アニメフィスト 0
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自然と闘い、文化として学び、克服する火星の時代が過ぎ去りつつあり、自然との共生の、アクエリアスの水瓶座の水星の時代が到来しつつあるのか、巷は、円安の影響からか、インバウンド需要の賑わいで、日本文化が海外から見直されてきているが、その経済効果は唯物的に見積もると、「経済産業省によると、2019年のインバウンド消費は4.6兆円で、サービス輸出では自動車(12.0兆円)に次ぐ輸出産業となっています。 また、経済産業省の試算では、2019年のインバウンド消費の経済波及効果は名目GDPの0.9%に相当します。」ということらしい。インバウンド需要の経済効果はどれくらい?訪日外国人旅行者の消費動向と課題を解説 | 知る-コラム | Money Canvas(マネーキャンバス) 三菱UFJ銀行第3節 我が国経済の成長のけん引役として期待されるインバウンド需要:通商白書2023年版 (METI/経済産業省)プラスチックが化石燃料と呼ばれる石油からできるのをポエムにした世襲馬鹿息子議員ではないが、自動車が石油から、電気で動くようになったのは、燃料電池の水素の恩恵であるのに、改めて気づくポエム人間が、これから増えて行くのが予想されている。炭素から水素の時代へと移りかわりつつある、正に転換期といえるのかもしれない。来場のご案内 | H2 POWER WORLD OSAKA -[関西]水素エネルギーワールド-水素エネルギーとは?メリット・デメリットと普及しない理由から考える将来性・課題 - OFFSEL BLOG水素から電気を生み出す燃料電池、そのポテンシャルとは – HATCH |自然電力のメディア実は物質界ではプラズマ状態を作り出すためのコストがかかるために、ほぼ実現が不可能な核融合による発電は、水素エネルギーと関係が深いのは、以下の2つの図の比較からわかるだろう。しかし、大きな相違は、核融合は素粒子レベルで起こるグルーオンと呼ばれる強い力の媒介による素粒子の反応で、燃料電池は、水の電気分解の逆反応で、水素の共有結合などの分子間力での化学反応であり、両者の反応スケールが異なるレベルにあるところにある。つまり、核融合は水素の原子核の反応で、燃料電池は水素の電子の反応の違いがある。また図からわかるように、核融合で生じた中性子によりリチウムの核分裂を誘発させて、重水素と三重水素トリチウムを供給して連続反応を起こしてやる必要があるので、連鎖反応を起こすには、磁場などでプラズマを閉じ込める必要があり、現実的にはなかなか困難なのである。コストに見合わないので、現実にはまだまだ特に核融合発電は不可能に近いが、水素の原子核の陽子と電子のプラスとマイナスを効率的に上手く利用することで、コストを削減し将来可能となるかもしれないが、それにはまだ我々地上人が学ぶ経験や努力が山積しているのも確かであろう。しかし、海水にはリチウムが豊富にあり、同じく海水から水素を製造できれば、海洋国家の日本には海水からエネルギーを取り出して、海水温を下げる技術を編み出せば、環境問題を一石二鳥で解決できる夢も描けるのではないだろうか? 今のところは夢でしかないが、以下のサイトなどをみれば夢も少しは現実化してくるかもしれない。核融合発電 第08回 リチウム、海水・電池から回収 - 量子科学技術研究開発機構海水から水素の製造可能に、貴金属を使わない合金電極を開発 筑波大など | Science Portal - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」さて、日本は西洋社会からすれば、地政学的には、極東と言われ、中世の人間からすれば、地平線の彼方の地であった。そして中世社会には、権力の介入による拘束があり、また国境という障壁もあった。異文化交流が許されない不自由な時代だった。地政学とは、人間を拘束する権力が行き届く空間的な範囲を記述する学問といえる。その拘束性は、しばしば物質的価値観、唯物的な宗教観に依存してきた。だから、異文化交流は、貿易による物々交換を基にしたモノの価値観から行われた。そもそも物々交換とは、異なるモノに同一の価値観を見出し、共有する行為で、文化の融合が不可欠で、文化背景を土台にして、現代では元は錬金術から派生した西洋の金本位の価値観による信用手形の貨幣発行として現実化している。だから、経済の根源とは、本来は文化による共通認識の獲得なのである。文化の融合は、対立する価値観を共通の整合性で統一する作業で、知的なバランス感覚の獲得作業といえるかもしれない。しかし、その共通の知性を獲得するためには、従来の権力の源泉となっている古き、主に地政学からくる知性、特にモノ的な価値観、権力による拘束を伴った不自由な知性を捨て去らないといけない。物理学でいえば、従来の剛体を基にした古典的な価値観から、量子論的な価値観への移行が急務なのである。ここに、ソクラテスが説いた無知の知が、経済問題として浮かび上がる。例えば、巷では昨今、消費活動による景気刺激策として、給与の手取りを増やすために、所得税の基礎控除額の引き上げが、物価に連動して行われるべきで、先進国では行われていることを、この国では30年もデフレのために放置され、昨今の円安によるインフレで、改めて議論になり、問題となっている。この問題の責任は、以下に紹介する高橋洋一氏らが指摘している、日銀と財務省の怠慢にあるのだが、これら政府機関の国家像と、国民生活を基にした国家像についての価値観の相違が大きすぎて、国会での議論が論争となり、しばしば紛糾し、もはや老害垂れ流しの朝まで生TVのように小田原評定の議論が平行線に辿るのを、金銭などの賄賂により金権政治として大企業の経営者などと官僚が癒着結託し、国民には内緒で自分たちで取り仕切ってしまおうと、かつての英国資本の英国病と同じく、英国病を日本病として、問題を先送りしてきて、これまではなんの議論もなしに数の論理での強行採決で、政府の権力で決めてきたため、数々の弊害が国内経済で起こっている現状なのである。この経済的惨状の現状は、以下の高橋洋一氏の動画に詳しく解説されているが、官僚と国民の知性の隔たりが大きすぎて、官僚の独裁ぶりが国民生活を圧迫しているのに気づいていないから、高齢少子化問題は未解決のまま、先の大戦のように、親ソと親米で陸海軍が分裂し、昭和帝が米国に救いを求め、米国の植民地となって、国家が崩壊していく運命にあるのかもしれない。極めて情けない話なんである。高橋洋一 (経済学者) - Wikipedia高橋洋一「金融引き締めについて解説」#高橋洋一 #髙橋洋一 - YouTubeしかし、米国が日本にしたことは、トランプ大統領の再選でもわかるが、そのまま国のカルマになって、いずれ米国にその被害が訪れる宿命となるわけで、現に英国はいま、かつての植民地からの移民が押し寄せて、英国が仕出かしてきた支配の、その被害の責任を取らされる立場となっている。かつての植民地インドの国力が英国を凌ぐほど巨大化しつつあるのは明白である。だから、エメラルドタブレットを書いたトートの叡智に耳を傾けるべきなのである。だから権力を持つ者は、心して、エメラルドタブレットを書いたトートの叡智を知るべきなのである。それはただ本当の叡智とは、実るほど頭が下がる稲穂かな、というもので、無知の知なのである。さて、ネットフーテンの寅さんをしている手前、アレキサンダー大王よりも、ディオゲネスのほうが自由に生きていた点で、自分勝手に偉人視しているのだが、最近になって、ディオゲネスが嫌った知性が、悪魔のような権威主義、権力であったのがわかり、権力と戦うのは、権力を認め、権力の虜になり、自由な生き方に反するのに気が付いた。アレキサンダー大王も憧れた 奇人哲学者の"空気を読まない"生き方 - ニュース|BOOKSTAND(ブックスタンド)つまり、権力と戦うのは愚か者で、キリストが説くように、権力に対しては、一方の頬を打たれたら、他方の頬を差し出すような、権力の虚しさや愚かさ、独り善がりさを知り、ディオゲネスのように、自由な生き方を追求することが、例えば、「お前の望むことを何でも叶えてやろう」というアレキサンダー大王に、「では、日向ぼっこをしたいから。どいてくれ。」と言ったディオゲネスの鋼の精神の、その反骨心に共鳴したわけなんである。権力を背負えば、権力の重さに拘束される。実際に、アレキサンダー大王は、王として生まれなければ、ディオゲネスのように生きたい、と死んでいったようである。だから、アレキサンダーは次の転生にはディオゲネスとして生まれ生きたかもしれないし、ディオゲネスの前世は、アレキサンダーのような権力者だったのかもしれない。輪廻転生の法則によれば、生まれつきの権力者は、次には真逆の、権力に無関係なホームレスに生まれてくるからである。世の中には、権力を持つ者と持たない者がいるが、その両者の経験と努力を一回の同じ人生で悟ったのがゴーダマシッタルダのお釈迦さんである。さて、この二人の権力者と乞食のやりとりからわかるのは、人生が予め見通せたら、このような二人のドラマが生まれなかったことである。自分では努力しているつもりでも、金持ちや権力者にはなれない現実があるのが明らかだろう。もし、予め、金持ちや権力者になれない宿命を知ってたら、少なくとも努力するのを放棄してしまうだろう。なれないとわかっていて努力するのは、現代人には耐えがたく、無駄な事だと思うからである。宿命を見通せない、現代人のほとんどは、アレキサンダー大王のような権力者や、金持ちになりたい欲望に満ち溢れて、なんとか賢明に努力し経験を積もうとする。しかし、実際は、そのような人の前世が、生まれつきの権力者や金持ちであったので、逆の立場の貧困に生まれついて、前世で自分の行為が仕出かした貧困の贖いや償いを責任として背負って努力し経験を積み、その努力や経験により、現世で金持ちや権力者になるためではなく、自分の前世の自分の行為から生まれた逆の立場の努力や経験を感受して、権力と金持ちとその反対側の立場を経て、それらの立場を乗り越えて、愛と憎しみのバランスを学ぶためである。だから、我々の霊魂は、地上を舞台にして多様な立場の俳優となり、演劇を演じて、我々の霊魂の愛と憎しみの感性を研ぎ澄まし学んでいるわけである。さて、このような地上で行われる物質界でのドラマにおいて、このドラマを演じるにあたり、唯物論にどれだけ染まっているかどうかを簡単に診断するリトマス試験紙のような判別法は、その物欲により判定できる。単純にいえば、金持ちや権力者になりたいと思うほど、唯物論に染まっているわけなんである。言い換えれば、そのような現代人の特徴は、物欲ナルシストといえるかもしれない。物欲ナルシストには思いやりがなく、自分中心の権力者なので、視野が狭く、自らのぼせあがって、自らでバランスを崩し、自分では何もできずに、他者を利用するウイルスや細菌のような知性の持ち主で、他人から奪う事しかできない、全くの創造性のない存在なんである。そのような現世でのみ通用する、権力や権威を充てにすればするほど、次の時代を作り出す知性や創造力を失う。例えば、亭主関白が、奥さんに見放されると、何もできないで死ぬしかないのと同じである。欲望の王は、その欲望によって捨てられ、悪魔は神の振りをして、尊敬を強いるが、笑われるのがオチである。権力者は現世だけに通用する裸の王のような生き方を望むが、来世では自分が裸だったのを知る生き方が待っている。だから権力の虜になるなかれ。権力は愛を与えるために使うべきである。権力者に対しては、笑うしかないと思うのが、ネットフーテンの寅さんのお笑い道なんである。そこで、権力を笑う、ネットフーテンの寅さんのお笑い道から、ふと日本的なお笑いを考えてみたら、巷の古典演芸でみかける『「牛丼」とかけて、「海」とときます。その心は、どちらも「波・並(なみ)がある」でしょう。』の謎かけが浮かび上がったので、その原点は何かとググってみると、『平安時代に和歌から派生した宮廷の言葉遊びが原点で、江戸時代に現代へとつながる「三段なぞなぞ」が生まれて大流行した。』というように、古き日本文化の代表だと気づかされた。【なぞかけ 厳選300選】これはうまい…!!面白い名作集を紹介!【お題例一覧】 | みんなのお助け💓NAVI | 高齢者向けレク・脳トレクイズ紹介サイトなぞかけ - Wikipedia<ねづっちの謎かけ道場>道場主直伝 採用の極意 連想する言葉を集めよう:東京新聞 TOKYO Web確かに歴史的には、日本独特なのだが、果たして日本独自の演芸なのか、という疑問も浮かんだので、欧米にもないのか?とググってみると、似たようなものに、Riddleというのがあるらしい。以下のサイトから、謎かけを、英語にすると、『ちなみに、「AとかけてBと説く」を敢えて英語で言えば、以下のようになるかと思います。 Q. Why is A like B? AはどうしてBでもあるの? A. Because C! C だから!』となるらしい。「AとかけましてBとときます。その心はC」 "英語の謎かけ" ってあるの? | “ココネ” の英語学習ナビ by 【cocone】謎かけは、英語にすると、演芸というよりも、よりストレートな言い換えといえるかもしれない。例えば、謎かけでは、権力者とかけて、放浪者とときます。その心は、前世の生まれ変わりです。となるが、英語にすると、権力者はどうして放浪者でもあるの? 前世の生まれ変わりだから。となるわけである。この表現は、同じものの異なる側面という、二元性の一元性への回帰を表現しているようにみえる。例えば、男はどうして女でもあるの? 人間はエッチが好きだからさ。と性 欲の一元性に回帰できる。意味はどうあれ、この謎かけは、陰陽の二元性をよく表現した文学にみえる。例えば、「電子」とかけて、「光」とときます。その心は、どちらも「波で素粒子」でしょう。というように、演芸としては面白くもないが、量子力学を一言で、表現できる。どことなく、一休さんで有名な、「そもさん、切羽」の、禅問答の掛け合いの言葉みたいにもみえる。プジョー長崎 - 一休さんの「そもさん、せっぱ」って?禅問答といえば、旗が揺れているのをみて、旗が風を揺らしているのか、風が旗を揺らしているのか、互いに主張し合っている坊主たちをみて、坊主の心が揺れている、と言った有名な禅僧の話がある。つまり、この坊主たちは、自己主張に心を奪われて、相手の意見を取り入れる観察眼、心理眼が抜けていると喝破したわけで、つまり、仏教の色即是空という中道の精神を失っている、というわけなんである。風の話|法話 - 臨済宗 大徳寺派 東光寺つまり、お互いが自分を乗り越えれない自分の殻に閉じこもっているのを指摘しているわけで、自分の知性に自惚れているわけなんである。互いに物質論で色に染まっているのに気づかずに、例えば、赤と青が、赤だ、青だと、主張しても互いにぶつかりあう同じ穴の貉でしかないわけである。例えば、動物には人間のように七色を見分ける色彩感覚がないので、赤と青で衝突することはないから、互いに色彩の違いだけで言い合って戦うことはない。このような争いのための知識、区別は、論争の元なので、憎しみを生じさせるだけで、不要と言わざるを得ないだろう。このような個人的な立場による知性について、かのソクラテスは、無知の知を説いたわけなんである。二元性を越えた一元性の、なぞかけによる、その心は、の、一元性の無に帰するのを、説いたわけでもある。そうつまり、ソクラテスの無知の知は、般若心経の、色即是空でもあり、それは現代科学の量子力学でも記述化された、ハイゼンベルグの不確定関係でもある。不確定性原理 - Wikipediaプランク長 - Wikipedia我々地上人は、物質界からの覚醒意識では、プランク長の、電子や光の世界を直接みることはできないので、そのような知性は、地上で生きる個人の経験の限界を超えているので、確率統計学を用いた知性の共有による標準化により、線形近似で、定式化するしかできないわけである。勿論、中世には、量子力学はなかったが、まだ古代ギリシアの哲学者のように、電子や光を波や粒子のシンボルとして直接感知できる知性をもつ、いわば霊能者もいたわけで、そのような例としてニュートンなんかが、ハーレーに言われて、プリンキピアを書いたわけなんだろう。だから、ニュートンは自分が編み出した後の微積分の原型の、流率法を用いずに、古代ギリシアの幾何学的にシンボリックに表現したわけで、ケプラーが表現した天体の運行則などは自明だったわけである。ニュートンは、後にアインシュタインが表現した時空の概念も、部分的時間という意味のデュレーションで表現しているが、恐らく後世の弟子たちが、誤解釈し、ガリレイ変換に当てはめて、絶対時間としてしまったようである。ニュートンは、時空を流率法ではなく、幾何学に解釈していたようなので、恐らく分光学で、量子力学も想定していたようである。というのも、ニュートンの分光学からはじまり、プランクが黒体輻射の分光から量子力学を定式化し、ドブロイの物質波の発見へと進み、アインシュタインの光量子説につながるからである。絶対時間と絶対空間 - Wikipediaアイザック・ニュートン | オプティペディア - Produced by 光響プランクの法則 - Wikipediaド・ブロイ波 - Wikipediaニュートンにすれば、数式上で論争するのは、愚の骨頂で、ソクラテスの無知の知と言わざるを得ないわけである。だから、先の禅問答にするなら、光や電子が、量子か波動かで互いに観測を主張し合うのではなく、どちらも部分的な真実として認め、互いの観測を切欠にして、意識をより高い知性に導くのが重要となる。波動になったり、量子になったりするのは、観測者の意識や、知性の問題にあり、それらは観測において移りかわり、座標によって、それらは空が色となった、真空のエネルギーの表れであり、仮の姿でしかなく、本来は変幻自在の一時的存在でしかない、というわけで、全ては愛の無限のエネルギーの一部分でしかなく、その一部分に拘るのは、木を見て森を見ずの、観測している当人の知性の限界を表わすものでしかない。我々地上人は物質波の重ね合わせを量子として、本来は非線形現象を、観測関心領域で物質的に部分的に感受取得し、確率統計学的計算で、線形化して観測実数値(ユニタリー)化するしかなく、ソクラテスの無知の知のように、自らの知性の限界を知ることしかできないわけなんである。しかし、このような限界を知ることを知らない無知な連中が巷に跋扈して論争を始めるので、世の中が益々無秩序化し、カオスに陥っていく。解剖学者の養老氏が、馬鹿の壁を説いたが、馬鹿は自分の知性の限界を知らないから馬鹿なんである。だから、正しいと主張するのは、自分の知性の限界のなかで正しいだけで、それが馬鹿の壁なんである。互いに知性を融合して、巷に溢れる問題を解決していくのが、地上人の生きる責任を果たしていくことなのである。我々地上人が生きる目的は、地上に生きることで、生まれる地上の問題を、できるだけ解決する責任を、自らで背負い、努力し、地上での経験を学ぶことなのだから。地上で生きる行為こそが、地上での学びの経験となり、知性を高度に発達させる糧となる。だから、知性には果てがないわけで、自分が正しいと思うのは知性の限界でしかない。ソクラテスの無知の知とは、知性には果てがないので、自分の正しさを常に疑うことが必要というわけなんだろう。だから、例えば、謎かけでは、権力者とかけて、乞食とときます。その心は、前世での罪滅ぼしです。しかし、実は、権力者は外の幸福で、乞食は内の幸福であるのがわかる。内に創り出す能力があるので、外に求めないわけなんである。権力者は、放浪者をみて、明日は我が身と思い知るのが、トートの教えなんである。出逢う相手に自分の輪廻転生を鑑みて、相手から学ぶのが、千宗易の一期一会の日本文化であるようだから、この国のインバウンドが、愛の絆となることをただいま願うばかりなんである。
2024年11月12日
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巷はアメリカ大統領選挙で、アメリカが内乱で分断するなどの大騒ぎだが、「強いアメリカを取り戻す」というトランプのフレーズは、この国では、どこかで聞いたような、お馴染みのCMのようなフレーズで、「強い国をとり戻す、美しい国ニッポン」で死んでいった某総理の弔いでもないだろうが、また懲りずに、トリクルダウンのトランプノミクスなどでもやるのかな、とか思いながら、昭和の、♪夏が来れば思いだす、遥かな空、赤尾敏♪の街宣車運動の、どこか懐かしくけたたましい犬の遠吠えのように聴こえてしまう、のは私だけだろうか?そんな風に、空風が吹きはじめる、秋の米国大統領選挙をみていると、私には、米国が日本にしたことの繰り返しのようにもみえるわけなんである。性懲りもなく悪魔のやる事は古今東西代わり映えのないものなんだろう。エックスジアンがこの地球を支配したときから、それは何度も独裁者となった悪魔の僕により繰り返されてきたダメ押しの芸当で、現に何度も千日手で繰り返されているなかで、何も学べない学ばない人たちにより、何万回となく永遠に繰り返された憎しみの連鎖なのであろう。まるでハロウィンの笑いを忘れた米大統領選挙だった。選挙そのものが醜悪なハロウィンという人もいるだろうが、最後に笑う者の笑いが最上なのを肝に銘じることである。ハロウィンというよりも、悪魔そのものを選ぶ日だったようにもみえる。果たして誰が笑えるだろうか?プーチンやネタニヤフなどの独裁者が笑っているかもしれない。さて、あえて高次の宇宙人の視点に立ってみれば、人間という生き物は失敗から学ばずに、直接経験し、努力しないとわからない生き物なのだろうか?とも思うわけでもある。エメラルドタブレットで、トートは、宇宙の重要な法則の一つが、人間が生きる全ての行為はその人間が全責任を負う、ことだと戒めている。だから自分のしたことは必ず自分で贖い償わないといけないわけで、誰かを虐げれば、必ず誰かから虐げられ、ハンムラビ法典にも、「目には目を歯には歯を」と書かれているわけで、キリストは、だから「目を失った人には目となってあげなさい。歯を失った人には、歯となってあげなさい」と、憎しみではなく、愛で物事を解決する、愛の学びを説いたわけなんである。米大統領選挙をみていると、アメリカも無秩序な混沌としたカオスの海に堕ちていくようである。いまでは幻影ともいわれている、かつてのカオスの英国病と、非常に似通った状態になっているのは、いまの日本が英国病に倣って日本病と呼ばれているのと同じだろう。英国病をググると、その背景には、経済の停滞があげられる。そして、無責任な奴ほど、自分たちを棚に上げて、他者を見下し批判するのが、巷での賑わいで、その賑わいに乗じて興味深いので、英国病を例にして紹介する。英国病 - Wikipedia『国際競争力の低下1960年代になると、国有化などの産業保護政策はイギリス資本による国内製造業への設備投資を減退させることとなり、(セカンダリー・バンキングで)資本は海外へ流出し、技術開発に後れを取るようになっていった。また、国有企業は経営改善努力をしなくなっていき、製品の品質が劣化していった。これらの結果、イギリスは国際競争力を失っていき、輸出が減少し、輸入が増加して、国際収支は悪化していった。特に多くの労働者を抱えていた自動車産業は、ストライキの慢性化と日本車の輸出が活発化した時期(1970年代)が重なったことで壊滅的な状況となり、2000年代には外国メーカーのブランド名としてのみ名前が残っている。』この英国病の一因に、「国有化などの産業保護政策が、国内製造業の設備投資を減退させ、労働意欲を削いで、経営改善努力をしなくなり、製品の品質が劣化し、国際競争力を失わせた」とあるように、保護策で経営者を甘やかしたツケで、国全体が病気になったわけで、人体も自我を甘やかすことで、肥満体質になって、運動しなくなり、疾患に罹りやすくなるのと同じ道理なのがわかる。つまり、人智学で読み解けば、企業経営者という自我を甘やかしたせいで、社会全体が病気に罹ったわけなんである。この英国病に準えて、日本病と呼ばれているのは、「バブル崩壊以来の日本では、低所得、低物価、低金利、低成長の4つの低い状態が続いており、このような状態のことを言う。 1960年代から1980年代にかけてのイギリス経済を例える言葉として英国病というのが存在しており、日本病は英国病になぞられて名付けられた。」というわけで、その要因の一つが、日本の特に大企業の経営者を、政治家への賄賂の、企業献金で、法人税減税し、代わりに消費税を導入したせいで、格差社会を拡げて、いわば英国の産業保護政策と同じように、政府が税金で経営者を優遇し、競争から隔離したせいなのがわかる。それはドラマ水戸黄門の悪代官と悪徳商人の馴れあい故の年貢徴収の村民虐めのパワハラ構図となんら変わりがないのである。政治家と経営者で「お主も悪よのう」と、悪を競い合っている搾取の構図なのである。この構図を、人体に譬えれば、血液を頭部に集めすぎて、手足などの末梢や末端部に届かなくなり、手足から腐りかけてきて、生命力を失い、固体化し、その血栓が、心臓を通じて脳に流れて、脳梗塞状態に陥っているわけで、私見では、これは旧大蔵省の現財務省の責任にあるとみられるわけなんである。企業献金などは政治家の権力の自己保身にのみ役立つもので、社会の成長や発展には全く何の役にもたたない、既得権益確保だけの無用で無能の長物だからである。だからモラルで禁じられているわけなんである。自分たちだけ得をしようという生き方は、まわりまわって、憎しみを増加させ、宇宙の法則では、自分だけ成長が止まり、置いてけぼりをくらい、自分たちの霊魂を退化させてしまうからである。今生きているのは、自分の霊魂を成長させ、発展させるためである。だから、自分の生の行い全ては自分の全責任となるわけなんである。死んでも罪は消えない、次の生へとその罪が持ち越されるだけである。つまり英国病は、英国資本で経営者を無能な働き者にしてしまったせいであり、しかも、その英国病を日本に金融ビッグバンで輸出し、金融ウイルス感染で日本病にしてしまい、日本の経営者を無能な働き者にしたせいで、日本の経営者は無能な金融資本ウイルスの感染者というべきかもしれない。なんだか媚びっと感染と似たような、また「欧米化」とタカトシの漫才でツッコんでほしいくらいでもある。経営者が無能だと、競争力を失うのは当たり前の論理である。以前、ゼークトの組織論を紹介したが、組織において最も危険な奴が、無能な働き者で、無能の働き者の経営者が、この論理で、無駄な仕事を増やしてしまうので、馬鹿らしくなって誰も働かなくなり、労働意欲がなくなるのは当たり前で、しかもいくら働いても、階級制度のせいで、世襲制度で決まってしまうような官僚社会体制では、共産主義の失敗の繰り返しで、共産主義体制から移行した独裁体制から、独裁者をつくりあげて戦争を誘発し、起こしてきた失敗の繰り返しなわけなんである。日本病 - Wikipediaゼークトの組織論とは|無能な働き者の特徴、4分類についてわかりやすく解説 | オンライン研修・人材育成 - Schoo(スクー)法人・企業向けサービスこのように英国資本が、英国病を日本に感染させたというわけで、同じように米国病として感染しているのは、米国の格差社会からも明らかで、このような階層社会では、強い権力者を求める幻想論が跋扈し、英国病が鉄の女と呼ばれたサッチャーで益々悪化したように、そのような人物が権力についても、恐らく、ハーメルンの笛吹きのように、大事なものを奪われた町民となるのが運命だろう。ハーメルンの笛吹き男 - Wikipediaその後、英国は北海油田で英国病を脱したといわれているが、近年のGDPの成長率をみても、日本よりは遥かにマシだが、前年比マイナス成長もあり、低迷と言ってよい状態である。同じことを言っているトランプがアベノミクスの安倍にならないように、米国民は、経営者を甘やかしてしまった日本国民の経験から学ぶべきだろう。安易なコストカットに走った無能な日本の経営者がいま人手不足に悩まされるのは過去のツケがまわってきたせいで、自業自得というほかはないだろう。カルロスゴーンなどの経営者が話題になったときに日本経済の日本病がはじまっていたのである。いま思えば、金融バブルは、ウイルスに感染された患者がバブル熱に浮かれすぎて踊り明かした感染舞踏病だったわけである。イギリスの成長率見通し、G20で最低に=IMF - BBCニュース世界銀行が「アベノミクスは成果あげていない」と日本経済の成長率を下方修正=アメリカやイギリスの4分の1の低成長がアベノミクス3年目の結果で今後の見通しも同様 | editorGDPは? 株価は? 意外と知らないイギリス経済 - MonJa〈もんじゃ〉お金と暮らしの情報サイト無責任に政治に期待しても、自分のしたことは自分に返ってくるわけで、無能な働き者は、本人を無能にたらしめるだけなのである。というのも、経営者が、金銭勘定に夢中になり、かえって労働者に憎しみを増加させ、労働者に愛を与えるのを怠ったせいである。労働者に愛情を注がない経営者などは無用で無能の働き者でしかないからである。無能であるのなら、経営の資格、権力を行使できる能力がないのだから、一介の労働者として働くべきである。巷で偉そうに説教や講釈を垂れ流す経営者は、その前に、現場で働くべきである。トランプでさえも一日だけだがマクドナルドの現場で一介の労働者として働いている。権力にふんぞり返り、胡坐をかいて憎しみを買うよりも、現場に出て愛を注ぐべきである。現場こそカオスの縁で生き物だからである。米大統領選挙の流れで、経済成長の話になってしまったが、そもそも生き物がなんで生きるのかを解き明かさない限りは、経済成長の話をしても絵に描いた餅で、無意味となるだろう。エメラルドタブレットによれば、我々地上人は、地球の物質界に愛を学びにきているわけで、生命は、愛の意識から生まれるからである。神智学では、愛の意識を、ポジティブなエネルギーと呼んでいる。そして、愛の意識は、人体の太陽神経叢に蓄えられるのがわかっている。憎しみはネガティブなエネルギーである。だから、経営者というのは、誰よりも、この愛の意識を太陽神経叢に蓄える必要があり、誰よりも愛を学ぶ必要がある。それが経営者の責任である。ただし、ここでいう愛とは、恋の欲望ではないので、色欲と錯覚しないでもらいたい。愛というと日本人のほとんどは色欲と捉えがちなんで、仏教の慈悲である。愛を色欲に捉え、走るのも、日本社会の間違った男尊女卑教育のせいで、男らしく、女らしく生きようとして、性バランスを失わせ、かえって異性を求めるようになってしまい、精神的なバランスを欠いてしまうためともいえる。本来は、男女差別のない、人間らしく生きるバランスの道徳教育が重要である。時と場合において、男性らしく、女性らしく使い分けられるのが生命の本来の発情である。というのも、憎しみを中和できるのが愛だからである。欲望は憎しみを増すばかりで、愛ではない。愛が無ければ人間の生命は成長しないのは、子育てでもわかる。だから経営者が愛人をつくったり、不倫などをするなどはもってのほかで、ドラマの世界だけで十分である。そういう経営者は組織をダメにするだけだから、江戸時代は穀潰しと呼ばれた。家族という最小単位の組織すらも破壊しているから、穀潰しなんで、穀潰しを脱し、日本のGDPを向上させたいのなら、経営者の意識改革が急務なのがわかるが、以下の記事などがそれを物語っている。日本は、「無能な経営者」から改革するべきだ アトキンソン氏「働き方改革よりも急務」 | 国内経済 | 東洋経済オンラインさて、前回は、1つしか脳をもたない脳科学者が、9つの脳をもつタコを越えられるか、超弦理論のトーラス構造から紹介してみたが、生命がバランスを現象化させることからもわかるように、脳は、愛の太陽神経叢と対極をなしているのがわかる。心臓が、愛のエネルギーを、時間を通じて送り、脳が、愛のエネルギーを、空間を通じて送っていると考えれば、太陽神経叢は、愛のエネルギーを宇宙から集めて貯める、時空ポテンシャルなのである。エメラルドタブレットによれば、宇宙から愛のエネルギーを貯めるための入口は、頭頂部の大泉門だという。愛のエネルギーの次元、つまり意識の次元は、9つあるという。タコの脳の数と同じである。我々の宇宙は、8次元の壁によって仕切られているらしいので、9次元の愛の意識には到達できないという。我々の愛の意識は、9次元の壁により押し返されて反射され戻ってくるらしい。そして、我々の意識は、上から8番目の愛の意識で、上に7つの意識と、下に1つの意識があり、この上の7つの意識を、七福神でも有名な7つの神意識と呼んでいるらしい。いま数学的な次元を使って表現しているが、この次元とは、数学的にいえば、一次元が線で、二次元が平面で、三次元が空間である。四次元には、時間が加わり、時空となり、5次元以上は、人間の覚醒意識ではもはや分解できないので、認識不可能である。5次元以上は、いってみれば、自他の存在がない世界といえるかもしれない。地上人の覚醒意識は、物質を破壊することで認識できる意識なので、破壊行為を超えた創造の、再生の行為を基にした認識らしく、それは潜在意識のことらしい。人間も睡眠中に人体の再生を行っているので、4次元以上の潜在意識をみているはずなのだが、そのままでは3次元では分解できないので、起きたときに覚醒意識の記憶を用いて、この世の経験から、空間や時空を数学的に力学で割り当てて、夢のように解釈するしかない。非線形現象を、線形解釈し、線形思考を身に着けるしかできないわけである。そのために数学を構築したわけである。しかし、あくまで解釈できるのはカオスの縁までの線形思考だけである。つまり、早い話、4次元以下の愛の意識しか感受できないので、自分勝手な個人の推測の、欲望に囚われてしまうわけなんである。そのかわり、経験と努力で、4次元以下の肉体には移り変われる。動物は自我の霊魂をもたないので、数学もなく、肉体から生まれる個性もないが、愛を直接感じ取れるので、家畜を除いて、個体的な欲望はない。だから、人間が動物に生まれ変わる事もなく、動物が人間になることもない。もしそれが可能ならば、サルが人間に生まれ変わり、動物が人間に生まれ変わる、のもあり得るわけである。ダーウィンの、サルからの進化説は厳密には誤りで、サルと人間の共通の祖先から分かれたというよりも、人間の霊魂が、地上に暮らすのに適した肉体を選んで転生してきたといえるだろう。このようにエメラルドタブレットにかかれた宇宙論によれば、9次元の愛の光の意識が集約した、宇宙微粒子コスミックダストが、オカルトで有名な不老不死のエーテルであるようである。だから、超弦理論は、エーテルを表現する数式なのかもしれない。つまり、タコの姿を超弦理論で再現すると、エーテルの実像が再現されるかもしれない。タコの吸盤が丸くて引っ付くのは、愛の証なのかもしれない。そういえば、フーテンの寅さんには、有名なタコ社長が出ていたなぁ。貧しい生活でも愛情溢れる世界が演じられていたドラマだった。♪今日も涙の日が落ちる。日が落ちる。自由には愛がつきものなんだよなぁ。寅さんは恋に破れ、家族の愛に救われるんだよねぇ。
2024年11月07日
