行政書士徒然日記

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総徳 @ え! 大丈夫? なんだ、なんだ! 緊急入院ですか! …
Mrs. Linda @ Re:病気入院(11/16) 暫く更新がないのでどうなさっているのか…

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タケル0127

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2009.08.18
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カテゴリ: 歴史

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「河井継之助伝」

 今泉鐸次郎著。

 ・継之助に関して編まれた唯一の刊本史料(伝記)であり、現在ある関連書籍はすべてこれを底本にして書かれている。

 ・先祖は牧野家の家臣で自身は新聞記者・郷土史家であった今泉が、各地より蒐集した史料、関係者からインタビューした情報を基礎に構成。具体的には継之助の史料(書簡など)やそれ以外の者の関係史料からの引用と継之助の家族や関係者、またその関係者の子女などからの証言の2つから成り立っている。すなわち、史料学的に見れば「河井継之助伝」は2次史料・2級史料に分類される。

 ・引用史料の中には「追考昔誌」「思出草」など、その原本や写本が現存しているものもある。しかしその一方で、所在やいかなる史料なのかが今のところ不明なものも存在する。また、戊辰戦争前後の事について書かれた現在の引用史料は残されたメモや当時の史料、記憶をたよりに後年編まれたものや回想録である。ゆえに、これら「河井継之助伝」中の引用史料の扱いについても内容をそのまま鵜呑みにはせず、他史料で裏付けをとる必要もある。

 ・小諸騒動にあっては、維新後の混乱期にごく短期間だけ小諸藩上席家老となった牧野隼之進成聖の嫡子・成功からの聞き取りに依拠した部分が多いものと推察され、これと不仲(或は反対派)であった牧野隼之進成聖の本家となる牧野八郎左衛門成道、及び真木要人則道、太田宇忠太一道、前藩主夫人の楠子などの評価を低く(或は悪役に近く)書いている恨みがあると指摘する文献(牧野家臣団・加藤誠一著など)もある。また小諸藩重臣の知行、家禄の引用が極めてアバウトであるとも指摘されている。

 ・小諸騒動はアカデミックな場で僅かに扱われているが、小諸騒動の継之助の調停については小諸藩文書等の小諸側の文書・史料からは継之助の具体的な事績・活躍がほとんど伝わらない。

 ・関係者の証言に関しても、当時の様相を垣間見る上で貴重な手がかりである。しかし、かなり年月を経たあとのものでもあり、そこには証言者本人の主観的判断や感情、記憶の入れ違いも存在しうる。ゆえに、史料学的見地からもこれらの証言を扱う際にも慎重さを要する。

 ・本文中で引用されている継之助の書簡についても、原本はごく一部を除けば現存していない。

 ・しかしながら現在、継之助や幕末期長岡藩に関する1次史料(とくに藩政史料)がほぼ皆無の状況である以上、「河井継之助伝」は継之助の人物像や幕末期の長岡藩の様相を知る上で数少ない好史料であることは否定し得ない。

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「塵壷」

 継之助自筆の旅日記で、現存する唯一の自著。安政6年6月7日(1859年7月6日)から同年12月22日(1860年1月14日)までの西国遊歴中の事を記す。原本は現在、長岡市立中央図書館から長岡市の河井継之助記念館に移管、展示されている。

 ・江戸~備中松山~長崎~備中松山における道中の出来事を記録したもので、両親への道中報告のためのメモ的なものである。そのため、特筆すべきことのないようなときは日付と天気しか記していない日もある。

 ・数日分を後でまとめて記すこともあったため、記憶にいり記述の細かさにばらつきがあったり別記を意図して内容を省略したりしている。ゆえにいわゆる日記としての全般的な詳述さには欠けている面もある。

 ・西国遊歴は、これ以降の河井の政治的行動を深く規定したという点で継之助の生涯において大きな位置を占める出来事であり、本史料は遊歴の内容や継之助の個性を知る上で貴重な史料といえる。

 ・備中松山から江戸までの帰路については「塵壷」には記されていなかったため、その日程や内容についてはしばらくの間不明であった。しかしその後、その帰路の事を記した両親宛の書簡が発見されたため、江戸までの道中の日程や大まかな様子が判明した。なお、京都~備中松山間において行きが山陽を通ったのに対し、帰りは山陰を通って帰った事がこの書簡で初めて分った。

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Last updated  2009.08.18 17:01:30 コメント(4) | コメントを書く
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