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もっちん4476さんComments
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慶雲3年(706年)に彫られたとされる「法起寺塔露盤銘」に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では法起塔露盤銘は暦仁一年(1238年)頃に顕真が著した「聖徳太子伝私記(古今目録抄「法隆寺本」」にしか見出せないことなどから偽作とする。但し、全文の引用は無いものの、嘉禄三年(1227年)に四天王寺東僧坊の中明が著した「太子伝古今目録抄(四天王寺本)」には「法起寺塔露盤銘伝上宮太子聖徳皇壬午年二月二十二日崩云云」と記されている。また直木孝次郎は「万葉集」と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、「聖徳皇」は鎌倉時代の偽作ではないと考える」とする。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」とする。
日本書紀における聖徳太子像について、大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む日本書紀巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある。森博達は文武朝(697年~707年)に文章博士の山田史御方(やまだのふひとみかた)がβ群の述作を開始したとする。

「播磨国風土記」(713年-717年頃の成立とされる)印南郡大国里条にある生石神社(おうしこじんじゃ)の「石の宝殿(石宝殿)」についての記述に、「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子と考えれれることから、「日本書紀」(養老4年、720年)が成立する以前に厩戸皇子が「聖徳王」と呼称されていたとする論がある。大宝令の註釈書「古記」(天平10年、738年頃)には上宮太子(厩戸皇子)の謚号を聖徳王としたとある。
「上宮聖徳法王帝説」巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は「おそくとも大宝(701~704)までは下らぬ時期に成立した」として、記紀成立よりも古い資料にによるとしている。
聖徳太子即位説
「聖徳太子は即位して天皇になった」とする説もある。
