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もっちん4476さんComments
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三韓征伐とは、「日本書紀」に記載されている、新羅の王子、アメノヒボコの子孫神功皇后が行ったとされる新羅出兵をさす。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、新羅征伐と言う場合もある。
伝説の古いかたちを示す「日本書紀」神功皇后即位前紀では、三韓征伐の動機は財宝への欲望であり、また皇后は新羅を降伏させて馬飼(うまかい)とした、と書かれている。この伝説の古い形では新羅をさげすむ意識が見られる一方で新羅を金銀の財宝に満ちた国と憧れている。鎌倉末期の「八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)」甲本(こうほん)になると、征伐の動機が財宝への欲望から仇討ちに変り、三韓征伐の前段に新羅の日本侵攻が新たに創作された。また馬飼の話は、皇后が弓のはずで石に「新羅国ノ大王ハ日本ノ犬也(なり)」と書きつけた、という話に変っている。南北朝末期の「太平記」巻三十九「神功皇后攻新羅給事(しらぎをせめたまうこと)」では、話の筋は「愚童訓」と変わりないが「三韓の夷(えびす)」という語が新たに登場し、その三韓は同時代の高麗と理解されている。

戦前の解釈
「日本書紀」には「三韓征伐」によって朝鮮は日本の属国に入ったと記録されている。これが720年に完成した「日本書紀」に収められると多くの日本人は先の大戦中まで史実と信じていた。この三韓征伐は豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の大義名分(朝鮮は三韓征伐以来、日本の属国であり支配する権利がある)として積極的に用いられた。江戸時代に入ると国学研究の中で三韓征伐、およびそれを大義名分とした文禄・慶長の役を肯定的にとらえる論説(山鹿素行「武家事紀」など)が広まるようになった。
この傾向は明治時代以降も続き、征韓論が台頭したとき、そして実際に大韓帝国を併合する際(韓国併合)や、日韓同祖論が生まれて外地における同化政策(皇民化教育など)が進められるようになったときも、その思想的背景の一つとなった。また、皇国史観の下、記紀の記述に疑義を呈することはタブー視され、神功皇后の存在も史実とされた。
津田左右吉は著書「日本古典の研究」で、皇后伝説は後世に付けたされたものが非常に多く歴史的事実を語っていないと述べた。新羅征討については「事実の記録または伝説口碑から出たものではなく、よほど後になって、恐らくは新羅征討の真の事情が忘れられたころに、物語として構想せられたものらしい」と分析した。そのうえで伝説の成立時期を六世紀の継体朝や欽明朝とした。このような津田の著書は、当時、皇国史観に害があるとして問題になり、発禁処分になっている。
