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もっちん4476さんComments
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コスモス
聖王によって泗比に都が移されると同時に、国号は南扶余としたが、その国号が国際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都であった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送ったが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求めた。東アジアの歴史は「高句麗・百済・倭国」と「唐・新羅」のブロックが対立する構図へ傾斜していく。
660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済は滅亡した。

薔薇
唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信や黒歯常之などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子である扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らかなる救援軍を派遣し、斉明天皇は筑紫朝倉宮に遷った。帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。

これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国させた。豊璋は密かに高句麗に逃れたが、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになる。唐は平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指し、これに反発した新羅は百済・高句麗を名目的に復興させて反唐戦争に動員し、倭国とも友好関係を結んだ。西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都長安さえ危険な状態になった唐は、地理的にも遠方であり紛争続きで経営の困難な朝鮮半島の権益を放棄し、百済の故地は新羅の支配下に入った。
