PR
Calendar
New!
もっちん4476さんComments
Keyword Search
Freepage List

朝鮮半島史料では任那は百済と新羅によって滅ぼされた伽耶諸国とされている。
広開土王碑文(414年建立):永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
「鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文」(924年成立):大師の俗姓について「任那の王族に連なる新金氏」としており、任那は金官伽耶を指している。
「三国史記」(1145年成立):本記には現れず列伝に1例が認められる(巻46・強首伝:「臣本任那加良人」)。
日本史料では「肥前風土記」(713年成立)松浦郡条に「任那」が見え、「日本書紀」(720年成立)祟神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場し、「新撰姓氏録」(815年成立)に「任那」、「弥麻那」、「三間名」と見えている。
地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。

東アジア情勢から任那を見ると、魏に続く晋代になり、290年頃に八王の乱が起きて中原が乱れると、鮮卑の慕容氏が強勢になって遼東と遼西に進出し、楽浪・帯方両群は中原との陸路の連絡を絶たれ弱体化した。そして高句麗の攻撃を受けて、313年には楽浪郡が、翌314年には帯方郡が滅亡した。346年には前燕(慕容氏)による高句麗の一時的壊滅と、さらに357年の前燕の中原進出に伴う高句麗の再起と、朝鮮半島南部への政治的圧力関係は、めまぐるしく情勢が変化した。この間に朝鮮半島南部の政治状況は一気に流動化したと考えられ、魏代の弁辰(弁韓)諸国は任那に再編成されたと推測される。一つの仮説ではあるが、その時期は320年から350年代、しぼってみると345年から355年頃ではないかと考えられる。