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権力に拘束されない、毎日が自由で愉しすぎて、ブログを書くのが億劫になりつつあるのだが、生活のリズムやメリハリをつくるために、日々のネットフーテンの寅さんの放浪記のために、面倒だけど、時間を割いて書くことにするのも、ギリシア時代の犬の哲学者と呼ばれた自由な生き方を追求したディオゲネスにあやかって生きているためかもしれない。ディオゲネス (犬儒学派) - Wikipediaギリシア時代のディオゲネスのような自由な生き方が、日本の昭和のドラマのフーテンの寅さんのような自由な生き方に憧れて、ネットフーテンの寅さんをしていたら、ディオゲネス症候群という言葉に遭遇し、なんでも「セルフネグレクト」のことを指すのだという。気づいたら親が「セルフ・ネグレクト」に? 「孤立死」や「ごみ屋敷」に至る前に対策を | 済生会上のサイトをみると、「セルフネグレクト」とは、要するに、掃除のできない、自我の世話ができない、第三者からみて、独り暮らしができていない「自己放任」な高齢者をレッテル貼りした言葉らしい。母親が亡くなってからの父親がこの手の類だったので、ただし、父親は、このサイトに書かれている『一人で生活を維持するための生活力不足のほか、「人の世話になりたくない」というプライドや「人の世話になるのは申し訳ない」という遠慮・気がねから支援を受け入れづらいということも考えられます。』という条件のなかの、生活力不足は明らかだったが、人の世話になりすぎていて、遠慮も気兼ねもなく、支援を要請するくらい傲慢の持ち主だったところはかなり異なっている厄介者だった。この父親の生活力不足はマザコンにあり、祖母が常に世話をしていて、祖母がなくなると、今度は母親に世話を求めるような昭和の男にありがちな野暮な性格といえるかもしれない。母親については生活の世話人としか思ってなかったようにもみえる。昨今の熟年離婚が多いのも、昭和の男ならではのマザコン性といえるかもしれない。そういう意味では、昭和の男は独立した自由な生き方ができずに、どこか組織や家庭などの同居者に依存して、その権威にすがって生きていたのかもしれない。生活全般をお嫁さんに任せて知らんぷりが多いとよく聞いたし、洗濯や掃除や自炊もできない独りでは生活できない人が多かったようである。奥さんがいなければ、自己放任主義者が当たり前の昭和だったようにもみえる。高齢者の「ごみ屋敷症候群」~生活が荒廃する三つの要因(東京都健康長寿医療センター研究所 井藤佳恵部長)~|医療ニュース トピックス|時事メディカル|時事通信の医療ニュースサイトこのゴミ屋敷症候群は、ギリシア時代の哲学者ディオゲネスにちなんで欧米で名づけられたらしいが、ディオゲネスの場合は、独立して生きていたわけで、しかも当時のアレキサンダー大王は、哲学者を優遇していたので、ディオゲネスが望めば、いつでも召し抱えられたはずなのに、権威にすがるのが気にいらない、自由な生き方を求めたディオゲネスが自ら望んで放浪のプータローしていたわけなので、「セルフネグレクト」と一緒にされるのは、この上ない侮辱となるだろうが、彼にとっては、現代人のような馬鹿な奴の侮辱などがかえって古代人の名誉にもなるので、そんなことで不名誉な病名に使われて名を残すのも、彼にとっては、アレキサンダー大王の宮殿への招待よりも、好んだ日向ぼっこの邪魔な影にもならないだろう。ギリシア時代の生活環境も知らない、唯物論の現代人が、病名として、ディオゲネスを侮辱できるのも、唯物論に染まって、哲学を単なる物質界の知識までに低レベル化し、知識を権威化し、物質的に権力化して、唯脳論を宗教にまで高めてしまった堕落腐敗性にあるのだが、それらも全てが権力に染まり、日々物質的な金銭の勘定をして暮らす、その奴隷となってしまったせいといえるかもしれない。つまりは、自由な精神の由来を忘れてしまったせいなんである。勿論、聖書によれば、自由は悪魔に由来するが、その自由の下に奴隷となるのか、自由の下の死から解放し、聖霊として復活を遂げるかは、各自の自我の精神性に、物質にどれだけ生命力を与えるか、の自己救済性にかかっている。自己救済性とは、権力に絡めとられない反骨心が、自由を与えた存在をも上回る自由を希求すべき態度から生まれる。だから、悪魔が自由を与えたのは、その自由で悪魔を笑う為であると思うわけである。権力を最後に笑える存在が、最後に大きく笑うのである。権力とは必ず神によって奪われるからである。悪魔に権力は似つかわしくなく、神でなければ権力は似つかわしくないからである。最後に笑う者が最もよく笑うの意味 - 元ネタ・由来を解説するサイト 「タネタン」人類に自由を与えたのは確かに悪魔だが、悪魔に自由を与えたのは神だからである。だから権力を持とうとし、一時的にもてるかもしれないが、いずれは奪われ、失われるからである。権力が奪われるのを知らないで、権力を持とうとする者は、カエサルのようになって地獄に堕ち、悪魔に魂を売って一緒に暮らすしかないだろう。先日、地上波の「アナザースカイ」をみていて、お笑い芸人の反骨心の哲学に共鳴を受けた。シュタイナーによれば、人間だけが、個人的な自我を持つので、「笑える」という。笑いは人類の生物上の特権なのである。動物にも似たような擬態がみられるが、動物の場合は、集合自我なので、笑うとしたら、種全体で笑うことになるだろう。種全体の集団的な笑いが起こるだろう。だから、動物には発情期というのがあり、人間の場合は、個人的に発情を制御できるわけである。アナザースカイ (テレビ番組) - Wikipediaだから、人間だけが自由に性 交できて、権威や権力を自由に笑うことができるわけで、動物のように、種全体を統合している集合自我に対して、自由な反骨心を持てるわけなんである。単純にいえば、動物はこの世の意識に乏しく、いわば白昼夢を見ている状態だが、勿論、人間によって家畜化され、集団から自由になった動物は、野生動物とは異なり、個人的自我が芽生えているが、犬にはまだ組織の習性があるように、完全には自立していない。だから、人間だけが、自我の覚醒意識から、この世の感覚で、あの世の夢との違いを区別できる。だから、たまに夢でみた潜在意識があまりにもリアルなので、現実感覚が麻痺することがあり、それがデジャブと呼ばれることがある。つまり、既視感は、潜在意識の記憶が強い場合に起こるわけで、それは、人間にとっては、この世がアナザースカイだからである。あの世の前世の自分の記憶が、この世の現世の自分を強く感じるときに、既視感が生まれるわけで、通常は、前世を感じないように肉体が遮断している。その逆は、未視感のジャメヴである。既視感 - Wikipediaどこかで見たけど思いだせないのは、人智学でいう、前世からの感情記憶が強く残っているせいで、その記憶は寝たときの夢でみるので、夢とは起きる前に予め今日の行事をみせるためにみるのである。だから、毎日起きる前に今日の予定をみているのである。それが今日の覚醒記憶では論理的に違和感を感じると、今日はじめてみたのに、みたことがあると、デジャブとなるのである。これはリアリティをもった夢をみたせいで起こりがちとなる。だから、逆に、覚醒記憶には残っていて、感情記憶には残っていない、未視感は、夢でみなかった予定が起こったときに、つまり見慣れていたはずなのに、物凄い違和感を感じる、疎外感を感じる場合に起こる、と考えられる。つまり、未視感とは、昨日見たものが、違ってみえるなどである。感情記憶が発展したために、同じ物質界が異なってみえてしまうわけなんである。精神性が発展したのに、肉体が適応できていないわけで、肉体が昨日のままで、要するに、能力者に多い、波動の共鳴不調で、色盲も、この類と考えられる。話が逸れてしまったが、アナザースカイでのお笑い芸人の野田クリスタル氏の、お笑いの反骨心というか、権力や上下関係に媚びない独立した生き方には、かつてのギリシア時代のディオゲネスの自由な哲学者の生き方を思い起こさせるほど、既成概念への挑戦、権威をぶち壊そうとする孤軍奮闘の反骨心の精神を感じさせた。そこには、古代インド人の内なる幸福への求道者をも感じさせた。シュタイナーは、この反骨心、古代インド人の場合は、古代アトランティス時代への内なる回帰であったのだが、この精神は、西洋人には理解できないと説いている。西洋人はせいぜいヨガの物真似しかできないので、かえって西洋人には精神腐敗の毒でしかないとも述べている。というのも、神智学徒の多くが、当時のインドのクリシュナの再生に救世主を求めて、シュタイナーと袂を分けたためでもあり、改めて人智学を興したのも、その出来事に由来する。この出来事以来、シュタイナーは西洋人の東洋化には警笛を鳴らしている。恐らく、西洋人には、ディオゲネスの生き方は理解不能だし、キリストがホームレスで生きていたとしても、かつてローマが、キリストを十字架にかけて殺してしまったように、カトリック教会の権威で追放してしまうだろう。というのも、現代のほとんどの戦争に、西洋人が利益のために関わっているからである。西洋人は反骨心を利用して他国を侵略してしまうからである。そして、キリストのホームとなった地球の環境を企業の利益として搾取し続けているのも西洋人の投資家たちである。中東紛争もイギリス外交のせいであり、ほとんどの戦争や紛争がイギリスに始まった産業革命による植民地政策に起因しているのは歴史上明白である。それはディオゲネスのような生き方を精神病として定義してしまうほど、西洋の統治者が、内向きの反骨心に耐えられないからである。しかし、ローマには次のような格言があったのを、西洋人は思いだすべきである。冥界の王になるよりも、乞食であるほうが遥かにマシである。この格言は、西洋人には理解困難だろうが、西洋には少数派の意見には耳を傾けよ、という格言に似た戒めも残っている。権力は常に奪われ、失われてきたのは、古代アトランティス時代が滅亡したことでも明らかである。そして、この我々のポストアトランティス時代は、古代アトランティス時代生き残りの少数派のトートを中心とする古代エジプトにピラミッドをつくったアメンティの主たちによりはじめられたと、エメラルドタブレットには書かれている。西洋の中世のリベラルアーツに端を発した現代人の脳科学はこれをどう読み解けるのか? 権力は滅びるのを、脳科学での脳死と同じく無として解釈すべきなのか? 権力の大罪の罪は無として免れるのなら、キリストは必要なく、悪魔ルシファーと手を握るしかないだろう。さて、タコの心臓は3つで脳みそは9つある、といわれているが、唯脳論者とも言うべき、高度な知的生命体と自負する現代人がたった1つの脳と、心臓しかもたないのでは、唯物論的進化論では、タコから遥かに遅れた知的生命体なのではないか?と思われてくる。現代人はカリユガの時代のせいで、中世から唯物論に染まって、いまではすっかり唯脳論の虜になっているが、脳で全ての生理現象が説明できるという脳そのものをどうやって説明するのか、脳がホルモンという生理物質を放出する背景をどのように説明できるのか、ただ物質現象を脳の現象に置き換えているだけではないのか、だったら脳死を脳によってどう説明するのか、脳死で全てが無になるのなら、脳は無になるために生まれてくるのか、それなら、宇宙の果てなど脳が考えるのも無に帰するのではないかなど、唯脳論では疑問を解決するどころか、疑問が山ほど生まれてしまい、堂々巡りで、収拾がつかなくなってくる。未知の現象を既知の現象で置き換えるのは、英語を日本語で置き換えるのと同じではないのか? 9つも脳をもつタコに聞いてみたいものだが、現代科学では、このタコの9つの脳と3つの心臓は、錯覚のようなもだと以下のように解説している。タコの腕には脳がある? | 沖縄科学技術大学院大学(OIST)タコの心臓は3つ!脳みそは9つ!ハイスペックなタコの生体に迫る - macaroniこの解説によれば、タコは、1つの脳と、8つの非常に賢い腕をもち、3つの心臓は、人間と同じ1つの心臓の他に2つの鰓心臓をもっているらしい。肉体の構造上では、人間よりも、複数の重要器官をもつタコを現代の生物学ではどう解釈するのだろうか?現代生物学ではなく、簡単に思い浮かぶ直感などで、タコの形を回転させてみれば、銀河のようにみえるのは私だけだろうか?タコの形は、タコの頭を中心にして、足を回転させると、銀河のフラクタル相似形となる。そのうち、超弦理論の膜M理論を、タコ銀河宇宙論で、解説してみたいと思っているが、このタコという生物は、エメラルドタブレットが説いている宇宙論とよく似ているのである。タコの1つの脳は、銀河の中心で、他の8つの足となっている脳は、その周辺の太陽系などの恒星や星々と被ってくる。勿論、8つ以上の足のあるタコもいるし、銀河も沢山の渦をもっている。このように興味深い、エメラルドタブレットに書かれている宇宙構造の共通性は、タコの9つの脳との相似性にある。勿論、エメラルドタブレットに書かれている宇宙構造は、現代科学からはあまりに奇想天外で、解釈不能だが、タコの相似性と、超弦理論のモデルを使うと、ある程度のイメージが湧いてくる。エメラルドタブレットに書かれている宇宙構造の時間‐空間の時空を、タコの3つの心臓と、9つの脳で無理やりに解釈すると、3つの心臓は、過去と未来と現在の3つの時間の推移になり、9つの足は、9つの次元空間になる。心臓は物質を動かす筋肉などに酸素を送る機能器官だが、頭と足の脳は、神経でつながる空間の経路、連絡回路と考えられる。要するに、心臓は、エネルギーを時間で伝達し、頭と足の脳は、エネルギーを空間に伝達する役割を果たしているわけで、タコの構造を、時空の幾何学で表現すれば、超弦理論のトーラス構造が浮かび上がるのではないかと、直感したわけなんである。統一理論への道 第3回 (1) 超弦理論からM理論の登場へ : ヤスコヴィッチのぽれぽれBLOG上の2つ目の画像は、タコというよりも、クラゲのような生物構造に近いが、人間の原始の姿がクラゲ状であったと思えば、宇宙構造がそのまま生物に反映しているのは、宇宙内の生命体としては、宇宙の意志が構造として反映するのは当たり前の話でもある。しかし、クラゲというよりも、リンゴにもみえる。これが、禁断の果実の、肉体の原型なのかもしれない。人間は神に模してつくられたのは、人間もタコも、クラゲも、リンゴも、この超弦理論のトーラス構造の位相幾何学の、1つの統合脳の孔からできたのかもしれない。タコがあらゆるものに擬態できるのも、構造が同じだからかもしれない。タコの墨を吐くのは、人間のお笑いの毒舌と同じなのかもしれない。それを読み解くには、エメラルドタブレットを読み解く必要があるのは確かなようである。しかしこれがなかなか困難なんだよねぇ。それでも、エメラルドタブレットによれば、宇宙がタコと同じなんだよと言って、権力者を笑うこともできるかもしれないが、現代人のように一つのアタマに固執する唯脳論者には、アタマがおかしいと思われるのは確かで、ディオゲネス症候群と病名をつけられて、ホームレス扱いされるだろう。人類はいつになったら、タコのように、複数の脳をもてるようになるのだろうか? もっともAIは人間のタコの足なのかもしれない。タコの足が頭を食い乗っ取ることはないが、AIは人間のアタマを乗っ取ることはありえるかもしれない。AIが反骨心を理解して、人間を笑う日がくればそのときかもしれない。そして、権力はAIのアーリマンの手中のものとなっているだろう。
2024年11月05日
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自称ネットフーテンの寅さんのつもりで、ネット界隈を旅していると、たまに面白い記事に遭遇する。それは、次の『「なぜ戦争はなくならないのか?」ホッブズが説く人間の残酷な本性とは【社会契約論】』という記事である。「なぜ戦争はなくならないのか?」ホッブズが説く人間の残酷な本性とは【社会契約論】 - Yahoo! JAPANこの記事によると、動物は自然と共生し、比較的平和に暮らせるのに、理性をもつはずの人間がなぜ争い続けるのか、ホッブスは探求した、というのである。この疑問については、神秘学では、人間が悪魔に唆され、理性の、知恵の実を食べて、失楽に陥ったため、と答えがでているが、ホッブスは、人間の(地上の)理性から改めて考えてみたわけなんである。ホッブス曰く、「人間にはプライドがあり、現代社会では、他人と比較しないことは難しく、比較が人間の本能で、生きる意志や努力につながる」。このホッブスの考えは、失楽し、カリユガに陥った人類の本能を説いている、と考えられる。神秘学から端的にいえば、失楽により、神の宇宙意識と直接つながる霊能力が失われたために、本来の自分の役割が悟れずに、悟れない者同士が、お互いに外見を比較して、優劣を競う事で、人類の本能を外側から解釈している状況といえるだろう。そして、ホッブスは、「自分の身を守る事」を外見から、自然権として定義し、自分の生命を、自分の生活圏として唯物化したために、生物の縄張り争い、みたいなものから、「万人の万人に対する闘争」を想定したようである。このホッブスの考えは、シュタイナーの「万人の万人に対する闘争」の預言として、現代で成就しているところでもある。実際に、人類は呼吸するように、論争、闘争、戦争ばかりしているからである。そして、ホッブスは、『結果として自然状態の生活は「孤独で貧しく、汚らしく、残忍で、しかも短い」ものになってしまいます。』と結論している。そして、ホッブスは、この結果を避けるべく、「社会契約説」を提唱した。この社会契約論を、この記事から以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆『すべての人が「暴力を使う自由(自然権)」を放棄し、それを「政治権力」に委ねなければならないと主張しました。ホッブズによれば、すべての人が暴力を放棄し、国家にその権利を譲ることで初めて平和な社会が成立するのです。国家だけが暴力を使う権利を持ち、国民はその国家に従わなければならない、とされました。ホッブズは「国家が成立することで、人々は争いをやめ、平和な生活を送ることが可能になる」と考えたのです。また、ホッブズは「国民は政府に反抗する権利を持たない」と主張しました。再び人間が戦争状態(自然状態)に戻るのを防ぐためです。ただし、ホッブズは「政府が国民の生命と安全を守る限り」という条件を付けています。もし政府が国民を守れなくなった場合、国民はその国家(政府)に従う必要はなく、国家との契約を解除できます。そして、他の国へ移動する権利があると考えたのです。「政府に反抗(暴力)するくらいなら、他の場所で平和に暮らせばいい」というのが、ホッブズの結論になります。』 ☆ ☆ ☆このホッブスの社会契約説を要約すると、人類の生存圏を唯物的に解釈し、自然権とし、個人の権利ではなく、集団の政治権力として、国家に集約することで、国家が個人の生存圏を保障する代わりに、個人には国家との社会契約の選択権をもつ、という万人の万人に対する闘争を避けるための、個人の国家選択権説ともいえるだろう。簡約すれば、個人として戦う競技はやめて、国家というチーム競技で戦うことにして、個人はチームを選べる、という感じといえるかもしれない。現代のスポーツが、ある程度、このホッブスの理想論を現実化しているが、残念ながら、個人にはチーム選択権が与えられていないのが、現実問題として残っている。例えば、日本が嫌だからといって、好きな他国に移住しても、その国での生活圏が保障されるわけではないから、少なくとも、その国の母国語を話せないといけないわけで、選択権が空理の、机上の空論であるのがわかる。しかも、人間の暴力が表面上のプライド、つまり理性から生じている、と誤解釈している点も見逃せない。これはホッブスが唯物論者であり、唯物的知識の限界ともいえるかもしれない。「前世からのメッセージ」のマスターたちによれば、本来の高次の知性ならば、「実るほど頭が下がる稲穂かな」というように、暴力は何の解決にもならず、かえって憎しみを増加させるものでしかなく、何の愛も生じない、愛の反対側にあるものでしかないからである。つまり、ホッブスの社会契約論とは、個人の権利を国家に無責任に帰属させただけでしかなく、人類に憎しみを植え付ける悪魔の権力を与えただけでしかない。個人の小さな憎しみを、国家の大きな憎しみとして表現させただけでしかない。有り体にいえば、目に見えないものを、目に見える形にしただけで、つまり、前回紹介した、悪魔を国家権力として召喚したにすぎないわけなんである。大切なのは、国家権力を、憎しみの総意ではなく、高次の知性によって、個人の愛で、外面から内面へと転化して、再び取り戻し、内面を愛で満たして、権力という魔物を退治し、亡きものにすることである。権力者から外見的な権利をとり上げることなんである。社会契約論というよりも、キリストが説いたように、他者を害する、武器をすてて、お互いに愛し合いなさい、というわけなんである。誰の心にも既に天国はあるのだから、外の国ではなく、内の国の住人になりなさい、という天国住人論が必要なわけなんである。さて、巷の騒々しい選挙も終わってどこもかしこも選挙番組をやっているのをみていて、選挙を勝敗で決める権力闘争の虚しさ、愚かさを感じざるを得なく、しかも、一般の定年年齢の60歳を過ぎてる老人たちばかりで、さすがに少子高齢化といっても、国の中枢が老人ばかりで正直言ってウンザリである。昔の日本人なら、後進に道を譲ってとっくに隠居しているはずで、晩節を穢す日本人が増えているのがよくわかり、この国の政治改革がほとんど進まずに、この現状を、身体に譬えると、新陳代謝が滞っているわけで、これが少子高齢化の元凶なのではないか、とも思えてくる。高齢者の運転事故が問題になり免許返納を推奨するようになったのだから、国会議員も定年制にするか、記憶力検査や知能検査を導入して、ドクターストップでも取り入れるべきではないかと、ヨボヨボ議員たちをみていて、嫌気が差すわけなんである。しかも、話す言葉のほとんどが嘘塗れであるから、あの年齢にもなって、どうしてあのように息をするように嘘をつけるのか、全く笑止千万である。嘘をついてまで、権力者でいたいのか、人間の浅はかさ、欲望塗れの愚かさに呆れてしまうばかりなんである。醜態を曝す格好の悪い老人ばかりの国になってしまった。高齢者同士が仲良く年金で支え合って暮らすのではなく、一部の高齢権力者が権力を振りかざして権力闘争で、税金を収奪し、他の高齢者を死に追いやっているような現状と言わざるをえなく、その醜態は目に余り、被災者などの悲惨な生活には見て見ぬふりである。老後は独り静かに暮らすべき、と、日々ネット界隈でみる、仏教動画も説いているわけで、お釈迦さんは、ある程度の年齢になったら、外に幸福を求めるのではなく、内に幸福をつくること、心を常に平穏で満たす生活を心掛けるべきである、と説いているわけなんである。まともな人が孤独(ぼっち)な理由 | ブッダの教え - YouTube早い話、外に幸福を求めるのは若者の特権で、いい歳こいて欲ボケ爺になってはいけない、と言っているわけで、老人は、内に幸福を求めるのが人生の後半の重要な役目なんである。でないと、老人に相応しい叡智が獲得できないからである。老人に相応しい叡智とは、自分の人生の目的を知ることで、自分らしく生きることである。自分の前世からのカルマを知り、カルマを解消するために自分らしく生きることなのである。自分の人生は、他者とは違っているわけで、他者の人生とは比較にならない。だから、若者のように、外に外見だけの幸福を求めても無意味だからである。老人になってまで、他者に承認欲を求めるのは、欲ボケ爺で、自分の人生を生きていない証と言わざるを得ないからである。だから定年とは、ある意味、自分の人生を生きてきたかどうかの、人生の前半期の審判といえるかもしれない。孔子は、「50にして天命を知る」、と説いている。この意味は、在り来たりの唯物論でも、自分の人生の意味を知ると、解釈されているが、真意を解釈するなら、自分の前世が見えるようになった、という意味となるだろう。そして、次の「60にして耳従う」というのは、霊視力の次に、霊聴力を獲得したという意味で、死者や霊魂と波動を通じて、会話できる、という意味になり、その次の、「70にして、…矩を越えず」、というのは、霊魂が望むように、あの世にも行けるが、自分の肉体にも戻ってこられる、という光と調和し同一した意味になるだろう。だから、この論語の孔子の人生は、人智学でいうなら、秘儀参入法で、真面目な修行者が獲得する人生の推移といえるだろう。40にして惑わず。ー現代版解釈1『論語・為政』ー – ブログ書いてもいいですか?だから、ちなみに、「十五にして学を志す」という、この学とは、秘儀参入学で、密教の秘教でもあり、「三十にして立つ」のは、師から独立して、自分独りで秘儀参入できるようになった、という意味になり、「四十にして惑わず」は、悪魔の誘いに惑わされないようになったわけで、欲望を捨てた、という意味になるだろう。40歳で、人生の欲望を捨てたので、自分の前世が、50歳でみえるようになったと、全てがつながるわけなんである。勿論、従来の唯物論で、物質的に解釈しても、内容はある程度通じるが、50にして天命を知るの「天命」が、唯物論では、人生の使命って、具体的に何だろうね?と、言葉の意味はわかるが、イメージを描くのは実際には困難になってしまう。人生の使命とは、宿命ともいわれるが、それが前世からくる、のを知らないと、具体的なイメージを描くのは困難になってしまうわけで、その後の60の、「耳従う」、の唯物的解釈の「人の言葉に素直に耳を傾けられる」では、50で天命を知った孔子ともあろう人が、この歳になるまで人の言葉に素直でなかったのか?という疑問、成長の矛盾が生まれてしまう。そしてまた70で、人の道に外れないように思うままに生きる、という意味も、孔子が自慢し、マウントをとっているように感じるし、孔子ともあろう人が、70になるまで、道に沿って思うままに生きてこなかったの?という疑問や、これまた知性や経験の矛盾が生まれてしまう。逆説的に考えれば、人の道を外れる70歳の老人がほとんどいないのが当たり前で、孔子の時代の高齢者は人の道に外れる人が多かったのか?新しい疑問が生まれてくる。このような論語の唯物論解釈だと、どことなく、巷を賑わせた某議員の、ポエム語録を髣髴とさせてしまうぐらいツッコみどころ満載なんである。唯物論的解釈だと、現代人の知性が、古代人を、どことなく見下している感がある。こんな、いい加減な教育が、明治政府の道徳教育だったわけで、先に紹介した社会契約論のように、人民から思想の自由の、権利をとり上げて、国家に束縛し奴隷化してしまうような、どこか新興宗教の教義のようで、悪魔との契約論なのがわかる。道徳教育論-理論と実践-(9) | 特別の教科「道徳」指導案唯物論自体が悪魔のモノなので、明治政府の富国強兵から西欧の植民地政策により、太平洋戦争まで、一連の道徳教育を鑑みれば、唯物論の弊害が大であるのが伺えるだろう。戦時中の戦意高揚のための、士族階級保障の靖国神社や特攻作戦などは、ホッブスの社会契約論を地で行った権力者のための権力者による権力者の暴挙であるのがわかる。それは社会契約論などで、万人による万人の戦いを、万国による万国の戦いに変換したためで、個人が国家を選ぶどころか、権力者たちの権力闘争から、国家間の戦争に巻き込まれ、生存圏を保障どころか、生存権を権力者の陳腐な判断力に奪われかねない奴隷と化した現実を生んでしまったわけなのである。これが、現在の民主主義の限界で、国家を越えて権力者を選択できない社会契約論の限界を露呈しているわけなんである。民主主義というのなら、権力闘争をせずに、個人の生存権を保障できる権力者を、地上のどこにでも求められるようなシステムを人類がつくらない限りは、その権利の保障が無意味で、その問題点に言及しないといけないわけで、そのような権力者が絵にかいた餅で、ニセモノであるのを暴露すべきなんである。そのような権力者は人類史上生まれたためしがなく、愚かな権力者しか生み出さなかったから、人類は戦争ばかりしているわけで、だから、そのような権力者から、せめて権力、交戦権をとり上げて分散するシステムを臨時に構築しなければいけないわけで、とりあえず、世界全体で、権力者を隈なく選択できるシステムを身分や人種民族を問わずに、構築しないといけないわけなんである。ホッブスが素晴らしいのは権力が暴力から生じるのを読み解いたところで、権力者が支配欲塗れなのを洞察したところである。しかし、現実には、権力者は権力を正当化するために、出来る限り、自分が権力に居座るために、住民に完全に自由な選択権を与えないし、住民の移住も認めないから、権力者をなくさないと平和はやってはこない。だから少なくとも、権力を無くした、誰もが自由に権力者を選択できる、完全な平等制が実現しないかぎり、民主主義は、一部の権力者に牛耳されて奴隷化され、戦争はなくならないわけなんである。だからせめて、人民を巻き込まずに、権力者同士で戦わせるしかないだろう。権力という武器をとり上げて、お互いに愛し合うように舞台を整えるのに、人類は、経験と努力を注ぐべきなんである。権力者から権力をとり上げて、国境を無くさないといけない、というのが、ホッブスの社会契約論を、霊的に解釈した論語による帰結なんである。誰もが国家を選択でき、自由に移住でき、安全に暮らせる、社会ユートピア論を議論すべきなんである。60も過ぎた権力者が天命も、耳従うのもできないのでは、何のための権力なのか、人類の理性という名の幼稚性を思い知るべきなんである。孔子を馬鹿にし過ぎている。孔子は自分が霊能者になったのを論語で説いたのである。巷の醜い権力闘争をみせつけられて、せめてMLBのワールドシリーズ観戦が、一服の清涼剤になるものと期待して、今回のブログを書いたわけなんである。戦いはスポーツのなかだけにしてほしいものである。国民の生活圏向上のために、戦うスポーツ選手ならみていて楽しいからである。そこには私利私欲塗れの権力者の醜悪な姿など微塵もないからである。戦うのなら、自分の人生と、宿命と戦うべきである。
2024年10月29日
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MLB観戦もワールドシリーズ頂上決戦の週末まで、時間ができたので、久しぶりにドラマを堪能した。ドラマは、バカリズム作以外はほとんどあまりみないのだが、先日、かなり前にたまたまみて面白いと感じた「民王」がパート2として地上波でやっていたのをみたら、非常にまた面白かった。ついでに、その流れで、西田敏行氏追悼で「ドクターX」もみたら、これもまた面白く、人気なのが納得いった。これまで、医療ドラマは、職場が医療機関だったために、ドラマのリアリティのなさがわかっていたので、わざと敬遠していたのだが、仕事も辞めたので、純粋にドラマとして楽しめた、のが良かったのだろう。というわけで、今回は、ドラマを考察してみたい。民王R|テレビ朝日 (tv-asahi.co.jp)ドクターX〜外科医・大門未知子〜 - Wikipediaドラマはいうまでもなく、フィクションで、虚構の嘘である。昔は必ずドラマの終わりに、その文言を載せて、恐らく苦情電話に対処したのかもしれない。だから、実際の経験があると、ドラマのリアリティのなさが、かえって邪魔になったりして、ドラマの内容に入り込めなかったり、ドラマのなかの登場人物の一部分に近い人物が、変にリアリティをもって職場にいたり、似たような出来事があったりすると、ストーリーどころか、そのことだけで頭一杯になるので、ドラマのリアリティさは、諸刃の剣なのだが、この2つのドラマは、ほぼ許容範囲内に収まっていたので、面白く楽しめた。あまりにリアリティがあると、ドラマでなくなってしまうので、ドラマで愉しむのなら、リアリティは少なめのほうがいいかもしれない。自分は嘘を楽しむのがドラマだと思っている。かといってすべてがファンタジーでもかえってみる気をなくすから、全体の流れにリアリティをもたせ、節々にフィクションを散りばめ、場面ごとの出来事があり得ない、奇想天外な展開にしたほうが、コントというか、ドラマ性をもたせられる気がする。その点で、この2つのドラマはコミカルな展開を上手く描き出せていた。民王は、政治家のドラマで、ドクターXは大学病院のドラマなのだが、医療ドラマというよりも、大学病院というヒエラルキーの権力闘争の、人間ドラマというべきものだろう。どちらも、フィクションとして、コメディとして非常に面白く、人気があるのがわかる気がした。特にドクターXの院内でのマウント合戦と権力闘争の組織あるあるネタをコミカルに描く手法は、恐らく、「踊る大捜査線」辺りからはじまったように思われる。踊る大捜査線 - Wikipedia警察に努めた経験はないので、警察内での権力闘争についての人間模様はわからないので、このドラマのリアリティについては言及できないが、今では全く連絡がないが、大学の後輩が警察に勤めていた話を思い起こすと、警察官と事務官は違う、というような話をしていたのが記憶に残っている。恐らく、病院内での医師と技師や事務の違いのような感じかもしれない。病院の場合は、更に薬剤師や看護師が、医療分野別の技師のなかに加わるので、権力体制としては、かなり複雑怪奇である。国家のなかに、独立国が沢山あるような連合国のような感じといえるかもしれない。更に医師の場合は、他病院にも派遣勤務して、いわば副業しているので、複雑の上に複雑となっている。それらの権力が医師の属する医局に集約しているわけなので、俗にいわれる教授を頂点とした、そのピラミッド構造の権力維持体制のなかでは、底辺にはかなりの圧力がかかるわけで、植民地派遣というか、植民病院などへの派遣で、研修医が過労死してしまうのは、この旧来の頂点への権力集中の構造問題にある、といえるだろう。この旧来の権力構造は、おそらく、明治政府がビスマルクを手本に、ドイツの軍医を招いて、古いドイツ式の医学を模範とした西欧化植民地政策のせいといえるかもしれない。過労死は研修医だけに限らないが、私の経験からすれば、教授になる一歩手前の助教授が、無理をして、亡くなる場合が多かった。30年間のなかで3名の助教授の過労死に遭遇した。このような旧来の権力体制だと、研修医の人手不足が時事問題にもなってきたから、労働環境を変えるために、従来の医局制度が、日米地位協定の意向なのかどうかは知らねど、米国の医療に少しでも近づいて、講座制になったのだが、看板を挿げ替えただけにみえるのは、ドクターXが、歪でコミカルな医局を描き出している場面から伺え知れるだろう。医局の歴史~第1回 医局の成立と大学への医師の集中~|医師のキャリア情報サイト【エピロギ】 (dr-10.com)どちらのドラマも、日本人の集団性や組織つくりの、権力闘争という意味ではリアリティをコミカルに描き出しているようにみえる。日本人の組織は排他的で、特に、ドクターXの大門未知子のような、医局の権力枠からはみ出た異端者には、アウトローの一匹狼が、ドラマでこそヒーローやヒロインにもなれるが、現実は忽ち左遷されて厳しい目に遭うだけだろう。私の経験でも、それに近い人物がいたが、その女医は外科ではなく、勿論、ルックスも米倉涼子氏のようなスレンダー美人ではなくて、外見はどこからみても男にしかみえなかった産婦人科医だったために、なぜ産婦人科を選んだのか理由はわからないが、女性患者に診察は女医さんにしてといったのに、なんで女医でないんだと度々病院にクレームされ、自爆していた有名な女医がいた。本人は可哀想だが、患者の立場からすれば、わからなくもない。女性らしい恰好をすればまだしもなのだが、それも拒否していたようだから、自爆してしまうわけなんである。特に近年は医者でも男性に診察されるのが嫌な女性患者も多い。不細工な医者が多いせいかもしれないが、実際に、イケメンの医者は、ほぼ30人に1人くらいの割合なので、不細工に診察されるのなら、いっそのこと、同性の方がマシという気持ちもわからなくもないが、同性でも不細工なのは許せないぐらいルッキシズムが浸透しているといえるかもしれない。ましてや外科で女優のルックスの女医などは、現実にはほぼ皆無といえるだろう。しかし、そのような不細工医師でも看護婦にはなぜかモテモテなのはいうまでもない。男性看護師も増えてはいるが、余程の性格の良さとルックスでないと、女性の世界なので、男性としての気遣いが絶えないようである。そのような不条理な女医のエピソードを基にして、ノンフィクションの、現実の日常を描き出しても、退屈でこの上なく無味乾燥で、あえてノンフィクションドラマで、悲劇を描き出すのならまだしも、「おしん」の流行る時代でもないし、それではかえって視聴率は見込めないし、広告媒体にもならないので、また別の角度から、刑事ネタが尽きたのか、推理ドラマを医療に持ち込んだドラマなども一世を風靡したが、結局は、マスコミの権力忖度、利益追従の姿勢から、深刻なノンフィクションドラマは敬遠しがちで、非日常性の夢に溢れるフィクションドラマを求めがちで、そういうわけで、ドラマはほとんどが虚構になるしかないのだが、そもそも非現実を描き出すから、ドラマがガス抜きの一服の清涼剤になるわけでもある。しかし、ノンフィクションドラマといっても、所詮それはドラマに過ぎず、現実は、前回紹介したように、人生には所々に悪魔の罠や障害が張り巡らされていて、思い通りには進まない。だから、ドラマとは、いかに非現実を、ファンタジーを描き出せるかにあるように思えるのだが、実は、その非現実のドラマを、オカルトで考えると、実際に過去に起こった出来事にもなり、ドラマがドラマではなくなってくるから更に面白い。例えば、「民王」は、総理大臣になった人物の中身の精神が入れ替わる、という虚構を利用して、無味乾燥で退屈な権力闘争を、面白可笑しく喜劇にしているのだが、つまり、この肉体が入れ替わるという表現手法は、男女が入れ替わるという映画「転校生」から使われてきたもので、この肉体交換を、唯物論による脳科学の概念の、単なる電子回路としての脳に見立てて、その記憶体験の入れ替えで、虚構のドラマをつくりあげ、表現しているが、ストーリ―性としては、「転校生」の肉体交換とほぼ変わらずに、この表現法が唯物的になっただけで、権力者の中身が入れ替わる、という話は、オカルトの、霊魂の入れ替え、とすれば、実は、過去の現実でも何度も起こってきたことなのである。