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もっちん4476さんComments
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長子の頼家が家督を継ぐ。政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれる。頼朝の死から2ヶ月ほどして次女の三幡が重病に陥った。政子は鎌倉中の寺社に命じて加持祈祷をさせ、後鳥羽上皇に院宣まで出させて京の名医を鎌倉に呼び寄せる。三幡は医師の処方で一時持ち直したように見えたが、容態が急変して6月に僅か14歳で死去した。
若い頼家による独裁に御家人たちの反発が起き、正治2年(1200年)に頼家の専制を抑制すべく大江広元、梶原景時、比企能員、北条時政、北条義時ら老臣による一三人の合議制が定められた。
頼家が安達景盛の愛妾を奪う不祥事が起きた。景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して討とうとする。政子は調停のため景盛の邸に入り、使者を送って頼家を強く諫めて「景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と申し送った。政子は景盛を宥めて謀反の意思のない起請文を書かせ、一方で頼家を重ねて訓戒して騒ぎを収めさせた。

頼家と老臣との対立は続き、頼家が父に引き続いて重用していた梶原景時が失脚して滅ぼされた。頼家は遊興にふけり、ことに蹴鞠を好んだ。政子はこの蹴鞠狂いを諫めるが頼家は聞かない。訴訟での失政が続き、御家人の不満が高まっていた。更に頼家は乳母の夫の比企能員を重用し、能員の娘は頼家の長子・一幡を生んで、権勢を誇っていた。比企氏の台頭は北条氏にとって脅威であった。
建仁3年(1203年)頼家が病の床につき危篤に陥った。政子と時政は一幡と実朝で日本を分割することを決める。これを不満に思う能員は病床の頼家に北条氏の専断を訴えた。頼家もこれを知って怒り、北条氏討伐を命じた。これを障子越し聞いていた政子は、使者を時政に送り、時政は策を講じて能員を謀殺。政子の名で兵を起こして比企氏を滅ぼしてしまった。一幡も比企氏とともに死んだ(比企能員の変)。
頼家は危篤から回復し、比企氏の滅亡と一幡の死を知って激怒し、時政討伐を命じるが、既に主導権は北条氏に完全に握られており、頼家は政子の命で出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に幽門されてしまう。頼家は後に暗殺されている。

代わって将軍宣下を受けたのは実朝で、父の時政が初代執権に就任する。時政とその妻の牧の方は政権を独占しようと図り、政子は時政の邸にいた実朝を急ぎ連れ戻している。元久2年(1205年)時政と牧の方は実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策。政子と義時はこの陰謀を阻止して、時政を出家させて伊豆へ追放した。代わって義時が執権となった(牧氏事件)。
