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明日から、シンガポール。今、パッキングが終わって、夫からの電話を待っています。晩御飯は、久々の外食。Chilisへ行きます。本日はネールアートを新しくしてもらって、そのまま友人達とランチをしました。楽しかった~。台湾生活で私にとって大切な人物。今では私の台湾の父&母。この出会いが私にとって、とても大切なものだった。今回であらましは終わります。帰ってきたら、日記になります。長くて疲れたら、飛ばして読んで下さいね。奇しくも夫の台湾転勤が決まる前年の3月に、私の母、叔母、従姉妹、私の女4人で台湾旅行をした。何故台湾か、、、。私の叔母が『5時間以上のフライトは駄目だ』ときっぱり、さっぱり言ったからだ。そして、叔母はすでに香港、韓国を旅している。私はすでに何回か訪れているサイパン、グアムを提案したが、母、叔母ははっきりしない。『そりゃあ、若者向け旅行ならねえ~、日焼けもごめんだし』という目つきで私を見た。『じゃあ、あとは台湾しかないでしょうよ、、、、』私は何の思いも無く言葉を発していた。そしてあっさりと決まってしまったのだった。終日フリーの3泊4日という日程だった。全て私が手配した。正直何にも感動は無かったのだ。何故なら、台湾には何の興味もなかったから。取りあえず、短期の旅行なので台北市内だけの観光。フランスのルーブル、アメリカのメトロポリタン、ロシアのエルミタージュと並ぶ台湾の故宮博物館。世界4大博物館と謳われているここは外せないだろう。展示物は何と70万点と言われている。女4人、3月だというのに凄い炎天下の中、モノも言わず、ふうふうと息せき切りながら歩き回った。『やっぱり沖縄より南に位置するだけある。まさしく南国の暑さだ、、、、、。でも、寒いより良いか、、、』故宮博物館には大勢の観光客が所狭しと歩き回っていた。何組かの日本人団体にも出会った。日本語で、お宝の由来だの何だのを説明している団体専任のガイドさんの後についてちゃっかり説明を聞きながら廻った。確かに素晴らしかった。それは理解出来た。象牙やヒスイで出来た精巧な美術品。大そうな書。何かの頭蓋骨で出来ているチベットのお坊さんが使う太鼓や、足の骨で出来た笛など等。しかし、私が思い出に残っているのは恥ずかしながら、博物館内にあった喫茶店で飲んだウーロン茶と甘いお菓子の味だった。疲労がピークに達した所、4人のうちから、「もう帰ろうよ~」オーラがガンガン出ていた。4人とも互いのオーラを察知して素早く出口へと向かった。そこで私の運命の人、台湾の父となる黄さん(通称トニーさん)との出会いが待っていたのだった。通常、故宮博物館前に停車している計程車(タクシー)は結構怪しいと言われている。何かの本には、決して乗らないように、、とまで書いてあったと思う。しかしその時分、下調べもせずに来ていた私達には全く知識がなかった。炎天下の中、一人涼しげにニコニコしていたトニーさんの笑顔が不思議に何かをひきつけるような魅力があり、おまけに日本語が上手だったので早速乗せてもらう事にした。取りあえず、女同士だけど4人も居るし、、という安心感もあった。「お茶屋さんに行ってウーロン茶を買いたい」と話すと、「私、お茶のお店もしている。行きますか」と。忠烈祠に寄り、ちょこちょこと寄り道してもらいながら彼のお茶屋さんへ行った。お菓子を振舞われ、しこたま食べて、お茶を飲んだ。今までに飲んだ事のない甘いクリームの味がする極上のウーロン茶。有機栽培だという。感動ものだった。以前お茶のコンテストで賞も取っている。100グラム800元(約2400円)なかなかのお値段。話し上手、日本語上手な小姐達が、日本で販売している同じお茶の価格表を見せてくれた。そこには、何と!!!100グラム12000円の表示。5倍の値段だ。誰が買うんだろう、、、。キャッチウーロン茶売りじゃん。