テープで何度か聞いた古今亭志ん生師匠の「火炎太鼓」のマクラだと記憶しています。ちくま文庫『志ん生集』の「火炎太鼓」には入っていなくて確かめようが無いのですが。
暮れから新年にかけて読んだ本の中に以下のような部分がありました。
彰義隊の砲は旧式砲で射程距離も短く、それとは対照的に薩摩藩の砲は、イギリスを介して輸入した最新鋭のアームストロング砲などで、射程距離も彰義隊のそれよりはるかに長く、威力も格段にすぐれていた。
それらの砲が上野広小路の呉服店松坂屋の付近にすえられ、放たれた砲弾が黒門口を守る彰義隊員に絶え間なく撃ち込まれたが、保塁を盾にした隊員たちは少しもひるむことなく応戦した。
薩摩藩の大砲隊長は、黒門口をのぞむ会席料理の松源と仕出し料理店の雁鍋の二階に砲をかつぎあげさせて、そこから砲撃させた。このことが後に江戸市民の批判を受け、人気のあった松源の客足は徐々に少なくなり、やがて廃業の憂き目にあった。
吉村昭さんの『彰義隊』(新潮文庫)p148です。文庫の帯には、「戊辰戦争でたった一人、朝敵となった皇族がいた」とあります。
帯の裏には、「吉村昭は輪王寺宮の悲劇を輪王寺宮側、徳川幕府の側、幕府と運命をともにする奥羽越列藩同盟の側から描いている。それは敗者の側から歴史を描く立場を固守していることを意味する」(川西政明氏 解説より)という一文が印刷されています。
解説には、上記の文章の次に以下のように記されています。
「もともと吉村昭は幕府贔屓、明治政府嫌いである。吉村昭は明治政府に加担した人間よりも、滅び行く幕府側に立った人間のほうがよほど優秀な人間であったし世界の情勢を的確に把握して行動していたという確信をもって歴史小説を書いている」(p467)。
寛永寺山主であった輪王寺宮が、なぜ「朝敵」となるに至ったか、また奥羽越列藩同盟がなぜ結成されるに至ったか、そこから透けて見えてくるのは薩摩・長州を中心とする「官軍」側の勝者の驕り、傲慢不遜さです。
以前、司馬さんの『峠』を読んだ時、同じことを感じたことがあります。長岡藩をひきいて北越戦争を戦った河井継之助を主人公に据えた『峠』は、『彰義隊』とともに読むべき本であると思います。
もちろん「戦うべき戦争ではなかった」という論もあり、河井は、長岡藩を荒廃させた元凶として、河井の「墓碑ができたとき、墓石に鞭を加えに来るものが絶えなかった」といいます。
徳川の譜代、親藩であっても早々に「官軍」になびいた藩もあります。
『明石市史』を調べていて、鳥羽伏見の戦いに際して、明石藩は斥候を出し、「勝ったほうにつく」と決定したという箇所を目にして笑ってしまったことがありますが、藩を預かるものとしては仕方ない決定であったのかもしれません。
『峠』の中に、『彰義隊』と関連する部分があります。
「徳川幕府の初期、幕府の要人たちはすでに後世における討幕運動を予想していた。倒幕勢力は西国からおこるということも予想していたし、その時は京が占領されるということも予想していた。討幕勢力は京の朝廷を擁し、官軍という名称のもとに江戸を討つということも予想し、それに対抗するため幕府は代々「輪王寺宮」という名目で皇子をひとり江戸におらしめるということにしてきた。万一の場合、京の天皇に対して、この皇子を立てて対抗するつもりであったのだろう。
日光の東軍は、それを企図した。が、諸事うまくゆかず、軍事上の自信も喪失し、官軍と戦う以前にこの要地をすて、陣をはらい、会津へ走ってしまった。
そのあと、江戸では彰義隊が官軍の攻撃をうけ、壊滅した」(下巻p314)
「予想していた」という事の根拠が示されていないのですが、結果として輪王寺宮は「朝敵」となり、数奇な運命を辿ることとなります。宮は明治天皇の叔父という立場で奥羽越列藩同盟の総帥に推戴されてしまいます。
列藩同盟側は、「源平の戦いで、後白河天皇の王子以仁王が平家追討の令旨を発し、それを得て源頼朝が伊豆国から兵をおこし、平家を追討して滅亡に追いこんだ。それと同じように、宮から薩長両藩を追討せよという令旨を頂戴できれば、奥羽諸藩はこぞって死力をつくして戦う」(p320)と宮に迫り、令旨を得ます。
しかし会津藩は抵抗むなしく敗北し、下北半島へと挙藩流罪となります(ここのところは大河ドラマ「獅子の時代」、そして『ある明治人の記録 会津人、柴五郎の遺書』石光真人編著・中公新書)。
会津の戦いについて吉村さんは以下のように書いています。
「伝えるところによると、朝廷軍の略奪、暴行は甚だしく、家財を分捕り、老若男女を容赦なく殺害し、強かんを常のこととしている」(p343)
「戦闘は凄惨をきわめ、朝廷軍の藩兵は女を裸体にして強かんした上で斬り殺し、城下には庶民の死体が暑熱にさらされて腐臭を放っている」(p351)
わずか8ページのちにほぼ同じ文章を記している吉村さんの気持が伝わってきます。
上野寛永寺で彰義隊が壊滅し、輪王寺宮の逃避行が始まるのですが、宮を援ける人々の様子を吉村さんは、「つつましい」と表現しています。今では死語と言っていい「つつましい」という言葉に吉村さんの美学が集約されていると思いながら読み進みました。
この本は、12月29日に読了し(平成21年1月1日発行、ですが)また元日から再読しました。長年吉村さんの本(特に歴史小説と戦記)の愛読者であった私としては、年末年始にこの本と過ごせたことは幸せでした。
私は徳川幕府がずっと続けばよかったと思っているわけではありません。徳川幕府と薩長との内戦が長期化して諸外国の介入を招く事態も予想される中で、戊辰戦争が短期間で終わったことはよかったと思っています。
しかし、大政奉還と同時に発せられた倒幕の密勅、さらに幕府の側から戦端を開かせようという西郷の謀略、鳥羽伏見の戦いの後の徳川慶喜の態度、奥州の諸藩への嵩にかかった追い詰め方、赤報隊の切り捨て、それらはその後成立した明治政府の本質的な部分をなしていると思います。勝者のみを祀るという日本古来の伝統から外れたところに成立した靖国神社はその一つでしょうが。
私が明治の元勲とされる伊藤、大久保、西郷などの誰一人として親近感を感じることができないのはそこに原因があるのかもしれません。
だから吉村さんの小説に惹かれるのでしょうか。
蛇足。志ん生師匠、本名美濃部孝蔵の本家は、旗本の家柄であったそうです。(『志ん生一代』結城昌治 朝日文庫 上巻p26以下に詳しい)
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