PR
Calendar
New!
もっちん4476さんComments
Keyword Search
Freepage List

585年に敏達天皇が崩御して厩戸皇子の父である橘豊日皇子が即位し、用明天皇になる。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。その2年後の587年に用明天皇が崩御すると、皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を謀殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍をおこし、大豪族であった物部氏を滅ぼした。戦後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、593年に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した。

太子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行い、隋の進んだ管司制をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて髄の進んだ文化、制度を輸入した。仏教の興隆につとめ、「国記」、「天皇記」の編纂を通じて天皇の地位を高めるなど大きな功績を挙げ、622年2月22日に聖徳太子は亡くなった。

593年、物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立。
594年、仏教興隆の詔を発す。
600年、新羅討伐の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。
601年、斑鳩宮を造営
603年、天皇の中央集権を強める目的で、冠位十二階を定め、氏姓制によらず才能に よって人材を登用。
604年、十七条憲法を制定し、豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを定めた。
601年、斑鳩宮に移住。
607年に小野妹子、鞍作福利を遣隋使として髄に派遣し、国交を結んだ。
620年、馬子と議して「国記」、「天皇記」などを選ぶ。