やりすぎだよ日本人!(台湾人かもしれないけど、、、)しかし、余りの美味しさに結構な量を買い込む私達だった。その後はトニーさんはまるで、プライヴェートドライバーのように終日お付き合いしてくれ、地元の人が行く、観光では行けないようなお店を案内してくれたり、おまけにご飯等もご馳走してくれた。こんな時だけしっかり者の私は、調子に乗ってトニーさんに「はい、メータ倒して走って下さ~い」等のたまり、トニーさんは相変わらずの爽やか笑顔で「はい、はい」とメーターを倒して走ってくれたのでした。そんなこんなで、台湾旅行はトニーさんのお陰で10倍、100倍楽しく過ごせた。最後の日、朝早くから彼は私達のホテルの前に居た。車の中にちょこんと乗って。最後のお別れにちゃんと待っていてくれたのだ。胸がキューンと締め付けられた。「ここが私の仕事場だから、、、。別に気にしないで」所詮私達は観光客。何処の世界でも観光客は言ってみればその場での人間関係で終わってしまう事も多い。私の心の中には、どこか100%彼を信じていなかった部分があった。「又来てね、気を付けて。連絡して下さい」彼からは何一つ打算的な感情を感じる事はなかった。私達は、4人ともジーンとしてしまった。頂いた名刺を大切にお財布にしまった。「もう、会う事はないと思うけど、本当に良い人だったな。トニーさん、ありがとうございました」一人でそっとつぶやいた。帰国後、トニーさんとはファックスや電話でやり取りをしていた。(あまりにお茶が美味しかったので、買って欲しいと頼まれる事が多かったから、おまけに1キロ以上買うと送料はただだった)その時、意味もなく、私はトニーさんに運命を感じた。人との出会い、日常起こる事は偶然でなく必然だ。これは私のポリシーでもある。気の合わない人、気の合う人、良い日もあれば、悪い日もある。それが生きているって事だ。とにかく自分の人生の中で出会う人達は、私にとって何か意味のある人だと思っている。余り好意を持てない人に会っても、なるべく「この人からも何かを学ばなければいけないんだな、だからこうして出会ってるんだ」と思い直す。嫌だ嫌だと思って付き合うより、幾分心が軽くなる。私のおまじないみたいなものかもしれない。縁がなければ自然に糸は切れるだろうし、縁があれば続くものなのだろうし。茶の湯からきた言葉で、『一期一会』という言葉がある。千利休の弟子、宗二が『山上宗二記』に記している人との出会いは常に、一生に一度限り。だからどんな出会いも大切に。言うは易しく行なうは難し。でも、私はそういう心持を忘れずにいたいと思っている。その気持ちとは裏腹に、私達の台湾旅行の感想は「まあ、1回行けば充分だね」であった。とにかく、眩暈を起こしそうな暑さ、至る所から漂う匂い、街の汚さ。おまけに食事も余り合わなかった。ホテルも日本人向けの所だったが汚い、暗い、臭いの3kだったし。だから私は翌年に、台湾に引っ越す等10000%考えても居なかった。不思議な気がする。Delivery (b3iyf_nl_b050) (PM 08:53)Failed (b3iyf_nl_b050) (PM 06:24)Unknown Exception (b3iyf_nl_b050) (PM 02:09)Delivery Error (b3iyf_nl_b050) (AM 02:26)
2005年01月11日
