PR
Calendar
New!
もっちん4476さんComments
Keyword Search
Freepage List

慶長19年(1614年)に始まる大阪冬の陣で信繁は、当初籠城に反対し、京を抑え、宇治・瀬田(宇治川の瀬田橋付近)で積極的に迎え撃つよう主張した(知将である父・昌幸の策とも言われる)。しかし籠城の策と決すると、信繁は大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊に大打撃をあたえた。しかし、この真田丸を造る際、大阪方の他の武将は信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していた。この時は越前松平勢、加賀前田勢等を撃退し、真田昌幸の息子という扱いではなく、初めて「真田信繁」として、その武名を知らしめる事となる(信繁が主体的に戦闘の指揮を執った事が確認されるのは大阪の陣だけである)。

冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまった。そして大阪方の弱体化を謀る家康は慶長20年2月に、使者として信繁の叔父である真田信伊を派遣し「信濃の一万石を与える」事を条件に寝返るよう説得している。しかし信繁はこれを断った。すると家康は再び信伊を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出た。これを聞いた信繁は「この信繁、一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたという。

翌年の大阪夏の陣では、道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。これら度々の勝ち戦により、次第に徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、信繁はそれを見て堂々と大坂城に一時撤収した。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠々と撤収したといわれている。
ただし道明寺の戦いでは先行していた後藤基次勢が真田勢が援軍に駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この戦いの前に家康は基次に寝返りを打診していたため、基次に対して大阪城内では謀反の噂が流れた。そのため基次は死を決して先鋒を勤めたと言われる。またこのときの指揮権は信繁にはなく、大野治長が持っていた。そのため基次の戦死の責任は信繁だけにあるとは言えないが、真田勢の行軍の遅れが後藤勢壊滅の一因であるとも、また基次の心情を察し敢えて遅らせたとも言われる、本当は当日は濃い濃霧のため道に迷い所定の時間に付く事ができず仕方なく後藤基次が戦いを始めた。
