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もっちん4476さんComments
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銘文の解釈
この銘文は、まず彫られた場所からして「表は東晋で鋳造された際に刻まれ、裏は百済で刻まれ」などの説があり、その内容も「百済王が倭王に献上した」、あるいは「百済王が臣下たる倭王に渡した」などとさまざまに解釈されている。
当時、百済と倭国との間に交渉があり、百済から倭国へ贈られたことは確実である。多くの場合は日本書紀・三国史記等の史書に百済が倭に対して朝貢し人質を献上していたと記述されていることを参考にして、百済からの献上品であるという説を採る。
銘文の冒頭には「秦■四年」の文字が確認できる。これを「秦和四年」のこととして、東晋の太和四年(369年)に鋳造されたと解釈するのが通説であるが、異論もある。日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述があり、百済から倭国へ献上された年が372年にあたるため、これと同一のものであろうと考えられている。

「日本書紀」の記述
「日本書紀」神功皇后52年 秋九月丁卯朔丙子(9月10日)条に、百済使久氏らが、千熊長彦を従えて七枝刀(ななつさやのたち)一口、七子鏡(ななつこのかがみ)一面、および種々の重宝を奉った。そして「自分の国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行ってもつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすら聖朝に奉ります」と言った。との記述がある。なお、この時同時に奉られた七子鏡は、アメリカ合衆国のボストン美術館に所蔵されている銅鏡ではないかとする説がある。この鏡は、丸い突起が同心円上に七つあり、七子鏡の名称に相応しいという。これらの遺物は、1875年(明治8年)大雨で崩れた大仙陵古墳(仁徳天皇)から発掘されたものとされるが、年代的に疑問もある。

なお、吉野裕子は、自著「陰陽五行と日本の天皇」の中で、仁徳天皇と石上神宮との関係を推測し、難解な以下の「古事記」中巻歌謡48を、皇子時代の仁徳天皇が七支刀を佩用していた様を吉野の国主達が歌ったものと推測している。
本牟多能 比能美古
意富佐邪岐 意富佐邪早
波加勢流多知 母登都流藝
須恵布由 布由紀能須
加良賀志多紀能 佐夜佐夜
品陀(ほむた)の日(ひ)の御子(みこ)大雀(おおさざき)大雀(おおさざき)
佩(は)かせる大刀(たち)本(もと)つるぎ末(すえ)ふゆ
ふゆ木(き)のしからが下樹(すたき)のさやさや
国宝指定
1953年、国宝指定された。所蔵は石上神宮。基本的に非公開であるが、近年では2004年、奈良国立博物館で公開されたことがある。
復元
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館と奈良県東吉野村の刀匠の手によって七支刀が復元制作されている。1980年と2005年の2回製作法を変えて行われた。2005年のものは鋳造し890度の炉、6時間処理したものである。
