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もっちん4476さんComments
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・1261年(弘長元年)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪となる(伊豆法難)。この地が後に蓮着寺となる。
・1264年(文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者であった地頭・東条景信に襲われ、左腕の骨折と額を負傷し、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失う。(小松原法難)
・1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は北条時宗、平左衛門尉頼綱(いわゆる「平頼綱」あるいは「長崎頼綱」)、建長寺道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。
・1271年(文永8年)
・7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。
・9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。
・平左衛門尉頼綱により、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕えられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、球電現象らしきことが起こり、太刀取や兵が恐れてしまい処刑は断念される。(刀が段々に折れるという怪異が発生し中止された、という伝説もあるが、日蓮は「種種御振舞御書」に、「江の島のかたより月のごとく光たる物まりのようにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡」り、その結果「太刀取・目くらみたおれ臥し・兵共おぢ怖れる」としている。)
・10月 評定の結果佐渡へ流される。
・流罪中の3年間に日蓮当身の大事という人本尊開顕著の「開目抄」、法本尊開顕の「観心本尊抄」などを著述し、それまでの上行菩薩としての外用の振舞いを払い、久遠元初の自受用身としての本地を顕す。さらにこのころ末法の時代に即した法華曼荼羅を完成させた。この法華曼荼羅が、後世の人々に多大な影響を与えることとなる。

・1274年(文永11年)春に赦免となり、すぐに幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諫暁をおこなうが幕府は聞く耳をもたなかった。その後、最も信頼される日興の弟子であり、身延の地頭、波木井実長(清和源氏・甲斐源氏武田流)の領地に入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を建立した。
・1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5ヶ月後であった。
・1279年(弘安2年)10月、在家信徒・四条金吾への手紙「聖人御難事」の中で「清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年なり・仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う・其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし・余は二十七年なり・その間の大難は各々かつしろしめせり・云云う」と記し、出世の本懐である「本門戒壇の大御本尊」を図顕した。(日蓮正宗のみの伝承)
・1281年(弘安4年)兵力を増した蒙古軍が再び襲来(弘安の役)。
・1282年(弘安5年)9月8日、病をえて、地頭・波木井実長の領地である常陸国へ湯治にいくため身延を下山。9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。
・1282年(弘安5年)10月8日、日蓮は死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる。なお、日蓮正宗など富士門流では、日興にみを後継者に定めたとする(二箇相承)。
・1282年(弘安5年)、10月13日辰の刻(午前8時ごろ)、池上宗仲邸にて61歳で入滅。
死去の際、大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えれれている。そのため、日蓮門下の諸派では会式の際に仏前に桜の造花を供える。
