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もっちん4476さんComments
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九州説の弱点
1. 奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは考えにくいこと(ただしこれらの戸数等をそのまま信用してよいのかはもちろん疑問がある)。
2.中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在していること。
3. 古墳時代の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、年輪年代学、放射性炭素年代測定などの結果がでるにつれ、ほとんどの考古学者の支持を得られなくなっていること。
4. 魏から女王に贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくいこと(九州説では呉に圧力をかけるための厚遇であったとする)。

5. 3世紀の紀年鏡をいかに考えるかという点。はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を表明し、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。しかし、このような説には以下のような点が問題として挙げられる。
1. 現在の知見からは邪馬台国時代にすでに古墳築造が始まっていると見るべきであり、偽作と考えるべき前提が成り立たない。
2. 紀年鏡には三角縁神獣鏡以外のものも含まれる。
3. 魏の年号である「青龍3年」、呉の年号である「赤烏元年」「赤烏7年」などの紀年鏡も見つかっており、単に邪馬台国にちなんだ偽作というのでは説明がつかないなどの疑問があり、学界では受け入れるところとなっていない。
4. また三角縁神獣鏡を、呉の鏡または呉の工人の作であり、呉の地が西晋に征服された280年以降のものとする説もあるが、様式論からはかならずしも呉の作であるといいきれるものでない。少なくとも銘文にある徐州を呉の領域であるなどとはいえない(一般的には概ね魏の領域と考えられている)。これらを280年以降の製造と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代の235年から244年に集中しているのか、整合的な理解が難しい。これらにより、いまだ学界の大多数を説得できていない。
5. また、九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。一般的に弥生時代の遺跡では、2世紀にはいると北九州の優位性は失われるため、多くの考古学者が九州説に与し得ない理由の一つとなっている。

6. 旅程記事について、通常の連続読みでは九州内に収まりきらないので、放射線式の読み方従うにしても、次のような難点がある。
1. 放射線式読み方が正当化されるには、「到」「至」の使い分けがされているときは、そのように読むべきであるという当時の中国語の決まりがなければならないが、魏志倭人伝の内容をほぼ引き写している梁書では、そのような使い分けはされておらず、使い分けに特別な意味があったとは思えない。
2. 仮に放射線式の読み方を受け入れると、邪馬台国は伊都国の南水行十日陸行一月の行程にあるが、これを九州を大回りして水行し南下する意味に捉えたとしても、邪馬台国の位置は中南部九州内陸に求めることとなり、後の熊襲の地に邪馬台国があることになる。そしてさらにその南に狗奴国が存在することになる。したがって比較的支持者の多い北九州内には到底収めることはできない。
