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もっちん4476さんComments
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延暦15年(796年)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職をすべてあわせ、加えて翌年には征夷大将軍に任じられた。延暦20年(801年)に遠征に出て成功を収め、蝦賊(蝦夷)の討伏を報じた。
いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻り、そこで阿弖利為と母礼ら五百余人の降伏を容れた。田村麻呂は彼らを許すことを主張したが、都の貴族は反対し、二人を処刑した。延暦22年(803年)には志波城を造った。
延暦23年(804年)に再び制夷大将軍に任命され、三度めの遠征を期した。しかし、延暦23年に藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった(徳政相論)。田村麻呂は活躍の機会を失ったが、本来は臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も身に帯び続けた。
戦功によって昇進し、延暦24年(805年)には参議に列した。大同元年(806年)に中納言、弘仁元年(810年)に大納言になった。この間、大同2年(807年)には右近衛大将に任じられた。また、田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられる。史実と考えられているが、詳しい事情は様々な伝説があってはっきりしない。
平城上皇と嵯峨天皇が対立したとき、田村麻呂は上皇によって平城遷都のための造宮使に任じられた。しかし薬子の変では嵯峨天皇についた。子の坂上広野は近江国の関を封鎖するために派遣され、田村麻呂は美濃道を通って上皇を激撃する任を与えられた。このとき田村麻呂は、身柄を拘束されていた文室綿麻呂を伴うことを願い、許された。平城京から出発した上皇は東国に出て兵を募る予定だったが、大和国添上郡田村で進路を遮られたことを知り、平城京に戻って出家した。
田村、麻呂は弘仁2年(811年)5月23日に54歳で病死した。嵯峨天皇は哀んで一日政務をとらず、田村麻呂をたたえる漢詩を作った。死後従二位を贈られた。墓所は、京都市山科区の西野山古墳と推定される。

田村麻呂伝説
後世、田村麻呂にまつわる伝説が各地に作られ、しだいに膨らんで歴史上の田村麻呂とかけ離れた人物と筋書きを生んだ。伝説中では、田村丸など様々に異なる名をとることがある。平安時代の別の高名な将軍藤原利仁の伝説と融合し、両者を同一人と混同したり、父子関係においたりすることもある。伝説中の田村麻呂は蝦夷と戦う武人とは限らず、各地で様々な鬼や盗賊を退治する。鎌倉時代には重要な活躍として鈴鹿山の鬼を退治するものが加わった。複雑化した話では、田村麻呂は伊勢の鈴鹿山にいた妖術を使う鬼の美女である悪玉(あくたま)(説によるが鈴鹿御前)と結婚し、その助けを得て悪路王(あくろおう)や大武王(おおたけおう)のような鬼の頭目を陸奥の辺りまで追って討つ。諸処の説話を集成・再構成したものとして、「田村草紙」などの物語、謡曲「田村」、奥浄瑠璃「田村三代記」が作られた。また、江戸時代の「前々太平記」にも収録される。
田村麻呂の創建と伝えられる寺社は、岩手県と宮城県を中心に東北地方に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治をはたし、感謝してその寺社を建立したというものである。伝承は田村麻呂が行ったと思われない地にも分布する。京都市の清水寺を除いてほとんどすべてが後世の付託と考えられる。その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い。長野県の清水寺には、田村麻呂が奉納したと伝えられる鍬形(重要文化財)がある。