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今朝、しっかりと書き込んだのに、どこに行ったのか、全てなくなっている、、、。あああ~。ため息。でも、こうやって少しずつ慣れていくのでしょうか?ああ、、、。でも、落ち込む。一生懸命書いたのに。ショックだ。もう一回書き込みますうううう、、、。(泣)地震の後、私達は話し合った。いろいろな面から、新居の条件設定をお互いにもう一度確かめる。1)風通し、日当たりが良い事。(健康上)2)敷地内に庭がある、もしくは屋上がある事。(犬の為)3)管理人さんが英語、若しくは日本語を話せる事。(何かの時にコミュニケーションが取れないんじゃあどうしようもない)4)建物が丈夫な事。窓に頑丈な格子が付いていない事。(これは、今回の地震でも、この格子の為に外に逃げ出せず亡くなった人が多かったし、火災が多いと聞いたのですぐに逃げられるように)5)階段や段差の少ない所。(車が無いので、買い物や旅行の時に自分達で荷物を持って、えいこらと運ばなければならない)翌日、翌々日と精力的に家を見た結果考えてもいなかった場所にたどり着いた。半径数キロ日本人は住んでないみたい。外国人も全く見かけない。地元中の地元。何だか下町みたいな所だ。野良犬だか飼い犬だか見分けのつかない犬がわらわらいる。山の麓にどーんと聳え立つオレンジ色のレンガの建物。11階建てだ。例の高層ビル台北101が良く見える、歩いても2、30分かそこいらだろう、、、。散歩にもちょうど良い距離だ。その上、空気が違う。四方を緑の山、森に囲まれている。眺めも良い。おまけに11階の角部屋で、2人いる管理人さんのうち1人は日本語が上手だ。窓に格子も無い。太陽は燦燦と各部屋に行き渡っている。風通しも抜群だ。共有の大きな庭もあるし、手入れも行き届いている。プライヴェートの屋上もあった。(凄く汚かったが)3LDKの間取り。2人と2匹には充分すぎる広さだった。総面積44坪(畳88枚分)だと言う。勿論家具付きである。今までの家の中で一番綺麗で、しかも値段は今までの家の中で一番安かった。『でも、掃除大変そうだな、、、、』先ず、そう思った。あの大きな地震の後に見に行ったが、台所の引き出しが1箇所2,3センチ開いていただけで他に何もダメージが無かった。D氏曰く、このアパートを設計して建てた人もここに住んでいるとの事。『これは、安全って事の証明にもなるな、、。ふっふっふ』房東(大家さん)も大変良い方で、台北では一寸有名な方だそうだ(ここではプライヴェートな事なので説明出来ませんが)前住居者は、日本人だったそうな、、、。インテリアも私好み。『いいぞ、いいぞ~』私の心は固まっていた。この家に決めた事に後悔は無い。しかし、その後に起こる、数々の出来事が私達をとほほ、、、と言わせるとは夢にも思っていなかったが。初めての外国住まい。何にも状況が分からず、とにかく慌しく家を決めた。今になって思えば、コンピューターで色々と検索し、住居に関しても、そして台湾という国に対しても、もっと調べようがあったというものだ。少しでも情報があれば自ずと進むべき道を見つけやすくもなる。しかしながら私達には時間というものが無さすぎた。『まっ、どうにかなるでしょう』時には成らぬ事もある。名言だ、、、と思う。夫に台湾行きの話が出た時『来週には行ってもらえる?』という状態だった。その時は、私も専業主婦ではなかったし、日常の忙しさも尋常ではない時期だったのだ。しつこいようだが何もかもがごちゃごちゃで、ドタバタと毎日を過ごしていた。とにかくいろんな経験をして私は一人日本に戻った。帰って来てからも全然と言ってよいほど『台湾に住む』事の実感がわかなかった。
2005年01月10日
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もしこのホームページに来て下さった方がいらしたら、ありがとうございます!コンピューターオンチのこの私が、自分一人でどうにかここまで立ち上げました。が、、、四苦八苦。お見苦しい所もあるでしょうがお許しください。私の経歴を含め、どうしてここ台北に来たのか少しずつ紹介させて頂きます。また、不手際もあると思いますが、(返事が遅いとか、、、文字変換が変!とか」細心の注意を図りながら頑張りますのでどうぞ末永く宜しくお願い致します。私の手違いで、あらまし2から始まってしまったので、最初から、、、。(恥)2002年、7月16日。