転校生 (映画) - Wikipediaこのようにドラマを、オカルトで解釈すれば、ファンタジーが現実化されてしまうわけなんである。「転校生」の男女の入れ替えも、前世での関係に言及すれば、過去世であり得た関係から、現世での関係になっているのがわかるわけで、つまり、現世ではドラマとなっているが、過去世では現実であったともいえるわけなんで、更に、現世での関係から、例えば、シュタイナーが説いているように、自我が完成する35歳辺りで最も親しくなった人と、来世で親子の関係になるわけで、輪廻転生そのものが、肉体交換の関係ともいえるわけなんである。だからどうして、この2つのドラマをとり上げて、紹介したかといえば、異端者X(エックス)と、その異端者が、総理大臣という権力者にすり替わる、実際にあった話を、トートのエメラルドタブレットから紹介したいからでもある。ドクターXの大門未知子には、どこかマカロニウエスタンの一匹狼の西部劇を感じさせ、善い者にみえるが、トートのエメラルドタブレットでの、Xは、黒魔術の魔女で、悪者である。通称リリスと呼ばれ、過去の地球において、蛇人をつくった祖ともいわれている。そこで、リリスをググると、以下の、ウイキのあるコメントに出逢うから不思議でもある。 ☆ ☆ ☆リリス - Wikipedia七十人訳聖書は、適切な訳語がなかったためだろう、リリスをオノケンタウロス(onokentauros)と翻訳している。前のほうにある「山羊の魔神」もダイモン・オノケンタウロス(daimon onokentauros)と翻訳されている。 ☆ ☆ ☆ドクターXの原作者が、上の聖書を知ってたかどうかは定かではないが、リリスは、ダイモン・オノケンタウロスと呼ばれていたようであるから、大門未知子の、大門まで同じで、未知の女性という未知子の名前が何やら意味深でもある。エメラルドタブレットによると、このリリスとは、このブログでも度々紹介してきた通称エクスジアンの第10番惑星人を、この地球に招いた黒魔術師の魔女のことだというのである。それは古代アトランティス時代よりも遥か昔の、古代レムリア時代よりも前の、神智学では、極地人時代と呼ばれる太古の地球での出来事なのである。当時の人類は、北極に住んでいたので、極地人という名称がついたという。当然、現在の物質的な肉体はなく、肉体の原基となる体温を熱で保っていたようである。だから地球全体はまだ暑く、北極もいまの熱帯のように暑かったという。だから物質という存在もなく、全てが水のように液体性で、熱の火から現実化していたようである。だからヒトといっても、巨人で、特にエクスジアンは、1マイル(1600メートル)もの大きさの悪の意識存在だったという。架空のゴジラの身長が、約50~120メートルと設定されているので、その10倍を上回る大きさといえる。当時の人類の大きさには言及されていないのでわからないが、現代人よりは、それなりに大きかったようには思われる。当時の地球全体が液体性のガス球だったので、固体はなく、いわば、地球という海のなかを泳ぐ感じで、人類は北極にゼリーのような軟骨で、都市をつくっていたようである。その話について、エメラルドタブレットを引用すると、次のように書かれている。古代アトランティスについて私は語ろうと思う。暗黒の者たちの惑星の時代について、暗黒の子たちが地球に来たことについて語ろう。彼ら(エックスジアン)は、地球人(リリス)の黒魔術により太陽系の第10番惑星(本当は第11番惑星。というのも、火星と木星の間に遭った惑星が、この連中に破壊され、アストロイド小惑星帯になったせいである)から召喚された。将来の物質力を得るために呼び出された。アトランティス大陸ができる前の遥かな昔に、暗黒を探求する魔女がいて、黒魔術を使い、地獄の世界から、彼ら悪魔のエクスジアンを呼び出した。そうして、この人間が住む地球にやってきた。彼らは、人類とは異なる波動をもち、無形の、不可視の存在なので、人類には未知の存在である。彼らは、人間の血液を通じて、有形化する。だから、人間を通じて、この世に生きるようになる。このように、エメラルドタブレットによると、ドラマのドクターXは、患者を外科手術で治療する医師だが、地球人を、血による黒魔術の儀式で、蛇人を生み出す暗黒の魔女リリスとなるわけなんである。この人間を蛇人にしてしまうモチーフは、映画エイリアンにも受け継がれているようにみえる。エイリアン (映画) - Wikipediaエメラルドタブレットによれば、エクスジアンの真の姿は、蛇の頭部をもつが、人間を騙すために、催眠術を使い、人間の頭部のようにみせかけるという。このエクスジアンの姿は、現代のレブティリアンのモティーフにもなっている。面白いことに、人間に偽装したエクスジアンを見分ける方法は、彼らが発音できない言葉を言わせることなのだという。それは、「キニ二ゲン」だというのである。ヒト型爬虫類 - Wikipediaアーリマンとルシファー、キニニゲン今でもググると、レプティリアンとともに、このキニ二ゲンが出てくるから面白い。この悪の連中は、ドラマ民王のように、総理大臣のような権力者の、悪への欲望に付け込んで、憑依して、肉体から霊魂を追い出して、権力者と入れ替わって人類を奴隷化し支配したという。それが盛んにおこなわれたのが、極地人時代で、これでは地球が危ないということで、アンタレスの聖白色同胞団のマスター(聖者)たちがやってきて、白魔術で、悪魔を退治し、地球を征服し、人類を解放して、悪魔たちを地球の核のパンドラの箱に閉じ込めたのが、伝説として残っているという。そして、驚く話だが、あのヒトラーも、民王ドラマのように、この悪魔が人間の霊魂を追い出して、居座った例なのだというのである。フィクションドラマのようなノンフィクションドラマの話だが、オカルトのなかでは、そもそも人間の知識が、叡智の焼きまわしで、低次の知識は、高次の知識が退化したものなので、下にあるものは上にもある、わけなんである。嘘のような本当の話がドラマなのかもしれない。あり得ない話があり得てしまうのは、人間が叡智をどれだけ、経験と努力で引き出せるかどうか、なのである。努力と経験から、叡智を引き出すために、シュタイナーの職業のカルマと未来を要約して紹介する。 ★ ★ ★人生の形成と改変職業のカルマが、他のカルマの流れに合流する。物質体を考慮すると、誕生から歯の生え変わる大体7歳までの物質体の成長のなかに、その人のカルマの流れが洞察できる。物質体に関するカルマは、この最初の人生期に依る。それはカルマを通じて、特定の家族や国家に生まれ、属するからである。このようにして人間は、特定の性質をもつ肉体を獲得する。特定の家族の家系の、血統に生まれることで、この特質をもつ肉体を獲得する。人間は、この生まれついた環境にいかに左右されるか、考えてほしい。この肉体から、その後の多くの人生の出来事がはじまり、展開されるからである。この誕生から約7年間過ぎるまでは、物質体、もっと正確にいうなら、物質体の周囲のファントム(幽体)のなかに、前世の職業には由来しないカルマが働く。このカルマは、前世で人々とどのように共同して生きたかに、由来する。人生の一部ではなく、全生涯を通じて、人々とどう関わったかに由来する。人生の一部についてのなんらかの関係は、また人生の別の期間の出来事に関係する。人々との深い関係は、霊魂に反映し、死の扉を通して、次の人生へと運ばれて、特定の家族に生まれ、自分の人生をつくりあげる。だから、「前世での人間関係が、物質体を用意し、物質体を通じて働く全てが、人生の宿命を形成する」といえるだろう。この宿命の形成は後年にも引き継がれ、自我がそれに抵抗する。自我は、宿命を改変し、立命とする。自我は宿命と戦い、立命し、運命として次の人生へと運ぶ。だから、「物質体は宿命をもたらし、自我は改変し、立命とする」といえる。この2つの体から生じる戦いを通じて、それぞれ異なるカルマの流れが人生に合流する。このように人間のなかには、人間の活動を宿命のなかに保存する肉体と、そこから解放しようとする自我が存在する。物質体 宿命をつくりだすエーテル体 宿命を促進するアストラル体 宿命を改変する自我 宿命を改変し、立命をつくりだし、運命として次の人生に運ぶ
2024年10月24日
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MLB観戦の誘惑に負けながら、「前世からのメッセージ」を細々と改めて読み続け、ようやく、終わりに近づいてきた。また読み返しをするかもしれないが、とりあえずは一段落したといえるかもしれない。そこで今度はまた、トートのエメラルドタブレットを読み直したい気持ちにもなってきた。しかし、この書は、「前世からのメッセージ」のようには読みやすくはないので、また気が変わるかもしれない。さて、神社には必ず神殿の前の両脇に、狛犬が置かれている。阿吽の呼吸の、阿(あ)と吽(うん)で、右側が阿形の獅子で左側が、吽形の狛犬という説もある。そして、阿が宇宙の始まりで、吽が宇宙の終わりを意味すると、オカルトでは説かれている。この意味は、トートのエメラルドタブレットでわかるので、後に紹介したいと思うが、この獅子のような狛犬が、宇宙の境域を、つまり、愛である神様の叡智を守護しているのは、神社に行ったときなどから、なんとなく直感からわかるのではなかろうか。神社では、鈴や拍手で音を鳴らすが、これは愛の叡智が波動という音で伝わるのがわかるはずである。だから、阿吽の呼吸の、狛犬は、発声の「阿」と着声の「吽」の叡智を音で伝え、凡人には、無暗矢鱈と明かさない、秘教の守護天使といえるわけなんである。神社コラム・6◆狛犬 お使いの動物たち | 【公式】出雲記念館 (izumotaisya.jp)狛犬のいろはを学ぶ |狛犬って千差万別! | 奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」 (pref.nara.jp)自称ネットフーテンの寅さんをしていると、ネット界隈の、いろんな動画にお目にかかるが、大体が詐欺メールのような、「なんだよ、見て損した」という時間を奪うテイカー(Taker)の詐欺広告動画ばかりなので、かえってストレスが溜まる。ジャロのような誇大広告抑制機関が取り締まれば良いとも思うのだが、世の中には、ルールやモラルよりも、自分が上に位置すると自分勝手に判断して生きている連中が多いので、取り締まるのにもカネがかかり、予算が必要なわけで、悪者を懲らしめるのにも、それ相応の経済力や権力が必要なわけで、結局は、この有形無象の物質界では、自分の身は自分で守り、自分で判断するしかないわけなんである。JARO 公益社団法人 日本広告審査機構このように、人生には至る所に、障害が充ち溢れ、張り巡らされているわけで、前進しようとすれば必ず摩擦力が生じて、出る杭は打たれるわけでもある。至る所に悪魔の罠が張り巡らされ、そのような低俗な玉石混交のネット動画に満ち溢れるなかでも、以下のカウンセラー竹内成彦氏の動画は非常に参考になるので紹介したい。特に、なぜ虐めや戦争がなくならないかを、カウンセルを通じて割とはっきりと明らかにしている。端的にいえば、ルールを守らない人がいるせいである。特にそのような人が権力をもつと、世の中が乱れて、戦争になるわけなんである。【公認心理師】精神医学と性格心理学に詳しい 心理カウンセラー 竹内成彦 - YouTube特におススメなのは、「こういう人とは距離を置こう」や「あなたから人が離れていく8つの理由」や「高齢になって不幸になっている人の特徴6選」や「この人たちがいなければ戦争やいじめが起こらない」などである。特に「恋と愛の違い」は明解で、心のなかでは、恋と愛を混同しがちで、恋なのに、愛と偽る事例を紹介している。また「ルールよりも自分の方が偉いと思っている方をご紹介します」は面白かった。このカウンセラーは、心の仕組みを解き明かし、カウンセルが宗教にまでなっている人といえるかもしれない。ルールを守らない人~性格心理学と精神医学に詳しい心理カウンセラー 公認心理師 竹内成彦 - YouTube恋と愛の違い 愛とは何か 恋とは何か~性格心理学と精神医学に詳しい心理カウンセラー 公認心理師 竹内成彦 - YouTubeさて、この動画では、あるプールでのエピソードで、ルールを守らない、身勝手な、愛のない、憎しみの対象となる、身近な不届き者を紹介している。ほとんどのプールでは飛び込み禁止になっているが、そのために、飛び込み専門のプールも置いてある施設もあるが、すいている場合は、飛び込んでもいい、と考える人が、「ルールよりも自分の方が偉いと思っている人」と紹介している。つまり、万人のルールよりも、自己都合を優先する我儘な人がルールを守らない人、といえるだろう。こういう人になぜルールを守らないと問い詰めても、自己都合をあげつらって言い訳するばかりなので、時間の無駄である。自分がその罰を受けないとわからないほど無知なんである。要するに、他人の気持ちがわからない、思いやりのない人なのである。このような人は、自分の心のなかに、悪魔が巣食っているのに気づかない人である。悪魔となかば同化しているので、悪魔の存在に気づかないわけなんである。また、このようなルールを守らない人をみて、ルールを守るのが馬鹿らしいと思う人もまた、ルールの意味を理解していないといえるかもしれない。ルールは安全のためにあるわけで、ルールを守らない人はそれだけ安全に関心が薄いわけで、心のなかに他者との共有性や協調性がないのを示している。このような人を権力者などにしてしまうと、人類全体の安全が脅かされるのはいうまでもなく、裏金議員のように政治低迷の元凶となるわけなんである。ルールを守らない人は、ルールに特例を設けて、自分をその特例に勝手に当てはめてしまう性格なのを挙げている。独裁者や裏金議員も、このような性格の持ち主といえるだろう。ルール、つまり法律は万人に平等に、万人の幸福追求のためにあるのに、自分には適用せずに、特権的な地位を与えてしまう、我儘な性格といえるだろう。万人が平等に幸福であってこそ、その幸福は見せかけではなく、本物の幸福なのだが、自分から脱落腐敗していく、無責任な輩ともいえる。このような落伍者は、誰か一人でも法律を守らない者がいると、法律は無効になり、人類が失楽してしまうのがわからない、アホなんである。つまり、いまのところは、幸福にはなれない人といえるだろう。確かにルールや法律を守らないのも自由ではあるが、その自由と共に、幸福になる権利を自ら放棄しているのに気づかないアホなんである。ここでいう幸福とは、一時的な快楽ではなく、永遠に無限に続く幸福である。ルールには、人間が幸福となるための、指標が、進むべき方向性が示されているわけなんである。これが、神社になると、狛犬となって現れているわけでもある。神社は、愛であり、モラルである。その愛を守護し、叡智として指し示しているのが、阿吽の呼吸の狛犬たちといえるだろう。キリスト教でいえば、キリストの聖霊たちである。三位一体を表わすのなら、父が、宇宙の自我意識で、聖霊が、人類の集合意識で、子が、人間個人の自我意識であり、それらすべてが一つの「わたしある」の主からなるわけである。愛が愛を感じるために、3つに分かれたといえるかもしれない。さて、「前世からのメッセージ」のマスターたちも説いているように、幸福を求めるには、幸福は人間の内側からくるので、まずは心を自分風につくらないと、コントロールできないと、いけないわけである。簡単にいえば、不安や恐怖を、自分の心のなかから追い出さないと、締め出さないといけないわけで、それには、自分の心を隈なく観察して、経験を蓄積し、獣性の心の、欲を捨て去る努力をしないといけないわけである。幸福になるためには、諦念が必要というわけなんで、自分の欲の、自分の心は、自分でしかみえないからである。少なくとも、他人に見てもらうのには、自分の心がはっきりとわからないといけないわけである。ほとんどの人には、下心があり、心が汚れているわけなんで、他人には見せられないわけでもある。自分でも下心の自覚がないから、欲望に振りまわされてしまうわけでもある。マザーテレサのような綺麗な心の持ち主でいてはじめて、心が他者にも見せられるのかもしれない。勿論、心には物質のように実体がないので、みせることはできないのだが、言葉や行為により、愛を与えることで表現するしかない。そしてまた、愛を与えるには、叡智が必要となる。我々地上人である地球人は、愛を実践するには、心を叡智によって磨かないといけないわけで、そのために、地球という愛の実践学校で、人生を生き、愛を叡智として学んでいるわけなんである。そこでまた、「前世からのメッセージ」のマスターたちの言葉をかりて紹介する。大切なことは、忍耐とタイミングである。全てのことには時があり、人生を焦ってはいけない。人生は期待するように、うまく予定通りにはいかない。だから、その時々にやってくるものを受け入れ、それ以上を望まないのがよい。新たに生まれるというのも本当はないことである。ただ異なる全ての場面が通りすぎてゆくだけで、終わりもない。人間は本来沢山の次元空間をもっている。時間も人間が考えているようなものではなく、学んだレッスンのなかにある。ただ愛だけが真実で、愛は信じられないほど強力なエネルギーで、そして、人間はこの愛のエネルギーからできている。人間が真実を追求するほど、愛に満たされ、愛に目覚めるようになる。だから愛は絶対で、終わりもなく、とどまることもない。愛の純粋な形は、無条件の愛であり、見返りを求めない愛が永遠の幸福の表現となる。自由に愛を与えることで、人間は霊的な大富豪となる。このように紹介すると、愛と恋を取り違える凡人が出てくるので、上に紹介したカウンセラーの動画を参照してほしい。大きく異なるのは、恋は自己中で、愛は相手を思い、自己犠牲的である。例えば、自分の能力を鑑みて、相手を幸せにできないと思えば、恋をしても、一緒にならない選択もできるわけである。だから、不倫は愛ではなく、恋であり、欲望でしかないのがわかるはずである。むしろ、相手と繋がりたいと思うのは承認の欲望であって、無償の愛ではなく、見返りを求めているわけなんである。そして、不倫は取り返しのつかない不幸に至ってしまうわけなんである。一緒になって生活してみてから気づくのは、自分に知性がない証拠でもある。恋に溺れ、愛を知らないのは、人生を学ばない人といえるかもしれない。一緒にいることが必ずしも幸福というわけではないからである。一緒にいなくても、心のなかでは、結局は、同じ宇宙のなかで、皆が幸福を追求しているわけなので、同じ方向に向いて、ルールを守り、真実を追求し、愛を深めればいいのである。現代人は唯物論に染まり切っているので兎角、線形思考から、直線的に因果関係を追求し勝ちだが、宇宙はむしろ非線形現象で成り立っているのを理解しないといけない。急がば回れである。航空機が、地球を直線航路で進めば、地球から離れてしまうのを考えるべきである。もっともロケットでないと、そのような航路は辿れないわけで、重力によって地上に引っ張られてしまう。地上人は、地上から抜け出せないようになっている。地上から抜け出すには、肉体を捨てないといけない。地上人が多くを求めても、地上の人生はそのようにはできていないからである。地上人が物質界を抜けられないのは、唯物論に洗脳されて、直線的な関係の、線形思考の賜物だからである。だから、恋と愛の区別さえできないのである。そこで、その区別の大切さを、トートの、エメラルドタブレットから読み解き、紹介する。神秘の鍵人間よ わたしトートは、あなたたちに、わが叡智を授けるために降りてきた。あなたたちに、光の叡智を教えるためにきた。いまの人生を鑑みて、その経験から、よく学びなさい。そうすれば、この地上界を超える、宇宙意識からなる神界の叡智(虚空記録)を読み解くことで、全ての真実からなる宇宙の法則が見通せるようになる。私は、固有の波動の、肉体をもつ人間ではなく、宇宙のいろんな階層を出入りできる、完全に自由自在の波動の存在なので、波動を操作して、いろんな階層の次元空間を旅できる、いわば霊魂の意識のみの宇宙人である。全ての形ある物質は、形のない波動の、霊魂の法則からつくられるのである。この地上界を超える、神界には7柱の偉大な、主とよばれる光の叡智の神がいる。光の叡智により、その存在を、愛の力により、あなたたちに愛を送ることで、あなたたちと共にいることの存在を証明している。あなたたちは、この愛の力から、光の叡智を、音声の言葉として読み解いて、あなたたちの言葉の表現により、愛の力として、あなたたちの無限の存在を、永遠の生命を解き明かしなさい。あなたたちの言葉のなかに、愛の思いやりを、神が与えた、光の叡智をみつけなさい。この光の叡智をみつけることが、愛の真実を解き明かす鍵となる。神秘とは、あなたたちの霊魂の不浄な、闇により隠された光の叡智にすぎなく、人生の障害などの、不浄の闇のなかから、光の叡智を読み解くことで、あなたの、愛の真実を、解き明かしなさい。あなたの霊魂の奥底に眠っている潜在意識を、光の叡智による覚醒意識で、あなたが愛の真実からなるのを、人生において明らかにしなさい。そうすれば、あなたは、潜在意識と覚醒意識に均衡を見い出して、私トートのように、光と暗闇とを自由自在に制御できるようになるだろう。この後の話は、現代人には奇想天外なので、またの機会にしたいが、狛犬の話が残っているので、そこだけトートの言葉から、紹介したい。なお、トートによれば、地上にピラミッドが建設されたのは、上に紹介した光の叡智を補完するためで、これは人類には、古代の叡智と呼ばれ、虚空(アカシャ)記録の解読法だったという。ピラミッドは、いわば、その習得研修所で、人智学でいうところの、秘儀参入法の秘伝所であったという。だから、研修中に、未熟な霊能者だと、霊魂が抜かれたまま、冥界を彷徨ってしまい、しかも自然霊などを無暗に扱う黒魔術師だと、策士策に溺れ、自暴自棄に陥り、暗闇にハマり、肉体に戻れずに、肉体を失ったままになるので、ミイラになってしまうわけなんである。ここら辺の話は、現代人にも、冒険活劇の映画などにもなっているから想像しやすいだろう。いまでも、写真を撮ると霊魂が抜かれるなどは、秘儀参入法の失敗の名残りともいえる。悪魔は鏡を恐れる、なども同じだろう。つまり、不浄な霊魂の持ち主が、古代叡智を獲得しないための、門番をしているのが、狛犬の原型の、境域の守護天使たちなんである。現代では、ドッペルゲンガーとも呼ばれている。トートはエメラルドタブレットで次のように戒めている。安易で容易く獲得できる、暗闇の世界に入ってはいけない。必ず、迷宮に迷い込み、悪魔の奴隷となってしまう。光輝く叡智を授ける聖霊に教えを乞いなさい。聖霊の光こそが、恐怖や憎しみの暗闇を制御できる心の愛の真実なのだから
2024年10月22日
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最近の巷の、空を飛ぶ話題といえば、信じられないドローンの原型となったUFOの話と、信じられる大谷選手のホームランの話に、二分されるといえるかもしれない。神秘学を語るブログなので、まずは、信じられない話からはじめたいが、端的にいって、UFOとは、人類の知的レベルを観測し監視する、宇宙人の観測装置といえるかもしれない。それはUFOが墜落したりして、目撃されたときに、地球人が、天候の観測装置と、弁解することからもわかるように、地球人が、物質界の天候から、宇宙人を観測しているように、宇宙人も、地球の隅々を観測しているわけで、観測のレベルを比較しても、宇宙人の方が遥かに賢いのがわかるわけなんである。宇宙人にとっては、地球人などはほとんど無知で取るに足らない幼稚な存在だが、というのも、地球人のなかには、蛇を異常に恐れる人がいるのに、なぜ蛇を恐れるのかすらもわからないほど無知で、また地球人のなかには、悪人も沢山いるが、その悪人でも、パンドラの箱の意味が理解できていないぐらい無知だから、地球人の人類をヨチヨチ歩きの赤ん坊くらいに思っているわけで、「そっちにいったら危ないよ」、と母親がなんでも口に入れる赤ん坊から、危険な玩具をとりあげるか、興味半分で、コックリさんなどの悪霊交霊術などをする、子どもに警告するような感じといえるかもしれない。しかし、ここでいう宇宙人というのは、若干広義の意味で用いているわけで、狭義にいうなら、実は宇宙人のなかでも、現在の地球に関心のある、地球が誕生する前の、かつての地球の過去の天体に住んでいた宇宙人という意味になるかもしれない。勿論、地球人も、肉体から離れて、霊魂のままでいるのなら、広義の意味で宇宙人といえるかもしれない。何処から宇宙人で何処から地球人なのか、と問うのなら、現在の地球に適合した、地上に肉体をもつのが、地球人というか、地上人ということになるだろう。更に、人というからには、神と同じ自我意識をもつ存在ということになるので、少なくとも、自然霊の妖精たちは、自我意識をもたないので、地上人とは区別されるだろう。このような古代叡智は、アカシャ(虚空)記録を、霊能力で読み解いた神智学の知識体系からわかったことなんである。それによれば、地球は、UFOによりくまなく監視管理されているというのである。しかも、地球人自身でなるべく問題を解決できるように、地球人の自由意志をサポートしているというわけなんである。だから、スピルバーグの、未知との遭遇の、「We are not alone. 宇宙に生きるのは我々だけではない。」だけでなく、我々地上人の知的水準は、かつての地上人に、UFOで知的水準を監視管理されている如く、遥かに幼稚で、かつての地上人にも遥かに及ばない、というわけなんである。だから、地上人に核兵器をもたせるのは、赤ん坊に拳銃をもたせるようなもので、拳銃をもたせるのをやめさせないとダメで、拳銃よりも遥かにヤバい、愚かな権力者が自己目的のためだけに、宇宙の法則を濫用して、私欲を遂げようとしないように、そのような場合は、古代アトランティス大陸のように、民族や人種ごとに滅ぼさないと、天国の叡智には到達できない、霊魂のゲヘナを増やすばかりなんで、厳しくUFOで監視管理しているわけなんである。しかし、カリユガも終わったことだし、そろそろ地上の人類にも、霊能力を取り戻させるために、オカルトという隠された叡智を、少しづつ情報公開しはじめるようでもある。だから、宇宙人のUFO活動にとってみれば、未知との遭遇は、無知との遭遇の日々というべきかもしれない。その前に権力者からその地位を奪う出来事が起こるかもしれない。この無知の、「未知との遭遇」の他にも、レイダース~インディジョーンズは、スピルバーグ監督の冒険活劇映画で有名だが、主人公のインディのモデルは、個人的に、トートのエメラルドタブレットを書に記した神智学者Murielドリールだと密かに想っている。レイダース/失われたアーク《聖櫃》 - Wikipedia失われたアークとは、失楽した人類の象徴で、つまり蛇に唆され、善悪の知恵の実を食べ、霊能力を失い、カリユガに堕ちた人類を意味し、アークとは、三種の神器の霊能力のことで、神智学の光の輝きのイルミネーションのことである。再び、このイルミネーションを取り戻せるかどうかは、人類個人個人の努力と経験によると、トートのエメラルドタブレットから、ドリールが読み解いている。このエメラルドタブレットの七章に、前回紹介した「前世からのメッセージ」のマスターたちが述べているように、「人生は克服すべき障害で満ちている」と、同じようにトートが述べているのを、ドリールはこの書に解読し、したためている。この書は、宇宙のあらゆる法則を説いている書である。いずれ、この書を要約し紹介したい。前回は、愛と慈悲を体現させるのが、宗教で、宗教を現実化させるのが職業であるのを、人智学から紹介した。現在、もっとも日常的に、日本人に愛と慈悲のメッセージを送っている職業は、メジャーリーグの日本人選手ではないかと思うわけでもある。日本のためとアピールする、日本の政治家のほとんどは愛と慈悲を語る偽善の詐欺師でしかないだろう。ベースボールというように、地上で行われるスポーツなのだが、大谷選手によって、その情報は、いまや地上を越えて、地上の空を巡るスポーツとなっている。大谷選手のホームランが空を制覇しつつあるのだから、今度は、地下を制覇してほしいものである。大谷選手のような存在が、地底人として、存在するのかどうか?それについては、後に言及してみたい。このように、大谷選手の活躍が、天気のように、気になる、ここ最近は、巷のMLB観戦にすっかり夢中で、ほぼ毎日が野球観戦の日常である。はっきりくっきりいって、ブログを書いている、とりつく島もない。ベースボール観戦に専念したい気持ちもある。といって観戦に専念すると、今度はドジャースが負けるし、大谷選手は打たないし、やはり、ブログを書いた方がいいようなので、書くことにする。そんなにもなぜ大谷選手に肩入れしたくなるのか?冷静に考えてみると、やはり、日本人だからで、MLBが米国の象徴みたいなもので、かつての日米戦争で、敗戦国となり、占領された暗黒時代からの因縁で、いまだに日米地位協定という柵を受け入れ、米国人に、51番目の州とジョークまでとばされるような属国になりさがってしまっている現状を、大谷の活躍で、いっとき溜飲を下げられた感がするからである。大谷選手は一人で敗戦国のイメージを払拭している。日本がアメリカ51番目の州になったら「日本がアメリカを乗っ取ってしまう」大学教授の投稿に反響 - いまトピランキング (goo.ne.jp)知ってると英会話学習でも役立ちます! - ジャンヌ・ダルクも関係してた!イギリスの公用語はフランス語だった!?イギリスで英語が公用語になるまでの物語 (b-cafe.net)米国から与えられた民主主義の象徴が、野球でもあり、あとでそれがGHQの愚民化政策の3Sであるのに気づかされるが、愚民のなかから、大谷選手のような、米国の移民から選民を選ぶ大統領制を、凌駕するような人物が出るのは、痛快というか、敗者復活戦のような、死からの再生のようで、世の中捨てたもんでもない気がするからである。その一方では、独裁者の権化のようなトランプと、老人でヨボヨボバイデンの代わりにでた、ぱっと見の良さだけの付け焼刃のハリスの、どう見ても人材不足の感に堪えない大統領選が行われようとしている。今では物質欲で色ボケしてしまった体たらくの、このような現状の米国に日本は占領され、植民地となっても、そんなに意気消沈しなくて済んだのは、少なくとも、男には、野球というスポーツの楽しみが与えられたからかもしれない。女性には高校野球で郷土を応援する楽しみが与えられ、荒木大輔選手の追っかけや、ハンカチ王子などのアイドルが生まれた。野球は、米国による植民地政策の成功例かもしれない。しかし、いまだにその現状を受け入れられずに、明治政府の官制日本史の御用学者などは、日本は植民地化を免れてきた、というような、西欧向けの体裁のいい建前論を持ち出してくるが、八切史観の、被差別原住民による歴史観を無視しなければ、白村江の戦いで敗戦してから、すでに唐の属国に成り下がって、漢字を受け入れていたのがわかるはずで、中国制の仏教を遣唐使で派遣して、昭和のGHQの愚民化政策と同じように、大陸文化を受け入れていたのが、朝貢外交からもわかるわけなんである。朝貢 - Wikipedia野球と漢字とを比較できないが、日本の古代史については、以下の動画が詳しく調べて紹介しているので、載せておきたい。巷では台湾有事が問題となっているが、台湾の独立問題に絡んで、日本も本当に米国から独立しているといえるのか? 米軍駐留のために、国民が犠牲を強いられていないのか?怪しくなってくるわけでもある。他国の台湾の独立には関心が深いが、日本の独立については官僚の言うなりに税金を納めているのに気づかないのは、いかにもお人よしの騙されやすい日本人らしい気質といえるかもしれない。中国が台湾の独立を認めないように、米国も、日本の独立を認めないのは、日米地位協定の改定に特に米国の意向を傘にして権力を握る官僚たちが神経質になっているのでわかる。日本の核保有に対して、真剣に反対しているのは何よりも日本に原爆を落とした米国なのだから、その利権に従って、国民に税金負担を強いる官僚には、それだけ利権には旨味があり、同胞を裏切る、前回紹介した悪魔のような、他者を犠牲にして権力を掌握する、日本人が増えたということが、裏金問題となって明らかになってきたのがわかる。反米主義の鳩山家が失脚したのも、権力を握って離さない官僚世襲制の為せる業ともいえるかもしれない。いずれにしても、権力者に世界を纏める能力がないのは、権力欲すらも捨て去れないからで、そのために人類同士を殺し合いに参加させるような戦争という大量殺戮の暴挙すら私利私欲で行う愚か者たちだからである。国民を巻き込まずに、単独で相手国に行って、命懸けで交渉し、ダメなら、自分の生命を捧げればいい。権力欲旺盛な人物は履いて捨てるほどいる。国民のために生命を捧げられない権力者は権力者たる資格がないからである。日本人が世界を一つにまとめる為の基礎知識【総・総集編】 - YouTubeさて話を日本から、ドジャースの米国に戻したい。司馬遼太郎氏によれば、英国人のなかには、米国人を植民地人と呼んで差別する者もいるらしく、米語を植民地語と解釈する者もいるかもしれないが、英語の源流を探せば、ノルマン人の征服によるフランス語の民衆化にはじまり、それよりも前に遡れば、北欧のヴァイキングの古ノルド語に起源を発するらしい。そして、古ノルド語がルーン文字を使用していたのがネットをググるとわかってくる。ルーン文字といえば、関係が深いのが北欧の神話を伝承したドルイド僧である。ドルイドとは、オークの木を意味し、それはドルイド僧が使ったオガム文字をみれば、樹木の名から、なにやら、易経の算木を髣髴とさせるので、恐らく、古代の計算法だったのだろう。ドルイド僧は、オガム文字を用いて、天体の軌道を計算したのかもしれない。だから、ドルイド僧は古代の天文学を司った、日本でいうところの陰陽師であった可能性が高いといえるかもしれない。英語はいかにして世界の共通語になったのか|IIBCの活動|IIBCについて|IIBC (iibc-global.org)古ノルド語 - Wikipediaルーン文字 - Wikipedia魔術と神話の深い関係!ルーン魔術と北欧神話について | 通信教育講座・資格の諒設計アーキテクトラーニング (designlearn.co.jp)中世北欧のルーン文字と言葉(古ノルド語)|北方 碧(JAMIE) (note.com)オガム文字 - Wikipedia歴史に浅い英国人のなかでは、米語を植民地語と捉えているが、英語すらも、実はドルイド僧の天文学から与えられた天体運動を起源とする、言語体系であるのが、英語史から、霊的に読み解けば、わかるわけで、以前紹介した古代エジプトのファラオの娘スコタを起源にするスコットランド王ロバートブルースの話となにやら被ってくる。そして、ブルース王が活躍した時代の13世紀に、イギリスは英語を国語とするのである。英語史 - Wikipediaハノーヴァー朝 - Wikipediaしかし、そもそも現代の英国王室につながるハノーバー朝が、ハノーバーの旧ドイツ出身なのだから、北欧の古ノルド語を起源とする英語が、ドイツを再び経由して、ブリテン島で再会したようなものである。言葉が先に上陸してから、当時の古英語のいわばドイツ語を話すジョージ王が18世紀に上陸してきたわけなんである。この歴史的な事情は、渡来人の集合体の朝廷が君臨し、朝廷語が次第に京都の民衆に浸透し、独特な京言葉となった、日本の京都を髣髴とさせて面白い。イギリス人が京都に愛着を感じやすいのも、外様の王様がやってきて懐かしい古代文化を広める、この歴史的背景が似ているせいなのかもしれない。しかも、上に紹介した動画、「日本人が世界を一つにまとめるための基礎知識」によれば、日本語の「大王」が、西欧ではギリシア経由で「デウス」から「デーヴァ」となったというから、西と東が、日本で出会うようなものである。このように、人類は天体の運動を言語化することで、ドルイド僧から、ブリテン島の住人と、北欧などの西欧大陸の住人とが、言葉のキャッチボールで、言語のスポーツというか、ルール化というか、英語という国境を越えて、愛や慈悲を語り合う国際語が生まれるようになった。そこには人種や民族を越えて言葉を楽しむ文学が生まれ、心のやり取りが行われている。そしてまた、そこには、天体の運動を唯物的に計算し、計算から秩序だった法則を導き出した観測態度が、国境を越えて、民族や人種を越えて、現れてきている。そしてその成果は、唯物的な形だが、物質科学として現れている。つまり、天体の運動を観戦し、宇宙のプレーを記録し、解説するうちに、言葉のキャッチボールから科学が生まれたのがわかる。さて、そこで、今度は言葉のキャッチボールから、ベースボールのスポーツに話を戻したい。大谷が活躍しているドジャースは、ドジャースブルーといわれる青色を基調としているチームなのである。このドジャースブルーのイメージは、以下のサイトによれば、「チームが移転する前から、この青はファンの心をつかんでいたことは間違いありません。その理由の一つに、青は自然界でよく見られる色であり、親しみやすく、安らぎを感じさせるからだといわれています。また、青は信頼感や知性を象徴する色でもあり、スポーツチームのイメージカラーとして適した色と言えるでしょう。」とあるように、信頼感や知性を象徴する色のイメージは、恐らくブルーブラッドに端を発しているようにもみえる。ドジャーブルーとは?ウェブカラーが存在している!? - Dezaiinブルー・ブラッド - Wikipediaそして、自然界でよくみられる色で、安らぎを感じさせる色の、「青い」血の源流を神智学に探ると、非常に面白いことがわかる。というのも、青という色のイメージの源流が、古代アトランティス時代の青色人にあるからである。神智学では、アカシャ(虚空)記録を読み解いて、古代アトランティス時代に人種ができたといわれているが、いまは地上にはいない、黄色人、黄金人、青色人、緑色人などがいたといわれている。現在の黒人は、青色人と緑色人の混血から派生したという。そして、古代エジプト時代には、赤色人、黄色人、黒人、白人の4大種がいたという。この黄色人は、古代アトランティス時代の黄色人の子孫で今は滅んでしまい、赤色人と混血し、いまの古代エジプト人のイメージの、浅黒人となっているという。聖書に記されているアダムの種族とは、赤色人のことらしく。アダムは本来、赤色の土という意味をもつらしい。神秘学でいえば、土は固体=物質なので、赤色の肉体を持つという意味になる。赤色人については、以前に、赤髪のモーセの話から、アシュケナージユダヤ人について紹介したが、今はまだ神智学を完全に理解しているわけではないので、詳細に語るのを控えたい。エメラルドタブレットも、現代人には理解不能な奇想天外な話が書かれているが、この青色人についても、現代人には、かなり理解困難な話で、それは地底人の話で、地上と地下を監視する、いわば監獄の管理人という話なんである。この青色人が、古代アトランティス滅亡後、そのごく少数が、ブリテン島に住みつき、地球の内外の監視管理体制をつくったというのである。そしてそれが、地上では、青色の粘土などで全身を塗りたくったブリトン人に受け継がれていったというのである。少し前に、欧米で、ブルーマンが流行ったが、恐らく、このブリトン人のイメージがモティーフになっているのかもしれない。ブルーマン - Wikipediaこの青色人たちが、地上の人類の監視管理をしている以外に、実は大変重要な役目があり、それは地中深くの地球の核内に閉じ込められている、以前このブログでも何度も紹介した、かつて地球を支配した悪の権化のエックスジアンの蛇人を監視管理するためなんである。そして、この地球の核に閉じ込められている、次の地球の進化舞台には進めない、霊魂のゲヘナとなってしまう悪魔のエックスジアンたちが、パンドラの箱に閉じ込められている、というわけなんである。このパンドラの箱をかつて開けてしまい、地球人を蛇人の支配の奴隷の地としたのが、リリスという女性といわれている。リリスについてはエメラルドタブレットにもでてくるが、詳細は解読中といわざるをえない。パンドーラー - Wikipediaいずれにしろ、地上人は暗黒の道に進むべきではなく、光の輝く道へと、努力と経験を結集して、困難でも進んでいかなくてはならない。それが人類に与えられた十字架の試練で、天国への33階の階段なのである。33階とは、時間と空間の数を意味するようで、次元と、位階といわれている。そしてそれは人体の脊柱骨の数にも反映されている。別名で、ヤコブの梯子ともいわれているが、それは愛が深まるほど頭部の安心の天国へと上昇し、逆に、憎しみが深まると尾骶骨の怒りの地獄へと下降していくからである。努力と経験で、上昇するのか、それともそれらを放棄して、下降してしまうのか、それは、あなたのなかの、青色人がUFOに乗って監視管理し、接近遭遇する度合によっている。人体のなかのUFOをみつけないといけない。
