PR
Calendar
もっちん4476さんComments
Keyword Search
Freepage List

聖徳太子虚構説に対する反論としては、遠山美都男「聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか」(2000年)、上原和「世界史上の聖徳太子-東洋の愛と智慧」(2002年)、直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正明「歴史からみた太子像の虚実」(「聖徳太子の実像と幻像」所収)(2001年)、曽根正人「聖徳太子と飛鳥仏教」(2007年)、森田悌「推古朝と聖徳太子」(2005年)などがある。
聖徳太子については「日本書紀(巻22推古紀」、「三経義疏」、「天寿国繍帳(天寿国曼荼羅繍帳)」、「法隆寺薬師像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像台座内墨書」、「道後湯岡碑銘文(=伊予湯岡碑文、伊予国風土記逸文に記録。)、「法起寺塔露盤銘」、「上宮記」、「上宮聖徳法王帝説」などの歴史的資料がある。これらには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に製作されたとする説があるものもあり、異説、反論もある。
法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする。一方、志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする。
大山説では道後湯岡碑銘文は仙覚「万葉集註釈」(文永年間(1264年~1275年)頃)と「釈日本紀」(文永11年~正安3年頃(1274年~1301年)の引用(伊予国風土記逸文)初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は前掲二書に引用された伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)の官命で編纂された古風土記)の一部としている。牧野謙次郎は「碑文の古きものは、伊豫道後温泉の碑、山城宇治橋の碑、舟首王の墓誌等がその最なるものである。」「道後温泉碑 推古天皇の四年に建てたもので碑は今日亡びてない。文は「續日本紀」に引く所にして、もと「伊豫風土記」に載せてあった。」と述べている。

「勝鬘経義疏」について藤枝晃は、敦煌より出土した「勝鬘義疏本義」と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたものであるとする。「法華経義疏」巻頭の題箋(貼り紙)について、大山説は僧侶行信が太子親選であることを誇示するために貼り付けたものとする。安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(「是」、「非」など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親選とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。王勇は三経義疏について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、「法華経義疏」の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする。また花山信勝は「法華経義疏」行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している。
「天寿国繍帳」について大山説では天皇号、和風謚号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繍帳の銘文に現れる干支が日本では持統4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、製作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服装など、幾つかの理由から推古朝のものとしている。義江明子は天寿国繍帳の銘文を推古朝成立とみて良いとする。石田尚豊は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。

