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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。12月中に一回書くといいながら元旦になってしまい申しわけございません。母の様態がいまいちだったのと、決算関係がなかなか踏ん切りつかなかったのと年末に仕事の当番が当たってしまったことが重なりどうにもできずでした、、、今年は、母を実家に迎え、一家団欒できるようにしたいとおもっております。よろしくお願いします。ということで、表題ですが、すいません、鹿児島の話ではなくて。。。正月に忠臣蔵やるそうで、その背景話でもということで、書いてます。吉良上野介の奥様の話です。悪役にはいがいときれいな奥様がいらっしゃるというのは定番の話なのですが、やはり、吉良上野介もそうで、実は上杉家から妻を娶ってます。上杉謙信公から3代目上杉定勝の3女 三姫さまです。この婚姻に関しては、実は、上杉家では大反対であったようです。理由は上杉家は30万石の大大名、それに反して、吉良家は3万石の旗本でした。当時の結婚については、基本的にお互いの家の格式に見合ったものどうしで行われるのが普通でしたので、当時としては異例の話でしたが、三姫さまは、江戸城で吉良上野介に一目ぼれをして、反対を押し切っての嫁入りでした。そして、それはそれは、仲むつまじい夫婦だったそうで、とついだあと、富子と名前を変えているそうですが、塩田にもその名前をとって富好塩田(塩田の風景がすきだったそうです)と名前をつけたり、三姫が目の病気にかかった折、身延山のお堂に千石供養をおこない祈願、回復したそうです。そして5年目にうまれた男子にも三郎と三姫から名前をとったそうです。そんなこんなで幸せの日々を送っていたのですが、あるとき転機を迎えます。上杉家では代がかわり4代目綱勝が1664年、江戸で参勤交代できていたさい、吉良家の江戸御用邸に訪問した後の帰り道で突然の腹痛を訴え、7日間腹痛・嘔吐を繰り返し7日後亡くなります。吉良家でお茶を振舞われたことから毒殺説がでて、三姫さまもご心労なされたということですげ、さらに大きな問題が持ち上がったこととしては、急死により、上杉家断絶の危機に陥ったことです。跡取りがないうえに決めてなかったため、非常に厳しい中で、会津の保科家と、血縁関係にあった上杉家は老中でもあった彼に上杉家の命運を託します。その結果おとりつぶしは間逃れ、三姫の子三郎を上杉家の跡取りとして申請(申請してあったが、保科氏が上奏していなかったということにしていた)したのでした。その代わり、上杉家は30万石から15万石に減俸されましたが、、、(こうしたことがあり、幕末の戊辰戦争で米沢藩が会津藩に協力したという話です)上杉家の名跡を継いだ三郎は、綱憲となのり5代目となり、学問を広げるべく、藩校をつくり奨励する一方で、江戸屋敷改築などの浪費・そして吉良家にもお金を送金するなどで問題もあったようです。あとは、暗殺の疑いについては、あとあとも残るところがあり、三姫の心労はのこるのでしたが、、、ところで、吉良上野介の忠臣蔵である舞台としての役がらですが、幕府では、毎年とし始めに朝廷へ年賀の挨拶の使者を送り、そして、その答礼の使者をもてなすことをしてましたが、足利家の血筋の吉良家ではこれをかなり任命されており、吉良上野介央義も使者15回お迎え9回していたようです。で、松の間はその答礼の使者を通す間であったわけで、このとき答礼の使者を迎える接待役を浅野匠頭と伊達宗治にそしてその指導を吉良上野介がしていたわけで、、、いろいろと対立する理由はあったようですが、そこで、事件がおきます(これもめずらしいことではなく9回ほどおきているようですが、切られたほうが生き延びたのはこのときだけのようです)そして、12月14日、赤穂浪士のうちいりとなるわけですが、、、、このとき吉良家では、綱憲の次男義周を跡取りに迎えていました。んま、三姫の孫を迎えたわけですが、討ち入りのさい、上杉家からきた家来とともに奮戦し、後ろ傷もないままに気を失い、一命を取り留めたといいますが、そのあとを見に来た三姫は打ちひしがれて気力を失ったといいます。このときの上杉家の家臣たちのお墓は米沢にあります。また、義周は、閉門ののち、吉良家を取り潰し諏訪へ配流の処分となりました。そして、上杉家でもこの事件は衝撃を受け、当主であった三姫の息子綱憲もすぐ病死【42歳)してしまいます。子供と孫の哀れな末路をみた三姫は傷心のまま仏門にはいり、綱憲のあとを追うように上杉家の白金邸でなくなったそうです。享年62歳です。1周期は渋谷の東北寺と米沢の法泉寺で営まれ、お墓は両方に有るそうです。討ち入りのもうひとつの悲劇のお話でした。討ち入るほうにもわけがあれば、討ち入られるほうにも生活があり、家族がある。。。そういう話でした。
2007年01月01日
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また地図をぺたりhttp://www.shizuokasengen.net/guide.html#m06あ「こちらのほうへ」と21の石の鳥居のところへあ「こちらが、徳川家光公時代の唯一のこされた建造物で、石鳥居です。この石は瀬戸内海のほうからもってきたものだそうです。大阪城とかとおんなじですけねえ」く「すごいとこからもってきますねえ@@;」あ「浅間神社の山門ですが、掲げてある當國總社・冨士新宮とありますが、静岡の県知事になった人はすべての神社をまわらないといけなかったらしいのですが、それではたいへんだ~というわけで、この浅間神社をお参りするだけで、静岡のすべての神社をまわったということにできるという意味で、静岡をまとめる神社というお話のようです」く「なるほどなあ。。。政治的な意図もあったんですねえ、これは。。。」再び、浅間神社境内へ、、、あ「境内の舞殿(ぶでん)ですが、この柱にあるこの動物ってなんだかわかりますか?」く「なんでしょうねえ???」あ「これは、獏です。」く「あの夢を食べる動物ですよねえ?」あ「そうです、で、これの主食が、鉄を食べるということですが、どういう意味があるとおもいます?く「うーむ、武器・・・ですかねえ?」あ「そうです、剣などの鉄製の武器を食べるという意味合いから、平和を祈願したものということだそうですね。舞殿の脇には竜の彫り物があります。竜は川底に潜んでいて成長すると天高く舞い上がるということで、縁起のよい生き物ということで、よく扱われるわけです。あと、舞殿の中の彫り物で、太鼓の上に鶏がいるものがみえますか?」く「はい」あ「これはですねえ、中国の王朝が昔、下級のものが天子にむかって意見するときは太鼓をたたいて意見するというならわしがあったそうですが、鶏が上にいるということは、たたくものがいない、、、すなわちよい治世が行われるという意味合いがあるそうです」く「なるほどねえ・・・」あ「境内のあそこに飾ってある神輿が、木之花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)がお父様にあいにいく乗り物になるわけです、ビデオでその様子が紹介されてますね。こんな感じで外からは見えないようにうつっていただき、山を登っていくわけです。」く「なるほどねえ、、、穢れのないようにというわけですね」あ「そろそろお時間ですので、これで、おわりましょう」く「今日はどうもありがとうございました」浅間神社参り、訪れた意図とは違うものになりましたが、いろいろと勉強になるいい機会をいただいたと思っています。ということで、こちらはおしまいです。なかなかこちらの更新が進まない状況でもうしわけないですが、年末ということもあり、更新がさらに難しくなってます。なんとか、暇をみつけて、12月にもう一回西郷隆盛さんの世に出るまでのご時世についてまとめるブログがかけたらとはおもっています。急に寒くなってきて風邪もはやっておりますので、お体にお気をつけて年末のお仕事がんばってくださいませ。今後ともよろしくお願いします。
2006年11月18日
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一度書いてけしてしまったので、ちょっとやる気が低下したしたが、気をとりなおして・・・地図をサイドのせますhttp://www.shizuokasengen.net/guide.html#m06あ「大歳御祖神社は戦争で戦災にあい焼失しましたので、再建されたものです」なるほどあたらしいですね。。。あ「文化財資料館は、、、いまは特別展示やってないので、時間もないしパスです」ありゃりゃ^^;後日みにきましたが、歴代駿府城城主が奉納した絵馬?が沢山展示してありました。武士の気風から平安貴族の様子や、平安を祈願したものなど、時代・世相を反映したものが多数展示してあり、個人的にはよかったですね。150円の入場料だったかなあ・・・く「今川家についてなにか残されているものはないですか?」あ「静岡の人はあまり関心がないみたいですからねえ。。。駿府城で旧今川家の屋敷後が発掘された跡もとくに残そうという話は出なかったですから。。。静大の教授がそれでも後世しらべることもまたあるだろうからと、また、埋めたという話でした。静岡の美術館が建設予定になっていましたが、さすがに違う場所に建てることにはなりましたね。他に残されているところとしては、臨済寺ぐらいですかねえ・・」く「徳川家康の幼少時にいたお寺で、師匠もいらした場所ですからねえ・・・」あ「そうですねえ・・・ほかは、、、このさき(文化財資料館の横)にいろいろと石碑がありますが、、、この初代静岡県の県知事が関口さんというのですが、この方は、今川家の関口氏の子孫です。知ってらっしゃると思いますが、家康の正妻築山御膳の実家の血筋の方です。」さすがに正妻の血筋は大事にしてますね、家康さんは。。。あ「この前の浅間どおりの道路なんですが、ここで、昔は流鏑馬をしていたそうですよ。なるほど、それで、結構広くて長いきれいな道になっているわけで・・・あ「その向こうの家当たりに、徳川慶喜が謹慎していた家が立っていました。あのあたりも神社の境内であったわけです」く「浅間神社が徳川家ゆかりの神社ということでということですね」あ「そうですね」また、ページ変えます
2006年11月18日
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だいぶ間が空きすいませんでした。11月にはいってからは、仕事が年末進行で、決算・年末調整ボーナスの通常業務の他(これも初めての体験で頭がぐしゃぐしゃになりながらやってます)仕事についてあらゆることの改正?が進んでいて、その説明会やら、講習会やらがめちゃくちゃ多発していて、まじめに出席しているわけですが、なんか内容みると、、日本の世も末かなあとおもうことが多いです、、、、浅間神社・・・もうちょっとだけささっと書きます。地図はこちらhttp://www.shizuokasengen.net/guide.html麓山神社(はやまじんじゃ)7を見た後、山を下りつつ、14の古墳へあ「安倍川流域を中心に古来からこの地域を支配していた阿部一族の古墳です。この古墳の前の説明にも書いてあるように古墳のてっぺんには松がうえてあったのですが、落雷にてなくなってしまいました。中には、模造品の御棺があり、全国でも珍しい家型の石棺です。」く「ふたがかなり面白い形をしていて加工技術が進んでいた感じをうけますね。」あ「大きな岩をかなりふんだんにつかって石棺のお部屋をつくっています」く「これをもってきて、この山に積み上げるのなみたいていのことじゃできそうもないですねえ」あ「エジプトのピラミッドなみですかねえ(笑)」あ「ちなみにわたしはすぐそこのあのうちの近辺の生まれのものでして、子供の頃はこの古墳が遊び場でしたねえ・・・松の木のところでもあそんでましたね」く「こんなに近いとそうなるでしょうね、発掘もわりと最近のお話のようですし」そんなお話をしつつ階段をおりて、大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)6の前の赤門前22へ。あ「普通山門には仁王様がいて、実際浅間神社のほうはそうなんですが、こちらには左大臣と右大臣がいます。ちなみに、左側に右大臣・右に左大臣がいますが、これは、神社本殿からみて左・右ということですね。また、赤門の前のとおりと、本殿を眺めていただくとわかると思うのですが、山門のところでちょっと道が曲がっているのがわかると思います。これは、邪気が直接本殿にはいってこないように工夫しているからです」なるほどねえ・・・というところで、一旦区切ります。
2006年11月18日
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なかなか長尺ものになってきちゃいましたが、もう少し・・・本殿は地図でいうところの1・2ですあ「先ほども説明した本殿ですが、この彫り物は立川流(たてかわりゅう)という彫刻美術の江戸幕府御用達の一派が彫っています。初代は、大工さんだったそうですが、諏訪で、修行、東京の立川で開業したので、立川流と名乗ったそうです。で、江戸幕府に御用達になった理由は、つくるにあたって必ず見積もりをしたそうで、それ以上のお金はもらわなかったからだそうです」く「いまも昔も経済観念はかわらないかもしれませんね、もともと大工さんだったえいきょうでしょうかねえ?」あ「そうかもしれませんねえ・・・とりあえず、縁起のいい彫り物がいっぱいあるわけですが、日光東照宮のものと比較してもかなり立体感のある堀の深いものがおおいですよねえ、、1600年代につくられた日光東照宮と200年も後期になったものではこれだけの違いがでるんですよね、すばらしいでしょ?」く「これだけの立体感と、奥行きがあるのに一枚の板なんですか?」あ「そうなんです、私もはじめは合わせたんだとおもいましたが、一枚だそうです」く「うは、すごいですね・・・」あ「浅間神社と神部神社の真ん中は実は守衛さんがずっとつめていたそうですが、ここの彫り物は鶴と亀と両サイドに鳳凰の図、、すごいですね。さらに背景に松竹梅・・・松竹梅がなぜ尊いものかといえば、冬の寒い時にもりっぱにはえてるからなんですよ」ふむふむとじっくり鑑賞しました・・・・その後、麓山神社(はやまじんじゃ)へあ「ここは、日本を最初に統治することになったニニギノミコト(系図はこちらhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~t-sato/index14.htmlが、地上世界におりて初めてみそめた木之花咲耶姫命(このはなさくやひめ)の父にあたる大山祇命を祭っています。あまりにも木之花咲耶姫命が美しいのでこの大山の命に娶ると申し出たところ、姉と一所にもらってくれとお願いされたところ、ご対面して・・・で、ニニギノミコトが断ったところ、お前は二度と天上界には帰れないといわれ、実際帰れなくなるわけでした^^;」ありゃまあ・・・あ「また、4月と10月の2回、麓から神輿がでて、その中に木之花咲耶姫命を乗せてこちらの麓山神社の方へ運ばれる行事があります。」一回みてみたいですね。。。といった感じで、約2時間ほどこのほかにも沢山教えていただきました。どうもありがとうございました。続きを書く気力があれば、また続きを書きますが今日は力尽きたのでここまでです・・・
2006年10月17日
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というわけで、受付へ移動(の前に補足、少彦名神社の干支のはなしですが、4面だと、9つしか彫り物がかざれないわけですが、虎より前の干支は、本殿の中にあります)(移動場所ですが神社に地図再びアドレスかきます12の社務所に移動してます)そちらへ記名して、500円を支払うと、いきなりなにやらいろんな神々しい文句が書かれた襟袖?を首からかけることになり、さらにさらに社殿前の自動車お払い所のところにて、祭壇を前にして本当にお祓いを受けました。目の前で祓いたまえ・・・というわけです。つまり、神聖な場所なので、お祓いしないと、厄物を持ち込んでしまうからだめということのようです。あ「これで、きっとあなたの厄もとれるでしょう」その後の様子をみると本当に利いた気がしてます(後日談)あ「まずは、八千戈神社へどうぞ、こちらは、摩利支天といって戦国武将が戦に行くときにかならず兜の内側にいれたお守りのようなもので、そちらが祭られています。社を区切る塀には、蒼い波の文様がはいってまいすが、こちらは火災という災厄が入ってこないようにするための紋様です。実際に火災からは戦争からも守られたようですが・・・」あ「正面にまわりますと、屋根直下の軒に、いろいろと孔子の教えの逸話がひとつの彫り物の絵として飾られています、たとえば、孟子の教えで、なくなりそうな母のために雪山に入り、たけのこを捜し求めた図や、歯の抜けた義母のために子のほかに義母に乳を与える若い娘の図などあります。家康は、よく子供や家光にこうした孔子の教えをとくとくとしたそうで、こうした精神を伝えようとして残したものと考えます」(八千戈神社は、http://www.shizuokasengen.net/guide.html#m09の9ですね)ひとしきり鑑賞後本殿(地図で言う1・2です)へ移動その間の話あ「浅間神社の改築は1860年ごろから、66年かけて行っています、徳川家斉ぐらいのころかなあ」く「そのころってすごく幕府ってお金なかったんじゃなかったんでしたっけ?」あ「そうです、家光の時代に最初の改築してますがそのときは3年で終わったそうですが、このとき66年もかかったのはそのせいです」納得・・・そして、本殿へ移動しますまた、本文が多くなったのでページ変えます。
