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もっちん4476さんComments
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直木孝次郎は三韓征伐伝説の成立した背景について、新羅打倒について六世紀以来、朝廷内部にひきつづいて存したはげしい願望が原動力となって、一つのはなばなしい新羅征討の物語にまとめあげられたものだと指摘している。また、単に願望だけではなく、こうした物語の成立は、日本による新羅支配の正当性を根拠づけるためにも、征討に際して出征する将士の士気を鼓舞するためにも、実際上必要だと指摘した。対新羅関係の険悪となった推古朝および斉明・天智朝の現実の要求が、こうした物語の形成を促進したものと推測している。この物語が「記・紀」に定着するまでに、津守氏と住吉神社に関係ある物語や香椎宮のことなど様々な伝説・伝承が加えられていったと述べている。

天武・持統朝にわたり、日本は進んだ政治体制や文化を新羅から導入したため、あらゆる面で新羅化が進行した。天智天皇が母・斉明天皇の菩提を弔うために発願した観世音寺が残っている世紀末の鋳造とされる梵鐘(国宝)は、蓮華文や唐草文の様式から新羅系渡来人の作といわれる。新羅を討とうとした女帝ゆかりの寺の梵鐘まで新羅の影響下にあった。直木孝次郎はこうした状況下で三韓征伐伝説は作り上げられたと指摘する。つまり、日本は白村江で大敗をした後、新羅から先進的な文化を学んでいったが、その一方で唐をも破って朝鮮を統一した新羅に相当な危機感を持っていた。こうした危機感から発生したナショナリズムが日本書紀編纂の時に形となって表れたと指摘する。

記紀編纂に利用された旧辞という現存しない史料を6世紀に成立したと見做して伝説が作られた年代を6世紀とする説に対して、直木は6世紀に成立したとすると説明できない事実があると指摘している。そのうちの一つが皇后の三韓征伐の拠点とされている香椎宮の創建年代である。6世紀に伝説があったとしたら香椎宮も当時存在していなければならないが、「八幡愚童訓」、「八幡宇佐宮御託宣集」によれば創建は724年とある。一般的に神社の創建年代は実際より古く伝えられるが、香椎が登場するのは神功皇后伝説のくだりだけで、その後の記述は全くない。斉明だけでなく6~7世紀に朝廷はたびたび新羅遠征を計画・実行している。当時香椎宮があったなら、縁起の良い香椎宮に寄るなり、必勝祈願の神事が行われたりなどしなかったはずがないと直木は指摘する。何の記録もないという事実は、宮や神功皇后伝説そのものが6世紀にも存在していないことを暗示していると指摘している。だとすれば欽明天皇の新羅に対する「(新羅王を助命した)神功皇后の恩を忘れた」と非難する言葉も「日本書紀」編纂の際に考え出されたものだということになると指摘する。