私はここ台湾にやって来た。人生で始めての、40を迎えようとしている私にとって始めての海外生活のスタートだ。主人の仕事でここに来る事が決まってからが大変だった。主人は一足先に台湾に出発。残った私一人で何もかもしなければならない。日本にある荷物を、将来の住処になるカナダ行きと、新生活が始まる台湾行きに分別し、自分でパックしなければならない。荷物が多かったのと、分別作業があったので、自分ですることにした。(後から考えれば大失敗の選択)その当時は、看護師業と日本語教師養成学校の生徒という二足のわらじを履いていたし、おまけに学校では実習が始まろうとしていた。それと平行しながらの引越し準備。犬も2匹いたので世話もある。ありがたい事に、多くの友人達が入れ替わり立ち代り手伝いに来てくれた。捨てるには忍びない物もが沢山あったが友人達のてきぱきとした準備でガレージセールをしてきれいさっぱり売ってもらった。家電製品などは新しくしたばかりの物が多く、一寸だけ悲しかった。(台湾で使えないと思って処分した物の中には、実際かなりの物が使えたと知った時の私の落ち込み、、、、)親、親戚、友人達のありがたみが身にしみた。沢山の差し入れを持って来てくれた人達、徹夜の作業も厭わずに、職場から直行して泊り込みで手伝ってくれた人達も居た。本当に感謝で一杯。ありがとう、、、でした!その当時の忙しさは筆舌に尽くしがたい。(もちろん、手伝って下さった方々もそうだったと思う)1ヶ月で体重が4キロも落ちた。寝食を忘れ、がむしゃらに引越し準備、仕事、実習をこなしていった。おまけに、その最中、近所の犬に右手の人差し指、中指を噛まれ(骨が見えていました)全治1ヶ月。びっくりしたけど、とりあえずナース。痛かったが、先ずは水で傷口をがんがん洗い流し、血を絞り出した。イソジンで消毒し、バッチのレスキュークリームを塗りこみ、レメディーを飲んでガーゼで傷口を押さえた。そして、これまたナースをしている叔母に連絡し、救急病院へ。局所麻酔で洗浄してもらい、破傷風のワクチンを打って無事終了。動物に噛まれた時は、絶対に縫合などしてもらってはいけません。化膿したら大変、毒素が回ってしまいます。どんなにひどくても、あくまで開放したままにしておきかねばならない。犬の散歩は友人のドッグシッターさんに頼んだ。しかし、運良くも体は壊さなかった。私の辞書には努力、精神力、忍耐と言う言葉は全くなかったが、凄いものだと思った。犬2匹は、近所に住む友人のアメリカ人夫婦が1ヶ月近く、出発日まで預かってくれた。これは本当に助かった。犬の検疫、移送に関する書類作成、これも時間が掛かった。規定のケンネルを買い求め(サイズ違いが来たりとトラブルが続いた)、獣医に連れて行き健康診断、書類作成、4ポーズからなる写真撮影。貨物会社と航空会社との連絡、台湾の動物検疫所との交渉など等。もう2度とやりたくない~。しかし、怒涛のような日々を過ごしながらもどうにか終える事が出来た。
2005年01月09日
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2002年3月29日羽田より(この時は、まだ羽田から台北直行のチャイナエアーが飛んでいたんですね~)4泊5日の日程で家探しの為に台北へ。久々の夫との対面もそこそこに早速家探し。いかんせん、時間がない。私達の担当になったDさんは英語圏の方々を担当している英語スピーカー。物腰の柔らかい紳士風の方だった。カナダ人&日本人カップルという事でだと思うが、いきなり天母地区という外国人居住区みたいな所へ、、、。天母にはアメリカンスクール、日本人学校、その先の陽明山にはヨーロピアンスクールがある為に、子供を持つ家族は殆どがここ近辺に住むらしい。一応上限はあるものの、会社が住居費を出してくださると言うありがたいお話だったので何となく、ココロも足取りも軽かった。