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もっちん4476さんComments
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源頼朝は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。
平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定し鎌倉を本拠とする。弟たちを代官として源義仲と平氏を滅ぼし、戦功のあった末弟・源義経を追放し、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。
これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は後に鎌倉幕府と呼ばれ、幕府などによる武家政権は王政復古の大号令まで足掛け約680年間に渡り、存続することとなる。

久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として生まれる。幼名は鬼武者。母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘の由良御前であり、出生地は京もしくは尾張と考えられている。
父・義朝は清和天皇を祖とし、河内国を本拠地とした源頼信、源頼義、源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の棟梁である。義朝は保元元年(1156年)の保元の乱で、平清盛と共に後白河天皇に従って勝利しており、頼朝はその御曹司として官職を歴任し、保元3年(1158年)には後白河天皇准母として皇后宮となった統子内親王に仕え皇后宮権小進、平治元年(1159年)に統子内親王が院号宣下を受け、女院上西門院となると上西門院蔵人に補された。また、同年(1159年)1月には右近衛将監、6月には二条天皇の蔵人に補任されている。

保元の乱の後、二条天皇親政派と後白河院政派の争い、急速に勢力を伸ばした信西への反感などがあり都の政局は流動的であった。頼朝の父・義朝は平治元年(1159年)12月9日、後白河上皇の近臣である藤原信頼に誘われ、平治の乱を起こした。当初は信西を追討した官軍という立場に立ちその恩賞の除目で、13歳の頼朝は右兵衛権佐へ任ぜられる。しかし天皇は内裏から六波羅の平清盛邸へと逃れ、27日、官軍となった平家が大内裏へと攻め寄せる。頼朝は奮戦する長兄・源義平らに続いて戦うが、義朝軍は平家に敗れ、一門は官職を止められ京を落ちた。