2006年10月17日
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いろいろと遅れていることが非常に多くてすいません、くまです。鹿児島旅行記もまだかけてないでしょうという声もきこえそうですが、、、このあとまた書きます^^;しかし、この続きを書こうとしたときに、幕末の薩摩藩の歴史のダイジェストの話をしないとわからなくなりそうなので、そういう話を挟もうと思ってます。静岡の話は単純に忘れそうなので書きます^^;静岡の話は静岡の話で、またもや、神話の世界にもなるので、一応神々の系図をリンクしておきますので参照してください、、、わかりにくいかもしれませんが・・・^^;http://www2s.biglobe.ne.jp/~t-sato/index14.htmlリンクもいろいろと関係するところを張っておきましたのでご参照ください。ということで、少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)を眺めていると、後ろから声をかけられました。。。謎の人「あのちょっといいですか?私こういうものですが・・・」ちょっとみ絵描きさんのようなお姿をされた少し中年の方がいらして駿河ウエイブ「青島○○」と書かれたプラスチックカードを首から書け、白いウインドブレーカーに腕に駿河ウエイブの文字が青くはいっている方が横に立っておられました。(駿河ウエイブについては左下のリンクから見てみてください。)くま(以下く)「はい、、いいですよ」なんとなく面白い展開になりそう(青島様、見ていらしたらすいません)だったし、少し時間が有ったので、お話を聞くことにしました。青島さん(以後あ)「少彦名は、主神の大国主の命(おおくにぬしのみこと)に使えた神さまですが、ここに書いてあるように薬師如来さまも一緒に祭られていました、、、神仏混合ですね、それが、明治の廃仏毀釈によって、神と仏さまは分けて、捨てなければならなくなり、緊急避難として、臨済寺(りんざいじ)へと運ばれ、いまは薬師如来さまはいません」く「そうですよねえ、、、薬師如来さまって神様じゃないですからねえ・・・」あ「神社の屋根の下をみていただくとわかるのですが、十二支の干支が四方に3つづつ彫り物が飾られているのがわかります。そして、正面なんですが、真正面中央には虎がいます。なんでかというと、徳川家康の干支が虎だからです^^」く「なるほど家康をよいしょしてるんですね^^」あ「そうですねえ^^;」しばし話していると、あ「もし時間とお金があるのでしたら、本殿の方も案内しますよ」く「はいよろしくお願いします」といって、向かった入り口の受付口が無人だったり^^;あ「ありゃ、いないですね・・・向こうのほうかな・・・」あ「ちょうどいいいので、こちらからちょっと説明します。階段の上を見てください(一応浅間神社のマップのリンクはっておきますhttp://www.shizuokasengen.net/guide.html10あたりをうろうろしてます)ひとつの本殿なのですが、左が浅間神社(あさまじんじゃ)、右が神部(かんべ)神社の本殿で、中央で別れていて、別々に入れるようになってます」く「あのー、右左はどうやって決められたのでしょうか?」あ「一応歴史をお話しすると、もともと富士山の信仰があった浅間神社がありまして、そののち、神部神社が祭られるようになりました。ちなみに左と右どっちが位が高いかわかります?」く「左大臣のほうが右大臣よりえらいですから、左でしょうねえ。」あ「そうです、だから、もとからいた浅間神社の方が左にあって、右に神部神社があります」あ「ちなみに浅間神社の象徴する動物は鷹なので、鷹の彫り物が、神部神社は、因幡の白兎で有名な神様なので、ウサギの彫り物があります」というところで、本殿に入るため別の入り口へ移動します。文字多くなりすぎたので、ページ変えます。
2006年10月17日
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また、ご無沙汰しています、くまです。先に連絡を・・・すいません、携帯電話を実家の風呂掃除中水中に落下させてしまったため、電話番号・メールアドレスをすべて消失しました(バックアップしてなかったです;;)現在新しい携帯に変更電話番号、メールアドレスは変えていませんので一度ご連絡のほどお願いします。(または、左下のここのページのメール・私書箱へお願いします)また、mixiにて、山本権兵衛にてやってますんで、mixiやってる人はさがすか、こちらへご連絡くださいませ。ということで、表題です。ちょっとご無沙汰していたのは、週末、仕事で少しあちこちでかける機会が多かったので余裕がなかったのでした。その中で、静岡にいったさい、今現在三方が原の合戦についていろいろと調べているのですが、今川家の動向がどうもすっきりしなくて資料がないかなあとおもっていたので、そういうものがあるもんかと思い調べたのですが、静岡大学の図書室にも(戦国歴史家の大家の小和田先生のお膝元)ネット検索ではどうも自分のうちに有るもの程度しかなさそうで、、、静岡浅間神社に文化財資料館があるとのことで、仕事のついでに行くことにしました。当日11時過ぎごろ静岡到着、昼ごはんどうしようかとおもったのですが、時間が中途半端で、食べずに行くことにしました。移動手段もどうしようかと思いましたが、駿河ロマンバスに乗ることに。http://www.justline.co.jp/doc/romanbasu.html静岡市内をレトロなバスで巡回・・なんだけど、なんか、既存のボンネットバスにペイントと看板つけただけなようなきもしないではないし、内装はまったく普通のバスなまんまです。ちなみに乗客はなし、1回どこまでいっても100円です。駿府城のあとの駿府公園の周りをぐるっとまわるんですが、学校や公共の施設がいっぱいです。ついでに時期がいいのか運動会をやっている風景も目に留まります。お堀はきれいに残されていますが、これはすべて徳川治世の時のもので、家康が改築工事をしたそうで、今川のときのものは跡形も残っていないようです。そうこうしているうちに浅間神社石の鳥居と本社が正面に見えてきました。遠めでもしっかり確認できます^^浅間神社の停留所でおりて、総門・楼門をくぐり浅間神社境内へちなみにこの一帯の神社郡を浅間神社(センゲンジンジャ)と読むのですが、本社?の浅間神社は浅間神社(アサマジンジャ)と呼びます。もちろん、この総本社は、富士山ろくの麓の浅間神社ですが、明治初めの廃仏毀釈のときに音読みするようにされたようで、呼び名の解離が起きたようです。浅間神社の舞殿をよこめでみつつ、本殿にもいけます、横から裏にまわってください、500円で参拝できますの文字発見、、、どうしようかなあと思いながら、その方向にある少彦名神社を覗き、ふうーむ、本尊は薬師如来さまかと確認していたところ、後ろからひたひたと忍び寄る影が・・・以下なぜか続きます。http://www.shizuokasengen.net/
2006年10月09日
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また少し間が開きすいません。連休中にも多くの方に来ていただきながら余裕がなく更新できずすいませんでした。ということで、お話の続きです。こっから、やっと本論?の西郷隆盛?の話です。「西郷隆盛は、1827年12月7日に、鹿児島城下の下加治屋町(したかじやまち)で、西郷吉兵衛(きちべえ)の長男として産まれた。西郷家は、藤原姓で、南朝(南北時代の南朝)の菊池武光(たけみつ)の後裔で、元禄時代に、西郷九兵衛が、島津家につかえ、西郷隆盛で7代目となります。西郷は、幼名を小吉(こきち)といい、元服後は、隆永(たかなが)・通称を吉之助といいました。と、いうことで、実は隆盛は、本名ではありません。これは、(後述しますが)幕府との対外的な問題もあり、島流しにあい、その後藩主に許されて出仕した際、幕府からの追及を逃れるために、父親の元服名隆盛を名乗ったというもので、明治維新後も、そのまま使い続けたため、そのまま定着してしまいました。西郷の家族構成は、祖父龍右衛門と祖母、父吉兵衛と母マサのほか、琴・吉二郎・鷹・安・信吾・小兵衛と6人の弟妹がおり、使用人を含め家内の人数は、16人でした。西郷家の家柄は、小姓組(こしょう)でした。この身分は、薩摩藩では、士族を、城下士・外城士(とじょうし)・卒・陪臣(ばいしん)にわけ、城下士(じょうかし)をさらに、一門・門閥・一所もち・寄合・小番・新番・小姓組・与力に区分しており、城下士の身分では低いほうでしたが、役としては、勘定方小頭で、士族家庭のお財布の管理をしていたのでした。持高は、47石(1石が一応人一人が一年食べる分の田畑)であったが、実際は名目上であったらしいです。隆盛兄弟が、冬1枚の布団を取り合うほど苦しかったそうですが、そのひとつの元凶として、父が、廻船問屋の板垣さんから100両のお金をかりて、41石の禄高を買い足したものの、翌年藩が禄高に更に高い公定価格を設定してさらに100両の追徴金がかかり、その分も借金も背負ったためといわれています。結局、西郷家は、その後利子も払えず20年間借金したままとなり、返却は、西郷隆盛が、20年後明治政府に入閣してから返却したそうです。(ぎゃくにいうと、借金を大目に見てもらえるぐらいの家柄では有ったらしいのですが)そうした、貧しい中で、弟妹の面倒をみつつ家の手伝いをしていたようです。西郷隆盛さんは、上野の銅像のように大きくは有ったのですが、島流しにあうまでは、太ってはいませんで、すらっと細長かったそうです。また、非常に良い体格でしたが、11歳のときに別の方限のものと喧嘩した際、右腕にさけた剣の鞘が当たり、大怪我をし、伸ばせなくなったそうで、(自分も剣道をやっていたので、わかるんですが、腕をうまく伸ばせないと剣先のスピードが出せないので、上達しないのです)それ以後、剣より読書に励むようになったそうです。ちょっと前後しますが、8歳のころ、藩の聖堂に通い、よみかきそろばんをならいはじめました。体の大きい無口な気の利かぬ少年だったそうです。そこで、大久保利通・海江田信義らと学び、大久保の議論に西郷さんは耳を傾けていたそうです(このころ、(1834年)天保の改革・徐々に幕末の様相を帯びてきています)」と、幼少期から、いろいろと、苦労はあるものの、その後の人生にかかわる交友関係ヶ築かれていった時であったようです。というわけで、今日はここまでです。(なんか、あんまり日記っぽくなくなってきちゃってすいません・・・)
2006年09月26日
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前回の続きを書きにきました、くまです。ほんとに大勢の方にいらしていただきありがとうございます。ということで、ジゲン流の続きです。前回の話を後で読んでて思ったことですが、ジゲン流ってどんな剣法かってちょっとわからないよなあとおもったので、先に補足します。基本的には、初太刀(しょだち)といって、最初の一撃を頭から全力で渾身の力を込めて振り下ろす剣法で、一撃はずしたらあとがないともいえます。ただし、その一撃たるやすさまじい威力で、鎧を着た武士が真っ二つどころか、粉々にぐしゃっとつぶされた残骸のように残るらしいのです。あの、新撰組でも、薩摩のジゲン流の初太刀にはきをつけろといわしめた剣法です。ジゲン流の極意が2つともほぼ同じで、1.刀は抜くべからざるもの1.一の太刀を疑わず、二の太刀は負け1.刀は破るものにて、自己の防具にあらず1.人に隠れて稽古するだそうです。1つめと3つ目に付いては、その精神が刀にも反映していて、刀には、簡単に抜けないようにとめ具があったり、相手の刀をうけ、つばぜり合いをする鍔(つば)が、非常に小さく、手がとってから刀に滑らないようにしてるだけになっているそうです。2つめは先に行ったとおり、4つ目に付いては、人のためでなく自分のためにやれという意味も有るようですね。と、いう感じで、イメージがつかめたでしょうか?で、本日の話は、野太刀自顕流(のだちじげんりゅう)と歴史についてでした。「みなさん、安政の大獄・桜田門外の変については、ご存知かと思うんですが、当時の大老井伊直弼の首を切ったのは、実はもと薩摩の侍で、自顕流の使い手だったのです。歴史の教科書では、水戸藩の浪人におそわれたとあるとおもうんですが、井伊直弼の弾圧をこころよく思わない、薩摩藩・江戸留守居役の有馬雄助・次左兵衛の兄弟は脱藩を図り、この水戸浪士たちと合流、1860年、桜田門外にて、午前9時出勤する頃をねらい襲撃、井伊がのった籠を2回水戸浪士がきりつけたあと、有馬次左兵衛が、井伊大老を籠から引きずり出し、一刀の元に首をはね、剣先に首をさして、遠藤但馬守の辻番所へ向かったが、そのはいごから切り付けられ、動けなくなるも、水戸浪士の助太刀にて助けられ、切腹して果てたそうです。辞世の句は岩がねもくだかざらめやもののふが 国の為にと思い切る太刀だそうです。。。有名な事件、そのほかには、生麦事件ですね。当時開国でゆれていたときの薩摩藩主・島津久光公が、江戸に向かう途中の生麦にてイギリスの商人リチャードソンら4人が、大名行列を横切ったため、この先頭にいた奈良原喜左衛門が、即座に一人を切りつけ、それでも、内臓をもらしながら馬で逃げるイギリス人たちを八百メートル近く追っかけて、切り捨てたそうです。これが、のちに薩英戦争につながるわけですね。もちろん、西南戦争のときも、薩摩の武士たちは、自顕流で戦ったわけですが、接近戦では、まったくの無敵状態で、政府の一般兵はまったく接近戦では太刀打ちできず、形にならない死体が大量にころがったそうです。薩摩の武士たちも銃でうたれても突撃し、みな前のめりで死んでいったそうです。」このほかにも、薩摩藩の武士どうしが切りあった寺田屋事件などが有名です。また、幕末の剣豪では、西郷隆盛の護衛の大山綱良などが自顕流の使い手でした。そんなわけで、幕末にはジゲン流が日本を席巻する時代となったのでした。というわけで、次回は、西郷隆盛?さんの話の予定です。
2006年09月19日
