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もっちん4476さんComments
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補足
これらの理由が決定的でない理由として、怨恨説は元になったエピソードが主として江戸時代中期以降に書かれた書物が出典であること(すなわち、後世の憶測による後付である。例えば、波多野秀治の件は現在では城内の内紛による落城と考えられており、光秀の母を人質とする必要性は考えられないとされている)、織田信長・豊臣秀吉を英雄とした明治以来の政治動向に配慮し、学問的な論理展開を放棄してたことが挙げられる(ただし、ルイス・フロイスの足蹴りの記述など、明らかに同時代の資料も存在する)。
・光秀は信長から浪人とは思えないほど取り立てられただけではなく、石山合戦では1万5千の兵に光秀が取り囲まれていたところを、信長はわずか3千ほどの兵で自ら前線に立って傷を負いながら救出している。このことからも光秀は信長からかなり眼をかけられていたようである。本能寺の変当時の光秀の領地は、信長の本拠安土と京都の周辺で30万石とも50万石とも言われているが、史上権力者が本拠地周辺にこれだけの領土を与えた事例は秀吉が弟秀長に大坂の隣地である大和に100万石を与えたくらいしかない。この配置を見ても、信長が相当の信頼を置いていたことが窺える(結果として、これが裏目に出てしまった)。また、「明智家法」には「自分は石ころ同然の身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という文も残っている。このことを根拠に「光秀は恩を仇で返した愚か者」と酷評する歴史研究家も存在する。
・2007年に行われた本能寺跡の発掘調査で、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見され、本能寺を城塞として改築した可能性が指摘された。
・いずれにしても、本能寺の変は知将と謳われた光秀にしてはあまりに稚拙とする意見も多い。本能寺の変の際、前田玄以や織田長益(有楽斎)らが三法師(織田秀信)を保護して京都から逃亡するのを許したことも、その例である。
・光秀は変の前に三回くじを引いたという逸話もあり、決心がつきかねていたのではないかとする者もいる。
・「敵は本能寺にあり」と言ったのは光秀ではなく、江戸時代中後期に、頼山陽が記した言葉である。

日光東照宮 陽明門随身像
南光坊天海説
光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。
異説の根拠として
1.日光東照宮陽明門にある随身像の袴に光秀の家紋である桔梗紋がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。
2.日光に明智平と呼ばれる区域があること。天海が「これを明智平と名付けよう」「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。
3.徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測
4.光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進されたとされた石碑が残っていること
5.学僧であるはずの天海が着たとされる鎧が残っていること
6.光秀の家老斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日局)になったこと
7.光秀の孫(娘の子)にあたる織田晶澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)
8.テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。
9.「かごめかごめ」の歌詞は「光秀・天海同一人物」を示唆したもの
等があげられている。
しかし、日光東照宮には桔梗以外にも多くの家紋に類似した意匠があり、さらに桔梗の紋は山県昌景や加藤清正など多くの武将が使用しており、光秀の紋とは限らない。また、寛永寺の公式記録では会津出身とされており、実家とされる舟木氏も桔梗紋である。天海が一時期僧兵として鎧を着たことがあっても不自然ではない。比叡山の石碑に関しても後世の偽造との説も出ている。また、天海が明智光秀であるとすると、116歳(記録では108歳)で没したことになり、当時の平均寿命からみて無理(但し、途中から光秀の長男の光慶が天海を演じたなら辻褄が合い、親子で天海を演じたという仮説も存在する。)が生じる。また、諱についても秀忠の秀の字は秀康や毛利秀元や小早川秀秋のように秀吉から偏諱を賜ったものであり、家光の諱を選定したのは天海とライバル関係にあった金地院祟伝であり、家綱と家継の元服時にはすでに天海は死亡している。
なお、僧と光秀の関係で言えば、光秀の子(とされる)・南国梵桂が建立した海雲寺~本徳寺(岸和田市)には光秀の唯一の肖像画が残されているが、この寺にある光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四巳亥」と刻まれている。この文言と位牌の関係については現時点では不明である(文言から「光秀は慶長年間まで生きていた」と主張する者もいる)。
