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もっちん4476さんComments
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明智光秀は、戦国時代、安土桃山時代の武将。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系で摂津源氏の傍流美濃源氏の流れを汲む土岐氏の支流明智氏。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。
正室は妻木勘解由左衛門範煕の娘煕子。2人の間には、織田信澄室、細川忠興室珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男光慶(十五郎)がいる。
生涯
織田家仕官以前
清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は明智光綱といわれる。生年は享禄元年(1528年)と大永6年(1526年)、また当代記の付記による永正12年(1515年)という説もある。場所は岐阜県可児市明智の明智城、山県市美山出身という2つの説が有力とされる。また恵那市明智町の明知城という説もある。

青年期の履歴は不明な点が多いが、通説によれば、美濃国の守護土岐氏の一族で、戦国大名の斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三と義龍の争いの際、道三方に味方し、義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。その後、母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国の朝倉氏に仕えた。なお、「永禄六年諸役人附」に見える「明智」を光秀と解し、美濃以後朝倉氏に仕えるまでの間、13代将軍足利義輝に仕えていたとする説もある。また、今川氏・毛利氏には仕える寸前までいったとされる。「信長公記」には光秀自身の出自に朝廷と深い関わりがあったとしている。

足利義昭が姉婿の武田義統を頼り若狭国に、さらに越前国の朝倉氏に逃れると、光秀は義昭と接触を持った。朝倉義景の母は若狭武田氏の出であり、光秀の母は武田義統の姉妹と伝えられていることから、義昭の接待役を命じられたものと考えられる。義昭は朝倉に上洛を期待していたが義景は動かなかった。そこで義昭は光秀を通じて織田信長に対し、京都に攻め上がって自分を征夷大将軍につけるように要請した。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされることから、信長の正室である斎藤道三娘(濃姫)が光秀の従兄弟であった可能性があり、その縁を頼ったともいわれる。