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先日は久々の書き込みながら、大勢の方にいらっしゃっていただきましてありがとうございます。まだまだ、忙しい日々が続いているので、コンスタントに続く確信がないのですがまたよろしくお願いします。で、前回の続きです。ふるさと維新館の続きで、解説員の話のところです。「この中央のシアターの前に、模型があり、たてぎと呼ばれるまきを束ねたものを横に台のうえにのせ、みな丹田(おへそ)に渾身の力を込めて、地軸の底をたたき切るように振り下ろす練習をするわけなのですが、この練習をおこなうのは野太刀自顕流(のだちじげんりゅう)というジゲン流剣法の練習風景です。みなさんは、ご存知でしょうか?ジゲン流には実は2つあるのです。よく小説などで「チェストー!」という掛け声とともに振り下ろす剣法も野太刀自顕流です。だだし、小説ではよく混同され、よく紹介されているものは、示現流(じげんりゅう)としてですが、こちらは、このような掛け声はかけません。名前がにて混同しやすいのですが、違う剣法です。なぜ、このような名前も似通った混同した2つの流派が存在したのか、その歴史について述べます。じつは、野太刀自顕流の方が歴史は古く、約1000年前伴兼行(とものかねゆき)が始祖とされ、当初は野太刀流(のだち)といい、伴兼行さんは、968年に薩摩国鹿児島郡神食村(かみしきむら)に総追捕使(そうついぶし)に着任、その後ひ孫の兼貞(かねさだ)が弁済使(べんざいし)として、大隈国肝付郡(きもつけ)に移住、肝付氏を名乗るようになる。その数代あとの肝付氏の子孫の弟が薬丸姓(やくまる)を名乗り、曽於郡大崎の城主となり、本家肝付氏をささえつつ、野太刀流を伝えていくことになるので、薬丸流ともいうようになる。じつは、この肝付氏は、薩摩の島津家とは400年にわたるライバル関係になるので、実は薩摩の敵国の剣法なのです。このライバル関係がおわるのは、(前回お話したときに出てきた、)島津忠良公の子貴久(たかひさ)の時であり、島津家は、いろは歌にあるように、決して敵国の者は冷遇はしないので、この肝付氏・薬丸家も島津家の家来となります。このときの薬丸家は、壱岐守(いきのかみ)といい、関が原の合戦で、島津義弘公の敵中突破・帰国の際、伊賀上野城(いがこうずけじょう)にて、敵をきりさき、大活躍をしているという、因果があるようです。これに対し、示現流は、東郷藤兵衛(とうべえ)肥前守(ひぜんのかみ)重位(ちゅうい)が祖先で、もともとタイ捨(しゃ)流の使い手も、御膳試合でやぶれ、限界を感じ、1587年、島津貴久の長男義久公に従い上洛した際、曹洞宗天寧寺(てんねいじ)の善吉和尚に出会い、常陸(いまの茨城県)の國の神道流の分派の剣法「天真正自顕流」を学び、1604年ふたたび、御膳試合をおこない、タイ捨流の相手を圧倒し、薩摩藩初代藩主家久(義久公の弟義弘公の長男)の師範となる。ここにおいて、家久公は、名前をつけなおすこととし、家来の、大竜寺の文之(ぶんし)和尚に、考案させ、法華経の経文中の「示現神通力」より、示現流となりました。そして、上級武士の間で普及することとなりました。と、いうところなのであるが、ここから、混同するようになるのは、この示現流に、薬丸壱岐守の孫の兼陳が入門することです。これは、東郷さんが、初陣を飾った際、薬丸壱岐守の助けがあったといい、孫を鍛えるため入門させたのですが、実際、5高弟の一人となり活躍、その後も、6代あとの兼富(かねとみ)まで示現流できたえますが、その傍ら、野太刀流をきたえていました。ところが、その子兼武は、示現流の門下生にはならず、野太刀流をきわめ、あらたに道場を開き、道場破りをつぎつぎやぶり、ここにいたり、剣法を改名、野太刀自顕流と名乗るようになります。しかし、これが、島津家や、示現流一門の反感を買い、島流しにあいますが、下級武士・郷士の間で、広まるようになります。そのご、許され、鹿児島に帰った後さらに広がるのです」といったわけで、いろいろとこみいったわけありの2つの剣法なのでした。次は、薬丸自顕流と歴史とのかかわりについての話が続きます。
2006年09月14日
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大変ご無沙汰しております、くまです。いつも気にはしていたのですが、母の病状を少しでも改善させようと、転院、そこで、なんども窒息しかけて死にかけたりしたので、一日仕事前の朝・終わったあと夕と2回通院して、気管にはいったチューブの痰を取ってました。そこでも、母の病状は正しく理解してもらえずでしたが、リハビリスタッフの進言と母がタイミングよく気管チューブを抜いてくれたおかげでその後も問題起こらず、見事に口呼吸となり、そこからとんとん拍子にリハビリ・嚥下機能の改善が見られ、食事もしっかり口で食べられるようになり、経鼻胃管もぬけ、歩く練習までできるようになり、また、しゃべれるようになりました。んま、リハビリの先生はちっとも信じてはいないようでしたが。話してみると、ここ2-3年の記憶がとんでいるようで、また、現状認識にややかけるところがありますし、一晩寝ると前の日のことは忘れてしまっていますが、それでも、反応があるのはちょっとうれしいですが、ちょっと複雑な気分ではあります。そんなこんなで、母は、4ヶ月前と比較すると信じられないほどよくなりました。あとは、しっかりと話ができればなおよいのですが、、、、よくなる過程が、うちの11ヶ月になる子の成長とダブっているので、なんとなく人間の進歩ってみんなおんなじなのかもなあと思ってみたりしてます。というわけで、この4ヶ月の報告をいたしました。全く更新しないにもかかわらず、多数の皆様に閲覧いただきありがとうございました。そして多くの方に励ましのお言葉をいただき大変感謝しております。自分はまだまだ不足するところの多いものですがこれからもよろしくお願いします。また、鹿児島日記は、すでに旅行してから1年以上過ぎてしまって大変申し訳ございません。でも、やはりこの旅行は自分にとって印象深かったのか日記は書き留めていなかったのですが、結構まだよく内容を覚えていたりします。あの町は歴史好きにはなにか強く引かれるものがいっぱい隠されているように思います。ということで、一応無謀と思いながら続きを書きます。郷中教育のなかで広められた戦国島津家の家祖・島津忠良公のひろめたいろは歌について書くというお話でした。島津家は、鎌倉時代から代々続く薩摩・大隈・日向の守護職の家系ですが、この忠良公は、伊作地方の分家9代目で、領土も少なかった上に、3歳のときに父親を家臣に殺され、同年祖父も内紛に巻き込まれ戦死と一家の大黒柱を失っています。しかし、母親が有力な地方豪族・新納(にいろ)氏の聡明な娘で、常盤夫人といいますが、忠良公の聡明さに伊作島津家の未来をかけ、伊作の名僧の誉れの高い頼増和尚にあずけ、四書五経・朱子学を学び、その後の人生に実戦していくことになります。また、その母は、容姿もすばらしく、近隣の有力大名相州家の島津運久(ゆきひさ)と再婚、子供がなかったため、忠良がようしとなり、同地域に善政をしいたところから運が開けてきます。島津本家の勝久公に子供のないこと、周囲の有力大名のプレッシャーがつよいことから評判のよい忠良公に声がかかり、忠良公の子・貴久公が当時の鹿児島の本拠地清水城に入場、しかし、これを不服とする薩州家 実久公の激しい反抗と、離間の計で裏切った勝久公との激しい一族の争いに発展するのですが、子供の貴久公・そして孫の義久公・義弘公・歳久公・家久公らの一族および家臣の一致団結した努力でこの困難を乗り越えていきます。こうした争いの一方で、高僧・舜田・舜有と交わりさらに学を深めるともに、鹿児島の福昌寺の修復を行い、保護しています。忠良公は早くから隠居・晩年は士民・青少年の教育に力を入れたそうですが、それが、ゆくゆくは明治維新へとつながっていくわけですから、そう考えると、非常に先進的な大名だったのかも・・と思えたりもしています。いろは歌についてですが、いくつかあげると、○いにしえの道を聞きても唱えてもわがおこないに せずばかなし →偉人の教えをならったことは実践しなさい○はかなくも明日の命を頼むかな、今日も今日もと学びをばせで →明日に仕事を伸ばさず今日のうちにできることはやっときなさい○理も法もたたぬ世ぞとてひきやすき 心の駒の 行くにまかすな →たとえどんなに世がみだれても、流されずに人としてただしいおこないをしなさい○礼するは人にするかは人をまた さぐるは人を さぐるものかは 人に礼をつくすのは、ひとのためだけではない、人をさげすむのは、自分もみさげているから謙虚に礼儀正しくすること○回向には我と人とを隔つなよ 看経(かんさん)はよし してもせずとも →敵味方に分かれて戦ったあいては分け隔てなく冥福を祈りなさい(実際島津家は、戦場の使者を敵味方すべてかならず供養しています)○少しきを 足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなき 十六夜の月 →何事も欲を出さずにほどほどに満足を。満月も翌日にはかけてきます。欲深くしないようにしなさいどうでしょうか、これは一部ですが、どれもこれも現代につうずるものではないでしょうか?みんながこんな行いなら、戦争もなくなりそうなもんですが・・・次回は薩摩特有の剣法・2つのジゲン流についてかきます。
2006年09月09日
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先日、ひさしぶりに書き込みをしましたところ、100人を越える方の閲覧をいただき、また励ましのお声を頂きほんとうにありがとうございました。母の病状を見るたびつらくなることはたびたびあるのですが、地道にがんばろうと思います。今後ともよろしくお願いします。また、楽天のブログでお世話になっている方のページにはなかなか書き込みにいけなくて申し訳ございませんが時間に余裕があるときにまた書き込みさせていただきますのでよろしくお願いいたします。また、先日久々に書き込みしたせいか、一部わかりにくい部分があったかもしれません。近況のところのまるめの意味は、簡単にいうと定額医療のことで、一月の治療費が定額で、(状況にもよりますが)その間いろいろなアクシデントや病状の変化でいろんな検査・投薬の追加があっても変わらないため、場合によっては、一定額を超えてしまい医療機関としては減益となり、当然その一定額が減額されることは、医療機関の死活問題となりサービス低下につながるわけです。旅行記その17にでてくる8公2民についてですが、検地により見込まれる年間の収穫量について、そのうちの8割を年貢として薩摩藩に納めるというもので、不作で有ったときは農民にとっては非常にきついものであったのでは、、、本当に生きることができるのか?と思ってしまいます。薩摩藩(今の鹿児島県)では、明治維新後も士族と農民では格差が是正されず、そういった意味で、差別意識が長く続いたそうです。ということで、郷中(ごうちゅう)教育の続きです。解説員「郷中教育は、年長のものが年少のものに、礼節・徳・人間としての基本的素養・振る舞いを教えたそうです。特に薩摩では、見苦しい振る舞いや卑怯な振る舞いがもっとも嫌われ、郷中教育の基本には「負けるな・嘘をいうな・弱いものいじめをするな」の3つの基本を武道・遊びのなかから教えられるのです」ということで、郷中教育の組織についてですが、郷(方中)といわれる土地の単位の6歳~25歳ぐらいの子が集まり、そのうち以下のように区分された。稚児(ちご) 小稚児(こちご)6歳~10歳 長稚児(おせちご)11~14歳 15歳(稚児頭)二才(にせ) 14歳以後の元服した子~24・25歳(二才頭)となっており、二才が、武芸・学問を教え、、稚児のなかでも長稚児が、小稚児の指導をする形となっていました。そして、その教育の基本の心得については、創設者の新納(にいろ)忠元(ただもと)によりかかれた「二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)」と日新公(島津忠良のことで、薩摩藩の開祖島津家久公(島津義弘公の息子)の曽祖父)のいろは歌が指導の指針となたとのことです。(いろは歌については、次回触れます。)で、この二才咄格式定目についてですが、内容は、1、武道をたしなめ1、日ごろから士として身辺油断なく過ごせ1、先輩のうちに行くときは無駄に長居せず用が済んだらすぐかえること1、郷中教育については、膝を突き合わせて話し合うことが肝心である1、親しき仲にも無作法・過言は許されないものである。古風をまもれ1、議論する際は双方納得がいくまで何度も論をつめ落ち度のないようにすること1、嘘をいわないこと、士道の一番の真意である1、忠孝の道は心がけるべきであるが不測の事態のときは場遅れしないよう迅速に動くこと。1、山坂を登り足腰を鍛えよ1、二才はひげをそり前髪をそろえるほかすべてにおいて武辺を心がけ忠孝の道に背かないこと以上のことを堅く守ること。これにそむけば二才として扱わない。うーん、現在の教育にもつながるところも多々あるようにおもいますね^^ということで、次回はいろは歌の話をいくつか例にとって見てみようかと思ってます。
2006年05月01日
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ということで、久々のつづきですが、前回はふるさと維新館のメイン会場に突然あらわれた解説員さんのところでおわってしまって肝心の内容についてはまだ入っていなかったというところでしたね。ということで、話の内容に入るのですが、いろいろと驚きの事実が(ぼくとしてだけかもしれないですが)つぎつぎに語られるので自分でもその後いろいろと調べてまして、それを踏まえてお話しようと思います。(参考文献は、「薩摩民衆支配の構造」中村明蔵著 南方新社発刊・「薩摩の秘剣 野太刀自顕流」島津義秀著 新潮社新書・「西郷隆盛」田中惣五郎著 吉川弘文館ですので、こちらも参照してみてください)解説員さん「まず、この舞台の全面に置かれている小屋の前で剣術を練習している模型についてですが、薩摩の下級武士の生活の様子をしめしているものです。下級武士は、年長の子供が年少の子供にいろんなことを教える郷中教育というものが発達していまして、年長のものが、読み書き計算から武術・遊び・精神論にいたるまですべて教えるというシステムができていました。明治維新で活躍した西郷隆盛や、大久保利通らは、すべて鹿児島市内の加治屋町に集中していましたが、みなこのように郷中教育をうけており顔見知りであったのです」ということで、今回は、薩摩藩の郷中教育にまつわる話をちょっとつっこみます。薩摩藩の構成としては、藩主↓城下士(鹿児島衆中) 薩摩・内城城下にいる内政に直接関与する武士 4300人位 平均持高78石9斗↓郷士(外城衆中) 外城衆中(郷)を中心に居住している半士半農の人 23000人位 平均持高4石7斗↓家中士 郷士の家来 郷士の家来 11000位 平均持高4石と、他の藩とは全く違う構成になっています。島津家では、戦国時代の対大友戦、対豊臣秀吉戦あたりで、武士の人数差を埋めるためもともと農民であった方も武士として徴用し、これと戦いました。また、豊臣秀吉戦敗北後ー関が原敗北後徳川治世になったあともその後の反撃に備えて武士としたものもそのまま人数を維持しました。普通の藩の中における武士の人数は総人口の5%と言われていますが、薩摩藩はダントツの28%もいました。この武士の人数を維持管理する方法として、薩摩藩全体を城として、その中心に本拠地いまでいう鹿児島市に内城を置き、藩内政に必要な人員を配置、そして、薩摩藩(いまでいう鹿児島県)を郷(方中)単位として、そこに外城を設け、郷士を配置、他の藩ではお寺が管理していた藩の農民をすべて郷士が登録管理・年貢の徴収に当たらせるとともに、郷士には自作農を許可そこからは課税しないこととし、自給自足をさせるようにしました。特に島津家は武士の人数が半端でなく多かったので年貢の割合が非常に高く、他藩では、五公五民であったのが薩摩藩では8公2民という恐ろしい年貢の取立てをしていたため、農民の反乱を抑えるという目的もあったようです。また、検地も頻繁に行い、農民の少ないところへ、頻繁に農民を移動させたりして生産性を落とさない工夫をしていたようです。ということで、士族の中心であった郷士たちは郷単位で活動をしていたわけです。ちなみに江戸幕府からはやはり詰問がきたようで、○なぜ、武士がおおいのか→九州全土平定したさい雇った武士を薩摩一国にしたので割合が高くなった○城が多いようだが→外城は実際は堀とかやぐらがあるわけではないので、城としての機能はないといってかわしていたようです^^;そして、本論の郷中教育についてですが、その起源は、文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)の時のことです。島津家からは1万以上の武士が出兵、この間大人の武士がいなくなり青少年の風紀が乱れたため筆頭家老の新納(にいろ)忠元(ただもと)が青少年を鍛える組織を作ったのが始まりといわれ手いるようです。ということで、紙面が長くなりましたので、実際の組織形態・内容については次回にします。
2006年04月29日
