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もっちん4476さんComments
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元治元年(1864年)に会津藩お預かり新撰組が勤王の志士を襲撃した池田家事件で小五郎は、到着が早すぎたので一度本拠地にもどり時間を待っている間に事件が起こってしまい難を逃れた・・・と言われているが、それは自叙に基づくもので、京都留守居役であった乃美織江は手記に「桂小五郎議は池田家より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由・・・」と書き残している。乃美織江の手記に基づくなら、桂小五郎は池田家事件当時池田家にいて、逃げ延びたと言うことになる。その後も、小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、他藩の志士たちには正藩合一思想の種を植え続け、長州および長州派公卿たちの復権のため、久坂らとともになおも活動をし続ける。

八月十八日の政変の不当性が認められない上、池田家事件まで起こされた長州藩は、小五郎や周布政之助・高杉晋作たちの反対にかかわらず、先発隊約三百名が挙兵上洛し、久坂玄瑞が山崎天王山に、木島又兵衛軍が嵯峨天龍寺に、福原越後軍が伏見に陣取り、朝廷に長州藩主父子や長州派公卿たちの雪冤を迫る。朝廷もそれに応じ、京都守護職を会津藩から長州藩に変えようとする所まで行くが、一橋慶喜から「もしそうしたいのであれば、幕府側は一切朝廷から手を引かせて頂く。お好きなようになされるがよい」と半ば脅かされ、幕府・会津藩と完全な敵対関係に入る覚悟までは持ち併せていない孝明天皇および公卿たちは、あっさりとひるんでしまう。そこで劣勢を回復した中川宮朝彦親王などの佐幕派公卿たちは逆に、朝廷と長州派公卿を介した長州との交渉を打ち切らせ長州軍を挑発して一気に蹴散らしたい幕府側(一橋慶喜・会津・薩摩守旧派)の意向をそのまま受けて、長州軍の退去を期限付きで最後通告して来た。
長州軍としては武門の名誉に賭けて、何も果たさず、何も戦わず、すごすごと国許まで帰ることは、まず不可能である。天皇直訴と集団諫死に賭けた長州先発隊は、まだ瀬戸内海海上にいる世子定広率いる長州軍本隊二千名に引き上げを要請した上で、蛤御門の変(禁門の変)を敢行する。

・木島又兵衛率いる嵯峨天龍寺の長州軍は、会津軍を破り、禁裏に後一歩と迫るも、薩摩軍に横腹を付かれ、木島が倒れた後は総崩れとなって、散り散りに敗走する。
・福原越後率いる伏見の長州軍は御所に辿り着けず、早々と大坂方面へ退避する。
・久坂玄瑞率いる天王山の長州軍は、淀川のぬかるみで出遅れ、御所に辿り着いたときは戦闘がほぼ終わっており、鷹司邸を根城にして天皇に直訴だけは行おうとするが、これもかなわず、久坂たちは自ら大将として自刀し、残りは天王山方面へ退避させる。
このとき小五郎は、因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護に当たっていた猿が辻の有栖川宮邸に赴いて、同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判する。しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で孝明天皇が御所から避難する所を直訴に及ぼうと待った。しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、幾松や対馬藩士大島友之充の助けを借りながら、潜伏生活に入る。会津藩などによる長州藩士の残党狩が盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分ってくると、但馬出石に潜伏する。
