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もっちん4476さんComments
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木戸孝允(きど たかよし)は、幕末~明治初期に活躍した日本の武士・政治家。名の孝允は「こういん」と有識読みされることもある。
長州藩士で、いわゆる「長州閥」の巨頭。江戸時代には、桂小五郎として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称される。
吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、江戸練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤王志士、長州藩の外交担当者・指導者・藩庁政務座の最高責任者として活躍するが、志士時代には徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれた。
維新を総裁局顧問専任(実質的な初代宰相)として迎え、当初から「政体書」による「官吏公選」など開明的諸施策を健言し続けていた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭の参議内閣制を整えた。海外視察も率先して行う。帰朝後は、かねてから健言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に努め、一層の士族授産を推進する。長州藩主毛利敬親、明治天皇から厚く信頼される。妻は、幕末動乱期の恩人かつ同志でもある京都の芸妓幾松(木戸松子)である。

木戸は、政策や手法を巡って権力闘争が繰り返され続ける明治政府の中にあって、心身を害するほどの精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で発病により死の床に就き、朦朧状態の中でも西郷と明治政府双方の行く末を案じながら、息を引き取った。
昭和21年正月元旦、昭和天皇による「人間宣言」の際、戦後の大方針として木戸孝允による「五箇条の御誓文」があらためて示されている。
「木戸」姓以前の旧姓は、15歳以前が「和田」、15歳以後が「桂」である。小五郎、貫治、準一郎は通称名である。命を特に狙われ続けた幕末には、「新堀松輔」「広戸孝助」など10種以上の変名を」使用した。
「小五郎」は生家和田家の由緒ある先祖の名前であり、五男という意味ではなく長男である。
「木戸」姓は、第二次長幕戦争前(慶応2年(1866年))に藩主毛利敬親から賜ったものである。それ以降、それまでの「桂」姓に替えて使用し始める。
「孝允」名は、桂家当主を引き継いで以来の諱を兼ねた桂家当主としての名前であったが、戊辰戦争終了の明治2年(1868年)、腹心の大村益次郎と共に東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力し、近代国家建設のための戦いに命を捧げた同志たちを改めて追討・顕彰して以降、自ら諱のはずの「孝允」を公的な名前として使用するようになる。
雅号としては、「木圭」「猫堂」「松菊」「鬼怒」「広寒」「老梅書屋」「竿鈴」「干令」などがる。
名前の大まかな推移は、和田小五郎~桂小五郎~木戸貫治(33歳)・木戸準一郎(33歳以降)~木戸孝允(36歳以降)である。43歳で逝ってからは「松菊木戸孝允」「木戸松菊」あるいは「松菊木戸公」とも呼ばれる。