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大変長期にわたりいろいろとご心配おかけしております、くまです。母の容態については、とりあえず、点滴人工呼吸器がはずれた状態になり4月の頭から医療のできる介護病院へと転院したのですが、、、気管チューブつけたままの状態でしたが、、、入院してチューブが2回ほど詰まって窒息して死にかけたので、一日2回通っていますが・・・片道40-50分なんで、一日2往復は結構つらいですね^^;;近場の病院をということも考えはしたにはしたのですが、4月からの医療改正によって医療療養型病棟が30万床から11万床に減らされ市街地の土地代の高い病院はすべて経営を放棄したようです。医療療養型病院の保険料もいままで一律のまるめであったのが、患者様の病状によっては、さらに低い水準のまるめになってしまい、本当にある程度医療の必要なかたの入院治療でないと大赤字になってしまうようです。病院では、もう老人はみないという政府の方針といえそうですね・・・これからは、中途半端な病気にはなれない・・・死ぬなら楽にころっと・・・といえなくもないようで。医療費そのものを安くするのは悪くはないと思うけど、医療サービスも一緒に低下してしまうのはちょっと・・・・母の現状は、2週間前からほぼ完全に覚醒状態で、こちらの話にたいしてyes/noを表現できたり、手振りを付け加えたり、一生懸命口を動かせるようになってきてます。また、リハビリでは右足は思うように動かせるようになり、いまは右上肢の動きと立つ練習をしてますが、思うように動かせないのでもどかしくてつらそうです。また立位時血圧80/40と低下してるのでこちらもなれさせないと・・・と言ったところです。意識がはっきりしてきた分、話はできるのですが、逆に身動きが取れなくてある意味非常につらい思いをさせてしまってます。みてるとときどき涙がこぼれますが、とりあえず、リハビリも一緒についていけるときはついていって励ましたり、休日はリハビリでやっていることをやってあげたりしている状態です。ということで、前よりはいいのかなあといえるかが微妙な状況ですが、それなりにやってます。ということで、これから、鹿児島旅行の日記の続きをかこうとおもうのですが、子供がおきないといいなあ^^;
2006年04月28日
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いろいろとご心配されている方もいらっしゃると思います、すいませんです。あまり私事を書くつもりはなかったのですが、少しずつ気持ちの整理ができつつありますので、とりあえずご報告します。2月4日の深夜0時すぎに母親が脳出血(視床)・脳室穿破し入院、生死をさまよう状況と成りました。現在の状況は、昨日現在では、こちらの指示にて右手が動かせる状況ですが、まだ予断を許す状況ではなく、いまだに人工呼吸器による呼吸管理をうけている状況です。2月4日もテニス番組みながら父と母と3人で鍋をのほほんと食べていた熊でしたから、父から、「お母さんが脳出血で入院した、脳幹出血だから助からない」と聞いたとき、「だれのお母さん?」と疑うような状況でした。病院に駆けつけ、検査結果を自分なりに分析し、出血部位が父親といってることが違うことから、ドレナージをしてもらい、一命は取りとめることができましたが、、、一旦意識も回復したものの、脳浮腫による再度のレベル低下がおき、いまだに不安定な状況です。実家にかえって親孝行でもとおもっていつつ、その仕事が年中無休という状況で、かえって親に負担をかけていたのかもしれないなあとおもい、仕事は本日にて退職とし、実家の手伝いをすることとしました。自分としては、いままでの感謝の気持ちを伝えることができたのと、孫に引き合わせることができたので、最低限のことはできたとはおもっていますが、、、もっといろいろできたんじゃなかったのかなあという思いはのこります。一番身近な人の死に際して、いろいろと考えたのですが、人の幸せってなんだろうなあというところがなかなか難しいなあとおもえるんですが、子供の顔をみながら思うに、やはり血が通ったもの同士が同じ空間で時間を共有し心を通わせることなんじゃないのかなあとおもいました。(ちがかようということは、親密な関係の人ということですね)ということで、自分・そして家族に時間を使うようシフトしていこうかなあとおもっています。このコラムについては、継続するつもりは変わりありません。ただなかなかつぎがかきにくい理由は、多分この旅行中でもっとも内容の濃い部分で、書くのにかなりの労力を要するためになかなかおちつかないとかけないなあとおもうからです。ただ歴史は自分の人生といいきるぐらいのものですので、これからもつづけますです、はい。あと、こういう状況でふと西郷さんのことを考えたのですが、(妄想にすぎないかもしれませんが)西郷さんも西南戦争にのぞむにあたり、同じようなことをかんがえたのかもしれないなあとぼんやりおもったりしています。西郷さんは後述しますが、ああみえて何度も死に掛けています。それを救ったのは、同郷の気心のしれた者たちの力があってのものだったわし、自分はすでに死んだみであり、自分を救ってくれた友のためにがんばろうと奮戦していたわけですが、時代が過ぎるにつれ同年代のものが次々と他界していき、同郷の大久保にも駆逐され、最後は自分の心やすらぐ同郷のものがいる地での勝ち目のない戦いを選択したのではないかなあと思ったりしています。ということで、状況がおちついていればぼちぼち書き始めますのでまたよろしくお願いします。
2006年02月28日
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ご無沙汰してます、熊です。今年にはいってまたぼちぼち日記を書いていたのですが、家族の者が入院となり、なかなか書きにこれない状況でした。これにともないちょっとまた環境が変わりますので、少しお休みします。いろいろと身辺がおちついたらまた書きにきますのでよろしくお願いします。
2006年02月10日
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ということで、また少し間があきました。気管支炎の方はだいぶおちついてきましたが、なおりがわるいですねえ・・・仕事が楽になるどころか忙しくなってるんで仕方がないですが。ということで、維新体感ホールの上映?開始です。ホール内が暗くなったかと思うと、スポットライトで前の舞台にある小屋の建物に明かりが・・薩摩藩では、地域の単位を「郷中(方限・ほうぎり)」というのがあった。郷中には、青少年が自主的に文武を学ぶ教育機関「舎」がいくつもあり、年長者の舎生「二才(にせ)頭」とよばれる年長の子が、武道・道徳・文化・時事問題を年少の子に教えるというシステムがあり、小屋の中で教える図や、小屋の前の庭で、「立木(たてぎ)打ち」といって、十数本の木を縄に束ねて横に台の上にのせ、この木を打ち下ろす武道の練習をしている模型が説明される。(このあたりの説明はまたあとで・・・)そして、くるっと180度反転?薩摩の生活が説明されたあとに、コロシアムの真ん中にある鹿児島の町の模型の一部に丸い穴があいたとおもったらスポットライトを浴びつつ等身大の洋式の軍服姿のロボット西郷さんが競りあがってきます、結構びっくり@@;そしてロボット西郷さんの口から明治維新の話が語られ始める。薩英戦争の話になると、光の嵐の演出が・・・蛤門の変のあたりの話から岩倉具視・大久保利通の等身大のロボットが出現、西郷さんと対話を始める。薩長同盟の話になると、コロシアムの座席の後ろにいきなりスポットライトがあたって勝海舟・坂本竜馬の人形も競りあがってきて、前に、後ろに西郷さんと対話を始めます。その後明治維新・西南戦争の話になり、徐々に終焉、ロボットたちも舞台から消えていく。。。こんな演出でした。いや~、ずいぶんお金かけてるなあ、、、と思います。ロボットも上記のほかに5体ぐらいあったとおもいます。へたな映画をみるよりもなかなか見ごたえのある上演回だったと思います。鹿児島にきたら是非みてくださいね、一日10回ぐらいやってるみたいなんでね。ということで、上演後三分の一の方が去った後、ゆっくり中央の模型をみていると、やおら模型のそばにそそり立つ?学芸員と思われる方がおたちになり、いきなり解説が始まった!?ということで、きれがいいので?以下次回です。
2006年01月28日
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ご無沙汰してます、熊です。昨年のクリスマスから休みなく働いて、やっと休みだなあとおもったら気管支炎になって寝込んでいました^^;ということで、続きです。鹿児島市内へのトンネルを抜けても渋滞で、次の目的地、維新ふるさと館にいくために、駅前にハンドルをきったらさらに渋滞でした^^;;駅前広場を通過時はほとんど動かない・・・なかで、横をみると駅前には、維新の英雄たちをモチーフにした明治維新の群像の銅像が建っています。さらに、橋をわたると、右手におおきな大久保利通の銅像がで~~んとすわっています。と、この辺にあるんだけどなあ・・・と探しながらぐるぐる市内をまわる。道の中央には市電はのそのそ走っていて、レトロな感じも漂っています。やっと駐車場が見つけ、のそのそあるく途中の公園に、西郷隆盛の生誕の地の石碑があり、記念撮影^^;その周辺には、むちゃくちゃいっぱい史跡への案内看板が所狭しとたってます、歴史の街だなあとすごく実感しますね。とことこ午後4時25分に維新ふるさと館に入る。コンパニオンのお姉さまたちがとてもいっぱいいらっしゃり、お荷物ロッカーに入れましょう、4時30分から維新体感ホールの上映が始まるんで、すぐ地下にいってくださいとご案内@@;いわれるがままに1階の展示物をとばして、地下へ。とはいうものの、まだ用意はできてなかったので、テーマ展示館1を覗く。維新の時代の日本での先進的なものの展示、写真機・電信・蒸気船などのモデルが展示されています。その奥には、明治維新の流れをみる立体模型の展示があります。そして、4時半になったので、維新体感ホールにいくと、どこにそんなに人がいたんだろうとおもうほど、続々と人がはいってきてあっというまにいっぱいになっちゃいまいした。このホールは中央に鹿児島の昔の町並みの模型を中心にコロシアム風のスタジアム形式になってます。コンパニオンのお姉さまのアナウンスのあと、上映?が始まります。ということで、次回に続きます。今週も多忙なので、またちょっと間があきますがすいません。維新ふるさと館のリンクはっときます^^;
2006年01月15日
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。日記もぼちぼちアップしていく所存です^^;;。とはいいつつも、全く先に進む気配がないといえばそうかも、、、現時点で連載14回目にして2日目の午後3時なり。この旅行、実は3泊4日なので、実はまだまだ続くのであります。。。ということで、高千穂牧場で腹ごしらえをした熊ご一行は、いよいよ鹿児島市内を目指して移動します。出発地点である鹿児島空港に戻りつつ森林を堪能、九州自動車道にのりまして、一路南を目指します。加治木の分岐で鹿児島方面に進路を変え、(もう一方は宮崎自動車道)九州自動車道最南端のサービスエリアの桜島サービスエリアに到着。トイレ休憩とする。同行者と、桜島見えないねえ、、、、なんか民家の屋根ばかりで、、、という話をしていたんですが、実は裏山にのぼんなきゃだめなんですねえ^^;いま、HPを調べてしりました(終わってる・・・とはいうものの、実はもやってるから櫻島山頂部は結局見えないんですけどね^^;あまり買えるものもないなあ(黒豚肉の宅配もやってるようですが、長期旅行中だから買えないしねえ・・・ということで、そうそうに退去、鹿児島市へ。さすがに鹿児島市に近づくと車が多くなりますね。指宿の砂風呂でのんびりしたいなあという欲望を抑えつつ鹿児島市インターチェンジで降ります。いきなりトンネルがあるんでばっちり渋滞です。時間帯も午後4時なんで鹿児島市内にはいっても特に駅前は車が動かないですよ@@;ということで、本日2つ目のメインイベント?ふるさと維新館へ移動します。ということで、次回から数回かけてふるさと維新について書いていきます。ではまたね~。
2006年01月01日
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うーん、いまだに年賀状を書いてないというか、書く余裕がないのです。そういってる間に書きなさいといわれそーですが。なんか、仕事でつまりそうなんで、、、息抜きで書きにきました。というわけで、つづきです。霧島神宮からのこのこふもとの駐車場まで引き返してきた熊さん御一行?であったが、この時点で昼12時30分なり。おなかがすいてきたのであります。食事場所の選択として、霧島温泉街のフレンチ・イタリアンの飯を食べる、高千穂牧場にいき、バーベキューを食べるを考えていたのですが、同行者の意見にてあっさり牧場にいくことに。車で10分もしないところにいくと、高級リゾートホテルの間をぬって走ると広い駐車場があり、到着。ナンバーをみると結構宮崎ナンバーをみかけるなり。そう、ここは宮崎県だったりします^^。でも、鹿児島の人のほうがおおかったかな??土曜日ということもあり、家族連れが結構多かったですね。降り立つとやや、小雨がぽつぽつと降り始めており、牧場の向こうもすこしもやっていて、草原が広がる、、というほどの雰囲気ではありませんでした。(天気がよければ錦江湾とかもみえるようですが)少しのぼっていくと、右手にふれあい広場があり、牛がのんびり草を食べてたり、もこもこ羊が子供にいじられ放題になってたりします。さらにのそのそのぼってくと、レストランや、体験コーナーとかの施設がある厩舎に。ちょっと小雨なんで、ひとは少なめでしたが、それでも食事時なんで、食事コーナーは人であふれてます。とりあえず、まきばのレストランに入り、バーベキュー・ラム肉セットを注文、じゅ~じゅ~焼きながらぱくぱく食べてきます。ご飯・サラダ・スープつきで、これがなかなかおいしいなり^^。ついでに牛乳も注文、うんうん、濃くておいしいなり。あっというまに食べて、飲んでしまいました。そして、売店へ。お目当てのソフトクリームを購入、休憩コーナーでぺろり。ほどよい舌触りと口どけと濃厚なミルクのあじでありながらさわやかな後味と絶品なソフトクリームなり^^。ほかヨーグルトも購入。このほか、この牧場には、乳搾り・バター・アイスの製作体験コーナーもあり、結構やってるひといましたね。ちょっと小雨だったのとまだ先があるので、そのまま次へいくこととしました。車にのるころには雨はあがりましたが。ということで、またリンクはっておきます。ということで、今年一年お世話になりました。また来年もよろしくお願いします。
2005年12月31日
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ということで、今回の内容は、天孫降臨のお話をちょっと、、、古事記・日本書紀に書かれている、日本創世記の話ですが、難しい人名のオンパレードとそれぞれの関係もちょっとややこしいですので、名前はカタカナ表記とさせていただき、また関係については、霧島神宮のHPを参考にみてみてくださいまし。すいません^^;天上界の勢力が、葦原中国(あしはらなかつくに)=日本を平定したあと、天照大神(アマテラスオオミカミ)が、太子のアメノオシホミミノミコトに「日本を統治せよ」と命じたところ、アメノオシホミミノミコトが「子供にニニギノミコトがうまれましたので、この子にまかせたいのですが」ということで、ニニギノミコトに天上界から降臨・日本統治の命が下った。この下った地が高千穂のクシフルタケ(高千穂の峰)であり、そこに由来するために、霧島神宮には、ニニギノミコトが祭られているわけです。この話には続きがあり、降臨する際ニニギノミコトは、三種の神器を賜り(八尺勾玉(やさかのまがたま)・八尺鏡(やたのかがみ)草薙剣(くさなぎのつるぎ))これが、現在の天皇家に伝わる、、、つまり、正統な天皇家の証拠となるわけで、この後、南北朝などで争奪戦の原因にもなるわけですが、、、、ニニギノミコトには、2人の子供があり、ホノスセリノミコト(海彦)→漁師となる、ヒコホホデミノミコト(山彦)→猟師となるとおのおの生活していたのが、あるときお互いの道具を取り替え、生活のフィールドを変えたところ、山彦は、釣り針をなくしてしまい、そこに海神が現れ、海神の宮につれられ、釣り針をみつけ、また、海神の娘の豊玉姫と結婚、もとの生活にもどる。海神のままに生活したところ、豊かになる山彦に、海彦が嫉妬、攻めて来るも、海神にもらった道具を駆使してこれを撃退、山彦は海彦を従えることとなる。この山彦の孫(子供の四男)が、大和政権第一の天皇の神武天皇となります。ということで、霧島神宮は、天皇家祖先降臨の地であるというわけです。また、海彦は、鹿児島の地にとどまり、ハヤト族となり、天皇に忠実な部下となります。ということで、鹿児島は非常に天皇家とつながりの強い地でもあるわけです。この後の話から考えると結構納得がいく話だなあと思います。ということで、ちょっと長くなりましたが、本日はこれまで。年末は休みなく、新年も3週目の土日まで休みが一切ないので、かきこみにこれるかがちょっと微妙ですが、皆様お体にはお気をつけて、よいお年を!
