諏訪湖のほとり(山岡弘道ノート)

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July 10, 2005
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石川啄木に関しては、文学的業績は認めるものの、私生活が女性問題や借金などあまりにだらしなさ過ぎたという批判をよく聞く。たしかに、そのような、面はあったようだが、彼があまりにでたらめだというなら、啄木の最後を看取った若山牧水のような友人も、また、啄木の死後「悲しき玩具」を発刊してくれた土岐哀果のような友人も持てなかったであろう。性格破綻者のように言うのもよくない。

明治35年10月27日、盛岡中学を退学した啄木は、11月9日新詩社の集会に出席、これが鉄幹との出会いであった。翌10日、啄木は鉄幹宅を訪問し、この青年を鉄幹夫妻は快く受け入れた。鉄幹はこの日の啄木について、「初対面の印象は、率直で、快活で、上品で、敏慧で、明るいところのある気質とともに、豊麗な顔、・・・・全体に颯爽とした少年であった。」という好印象を持ち、啄木は、社友に加わることになった。

鉄幹は後日啄木に、短歌より詩を書いたらどうかと勧めた。また、それまでの啄木の雅号「白蘋」では寂しいので、啄木の詩の中からとった「啄木」という名でどうかと明星に発表した。
晶子も自分が赤貧洗うがごとき生活の中で、啄木のため浴衣をこしらえてやったり、何日も泊めてやって世話をした。

しかし、啄木は、晶子は姉のように慕ったが、彼の日誌によると鉄幹には、批判的で殆ど評価をしていなかった。むしろ敵対心を持っていたことが分かる。

啄木は、桜のはらはらと散る明治44年4月13日に肋膜炎のため死去。当時彼は東京朝日新聞校正係に籍を置いていたので、朝日新聞が多少大きく記事を載せたが、ほとんど世間からは注目されることがなかった。

このとき晶子は、5月5日に、鉄幹を追ってフランスへ行く間際であったにもかかわらず、東京朝日新聞、萬朝報、東京日々新聞へ多くの追悼歌を載せた。

   「しら玉はくろき袋にかくれたりわが啄木はあらずこの世に」
   「近き日に旅に行くべき心よりはかなごとにも涙こぼるる」





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最終更新日  July 10, 2005 08:00:22 PM
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