。そうだ、このCDをかけるとそこは忘れかけていたものたちがSHOWTIMEなのである。なんだその日本語は、と言われれば、ごめんなさいと応答することになるであろう。納期特例とか算定基礎とか賞与の計算とかいう言葉が飛び交い多少細々とした事務量が多い時期だが、そんなものはSHOWTIMEの前では塵に等しい。こんな私をあなたは若年寄と言うのだろうか。さてと、初期のメタリカでも聴きながら勉強するとしようか。やっぱり男は黙ってメタルだよね。ファッションやアカデミズムを乗り越え、素直にメタルを抱きしめた。2006年初夏。夏は始まったばかりだ!
Jun 21, 2006
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さて、ワールドカップが始まった。前回はあれほどに盛り上がったワールドカップだが、今回はどうだろうか、と考えると雰囲気がやや異なっているような気がしなくもない。こういった世界大会においては、自国のチームを応援するのが通常予想される合理的な姿勢だろう。だが、ワールドカップについて無関心を装うのがひとつのファッションになっているように感じている今日この頃なのである。。というのは、そういった意見をネットその他でよく目にするからだ。実は多数派なのかもしれない。前回のワールドカップではそんなことはなかったような気がするのだが。そうだとするならば、その裏にはどういった心理が隠されているのか。そうすることによって満たされる、達成されることは?だれか解き明かして欲しい。そして、自分も無関心であるうちの一人である。いや、ここでワールドカップに言及している以上、無関心とは言えないな。残念ながら、自分も気持ち悪い奴のひとりといえる。昔、パフィーの悪口をいつも言っている奴は実はパフィーがとてつもなく好きなのでは?という話があった。そうである。無関心ならば、言及すらしないはずである。だとすると、なぜこのような現象が起きているのだろうとふと考えてしまうのである。例えば、自分が愛していたサッカーやそれをとりまく環境が別の形に変わっていき、それが我慢ならなかったりするのであろうか?愛ゆえに人は苦しまなければならないのだろうか?その真偽はともかくとして、考えてみるのには面白いテーマのひとつである。
Jun 12, 2006
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