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もっちん4476さんComments
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日の出
北条政子と御家人
頼朝の死後に起きた承久の乱で朝廷と幕府が争うと、北条政子は集まった御家人らに対し次のように述べた。「故・右大将軍(頼朝)が朝敵を滅ぼし関東を開いて以降、官位も俸禄も、その恩は山より高く海より深い。(中略)恩を知り名を惜しむ人は、早く不忠の讒臣を討ち恩に報いるべし。」これを聞いた御家人らは、ただ涙を流し報恩を誓った。頼朝の幕府内での位置と、御家人からの高い評価を知ることが出来る。
保暦間記
頼朝の死因を自らが滅ぼした源義広、義経、行家、安徳天皇の亡霊によると記している。当時からその生涯は罪深いものとして捉えられていたことを伺わせる。
豊臣秀吉
武辺咄聞書によると、鶴岡八幡宮白旗神社の頼朝像を参った際に、次のように述べたと伝わる。「我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父祖は関東を従えていた。故に流人の身から挙兵しても多くの者が従った。我は氏も系図も無いが天下を取った。御身より我の勝ちなり。しかし御身と我は天下友達なり。」冗談ながらにも、頼朝の業績は血統に拠るものがあると評している。
徳川家康
頼朝の事績を多く記した吾妻鏡を集めて写させた。源氏の新田氏流を自称していた家康は頼朝を崇拝しており、吾妻鏡を読み頼朝の行動を学んだといわれている。
新井白石
読史余論の中で、政治面での功績には一定の評価を与えつつも、頼朝の行動は朝廷を軽んじ己を利するものであるとし、総じて否定的な評価をしている。挙兵から四年間も上洛せず、東国の土地を押領し家人に割け与えたのは、既に独立の志を持っていたとする。源義仲を討った理由は、義仲が朝奨に預かったことを憎んだからであり、また義仲が後白河法皇を幽門した罪を問わなかったことを責めている。源義経との対立に関しては、朝臣に列していた義経を京で襲ったことは、臣たる者の仕業では無いとし、襲った理由は、義経が朝賞に預かったと共に、義経の用兵を恐れたからだとする。義経が驕りに加え梶原景時により誅されたとの論には、驕りも讒言も無く誅された源範頼の例を挙げて反論し、「頼朝がごとき者の弟たる事は、最も難しいと言うべき」と記して評を終えている。
この他に「成敗分明(「玉葉」九条兼実」、「ぬけたる器量の人(「愚管抄」慈円)、「頼朝勲功まことにためしなかりければ(「神皇正統記」北畠親房)」、等がある。総じて政治的能力への評価は高いが、論評者が勤皇家かどうか、儒教の倫理観に近いか等の見方によって全体の評価が上下する傾向があるほか、時代によって評価が揺らぐのも特徴と言える。宮沢賢治のように奥州文化の破壊者として批判的に見る者もいる。

天子社神主
清盛の遺言
「我の死後は堂塔も孝養も要らぬ、ただ頼朝の首を刎ね我が墓前に供えよ」は平家物語に記された文言であり、物語ゆえにその真偽を疑う声もある。
この遺言は戦国武士の感覚ならともかく、平安時代末期の武士感覚から考えてありえない遺言であるという説が近年では強く、清盛はむしろ頼朝との和睦と後白河法皇との協調政治を望んだとも言われている。しかし清盛の後を継いだ宗盛が暗愚だったため、宗盛の反対で何ひとつ実現しなかったと言う。
一方で、遺言に従ったのか清盛の墓所ははっきりと伝わっておらず、玉葉の治承5年(1181年)8月1日にも平家物語と似た意の遺言と共に、それ由に平家が頼朝を許す筈がないと記されている。