2005年12月25日
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売店の横から境内に入っていくと、左には霧島のきれいな山々の展望が眺められる展望台があり、正面には、昭和天皇が参拝宿泊された宿舎がみえ、右に本殿が見えます。まずは本殿に、、、鳥居をぬけると広々とした広場の正面に山を背景としたりっぱな社殿があり、右側に樹齢800年の御神木メアサがあります。御神木メアサは高さ35メートルあり幹周り7.5メートル、、、すご~~くでかいです@@;。全景をいれて記念写真をとろうとしましたが、あまりにも大きくて人がとってもちっちゃくなっちゃいます^^;。お清めの水で清めた後、本殿におまいりします。続いて、左横の社殿にてお守りを買いつつ、「天孫降臨」のわかりやすい本が置かれているので、2人でついつい眺め、かわいいので、購入いたしました^^。その辺のことは、後編に続きます^^;人もそれなりにおりまして、記念写真を撮ろうとするたびに、人々が通過していきます。ということで、適度に眺めた後、先ほどの坂本竜馬夫妻が登山したといわれる霧島山を望む山頂を眺めました。霧島神宮は、本当は、こちらの山のふもとにあったようですが、繰り返す噴火のために建て直しを繰り返すことを余儀なくされ、この地に引っ越してきたそうですね。いやはや、鹿児島は桜島といい、生きた大地なんですねえ、、、というわけで、同行人のつかれた~の声をききつつえっちらおっちらもどっていったとさ^^;ということで、次回は天孫降臨の話を書きます。今日はここまで^^;
2005年12月24日
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ご無沙汰してます、熊です。年末が近づき、本業が忙しくなり、あまり家にいる時間がなくなり、書き込む時間がなくてこれなくなってます^^;。で、これから書くところが2日目の第一のメインのところになるんで、少し時間がかかるところなんで、なかなか書き込めないところもありました。ということで、本編です。前回の和気神社のあいちゃんとお別れしてから、いよいよ本日一つ目?のメインイベント(2つ以上かるのにメインイベントとはいわんですかねえ、、、^^;)の霧島神宮へ向かう。いくつも山道をこえ、森の中を通り過ぎてえっちらおっちら進むと徐徐に車の往来も増えつつあり、神宮周辺には温泉街もあり、にぎわっているのもありますねえ。この時点で2日目朝の11時ぐらいです。そうこうしてるうちに、いきなり神宮の鳥居が見えてきました。鳥居のすぐ横には休憩所(観光案内所)があり、地元の農産物を売ったりしている売店があり、その前に足湯の設備があります。お手洗いに入ったあと「足湯つかってかない?」と言う声も聞こえましたが、神宮いった帰りにね~ってことで、ここから神宮に向かって歩いていく、、、という、無謀なことをしてしまいました。なにが無謀かって、、、本殿までじつは徒歩20分ぐらいあったからですがね^^;のこのこ上り坂を登っていくと、ロータリーがありまして、門前町というか、神前町がありまして、飲食店・おみやげ屋がありましたが、人影は全くなし、、、夏の甲子園の予選の中継の放送だけがさびしく聞こえていたり。さらにのこのこ歩いていくと、いきなり神宮への階段が見えてきたり。。。えー、このすごい階段のぼるのーーーって声も聞こえましたが、ここまですでに10分経過、、、戻るに戻れず、100段以上あるかと思われる階段を上る。上りきったところにまた鳥居がありまして、その横に国歌で歌われているさざれ石が飾られてます。杉の大木の並木なさらにずっと向こうのほうに社屋がみえるんですが、これまた遠かったり^^;のこのこ歩いていくと、、、ばっちり横に駐車場が、、、「駐車場あるじゃない、、、」と突っ込まれました^^;;駐車場横には売店がまたまたありましたが、あまり買うものもなく、アクエリアスだけ購入、水分補給をして本殿に向かいます。ということで、中篇へ続く。
2005年12月23日
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少し間があきましたが、続きです。滝を見たあと、滝を見るための展望所の道路を通して正反対の方向に小高い山がありまして、その上にこれまた由緒正しき神社があります。あるいてもいけるんですが、車で迂回して上ります。上り坂は車一台通るのがやっとのところで、いやだなーーーーとおもうところで、やっぱり対向車がきたりするわけで^^;のぼりきるとわりとひろ~い駐車場に車をとめ、こじんまりとした神社の境内へとあるいていく。(すぐとなりですけどね^^;)入り口の鳥居の入ってすぐ左に飼育小屋がありまして、覗き込むと白いのししが一頭せわしなく歩き回ってます。札には、「しろいのししのあいちゃん」の名称が・・・どうも、公募により決まったようですが、どこもかしこもあいちゃんブームですねえ^^。今年の漢字協会主催の今年の一字もあいちゃんのようですが、、、しばらくあいちゃんとにらめっこ、、、あまり関心がないみたいでした^^;さらに本殿にのぼる石段の脇には坂本竜馬が訪れた記念の看板!がでかでかとたてられています。石段を上ると狛犬ならぬ「こまいのしし」が両脇に控え神社本殿が構えます。きちんとおまいりしたあと、神社内にある立て看板をあちこちのぞいて神社の由来、いのししの由来を読む。奈良時代に、垂仁天皇の末裔に和気清麻呂という官僚がおりまして、このころ道鏡というあやしいお坊さんが、時の天皇称徳天皇の寵愛を一身にうけ、ておりました。これをいいことに道鏡さんは、天皇になろうと、自分の親族がいる宇佐八幡宮のご神託をうけるという形で禅譲を受けようとしました。この神託の使者に和気清麻呂が選ばれ、使者として向かったあと、奏上する際、「君臣の秩序を重んじ、皇位には皇統から選び就けて、無道の人を除去せよ」と述べ、道鏡の恨みをかい、ここ鹿児島の地へ流罪となりました。鹿児島についた和気公は、道にまよい、行き倒れになりそうになった際、白いのししの大群が現れ、ここ和気神社へと導かれた(道鏡事件)。という話があるそうです。この近くには和気公の遺跡と、日本最古といわれる和気公の入られた温泉があり、ここは個人所有物ですが、入れるようです。ちなみに、和気公は、称徳天皇が崩御されたあと道鏡が失脚、桓武天皇の代となり、再び京にのぼり、平安京建設に携わることになります。ということで、今日は盛りだくさんになりましたが、関連するサイトにいろいろとリンクをつないでおきますので、関心があるようでしたらのぞいてみてください。ということで、以下次回です。
2005年12月14日
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またまたちょっと間があきました。先日の土曜日、ネットのお友達のかずささんが、初めてのCGの個展を開いたとのことで、岡山に日帰りで行ってまいりました。生で、しかも大きくしてみると迫力と質感がさらに際立ち増すねえ^^ということで、夕ゴハンまでご馳走になりました。ありがとうございました、かずささん^^。ということで、岡山近辺に住んでる方はみにいってみてはいかがでしょうか?ということで、続きですが、、、次の行き先は同行者のリクエストにて、犬飼の滝へ行きました。道路脇に展望場所があり、そこから望む滝は遠めで見ても非常に落差があり、立派なものでした。妻「直接滝つぼまでみにいきたいよ~」自分「妊婦さんがこのがけをおりるのは危険です」とあくまで冷静に答えるわたしであった。決してめんどくさいとはいわない、決して、、、、実際のところ、展望場所のすぐ横は急激ながけになってて、100mぐらいはあろうかと思われる下のほうに滝から流れる川になってます^^;ちなみにここも坂本竜馬夫妻がたちより滝を眺めたそうです。ということでリンクはっときます。今日はちょっと内容薄かったかな^^;ということで、以下次回。
2005年12月13日
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前回は、またまたタイトルナンバーを間違えてしまいダブっちゃいましたが、そのまま続けます^^;前回お話した、坂本竜馬の新婚旅行の経緯について少し書きますね。坂本竜馬は、ご存知のとおり、江戸幕府が、第二次長州(いまの山口県)征伐を行った際、薩長同盟(いまの鹿児島と山口県)をまとめる仲介役を務め、影で明治維新のシナリオを紡いだ幕末志士の土佐藩(いまの高知県)の浪人です。さまざまな交渉を行うため、京都に滞在することが多かったのですが、その際ほとんど面倒をみてくれていたのが、おりょうさんでした。そして、新撰組が寺田屋を襲撃した際、坂本竜馬も手傷を追いながら屋根づたいに逃げたものの、手傷は深く、京都府中で動けなくなっていました。この際討ち入りの情報を聞き危険を察知したおりょうさんは、薩摩藩の京都の屋敷へ駆け込み、竜馬の救援を呼び西郷隆盛さんが京都府内へ救援隊を派遣、坂本竜馬を無事保護して薩摩藩屋敷内にて庇護・この看病におりょうさんもつきそいました。これがきっかけで、結婚することとなったようですが、この療養目的にて、西郷隆盛さんが、鹿児島に療養してきなさいということで、鹿児島旅行をし、指宿(いぶすき)からこの塩浸温泉を訪れた後、霧島山の登山をしたといわれます。ということで、塩浸温泉の前には2人の銅像があり、入った温泉はいまは入れないようですが、となりの公共温泉内にあるようですが、直接ははいりませんでした^^;、一応リンクは張っておきます。ということで、記念撮影し、ちょっと川遊びをしたあと、次の場所へいどーです。ということで、以下次回です。
2005年12月10日
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少し間があきましたが続きです。翌日は、川のせせらぎの音で目覚め、前日決めていた露天風呂に入りにいきました。男女わかれており、着替える場所は割りと簡素ですが、露天風呂は、洗い場も湯船も非常にひろびろととってあり、とっても開放的です。男湯は、川側に、女湯は山側にありまして、ここでもかわのせせらぎをききながら、のんびり入れます。お湯の温度は内風呂より高めですが、こちらもよくあったまってきくな~ってかんじですね。もちろん、こちらも、うちたち以外はだれもいなかったので、女風呂も覗きましたが、広さは男湯とおんなじでとても広く取ってありました。朝食は夜と同じくおいしいご飯と豆腐・油揚げいりの正統味噌汁、焼き魚・のり・温泉卵がついていて、ラインナップは不通だけど、おいしかったですね^^。食事後は、かわのせせらぎを聞きながらやっぱりまったり3時間ぐらいごろごろしてから、出発することに。天降川にそって山沿いの山道をのこのこ上流に走っていく。対向車線の車も、後ろからもほとんど車の影もみないままのんびりドライブ^^。目的地は塩浸(しおひたし)温泉です。ここは、日本で初めてといわれる新婚旅行で立ち寄ったといわれる温泉で、その立ち寄ったといわれる人は、明治維新で奔走した坂本竜馬と、その奥さんのありょうさんです。というわけで、鹿児島旅行をえらんだ理由のひとつは坂本竜馬の新婚旅行の地を訪れようということでした^^;次回は、そのあたりの話をちょっと書きつつ続きをかきますね。では。
2005年12月08日
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前回はいきなりタイトルのナンバーを間違えてましたが、んまきにせずそのままかきすすめます^^;おりはし旅館ですが、HPにあるようにかなり古い旅館で、与謝野晶子夫妻など明治の有名人などが宿泊しているそうです。たしかに日ごろの喧騒を忘れてのんびりするにはいいかなあと。案内していただいた方によれば、今日は宿泊者は本館はうちだけだそうで、温泉はかしきりですよー、男湯・女湯好きなようにはいってくださいねーということでした。止まった日はたまたま(木曜日)だったのでお客さんがいなかったそうですが、週末を中心にいつも満杯なそうです。ということで、他のお部屋も覗きに^^;いずれもふすまでくぎられているだけで、すべて畳敷きの6条のお部屋が2階に3間、1階に1間ありました。雰囲気としては、旅館というイメージよりは、普通の旧家のお部屋という感じでかしこまった感じはあまりないですね。ふすまをすべて開放してあれば、開放感も満点で、自然に囲まれてる感じがよいですね。その後、本館のフロにおそるおそる覗きにいくと、、、当たり前のようですが誰もいませんでした。男湯と女湯は壁をはさんで対照になってて、つくりは全くおんなじでした(いや、そんなにまじめに実況しなくてもいいんですが^^;)2人でのんびりフロで汗をながしまったりと湯船にはいると、体の芯に訴えかける感じのいい湯でした。この段階で4時ぐらいですが、徹夜だったのと、長旅と仕事つかれと、えーとえーとんま、つかれはててたので、2人はまどもふすまも全面開放常状態で食事の時間の6時までお部屋でごろごろしておりました^^;お食事のほうですが、、、山女の塩焼き、山菜のおひたしにてんぷらと奇をてらったものはないのですが、味付けは薄味で自然の味がよくひきだされてておいしいしヘルシーな食事でしたね^^1つ1つの量はそんなになかったのですが、品数も豊富だし、ゴハンも味噌汁もさりげなくうまい、、、よき家庭のうまい食事というかんじでした。持ってきた方いわく、新館にある傷湯はいいですよー、すごくすごくいいです。午後8時までなんで絶対入ってくださいねーということで食後にひろい敷地内をうろうろと新館へ、、、いこうとしてたら入り口がわからなかったりしてぐるぐるまわってたり^^;この旅館の売りの傷湯へ入ってみると、こちらは本館とはちがって湯船がとても広く取ってあって、風呂のふちには湯の花がいっぱい付着していてみるからにいかにも濃そうな感じでしたが実際にかなり体にしみいるかんじでまろやかながらすごくじんわりとききます。すこしぬるめですがとてもあたたまり疲れがとてもいえる感じでした。ということでお部屋にもどると布団がしいてありまして、そのまんま寝てしまい、あんまり記憶がないです、、、はい。ということで、以下次回です。
2005年12月04日
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とてもご無沙汰しています、熊です。7月から職場移ったのですが、めちゃくちゃ忙しいです。休日は当然なしです^^;。10月には女の子が無事うまれました。自分そっくりですね、、、やっぱり親ににるもんですねえ。wifeの実家にて元気にしているようですが、あまりみにいけてないですね^^;;筆をとめてから4ヶ月もたってしまったのにそれでも見に来ていただいてる方がいらっしゃりとても感謝しております。いままでのように大作日記は1日2時間ぐらい使ってたので、短時間に短い日記にしようかなあとおもっています。続けれるようにはしたいですが、、、(でも忙しいながらも自分の中の歴史熱はかえって強くはなってますね)鹿児島のおりはし旅館、部屋にはいるとこでおわってましたが、つづきです。入ると6畳2間の畳敷きで角部屋です。おりはし旅館のHPの本館の写真が写っているところそのものです。障子で囲われたその外にはあるくときしむどころかゆれて傾きそうな感じの木の廊下があり、エマニュエル夫人(古いなあ)の映画にでてきたような網上の椅子からは、旅館の庭とその外にある川・橋・山々の風景と川のせせらぎの音だけが聞こえる極上の自然観でした。ついでに、廊下のすみにある押入れの戸には、、、「むささびがすみついてます、あけないでください」の張り紙がしてありました。いやー、ほんとにすごいですねえ^^;;障子の上の欄干?にはいろいろと有名人の張り紙がしてあり、江崎玲於奈さんのものもあったのですが、なんだかわけのわからないコメントだったり、、、(たぶん違う理由でかかれたきもしますが^^;)この部屋にくる機会があったらみてみてください。え、かいてよーという要望がおおければ書きますが^^;一応冷蔵庫とテレビと、土壁を強引につきやぶって土壁にあやしくぶらさがっているエアコンと最低限の装備はついており、そんなにこまることはないですが、、、テレビみるより川のせせらぎききながらのんびりのほうがいいですね^^。案内していただいた方はもともと横浜にすんでる方でスキーがすきだそうですが(いえいえ、けっしてギャクではないですよ、ギャクでは^^;)結婚してこの地に移り住みかなり経つそうですが、周りはなにもないし、旅行にもいけないわでどこがいいのかなあ、この旅館とのたまうていらっしゃいました、、、いやはや、謙虚な方ですね^^;;んま、住み着くには町はとおいし、コンビにすらないしで不便なことはまちがいないのでしょうがねえ。。。ということで、お部屋の様子をかいてみました。あとで、リンクも張っておきますね。ではまた。
