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もっちん4476さんComments
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8月10日には伝法阿闇梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇する真言として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。
8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、教典の書写が行われた。また恵果和尚からは阿闇梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闇梨付嘱物とは、金剛智ー不空金剛ー恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。
同年12月15日、恵果和尚が60歳で入滅。元和元年(延暦25年、806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。
そうして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、教典等を収集した。8月に明州を出航して、帰国の途についた。

途中暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開宗し、以来、大宝寺を西の高野山というようになった。なお、福江に本尊虚空菩薩を安置してあると知った空海は参籠、満願の朝に明星の奇光と瑞兆を拝されて、異国で修行された真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけられたという。
虚しく往きて実ちて帰る
「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。
大同元年(806年)10月、空海は無事帰国し、大宰府に滞在する。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。
空海は、10月22日付けで朝廷に「請来目録」を提出。唐から空海が持ち帰ったものは「請来目録」によれば、多数の教典類(新訳の経論等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闇梨付属物等々厖大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、~聞かざるを聞く」(「請来目録」)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。
空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期の罪にあたるとされた。そのためかどうかは定かではないが、大同元年(806年)10月の帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた。大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止往している。この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどしていた。
