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もっちん4476さんComments
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4月9日、用明天皇は崩御した。
守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、6月7日、馬子は炊屋姫(推古天皇)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。翌日、宅部皇子を誅した。
7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子(推古天皇の皇子)、厩戸皇子(聖徳太子)などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋の館へ向かった。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に務めると誓った。馬子は軍を立て直して進軍させた。
迹見赤槿が大木に登っている守屋を射落として殺した。寄せ手は攻めかかり、守屋の子らを殺し、守屋の軍は敗北して逃げ散った。
守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。
厩戸皇子は摂津国(大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。また、半分は四天王寺へ寄進された。

先代旧事本紀
第五巻天孫本紀では物部尾輿の子で物部大市御狩連の弟、弓削大連とも、池邊隻規宮天皇(用明天皇)の時に大連となり神宮の斎となったとある。
第九巻帝皇本紀では用明天皇が9月5日に即位した際、物部弓削守屋連公を大連また大臣とし、用命天皇2年夏4月2日磐余河上の新嘗祭に病で帰った用明天皇が三宝を敬うことを検討するよう家臣にいったさい、中臣勝海連とともに国神に叛き他神を敬うことはできず聞いた事もないと反対したとある。
しかし上記は藤原不比等らによっての日本書紀の改竄によるものであると言う説もある。
妹
・「日本書紀」では蘇我馬子の妻
・「紀氏家諜」・「石上振神宮略抄」神主布留禰系譜料では「太媛」といい蘇我馬子の妻。
・「先代旧事本紀」天孫本紀では同母妹の布都姫といい物部守屋の異母弟の石上贄古大連と結婚し物部鎌足姫大刀自(蘇我馬子の妻)の母である。

大阪府八尾市の大聖勝軍寺近くにある物部守屋墓