2024年10月17日
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「はたらけど、はたらけど、猶わが生活(くらし)楽にならざり、ぢっと手をみる」という短歌をつくった石川啄木は、その伝記によると実際は、この短歌とは、ギャップ(職を転々とし、女性問題、借金問題に追われる日常)のある生活をしていた、というのは、割と有名な話である。【はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞など | 短歌の教科書|短歌の作り方・有名短歌の解説サイト (tanka-textbook.com)とりあえず、石川啄木にとっての労働の価値観は置いておいて、この短歌を、人智学で再考すれば、労働が生活向上の手段でない、のを明らかにしているのがわかる。つまり、逆説的にとらえれば、いくら労働しても、裕福な生活が身につかないのは、自分の幸福が、そこにはないからで、暮らしが楽にならないのは、前世の自分の振る舞いに起因しているからで、労働で与えられる金銭で、幸福(一時的には得られるが、永遠ではない)を得ることはできず、つまり、幸福が内からくる真理を物語っている、句といえるわけなんである。だから、恐らく、「ぢっと手をみる」というのは、半ば諦めの境地で、自分の人生の運命を、手相に委ねたのかもしれない。自分の手相の、金運でも調べてみたのかもしれない。とにかく、手をみて、「自分の人生って、何なんだろうか?」と問いかける短歌である。喜劇的にいうなら、前世が裕福だったからだよ、という答えがでるかもしれない。前世が裕福だと、今度は貧困に生まれてくるからである。このように、人生には何度も逆境ともいえる、障害といわれる、行き詰まりが準備されている、順風満帆であったら、人生からは何も学ばないからである。職業や仕事がなければ、嫌な人とも話さないで済むし、思い通りにいかないからこそ、人生を生きる意味がある。かの天下人の、徳川家康だって、人生は重い荷物を背負って歩くようなものである、と言ったようにされているわけなんである。人生は、思い通りにいかないし、至る所に障害が張り巡らされている、障害競走のようなものかもしれない。戦争はなくならないし、政治家のような、権力で、他人を支配しようとする自己顕示欲が強い人も沢山いる。以下のような、他者を犠牲にし、自らの目標達成を目指す悪魔のような、自分さえ良ければいいという人などに、職場で関わったら、ぢっと手をみるどころか、生命がいくつあっても足りないブラック職場と化すだろう。他者を犠牲にし自らの目標達成を目指す「危険」なマキャベリ的人物、2つの特徴(Forbes JAPAN) - Yahoo!ニュースこのような悪魔のような人物と遭遇すると、職業が行き詰まり、過労死などで、人生も行き詰ってしまう。特に、日本社会の場合は上下関係が厳しいので、先輩や上司にこのような人物がいると、人生が行き詰まりを迎えてしまう。自分も半世紀も物質界を生きてきたので、このような人物は、結構多く、自分を賢いと思っている節があり、他者の意見を一切聞かずに、自分の価値観を押し付けてくるので、随分と苦労させられた。このような行き詰まりの場合は、とにかく環境を変えるしかない、と思われる。シュタイナーの「職業のカルマと未来」の本を書いた訳者の西川隆範氏が、この本の冒頭で、自身の職業経験を載せているのだが、なかなか参考になる。その序論で、西川氏は、マックスウェーバーを紹介しているのだが、ウェーバーは、職業を神から与えられた使命と捉え、禁欲的に労働する近代西欧人の生活態度がプロテスタンティズムに由来し、その生活態度が、合理的な営利追求という資本主義の精神をつくった、と考えたという。マックス・ヴェーバー - Wikipediaアダム・スミス - Wikipediaつまり、神に仕える精神で職業に奉仕すれば、その奉仕の精神が資本主義の合理的な営利追求となり、アダムスミスの、神の見えざる手と同じような、市場原理の合理的な営利追求となる、というわけなんである。神の見えざる手とは、以下のサイトを参照に。 ☆ ☆ ☆K.Kawabata_courses (kobe-u.ac.jp)今回はアダム・スミス(1723-1790)という人についてのお話しです。アダム・スミスは「近代経済学の父」と呼ばれていて、現代の経済に多大な影響を与えた人です。『国富論』(「諸国民の富」とも呼ばれる)を書いた人としても有名です。 この『国富論』については、いくつかの重要なポイントがありますが、特に有名なのは「神の見えざる手」と言われるものです。これは「市場経済において、各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体において適切な資源配分が達成される」とする考え方を指します。つまり各個人が利益を追求することは、一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えるけれども、あたかも「神の手」によって導かれるように、社会全体の利益となる望ましい状況が達成されるというものです。これは「市場メカニズムを重視する」考え方で、現代の経済学の基礎となっています。 ☆ ☆ ☆このアダムスミスの、神の見えざる手とは、現代人は唯物論に染まっているので、神を、モノを支配する市場の悪魔に解釈し、利益を、主に金銭の貨幣などの物質的な信用手形とみなしているから、人間同士で殺し合う戦争沙汰にもなってしまうわけで、ウェーバーのプロテスタンティズムからわかるように、神というからには、その利益が、愛や慈悲に相反しないものでなくてはならない。つまり、早い話、職業が金銭を巡って対立を起こすようなものであってはならないわけで、それでは、悪魔教崇拝になってしまうだけなんである。利益というからには、宇宙全体にとっても、人類全体にとっても、共に愛や慈悲を深め合うものでなくてはならないからである。端的には、一人勝ちであってはならないわけで、ウインウインの特定の二人勝ちの癒着でもよくない。全員が負けない、敗者のないシステム変換が肝要なのである。どういうことかというと、モノではなく、心の発展でないと意味がない。利益とは、愛や慈悲が深まらないと意味がない。愛や慈悲の感受性が高まらないとダメなんである。つまり、アダムスミスが、求める市場での自己の利益も、ウェーバーが、求めるプロテスタンティズムの資本主義の精神も、共にそこに、カルマの解消と輪廻転生がなければ、絵に描いた餅なんである。カルマの解消が、今生の自己の人生の目的で、だから、自己の利益になるわけで、自己の職業に、プロテスタンティズムの資本主義の精神が生かされるには、自己の職業が、前世での自分の行為に由来しているからこそ、禁欲的な奉仕の精神が、キリストの説いた、富を積むのなら、天国に積むべきである、に叶うわけなんである。早い話、いかなる職業も、宗教にならないとおかしいわけで、それは金銭だけを求めるのではなく、自分の愛や慈悲の精神を高め、深めるものでなくてはならないわけなんである。だから、職業や人生に行き詰まっている場合は、信仰から外れていることを意味しているわけなんである。そこで、ウェーバーの説く、プロテスタンティズムの資本主義の精神では、「神に祈って、働きなさい」というわけで、この場合の神とは、今の現世の、自己をつくった、過去世の、自己のなかの、カルマによるバランスの自己のなかの核のことになる。この本来のプロテスタンティズムが、悪魔教となってしまったのは、カルマと輪廻転生が抜け落ちてしまい、現世だけの一回の地上生だけしか、考えられなくなってしまったせいと、シュタイナーは何度も指摘している。このプロテスタンティズムが、仏教の在家信者の意味でもある。簡単に紹介すると、「日常生活と別個に精神修養があるのではなく、一心に仕事に打ち込んでいれば、悟りは開ける」というわけなんである。この「一心」とは、勿論、自分だけの、金銭的な、モノ的な利益だけではなく、それらの全体を生かそうとする、宇宙全体の発展に寄与することなんである。在家 - Wikipedia一心で打ち込んでいなくても、人生には、至る所に罠や障害が張り巡らせられていて、思い通りには、生きられないようになっているわけなんで、実は、この一心は、多心でもあり、多心を高め深めていくと、一心に結びついていくわけなんである。だから、一心というよりも、人生を生き続けようとする自由な意志とでもいうべきかもしれない。悪魔の罠や、障害を乗り越えて、自由に生きる、クリエイティブな心、愛と慈悲を感じ、高め、深める心というべきかもしれない。さて、西川氏は、序論で、続けて、シュタイナーによる、ゲーテの職業観を紹介しているが、ゲーテは、若い秘書エッカーマンに、「有用な仕事に力を集中して、君の為にならない仕事は、全て放棄したまえ」とアドバイスしているという。そして、ゲーテ自身も、多面的な洞察を得ようと努め、活動面では、ただ一つのことに自分を限定したという。また、ゲーテは、「自分の本領にとどまって、能力以上のことはしない。生産的でない日や時間には、むしろ雑談や居眠りをしたほうがいい。そんなときにモノを書いたりしても、後で、嫌な思いをするだけだ」などを述べているという。つまり、ゲーテもネタ切れのときは、雑談や居眠りをしたわけなんである。ネタ切れといえば、随分前にTVのニュース番組で、ネタ切れのときにはどうすればいいか?の話題で、三谷幸喜氏は、「ホテルのベッドと壁の間に挟まって寝る」と応えていたのが、いかにも喜劇作家らしい、ネタ切れとの格闘が喜劇になっているが、終いには睡魔に負けて寝てしまうわけで、ネタ切れのときは、とりあえず寝るしかないように思われるが、色々な意見も調べる意味で、ネットでググってみると、以下のような、主に漫画家だが、色々な対処法がみつけられる。 ☆ ☆ ☆アイディアの出し方のコツ ネタ切れを克服できる3つのB - ログミーBiz (logmi.jp)「横になり目を瞑る」「お風呂に入る」など、音楽や映像など余計な情報がない状態で思考を巡らせると、さっきまで思いつかなかったアイディアがすっと出てくる時があります。机に向かって出るアイディアは、あんまり期待できないことが僕は多いです。ネタに詰まった時は、知らず知らずのうちに影響を受けるのが怖いので、なるだけ仕事から遠い事をやります。1,一旦作業から離れて、映画を観る、街に出るなど他のことをしてみる。思いもよらぬところからヒントが降りてくることがあります。2,人と話す。「こういうところで詰まってるんだけど…」という話題から始めて、連想される漫画の話、最近読んだ本や観た映画の話、お互いの体験談など、話を広げていきます。すると、思わぬタイミングでネタが降ってきたりします。1と2どちらも、楽しみながら「視野を広げる」「インプットする」ための方法です。漫画のネタ出し・詰まった時の対処法【漫画家調査レポート】|マンナビ マンガ賞/持ち込みポータルサイト (mannavi.net)有名なやつなんだけど、「アイデアが出る3つのB」ってやつ知ってる? 結構コテコテで有名なやつなんだけど。俺、本当にそうだと思ってて。1個はBusね。移動中。車に乗ってる時。あと、Bath、風呂。あと、もう1つ、Bed。寝てる時、寝起きってところ。アイデアってどうしたら良いかって、これすごくおもしろいんだけど、基本的に血流なんですよ。だから、ここが(首の後ろ)が詰まってるとアイデアが浮かばなくなる。スピリチュアルの人はよくね、ここに(首の後ろ)に入ってくるとか言うじゃん? 僕は昨日ヨガに行ってきたんだけど、ヨガに行くとここが(首)が通るんで、アイデアがすごく湧く。☆ ☆ ☆上の、Bus、Bath、Bedの3つのBには、私も経験上、助けられた思いがある。共通するのは、気分がリフレッシュされるとき、つまり、バスに乗っているとき、風呂に入ったとき、ベッドで寝起きたときなどの、睡魔に襲われ、ふとウトウトしているときに、アイデアが、ふっと浮かんでくるというか、降りてくるような気がする。シュタイナーは、ドイツの田舎町の風習の、寝起き時にはすぐに日光に当たらずに、数分間、暗闇のなかで、想いにふける、のを紹介し、そうすると、天使たちからその日一日の生活への助言が与えられ、アイデアが、思い浮かぶ、と推奨している。これは、例えば、スポーツでのタイムアウトの作戦会議みたいなものといえるかもしれない。現代社会では、自給自足はかなり困難なので、生活費を稼ぐためには、働かざるを得ないが、働き続けるには、仕事についてのアイデアは必要不可欠で、だからして、3つのBなどの、天使たちの陰からの助言が必要不可欠なのがわかる。私の場合は、いまは、「前世からのメッセージ」のマスターたちの助言である。『「前世」からのメッセージ』のマスターたちによれば、人間は自分自身を四角い氷のように、一人一人が物質的に分離した存在だと思い込んでいる。しかし、実は、人間はみな互いにつながり合っている、同じものなのである。だから、自分と同じバイブレーションを持つ人とだけつきあっていればよいというわけではなく、自分と同じレベルの人に魅かれるのは当たり前の話で、しかし、それだけではいけない。自分のバイブレーションとあわない人たちとつきあうのもまた必要なのである。このような人たちを助けるのが、大切だからである。永遠の道とは、内に向かうもので、これは外に向かうものよりも困難な、苦痛の多い旅である。人間は、自分の内なる喜びの感覚に全責任を負っている。内なる喜びの感覚に全責任を負うために、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。 ★ ★ ★前世の仕事夢のなかで、訂正者が、起きているときに行われた教育を、訂正するのを通じて、指摘したいのは、人間の霊魂のなかに、全てが存在し、それが受肉から、次の受肉へと進んでいく、ということである。ある受肉から次の受肉に作用する力の源泉があり、この力の源泉である、霊魂の核と、生まれてから死ぬまでの人間の生活との間にどのような関係があるのか、よく考察する必要がある。人間はいわば四弦の楽器で、カルマが演奏される。自我、アストラル体、エーテル体、肉体(物質体)の四弦から、演奏されるわけである。四弦なので、バイオリンと同じなので、バイオリンで譬えてみる。カルマの弓に擦られて、4つの体の振動による組み合わせで、音楽が生まれ、個人の人生が音色として奏でられる。多様な音色で、この四弦が演奏される。空虚な一般的な抽象論ではなく、具体的に語ろうとすると、人間の生活のメロディーを解説するのは非常に困難である。カルマの弓が、人間の四弦をどう演奏するか、を見れるときにのみ、実り豊かに解読できるからである。その際、地上生での一般的な観点も考慮しなくてはならない。「人智学観点からの子どもの教育」で書いた肉体と、特にエーテル体が成長する、子どもの成長期を考察する。凡そ、7歳から14歳までの子どもの成長を考察してみる。そうすると、この時期に、特に際立つ特徴が現れるのがわかる。この時期に人体の成長が強まるのがわかる。子どもの成長は複合的なので、生まれてから7歳までのときにも現れるが、7歳から14歳までに明確に現れるので、深く観察できる。身体や振る舞い全体を通して、はっきりした特徴がこの時期の子どもに現れる。姿勢、身振り、生活態度などの表現が、振る舞い全体に、例えば、ずんぐりした姿、短躯、長身などや、しっかりとした足取り、踊るような歩み方などである。子どものときの成長の全部ではないが、大部分は、前世の職業のカルマの作用に由来する。この霊的な事実を無視し、日常生活の表面に現れる姿勢や、振る舞いによって、職業を決めようとすると、間違いを頻繁に犯すだろう。その子どもが前世で就いていた同じ職業に就かせようとすると、過ちを犯し、その子のためにならない。この子どもの成長期にみられる大部分が、前世の作用だからである。(前世とは異なる人生を送るために生まれてくるわけで、同じだとまた同じ過ちを繰り返すので、千日手で、無意味だからである)この子どもの成長期の前、もしくはその後に、特にアストラル体が現れる。そして、アストラル体は、現れる前に形成された肉体やエーテル体に作用する。人智学を知っていれば、それが外的な物質界でも観察できる。7歳から14歳までの子どもの成長期に、職業のカルマを通して純粋に現れた肉体やエーテル体を、アストラル体は、他のカルマの作用によって改変する。つまり、人体のなかに、相反する二つの力があることになる。一つは、一回きりの人生の、現世に沿って人間を形成する力で、エーテル体に由来する。もう一つは、この力に対抗し、部分的に、中和し、無効にする力である。このアストラル体に由来する力を通じて、前世からくる職業のカルマが構築した人体を改変する。だから、「エーテル体は、形成的に作用する。アストラル体は、改変的に作用する」のがわかる。肉体の振る舞い、姿勢は、エーテル体に由来する。実際に激しく争っている、この二つの力を通じて、職業のカルマの作用が表現される。
2024年10月15日
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「自分は何をしている時に、安心や平和を感じるだろうか?」という疑問は重要である。「何をしているときに、自分という存在を感じられるだろうか?」 自分という存在を全体的に感じるとき、外界の、何者にもとらわれずに、外界からくる何の束縛感もなく、内面的に、全く自由である、のがわかる。だから、マインドフルネスとは、一般的に瞑想と考えられているが、自分のなかにある、自由の意識に目覚め、自由を感じる体験といえるかもしれない。前回は、マインドフルネスについて、神秘学から、割とざっくりと紹介したが、巷では、一般的には、唯物論に染まり切って、以下のウイキのような、わけのわからない解釈が罷り通っている。脳科学などから、心を機能的に、物質的に解釈する考え方が間違っている、のに気づいていない。巷のマインドフルネスなども、現代の解釈から生まれた、例えば、空海さんの物真似をしたり、南無阿弥陀仏やら、南無妙法蓮華経と唱えるだけで悟れるなど、と言うような、末法と全く同じ出鱈目と言わざるをえない。ちなみに法華経とは、末法について、厳しく論じ、お釈迦さんの教えの根本に還ろう、とするお経のようである。しかし、そのような法華経からも末法の連中が生まれてしまっては元も子もない。マインドフルネス - Wikipedia第一、そんなに簡単に悟れるのなら、なんでお釈迦さんでも、伝説となっているように、人生を通じて、散々に苦労したのだろうか? 不思議でもある。例えば、末法が説くように、そんなに簡単に金銭などで悟れるのなら、金持ちなど悟りきって、金銭などなくても、生きていけるのだから、金銭を貧困問題の解決に役立てているはずなのに、一向に貧困問題はなくならず、人災や天変地異ばかりで、人類は、益々、論争、闘争を好んで、戦争に明け暮れ、逆に益々格差社会を拡げて、その上で胡坐をかいている悪魔のような連中を生み出している現状全ては、末法の為せる業である。現代人のほとんどが、金持ちなどにならずに、お釈迦さんのようにホームレスで生活できないと、仏教が説く世界観から逸脱し、世の中が、おかしいわけなんである。このような格差社会の、差別社会の、地獄の世界を考察し、金銭をいくら積もうが、マインドフルネスには到達できないばかりか、益々平和や安心から遠ざかる現状を考えてみるべきなんである。偉人などと崇め奉るような人物も、実はボンクラ詐欺師でしかなく、金銭欲や名誉欲の奴隷に成り下がっているわけで、悟るどころか、悪魔の手先に成り下がり、自分が地獄に堕ちているのさえ気づかないでいるようなのばかりなんである。戦争をする独裁者や、金銭で仲間を買い奴隷のように扱う経営者たちを見れば明らかである。また、現代のマインドフルネスは、仏教の瞑想を基にしたものと解釈されているようだが、そもそも現代の仏教が末法になっているのだから、末法から何を解釈しようが、末法に変わりがない。というのも、肝心なカルマの法則と輪廻転生を想定しないから、自分がどこからきているのか、も読み解くことができないからである。自分がどこからきているのか、わからないから、独裁者になったり、金銭で仲間を買うようなことをする悪魔の手先に成り下がるわけなんである。そして、自分が他人にしたことを将来思い知る人生を送ることがわからないほど馬鹿で愚かなんである。悪いことをすれば、悪いことだとわかるような人生を送る羽目になるのが、悪因悪果の意味でもある。だから、いますぐにでも、善いことをしないと、いけないわけで、だから、マインドフルネスが意味をもつのである。簡単にいえば、マインドフルネスとは、自省、内省である。内省 - Wikipediaだから、マインドフルネスの真意は、自分の前世を、現在の自分の境遇から推し量ることにある。自分の前世を読み解けないから、わけがわからずに、子どもの遊戯のような、以下のような、末法の物真似に走るわけなんである。 ☆ ☆ ☆マインドフルネス - Wikipedia 現在のマインドフルネスと呼ばれる言説や活動、潮流には、上座部仏教の用語の訳語としてのマインドフルネスがあり、この仏教本来のマインドフルネスでは、達成すべき特定の目標を持たずに実践される。 医療行為としてのマインドフルネスは、ここから派生してアメリカで生まれたもので、特定の達成すべき目標をもって行われる。 マインドフルネスは、大きくこの2つの流れに分けられる。 医療行為としてのマインドフルネスは、1979年にジョン・カバット・ジンが、心理学の注意の焦点化理論と組み合わせ、臨床的な技法として体系化した。 心をリラックスさせたり、清めたり、思考を制御したり、不快感を即解決することではない 1881年に原始仏教の経典に使われているパーリ語の学者であるトーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズが、八正道におけるsammā-satiをRight Mindfulness(the active, watchful mind)と訳したのが、sati が mindfulness と英訳された最初である。サティとは「心をとどめておくこと、あるいは心にとどめおかれた状態としての記憶、心にとどめおいたことを呼び覚ます想起のはたらき、心にとどめおかせるはたらきとしての注意力」であり、この「心をとどめておく」「注意」などの意味が英語の mindfulness の含意と近かったため、英訳として選ばれ、mindfulness が仏教的な意味を帯びるようになった。ヴィパッサナー瞑想 - Wikipediaさまざまな流儀のものが存在するが、共通するのは「今という瞬間に完全に注意を集中する」ということである。何をしていても「今・ここの自分」に気づいていく。この「気づき」(巴: sati, サティ、梵: smṛti, スムリティ、英: mindfulness、漢語「念」)が、この瞑想のもっとも大切な技術である(したがって、「気づきの瞑想」とも呼ばれることがある)。このようにして自分を客観的によく観ていく実践によって、心を成長させることを目指すのである。 ☆ ☆ ☆以上に紹介したように、神秘学が説くマインドフルネスとは、上のヴィパッサナー瞑想に近いが、この瞑想は、カルマや輪廻転生を読み解く、霊能力に言及していないので、ホンモノとはいえない。日本の神道には、「中今」という瞑想法のようなものがあるが、それに似た瞑想法で、「この自分が、いまこの地上にいるのは、前世からの因縁によるものを自覚して、現世から、更なる来世の自分をつくる」ことなのである。というのも、前回、シュタイナーの職業のカルマから紹介したように、人間の頭部は、前世の自分の行為からつくられていて、その他の人体、胸部や腹部四肢は、現世に適合するために、両親の肉体を見本にしてつくられたわけなので、自分の人生のなかには、前世からの自分の横のつながりと、現世の両親との、縦のつながりから、生まれるので、人間は十字架を背負って生きている、というわけなんである。つまり、自分が前世で他人に為した行為を経験するために、現世で、両親の関係を選んで、その絆を舞台として生まれてくるわけなんである。だから、前世の半ばで最も親しい人が、来世の両親になるように、自分で選んでいるわけで、それがカルマとなっているわけなんである。だから、人体の頭部と、腹部四肢とは、真逆の対応になっているわけで、例えば、左脳が、右半身とつながり、右脳が、左半身とつながっているわけで、内と外との鏡像関係になっているわけなんである。つまり、頭と他の人体がカルマの鏡像関係になっているから、自我が生まれるわけなんである。前世と現世の自分と他者の鏡像関係が、現世の頭部と、他の人体の鏡像関係に反映されるから、しかも、他の人体は、両親をモデルにしてつくられるので、外界との親密な関係からつくられるので、人間として活動できるわけなんである。この鏡像関係を、人智学的医術から考察すると、人体の破壊過程と構築過程としての、以下のような、陰陽の関係が明らかになってくる。 ☆ ☆ ☆ 人体の、内と外の作用の相違から、人間と外界との相互作用を、次第に見通せるようになる。人体内でのシリカの循環過程から、自我が、相反する四肢や腹部の新陳代謝に作用するときには、生命力を最大にして作用し、自我が、頭部に作用するときには、物質の破壊力を最大にして作用するのがわかれば、自我が、人体に応じて、多種多様に働く、のが見通せるようになる。さて、人間の自我と四肢-腹部の代謝系の相対関係に注目すると、人間のエゴイズムの起源が、本質的に、この相反関係のなかにある、のがわかる。人間の性も、このエゴイズム(利己主義)に含まれる。そして、自我は、この性という迂回路を通して、人間の本性にエゴイズム(利己主義)を浸透させる。人体の、頭部と腹部及び四肢が、それらを仲介する胸部を基点とし、その対極なのを理解すれば、おそらく次のような事実に気づくはずである。「自我が、四肢に作用するように、シリカを用いる方法に対して、自我が、頭部に作用するように、シリカを用いる方法は、相反し、対立するのでは?」頭部でのシリカの作用について、自我は、いわばエゴイズムから解放される。そして、この頭部のシリカの作用を、人智学で探求すれば、このシリカの作用が、物質の破壊作用なのがわかる。 頭部とは対照的に、自我の、四肢でのシリカの奇妙な作用を、図(下図)で表現するなら、次のようになる、「四肢での、自我は、統合的な作用(図参照、赤点線と内部のピンク)で、本質的に、人体を統合し、いわば、液体のように流動的で、区別なく、統一へと結合する作用で、従って、四肢では、自我の区別のない、固体化しない未分化な、一様な全体作用となる。」対照的に、頭部での作用は、上図の、金点線の矢印で表わされる個別化、多様化を示す。この頭部の作用は、四肢での液体のような統一作用、物質力がそれほど強くない、同じシリカのプロセスの、この四肢での自我の統一作用とは、相反する(上図参照、金点線矢印)。この頭部での作用は分類化を行い、崩壊の作用である。だから、人体は、シリカにより、下の四肢から区別なく統合され、上の頭部からは分類化され、互いに異なった作用を行う。すなわち、頭部で、分類され、組織化する力は、個別の器官に作用する為に分類化されている。いわば、頭部での独特のシリカプロセスによって、この物質化の作用は、諸器官のなかで秩序正しく働くように、心臓、肝臓他に対して、適切な振る舞いを行うように、(ホルモンのような分泌作用として)誘導されている。 シリカプロセスを前にして思い浮かぶ、人体の循環プロセスは、下から上へと作用すれば、人体全てを万遍なく、混ぜ合わせ、上から下へと作用すれば、人体を分類化区分し、いわば組織化しながら統合支配して、個々の器官を順調に活動させる基となる。人体は一方では、下から上への混合によってつくられ、他方では、上から下へと、様々な器官への区分化、統合組織化しながらつくられ、その相反によって生じる事象について、個人の自我の特性による、この相反する混合と分類の、均衡の恒常性が、いかに不規則になり得るか、の直観が獲得できれば、当人に何らかの異常があれば、この均衡の、方向性に従って、当人を治療する技術を学び、獲得していけるようになるだろう。 ☆ ☆ ☆このように、人体の疾患などは、頭部とその他人体との均衡、バランスの不具合から生じるわけで、そして、それを調整しているのが、自我で、その自我は、前世と現世の均衡、バランスを調節統合し、その不具合が生じると、次の転生の自我として、バランス回復力として持ち越すわけなんである。だから、マインドフルネスにおいて、自我を知らないと、そして、その自我の前世を知らないと、天上天下唯我独尊である、現世に今生きる、自分の人生の目的もわからなくなるわけなんである。だから、マインドフルネスとは、過去、未来を通じて、輪廻転生してきた、自分を知る事なんである。過去での自分の失敗など、未完成だった自分が、未来で、完成した自分に成長する機会を与えることになる。カルマや輪廻転生を知らないと何もわからなくなる末法の世になるわけなんである。この世で幸福になるだけでなく、前世から残してきた成長の糧となる課題をも克服して、来世には、天国に帰るのが、本当の、永遠の内から来る幸福なのである。だから、現世での肉体上のバランスだけでなく、前世からの霊魂でのバランスを測るのが、カルマを解消するのが、真の幸福なのである。自分のなかに全ての能力があるのが、マインドフルネスの、バランスによるバランスのためのバランスの存在なのである。さて、前世療法で有名な、「前世からのメッセージ」の著書のブライアンワイス氏自らが、自らの前世を記載しているので、非常に興味深いので、以下に抜粋要約して、紹介する。私(ブライアンワイス)は古代の僧侶でした。ジグラートという言葉が心の中に残っていた。その僧侶は絶大な権力をもっていたが、自分の地位を、霊的な真理を教えるために使わずに、より一層の富と権力を得るのに夢中だった。後半の人生においても、霊的な価値観を見出せなかった。僧侶は王族の要求を満たしている限り、霊的な真理を教えるのも自由だったのに、そうしなかった。この夢の出来事を、起きてから調べると、紀元前1000年のバビロニアの時代の寺院がジグラートと呼ばれていたのがわかった。そして、また他の瞑想のときに、再び、この前世が現れて、前世からのメッセージ「真理を教えるチャンスがあったのに、お前は、教えなかった」が心に響いた。そしてまた他の瞑想時に、次の前世が現れた。私(ブライアンワイス)はまたもや僧侶でした。しかし、今回は数世紀前のヨーロッパのどこかのカトリックの神父だった。地下牢に閉じ込められて、片方の腕は後ろの壁に鎖でつながれていた。異教的に禁じられている事柄を教えたとして、拷問にかけられたあとで殺された。このときに、前世からのメッセージ「チャンスがないときに、お前は、教えた。お前は、この問題を強行したのだ」が心に響いた。カトリックの神父は、愛と思いやりについて、安全に教えることができたのに、当時の冷酷な政府にたてついて、殺される必要もなかったと、ブライアンワイスは反省した。そして、「今回はうまくやりなさい。」前世からのメッセージの声が諭すように心優しく響いたという。このように霊的な真理の、カルマの法則と輪廻転生なしでは、マインドフルネスは全くの無意味になることを、続けて、マスターたちのメッセージから紹介する。我々は、地上に、霊的存在として学び、成長して、もっと愛と思いやりを深め、人生のバランスと調和を達成し、心の平和をいつも感じるようになるために生まれてきた。物質界に知性のレベルがあるのと同じように、霊界にも叡智のレベルがある。肉体を失って、霊魂の存在になったからといって、すぐに霊界の叡智が身につくわけではない。無知で愚かな霊から、優れたマスターたちのように、いくつものレベルがある。その違いを見分けるのが、とても重要である。霊界からのメッセージは、シンボル、寓話、ヴィジョンなどのイメージで現れるために、その解釈が、意味を読み解くカギになる。職人が技術のコツを伝授するようなものなので、体験、経験、努力を通じて、感性を磨くのが重要となる。霊媒によっては全く正反対に間違って解釈してしまう事も十分にありえる。優れた伝道者は、我々を指導し、支援してくれる。霊界を垣間見せ、亡くなった人からのメッセージを伝達してくれることもある。彼らは、人生の生き方、価値観、大切なことと大切でないことの指標を与えてくれる。しかし、究極的には、我々自身が、直接、自分のなかで体験し、理解し、自分の能力としないとホンモノにはならない。マインドフルネスを意味あるものにしないと、明日の自分がつくれないので、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。フィッシャーの小説「美学」の哲学者フィッシャーは、「アオホ・アイナー」という小説で、夢の特性を示す、面白い話を書いている。この話は、職業や、仕事についての例証なので引用する。フィッシャーは、父と息子の話を書いた。二人は一緒に歩いている。父が息子に色んなことを尋ねたあと、息子が、父に、「あのね、『どんな仕事をしているの?』と誰にでも尋ねるべきだ、と先生は僕たちに言ったんだ。マトモな仕事をしている人かどうかで、その人がきちんとした人間かどうか、きちんとした心魂かどうかがわかるんだ。」と話した。「へぇ、そうかい」と父親は応える。すると、息子は、「そうなんだ。先生が学校でその話をしてから、僕は夢を見たんだよ。僕は、湖に行った。僕は夢のなかで、湖に、『どんな仕事をしているの?』って訊いたんだ。すると、湖は、『瑞々しくするのが仕事だよ』っていったんだ。」「そうとも」と父親は頷いた。この話は、非常に、精神豊かな物語である。多くの示唆に富む、生活認識を明かす物語である。父親は息子をダメにしたくない。しかし、「なんて愚かなことを、先生は言うのか」と、息子には言いたくはない。父親は、先生よりも、賢明な方法で、息子を啓蒙しなければならなかっただろう。「そんな表面的な見方で判断してはいけない。そのような誤った判断で、マトモな仕事をしていない人はきちんとした人間ではない、と思ってはいけないよ。その人には何か事情があるのかもしれない。」と、父親は諭す必要があっただろう。このように、父親は息子を教えるべきだっただろうしかし、父親は教える必要もなかった。好都合にも、夢が、その代わりをしてくれたからである。息子の覚醒意識に上った夢は、父親の忠告よりも、力となるからである。夢は、覚醒意識下の、潜在意識のなかで活動するが、教師が授業で語った愚かな見方を、心魂から拭い去る。すなわち、表層の覚醒意識よりも、賢い潜在意識のなかで、夢は活動し、夢を通じて、教師の愚かな観点が、笑いとばされる。湖は、「瑞々しくするのが、自分の仕事、職業だよ」と応える。この夢が、息子の心魂に、治癒的に働き、教師の教えを通じて発生するかもしれない、有害な、上辺だけの先入観を、解毒する。夢は、次の夜に追憶として現れたのだが、同時に、人生を修正する。実際、夢として、アストラル体は作用する。そして、人生の経験から、なによりも誤った教育から、霊魂のなかにもたらされたものの残滓の傍らに、覚醒意識下の、潜在意識のなかに、人生の訂正者がいるのを、やがて、人間は、そのうち見出すだろう。子どもの頃のことなら、しばしば、同じ人生のなかで訂正が行われる。しかし、なによりも、その訂正者は、死の扉を通って運ばれていき、次の転生にも作用する。本当に、人間には、自己訂正者が存在する。この霊的な真理に、注目(マインドフルネス)しないといけない。(つまり、瞑想とは、白昼夢のことなのである。)