2005年12月03日
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熊です。ひさびさにかきにきました。仕事は結構しんどいですねえ。朝もめっちゃ早いし、5時半おき7時出勤7時半から仕事して夜はエンドレスで土日も通常と変わらないですしねえ、、、んま、自営業ともなれば当たり前のことになるのでしょうが。ということで、週末にちょっとずつ更新しようと思ってます。前回の続きからです。機内は、徹夜のせいもあって当然寝てました。ですが、いつものように高度の下がる振動で目覚めてのんびり窓をながめていると、、、おおー、鹿児島の街中の様子がみえるううう、、、と眺めていると、いきなり垂直にそそり立つ高い大地が突然飛行機下すれすれに現れちょっとびっくり@@;そしていきなり滑走路が現れドスンと鹿児島空港へ到着~、、、とおもっていると、右手にとんでもなく巨大な西郷隆盛像がこちらをにらみつけているではありませんか@@;;鹿児島空港についたばっかりなだけでもうおどろきがいっぱいですねん。ちなみに、その西郷像は西郷公園の中にあり、日本最大の人物銅像なそうです。結局そちらは遠めでしか眺めなかったんですが^^;鹿児島の天気はうす曇ですが、なんかねっとり湿度が高くちょっと蒸し暑いのです。まずは、のんびり空港内を見物。お土産いっぱいありました。さつまあげ(鹿児島では つきあげというようですが)や かるかん 芋焼酎・黒酢といったところが鹿児島のお土産の有名どころでしょうか。買う前にまずは同行人がおなかがすいた(午後1時半ぐらい)とのことで、山形屋経営の食堂に入り、黒豚とんこつラーメンを食す。普通のチャーシューとひかくするとちょっとこくがあるのかなあぐらいであまりインパクトはなかった。そのあとで、かるかんの元祖明石屋のかるかんを自分たち用に購入。レンタカー屋へ移動する。くだんの西郷隆盛像を横目で見つつトヨタレン○リースへ到着。サインして搭乗、、、のまえに、本日の目的地であるおりはし旅館の住所の読み方がわからなくておねえちゃんに質問する。くま「姶良ってどういうふうによむんですか??」おねえさん「ここもそーなんですけどー、あいらってよむんですよ。だいたい読めなくたってカーナビは電話番号で場所をひけるんだからよめなくたってかまわないじゃないですか」と、ちょっとつっかかる感じでいわれた、、、が、そういう機能があることもしらずにカーナビをつかってる自分も自分かとおもい、乗り込む。携帯電話に大量に記憶させた電話番号・住所を引きながら、結局電話番号で入力すると、、、ああ、あっさり^^;;というわけで、本日の目的地おりはし旅館へむかってごーーー、、、とすぐに自然がいっぱいの風景になり、急激に斜面をくだっていく。めざすおりはし旅館は、妙見温泉にあり、天降川の上流山間にあった。途中には足湯につかれる休憩所が多数用意され車もまばらなとおりを川沿いに上ると赤い鉄橋が旅館の合間にみえながら、、、通過していっ、、、、ってはいけなかったので人のおうちをかりてUターンする。赤い鉄橋は車が一台やっと通れるぐらい小さいもので渡った先の垣根の中に旅館はあった。ふるびたたてものの正面に木札で入られるときは受付にお声をおかけしてくださいとかいてあり、声をかけると奥からおねえさん?がでてきて、荷物はこちらにおいて奥の駐車場へどうぞといい、ゆっくり駐車場へ。駐車場に行き来する途中に温泉と思しき湯船を多数目撃しつつ、ふくろうの絵が描かれたおりはし旅館の暖簾のしたの引き戸をがらがらあけたら、布袋様がお出迎え、、、って、なかなか旅館の方がでてこなかったり^^;ぎしぎしおとをたてる廊下→階段をのぼり2階の客間にふすまを開けていただき入る。さて、どうする・どうなるこの旅行??といったところで、以下次回です。ただし、今週は当直が2回あるので多分更新が無理だと思いますので、再来週に更新予定です。なんだか、このブログもどうなるってかんじですがすいません。体こわれそうなもので、、、(仕事初めて体重5kgへっちゃってます^^;;)
2005年07月31日
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先週からあたらしい職場で働いています。なんでもかんでもコンピューター化されているのはいいんですけど、なんでもかんでもコンピューターに入力してからではないと動けないのが非常にもどかしく、システムになれてない自分には非常につらいですね;;仕事時間も朝は7時半から夜はエンドレス状態でけっこうきついですが、体を壊さない程度に睡眠時間はどっかでかくほしたいです。というかんじですので、ブログの更新は週末1回のペースになりそうですが、きながにみてやってくださいませ^^;で、再開の話で、関が原のはなしをすすめたいなあとおもっていましたが、鹿児島の話をわすれそうなんで、個人的な都合でさきに鹿児島の件を書きます。旅行出発の前日、仕事が終わらないために午前一時まで仕事をして帰ってきた後、館山のブログをかきこみつつ全英テニスをみていたら、シャラポアとビィーナスウイリアムスの壮絶な死闘が始まってしまいつい最後までみてたら、徹夜をしてしまい、そんなこんあで一睡もしないで、鹿児島旅行出発となる^^;バスで、羽田の全日空の発着する第二ターミナルにつくと、、、あれ、そういえば新しくできたんだよねえ、、、とまったく様変わりした羽田第二ターミナルに唖然とする。曲線を非常に意識したつくりで、エントランスは4階まで吹き抜けで天井には豪華な絵がかきこみしてあり、はいってるテナントも豪華そのもので^^;(リンクはっときます)4階の自然式食堂けけで朝食をとることにしたのですが、滑走路に沿って広く長く客席とまどが設置され、まじかで発着する飛行機のむこうはすぐに海に面していて、非常にいいですね^^お食事の方は、自然食主体ということで、味付けも薄味で素材のあじをいかすつくりとなっていました。たんぱく質はしゃけの塩焼きぐらいだったので、肉食のひとにはちょっとつらいかもです。んま、朝ごはんなんでちょうどいいぐらいでしたが。そのあとちょっとぶらぶらとお店もみたのですが、いろんなお店があり、ウインドーショッピングにはいいですね。実際にはなんにもかうものはなかったですが^^;そんなこんなで、梅雨空のもと鹿児島行きの飛行機にて11時30分羽田をたちました。以下続く。
2005年07月20日
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ご無沙汰してます。7月8日に引越しが終了し、現在引越しの荷物整理及び、住民票移転などの業務をしています。日記の継続には資料がいるんですが、引越しで散乱しているため、今しばらくおまちを^^;と、いいながら、息抜きに映画もちゃっかり見に行ってきました(いずれもレイトショーで^^;しかも2つ)一つ目は「逆境ナイン」です。とある三重県の高校野球球児が、さまざまな逆境をのりこえ甲子園出場を果たすという映画です。いわゆるすぽこんものかとおもえば、そうとばかりもいえないのですが、、、原作は島本和彦さんが17年前に少年キャプテンに書かれたものの映画化で、一旦廃刊していたものの、この映画の監督「羽住英一郎」氏(海猿もメガホンをとっている)のたっての願いで映画化されたとあって、実際原作どおりの熱血・・・すぎてわらえちゃう雰囲気が非常にうまく表現できてるのではと思います。ちなみに映画中に島本和彦さんもこっそり出演しているほか、現在刊行中「新・吼えろ!ぺん」にも羽住英一郎氏がでて、こちらをよんでから映画をみるとさらに面白いこと請け合いかと思います。(ちなみに逆境ナインは、小学館GXコミックで復刻されています。また、島本ワールドを堪能するとしたら、吼えろ!ペンもどうぞ)となんだか、宣伝みたいになってしまいましたね^^;;もうひとつはスターウォーズ・エピソード3みてきました。ねたばれになるので、中身はいいっこなしですが、これをみるのであれば、エピソード4・5・6見てる人はエピソード2・4をみてからの方が楽しめるように思います。(自分はたまたまテレビで両方みた)エピソード4の謎がすーーーっと氷解する内容です。。。といえるほど、うまく話がつながっていきますね。よくできてます。自分の感想といえば、なんだかこれでおわっちゃうのかー、、、と、脱力な感じです。エピソード4-6をみていないひとは見ないでこの3をみたあとで4-6をみてもいいんじゃないのかなあと思います。ということで、なんだか、映画の感想文になってしまいすいませんでした^^;本筋はいましばらくおまちくださいませ^^;;
2005年07月10日
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続きです。ちなみに、館山市立博物館の本館では、週末お子様に鎧着用のイベントをやっているようですので、興味のある方はきいてみてはいかがでしょうか?そのご、小山を上りつつ、館山城の天守閣へ到着・入場。こちらは、一転して、里見八犬伝の世界が広がります。1回の半分は、八犬士の紹介、そして、昭和42年から3年間NHKで放送された人形劇里見八犬伝のビデオ上映(三本みれます)がみられ、実は、このナレーションに上を向いて歩こうの坂本九が講談調に話していたりします^^さらに、伏姫・犬山道節などの人形の展示や、舞台裏について展示されています。2階には、江戸時代当時の滝沢馬琴の版本が展示され、有名な場面がきれいに展示されています。(八犬伝を読んでいったほうがたのしめそうですね)そのほか、ちょっとびっくりしたことといえば、滝沢馬琴が里見八犬伝を執筆していた後半失明したため、嫁に文字を教えながら話を書き取らせたという話で、失明寸前に書いた文字→嫁の文字にかわるページの展示があります。そのほか、昭和以降に発刊された本の展示もあります。4階からは、館山のきれいな町並み~砂浜がみられ、里見家の舞台となった館山全体をきれいにみれるほか、風がすずしくいい感じでした。(1階2階は格子戸がしめられ、かなり暑いです、冷房はなく、扇風機のみなんで、服装にきをつけてくださいませ^^;)そのご、前述の殉死した8人のお墓をお参りしつつ、駐車場へ。食事するところはほとんどないですが、どんぐりという喫茶店にてカツカレーとメロンシャーベットを食しました。家庭の味付けでいいかんじでした。1500円なり。というわけで、結構館山よかったです。近県の方は一度いかがでしょうか?ということで、予告どおり、本日鹿児島にいったあと、引越しとなりますので、しばらくお休みします。7月16日ごろには復帰しようと思っていますので、今後もよろしくお願いします。
2005年07月01日
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6月30日に現在の職場の退職の辞令をうけました。仕事を始めたころはどうなるかと思いつつ気がつくとあっというまに年単位で月日が過ぎ去りで、今日に至りました。ほんとに、大勢の方の支えによってここまれこれたのだなあと深くおもいつつ感謝の気持ちで辞令をきいておりました。あと、本当にたくさんの花をいただきました。いままでもけっこうもらってはいたのですが、ここまで多くの花をいただくことははじめてで、感謝・感激でした。次の職場でもひとつひとつ丁寧にがんばりたいとおもいます。というわけで、あじさい寺に続き、東京にいるうちにどうしてもいっておきたいところ、、、それは、里見八犬伝発祥の地とも言える館山城です。ということで、残り少ないある日、車をかっとばして館山にいってきました。房総半島の先端の方でいままでだと3時間ぐらいかかっていたんですが、館山道がかなり開通してきて、君津ー富津間以外は完全に開通したため、館山まで2時間と以前よりも楽に行けるようになったように思います。館山市内にはいると、「北条」という土地の名前もあり、対岸の北条氏の影響を感じつつ、館山城へ。狭い入り口を入るとそこそこ大きな駐車場があり、小山をのぼる途中で分岐・館山市立博物館があります。なんか、城のほうへは人はあるいていくんだけど、博物館は、、、人気のない博物館にはいると、吹き抜けのエントランスのすぐ奥に展示室が。一回の展示室の半分が戦国里見家の興亡について展示されていました。そのほかは、、、縄文土器の展示と江戸時代の生活の展示でしたが、、、里見家は、上野国(いまの群馬県)の出身で鎌倉時代に新田氏の一族の一人が榛名山のふもとの里見という土地に住み着き里見氏を名乗ったのが始まりといわれ、室町時代後期、鎌倉公方(将軍の関東代理みたいな役職)の足利成氏に仕えていたさい、成氏は関東管領(鎌倉公方の執権みたいな職業)の上杉氏と対立、上杉氏の支配地域である安房の国に送り込まれたのが始まりだそうです。その人の名は里見義実といいました。その3代くだり1500年代にはいると本家筋の里見義豊は1533年突然叔父の里見実堯(さねたか)を殺害し海上の権益をてにいれようとした(この当時の状況を説明する書状飾ってあり)ところ、そのこ里見義堯(よしたか)は、北条氏の支援を頼んで逆に滅ぼし、傍系が家督を継ぎ、これを契機に一時上総(千葉県北部)まで支配をひろめ、上杉謙信と連携しつつ(上杉影虎の書状の展示あり)逆に北条氏に戦いをいどんだものの、海からの直接の安房の攻撃を受けたり、1564年の国府台の合戦(千葉県国府台)にやぶれたあと、家来の離反もあり徐々に勢力をおとし、1577年に北条氏と和解・逆に交易をするようになった。その後里見家内の家督争いをおこすものの、1580年里見義頼が征したあとは、安房支配をかため、豊臣家・徳川家と仕え関が原でも東軍にて上杉景勝索制の兵も出兵12万石の大名となりました。そのご、徳川との交流を深めるために家来の大久保忠隣の孫娘をめとったところ、1614年大久保忠隣の失脚とともに安房の国没収(家来の江戸からの慌てふためく書状の展示あり)となりほうきの国(いまの鳥取県倉吉市)に移され、子供がないためお家断絶となってしまいました。このとき、8人の家来が殉死しましたが、そのご、里見家の子孫が鳥取県に行き、ひそかに骨を持ち帰り、館山城の裏にお墓を建て祭ったのですが、この8人をモデルにしたのが南総里見八犬伝ということだそうです。ということで、スペースとしては狭いのですが、非常に丁寧な考察が成され手つくり感のある、いい博物館だなあとおもいつつ、あとにしました。一旦、しめます。
2005年06月30日
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引越し前にやりのこしたリアル業務が収拾がついていないので、本日も書き込めない状態です。7月1日~4日に鹿児島へいき、7月7日に引越し予定ですので、6月30日までに、人取橋の合戦・摺上原の合戦の書き込み、先日日曜日の館山訪問のきろくについて書き込む予定です。
2005年06月28日