しかし、時期が悪かったのか、犬が2匹居る事が災いしていたのか、連れて行かれたところは値段は一級品でも、作りや間取り葉3級品。全体に暗く、汚かった。『ここは掃除してたのか?このまま汚いまんま引き渡されるのか、、、』内心怖かった。思わず夫を見上げる。夫は固まっていた。10件以上は見せて頂いただろうか。なかなかピンと来る物がなかった。おまけに、この地区は夫の会社から一寸離れている。私達に子供は居ないので、何もここに拘ってもらわなくても良いのだが、、、。D氏に『他の場所も見せてもらえませんか』とお願いする。何箇所か拝見させて頂いたのだが、うむ~。徐々に不安が募ってくる。日本の家のようなメンテナンスは求布良レナ胃のかもしれない。何となく悟った。初日はこうして過ぎていった。翌30日。皆さんも覚えておられるかと思う。あの大震災。私達はホテルの近くにある、最近開発されている信義区の三越、ニューヨークニューヨーク、ワーナーヴィレッジ等を回って、束の間の休日を楽しんでいた。すぐ傍には台北101なるどえらく高いビルが建設中だった。天辺には、巨大な鶴の形をしたクレーンが4台鎮座ましましていた。私は夫に、『でもさ~、何で台湾って地震が多いのにこんな高いビルをわざわざ作るんだろうね、、、』と暢気に話していたのだった。お昼を食べようとワーナーヴィレッジに出向き、軽く昼食を摂っていると、いきなり凄い揺れを感じた。とにかく立ち上がれない。頭上に設置されている360度大パノラマテレビがブルンブルンと揺れている。落ちてきたら死ぬ!とっさに思った。片手にフレンチフライ、片手にジュースを握ったまま、テーブル下の床に伏せた。休日の昼間で人も多い。叫び声が聞こえ始め、徐々にパニック状態になっている。私は恐怖の為に声も出ない。今までの人生でこんな大きな地震は初めてだ。その時、外で凄く大きな音がした。何か重い物がどっす~んと落ちたような音だった。みな外に向かって走り出している。映画館からは凄い人がドミノ倒しのごとく押し出されている。一部の屋根が粉々に割れていた。気がつくと、私とダンナと数人の店員さんしか残っていない。集団心理なのか、皆同じ方向に逃げ出している。左側の出口は人で詰まっている。危ない!と思い夫に『右の出口から出よう』と叫んでいた。カナダには殆ど地震がない。しかし、日本に12年近く住んでいた夫は、日本の地震を何回か経験している。その夫の顔にはに血の気がなかった。顔がこわばり、恐怖におののいている。私が叫んだと同時に彼は、片手にハンバーガーを握り締め一目散に右の出口へ向かい凄い速さでダッシュした。一度も私の居る後ろを振り向かずに。どうにか外に出ると、そのまま地べたにしゃがみこんでしまった。揺れが凄くて本当にくらくらと目が回っている。ホテルに戻ってみると、玄関の壁や屋根が壊れていた。数人の外国人宿泊者たちが呆然と外を見ていた。部屋のダメージは殆どなかったが、エレベーターの回数を表示するプレートがだら~んと、今にも落ちそうに垂れ下がっていた。危ないので受付に電話してチェックしてもらうように頼んだ。地震が起こってからは、本当にすばやい対応で、軍隊の車、救急車、パトカーが凄い勢いでわらわらと101方面に向かっていく。その対応の早さに感動した事をはっきり覚えている。『日本と違う、、この機敏さは何なの?地震が来るって知ってたの?』と思う程。野次馬根性で101へ近寄ってみる。何と、あのクレーンが2台どっか~んと道路に落ちている。残念な事に、車で通りがかった大学生の男性が下敷きになって亡くなったとの事。他にも建設作業中の数人が亡くなっていた。後からニュースを見たら、他の地区の被害も甚大だった。何故、私はこんな大きな地震に遭遇しなければならないんだ、、、。先行きの不安を増長させるには十分な出来事だった。
2005年01月04日
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