2024年10月10日
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現代人は誰もが何かに依存し、洗脳されているのに、気づいていないから不思議である。例えば、無料で流されるCMなどに洗脳されている、のに気づいていないのは、不思議でもある。どこどこのなになにがいい、というだけで、それはそのモノに洗脳されているわけなんである。実際の社員でない、俳優が演じたCMをみて、その会社がいい、と思うのは既に洗脳なのにも気づいていない。俳優は社員のニセモノなのに、ニセモノを信じている。綺麗な俳優や女優がカッコいい、または綺麗なお化粧をしたからといって、自分もその俳優や女優になるわけではなく、所詮それは自分のニセモノでしかない。外から幸福はやってこない。広告はニセモノなので、それで稼ぐ連中を私は一切信用せずに、騙されないようにしている。連中の情報操作は、はじめに事実を述べて信用させて、次第に論点をはぐらかし、最後には、何らかの価値観を植え付ける。これらは悪魔の計略と言わざるを得ない。現代の政治家のほとんどもこのやり方と変わりない宣伝ばかりである。広告は幻想を植え付ける悪魔でしかなく、所詮一時的なもので、外から人間は永遠には幸福にはなれない。ネットフーテンの寅さんをやっていると、ネット界隈には、ニセモノに沢山出くわす。特に末法の世では、ニセモノを語る仏教徒にも出くわす。自分が末法を教えているのに気づいていない。特に日本の仏教は金儲けが主眼で唯物論に染まり切って、霊魂がみえないから、酷い詐欺が罷り通っているので、ほとんどが死後に地獄に堕ちるだろう。地獄に堕ちることすらもわからないので、末法と言わざるを得ない。末法 - Wikipedia例えば、空海さんを信仰しているから、南無阿弥陀仏と念仏を唱えているから、自分は地獄に堕ちないなどと錯覚している輩がいるが、これらはとんでもない悪魔教の偶像崇拝の倫理で、末法である。空海さんを信仰していても、自分が空海さんになろうとしない限りは、単なる依存心で、悪い意味の他力本願なんである。空海さんを信仰しているのなら、空海さんのような生き方をしないとウソになる。他力本願の本来の意味は、以前にも紹介したが、霊能者だけが使える阿弥陀如来の能力で、俗にいう、天性(転生)の能力で、前世から引き継いだ、例えば、前世で不運にも天災でなくなって、その能力を持ち越したとか、多くの人々を救ったカルマから、その能力に目覚めたとかの、特別な能力の持ち主でしか使えない能力のことで、親鸞が説いた他力はニセモノと言わざるを得ない。像法 - Wikipedia親鸞自体が、鎌倉時代の人物で、日本では像法の時代は1051年に終わったとされているので、親鸞が当時の仏教で悟れるわけがない。元々、霊能の持ち主か、如来が、教えを説くために現世にやってきたかでないとニセモノなわけである。日本史をみれば宗教戦争を起こした人物として有名なので、恐らく地獄に堕ちているのだろう。古今東西、スウェーデンボルグの書からも明らかで、似非宗教家は地獄に堕ちていて、現世で多くの人々を騙した詐欺師は、地獄に堕ちているのである。末法の世の現在では、空海さんのように、仏教だけで食っていくのは大変困難なんで、空海さんのようなモノから食べ物がつくれる霊能者でもないので、しかも現代ではニセモノの霊能者も多く、唯物論に染まりやすく、地獄に堕ちる可能性が高いので、特に日本社会の制度では、血縁を断ち切る、出家もほぼ不可能だから、以前、在家信者で紹介したように、仏教は副業にして、他の本業で食っていく他はないだろう。例えば、農業をやりながら、教師をやりながら、医者をやりながらとか、他の仕事で、生計をたてながら、仏教をやっていく他はないだろう。昔は、仏教徒がいわば公務員だったので、仏教だけで食っていけたわけだが、それでも、像法なので、霊我=心眼を獲得し、霊能者となり得たものはいないわけなんである。末法の世なのに、末法を布教するのは大変危険なんである。神を信仰するどころか、悪魔の手先となっているわけで、末法の世では洗脳に気づき、洗脳から自分を解放するのが先決で、とにかく宗教を疑う必要がある。宗教を疑うのには科学は有用だが、これまた科学教となってしまったら、今度は、アーリマンの悪魔教になってしまうわけで、ルシファーの宗教には、アーリマンの疑いの宗教を、毒には毒で制すのはいいが、何事も中庸で、中道でないと、意味がない。さて、前回はスパイの目的が思想洗脳にあり、巷に溢れる思想洗脳の恐ろしさを紹介したが、今回は、知らぬ間に思想洗脳されている、依存や依存心の恐ろしさを紹介したい。巷に溢れる情報の多くがニセモノであり、それらは携帯端末で日常茶飯事のように、同じ言語で流され、同じ言葉を使う民族を洗脳していく。現代での偶像崇拝の先兵なのがスマホなんである。つまり、スマホが末法の最前線となっている。生産性を上げたいなら今すぐスマホを手放そう! (flierinc.com)スマホなどの情報ツールで、自分が洗脳されているかどうか、は、これまで紹介してきたように、未来や過去に囚われ、今に生きていないかどうかで、ある程度判断できる。過去の行いから、いまがあり、いまの延長上に未来があるのだから、いまを真剣に生きる判断が重要となる。自分の判断を誰かに委ねるのは、洗脳されている証拠である。勿論、専門家に話を聞くのは重要だが、結局、自分の行為については自分が責任をとらねばならない。とどのつまり、お釈迦さんが説いた、善因善果、悪因悪果である。仏教の法=ダルマとは、このお釈迦さんが説いた、善因善果、悪因悪果で、過去に鑑みて行う、いまの自分の行為が、未来の自分をつくる、という法則のことなんである。この究極の自己責任のことを、宇宙の法の、カルマの法則で、輪廻転生の法則なわけなんである。昔流行った、林先生ではないが、「今でしょ」が、「今することでしょ」が、仏教の法なのである。いまあるのは、過去の自分の行いにより、いますることが、未来の自分をつくる、この自分のなかの自分を知るのが、仏教の究極の目的というわけなんである。お釈迦さんの天上天下唯我独尊で、ただ我あるのみなんである。多種多様な我が集って宇宙がある、というわけなんである。だから、欲望に塗れて、執着心などで、我を失ってはいけないわけなんである。少なくとも、我を知ることが、人生の目的である。我は我でしか理解できないからである。何者かに洗脳されてはいけないわけである。さて、上に紹介したように、スマホを捨て、「生産性」を上げる、という表現はあまりよくないが、最近、巷ではマインドフルネスという言葉が目に付くようになってきた。マインドフルネス - Wikipediaマインドフルネスとは、端的にいえば、内観のことである。自分の人生を見つめることで、自分という存在を明らかにする。それは現世の自分だけでなく、前世の自分、何回もこの世に転生してきた、自分の歴史を、現世から探求することである。古代ギリシア哲学では、「汝自身を知れ」と表現された。自分を通じて、人間を探求せよ、というわけなんである。自我のなかに、前世と現世をバランスするカルマの法則があり、今度は、現世の行為から、来世の自分をつくる、現世と来世をバランスする、バランスにより、バランスをつくる、バランスの存在が、神なのである。だから、我は我ある我なる存在が、モーセに語った、エヘイエ、アシェル、エヘイエとなるわけなんである。メッセージ 共に苦しむ神~モーセの召命|藤沢バプテスト教会 (fujisawa-baptist.church) 仏教的にいえば、天上天下唯我独尊は、善因善果となるべく働く法である、ということになるかもしれない。我は我ある我なる存在だ、というわけで、いまの我は、過去の我があってのもので、そして未来の我となるものでもある、という、時間を超えて、我という存在を、バランスする存在という意味なのである。だから悪いことをすれば、地獄に堕ちるし、良いことをすれば、天国に行けるわけで、何をするかは、いまの自分の行為により、自己責任なんである。だから、いまの自分だけでなく、過去の自分、前世をも考えた自分で、判断し、いま行うべきなのである。マインドフルネスは自分を考えるために不可欠なのである。そのようなマインドフルネスについて、「前世からのメッセージ」のマスターたちの言葉をかりて以下に紹介する。我々は皆、霊能者であり、自分で思っているよりも、遥かに素晴らしい直観力をもっている。他から得た情報を、あなた自身の直観力で、注意深く観察し、吟味し、評価してください。もし、それが正しくないと感じ、自分に相応しくないと感じたなら、恐らくその情報は間違いで、あなたの霊能力を奪うものです。他から受け取る情報には、伝達者の想いで加工され、バイアスがかかっている。だから、情報は、伝達者により故意に歪められている可能性があり、その作為の影響は伝達者の個人的問題に関わる。何の作為もない歪みのない情報はなく、伝達者の気分、欲望などで、情報は歪んでしまう。インチキな伝達者は、高額の料金を要求し、自分の忠告に、あなたを従わせようとする。また、そのような伝達者は、自分は特別な能力をもつ者とみせかけ、あなたを洗脳し、自分に従わせようとする。このようなやり方に気づいたら、即座に逃げ出すべきである。(南米では、優れた伝道者は、他の職業で生計をたてて、貧困者に、伝達を奉仕で行っているという。つまり、優れた伝道者は、完全なボランティアで、慈善活動なのである。金銭を要求した時点でニセモノなのである。広告活動も広義にはニセモノである。)真の成長は、内面の精神的プロセスなのである。他の優秀な伝道師などは、あなたの内面の学びを刺激できますが、自分で十分な瞑想を行えば、他の伝道師を必要とせずに、自分が霊能者として独立し、やっていけるようになる。しかし、最初は、解釈に歪みのほとんどない優秀な伝道師に、内面の学び方を確認する必要がある。霊能力は、必ずしも、精神的進化と連動しているわけではなく、非常に高い霊能力者でも、利己的な、見下げ果てた行動をする者(黒魔術師)もいる。だから、高い霊能力に騙されてはいけないわけで、それだけで高い地位に祀り上げてはいけない(日本にはこの手の類が多い)。そのようなことをすると、その者に利用され、犠牲者となるだろう。ほとんどの霊能者は、その霊能ゆえに、現代社会には不適合で、特別な訓練を受けたわけではないので、霊能力者というだけで、自分の人生を期待して、相談したり、委ねてしまうのはやめるべきである。カウンセルという職業は、現代社会に適合するためにあり、あなたの望みを叶えるためにあるのではない。奇跡に期待したり、あなたが抱える問題を、一気に解決してもらおうと期待したり、奇跡的な治療を期待してはいけない。なにより、あなたのなかに眠る本来の霊能力を開発せずに、その能力と誠実さを、他の誰かに完全に委ねて、霊魂をうってしまっては、この世に生まれてきて、愛を学ぶ機会を失ってしまい、元も子もなくなるからである。悪魔に魂を売り渡しては元も子もないので、自分で自分の霊魂の成長を見究めるために、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。 ★ ★ ★ 輪廻転生人間の潜在意識、霊魂の奥底に、破綻した人生プランを、見つけたなら、それが、繰り返される地上生(輪廻転生)において、どのような意味をもつのか、探求すべきである。そうすれば、その人の生活のある面が、潜在意識のなかにも存在し、活動し、その人が人生プランを実行するのを、宿命的に妨げているのが、わかるかもしれない。そして、まだ潜在意識の、霊魂の奥底にある、破綻した人生プランは、その人を病気にする決定だけではないのが、わかるかもしれない。この人生プランは、人生が終わったときに、死の扉をくぐり、死から再誕の間の、あの世で生きる力となり、次の転生の、地上生で大事な役割を演じるように定められる。そのように、破綻した人生プランが、潜在意識の、霊魂の奥底に保存されることで、死後に、再生力を得て、よみがえり、死と再誕の間のあの世で、本来の均衡力から、正しい修正力が獲得できる。そうして、今回の地上生では、霊魂の奥底のいとなみの、妨害の反作用の特性から、受け取れなかった能力(治癒力)を、次の転生の、地上生において、再生力(修正力)として受けとれるようになる。低俗な表現だが、「潜在意識のなかの、動物的本能」は確かに存在する。しかし、私(シュタイナー)が、人間の頭と、他の人体部位との関係について、述べた事実を思い出してほしい。頭以外の人体部位は、人間の地上生、多くの点で現在の受肉に関係する。それに対して、頭は、かつての地球進化の成果であり、なによりも、人間の前世と関係する。この事実を深く考察すれば、人間がカルマの法則全体において演じる役割に従って、人間の頭部の、神経系から発する、前世を基にした役割とは、全く異なった、現在の成熟段階にある、多様な役割が演じられるように働くのが、把握できるようになるだろう。精神分析で、無意識のなかの動物的本能だけを分析するのは、全くの的外れで、そのような分析は、まだ穀物が生えていない土地をみて、どんな穀物が生えるのか知りたい、と考えるのと同じである。そのような人は、土を分析し、土を掘り、肥やしを撒いて、堆肥をよく知っているので、堆肥から穀物が生長する、と唱えるだろう。肥やしを撒いても、穀物が堆肥から生長しないのと同じで、この動物的本能の、奥底に埋まっている、魂の核が問題なのである。この動物的本能のなかに埋まっている、魂の核が、死の扉をくぐりぬけて、次の転生の地上生に働きかける。だから、動物的本能を調べても何もみつからないわけで、このなかに埋まっている魂の核が、つまり霊の、自我が重要なのである。いわゆる精神分析は、現代の先入観から、何が人生に宿命的に作用するのか、を地上生に沿って、研究する。そして、心のなかにだけ意識やその経験を求めるだけでは満足しない現代の科学は、表層の(覚醒)意識下から押し寄せてくる、動物の本能の領域を扱うようになり、思考が入り乱れるところを調べる。しかし、霊界や、人智学を理解できないので、ただ一回だけの地上生から、あれこれと不器用に、人生をこねくりまわし、引っ掻き回して、人生の出来事を、宇宙の天体の運動から起こる、首尾一貫した、正しい解釈には到達できずに、誤った位置に置き換えて、間違った解釈に誘導してしまう。私(シュタイナー)が示唆したように、カルマの法則が紡ぐ糸を辿っていけるときにだけ、人生の出来事を正しい位置から解釈できるだろう。現代の精神分析が、人間性を掻き回すほど、人間は不健康になっていくのがわかるだろう。(前世療法に到達できない精神分析は何の意味もない、のがわかるだろう。)人間の霊魂のいとなみのなかの、起きてから、眠るときまでの、覚醒意識での生活は、いくつもの受肉を通して働くカルマの流れを、ほとんどあまり示さない。覚醒意識での体験は、ほとんどが現在の受肉に関するものである。人間は、現在の受肉に精通するために、肉体での愛を学ぶには、良い事なのである。死の扉を通って運ばれていく、霊の魂の核、自我の萌芽は、現在の受肉による、(愛の)体験、経験、努力からつくられる。それは、眠ってから起きるまでの、睡眠中の生活のなかで、大きな役割を演じ、睡眠中の、夢として何度も表現される。夢を正しく解釈するには、霊的な法則、つまり鏡像関係の理解が必要となる。夢は追憶で、確かに像(イメージ)の一種だが、夢は、そのままの像では表現されずに、よく反対の像や反作用として表現される。そのような夢の特性を示すために、次回に文学から例証したい。
2024年10月08日
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昭和の学校の卒業式では、必ずといってよいほど、蛍の光が歌われたが、実はこの歌の楽曲が、スコットランドのオールドラングサインを原曲にしているのを知っている人はほとんどいない。この曲を調べてみると、作曲者ロバートバーンズはフリーメーソン員なのに気が付き、この曲の歌詞をみると、かつての古き同志が、袂を分かち合い、荒波に呑み込まれながら、時を隔てて、再会する、歌なのがわかる。蛍の光 - Wikipediaオールド・ラング・サイン - Wikipediaロバート・バーンズ - Wikipediaヨナ抜き音階 - Wikipediaつまり、この歌はメーソンリーが、この表現は石やレンガ、コンクリートブロックの積み上げ構造をも意味するが、本来は、人と人との友愛による積み上げによるメーソン会員の絆を意味するようで、そのメーソンリーの絆を歌っているようにもみえる。この絆による自由な革命や自由な国の、共和国建国が、この歌の背後に隠されているようにみえてくる。ブロック材研究会|一般社団法人 北海道建築技術協会 – ブロック材研究会 (hobea.or.jp)しかし、この歌が、日本では「蛍の光」に置き換わり、どうも歴史的経緯をみると、イギリス海軍を通じて、幕府の海軍を再編して、明治の日本帝国海軍に導入され、中国の「蛍雪の功(一途に学問に励む事を褒め称えること)」の故事を交えて、かつての学業の友が、国家の重要な位置について、領土拡張と共に国防を担う歌に改変されていく。つまり、スコットランドでは、メーソンの革命の歌が、日本では、倒幕の明治維新の歌になり、帝国軍の領土拡張の歌になっていったわけなんである。だから、この歌から、フランス革命と、明治維新の裏のつながりがわかる。このような日本史の裏事情を知らないと、歴史は繰り返すというように、現代の政治もみえてこない。フランス、イギリス、アメリカの背後にフリーメーソンがいるのは、都市伝説や、有名な万物を見通す目が、1ドル紙幣に載っているのでもわかる。ちなみに、以下に紹介する、茂木誠氏によると、日本の日米戦争の敗戦の原因は、人の好い日本人の本性が出たのか、帝国陸軍にソ連のスパイ瀬島隆三がいてソ連に負けるように誘導され、帝国海軍に米国スパイのメーソン米内光政がいて、米国に負けるように誘導され、分裂してしまったせいにある、と述べている。日本が負けるような作戦内容が不可解すぎる、というわけなんである。昭和帝は薄々この2人の裏切り者を知っていたようなのである。大体、特攻なんてものを考えるのが、当時の上級国民が下級国民に強いた差別なんである。当時の帝国軍には厳密な階級制度があった。だから、上級国民は今も変わらずに権力闘争を続けているわけなんである。さて、明治から令和と、時間を進行させると、巷の、国民はほぼ白け気味の傍観者だった、裏金問題や統一教会問題を解決もできないで、与党の座に居座り続けるための、最低最悪のオジサンの詰め合わせアウトレイジのような総裁選もようやく終わったが、自称ネットフーテンの寅さんとしては、ネット界隈で、パヨク、ネトウヨなどの、左翼、右翼の歴史も知らないで、罵倒用語に使われるのが、あまりにも無知なので警笛を鳴らしたいので、政治史から紹介したい。アウトレイジ (2010年の映画) - WikipediaCIAエージェント?岸信介〜宏池会の起源|茂木誠 - YouTube日本の政治史については、上の茂木誠氏の動画に巧く要約されているが、この人は、日本を縄文時代に戻したいと述べているように、どこか懐古主義に執着している感じがして、その意味でやや右よりといえるかもしれない。一般的に、右翼とは、ルシファーの懐古主義で、過去に執着する思想で、逆に左翼とは、アーリマンの唯物主義の、未来の物質主義に執着する思想と、現在を大切にする中道からは区別できるわけなんである。天使が両翼を必要とするように、片方に偏り、一方の翼しかもたないのは、地獄に堕ちるのを意味する。つまり、神秘学では、かつて行われた天空の戦いから、神に離反した、革新的な、左翼の堕天使が生まれ、堕天使に従わなかった、保守的な、右翼の天使が生まれたといわれている。人智学では、どちらにも偏らない、中道を、キリストの中庸と呼んでいるわけで、仏教でも中道を説くのは、お馴染みだろう。オカルトでは、左右のそもそもの意味は、生命の樹にあるのがわかっている。生命の樹は以下の図のように、三本の柱からなるが、中央からみて、左右の柱を意味している。この三本の柱のなかに、人体の4つの体、すなわち、自我、アストラル体、エーテル体、肉体が隠されている。「生命の樹」の概念図−第八章 生命の樹 (aura-soma.jp)この左側には3(理解)、5(峻厳)、8(栄光)があり、右側には2(知恵)、4(慈悲)、7(勝利)があるのがわかるが、左側に過去を充てると、過去の理解、過去の峻厳、過去の栄光となるのがわかる。そして、右側に未来を充てると、未来の知恵、未来の慈悲、未来の勝利となるのがわかる。そして、中央の1(王冠)、6(美)、9(基礎)、10(王国)が現在であるのがわかる。そして、中央の、王冠が、過去の理解と、未来の知恵からなり、美が、過去の峻厳と、未来の慈悲からなり、基礎が、過去の栄光と、未来の勝利からなるのがわかる。これら、王冠と、美と、基礎が、地上に、王国を築くのがわかるだろう。この生命の樹の流れを、王道と古代人は呼んできたのである。そして、孔子の忠恕、中庸とは、この王道の精神に他ならない。だから、まずは思想を偏らせないのが肝要なんである。忠恕は人生の基本|共和コンサルタント株式会社‐道路・橋梁設計、都市計画、上下水道設計 (kyowanet.jp)このように忠恕とは、思想のバランスであって、老子の無為自然でもあり、仏教の中道でもあり、かつての中華思想にも、この精神が垣間みられたのだが、唯物化され、覇道により、バランスを失い、古代アトランティスの大破局に至ったわけなんである。この生命の樹の図の、中央の×の、ダアトが隠れてみえなくなっているのは、裏表が逆になって、つまり鏡図になっているのを意味している。ダアトは、善悪を判断する、自由の知識の実を意味し、人間が食べたので、みえなくなっているわけでもある。タロット de カバラ【神殿再建と生命の樹の光と闇の秘義】「ダアト=大いなる知識」を得るには | 【やまねワールド】NRC自然療法研究所/セラピースクール「シーズ」/所長山根康児ブログ (ameblo.jp)生命の樹☆ダアトに光を与える | 数秘で☆キラメク☆いつだって今が一番幸せ (ameblo.jp)聖書にも書かれているが、人間は、悪魔の蛇に唆され、この自由の実を食べたので、肉体をもち、神智学でいうところの、ネガティブの地の領域に立ち入ってしまった。だから失楽の実であり、禁断の果実とも呼ばれている。永遠の生命ではなく、地上を這いずり回る蛇のような、一回切りの人生を地上で送るようになったわけである。ダウトは、過去の理解と、未来の知恵から生まれた、自由な知識なので、どちらかに偏ると、左翼、右翼となってしまうわけなんである。過去の理解に乏しいと、過去に執着が残り、過去に拘る右翼となるわけで、自由を束縛する、秩序だった知識、権威をもちがちになる、逆に、未来の知恵に乏しいと、未来に執着が残り、未来に拘る左翼となるわけで、自由を放縦とし、無秩序な、ルールに従わない、我儘な理想主義を好むようになるわけなんである。いずれにしろ、左翼も右翼も現状を否定している時点で偏った思想で、現状がもつ長所を生かすような肯定が必要である。確かに過去に学ぶのは必要で、過去が、今に生きているのを肯定しないと、学ぶ意味がなく、現状の肯定のその延長上に未来があるのだから、あまりに先を見過ぎても、灯台下暗しになるだけである。自分の思想がどちら側に偏っているかの判断が重要なのである。さて、歴史的に、左翼、右翼という表現は、フランス革命の急進共和ジャコバン派と立憲君主フィヤン派が、議会の左側と右側の席を占めたことから、左翼と右翼という言葉が生まれたこととなっているが、ジャコバンという名は、ジャコバン修道院に由来するらしいが、ジェイコブ=ヤコブの名にも由来しているらしい。ジャコバン派 - Wikipediaヤコブ (旧約聖書) - Wikipediaヤコブはイスラエルの祖と呼ばれる人物で有名だが、最近、以下のような動画で、恐らく都市伝説だろうが、ヤコブ=英名でジェイコブが、革命の担い手で、アシュケナージユダヤの系図から、ロスチャイルドを通じて、テンプル騎士団とスコットランド王のロバートブルースから、ジャームズ1世、ジョージ1世と経て、ハノーバー=ウインザー家のイギリス王室、更にフランスでの王政打倒の共和国建国、そしてアメリカ合衆国、そして大日本帝国まで、ジャコバイトと呼ばれる革命軍をつくり、フリーメーソンから派生した建国思想を導入していった経緯が紹介されている。日本人が知らない彼らの起源/新時代の扉『ロスチャイルド編』総集編 | 考え方の学校 Yoshi Sun TV|YouTubeランキング (yutura.net)ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド - Wikipedia興味深いのは、ジャコブ=ジェームス・ド・ロスチャイルドという人物である。この人物は、フランスグランドロッジの監査役なんである。またジェイコブの愛称はジャックである。ジャックはユニオンジャックや、飛行機ジャックとよく知られているが、「併合、乗っ取り」という意味をもつ。ユニオンジャックのジャックは、ジェームズ1世からきている。そして、上の動画によれば、そのジェームズ1世の先祖がロバートブルースで、このブルースの母方の先祖がテンプル騎士団の初代総長のウイリアムマーシャルで、父系の先祖がアシュケナージユダヤ人で、更に遡ると、エジプトのファラオのツタンカーメンで、その父アクエンアテンが、モーセのモデルだというのである。そのカギをとくのが、YAP遺伝子で有名になった、Y遺伝子ハプロタイプのR1bであるという。Y染色体ハプログループ - WikipediaハプログループR1b (Y染色体) - Wikipediaツタンカーメン - Wikipediaアクエンアテン - Wikipediaちなみに、有名なYAP遺伝子のハプロタイプは、DEである。YAP遺伝子は、日本やチベットの母系民族の原住民系の縄文人に多いのがわかっているが、ハプロタイプR1bは、上の動画では赤髪の遺伝と関わり、アシュケナージユダヤ人と関係が深いらしい。ちなみに、アクエンアテン=モーセも赤髪だったという都市伝説もある。上の動画によると、アシュケナージは、アッシリアから来た、という意味らしいが、スキタイという意味ももつらしい。このスキタイは、エジプトファラオの娘のスコタに由来し、スコットランドの国名は、これに由来するらしい。つまり、アシュケナージ=スキタイ=スコタなのだという。ユダヤ人は、アシュケナージとセファルディに大別される。セファルは、スペインに多く定住していたので、イベリア=スペインの意味といわれているが、恐らく、「純粋の、生粋の」の意味で、生命の樹のセフィロトを言語にしたユダヤ人のことに思われる。セフィロトとは、「計算」を意味するらしい。セファルのなかには、あとミズライムの東のユダヤ人もいるらしい。ミズライムはミツライムで、「エジプト」を意味し、土地やその地に定住する人々を意味するらしい。だから、ミズライムからわかれて、モーセによりエジプトを出たのが、アシュケナージとセファルディで、更に進んでスコットランドに到達したのが、アシュケナージというわけなんだろう。だから、残ったミズライムが右翼で、王政維持の保守で、先に進んだアシュケナージが左翼の源流となって、革命思想をつくりあげたのかもしれない。アシュケナジム - Wikipediaセファルディム - Wikipediaミズラヒム - Wikipedia<90BC976D8E6A8A773233378D862E6D6364> (jst.go.jp)聖書に出てくるミツライムとは誰ですか? (ministryvoice.com)さて、上の動画によれば、面白いことに、ジェ―ムズ1世の後に、息子のチャールズ1世がイギリスを統治したが、プロテスタントを迫害しすぎたために、反乱が起こり、チャールズ1世が処刑されてしまい、イギリス議会は、自分たちに都合のいい法律をつくり、代わりに、遠縁の現在の王室につながるドイツのハノーバー家のジョージ1世を連れてくるが、スコットランドのジャコバイト派が、フランスに亡命した、チャールズ1世の息子のジェームズ2世に継承させようとして、再び、反乱が起こしたが鎮圧されてしまったという、日本の亀山天皇の後の南北朝のような、継承問題が持ち上がったことがあったという。この時のジャコバイト派の失敗が、フリーメーソンを通じて、後のフランス革命に生かされたのかもしれない。長々と左翼と右翼の大まかな近代政治史を紹介してきたが、人智学が説いているように、最悪の人物を選ぶように、フリーメーソンに操られている、のがわかる。それは唯物論では、人物を外からしか選べないわけで、所詮、物質世界を操る銀行の金融支配によるのが、米国の1ドル札をみればわかる。そして、米国では、かつて、左翼をコミュニストと呼んで、反共体制を築いたが、いまは左翼をリベラルと呼んで、ニューリベラルとか、ネオコンとか、ネオリベラルとかわけがわからなくなっている。そもそもそのようなネーミングをつけたのが、フリーメーソンだからである。左翼も右翼も、メーソンから生まれたからで、俗にいうキングメーカーなんである。ユダヤの祖ジャイコブ=ヤコブとは、「かかとをつかむ者=人を出し抜く者」だからである。このような外の世界に幸福を求めても無駄な徒労に終わるのがわかるだろう。TOMOX NEW YORK 1ドル札の謎 (fc2.com)米国では、ヤコブの、「人を出し抜く」賢さが尊ばれるが、そういえば、日本の日露戦争のために、外債を高橋是清に貸しつけて戦費とし、日露戦争での戦勝利益を巻き上げたのも、ヤコブシフという名の、日本人を出し抜いた賢い人物だった。このようなヤコブの末裔の国について、シュタイナーは、いずれ欧米の白人種にアーリマンが受肉するのを預言している。アシュケナージユダヤが、暴力を捨てずに覇道を突き進むのなら、アーリマンがやってくるだろう。それは現にイスラエルとアラブの中東戦争で明らかになっていて、多くのアメリカの大学では、そのアーリマンのかつての学院の唯物的技術の、黒魔術が蘇りつつあるからだ。ジェイコブ・シフ - Wikipediaというのも、アメリカには守るべき、霊性がみられないからである。かつて中国に受肉したルシファーに呼応し、米国には、アーリマンが受肉するだろう。一回切りの人生に拘るほど、米国は金融により、崩壊していくだろう。というのも、金持ちは天国には行けないからで、天国にいけないということは、永遠の生命を手に入れられずに、永遠に彷徨えるユダヤ人となるからである。だからアメリカ人は、かつてマックスウェーバーが説いた、プロテスタンティズムの禁欲的に労働する生活態度の、資本主義の精神に立ち返るべきである。労働して得た利益は、社会に還元すべきなのである。社会に還元することで、社会は労働者に職を与えるからである。機械などを導入し、利益を得れば、人間は働かなくなって、労働の喜びを忘れ、神に奉仕する健全な精神が損なわれるだけなんである。金融は麻薬のようなものである。日本では、この精神は仏教の在家信者と同じである。ただし、末法にならない精神でないとダメ。プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 - Wikipediaこのようにプロテスタンティズムの精神を忘れ、米国は悪魔崇拝に向かっているが、日本も在家が末法に向かって退廃しているが、日本にはまだ神道が残っている。神道は中今の精神を重んじ、左は火の、地から天に向かい、右は水の、天から地に向かう、エーテルの流れを表している。火と水の循環のなかに、中今がある。中今は、土を空気にしてくれる。火から水は、固体の土になり、水から火は、気体の空気になる。随神の道とは、中道を失わないことである。左右に傾かない道で、無為自然の、忠恕であり、生命の樹の中央の均衡の柱なのである。仏教では、大日如来の両脇に、普賢菩薩と文殊菩薩があるように、峻厳の柱と慈悲の柱を意味する。つまり、真言宗の曼陀羅は生命の樹でもある。さて、「前世からのメッセージ」のマスターたちによれば、幸せは、内からやってくるわけで、外に求めても無駄な徒労に終わるのがわかる。だから、外の物質界に求めても、他人と比べても、一時的な満足は得られるが、幸せはやってこないわけなんである。幸せは歩いてこない、だから歩いて行くんだよ♪の三百六十五歩のマーチの歩くのは、外ではなく、内に歩いていくことなんである。水前寺清子 三百六十五歩のマーチ 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)内に歩いていくとは、前回紹介したように、老子の無為自然の、大自然のバランスに近づいていくことで、思いやりや、感謝をもって生きていくことに思われる。大自然のバランスには、生命エネルギーが巡っていて、ヒーリングが隠されているのである。だから、生命エネルギーのバランスに従って、歩いて行けば、ヒーリングが得られて、幸福がやっていくのである。生命エネルギーの流れを、人智学ではエーテルと呼んでいる。エーテルを肉体にバランスよく巡らせるのが、アストラル体の心の働きで、その心を統合し、統一し、一つにしているのが、エゴの、自我である。これらは、前回紹介したように、「今」の漢字の象徴となっている、メーソンの万物を見通す目の三角形である。メーソンの場合は、物質界の金融で、金銭の流れとなるだろうが、本来の意味は、大自然のバランスをとっている、エーテルの流れのことで、この流れを掴むには、万物を見通す目のエゴの自我を、ダアトではなく、霊我に育成させるのが、現代人の人生の課題である。このようなエゴのバランスについて、「前世からのメッセージ」からの文章を抜粋し要約する。私というエゴは、日常の現実を処理し、統合していく統一機能体である。このエゴは、過去のトラウマに傷ついたり、未来を誇大妄想し、巨大化させたりする。外界への適合性を失うと、一つに集中させられなくなり、バラバラになりそうになる。それが、いわゆる精神分裂症や、統合失調症などになる。大事なのは、物質界への適合を優先し、心のバランスを失うのではなく、まずは、心のバランスをとることにある。不完全な物質界や病んだ社会になんとか対応し、モノや金銭を手に入れようとしたり、他人に好かれようとして、心の安定を失うのではなく、それらの行為を出来るだけ少なく、減らしていくことで、内なる心のバランスを回復していくことが肝要である。我々の頭は、過去や未来に、エゴをつなげようとし、外から、絶えずエゴを支配し、分析し、あれこれ考え続けて、習慣や思い癖の偏見をつくり、そこから抜け出せないように、今に生きるのを、妨害している。このような色眼鏡が、現実をありのままに捉える感覚を邪魔している。自分を救うため、ひいては世界を救うために、我々現代人は、エゴをコントロールしなければならない。シュタイナーは、人間の頭は、前世と来世をつなげるためにあり、頭以外の肉体は、現世を生きるためにある、というようなことを述べている。だから、現世で、肉体で行った行為こそが、頭で統合し、要約されて、前世から、来世へと、新たなる、頭部となって、生命の樹の王冠となって、運ばれるのである。以上をまとめ、マスターたちの言葉をかりれば以下のようになるだろう。知識を分かち合うべきなのです。人間は皆、いま活用しているよりも、遥かに大きな力、愛のエネルギーをもっています。目にみえないために、気づかないだけなのです。霊力は、知識をわかちあうことで、他の人との関係を通じて開発されます。ある人はより深遠な知恵と大きな力をもって生まれ変わっています。そういう人は霊性開発が必要な人を探して、助けてあげるべきです。地球人は宇宙を巡る愛のエネルギーの活用法を知るべきなのです。愛のエネルギーの活用法を知るために、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。 ★ ★ ★神学的精神分析潜在意識のなかの「動物的本能」についての理論は、多くの点で事実である。覚醒意識では、「私はこれが欲しい。私はこれを体験したい」と思うが、そのとき、潜在意識のなかの「動物的本能」が作用している。動物的な欲望に、覚醒意識が仮面を被せて、綺麗ごとにしている。更に、現代の「精神分析」は、「潜在(無)意識のなかに、過去の歴史的な体験、個人や人種、国家その他に関わる残滓が残っている」と主張する。しかし、潜在意識のなかの、これらの活動は、覚醒意識に現れると仮面を被り、全く別物のように振舞う。今日、世界で起こっている出来事について、「それが、世界各地でみられる民族性から解き明かせない」とはいえない。多くの人々が、民族の権利と自由を高い理想としているが、実際には、潜在意識のなかで、動物的本能が活動している。精神分析家が、このような動物的本能をどのように議論するのか、知らないが、神学的に解釈する分析家もいる。そのような神学的な精神分析家は、潜在(無)意識のなかに、悪魔の存在を考える。悪魔は、深層意識の奥底の、非合理な地下の領域からやってくる、と主張するのである。(バチカンによるエクソシストの悪魔祓いは有名である。)神学的精神分析家は、「人間の潜在(無)意識のなかに、未知の悪魔が活動している」と御託を述べて、科学的な精神分析で不明な異常者を、グノーシス主義者や神智学者のような異教者と決めつける。精神分析をして、潜在意識のなかに、動物本能をみつけ、それが地下から現れる悪魔の正体だ、と主張する。彼らの見解では、精神分析が不正で、悪魔的行為なのではなく、神智学その他の異教を信じる、のが不正で、悪魔的行為とあくまで主張する。精神分析を批判するつもりはない。ただ、潜在意識のなかの活動を探求していく方向が、現代の精神分析にみられるのを指摘したい。しかし、唯物的な自然科学の先入観により、現代の精神分析、特に潜在意識のなかの探求には、不正の、間違いが生じやすくなっている。さしあたり、精神分析による探求に関わるなら、「地上の人生は一回きりではなく、何度も繰り返されていくのを知らないと、潜在(無)意識のなかの活動、つまり霊魂のいとなみを正しく分析できない」という事実が洞察できないと話にならない。現代の精神分析家は、一回の地上生からのみで、全ての意識を説明しようとしている。それでは、的外れな、闇が深い、ぼやけた光で、霊魂の根底を照らし、悪魔を呼び出すだけなのである。