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7月引越しの予定で、引っ越したらいけないようなところにいこうとおもうところがある中に、千葉県松戸市にある本土寺がある。12年ぐらい前まだ学生だったころ1年ほど花をテーマに関東近辺をめぐる旅をしていたことがあり、その中にあじさいのいっぱい咲く寺として遠征した覚えがある。(去年は、鎌倉の長谷寺に遠征、丘の上から海を背景に斜面にひろがるあじさいはすばらしかったですよん)ということで、リンク先の情報からあじさい満開情報あって車をかっとばしていってきました。ついたのは午後3時半でしたが、参道にはまわりにはなんにもないのに、人だかりで車を通れないほどに。裏の農家の臨時駐車場にとめさせていただき、家の庭をとおって山門へ。1対の立派な赤い仁王様の間をとおり、まだ若いもみじの茂みをぬけ、あじさいに囲まれた入り口チケット売り場にて一人500円にて入場。左手に塔の裾野に広がるアジサイの波^^♪そして、本道に向かう途中、臨時の塩瀬のまんじゅう売り場(朝顔饅頭販売中)を横目に本道へ。こじんまりとしつつ中はひろいお堂におまいり裏庭にいくと雑草?なみにはえてるたくさんのあじさいのなみなみなみ、、、ひなたのあじさいはちょっとあつい日差しにからからでしたが、日陰のアジサイはあわいながらもきれのある青・ぴんく・紫のコントラストが映える色のうずでした。裏にはをゆっくりくだると、中庭の菖蒲園が一面にみえ、さきみだれる池に遭遇、まわりのアジサイがきわだたせるつくりになってました。さらに表の庭には、お堂の前にかわいいほうきをもったお地蔵様とお稲荷様が鎮座そして、こけのじゅうたんの上にもみじの木々が参道を形成、その先に滝といけが^^きもちのいい滝の音とこけの青をぬけると、入り口の塔にむかって斜面いっぱいにひろがるアジサイ・あじさい・あじさい。。。いやいや、もうこれはすばらしかったです。人もいっぱいきてましたが、外人さんも大勢訪れあじさいを堪能させていただきました。ということで、本筋は前半のクライマックスにあるにもかかわらず、途中でとまっててすいませんが、本日も都合にてかけないじょうたいで^^;次は、火曜日朝に更新する予定です
2005年06月25日
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伊達家の続きです。代が変わって15代晴宗公が、新府・米沢城に入ると、奥州探題になり、名実ともに東北を代表とする大名となる。軍事行動は積極的には行わなかったものの、婚姻戦略はぬかりなく、晴宗公は、岩城氏久保姫(岩城重隆の娘)との間に6男5女をあげ、男はそれぞれ岩城・留守・国分・石川の伊達家内の国人の子として送られ伊達家臣団の骨格を作るとともに、女は、二階堂・芦名・佐竹氏らの夫人となる。そして、この女性たちが先述した、芦名盛興・盛隆氏の夫人・佐竹義重氏の夫人となり、後に、独眼流伊達政宗公と対峙血筋であるにもかかわらず、攻撃の対象となり、特に二階堂氏に嫁いだ伯母もその悲劇に巻き込まれ、二階堂氏が滅びるときも救援をうけず、節をとおした。16代輝宗公は晴宗公からの引継ぎの際永禄年間に父と争い内紛の原因となった中野・牧野氏を粛清・対外的には北に進んで、相馬氏と戦い、会津侵攻も画策。また、山形城主最上義守の娘義姫と結婚(姫の祖母は14代たね宗の妹)二男二女をもうけた。その嫡男が独眼流伊達政宗となり、次男はのちに兄にうたれる小次郎であり、女子は二人とも早世している。こうして、東北の争乱の中心人物である伊達政宗が登場となる。
2005年06月23日
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正直、あまり書きすぎると関が原からどんどん遠ざかるきがしますが、いろいろと調べていて伊達家のある意味戦略的な(めちゃくちゃな?)婚姻政策が微妙に東北の大名同士の関係に影をおとしていることは避けてとおれそうもないので、ある程度きちんとかきます。伊達氏は、芦名氏と同様、源頼朝の奥州征伐に参加し、その功により、伊達郡に所領を与えられ、その後伊達氏を名乗るようになった。9代目の大膳大夫政宗(先代の政宗)は、岩清水善法通清法印の娘を娶ったが、3代将軍足利義満の生母も通清の娘であるので、将軍は、大膳大夫政宗の義理の甥の立場にあり、1400年、幕府と呼応して鎌倉公方(関東を仕切る将軍家代行のような立場で、当初足利尊氏の弟が着任も、はじめっから仲が悪く、このころから反乱をしばしばおこすようになり、将軍家からの征伐命令を受けるようになる。このことが永享の乱、しいては応仁の乱の序曲となっていく)を挟撃するなど、将軍家との連帯感を深めている。その後徐々に幕府要人に莫大な貢物を送り東北地方の探題クラスの地位を狙いつつ1523年、14代伊達たね宗(伊達政宗の祖父)は、陸奥国守護職に任じられ、東北第一の実力者となる。たね宗は芦名盛高の娘を娶り、14男7女をもうけると、すべてを政略結婚につぎ込んだ。すなわち、相馬・芦名・大崎・葛西・二階堂・田村など奥州の諸大名に子女を送り込み、奥州第一位の地位を固めたが、その結果、逆に諸大名の重臣の反発を受けることもあった。さらに、15代晴宗(伊達政宗の父)が、たね宗との抗争を始め、天文の乱がはじまり、7年にわたる抗争ののち、たね宗の引退、晴宗の米沢への居城移動となる。
2005年06月22日
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お仕事終わってのどの調子が不良な熊です。そういいつつ、早寝したあと、全英オープンテニストーナメントとサッカーをみながら書きます^^;前回の日記の中でたびたびでてきた芦名氏は、源頼朝の奥州征伐に参加して会津に所領を与えられ後に黒川へ進出・本拠としていた。盛氏の代に分国を統一し、その所領は、陸奥南部から越後に及び、田村・二階堂・白河・畠山氏ら周辺大名を服属して一大勢力となり、1558年従5位下修理大夫に補任されている。盛氏の子盛興(もりおき)に伊達晴宗の娘を迎えて妻とした(伊達氏のところで後述しますが、佐竹義重の妻の姉にあたります、、つまり義重も伊達家から妻を娶ってます)。盛興は、わずか26歳で病死すると、二階堂氏の次男を嫡子とし盛隆となのらせ、盛興の妻を室とした。しかし、1584年、盛隆は、家臣に殺され、そのこ亀若丸も3歳で早世する。亀若丸の死亡直後に佐竹義重は、妻の姉にあたる亀若丸の母のために弔問している。このあと、芦名家は芦名四天王といわれる四家老が代行するが、佐竹・伊達派にわかれて激しく争った。この争いに、亀若丸の母と官位をりようして豊臣秀吉配下の石田三成の政治的介入をうけて1587年先述の義重の次男で白河城主となっていた義広を芦名盛隆の娘を娶り黒川城主・そして芦名氏の名跡を継ぎ芦名盛重となのり、これにより、佐竹義重は会津を完全に掌握、芦名・白河・二階堂・石川・岩城・相馬氏を服属するとともに、伊達政宗との対決が表面化することとなる。また、芦名盛重を黒川城に入れるとき、佐竹家の家臣もいれたが、これが芦名四天王との確執を生み、伊達政宗の介入をうける原因ともなる。以下つづく。
2005年06月21日
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19代佐竹義重公が、家督を譲り受けた状況は非常に厳しい状況にあった。南の関東には小田原から関東に支配をひろげてきた北条氏の手が忍び寄り、北は、白川地方に根拠をもつ白河氏・会津若松地方(若松は、のちに赴任してくる蒲生氏郷氏のもといた近江・滋賀県の地方の名前をつけたもの)芦名氏に挟まれ、なおかつこの両勢力は同盟を結び挟撃してきた。これに対し、義重公は、まずは近隣国の平定に着手、1569年いまの茨城のつくば地方に勢力をもつ、小田氏を宇都宮氏と協力してくだし、1572年、いまの栃木県那須地方に勢力をもつ那須氏を内乱に乗じて介入、那須家の娘を義重公の息子義宣に迎えること、所領の一部を佐竹に譲ることで和睦した。北条家は4代目氏政公のころから下総(千葉県北部)常陸、下野の侵略を開始した。1671年陸奥南郷に、白河氏・芦名氏に攻め込まれ、これに対応し義重公が出兵したさい、その背後をつくように北条氏政公が侵攻、義重公は、反転して鬼怒川を挟んで対峙・激しい攻防が行われたが決着がつかなかった。翌年も陸奥南郷に、また白河氏・芦名氏に攻め込まれ、さらに転戦、赤館・寺山を占領したところ、宇都宮氏の重臣皆川広照氏が北条氏に内通反乱を起こしたため、再び転じてこれを平定した。このようにしばしば挟撃をうけピンチを迎えたが、1575年2月、白河家につかえていた佐竹の旧臣和田昭為の返り忠にて白河城をおとし、また、このころ義重公は上杉謙信・織田信長と親交を結び、1576年佐竹氏の源氏の部門を認められ信長の奏上にて義重公は、従5位下常陸介に任じられ権威をうるとともに、1577年白河氏の背後で操っていた芦名氏と上杉謙信公を通して講和に持ちこんだ。これをきっかけに佐竹家は、織田家→豊臣秀吉と友好が行われるようになった。この講和の結果、このときの白河氏の大名白河義親氏は引退、佐竹義重公の次男を養子とし次の城主とし、1579年白河城に入った。こうして北部は一時安定したが、北条氏の攻撃は連年のように繰り返され、1584年には、北条氏直公は総力を挙げて来攻、これに対し義重公も周辺大名を結集、渡良瀬川をはさんで対峙、このとき義重公は8680丁もの鉄砲を用意して対抗、勝敗がつかず、講和。佐竹氏の実力を示すこととなり、その後北条氏の大規模な侵攻はなかったという。ということで、今日はここまで。火曜~水曜日は36時間勤務のため次回更新は木曜日の朝になる、、予定^^;
2005年06月20日
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いろいろと気をつけたつもりでしたけど、前回の日記も微妙に主語がびしばし抜けてますね、反省、、、今回は所かわって常陸(茨城県)で、関東での関が原の戦いでのキャスティングボードをにぎることになる佐竹氏について、もう一人の主役伊達政宗公とからめて書きます。佐竹氏の祖先は、平安時代源義光の後裔で武田信玄も義光の後裔である。義光の兄に源義家がおり、4代あとに源頼朝(鎌倉幕府初代将軍)がいます。佐竹氏が常陸の国の守護となったのは9代目貞義のころで、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕に失敗し笠置山にのがれた1331年のころである。その後代々常陸の国の統治にあたっていたが1416年13代義人公への家督相続にあたり庶子である山入氏が反乱、その結果100年にわたり、常陸の国に争乱が続いた。1490年16代義舜公(よしきよ)は、母方の実家大山氏・妻の実家岩城氏の助力を経て再び常陸の国を治め家法23か条を制定、軍事力の強化を図った。さらに18代義昭公は1557年下野国(栃木県)の宇都宮氏の内乱に介入し、宇都宮広綱公の復帰を助け、義昭公の娘を娶らせ血縁を結ぶことに成功、また常陸の国に隣接した陸奥南郷(福島県白川地方)を1565年押さえるとともに、ここが伊達家との争乱の地となる。戦国大名として雄飛する19代佐竹義重公が、1562年16歳にて家督を継ぐこととなる。(20代目が佐竹義宣であり、関が原にかかわってくる)
2005年06月19日
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昨日までの2回分読み返すとちょっと主語がわかりにくい文もあるなあとちょっと反省、加えて昔の国名なんでわかりにくいこともあるかなあと、、、ちなみに越後は今の新潟のことです。ということで、今回は関が原の導火線ともいうべき出来事を取り上げます。1581年より、上杉景勝公は織田信長軍(柴田勝家・佐々成政ら)の能登越中攻めにあい、1582年5月越中(富山県)魚津城救援のため出兵した。ところが、信濃(いまの長野県)を攻めていた森長可(ながよし)が、1582年3月武田勝頼を自刃させて、信越の国境をこえて越後(新潟県)に攻め込んできた。このため、上杉景勝公は、急遽信越の国境に近い本拠春日山城に帰城、6月2日本能寺の変が発生、織田信長は、明智光秀に攻め込まれ無念の死を遂げると、森長可は、急遽上京したため、大事にはいたらなかったが、6月3日魚津城は落城した。その後、織田政権内に分裂が生じ、山崎の合戦(大阪の天王山近く)で、明智光秀を破った豊臣秀吉が、戦後の清洲会議で、主導権を握ると、1583年3月豊臣秀吉は、柴田勝家をしずヶ岳の合戦にて、奇襲にてやぶると、越前(福井県)の柴田勝家の本拠地を攻め落城、柴田勝家を滅ぼし、1584年佐々成政を越中(富山県)で討伐した。1585年8月、豊臣秀吉は、主君の織田信長公が惨敗した相手・上杉家を非常に警戒するとともに、まともに対峙したときの損害など考え、臣従させたほうがよいと判断、大勢でいってははなしができないと、石田三成ら近習わずか38人をひきつれ突如越後(新潟)の国境に現れた。(このときアポなしでいって上杉景勝・直江兼続は非常におどろいたが、秀吉ならやりかねない、また、単身堂々と来る相手を討つのは仁義を旗印としていきていた上杉家の家風に合わないとして対談に向かった、、、という話もあるようですが、敵対する相手にアポなしで本当にいくものかとちょっと疑問もあるようなきもします)上杉景勝・直江兼続も12騎と従兵60名にて、国境の越水(おちみず、新潟県青海町)城に向かい、会談を行った。その会談も豊臣秀吉・石田三成と上杉景勝・直江兼続のわざか4人のみで行われたという。会談は4時間以上に及んだとされるが、その内容については詳細は知られていない。後世の書物では「この際における胆気と、景勝の信義とは2つながら千古の美談たり。秀吉の赤誠は景勝の心腹に入り、金石の盟一夕になり」と書かれている。個人的に思うには、この会見で豊臣秀吉は、天下の形成はすでに定まれし方向にながれており、天皇家を中心にすえた天下泰平の世について切々とのべ、天皇家に忠誠を貫いてきた上杉家の姿勢を高く評価しつつ、天下泰平のために、臣下として働いてはもらえないかという話を述べ、これに対し景勝が答えた形となったと思われる。また、この会談で、今後の問題について述べられ、この中で直江兼続も意見を積極的にのべ、家康を初めとした諸大名の状況とそれに対する戦略を述べたと思われる。この会談により、上杉家の臣従の方向性とともに、石田三成と直江兼続との義の盟約が結ばれたといわれている。石田三成の天皇家ー豊臣秀吉に対する中央の絶対的臣従中央集権と、直江兼続の天皇家を中心とした絶対的臣従という、意図が一致したためと思われる。1585年秀吉は、上杉景勝に上洛を促し、国内の内乱として新発田重家(会津の芦名家と内通)と抗争中でありながら(あったから?)上杉景勝公は5月20日上洛、6月12日聚楽第(京都)で秀吉の謁見をうけ、上杉の領国の確定をうけた。☆6月15日に講談社から原作山岡荘八・横山光輝作のペーパーバックコミック「家康・関が原の章」がコンビニ・書店で発売になっています。小山評定からあとの範囲となりますが表の関が原をさらっとよむのにはいいかもしれませんね。先月でた「家康・日蝕月蝕の章」とあわせて読むとながれがわかりやすいとおもいます。☆本日はいろいろとたてこんでおり、次の更新は日曜夜中にしようとおもいます。
2005年06月18日
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1578年、上杉謙信は49歳で脳出血のため急死する。(原因は酒の飲みすぎ?)そして後継者争いがはじまり、御館の乱(みたてのらん)このあたりの話は先の話のように女性陣の働きもあり、景勝公が真っ先に春日山城をのっとり、武器蔵と金蔵を納め先手を打ち、直江兼続が中心となって、家臣の取りまとめと景虎の姉婿である(北条氏康・氏政が武田家と同盟を結ぶために娘を武田勝頼へ輿入れさせていた)武田勝頼までも上野領の一部割譲と黄金1万両、菊姫の輿入れで味方に引き入れ4年後1580年勝利を勝ち取った。上杉謙信存命の晩年、国政の中心には、河田長親とともに直江景綱で、そのあとを、直江信綱が引き継いだが、1581年御館の乱の褒美をめぐり、山崎秀仙の讒言で褒美をもらえなかったと不満に思った毛利秀広は、山崎秀仙に切りかかり殺した上、たまたま一緒にいた直江信綱も一緒に殺されてしまうという事件が発生、直江信綱には子供がなく断絶となりそうになったとき、上杉景勝公は、直江家の断絶を惜しみ、1583年直江信綱の未亡人、先に話のあったお船の方に御館の乱(みたてのらん)に戦功が大きかった与六(兼続)と婚姻継がせ、直江兼続とし、山城守とし、与板城城主として、国政を握らせることとなった。そして、景勝への文書は必ず直江兼続を通すようになったという。こうして直江兼続は表舞台に現れることとなった。
