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もっちん4476さんComments
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勝海舟/勝安芳(かつ かいしゅう/かつ やすよし)は、江戸時代末期から明治期にかけての幕臣、政治家。位階勲等は正二位勲一等伯爵。
幼名は麟太郎(りんたろう)。本名義邦(としくに)、維新後改名して安芳。これは幕末に武官官位である「安房守」を名乗ったことから勝安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」をさけて同音(あん-ほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホウ」とも読めると言っている。海舟は号で、佐久間象山から受領の篆刻「海舟書屋」から取ったものである。
父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟にあたる。海舟も十代の頃は剣術修行に多くの時間を費やしている。家紋は丸に剣花菱。
山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。1887年哲学館(現:東洋大学)を創設した井上円了と親交があり、多くの寄付をしているため、「哲学館も三恩人」の一人と呼ばれている。
また、専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律増甲乙之以正澆俗 礼祟升隆之制以極頽風」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。

勝海舟は文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した。
曽祖父・銀一は越後国三島郡長鳥村の貧農の家に生まれた盲人であった。江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得、検校の位を買い、米山検校を名乗った。銀一の子・平蔵は、御家人株を入手して男谷家を興した。男谷家はのちに旗本に昇進した。その三男が海舟の父・勝小吉である。小吉は三男であったため、男谷家から勝家に養子に出された。勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は天正3年(1575年)以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父にあたる命雅(のぶまさ)が宝暦2年(1752年)に累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。
幼少時、男谷の親類、阿茶の局の紹介で11代将軍徳川家斉の孫初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が早世したためその望みは消えることとなる。
生家の男谷家で7歳まで過したのちは、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らした。