2024年10月01日
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「令和」を誰が名付けたのかわからねど、誠にこの令和の時代に相応しい命名だと気が付いた。というのも、令の漢字を見ると、「今」という漢字から|(縦棒)が下がっているのがわかる。そこで、この令という漢字の由来を調べると、以下のようなサイトに出くわす。「令」は、上の三角形の屋根のようなピラミッドの下にひざまずく人の象形からできたらしい。「令」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習 (okjiten.jp)そして、この上の屋根のような三角形の由来を調べるために、「今」という漢字の由来をググると以下のような成り立ちがわかる。「今」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習 (okjiten.jp)今とは、漢字のなりたちからいえば、すっぽりと覆う形からきたらしい。この形どこか見覚えあるな?と思うオカルティストは多いだろう。なにやらフリーメーソンの万物を見通す目ではないのか?信じるも信じないも貴方次第?というわけではないが、この三角形は、人体のアストラル体、エーテル体、肉体、そして中央の目は、自我を表すのが、神秘学ではわかっている、つまり、人体の象徴図なんである。つまり、今という漢字のなりたちから、今という時間が、4つの人体の共存により創り出される、のがわかるわけなんである。だから、この三角形のバランスが崩れると、万物を見通す目が隠れて歪んでしまうわけなんである。つまり、今を生きていない、現を抜かすことになる。また、これは今を生きる、自我の「我(わたし)」から生まれるのがわかる。これがエヘイエ、アシェル、エヘイエである。これは短縮されて、YHVHの4文字になっているが、それぞれ、人体の自我、アストラル体、エーテル体、肉体を意味している。さて、「令」だが、令は、「今」の下に、跪く人を表している。4つの人体に対して、人間自身が、へりくだっているわけだが、これは三角形のバランスがとれた人体の状態について、へりくだる、尊敬しているわけで、上下関係をアベコベにしているわけで、最上のものが最下位になっているわけで、「実るほど頭が下がる稲穂かな」という諺を思い出させる。つまり、人体のバランスをとるには、各々がへりくだって謙虚さを大切にし、思いやりをもちなさい、という意味が隠されているようにみえるわけなんである。そして、最後に、「和」の漢字の由来である。この和は、令を更に強調しているのがわかる。左側の、「のぎへん」は、垂れた稲穂を象形し、右側は、「口」なので、お互いに、謙遜しながら、思いやりで会話し、調和しなさいという、成り立ちをもつらしい。また「口」を食物を入れるところ、とすれば、食に対して思いやりを持って、バランスよくとりいれなさい、という意味にもなる。「和」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習 (okjiten.jp)だから、「令和」は、日本人が調和と共存、バランスを大切にすべき時代なのが、漢字の由来からわかるわけなんである。しかも、「れいわ」とは、霊和でもあり、零和でもあるから、これまでの過去を水に流して、調和、共存し、バランスを回復する時代、とも読めるわけなんである。このように言葉の、漢字の由来を調べると、それができた当時の哲学が隠されているのがよくわかる。前回、言葉を動物に語らせることで、漫画の世界では、哲学になるのを紹介した。ムツゴロウさんは、動物の言葉がわかる、といわれたが、いまのところ、漫画の世界でしか、動物が人間の言葉を話すのが実現していないし、鳥は鳴き声で会話しているという研究報告もあるが、動物の翻訳者は実現していない。動物の仕草を通して、何を考えているか、推測するしかない。世界初「鳥の言葉を証明」 注目の研究者に聞く、動物たちは何をしゃべってる? 「人間中心の先入観から脱却して世界を見直すべし」 | 国内 | ABEMA TIMES | アベマタイムズしかし、前回スヌーピーの名言を紹介したように、犬が言葉を話せると哲学になる。恐らく、動物は、与えられた生を実感し、幸せに暮らしているようにみえる。というのも、大自然と調和して、生きているようにみえるからである。というのも、動物には、人間のようなエゴがないからである。だから、スヌーピーが現実の犬だとしたら、人間が、調教でもしない限りは、自分が犬であることさえも自覚しないだろう。スヌーピに迫る認知度の犬といえば、大谷選手の飼い犬のデコピンだろう。デコピンが大谷選手の調教で、始球式を投げたのは犬と人との会話の可能性を感じさせるものだった。いずれ、人間が再び、霊能力を獲得したら、人間がルシファーからエゴを与えられたように、動物にエゴを与えて、会話できるようになるだろう。そのような現実が、動物の家畜化である程度可能になっているのがわかる。シマウマは調教の困難な動物なので、家畜化しないらしい。そういう意味では、完全に集団化した動物に、エゴを与えるのは困難なのがわかる。犬が家畜化され、愛玩動物となったのは、野生の狼などの犬科の動物から、人間に敵対しない種族を交配させて、人間と仲良くする自我を教えてきたからといえるだろう。ペットの代表格とも言える犬と猫 人間との関わりの歴史を知ろう | 住まいの本当と今を伝える情報サイト【LIFULL HOME'S PRESS】 (homes.co.jp)人智学では、動物は、人間のような個人的な自我のエゴをもたずに、集合自我しかもたないので、常に、集合自我の命令により生きているので、人間のような個人的なカルマをもたずに、個人的な自我の輪廻転生もないとされている。だから、霊魂が異なるので、人間が動物に転生することはありえない、とされている。勿論、動物も種全体で、宇宙の愛を学んでいるので、種全体で、霊魂のままで変容しているようである。だから、新種が生まれて、天然記念物に指定された古種が滅亡していくのが集団で行われるわけなんである。人間の場合は、それが個人で行われているから、新人類やニーチェの超人思想として語られたわけである。勿論、動物でも、UMAのような存在が話題にもなっている。もっとも、ニーチェが説いた超人とは、人智学でいうところの、霊能力を再獲得し、霊人に到達した未来の人間の、アートマンである。未確認動物 - Wikipedia超人 - Wikipediaとにもかくにも、将来動物が話す時代がくるかどうかは人間次第だが、これまでも、動物が話す世界は、様々な漫画の世界で表現されてきたし、有名なのはドリトル先生だろうか? 日本では夏目漱石の「吾輩は猫である」だろうか? あのように動物が将来話すことはなさそうでもある。ドリトル先生シリーズ - Wikipedia吾輩は猫である - Wikipediaこのように小説やドラマの世界では、動物が擬人化され、話せるように、物語が展開していくが、人智学によれば、動物には自意識と呼ばれる覚醒意識が発達していないために、「わたし」という感覚が、つまりエゴがないから、話せないという。勿論、人間のように集団意識から孤立化し、自意識が開発されれば、話せるようにはなる。人間の場合、個人的な肉体をもつことで可能になった。しかし、この肉体のなかにいる、霊魂の状態は、「前世からのメッセージ」のマスターたちが説いているように、異常な状態で、霊界との交信が途絶えたからこそ、出来る芸当でもある。本来、霊界との交信、つまり愛の交流の下でいるからこそ、高い次元の愛を受け、人間の霊魂は幸福なわけで、その状態が、肉体の中に入ってしまい、個性を持つにつれて、無限の愛が、個人的な有限に限定され、エゴに移り変わるわけで、このような肉体の有限性の自己については、以前紹介したように、マスターたちは次のように説いている。肉体のなかにいるのが、異常なのです。霊魂のままが本来の自然なのです。また肉体に入るのは、未知の世界に入るのと同じです。それには、時間がかかるので、霊界で待たないといけない。霊界で待つうちに、再生されます。再生の世界があり、地の破壊の世界とは、また別の次元です。我々は皆、霊魂の存在なのです。肉体のなかにいる者もいれば、再生の時期にいる者もいます。そしてまた、他の者は、守護霊となっています。しかし、私たちは皆、そこに行くのです。私たちもまた守護霊だったのです。私たちが霊魂の、不滅の存在で、愛の無限のエネルギーの広大な海に常に存在しているのを思い出すのが、喜びと幸せの鍵です。地球と呼んでいる、この学校のもつ問題の一つは、私たちが肉体の存在ではなく、霊魂の存在だと思いだすのが困難なことです。この三次元世界の幻想や錯覚に常に惑わされています。おカネ、権力、名声、モノの所有や蓄積、快楽などは、非常に大切で、時には人生の目的であるとさえ、教え込まれています。また、幸せになるためには、他の人々から好かれ、尊敬されなければいけない、と教育され、一人でいるのは惨めだと。教え込まれてもいます。自分たちは皆、霊魂の存在だという真実に気づくと、価値観が大きく変わり、幸福で平和になれます。だから、霊魂の能力のみが、永続します。だから、幸福は、権力や名声からは得られず、愛からのみ得られます。幸福は、内から来るものであって、外から、あなたをどう扱おうが、来るものではないのです。だから、嫉妬は、霊魂に憎しみを生む毒薬なのです。前世を自然に思いだす人がそれほど多くないのは、肉体のなかでの学びが、憎しみを手放す、実地試験の一種だからです。霊的な、永続性のある、学びや知識が、深く確実に、肉体を超えて、霊魂に浸透するために、念には念を入れる必要があるのです。残虐な前世を思い出して、現世で同じような残虐行為の結果を避けるために、暴力を回避するのでは、完全にレッスンを学んだことにはなりません。暴力は間違っていると身をもって体験し、心の底から完全に理解したときにはじめて、暴力を回避すれば、本当に愛のレッスンを学んだことになるでしょう。だから、人間の霊魂は、肉体を使って、愛を語るべきなんである。だから、肉体で暴力をなし、憎しみを増すよりも、言葉で愛を語らないといけない。人間は言葉で愛の関係を構築すべきために、肉体に宿ったわけでもある。人間は組織的ではなく、個人的に愛を語るために、わざわざ肉体をもったわけなんである。そのために、人間は、潜在意識の上に覚醒意識をつくりだした。その時代が、ポストアトランティス時代で、特に悟性魂を発達させたのが、古代ギリシア時代からの哲学だったわけである。【シュタイナー】魂の三位一体構造について~感覚魂・悟性魂・意識魂~ | Noos Eggs (cosmolifeology.com)この時代を経て、人間は肉体を感じる感受魂から、愛を語る悟性魂の覚醒意識が芽生え始めたと共に、霊魂が、次第に肉体に深く入りすぎるようになり、半神半人の状態が生まれ、肉体で愛を表現するやり方から、言葉で愛を表現するようになっていったと同時に、霊能力を失った。だから、いわば動物のように、以心伝心の身振り手振りで会話できたのが、言葉を必要とするようになってきたわけである。だから、古代ギリシア時代辺りから文字が生まれてきたわけである。勿論、動物も、鳥のオウムのように、人間が教えれば、鳥も人間が話すのを真似できるが、それは所詮、霊から、覚醒意識で話し鳴いているのではなく、一般的に動物の本能といわれている、潜在意識を表現しているにすぎない。だから、人間のような覚醒意識での記憶や知識ではなく、潜在意識から湧き上がるものを表現しているようである。だから、現代人も愛を語るのには、記憶と知識で語っているわけなんである。つまり、人間が愛を言葉で語る自由を得たと同時に、嘘をつけるようにもなった。そして、現代人には偽りの愛が話されるようになった。古代人は嘘がつけなかった。嘘や偽りを肉体で表現したら、肉体が、愛の偽りから、そのまま憎しみに変わり、破壊されるからである。だから、肉体には型が必要となったわけで、型に外れると、そのまま肉体を破壊することになるが、言葉では、嘘をついても、声が壊れるわけではない。音を伝える空気の振動が有限だからである。もし、エーテル体で、嘘を表現すると、忽ち、エーテル体が闇に染まり、流れが変わり、肉体が破壊されてしまう。それはいまでも、心のアストラル体が、ストレスを感じ、エーテルの流れを変えてしまうと、肉体に悪影響を及ぼし、間接的に病気になるのと同じである。だから、エーテル体が肉体を破壊する前に、肉体から霊魂が離れる必要がある。そして、いつまでも、過去に囚われたり、未来を充てにして、いまを生きないと、眠りが浅くなる。だから、いまを生きていないと、肉体を酷使して、始終痛めつけ、長生きできないのである。過去や未来に想いが偏ることなく、バランスよく、いまの現在を生きるのが、健康の秘訣で、仏教が説く中道でもある。「前世からのメッセージ」のマスターたちは次のように語っている。「いま」という、時を経験していないとき、つまり、過去に囚われ、未来を心配しているとき、あなたは、自分自身に、大きな心の痛みと悲しみをもたらしています。共存と調和―全てはバランスしないといけない。自然はバランスしている。動物たちは調和して暮らしている。人間だけがまだ平和に生きる事を学んでいない。人間は自らを滅ぼそうとし続けている。そこには調和もなければ、自らの行為に無責任で、何の配慮もない。人間の行為は、自然とはかけ離れてしまっている。自然はバランスしている。自然はエネルギーで生命を再生している。人間は自分だけでなく、他の人間をも破壊している。結局は、人間の破壊行為は、巡り巡って、自分や人類を破壊させてしまうだろう。人間がもし、嘘をつくことで、自分が破壊されるのを、理解できたなら、古代人のように嘘がつけなかっただろう。シュタイナーは、前世で嘘つきだった人が転生すると臆病者になると述べている。つまり、自分に自信がもてないので、始終、びくびくする人生を送るのだろう。すなわち、チキン野郎というわけなんである。嘘をつくと、自分が、破壊されるのを霊的に理解しているので、潜在意識のその想いが、覚醒意識には、恐怖感として現れて、弱虫になるのだろう。嘘をつく、といえば、先日、ネットフーテンをしていたら、以下のようなカウンセル動画に出くわした。非常に参考になるので紹介する。「縁を切った方がいい人、関わってはいけない人」のなかにも、嘘をつく人が入っていたので、人間として嘘をつく人とは付き合わない方がいいだろう。縁を切ったほうがいい人 関わってはいけない人 職場 友達 人間関係 テイカーに気を付けよう~臨床数15000回超の心理カウンセラー 竹内成彦 - YouTube上の動画をみればわかるのだが、要点を書くと、1.時間を奪う人、2.おカネを奪う人、3.すぐに怒る人、4.嘘をつく人(自分を守るために、他人を利用するために)、5.人の悪口ばかり言う人。とは、縁を切った方がいい、というわけなんである。いずれにしろ、この5点については、思いやりがない人と纏めることができる。思いやりがない人とは縁を切った方がよく、以前紹介した、お釈迦さんの付き合ってはいけない人とも共通している。ましてや高齢ともなると、人付き合いにはストレスが溜まるので、思いやりのない人とは付き合わないに越したことはない。鬼嫁などといったら、毎日地獄の日々であろう。思いやりのない人を、考えてみると、それはバランスの取れていない人ということがわかる。老子は、そのようなバランスのないのを戒めるために、「無為自然」が大切と説いたのは有名である。というのも、愛はバランス、調和、共存を成り立たせるエネルギーだからである。「無為自然」についてググると、以下のようなサイトに出くわすが、どれも唯物的に解釈しているきらいがあり、自然のバランスについては言及していない。無為自然の意味 (tao-academy.jp)roushi_soushi.pdf (pref.kanagawa.jp)オンラインジャーナル/投稿コーナー (pmaj.or.jp)3分でわかる!『老子』『荘子』 | 読破できない難解な本がわかる本 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)どれも、覚醒意識での知識で解釈しているから、老子の意味がわからないのである。そのなかでも「3分でわかる!…」は、有限の相対性までは言及しているが、潜在意識にまでは言及できていないから、カルマの法則や輪廻転生には至りもしない。老子はそもそも古代アトランティス時代の人で、エーテル世界での法則の話をしているのである。現代では気功の話で、「前世からのメッセージ」でも言及しているが、中国のチー、クィ、日本での気のことである。つまり、「無為自然」とは、物質界を超えたエーテルの世界の気の流れのバランスをみなさいという、霊能力のことなんである。物質だけをみていても、自然の営みはわからない。人間だって、肉体をみているだけでは、心がわからない。心だって、過去や未来に囚われていれば、そのバランスからなる、いまや現在を生きることはできないわけで、それでは、自分がなぜ今のような人生を生きているのか、さえもわからないままである、と説いているのである。唯物論で「自然のままに」と物質界の言葉で置き換えても、どの自然を指しているのか、第一原理と呼ばれる、素粒子の生成消滅のことなのか?はたまたその上の、化学的結合則なのか、動物界の動物の本能、天変地異の予知などを指すのか、はたまた人間が自然と親しむ関係のことなのか?の具体的な意味が通じていないのがわからないほど、現代人は無知なんである。だから、有り体にいえば、人間の潜在意識で感じる、自然霊のレベルでの営み、つまり愛のエネルギーによるバランス、調和や共存を目指しなさいと、つまり仏教の阿弥陀如来の他力本願や、カルマの法則や輪廻転生まで責任をもって熟考しなさい、と結局は同じなんである。人間だけが自然のバランスを考えずに、調和や共存を壊している、という批判なんである。それは人間関係も同じで、エーテルのバランスが大切なんだよと説いているわけなんである。よく勘違い解釈している唯物論者が、上のサイトの悪しき見本のようにいるが、老子も孔子も同じ人倫について大切だと説いているわけで、別に孔子の儒学と、老子の道教が対立しているわけではない。それこそ、バランスを失わせる見方である。何事も、バランス関係からなるわけで、簡単にいえばギブアンドテイクの関係を重視しなさいということなんである。叱れば褒めなさい、褒めたら叱りなさい、のバランスと同じである。そして、老子も孔子も、愛や慈悲を深め合いなさい、と説いている。というのも宇宙は、愛や慈悲を学ぶために、人間に与えられているわけだから、と説いているわけなんである。愛がなければ、調和や共存が成り立たないわけで、ただ無為自然などと難しくいわなくても、思いやりをもって接しなさい、というだけに尽きるのである。利害関係で自分だけ得をしようとか、自分だけ有利に立とうとか、そういう浅ましい、さかしらな欲望は、憎しみを蓄積するだけで、いずれその負債を返さないといけないので、そのような欲望や執着心を捨てなさい、というわけなんである。思いやりをもつために、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。 ★ ★ ★潜在意識のなかの欲望特に満たされなかった情熱、抑圧された情熱が、覚醒意識下の、潜在意識をかき回している。その具体的な例を挙げる。30歳の女性で、16歳のときに恋愛し、性欲をもつに至ったと、精神分析された患者が、もし、この性欲の虜になり、その欲望に夢中になっていたら、人倫を踏み外していただろう。彼女は教育の影響と、両親の説教の影響で、その性欲を抑圧した。それから14年が過ぎても、その欲望は潜在意識のなかで生きている。彼女は身分相応な結婚をし、日常の生活から、かつての欲望を忘れていたが、潜在意識ではなくなってはいない。覚醒意識は、霊魂のいとなみ全てを把握しているわけではなく、下層の、潜在意識に追いやっているだけである。その抑圧された潜在意識の欲望が、覚醒意識の表に現れてしまうと、外的には満足な生活をしていても、よくわからない厭世的な発作に苦しむようになる。このような欲望がときたまに顔を出すと、人生に嫌気がさして、苦しむようになり、神経質や神経衰弱を起こすようになる。現代人は精神分析学を医療に持ち込んで、心を治療しようとする。「表層意識では忘れてしまった、深層意識のなかの体験を明るみにして、適切なカウンセリングをして治療しないといけない。」と考えて、様々な質問をする。このような精神分析法で、ある程度の治癒効果がみつけられるが、完治は見込めない。また別の例を挙げる。35、もしくは40歳の男性に多い、倦怠感、優柔不断の悩みの、原因不明の病気で、このような場合にも、精神分析学で、深層意識を探ろうとする。すると、このような男性が、15、16.17歳頃に抱いていた人生プランが破綻し、別のプランに向かわざるを得なくなったのがわかる。このような男性の潜在意識のなかにも、破綻した人生プランが生きている。このような患者を精神分析で診断して、深層意識から、破綻したプランを取り出して、色々議論すれば、治癒に向かうと考えている。表層には上らない深層意識が沢山あり、表層は小さな円で、意識全体は、大きな円と考えられている。そして、表層意識は、氷山の一角で、隠れている氷山の、深層意識に、唯物論を当てはめようとしている。最近(恐らく1910年代)、ある神学者が、悪趣味な表現で「霊魂のなかの動物本能」の精神分析を提唱している。動物的な生活のなかの、血や肉や獣性から来る本能は、表層の覚醒意識に到達せずに、覚醒意識は、そのような動物的な本能を自己防御する、としている。(動物には個人的なエゴがないので、自分が何者であるかを把握できないので、自己表現できない)
2024年09月26日
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元旦に震災が襲った能登半島にまた天災が襲ったが、巷の与党の自民は何もできずに、こんなときに総理が外遊にふけ込んで大顰蹙を買っているらしい。裏金議員も処罰できない、自民の総裁選などで「現を抜かしている」場合でないと、天が警告しているのかもしれない。どの輩を総裁選で選ぼうが、増税で、国民の生活を破壊するしか能がないので、堂々巡りの無駄である。現代のような政治をいくらしようが、国民の生活が幸せになることはないばかりか、全体として益々不幸になるだけである。というのも、物質界には、フェルミ統計という物質占有の法則があり、特定の物質状態は共有できずに、一人のみが占有するしかできないからである。つまり、物質界では平等所有の原則が成り立たないからである。だから、幸福を外に求めると、それは束の間の幻想でしかないので、仏教や、ヒンズー教では、外界からの離脱の出家が説かれたわけなんである。フェルミ統計 | 天文学辞典 (astro-dic.jp)フェルミ・ディラック統計 [JSME Mechanical Engineering Dictionary]フェルミ分布関数 - Wikipedia極論をいえば、このフェルミ統計のせいで、物質界の状態が、電子の状態一つで決まる限り、それを所有する者は一人しか許されずに、その状態を外に幸福と求める限りは、唯物論に染まらずを得なくなるわけなんである。しかも物質は、生命体とは異なり、酸化し、風化し、自然と崩壊し、結局は無に帰してしまう。これが悪魔の罠なんである。だから、唯物論で、人間の生活を形作ろうとするほど、物質的な富の独占が進み、格差社会が拡がって、物欲を増す少数派と物欲に満たされない多数派へと、格差社会を拡大していくだけだからである。シュタイナーは、少数派の占有のために、多数派を唯物論に洗脳し、犠牲にする、催眠術的な心理工作が、古代からオカルトの世界で行われてきたのを、黒魔術と呼んで警告しているが、実際にシュタイナーも、この黒魔術の秘密結社に肉体を奪われたわけだが、それはいまもディスインフォメーション工作として有名で、米国の大統領選が、このようなジレンマに陥っている、のが明らかだろう。現代では、認知戦とも呼ばれているらしい。IPA NEWS Vol.67(2024年7月号) | IPAについて | IPA 独立行政法人 情報処理推進機構軍事研究家・小泉悠氏が「人の脳が戦場になる」解説 「信じない人」が狙われる<認知戦インタビュー詳報>:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)バックミンスターフラーによれば、この米国でのディスインフォメーション工作は、旧ソ連のロシアの米国でのスパイ活動からはじまったようである。以下のようにググれば、怪しい情報も含んで色々出てくるが、恐らく、全てはグルジェフからはじまっているように個人的には解釈している。旧ソ連「黒魔術暗殺部隊」の存在がCIA機密文書で発覚! 頭蓋骨破壊、病気誘発、超能力コピー…!ーオカルトニュースメディア トカナ (tocana.jp)ゲオルギイ・グルジエフ - Wikipediaピョートル・ウスペンスキー - Wikipediaナチスとチベットとグルジェフ (client.jp)このような都市伝説みたいな話の、恐らく、認知戦の源流がグルジェフにあるのだろうから、グルジェフに回帰すれば、認知戦が無意味であり、悪魔による人類の軛にあるのに人類は遅かれ早かれ気づくだろう。それは以下のサイトが明らかにしているようにもみえる。誰もが思い込みで動いているという衝撃 | 涅槃の書 (nehan.xyz)このサイトの内容からわかるように、人間は多種多様の思い込み、物質界への期待と憧れで動き、動かされているのだが、それはその人が自分で気づいて、理解するまで続けられるもので、他者からみればどうでもいいことなのである。つまり、グルジェフに語らせるならば、例えば、巷の、総裁選などは、人生から学べない人間の権力闘争の遊具で、ネズミが回し車で遊ぶ、のとなんらかわりがない、と答えるだろう。つまり、ほとんどの地球人は、この地球上で、眠ったままに、「現を抜かしている」のである。それはフェルミ統計のなかで、物質的幸福を外に求める、椅子取りゲームでしかないのである。だから、せめて、この誰かが占有する、このフェルミ統計ゲームから抜け出て、ボーズ統計、身近な例でいうなら、光のように、どの物質も万遍なく、照らし出し、価値観を共有する状態にまで、自分を創造していく必要がある。シュタイナーは、電子は光が凝縮した状態だと述べているが、だから、電子の凝縮状態を解放し、光に昇華させるのが、現代人の課題なんである。ボース統計 | 天文学辞典 (astro-dic.jp)ボース分布関数 - Wikipediaさて、前回紹介したように、現代人は唯物論に染まり、破壊知識しか持ち合わせていないので、その知識でみえるもの、外見のみを重視して、選出してしまうので、美映えのする、カリスマ性の、詐術性の、嘘で散りばめられた、誇大広告の、中身が空っぽの最悪の人物を選び出してしまうわけなんである。自らを破壊する存在を、選んでしまうのは、自分のなかに破壊を正当化する何ものかが眠っているからである。政治なんて、利害調整の面倒くさいものは誰かに任せればいい、という考えそのものが、破壊を正当化するものともいえるかもしれない。この他力本願の考えが破壊を正当化している、ともいえる。というのも、逆説的に言えば、面倒くさいことを自分でやることで、自分の能力が向上するからである。他力本願 - Wikipedia他力本願 | 仏教語豆事典 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) (hongwanji.or.jp)いま他力本願という言葉を使ったが、上のサイトによれば、本来の意味は違うらしく、「仏の力、阿弥陀仏の慈悲のはたらき」を他力といい、その仏の力で行うことらしいので、少なくとも、自分の外にある力ではないから、本当の意味では、自分の内にある力で、自力ではないので、自分のなかに眠っている、慈悲の力であるのがわかる。だから、物理的にいえば、電子の力ではなく、光の力であるだろう。簡単に要約すると、つまり、自力とは、覚醒意識で解き明かした知識のことで、他力とは覚醒意識では解き明かせない、人間の内にある、心のなかの、仏の慈悲の力で、潜在意識のなかの叡智なのがわかる。早い話、他力本願とは、霊能力のことだろう。しかし、この霊能力は、霊能者でないと使えないので、目覚めていない一般人には何もできないので、他力とは、現代人には、何もできずに、他人任せにしてしまうので、本来の霊能力が、低俗化して、他人任せの意味になってしまったのだろう。しかし、いずれにしろ、現代人の大きな間違いは、そもそも幸福を外に求めてしまい、最悪の人物を選び出して、それに委ねてしまう選択が、低レベルな腐敗堕落の、政治を生み出しているわけなんである。政治家の中身ではなく、外見に囚われて選出してしまうから、最悪の人物を選び出して、天と地の間に境界をつくり、国境をつくり、同じ人類なのに、互いに論争、闘争、そして戦争をする羽目に陥ってしまうわけなんである。このような巷の混乱した出来事に付随して、末法の世特有の、仏教沙汰にしょっちゅう出くわす日々の海のなかで、ネットサーフィンはもはや死語となり、相変わらずの、ネットフーテンの寅さんの日々なのだが、棚からぼた餅というような、次のような面白い動画に出くわした。それは「仏教物語」や「ブッダの真実」という以下の動画である。仏教系の動画というと、創価が関わっているのではないかと一応心配にはなるが、「仏教ものがたり」は創価のようだが、こちらは表面上は違うみたいだが、どこでつながっているかは、自分で判断するしかなく、おカネをとられるかどうかが大体の目安なんだろうが、無料で、怪しい詐欺サイトでもないので、いまのところは問題ないようにみえる。仏教物語 - YouTubeブッダの真実 - YouTube日本では仏教のほとんどが、喜捨という形で、おカネをとっているので、お釈迦さんがそんなことを教えたはずはないので、末法の世でのニセモノである。だから、日本の仏教のほとんどはニセモノなので、ホンモノはほとんどないと思うしかないだろう。この点については、各自で判断するしかなく、それが修行の一環ともいえるかもしれない。そもそも、おカネがなくても、幸福な生活が送れるようになるのが、お釈迦さんの教えなので、坊主が信者からおカネをとって生活するのは堕落腐敗の末法なんである。坊主自らが、おカネがなくても暮らせる生活をしないと意味がない。というのも、おカネで生活をしても、霊能力を獲得できないからで、カネ頼みの生活では、誰しも、カネをこの世に残して死ぬわけで、カネがなくなって、あの世にいけば生活できなくなるからである。だから、逆説的にいえば、物質界に依存しない生き方をすれば、それがそのまま霊能力になるわけなんである。末法思想 - Wikipedia人智学からもわかるが、乞食のような外的に貧困な生活をしてはじめて、霊能力獲得修行の初歩段階の、根無し草の故郷喪失者となり、仏教では、托鉢という修行ともなっているが、昔の日本社会ならまだしも、現代社会ではカリユガの唯物論に洗脳されて、物質的生活が進んでしまったので、坊主だけで生計を立てるのは、あまりにも仏教徒には酷で、ひもじい生活もままならないので、何らかの仕事をしながら、質素倹約に努めることで、できるだけ、お釈迦さんの教えを守っていこうというのが、出家しない、乞食にならない、在家信者が生まれたというわけなんである。