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もっちん4476さんComments
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・文字の未だ定まっていない時代に、任命書に代えて鏡ではなく銅鐸を授与したという説。だが、そもそも鏡を任命書として与えるような権力者、集団が当時の日本列島に存在したかがまず問題である(古墳時代には同盟集団に配布したと思わしき例が少なからずあるようである)。また、銅鐸の製造集団の負う文化的背景に由来すると思われる地域的な銅鐸の特徴差について考慮を全く欠けているという批判がある。
・銅鐸を祭る当時の列島の信仰的背景とは著しく異なる文化を持った外敵が攻めて来た等の社会的な変動が起きた時に、銅鐸の所有者が土中に隠匿して退散したという説(古田武彦等)。この「外敵」を後世の有力集団の祖先に擬する説もある。しかし、全国的に似たような埋納のされ方なので、慌てて隠したのであればいろいろな埋め方があるはず、という反論がある。また、その外敵が銅鐸祭祀を否定する集団で、支配下に置いた地域の住民に銅鐸祭祀を放棄させたと考えれば、銅鐸が壊された状態で出土することや、三世紀に急速に銅鐸祭祀が廃れたこと、銅鐸の用途が全く伝わっていないことなどに説明が付くという説もある。
・政治的な社会変動にとり、不要なものとして(多数の場合は一括して)埋納したという説(三品影映・小林行雄等)。つまり、弥生時代の個々の村落を統合する新しい支配者が現れる等して人々がより大きな集団を構成する際に、それまでのそれぞれの共同体の祭儀から専制的権力者の祭儀への変化が起き、各々の村落で使われていた銅鐸を埋納したというものである。その際、集落によっては銅鐸を壊す等の行為もあったと思われ、一部の破戒銅鐸の出土はこのような理由によるとする。また、この社会・祭儀の変化とは次の古墳時代への変化のことと関連付けられる事が多い。
しかし、遺跡ごとに用途・保管方法や埋納の事情は異なっていたと考えられるため、すべての銅鐸を一律に論じる事は危険である。

弥生時代初期とされる青銅器の鉛同位体を測定すると、殷(商)・周(西周)時代の青銅器と鉛同位体の比率などがほぼ一致しており、この鉛は他の地域時代にて青銅器として見られることがないため、中国大陸や朝鮮半島から流入した青銅器等を鋳直して作成されたとする説がある。なお、日本での銅の史料上の記述は和銅元年(708年)が初見。
かつては遺跡が発掘される事自体が少なく、青銅器の出土量も少なかったため、銅矛は主に北九州周辺、銅鐸は近畿から東海地方にかけての中京以西の列島を二分する「銅鐸文化圏」と「銅矛文化圏」の存在によるものであると捉えられ、仮定としてではなく真剣に論じられていた時代があった。(さらに中国地方を「銅剣文化圏」としてこれを加え、三つの文化圏が対立しあっていたとする説もあった。)
しかし、発掘される遺跡の増加に伴い当然のことながら青銅器の出土例も増え、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、「銅矛文化圏」内で銅鐸が出土するといったこと(特に有名な吉野ヶ里での出土)が多くなり、この仮説は成り立たなくなり次第に論じられる事は少なくなった。しかし、現在でもこれらの出土分布の大勢に変りはない。