2005年06月17日
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予告どおりに裏関が原としてちょっと書いて見ます。(メインは直江兼続で)直江兼続は、1560年、織田信長の桶狭間の合戦があった年に越後国坂戸城下(六日町)にうまれ、幼名は与六といった。この年、くしくも石田三成もうまれており、同い年であった。父は、樋口兼豊といい、上田城主長尾政景の、薪炭用人(炊事がかり)であった。これよりはやく、上杉謙信の姉綾子(仙洞院)が長尾政景に嫁ぎ1555年11月次男卯松(うのまつ)を生み、1559年、5歳で謙信の養子となり顕景(あきかげ)と改名している。この人こそ後の上杉景勝公(長尾上杉氏2代目)である。あるとき、父親にくっついて上田城にでいりしていた与六(兼続)をみ、話をした仙洞院は、その利発さを見初めて顕景の近習として取り立てて、景勝公とともに育てられた。しばらく上田城で一緒にそだてられた2人は、1575年顕景は、加冠し景勝と改名し、春日山城に入場、三の丸に住み、御中城様とよばれ、このとき与六(兼続)も上田から入った50騎組・長柄組30人の一人として春日山城に入場している。上杉謙信公は、この景勝を気に入っていたようで、いくつか書状がのこっていて、○「戦場にいる謙信の身を案じて祈祷させお守りをおくってくれてありがとう」という謝辞と、その追伸で字がうまくなっているので手本を贈るとあり、○その手本として、謙信直筆で家臣の名前を連ねた書状をおくり手本とするように書かれたも残っている。○また、鷹狩をしようと、謙信から景勝に手紙を書き、ちょうど行く途中で手紙をうけとり、その返事を景勝が書いたところ、楽しみにまっている旨の手紙をさらにかいたという書状もある。という感じで、景勝公は上杉謙信公にわが子のようにわが子のようにそだてられた。(以上上杉家文書より)それに先立つ、1561年より、北条氏康を牽制するために連年関東に遠征するようになり、関東の覇を競い合ったが、1560年の桶狭間の戦い以降、三国同盟として結んでいた、武田・今川・北条の三国同盟は、桶狭間の合戦にて微妙な関係となり、1567年、ついに同盟を破った武田信玄が今川氏真を攻めるために家康とかたらって駿河に進出、これを索制するために北条家は駿河に出兵するとともに、上杉家に同盟を求めた。この当時武田信玄の工作による本庄繁長の乱に手を焼き、1568年上杉謙信は同盟の意思を伝え、関東の支配権をめぐる問題を内在しつつ、1569年上杉・北条両家の同盟を締結した。この後、上杉謙信に武田信玄の背後をつくよう再三書状を送り、その中で1570年、北条氏康は、末子(7男)氏秀を養子とて差し出し景虎と改名され、春日山二の丸に入る。この景虎は景勝の2歳年上であった。これが後の後継者争いの火種となった。なお、北条家と上杉家の同盟は、上杉謙信が武田への出兵を行わないため、1571年破棄され、北条家は再び武田信玄と同盟を結んでいる。
2005年06月16日
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数日あいての更新です、、、理由はこのあとで^^;春日山林泉寺拝観の後は、のろのろと駅の方へ、、とこのときは2時過ぎかな2時過ぎてしまったので、飯屋は次々と店じまいしてしまい、東京暮らしになれきってた私は面くらいつつ疲れた足を引きずって市街地へ。市街地いけばタクシーでも拾えるかなあとおもっていったのですが、、、浅はかでした^^;タクシーはしってないよー、というか、あんまり市街地っぽくないし^^;一応中心街とおぼしき市役所周辺のリンクにもはってある大沼デパートへ入ってみました。うーん、ちょっとさみしいかも、、、売り場面積もちょっと手狭な感じで、、一応最上階7階の喫茶店兼レストランへ移動。米沢はちぢれラーメンが名物らしく、その冷やし番である冷やしラーメンもあったのにもかかわらず、迷わず冷やし中華(なんでだかねw;)を注文、味付けはとってもよかったですよ、こすぎず薄すぎずの味付けといい、具といい、麺もまあまあだったかなあ。景色ですが、、、米沢の東側がみえるんですが、、、日差し除けで窓には日差しよけの薄いシートがはってありました。ちょっとくらいですね。お客さんも自分含めて2人でした。味はいいのになあとひとしきり。遠くにイトーヨーカドー系列の大きなデパートがみえており、そちらに客とられたのかなあ、、、とおもってみたり。デパートにはタクシーが見えなかったけれど、タクシー会社をみつけ、そのまま駅までのってきました;;総歩行歩数2万9千歩なり。観光マップには前田慶次の供養塔や、那須与一の供養塔もあったのでいきたかったのですが、いかんせん力尽きましたのとちょうど3時6分の東京駅ゆきがくるので、米沢名物の米沢牛つかったできたての牛肉ど真ん中弁当をかって帰宅の途につきました。東京駅でもかえるにはかえる弁当ですけど、(某東北名物駅弁売り場でです)かなりの人気弁当なので、売ってることはあんまりないですね。3時45分ごろ入荷するらしく、その時分にいないとだめらしいといううわさですが、、、ということで、長かった米沢日記終了なりです。で、ここ数日はちょっとのんびりしつつ、掲示板で予告したとおり、関が原の合戦の関東版、裏関が原をかこうなかーとおもい、ちょっと本を読んでました。7月には鹿児島に行く予定もあるので、ついでに島津家の本も読んでましたが^^;ということで、引き続き関が原の話をかこうとおもいますのでよろしくお願いします。
2005年06月15日
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昨日は映画「戦国自衛隊1549」を見に行ってきました。ねたばれない程度に話すと、、、前作の戦国自衛隊のごとく激しい戦闘シーンなのか、、、とおもいましたが、、先にタイムスリップした自衛隊の救出を目的とした自衛隊の一部隊がタイムスリップ、そこにはかわりはてた戦国時代が、、、過去に生きる人間・現在に生きようとする人間・もともとその時代に生きた人間の各々の大儀・信念のぶつかり合いの延長が戦闘のシーンへと昇華していく感じです。戦国時代の映画というよりは完全なSF映画としてみたほうがいいかもしれませんが、戦国時代のスピリッツはこもっている映画ではないかと思います。配役も的確だったきがしますね、みにいくまえは友人と主役が江口洋介?という話もしてましたが、強く見えなくて強い人間を描出したということで、やはり適役だったのかなとおもいました。月曜日にみたアメフトの感想も一言、パワーと大きさで圧倒するシルバースターに対し、小兵がほとんどのシーガルズは、スピードあんど奇襲にて対抗。実際シーガルズは自陣一ヤードの戦いでは押し負け自殺点を献上してしまってましたが、それ以外は攻めでは、リバース・スクリーン・ドロー・オフタックル・ダブルパス・すいーぷ・オプション・ショベルパスなどつかえる奇襲戦法を次々と繰り出しシルバースターを圧倒、防御では、多彩なブリッツ・ラインとバックス陣を巧妙に組み合わせたトラップをはったり、それでいて、きちんとディフェンスバックがきちんとロングパスをとめるといったプレーがみられ、まさに大が小を征するといった感じでした。といったことで、今日はつかれてるので、つづきはまたです、、、
2005年06月14日
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本日は東京ドームにて社会人アメリカンフットボールトーナメントパールボールを観戦してきました。内容は後日、、、ホムペへはリンクつないでおきます。ちなみにお墓は、他にもいろいろとたくさんあり、赤穂浪士討ち入りで有名な吉良上野介に嫁入りした三姫や、討ち入りによって犠牲になった方のお墓、北越戦争により犠牲になった方(吉江家・甘粕家など)のお墓などほかにもたくさんありました。お墓そのものは万年堂とよばれる独特な形態で、正面に升目の穴があき、その中に一石五輪塔が納められているかたちになっています。そして、お寺の中へ。おばちゃんたちが井戸端会議をしている中、はいっていく「あのー、お庭を拝見したいのですがー」あー、どぞどぞー、ここあがってこの奥だからー」とささっとお話したあと、また井戸端会議してました^^裏にあるお庭を見ながら縁側の椅子にひっくり返りながら休憩^^;斜平山(なでらやま)を借景し中央に池を配した正方形のお庭で池の形は「忍」の文字形であったように思います。周囲にはつつじが植えられちょうど満開で彩をそえ、さらに、その周りに杉の木が多数が植えられ、初夏を思わせる暑さのなか、涼と癒しを感じつつ今日一日の疲れをとりながらじっくり眺めてました。そのあと、中を覗くと越後の林泉寺の山門につけられていた上杉謙信公直筆の「春日山」「第一義」の額の拓本が飾られ(本物は越後の林泉寺の宝物館にあるようです)力強い筆致が見られました。また、ご本尊のほか、毘沙門天像が大事に祭られていました。ちなみに林泉寺は、上杉謙信の祖父が亡父重景公の菩提を弔うために建立。寺名は重景公の法名「林泉院殿」より山号春日山は謙信公が上杉家を相続したあと氏神である春日大社を勧請したことによるそうです。ということで、今日もまた長くなってしまいましたので、これまで。
2005年06月14日
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今日はのんびり浅草にいってました。ビューホテルでのんびり眺望をたのしみつつ中華料理を食べ、そのあと浅草寺へお参りしてきました。いつも人いっぱいですね^^;ということで、昨日の続きです。1578年脳出血で倒れた上杉謙信公がなくなる前に元直江実綱の妻であり(とある事件にまきこまれご主人は殺されてしまってます、ご主人は元家老)景勝公の子3代目定勝公の乳母であるお船の方が、謙信公の遺言として景勝公へ相続するように言われた旨を公表し、景勝公を有利に導き、また、景勝公の母であり長尾政景の正室にして謙信公の姉である仙洞院は、景勝公の第一の家来である樋口与六(このあと、直江実綱の未亡人へ婿入りし、直江兼続となる)に家中の取りまとめを依頼し、樋口与六はその期待に答え、上杉家である直接の血筋である景勝公擁立を訴えたうえ、上杉謙信の莫大な遺産を家臣にくばり、また、ライバルである景虎公をバックアップする武田勝頼公に上野領の一部割譲と、黄金1万両、そして武田信玄の5女である菊姫と景勝公の婚姻をすすめ、ついに景虎公を自害に追い込み、武田勝頼と和睦することにも成功した。そのご、武田家が滅ぶと、高野山に亡命していた武田信玄6男の武田信清を上杉家に向かえ、重臣として用いた。また、景勝公の命により樋口与六はお船の方と結婚、直江兼続として景勝公のために生涯働く。特に関が原の合戦の結果上杉家が減封されたあと米沢の開拓・整備に心を砕き、上杉家の存続に貢献した。しかし、直江兼続は子供をもうけるもみな早世しており、お船の方と話し合いの上、養子をとらず、米沢のためすべての領地を上杉家に返上し、直江家は断絶したそうです。そして、春日山林泉寺には、菊姫の墓のほか、仙洞院、直江兼続とお船の方、武田信清のお墓があります。また、上杉鷹山公の側室お豊のかたのお墓もありました。じっくりお参りしたあと、お庭へ、、、ということで、本日も長くなっちゃったので、また明日^^;
2005年06月12日
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午後1時は回ったものの、日帰りを考えている熊は、観光優先、歩き回りました^^;次の目的地春日山林泉寺はけっこうはなれてる(やく3キロぐらいか?)ので、バスか、タクシーをさがそうと、うろうろと、目的地に向かいつつさがすと、バス停を発見、みると、1時間後に1本が^^;その次は3時間後である@@;帰りにバスに乗ろうと、がんばって歩くことに、、、ってさっき大量に資料買ってるので、ちょっと疲れてるのであります><;途中、山形大学工学部のキャンパスを横目にあるきつつ、さらに横をちらちらみてると、明治時代風の公舎を構内に発見@@、これ、手元の資料をちょっとみていると、元山形高等工業学校の本館の建物で、明治43年3月にたてられたルネサンス様式のたてもので、当時工業技術の輸入・移植で質的、量的な技術革新が求められて全国で8つの工業専門学校が設置され、その7番目の高等工業学校として立てられたものらしい。しばらく見ていてもだ~れもみにこない寂れた建物なっちゃってるようですが、時代と重みを感じるものであるとともに、米沢という土地の重要性を示す大事な建物だなあと、思いました。その先を少し行くと春日山林泉寺の看板を発見、大汗かきながら入る。入ったすぐのところの墓地の入り口にポストがおもむろにたっており、「拝観時100円いれて下のパンフレットをおとりください」とかいてあり、パンフレット取り放題?状態でしたが、大人気ないなあとおもいつつ一枚とって敷地に入る、、、と、右側に大きなテントを張った中におじさんがひとりぽつんと、山形のお土産玩具として、上杉鷹山公が開発奨励した「笹野一刀彫」を大量に展示即売しているようだ、、、ったけど、こんなに人いなくて大丈夫?と、おもってると突然話しかけられる、、、「その観音様は足が悪い人が足をさわるとよくなりますよー」と声をかけられたんですけど、、、うーん、すでに2万歩あるいている人にそういわれてもねえ、、、観音様を拝みつつ、最初に歴代の住職合祀?した石碑がひっそりとたてられ、その中に、上杉謙信の教育をしたといわれる天室光育さんの名前が。第6代住職で謙信公7歳のときから7年間徹底的に教育を施したかたで、それまで腕白放題の幼い謙信公を思慮深く、信心深い武将に育てあげ、また武道も鍛えられたようです。そして、上杉家にかかわられた夫人たちの墓地へ、、、菊姫の墓が、、、2代目景勝公の夫人にして武田信玄の5女。最大のライバルであった武田家と上杉家の間に何があったのか、、、武田信玄がなくなるときに武田勝頼に遺言されたこととは、信玄亡き後、もっとも頼れる男は上杉謙信だけだ、危機に陥ったら彼にたよれといったといわれます。敵に回せば恐ろしい男、上杉謙信公も義理堅いところ・仁侠の人であることは、宿敵・武田信玄公にも長年のいろんな交流を含めて十分認知されたんだろうなあとおもうエピソードだと思いますが。しかし、その上杉謙信公もまもなく脳出血で倒れなくなってしまいます。ところが、謙信公は信仰に厚すぎた?せいか子供がおらず、世継ぎをめぐって御館の乱が発生します。一人は、さきほどから名前がでてる景勝公で、上杉謙信公の姉仙桃院の嫁いだ長尾政景の長男で、政景の水死という事故死(これもまたいろいろといわれていることですが^^;)したあと、謙信公が養子として春日山城で育てられています。もう一人は、北条家からの養子で、休戦・同盟を提案された際にやはり養子として迎えられたのが北条氏康の6男として産まれた景虎公です。実は景勝公の妹を嫁に向かえ、上杉家に入ってきた景虎公も大事にはされていたのですが、、、上記のように脳出血で突然亡くなってしまったため、世継ぎが決まっていない問題が浮上御館の乱となるわけですが、、、ここで、上杉家の女性の方々が非常に激しく動き回るのですが、、、ということで、日記がかなりながくなってしまったので、日を変えて書き込みします^^;待て次回ということで^^;
2005年06月11日
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