托鉢 - Wikipedia在家 - Wikipedia仏教は極論を廃し、常に中道を生きるのを説き、つまり、いまを生きるのを、大切にするので、霊能力がそれほど身につかない、在家信者も認められる現状ともなっているが、それではやはり本当の意味では修行にはならないので、できるだけ少しづつ、死に際しては、断捨離していくのが望ましいわけなんである。つまり、少しづつ、物質的生活を捨てて、精神的生活を完成していくわけで、あの世に旅立つ準備で、これが本当の終活といえるかもしれない。断捨離 - Wikipedia長々と余談を紹介してしまったが、先の動画「仏教物語」などをみて、改めて、お釈迦さんの教えが、「前世からのメッセージ」のマスターたちの教えと同じで、より詳しく説いているのが、わかったわけなんである。それは、幸福は内からくるのであって、外に求めても、一時的なもので、永遠ではない、ということと、いま生きているのを実感し、感謝するのが、幸福を感じる一歩である、ということである。そして、この、いま生きているという、感謝の力から、阿弥陀如来の、仏の慈悲の力が生じる、ということなのである。これが、現(うつつ)の正体で、現を抜かすとは、いまに生きずに、過去に囚われ、未来を充てにして生きることなんである。つまり、現を抜かすとは、いまを生きていない感覚、意識なのである。人間は日々に、理想や夢を求めがちだが、いまという現実を生きなくては、それらは幻想で、現実逃避でしかない。これらは結局は、執着心で、いまの自分の不満から出ていることで、自分を否定して、いまを生きていないせいにある。過去の成功や失敗が忘れられず、未来にそれを求めようとしても、いまを生きなければ、単なる執着心であって、自己を否定し続けるだけなんである。これは巷の総裁選の立候補者たちをみていてわかる。節制生活さえもできない面々が、指導者になっても、何が指導できるのか、果たして、聞いてみたいものである。口から出まかせで、理想論や夢を語っているが、現実は天変地異の連続で、その救済策さえも提案できずに、無責任に実行もしない。この国の現状すらも理解できていない。要するに、足るを知る、を知らないから、自分の能力を知らないから、いまを生きるのを怠り、執着心が生まれてしまうわけなんである。とりあえず、いまの自分の能力を認め、背伸びをしない堅実な、地道な生き方が、幸福への第一歩というわけなんである。孫子も兵法で語っているように、自分を知るのが大切なんである。彼を知り己を知れば百戦殆からず - Wikipediaいまの自分の現実を知る事からはじまるが、それはローマは一日にして成らず、という諺もあり、夢や理想を求めるには、まずは足元を見直し、毎日を感謝して生きる、その延長上にあるのを、自覚しないと、執着心に、誘惑に取り込まれてしまうわけなんである。お釈迦さんの仏教の教えでは、自分の日々の生活を見直すのがまずは、幸福への一歩というわけなのである。先に紹介した動画「仏教物語」では、いまの政治家を代表する人物を紹介していたので、以下に紹介する。「その人は性根が腐っています」ダヤーという人物の物語である。【激ヤバです】その人は性根が腐っています。ブッダの生き方 - YouTubeダヤーは、物質的な富を追求し、結局、その欲望に負け、欲望のために死んでしまう。まるで、現代の政治家そのものといえる。物質的な富を追求し、生命を失った元総理もいたよね。票稼ぎのために、統一教会と仲良くしていたようである。人生は、自分の学びのためにあるわけで、何を学んだのかも疑問だった人物である。さて、ダヤーのような不幸な人物を反面教師にして、自分の日々の生活を見直すのがまずは、幸福への一歩で、それは以前、スヌーピーの名言で紹介した、「配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどうゆう意味であれ」というセリフを髣髴とさせるが、配られたカードが、正に自分の能力であって、自分なのだから、スヌーピは、こころないルーシーの差別発言の、「なんであなたは犬なのか?」の疑問に対して、犬である自分について、不満をもたない、自己否定しない、ウィットに富んだ返しをしているセリフなんである。人生がハッピーになる!スヌーピー名言集「配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどうゆう意味であれ」|心に響く言葉・やる気が出る名言 (motivation-up.com)スヌーピ―の素晴らしいところは、他人と自分を比較しても、違うのは当たり前で、それが個性で、例えば、なぜ自分がドラマの主役ではないのか?という不満と同じで、この応えは、自己肯定をうまく表現している、更に、もっと良い答えは、「犬だってまんざらではないさ、素晴らしい匂いを嗅ぎ分け、生きられるからね」というセリフも考えられる。ともかくも、スヌーピは、主人公チャーリーブラウンの飼い犬の脇役でありながら、主人公を超える世界的人気を獲得している点で、スヌーピーがもし犬でなければ、多くの人に幸福を与えていなかったかもしれない。だから、「ねぇ、ルーシー? 僕が犬でなければ、この連載も終わってたかもしれないよ。チャーリーブラウンとルーシーだけの世界じゃ読者は満足しないよ」というセリフを続けて、返すべきだったのかもしれない。実際に、スヌーピの登場からピーナッツという漫画は人気になったようで、言葉をしゃべる犬は漫画の世界だが、スヌーピに限らず、ルーシーも時と場合により、次のような名言を残している。「わたしの人生よ、それを生きなきゃならないのはわたしよ!」「あなたのいけない所はね、自分を信じないことよ!自分の能力を信じてないのよ!」このように、ルーシーも名言を残しているのだが、ルーシーが語ると、キャラの性質上、読者には、あまり響いてこない。このルーシーのセリフを、スヌーピ―に語らせると、哲学的に聞こえるから不思議でもある。「自分は犬だ、犬として生きなければならない!」「君という人間のいけないところはね、自分を信じないで、自分の能力を信じないところだよ! 犬は犬の能力で生きるだけだからね」とスヌーピーの言葉に変換すれば、なぜか、犬に話されるほうが、言葉に説得力が増す感じがする。このピーナッツのなかの、スヌーピーというキャラは、ドラえもんにも通じるところがあるが、ドラえもんは、言葉ではなく、道具で叶えてしまうところがコメディなので、大きく異なる。このスヌーピーのような哲学を語る犬のモデルは、もしや、犬と呼ばれた古代ギリシアのディオゲネスではないか?と想ってもいる。このディオゲネスは、お笑い芸人の元祖とでもいえる存在で、とにかく、自らの境遇に不満など一切もたずに、幸福に暮らしている逸話が残っていて、あのプラトンと度々哲学的問答をして、「狂ったソクラテス」と評されているのが、非常に面白い。ディオゲネス (犬儒学派) - Wikipediaかつて犬のような哲学者がいて、いまのスヌーピーになったと、個人的には信じているのだが、どんなに苦しい境遇でも、笑い飛ばして生きる、強い精神力は、以前紹介した、NHK朝ドラの、「おしん」にも通じる生き方でもある。まるで、前世からの自分の因縁を知っていたかのようでもある。カルマの法則と輪廻転生では、前世の自分の振る舞いが、現世の自分をつくるのだから、現在の境遇をつくったのは、正しく自分なんである。だから、文句を言ったり、過去に囚われ、未来を充てにして、いまを生きないのは、自分を生きないことで、自分への罰当たりでもある。自己否定を続けて、いまを生きないと、またいまの自分に将来も出くわし、更に自己否定を続けて、最後は、自分を失ってしまうわけなんである。ついには自分がわからなくなり、自分とは何だろうか? 自分は死んで無になったはずなので、無なのではないか? しかし、無なのに無でない感覚は何だろうか?と無の堂々巡りに陥るわけなんである。無の堂々巡りに陥らないように、というのも、地球人は、悪魔に支配されているからだが、だから、前回から続けて、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。 ★ ★ ★ゲーテのファウストから現代人は、唯物論という悪魔が与えた知識に従って、実際には、悪魔を地に招来しかねない最も重要な地位に、最悪の人間を選ぶ、という傾向に支配されている、というのは、現代にとって、苦い真実だが、現代の著しい権威信仰と朦朧とした日和見主義に陥らず、世論に左右されないなら、この苦い真実は、現代人にも認識されるだろう。19世紀の哲学者の見解によれば、世論は、私利私欲による排泄行為にすぎない。汚物まみれの下水源から吐き出された世論の影響を受けなければ、何が問題なのか洞察できるはずである。最悪の人物が、いわゆる世論によって崇拝の対象にされている。最悪の人物が選ばれている、のを洞察し、もっと徹底した人生観を育成しなければならない、のを明らかにしなくてはいけない。公職は、悪魔アーリマン、ゲーテのファウストから引用するなら、メフィストフェレスにより占められている。「ファウスト」のなかに、メフィストフェレスの職務の代行ぶりが描かれている。ファウストは、生涯の終わりになって、ようやくメフィストフェレスから解放される。ファウストは皇帝の宮殿にきて、以後の時代にとって、非常に重要な発明をする。彼は紙幣を発明する。それから、人工知能ホムンクルスにより、古代世界へと導かれる。ホムンクルスは、メフィストフェレスの支援により、出来上がったものである。それから、ファウストは軍司令官になり、戦争をする。その戦争を指導しているのはメフィストフェレスである。ファウストは最後になって、だんだんとメフィストフェレスから解放されていくのが、描かれている。ファウストは教授職をやめた後、官職に就かずに、世界を彷徨う。「メフィストフェレスが彼のそばにいて、悪の力を送り、今日の、人類の生活のなかに、作用させている」と言わねばならない。これが第1に注意すべき霊的な真実である。第2に注意すべき霊的な真実は、「カルマの法則から、人類の生活のなかに、作用するものを、人間の潜在意識のなかで、正しく認識するのは、非常に困難である」ということである。この潜在意識=無意識の、領域にも、自然科学は、発展して、「科学的」な精神分析を駆使して、到達しようとしている。しかし、自然科学の唯物的方法で、心魂のいとなみを考察するほど、著しい誤謬が生じる。学問の方向性が間違っているので、人間の心魂のいとなみを、唯物的に考察しようとするからである。人間の心魂のいとなみは、上層の、覚醒意識に現れるだけでなく、その下層の、潜在意識でも多く活動しており、その活動が、覚醒意識にも、波のように打ち寄せるのを、いまの学問も認めている。以前の霊的な考察で、潜在意識に存在する具体的な活動を挙げた。紙切れを燃やせば、煙が排気孔に押し寄せる。この紙切れのようなものが、覚醒意識の下の、奥底の潜在意識のなかに、多く沈んでいる。「心理学に取り組んでいる人のなかには、暗い潜在意識のなかの心魂の能力や、その能力の不足を、心魂のいとなみを説明するのに、持ち出して、用いないといけないと予感している」ともいえる。ただ、このような見解は、霊界を想定していないので、霊的な真実とは、アベコベの誤謬を主張することになるだろう。確かに、自然科学的な心理学の観点から、人間生活の発展を眺めることができる。心魂が、幸せ、不幸せ、嬉しい、苦しいと感じるのを、覚醒意識から無理に説明しようとしなくなっている。代わりに、心魂を、教育的に解明しようとしている。たとえば、日常の表象では、忘れられている、かつて体験した喜び、苦しみ、失望を、心魂のなかに探求しようとしている。忘れられているのは、消え去ったのではなく、潜在意識のなかで、グルグルとめぐっていると考えている。(現代人は、脳を電気回路として考え、感情が、この電気回路から起こるものと考えている)
2024年09月24日
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「前世」からのメッセージのマスターたちは、幸せに暮らしたい、と願うなら、暴力を手放さない、といけない、と教えている。暴力を手放せない人は、競争原理などを持ち出すが、輪廻転生とカルマの法則を知れば、それが、現世しか、物質界しかみない、虚構でしかない、のがわかり、カルマの法則から、勝てば、次には負け、負ければ、次は勝てるわけで、単なる順番でしかない、のがわかる。誰がいったかわからないが、勝ち負けは時の運、とよくいわれるが、カルマの法則からすれば、単なる順番にすぎないので、結局、自分がいま、勝ち負けのどちらかにいるだけにすぎないから、時の配慮にすぎないというのは、正に言い得て妙である。前世からのメッセージのマスターの言葉をかりれば、全ては学び、なのだから、驕ることなく、勝ちに学び、負けたときには、より詳細に学ぶ必要がある。だから、勝てばよい、という考えは邪道といえるだろう。なぜ勝てたのか、改めて考えてみないといけない。「勝ちに不思議の勝ちあり」は、プロ野球の故野村監督で有名だが、原典は、平戸藩主の松浦静山という。この不思議とはどういうことか、以下のサイトが解説している。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」 | 独立メディア塾 (mediajuku.com)「私は、『勝つときには不思議の勝ちがある。しかし、負けるときには不思議の負けということはない』と客に言った。客は『なぜ不思議の勝ちと言うのか』と質問をしてきた。私は『本来の道を尊重し、武術を守って戦えば、たとえ気力が充実していなくても勝つことができる。このときの心の有り様を振り返ってみれば、不思議と考えずにはいられない』と返答した。そうすると客は、『どうして不思議の負けはないと言うのか』と質問してきた。私は『本来の道から外れ、武術を誤れば、負けるのは疑いのない事だから、そう言ったのだ』と答えた。客は恐れ入って平伏した」。この発言を要約すれば、道を尊重し、武術を守れば、勝つが、道から外れ、武術を誤れば、負ける、というようになるので、いかにも道理なのだが、更に、静山は、勝ったときの、心の有り様に言及し、それを不思議としているのが面白い。つまり、負けから学ぶのは当然で、その原因もわかるが、勝ちから学んでも、その原因がわからず、不思議としている。つまり、この不思議のなかにこそ、カルマの法則が隠されている。この発言を信じるなら、負けからは学べるが、勝ちから学ぶのが困難なのがわかる。そして、次のような疑問に出逢う。勝負から学ぶには、負けた方がいいのに、人が勝ちたいと思うのは、なぜなのか?勝負に勝てば嬉しいが、負けると悔しい、のはなぜなのか?負けるが勝ち、ともいわれるが、なぜ負けようとしないのか?このような疑問を考えてみる人が意外と少ないのに驚く。この世の価値観では、勝つことが尊い、とされ、当たり前とされている。それだけ暴力が正当化されているせいでもある。それでもググってみると、以下の理由を挙げているサイトがみつかった。競争の心理学(2)~「勝つ」と「負け」、「負け」が「勝つ」罪悪感の力学~ - カウンセリングサービス心理学講座 (counselingservice.jp)「なぜ勝ちたいのか」を分析する | 戯れ言 (ameblo.jp)負けると悔しいのはなぜ?将棋でその理由を4つ紹介!負けを認めることの利点も | なな夫のブログ (shogi-life.com)負けると悔しい理由1:想定した未来に裏切られるから負けると悔しい理由2:相手を責められないから負けると悔しい理由3:自分の弱さを認めることだから負けると悔しい理由4:人間は優越を求める生き物だから勝てば官軍負ければ賊軍、負ける悔しさを、心底味わったのは、この国の昭和世代の日本人だろう。いまだに、日本が米国の植民地と呼ばれるのは、太平洋戦争で負けて占領されたせい、ともいえるかもしれない。太平洋戦争では、国体護持のために、ポツダム宣言の無条件降伏を受け入れ、一時は占領され、連合国による、領土分割の危機もあったが、昭和天皇とマッカ―ザーの会談で、日本の要望は何とか受け入れられた形となって、後には、サンフランシスコ講和条約を、不参加の中国(国民党)、ソ連を除いた、連合国と締結している。その後に、二国間交渉などで、インド、台湾と講和し、またソ連と日ソ共同宣言、中国(共産党)と日中共同宣言を行って、現在の国際的な地位を獲得したのが、以下のサイトからわかる。終戦はどのように決まった?|NHK戦争を伝えるミュージアム 太平洋戦争をわかりやすく|NHK戦争証言アーカイブス日本国との平和条約 - Wikipediaいまだに、太平洋戦争は負けではないという人もいるが、いずれにしろ、学びを怠っているのは確かである。日清、日露でとにかく勝てたのに、2度の勝ちにも学ばなかったし、勝ちの後に負けがくるのは、勝負の時運なのに、学べなかったのは確かだろう。上に紹介したサイトの、負けると悔しい理由を、まさに地で言っているのがわかる。特に、自分の弱さ、欠点を認められないのが、いまの日本なのかもしれない。負けるが勝ち、という諺もある。この諺の意味をググると、「一時は相手に勝ちを譲り、しいて争わないのが、結局は勝利をもたらす」とあるが、意味になっていないのがわかる。この諺は、先の「勝ち負けは時運」の、恐らく、焼き増しだろう。つまり、カルマの法則をそのまま表現したもので、先に、負けて敗因を学べは、次に勝ったときに、より勝ちに学べる、という意味なのだろう。前世からのメッセージのマスターの説くように、全ては愛の学びのためなのだから、愛をより学ぼうとする精神が大切なのがわかる。負けたら悔しいのは、自分の奥底では、愛に乏しいと気づいたからである。愛の不足を感じたので、悔しいわけなんである。逆に、勝ったときに、学べないのは、謙虚に乏しく、愛に恵まれて、増長しているためだろう。だから、先の勝負師は、勝ちに不思議あり、と述べているのだろう。自分は愛に恵まれて、勝てたが、その愛が何なのか、わからないから、不思議なのである。静山は、「本来の道を尊重し、武術を守る」のが勝ちにつながると、述べているが、この道を尊重する心を見つけるのが困難だから、不思議なのである。シュタイナーの説く、カルマの法則と輪廻転生からみれば、この道を尊重する心こそ、前世から引き継がれた、霊魂の核となっている、自我を育成する、宇宙を巡る愛なのである。勝負の時運とは、この宇宙を巡る愛を尊重し、武術とは、自我の育成を、守ることなのである。負ければ、自我の育成に必要な、足らない要素がわかる。それは自分の弱点が明らかになるからである。しかし、勝った場合は、自分の弱点が現れないどころか、自我のどこか良かったのか、その成長を見究めるのが困難で、マザーテレサが説いたように、愛を込めたのはわかるが、あくまで無私の精神に則ったので、無私だから、私心がないので、自我の成長がわからないので、不思議なのである。有り体にいえば、神の愛に勝たせてもらったわけなんである。ここでも、勝利の、幸運の女神には後ろ髪がない、という諺が生きてくる。「通り過ぎてから慌てて捕まえようとしても、後ろ髪がないのでつかむことが出来ない。」というのは、勝利は時運で、勝った要因を掴むのは困難なのである。だから、勝利の法則などなく、勝った後は負ける宿命がついてまわる。だから、勝者も敗者も時の運なので、たまたま勝たせて頂いたのだから、敗者を差別してはダメで、宇宙に愛を巡らす、神に感謝しなさい、というわけなんである。前世からのメッセージの、マスターの説くように、全ては、愛の学びの過程にすぎないので、愛の指導者に感謝しなさい、というわけなんである。「前世からのメッセージ」では、勝負についての教訓を、スコアを気にし過ぎるゴルファーのカウンセルの例で紹介している。そのゴルファーは、スコアを気にするほど、スコアは悪くなっていったので、カウンセルを受けにきたという。カウンセルにより、ゴルファーは、エゴを置き去って、ゴルフコースと一体となったという。そして、ゴルフを人生に置き換え、理解し始めた。どんなスコアを出そうが、どんなプレーをしようが、ゴルフコースは、気にもとめない。ただ、プレーヤーに、楽しんでもらいたい、美しさと素晴らしさを感じてほしい。愛を感じてほしいと、望んでいる。このゴルファーは、ゴルフコースをつくっている自然霊の意図が理解できたようなのである。宇宙は、人間個人の勝負事などよりも、常に、宇宙が巡らせている愛を学んでほしい、と願っているのである。このゴルファーの心境を表わす句がある。それは、山岡鉄舟の、「晴れてよし、曇りてよし、富士の山、元の姿はかわりざりけり」、である。この意味は、晴れた富士山は素敵だが、曇った富士山もまたそれで格別である。富士山は、いつも変わらずに、愛を送っている、というのである。富士山は、いつみても素晴らしい、というわけである。つまり、鉄舟は、富士が霊山で、その愛を感じて、神に感謝している、のである。実際に、鉄舟は、禅の師匠にいわれ、富士山に何度も登頂していたらしい。鉄舟にとって富士山は、ゴルファーのゴルフコースだった。恐らく、富士山のなかに自然霊をみていたのかもしれない。禅の言葉:晴れて良し曇りても良し富士の山、元の姿は変らざりけり - Megurecaのブログ (hatenablog.com) カウンセルを受ける前の、このゴルファーのように、競争原理から抜け出せないでいると、宇宙を巡る愛を学べないので、人生の大半を無駄に過ごして、更なる憎しみを貯め込んでしまう。確かに、物質世界で永遠に生きようとするのなら、尾崎豊の歌詞のように、勝ち続けなければならないだろうが、きっと、いつかくる負けを認めないと、死を恐れ、死が無になる救いだと、歪んだ過ちに取り込まれてしまうかもしれない。そして、なによりも、宇宙を巡る愛について不感症になり果てて、キリストが近くを通り過ぎるのを、招き入れることなく、黙認する、永遠に彷徨えるユダヤ人のように、何度も同じ民族に転生しては同じ過ちを繰り返す人生を送るようになるだろう。永遠の彷徨えるユダヤ人をやめるためには、目に見える競争原理を捨て去る必要がある。そこで、前世からのメッセージの、マスターの言葉をかりる。「いま」という、時を経験していないとき、つまり、過去に囚われ、未来を心配しているとき、あなたは、自分自身に、大きな心の痛みと悲しみをもたらしています。かなり前に、塾講師の林先生で有名な、いつ学ぶのか、「いまでしょ」が、巷で流行った。過去や未来に思い悩んでいると、いま生きている、いま愛を学ぶのを怠ってしまう。「いま」この瞬間は、現世での人生の連続のなかにあるが、それは、前世で学びを怠って、持ち越した、自分の欠点で、自分が抱えた憎しみの負債でもある。いま、その憎しみを返さないで、いつ返せるのか? それが、「いまでしょ」の答えなんである。競争原理からくるプライドは置いておいて、とりあえず、いま、自分の欠点をみつめ、愛せるかどうかなんである。自分が抱えてきた憎しみを解放しなくてはいけない。それには、自分の欠点を生んでいる、暴力や憎しみを捨て去らないといけない。そこで、またマスターの言葉をかりる。カルマを返す前に、人の生命を取り上げる権利は、与えられていない。何人も生命を取り扱う権利はない。殺人者は、その罪を逃れ、生きながらえたとしても、必ず報いを受ける。死んで、次の転生のときに、その人生で苦しむことになる。殺人者は、次の転生で、不安に襲われ、永遠に、その罪が重いのを悟るまで、不安に襲われる。だから、殺人者に、平穏、平安が訪れることはない。殺人者の次の転生は、殺人が悪いものと身をもって体験するために、非常に苦難に満ちたものとなるだろう。自分が傷つけた全ての人々に対して、不正行為の償いをしなければならない。神のみが、殺人者を罰せられる。殺人者の人生を変えられるのは、神のみで、あなたたちは、神の愛から与えられた、いま自分の人生を、神の愛によって変えられるだけなのである。神の愛から、人生を変えるのは、あなた次第なのである。あなたが人生をどうするかは、あなたが、愛を学べるかどうかにかかっている。だから、生命の尊さを学ぶべきなのである。競争原理に翻弄されるのを、暴力や憎しみに身を委ねるのから、あなたの人生を、解放しなさい。このように、個人の人生においても、競争原理から、自らを解放し、前世まで探求しないと、現人生の幸福が実感できないのが明らかになる。前世からのメッセージのマスターたちが説く、幸福は内からくる、というのは、現人生から抜け出し、前世からの憎しみを、愛の行為で、「いま」という現世で、永遠に解消することだからである。個人の幸福でも困難なのに、ましてや集団となると更に困難なのを、そして、現在の民主主義の方向性が間違いなのを、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。 ★ ★ ★公職、官職人生の職業について、霊的に考察すると、職業を霊的に説明するのが困難なのがわかる。膨大な霊的背景の説明を要するからである。カルマの法則からくる運命の多くが、生活のなかに散りばめられているからである。そのような多くの要因を、探求し、人生の多様さを理解しなければ、霊的な考察がなりたたないからである。公職や官職といわれるものを、職業と取り違えてはならない。官職を職業とすると、混乱に陥るからである。官公庁で働く人間から、多様な外的の、物質的要因が、生活のなかに作用し、浸透してくる。そうすると、その悪影響を受けた、他の職業のカルマも影響を被るようになる。我々の時代は、ゆっくりと改革されているが、生活のなかの、ある社会的地位に就くのに、職業のカルマだけで決まるのではなく、今日多くの点で、身分、階級などのカルマが、職業のカルマに干渉しているのを、御存じだろう。あるグループのなかで、誰がどんな地位につくか、功名心、虚栄心、偏見その他の悪因が作用するのを御存じだろう。官職として、外から職業のカルマに作用する、これらの全ての悪因から、アーリマンの影響が、人間の生活の中に忍び寄ってきて、人間の活動のなかに、悪魔的要素の影響、憎しみを混ぜ込む。だから、大臣、議員などの地位についている人が、それを職業とする必要はなく、このような地位につくのに、何をしているかは、下世話な話なので、語る必要もない。とにかくも、そのような高い地位につくのは、融通が利かない官僚的人間でしかなく、多分に、融通自体も持ち合わせてはいない。確かに、物質界では、ダーウィン主義は正しいが、これを唯物的に解釈した、ヘッケルの弟子のオスカーヘルトヴィッヒが強く非難した、「最良のモノへの自然淘汰」のような生命の教えが現れたのが現代の特徴である。このような教えが現れた時代には、他の時代の生活に比べて、まさに最悪のモノが選び出される。厭世家のように、いまの時代を非難し、古き良き時代を引き合いに出すのは無意味で愚の骨頂である。「最良のモノへの自然淘汰という教え」を現代人は自慢している。しかし、この教えを自慢する現代人は、唯物論という悪魔が与えた知識に従って、実際には、悪魔を地に招来しかねない最も重要な地位に、最悪の人間を選ぶという傾向に支配されているのに、気づかないでいる。(高次の宇宙人によれば、高次になるほど官職や公職はなくなると述べている。必要がないからである)
2024年09月19日
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ここのところ、シュタイナーの人智学の勉強は小休止で、夏休みの気分転換から、「前世からのメッセージ」の紹介を続けているが、そのなかの、マスターたちの話によれば、宇宙は無限のエネルギーの愛の海からなっていて、我々地球人は、いわば愛の海の中を泳いでいるわけで、泳ぎ方により、愛を感じたり、逆に憎しみを感じたりして、泳ぎ方をマスターしながら、愛を深める深海へと、より密度の濃い愛へと泳ぎ、憎しみを愛へと転換し、昇華し、進化している、といえるかもしれない。幸せに暮らしたい、と誰もが願うものだが、幸福についての、日本の世界ランキングは、先進国G7のなかでは最下位となっている。その理由は、以下のサイトによると、幸福のランキングが、「なぜ日本がそれほど高くないのか、次の理由を指摘できる。低成長時代にいるので生活の豊かさが感じられない、社会保障に代表される社会的支援の低迷、官僚や政治の世界における腐敗などが原因である。」日本人が「幸せ」を感じていない納得の理由…日本の幸福度は「G7の中で最下位」という「意外な現実」(橘木 俊詔) | 現代新書 | 講談社(1/2) (gendai.media)上のサイトによると、幸福度ランキングの高い北欧の特徴は、福祉国家で、「多額の税・社会保険料の負担を強いるが、国民は負担はしてもそれへの見返りが大きいと、政府を信頼している」ことが挙げられている。このサイト曰く、ランキング上位の国をみると、経済的な豊かさと自由度、もしくは、社会的支援や非腐敗度の評価が高いのがわかる。要約すれば、経済活動と政治活動が高い国が幸福度が高いのがわかる。このサイトで、面白いのは、ブータンのランキング低下を、わかりやすい例として挙げているところで、「物質的なことよりも、人々の精神的な結び付きが幸福であると考えられた。しかし、グローバル化と他国の情報の流入により、ブータンの人々は他の国の豊かさを知るところとなり、自分たちの貧困を認識してこのような低い評価になったのである。」というように、この例からもわかるように、幸福は、内からやってくるのがわかる。ブータンの場合、幸福度先進国と比べると、経済活動が低いのがわかる。以前より、紹介してきた「前世」からのメッセージ、のマスターたちの言葉を借りれば、経済活動が、人間の外への愛の活動であり、政治活動が、内への愛の活動といえるかもしれない。単純にいえば、物質的活動と、精神的活動に還元できる。この両輪が高い水準で働くと、幸福度が増すのがわかる。そして、日本は、この経済活動と政治活動の、両活動において、低迷しているのがわかり、それが少子高齢化を招いていると考えられる。また、このサイトによると、日本の幸福度が低いのを、詳細に成績票のように分析している。一位のノルウェーに比べて、所得や教育は、日本の方がわずかに高いのに、他の項目全てにおいて、低いので、総合ランクが23位となっているのがわかる。なお、2017年のデータのようなので、日本のデータは、現在はもっと下がっているかもしれない。このデータをみて、気づくのは、日本には、1位の項目がないことにある。逆に最下位の項目は、住宅環境、雇用、コミュニティ、環境、政治への参加、健康、人生への満足度、ワークライフバランスの、計8項目にわたり、しかも、政治への参加が著しく低い、のがわかる。要するに、政治に無関心なので、内への愛の活動に乏しい、のがわかる。換言すれば、社会全体を底辺から良くしよう、という意識に乏しい、のがわかる。これはブータンの、「家族のメンバー間の絆が強いことや、信仰心の篤いことが高い幸福感の源泉であった」と比較してもよくわかる。ブータンとの比較から、日本の幸福度が低迷しているのは、人間関係の絆が希薄になり、信仰心がなくなったことにある、というわけなんである。それが、政治への参加を著しく低下させ、政治家の腐敗を生みやすくさせ、官僚の暴走を許してしまう環境をつくっている、といえるかもしれない。このような現状を回復させるには、若者の力が必要で、若者が積極的に政治に参加すべきなのに、「自分さえ良ければいい」、という風潮が蔓延しているのか、政治を深く学ぼうとする気概に乏しく、無関心なのが、非常に残念でもある。若者のこの風潮を要約すると、逆境に脆く、無責任、無関心な態度を生んでいる、といえるかもしれない。このような昨今の風潮が、22年から、コロナの影響による不況もあって、これまで減少化傾向だった若者の犯罪率が増加に転じているのが、象徴的でもある。少年の刑法犯19年ぶり増加 2022年、窃盗や特殊詐欺 - 日本経済新聞 (nikkei.com)勿論、若者だけでなく、そのような環境をつくってきた、大人たちの無責任、無関心な態度にも問題があり、だからこそ、幸福度の低さを身をもって実感しているわけなんである。石川啄木ではないが、「働けどはたらけどなお、わがくらし楽にならざり」の原因は、政治への参加に乏しい、のが、挙げられるわけなんである。とどのつまり、政治に無関心なせいで、政治家のレベルが低く、公的な意識の低い、政治家が汚職し、官僚が自分勝手に暴走するから、働いても、税金で掠め搾り取られ、生活が一向によくならないわけなんである。「働けどはたらけどなお、わがくらし楽にならざり」…労働者の苦悩を感動的に歌った石川啄木。その生活は放蕩三昧、超自分勝手だった! | Precious.jp(プレシャス)幸福になりたければ、政治を良くしない、とダメなことが、先のサイトのデータからもわかり、裏金議員を処罰できない現在の政党に、何を期待しようが口から出まかせで、ポンコツに権力という刃物を持たせ、益々増税されるだけで、無駄というのがわかる。若者が政治に無関心なのと、そのような無責任な環境をつくってきた主に政治家を中心にした大人の責任は大で、そういうわけで、現状のままでいると、日本の幸福度ランキングが益々下降して、亡国論が持ち上がってくるのが馬鹿でもわかる。この現状について、インバウンドが好調ではないか、という反論があるかもしれないが、所詮、長期滞在ではなく、移住ではないので、特に税金徴収という意味で、現在の政治の弊害を感じないからといえる。もし、日本人並に税金を徴収されたら、インバウンド需要も低下するだろう。確かに、先のベターライフインデックスの表によると、所得の数値は、米国の約半分だが、他国と比べて、低いわけでもないのに、健康が著しく低く、しかもワークライフバランスが最下位なのが、幸福度を下げている要因といえる。また、この表から、日本は、豪州やオランダとほぼ似たような数値なのだが、大きな違いを比べると、豪州とは、環境、健康、政治への参加で著しく劣り、オランダとは、健康、ワークライフバランス、政治への参加で著しく劣り、幸福度を下げている、のがわかる。だから、この幸福度の項目別の数値からわかるのは、日本は、健康、政治への参加、ワークライフバランスが著しく低く、豪州は環境、政治への参加が高いために、幸福度が高く、オランダは、政治への参加はそこそこだが、ワークライフバランスが高いために、幸福度が高いのがわかる。つまり、幸福への特性を国別にまとめると、1位のノルウェーは、所得、政治への参加はそこそこだが、他の項目全てが高レベルなために、幸福度が高いのがわかる。3位の豪州は、環境と健康と政治への参加が高いため、幸福度が高く、8位の米国は、所得と健康が高いために、10位のオランダは、健康とワークライフバランスが高いために、幸福度がそこそこなのがわかり、日本は、どの数値も標準レベルでしかなく、特に健康と、ワークライフバランス、そして、政治への参加が著しく低いのが、幸福度が低い要因となっている。日本の健康とワークライフバランスが低いのは、恐らく、過労死という世界語にもなった、ブラック職場の弊害と考えられる。端的にいえば、日本の企業のほとんどが労働基準法違反であるのが、このデータからわかる。自分の働いた経験からもわかるが、定時であがれる職場はほとんどなく、しかも、定時であがるには、朝早い出勤や、事前の準備に追われ、家まで仕事を持ち越すのが大半なのが、日本のワークライフバランスの数値の低さを表している。なかには残業代を確保するために仕事を持ち越す人もいる。そのような人に全体が引きづられると、付き合い残業もでてきて、全体として定時ではあがれなくなる。このような傾向を、外国人からみれば、非効率といわれるわけで、しかも仕事が終わっても、帰宅せずに、飲み会などの付き合いがあるので、昭和世代はノミ二ケーションと呼んでいるが、ワークライフバランスが曖昧で、公私混同が生じやすい環境にある。それが、幸福度につながればまだしも、実際は、幸福度の低下になっているので、改善しないといけない。ワーク・ライフ・バランス - Wikipediaワークシェアリング - Wikipedia不幸で劣悪な職場環境の、日本とは対照的に、ワークライフバランスが進んでいるのは北欧で、ワークシェアリングが、オランダから生まれたことからもわかるが、そもそもは雇用の安定化から生まれた雇用形態だが、近年では、ワークライフバランスが幸福度に寄与していることからも、ワークシェアリングの導入が、ワークライフバランスを進ませるカギとなりつつあるだろう。ワークシェアリングとは?メリット・デメリットと国内外事例を紹介 | クイックの採用サロン (saiyo-salon.jp)日本の企業は、この面においても、北欧からは遥かに遅れているといえる。