3月20日
平清盛 死没 治承5年閏2月4日(1181年3月20日)享年64
市川雷蔵の『新平家物語』(監督・溝口健二 1955年9月21日公開)を観たことがある。清盛の青年期に焦点を絞ったこの作品は、歌舞伎界から複雑な事情によって映画界に転身せざるを得なかった雷蔵デビュー2年目の作品である。
旧来の伝統に縛られぬ清盛の姿勢は、あれ狂う僧兵たちが担ぐ神輿に向って矢を放ち、大陸の宋との貿易を積極的に築くというエピソードを前面に出すことで描かれる。それまで強調されがちだった権謀術数の塊、猜疑心の強い独裁者、反対勢力を片っ端から粛清する冷血漢・・・というイメージはどこにもない。清新闊達な清盛が市川雷蔵というスターによって見事に描かれていた。
ただ、清盛は、天皇に逆らい、時には幽閉した人物としてその最期は無残なものであったと描かれてきた。
なぜこんなものがあるのかよく判らなかいのだが、米子の家に、江戸時代の和綴じの本があり、そこには、熱病に苦しむ清盛の姿が挿絵として描かれていた。「平家物語」の該当部分を引いてみよう。
入道相国は病にかかられた日からして、水をさえのどにもお入れにならない。体内の熱いことは火をたいているようである。やすんでおられるところから四,五間以内へ入るものは熱くてたまらない。ただ、言われることといえば「あたあた」とだけである。比叡山から千手井の水を汲みおろし、石の浴槽にその水をいっぱいに満たし、それに下りてお冷えになると、水がたいそう湧き上がって、間もなく湯になってしまった。筧の水を引いて清盛公の身体に流しかけると石や鉄などの焼けたように水がほとばしって身体によりつかない。『平家物語』
日本古典文学全集 (1)小学館 p449~450
「清盛の医者は裸で脈をとり」という江戸川柳の状態である。
清盛は、苦しい息の下から言い残す。
自分は保元・平治の乱以来、たびたび朝敵を平らげ、身に余るほどの論功行賞を受け、畏れ多くも帝の祖父、太政大臣にまでなり、栄華は子孫にまで及んでいる。現世での望みはすべて達せられ、一つも思い残すことはない。ただしかし、思い残すことといっては、伊豆の国の流人、前兵衛佐頼朝の首を見なかったことで、これこそ何よりも心外だ。自分が死んでしまった後には、仏堂や塔などをたてて仏事供養もしてはならぬ。すぐさま討手をつかわし、頼朝の首を切って私の墓の前にかけよ。それが何よりもの供養であろうぞ。(同 P452)
そしてついに「もだえ苦しみ息が絶え地に倒れて、とうとうあっち死にをなさった」ということになる。
清盛亡き後の平氏は坂道を転がり落ちるようにして最後は壇ノ浦で亡びることになるのだが、「平氏政権」というものの性格をどう見るかが今揺れているように思う。従来までの定説は、貴族社会の一角に切り込み、日宋貿易などを握ることによって富を蓄積し、荘園領主ともなり権勢をふるったが、旧支配層と対立し、同時に平氏自身が貴族社会に取り込まれて軟弱化(富士川の合戦で水鳥の羽音に驚いて潰走したこととか)したために源氏に滅ぼされた。「武者の世」を開いた功績はあるが、あくまで本格的武家政権である鎌倉幕府への「つなぎ役」でしかなかったということである。
実はこういうパターンは教える側としたら大変に便利というか、教えやすい。各種のエピソードも配置しながら授業を展開しやすい。
少し、新しい説を見てみよう。
平氏は本格的武家政権の樹立を目指していた、とする説の中心となるのは、「福原幕府」構想である。清盛は高倉上皇と平氏一門の反対を押し切って福原への遷都を強行した。彼は宋との貿易による富を基盤として海に開かれた政権を構想していたのではないか。
治承4年6月2日(1180年6月26日)、京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれ、ここに行宮が置かれた。そして平氏政権は福原に隣接する和田(輪田)の地に「和田京」の造営を計画した。和田は現在の兵庫区南部から長田区にまたがる地域にあたる。
当初平安京と同様の条坊制による都市を建設しようとしたが、なかなか条件に合う土地がなく、計画は行き詰まる。
結局福原に皇居を作りことになるのだが、源氏の挙兵に対抗するために12月11日に京都への還幸となる。
『方丈記』には以下のような部分がある。
毎日壊しては川も狭しと流して運んでいた家は、どこに建っているんだろう。移築された家よりもまだ空地のほうが多い。旧都は荒れて、新都はまだ建たず、あらゆる人がどっちつかずの落ち着かない気持ちだった。元からここにいた人たちは、住んでいた土地を奪われて困っている。新しくやってきた人は土地を求め、家を建てなければならないので、これもよわっている。道行く人を見ると、車に乗るべき人が馬に乗っている。衣冠布衣なるべくき公家が武家や庶民のように直垂を着ている。優雅な都の習俗がたちまちに変わって、なんのことはない、田舎の武士と同じだ。世の中の乱れる前兆とか聞いたが確かにそうで、日が経つにつれ、世の中が浮足だって人心が不穏になり、みんながぶつぶつ言ったことも無駄にはならず、同年冬、やはりこの平安京に陛下もお帰りになった。『方丈記』鴨長明 日本古典文学全集 小学館 p30~31
福原幕府構想は挫折、建物群は源義仲によってすべて焼き払われてしまった
結局、清盛には時間がなかったということになる。また、彼の構想が平氏一門によって共有されていなかったということもこの構想の実現を妨げた。
頼朝と清盛のリーダーとしての行動と決断の違いも見逃せない。清盛は一族、郎党に対する粛清をほとんど行っていない。頼朝は、自分自身の理念に反するもの、理解できないものを片っ端から切り捨てている。
その点が、武家政権を構想しつつも挫折した清盛と、本格的武家政権を樹立しえた頼朝との違いなのだろう。もっともその代償は大きいものであった思うが。源氏が三代で亡びたことにそれは現れている。
さて、今年の大河、どう描くのか?
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