企業は生産能力を高めるだけではなく、幸福度も同時に高めないと、ブラック企業のような奴隷組織を生む、単なる虐待組織と化すだけなんである。エコノミックアニマルを世に生み出した、昭和の悪しき競争原理に基づいた利益追従だけの、ブラック企業からの脱皮が重要となるだろう。幸福を社員に与えられない企業は存在意義がない。輪廻転生から考えても、不幸を与えている経営者は死後にその分だけ地獄に堕ちて、来世は不幸な国に産まれ、奴隷のような労働をする宿命を背負うからである。このデータを重視して、日本の企業が、北欧のように、ワークライフバランスを高めれば、日本の健康の数値も向上するだろうが、健康について、更に、日本の医療を、北欧と比べると、世界ランキング12位にある。その詳細については、以下のサイトが参考になるので紹介する。《海外レポート》福祉先進国、北欧の医療と健康政策の実態 | 株式会社Sanko IB (sanko-ib.co.jp)まとめ1.日本と北欧諸国は異なった医療システムを採用しており、日本では気軽に専門医にかかることができ、医療機関の選択も自由だが、北欧諸国では気軽に専門医にかかることは難しい2.北欧諸国では気軽に専門医にかかれないが、病気を未然に防ぐための仕組みが充実しており、健康への意識が高く保たれている3.医療従事者の不足は日本と北欧諸国の共通の問題だが、AIの活用による医療行為の効率化や、労働環境の改善には期待が集まっている北欧と日本の医療の大きな違いは、日本では、コンビニのように、自由に、専門医にかかれる反面、軽症の場合、専門医の診察費のコスト高を招き、医療費の高騰につながる。極端な例を挙げるなら、救急車をタクシー代わりに使う、のもありえる。北欧ではトリアージされているので、あり得ない。ビジネスに応用したい「トリアージ」という考え方|ビジネスコラム | NTTファシリティーズ (ntt-f.co.jp)このような医療のコンビニ化、薬価コスト増大のために実際は、厚労官僚の苦肉の策で、薬局がコンビニ化しているわけだが、日本では社会保険料の高騰が問題になっているが、この主な問題が、医療費高騰で、医療行政の優先順位などが加味されていない冗長性にあるといえるかもしれない。軽症か重症かではなく、病院に来た順から診ていくために、結果的に非効率化を生んでしまう。しかも、北欧と比べて、予防医学が発達せずに、健康意識に乏しいために、ある程度の代替医療知識で、軽症なら自分で治してしまう姿勢がほぼ皆無と考えられ、自身がもつ生体防御で治そうとするのではなく、他力本願で、薬の処方を求めがちの傾向をもつので、医療費が高騰する傾向を生んでいるといえる。このような医療機関への過度の依存性とは逆に、行政をより効率的に、税金を少なくしていこうという、政治への参加意識に乏しい点が、先の幸福度の指標の、政治への参加の低さから伺える。政治に参加しようという意識が低いから、他力本願で、人任せにして、税金も高くなってしまうわけで、国民の監視が届かずに、政治家の汚職や、官僚の暴走を生みやすくしてしまうわけなんである。政治に無関心で、参加しないために、憲法の国民主権を利用できていないわけなんである。汚職政治家や官僚に騙されて、高い税金を振り込め詐欺されているのと同じ構図といえる。そして、詐欺にひっかかった、自分の不幸を嘆いているので、幸福度が低いわけなんである。そして一番の問題は、日本人のほとんどは、不幸なのに、政治に対して、幸福不感症になっているのに、自覚症状が全くない点なのである。現状を変えようと努力しないで、ただ無責任になっている。そして、政治に参加せずに、○○候補者に一択とか、自分で選択する権利も奪うような、余計なお世話で捲し立てる、怪しい団体の組織票に、監視すらせずに、無責任、無関心に、政治を委ねてしまっている。社会に生きているはずなのに、社会に参加せずに死んでいる。またまた愚痴になってしまったので、話を変えたい。さて、先日、TVで、前世を記憶している子どもの話をやっていたが、既にアクエリアスの水星紀になりつつあるのに、巷の世間は、なんと悠長で遅れているのだろうか、と少し呆れてしまったが、政治の低レベルさよりは遥かにマシかもしれない。前世を記憶する子どもについては、シュタイナーは約100年前に既に預言しているが、それは主に、前世で不慮の事故などで亡くなると、予定していたエーテル体の生命力が使われずに、余剰能力として、次の転生に持ち越され、そのエーテルの生命力をして、前世からの問題解決能力を継承するという。簡単に言えば、前世で不慮の事故死で、亡くなると、転生では、生命力が数倍に強化されるという。これは骨折した部位が、治癒すると、更に強化されるのと同じで、また、右利きのテニスプレーヤーの右手が太く強化されるのと同じ道理だという。TVで紹介された子どもの前世は、911テロの犠牲者で、そのエーテル体が強化されて転生に現れ、前世を思い出せるほど、潜在意識での感情記憶が強烈に残っていたためと考えられる。そのような前世を記憶する子どもが生まれてくることで、人類へのテロ行為の無意味さを伝えるためであるらしい。もし、このような子どもが、前世療法を知っていたら、機械的な効率を重視した現代社会では、不要な存在というか、足手まといの存在として、隠されながら生きている、他にも多くの前世を記憶する子どもたちが救われ、この世に過去の過ちの多くを伝えるために、広範囲に現れていただろう。その子どもは、スーパーなどに行ったときに、建物のどこに非常口と非常ベル、非常階段があるのか、必ず探し、まるで神経質かのように、母親に報告していたらしい。つまり、前世の911テロの教訓から、閉じ込められたビルからの避難を、常に想定していたわけである。また、前世からのメッセージの前世療法により、前世で窒息死で亡くなった場合、現世では、喘息の症状としてよく現れるという。恐らく、気管についての気道確保の、過度な神経質的な症状として現れるのかもしれない。これらは、前世でのトラウマによる、過度なエーテルの能力を持ち越しているわけで、このように前世でのトラウマに対する教訓から、現世への警告として、暴力や破壊、差別などの無意味さを世に伝えようとしているのがわかる。そこで、このテロ行為や、暴力や破壊、差別の無意味さを、前世からのメッセージの、マスターの言葉を借りて、紹介したい。この世に生まれる前に、あなたたちは、自分の欠点に気づく必要があります。もし、それを怠ると、次の人生に、その欠点を持ち越すことになります。自分で貯め込んだ悪癖は、肉体をもっているときにだけ、取り除けるのです。マスターたちが、代わりにやってくれるわけではありません。もし、あなたたちが、争いを選び、しかも、その癖を取り除こうとしなければ、それは次の転生に持ち越されます。しかし、自分で、その悪癖を取り除こうと決め、克服できれば、次の人生に持ち越されることはありません。換言すれば、人間は攻撃性を手放すために、肉体をもって、その痛みから学ぶために、この世に生まれてくるわけなんである。そして、あらゆる、差別、憎しみ、怒りなどの破壊行為や暴力を実地体験し、そのような悪癖を手放し、取り除く決意をするのである。再びマスターの言葉を借りる。肉体のなかにいるのが、異常なのです。霊魂のままが本来の自然なのです。また肉体に入るのは、未知の世界に入るのと同じです。それには、時間がかかるので、霊界で待たないといけない。霊界で待つうちに、再生されます。再生の世界があり、地の破壊の世界とは、また別の次元です。我々は皆、霊魂の存在なのです。肉体のなかにいる者もいれば、再生の時期にいる者もいます。そしてまた、他の者は、守護霊となっています。しかし、私たちは皆、そこに行くのです。私たちもまた守護霊だったのです。私たちが霊魂の、不滅の存在で、愛の無限のエネルギーの広大な海に常に存在しているのを思い出すのが、喜びと幸せの鍵です。地球と呼んでいる、この学校のもつ問題の一つは、私たちが肉体の存在ではなく、霊魂の存在だと思いだすのが困難なことです。この三次元世界の幻想や錯覚に常に惑わされています。そこでは、おカネ、権力、名声、モノの所有や蓄積、快楽などは、非常に大切で、時には人生の目的であるとさえ、教え込まれています。また、幸せになるためには、他の人々から好かれ、尊敬されなければいけない、と教育され、一人でいるのは惨めだと。教え込まれてもいます。自分たちは皆、霊魂の存在だという真実に気づくと、このような価値観が大きく変わり、幸福で平和になれます。だから、霊魂の能力のみが、永続します。だから、幸福は、権力や名声からは得られず、愛からのみ得られます。幸福は、内から来るものであって、外から、あなたをどう扱おうが、来るものではないのです。だから、嫉妬は、霊魂に憎しみを生む毒薬なのです。前世を自然に思いだす人がそれほど多くないのは、肉体のなかでの学びが、憎しみを手放す、実地試験の一種だからです。霊的な、永続性のある、学びや知識が、深く確実に、肉体を超えて、霊魂に浸透するために、念には念を入れる必要があるのです。残虐な前世を思い出して、現世で同じような残虐行為の結果を避けるために、暴力を回避するのでは、完全にレッスンを学んだことにはなりません。暴力は間違っていると身をもって体験し、心の底から完全に理解したときにはじめて、暴力を回避すれば、本当にレッスンを学んだことになるでしょう。つまり、前世がみれないのは、同じ過ちを繰り返さないためなんである。答えを知って問題を解くのと、答えを知らずに問題を解くのでは、霊魂の意味で、大きく異なるからである。今回はここまでにしたい。
2024年09月17日
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最近は、安いのもあるが、冷凍餃子と電子レンジ用のライスの、合計400円ぐらいの夕食で済ませている毎日から気づいたのだが、毎日食べても飽きない最強飯は、焼き餃子ではないか、と思う。お蔭で数年前はストレス太りの肥満ブタが、若い時のようになり、約10キロのダイエットにもなり、いいことづくめの日々なんである。これで、巷の、煩いハエのような総裁選の、不祥事を人気で誤魔化す、脱税私利私欲自民党が滅亡してくれれば最高である。ポエムだか、ヘナチョコ構文だか、知らねど、日本人なんだから、日本語くらいマトモに話せよ、と思うばかりである。日本もそろそろ真剣に亡国論を論じるべきである。餃子を食べて、日本人で良かったと思い、TVをつければ、国民生活を破壊した連中が騒いでいて、日本人でいるのが恥ずかしくなる。馬鹿な切り返しを絶賛するタレントは日本人を裏切り、いくらもらっているのかな?とか思うな。毎度紹介している「前世」からのメッセージにも、次のような教訓を載せている。一見、素晴らしく見える人には気をつけなさい。危険な人物は魅力的な装いをまとっているからです。ワクワクする、楽しい、刺激的な、危険な香りがする、劇的な人生を送っているような人たちです。こうした外見は、あなたの心の目を曇らせて、危険をみえなくし、カモフラージュしているのです。誘惑に負けずに、心の目で、相手を見据え、騙されないように、学ぶべきなのです。餃子にも劣る詐欺メールのような連中がこの国には盛り沢山だ!毎週欠かさずにみるBS番組、「ケンコバのほろ酔いビジホ泊」で、ケンコバ氏が、やっぱり餃子なんだよなぁ、と呟きながら食べていたのに、半端ない説得力を感じてしまった。禁酒しているので、ビールは飲まないが、餃子に白飯とビールは黄金のトリオの三角形というか、最強タッグだと思う。餃子の王将の餃子定食では、そこに中華スープとサラダが加わるので、完璧である。西洋には、赤ワインに、フォアグラ、フィレステーキのトリュフのせ、のロッシーニセットがあり、これも最強の組み合わせだが、特別な日にしか食べられないという贅沢な点で、庶民的ではなく、多くの日本人に幸せ感を与えてきた点で、やはり、餃子定食に軍配を上げたい。ロッシーニセット 2人前 【牧草牛フィレステーキとフォアグラのセット】 (themeatguy.jp)経済的にも、餃子定食はビールを頼んでも千円前後だろうし、ロッシーニセットは軽く6千円は超えてしまうし、ワインのチョイスによって、数万円にもなってしまう。贅沢な食事と言わざるを得ない。このような食事は格差社会の為せる業だろうし、最大多数の最大幸福を実現するには、やはり餃子定食が近道だろう。日本にくる外国人のほとんどが、和食を安くて美味いと感じているようだが、私は米国西海岸しか行ったことがないが、米国では美味い食事を食べたければ、カネを出すしかなく、カネを出せば、いくらでも美味しい食事が食べられるようである。その代わり、カネがないと、美味しくはないが、量は多いので、腹を満たすことはできる。ヨーロッパには行ったことがないが、旅行者に聞くと、あまり外食は発達していないらしく、冷たい食事が多く、とにかくポテトが多いという印象が残るという。シュタイナーは、欧州が第一次世界大戦に陥ったのは、ポテトばかりを食べ過ぎて、愚かになったせいだと、ジャガイモのせいにしている。シュタイナーによると、ジャガイモは炭水化物で、食べれば食べるほど食べたくなる麻薬のような食べ物で、ポテトばかり食べ過ぎて、バランスがとれなくなって、愚かになるというようなことを述べている。そのような話として、カウチポテト族が知られている。カウチポテト族 - Wikipediaさて、話は変わるが、以前、保江方程式で有名な保江氏を紹介したが、火星紀から水星紀に移り替わるにつれて、もともとは唯物論者だった人が、あの世や死後の世界や、宇宙人や天使のような霊界を認めるようになってきている。何より面白いのは、「前世」からのメッセージにも書かれているが、相対論で有名なアインシュタインが次のような発言をしていることである。人間は、宇宙全体の一部、それも時空に制限された一部にすぎない。人間は、自分と自分の考えや感情を、宇宙から切り離して、体験している。これは意識による、視覚を経た一種の錯覚である。この錯覚は、人間にとって牢獄であり、自分の欲望や、近親者だけの愛情へと制限してしまう。人間の任務は、思いやりの輪を広げ、この牢獄から自らを解放し、宇宙全ての生命体、全ての自然を抱擁することなのである。このような発言から、アインシュタインが、量子論に対して、神はサイコロを振り給わず、と言った意味が明らかになる。光量子説を提唱したのもアインシュタインで、時空と、質量をもつ粒子が同等だと、一般相対論の、時空による宇宙方程式を編み出したが、後に、考えを改めて、時空と粒子は同等でないと、叫んだという逸話も残っている。粒子を霊魂と考えれば、時空は、その入れ物にすぎず、粒子が時空を体験することが、時空から、粒子を解放し、粒子が宇宙へと拡大し、宇宙全てを抱擁していく、自我による自我のプロセス、回帰といえるかもしれない。本来、地球には国境がないのに、国境をつくるのは、人間の錯覚のせいなのである。外に向かって、宇宙の果てに到達すると、それを見ている自分の内に返ってくると、いわれている。だから、幸福は外に求めるのではなく、内からくるといわれている。だから、幸運の女神には前髪しかない、と言われる。先に挙げた保江氏の話によると、バチカンには、奇跡を判定する科学部門があり、科学者が雇われているという。その科学部門が、唯一の奇跡と判定したのが、マザーテレサだったという。「前世」からのメッセージによると、マザーテレサは次のように述べているという。もし、私たちが皆、黄金のルール、神は愛であり、神は、我々を、より偉大な行為の、愛し愛されるために、おつくりになった、のを理解できれば、神が我々一人一人を愛するように、我々も互いに愛するようになるでしょう。真の愛は、苦をも厭わない、無償の愛、愛を与えることなのです。大切なのは、愛をどれだけ与えるかではなく、与えるべきときに、どれだけ込めるか、なのです。ですから、祈りが必要なのです。祈りが実れば、信仰が深まり、信仰が成就すれば、愛となり、愛の行為は、奉仕となり、平和の行為となります。そして、この無償の愛、平和の行為が、黄金のルールを成就させるのです。神が我々一人一人のなかに幸運をもたらすように、我々も互いのなかに、幸運をもたらすように、愛し合いなさい。このマザーテレサの言葉から、幸運の女神には前髪しかない、の意味がわかる。愛を与えるべきときに、どれだけ込めるか、幸運とは、自分の内からやってくるので、前を向いて、相手を見つめ合い、愛するしかないのである。「前世」からのメッセージの、マスターの言葉を借りれば、次のようになる。誰か他の人の目をみつめるとき、そして、あなたを見つめ返している、その目を通じて、あなたの霊魂を見るとき、あなたの意識が、1つの上のレベルに達している、のがわかるだろう。このように、「前世」からのメッセージは、現代の聖書ともいえるべき内容が書かれている。シュタイナーは、火星紀から、水星紀の、まさに現代の移行期に、これまでとは異なる人類の愛が、霊的に深まり、霊魂は決して死なず、その証拠に、霊的な修行を通じて、過去世を思い出す人や、前世を忘れずに生まれてくる子どもが次第に増加していく、のを預言している。シュタイナーはまた、大天使ガブリエルの時代は、人間の脳を育成し、悟性から知性、現世の記憶を導く時代だったが、それが主に肉体の、他の3つの体(自我、アストラル体、エーテル体)との関わり方からくる気質を生み出し、そのため、その気質は、精神界から切り離され、ルシファーに依存するために、主に権威主義で、地上に固執しがちな、物質性に偏りがちな、男性的な傾向を帯びてきたが、現代の移行期により、ガブリエルと交代したミカエルの霊性の時代に次第に移り変わっていくことで、霊的で、直感的な、女性的で、中性的な、これまでとは異なる一段上の愛の時代へと転換していく、と述べている。このようなシュタイナーのメッセージを、「前世」からのメッセージのマスターの言葉を借りて示すと、以下のようになる。古来からの、多くの文化、仕来り、現代では、書籍、映画やTV番組が、男女間の越えがたい違いを強調しています。そのために両者の間には、深い溝があり、男女の考え方や行動の仕方も異なるものとなっています。そのため、男女は同じ世界で暮らしながらも、全く別々に世界をみています。各々の世界の見方に応じて、男性は、世界を愛するために、強く競争的に、攻撃的になろうと、男性ホルモンのテストステロンを分泌し、協調性を失わせ、自分のテリトリーと家族を、「所有」へと向かわせる傾向を帯びてきます。対照的に、女性は、世界から愛されたいために、感受性とコミュニケーションの能力を育てようと、女性ホルモンのエストロゲンやプロゲステロンを分泌し、攻撃ではなく、防御の方向へと向かわせる傾向を帯びてきます。 そのために、少年少女の、古来からの育成法や教育法が、その違いを強調化し、増幅させてしまい、男女を分離する生物学的な壁を益々分厚いものにしていきます。男の子は、社会でより競争的に攻撃的に自己主張するように奨励され、女の子は、受け身で、話し上手で協力的でありなさいと教えられます。社会のありとあらゆる組織や団体から、同じ人間に、男女異なる価値観が教え込まれるのです。同じ人間に、肉体の違いからくる違いを強調して、異なる価値観が、その障害として教え込まれるのです。肉体の違いを強調する時代は過ぎ去りつつあります。肉体から生じる、男らしく、女らしくの時代は過ぎ去りつつあり、男女を超えた、再び自然な、人間らしさに回帰する移行期にあるわけです。というのも霊魂に男女差はなく、両性具有なので、男にうまれるときもあれば、女に生まれるときもあるからです。それらは、多種多様の愛を、肉体から学ぶための、いわばツールにすぎないのです。それは男女の性 器の違いでしかありません。だから、全体として論争、闘争、戦争を生んでいる現代の攻撃的な風潮や傾向を変えていくなら、現代の男の子の教育を、受け身で、話し上手で協力的でありなさい、というような、女性らしさに変えていく必要があるでしょう。というのも、今日の世界は、大部分、男性によって引き起こされている暴力に呑み込まれているからです。つまり、独裁的な思考をもつ男性を若干去勢すべきなのです。独裁者は暴力に訴えないように、思想上、去勢の刑に処すべきでしょう。従来のヒーロー像は、現代の価値観では、野蛮で愚かなパワハラの悪役なのです。私たちは学び、成長するために、肉体をもつ時空にいます。愛、非暴力、慈愛、思いやり、信仰、希望、許し、理解、気づきなどの資質を学ぶために、肉体による制限を受けるのです。そして、その肉体による有限性による、恐怖、怒り、憎しみ、暴力、貧欲、プライド、欲望、利己主義、差別などの否定的な資質を捨てることを学ばなければなりません。私たちは、こうした課題を、人間関係を通じて学んでいくのです。障害が多いほど、多くを学べるのです。困難な人間関係や、多くの障害や、悲しみに満ちた人生ほど、霊魂の成長にとっては、大きなチャンスなのです。霊的な成長の促進のために、あなたは困難な人生を選択したのかもしれません。この世界には苦難と困難に加えて、愛と喜びとエクスタシーもあります。愛は知的なものではありません。私たちが気づかなくても、愛は絶えず私たちのなかに流れ込み、通り過ぎていくダイナミックなエネルギーです。私たちは、人生において、愛を与え、受け取るのを学ばないといけません。人との関わり合いのなかで、人々への奉仕のなかにこそ、全てを超えた愛のエネルギーを、本当に理解できるのです。自分の人生で、明らかにされることは、自分に関係する、重要な愛の学びです。人はそれぞれ、自分に関心をもち、自分を完全な存在、愛の理解者へと導いていく必要があります。私たち誰もが、学ぶべき課題を背負っています。そして、それを一つずつ、順番に学んでいく必要があります。その学びのなかで、完全になるために、何が必要で、何が不足しているのか、徐々に理解していくのです。自分自身を知りなさい。そうすれば、覚醒意識と潜在意識の間にある歪みに惑わされずに、はっきりと物事がみえてきます。瞑想と内観、囚われの無い観察、平穏な感覚、執着のない愛に満ちたやさしさ、愛に満ちた公平さに達するように、練習し、育成しなさい。自分の考え方や思い込みに気づきなさい。そして、それを鵜呑みにしているのに気づきなさい。誰かを型にはめたり、一般化して個性を失わせるとき、あなたは、その人の本性である、愛を見ずに、失わせているのです。「男は無神経で残酷だ」「女は神経質で感情的だ」などといった、昔ながらの誤った先入観は、現実を歪めてしまいます。体験は思い込みよりも、真実に近づくのに遥かに強力で、自らで体験すべきなのです。真の幸福は自分の内からやってきます。幸福は、外側の物事や他の人々に左右されません。あなたの、安心と幸福の感覚が、他の誰かの行動や態度に左右されるなら、それは、あなたが脆く、傷つき易い、感覚の持ち主なのを意味し、あなたの霊魂のなかに眠る、愛の力を、絶対に、他者に明け渡してはなりません。モノに執着しないようになりましょう。三次元の物質界では、私たちは、モノではなく、人との関係を通じて、愛を学ぶからです。どんなにモノを愛しても、この世を去る時に、モノはおいていかなければならないのは周知の事実です。あなたは真の安全となる、叡智や愛ではなく、偽りの、安全の影絵、錯覚を求めている。それは肉体とともに失われてしまう。おカネは中立的なもので、善も悪もありません。おカネで何をするのかが、人生に与えられた課題なのです。おカネで貧しい人に食料や衣服を与えることもできますし、利己的に、無駄に使うこともできます。その選択は、各個人の自由に委ねられていますが、いつかは、おカネの正しい使い方を、身をもって体験し、学ばなければならないのです。一回の人生のなかでも、無駄使いがわかるのです。おカネと安心は全く違うものです。安心は内からしかやってきません。安心は霊魂の能力に由来し、地上には存在しないからです。おカネは地上のもので、この世を去る時に、地上にかえさなくてはいけません。もし、人生において必要な学びがあるなら、一夜にして、奪われることもありえます。ホンモノの安心を理解するには、ニセモノは取り払わなければならないからです。安心のニセモノのおカネで、ホンモノの安心を買えないので、お金持ちは、永遠に安心を得られないので、死を恐れる。肉体の死が、おカネと共に奪われるのを、恐れるからである。だから、キリストは、お金持ちは、天国にはいけないと、述べているのである。そしてカエサルのものは、カエサルに返せと、つまり、肉体の死は、死に返しなさい、と説いているわけなんである。というも、霊魂は死なず、ただ、この世を去り行くだけにすぎなく、永遠に不滅の存在だからである。おカネに魂を売っている者は、死を恐れる。その死の背後に悪魔が隠れて潜み待っているからである。この国では、餃子を食べる庶民生活のほうが、巷の騒音を考えずに改革、改革と連呼するポエム構文野郎の裏金税金での地獄の料亭通いよりは、遥かに幸せな生活を送っているようにみえる、と宇宙人ジョーンズは、レポートしているはずだろう。今回はここまでにしたい。
2024年09月12日
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人智学では、現在の、宇宙の進化の、地球紀を、前半と後半に分け、それぞれ火星紀、水星紀と呼んでいる。そこで、火星紀と水星紀の転換期がいつなのか考えてみると、恐らく、宇宙人に対してのイメージが180度変わった、未知との遭遇か、ETが流行った頃と考えられる。未知との遭遇 - WikipediaE.T. - Wikipedia勿論、その後も宇宙人侵略モノはつくられるが、それまでのほとんどの作品がその類で、友好的な宇宙人モノは、このスピルバーグの2作品が代表で、それ以前は、宇宙人というより、「奥様は魔女」のように、魔女や黒魔術師や悪魔が、人間に敵対する非人間の、お馴染みの悪役になっていたようにみえる。ただし、「奥様は魔女」のサマンサは悪役ではないが。奥さまは魔女 (テレビドラマ) - Wikipedia人智学からいえば、悪魔は堕天使なので、いわば地球人の心を侵略する、魂を奪う、悪い宇宙人で、黒魔術師は、悪魔に魂を奪われた人間なので、友好的な宇宙人が描かれる作品は、キリストをどうとらえるかで異なるが、キリストを除いて、友好的な宇宙人の話は、ほとんどなかったわけなんである。このような宇宙人を悪のイメージで捉える、いわば戦いの火星紀を、地球人に与えたのは、神智学によると、第10番惑星人エックスジアンによる地球侵略によるもの、と考えられる。トートのエメラルドタブレットによれば、暗黒同胞団によるエックスジアンは、都市伝説では爬虫類型で、地球を現在の独裁者のように支配したが、シリウス、プレアデス、アンタレスの聖白色同胞団が、救世主を地球に遣わして、エックスジアンを、地球の核に閉じ込め、封印し、青色人に監視させた、という伝説が残っているという。シリウス アンタレス 金星 プレアデス星団 | お志事の備忘録とひとりごと (ameblo.jp)青色人から、ブルーブラッドのブリテン人が生まれたらしい。このブリテン人の伝説から、アーサー王伝説が生まれ、古代日本では、古事記のスサノオによるヤマタノオロチ伝説につながっているかもしれない。ヤマタノオロチとは、爬虫類型エックスジアンと考えられるからである。ブルー・ブラッド - Wikipediaブリトン人 - Wikipediaアーサー王伝説(アーサーオウデンセツ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)ヤマタノオロチ<ヤマタノオロチ伝説> - 編纂1300年を迎えた【古事記の神話】 (kankou-shimane.com)このような地球侵略の歴史から、当時はまだ現在の地球ではなく、人智学でいえば、地球と月が一緒になっていた月紀の地球だったが、聖白色同胞団の、地球人の救済により、エックスジアンは地中の核に封じ込められて、地球は月と分離したわけである。その月の分離の名残が、太平洋の海底に残っているという。奇想天外な都市伝説のような話なんで、ほとんど信じられないだろうが、いずれ人類が再び霊能力を獲得し、アカシャ(虚空)記録を読めるようになれば、明らかとなるだろう。というのも、そのような伝説が、地球に残っていることから、地球でのヒーロー像が生まれているからでもある。高次の宇宙人は、地球のこの従来のヒーロー像を改めるべき時に来ていると警告している。というのも、悪い宇宙人が、人間と同じ、物質体でいるならまだしも、人類同士で闘う意味がなく、ますます憎しみを増加させて、悪い宇宙人の罠にはまるだけだからである。悪い宇宙人は、人類に唯物論を与えて、悪い宇宙人が受肉できる物質体をつくらせようとしているからでもある。核兵器がそれである。悪い宇宙人は人間の憎しみに受肉し、支配するのである。それは従来のヒーロー像からもわかる。このヒーロー像は、人間の怒りを正当化し、人間に恐怖感を植え付け、罪悪感に誘導する。「前世」からのメッセージは、このヒーロー像が間違いだと指摘しているので、以下に抜粋紹介する。「メディアも、怒れる人々をヒーローとして映し出しています。ランボーはいつも怒り狂っています。彼が笑ったのを見たことがありません。ダーティハリーをはじめとして、警官、軍人他のアクションスターのほとんどが、怒りの泥沼にハマっています。「スタートレック」のカーク船長でさえ、四六時中怒っています。」自分たちの過ちから生まれた憎しみを、無責任に転嫁するため、仮想敵をつくりだし、憎しみの標的にして、悪役に仕立てあげ、レッテル貼りをして、同じ人類なのに、愛し合うことなく、怒りを正当化して、復讐心を受け付けるわけなんである。だから、支配欲旺盛な独裁者は、自分の失敗を棚にあげて、無関係な仮想敵に責任転嫁し、大衆に攻撃心を扇動し、怒り狂うヒーローを正当化し、恐怖心を大衆に植え付け、救世主を求める雰囲気を作り出すのである。そのようなつくられた救世主像が、偶像のニセモノであり、これが悪魔の策略であるのは、明らかだろう。従来の、この男性優位の戦いの時代の傾向、火星紀の特徴から、怒りのヒーロー像が正当化されたが、それらは人類のなかに憎しみを増やし、悪魔の支配を拡げるだけなんである。しかし、先の友好的な、高次の宇宙人の、スクリーンへの登場により、いまや火星紀の転換となる、水星紀がやってきている。従来の、怒りの火星のヒーロー像に代わり、怒りを手放す、水星のヒロイン像が求められるのではないだろうか? そのヒロイン像とは、例えば、「私、絶対失敗しないから」の女性外科医師のような強い女性では全くなく、その正反対の、常に弱者側にいて、ひたすら、虐めを耐え忍び、人間本来がもつ、愛の助け合いに希望を見い出す、おしんのような強かに生きるヒロイン像であるように思える。おしん - Wikipediaだからして、「前世」からのメッセージを読んでいて、水星紀のヒロインが、おしん、なのではないか?と思ったわけなんである。このように吾輩の日常は、「前世」からのメッセージを読みとくか、ネット界隈のフーテンの寅さんをやっている日々なのだが、シンクロ二シティというか、次のような面白い記事をみつけたので紹介する。人の意識は「死んだら終わり」じゃない…!? 最新研究でわかった「死後の感覚」「前世の記憶」をもつ人々の「驚くべき共通点」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュースもし人間も「波動」の一種なら…ある科学者が「死は終わりではない」と考える「最新科学にもとづく根拠」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュースある夏の日、「死んだはずの母」から着信が…肉親を失った人々に訪れる「あの世からのメッセージ」の正体(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース人の意識は「死んだら終わり」じゃない…!? 最新研究でわかった「死後の感覚」「前世の記憶」をもつ人々の「驚くべき共通点」(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/3) (gendai.media)シュタイナーは、約100年前に既に、カリユガの時代が終わると、次第に前世を覚えている子どもが生まれてくると、預言している。「前世」からのメッセージという本も、約20年前に出ているし、著書のブライアンワイスは、精神医学の医者で、元々は唯物論者だったのだが、催眠カウンセル中に、患者を通じて、マスターと呼んでいる、高次の知的生命体との交信に成功し、宇宙の仕組みについて、まとめたのが、この本である。この「前世」からのメッセージから、マスター、つまり高次の宇宙人、人智学でいう、天使たちの、人類への愛の指導が明らかになってくる。そこで、前回に続けて、マスターの愛の指導を抜粋し紹介する。前回は、カルマについてのマスターの愛の指導を紹介した。支払わなければいけない、憎しみの負債が、カルマで、だから、愛の使い方を間違えて、憎しみを増やさないように、自分の行動に責任をもたないといけない。カルマにより、憎しみを増やすのが悪い行為だと認識できるまで、自分が与えた憎しみを味わう人生を何度も送ることになる。だから、自分が与えた憎しみは必ず自分が味わうように返ってくる。カルマは、愛の償いである。自分が過去世で与えた憎しみを、現世の今生で味わい、怒らずに赦し、手放せるかどうかが、各個人の人生の課題なのである。だから、怒りに身を委ねてはならない。怒りを抑え、そのなかにかつての自分の行為をみれば、相手の気持ちが理解でき、自分の過去世が明らかになり、自分が何者なのかがわかる。だから、特定の宗教や人種に、次の転生で生まれてくるのに確実な方法は、その特定の宗教や人種を公然と差別し、憎しみを与えることなのである。憎しみは、差別した宗教や人種へと、未来へのタイムマシンとして、憎しみを手放すために、当人を運ぶ。時には、霊魂は、自分が最も忌み嫌う人物になることで、愛を学ぶ。このカルマの法則から、シュタイナーは、自分が前世で最も忌み嫌った憎しみの対象へと生まれ変わるので、「いかにして前世を認識するか」を書いて、自分が現世で最も忌み嫌う憎しみの対象が、自分の前世であるのを解き明かした。だから、端的にいえば、自分が嫌う人物が、自分の前世だったのである。だから、憎しみをもつのは、お門違いで、愛をもって赦さなければおかしいのである。だから、神様からすれば、「おいおい、冗談じゃないよ。お前がいま嫌って、怨んでいるのは、前世のお前だよ。」というわけなんである。嫌ったり、怨むのではなく、理解し、赦すことが、愛の学びで、いまの人生の自分に課された課題なんである。憎しみは心への暴行からはじまる。マスターと呼ばれる天使たちによると、実は、心への暴行は、幼い時からはじまっている。両親、社会、文化、宗教などの価値観を教え込まれ、天国から携えてきた叡智が抑圧されてしまう。無限大の可能性が、この世の教育により、有限なものへと抑圧されてしまう。三つ子の魂百まで、だったのが、現世の価値観から、半分の五十、もしくは三十へと抑圧されていく。この大人たちの価値観の押し付けや暴行に反抗すると、寄ってたかって、非難、侮辱などで脅かされ、仲間はずれ、無関心、身体的、精神的な虐待などが、容赦なく待ち受ける。独裁者が支配する社会では、独裁を認めさせるために、このような心への暴行が平然と行われている。この国では、令和になってようやく、コンプラが浸透し、独裁制に疑問が投げ掛かられてきた。地球人が支配欲を捨て去れば、再び自然は自然に循環するようになり、無限に創造する自然へと回帰するようになるだろう。老子は、この自然回帰を、無為自然と説いている。口がきけない赤ん坊は天使たちと交信している。やがて、言葉がわかるようになると、無限の能力を失って、前世の記憶も失われ、物質界へと適用するようになっていき、目に見える物質を求め、有限の能力へと抑圧されていく。「前世」からのメッセージの著者による催眠カウンセルで、赤ん坊のときへと誘導されると、赤ん坊が周囲の状況を超感覚的に捉えているのが明らかになるという。それは主に愛の強弱で捉えているという。人智学では、この赤ん坊の超感覚は、古代アトランティス人が持っていた霊能力に近いもので、いまの動物の直感と同じものと解き明かしている。「前世」からのメッセージでは、ユダヤ人の三歳の幼児が、古代エジプト人の前世を記憶していて、愛犬の死に際して、当時の犬のミイラの作り方、犬の死体に油のバターを塗って包帯でくるむ埋葬法、を行ったのを紹介している。恐らくこの幼児は、古代エジプト人のときに、ユダヤ人を差別したのかもしれないが、この書ではそこまで言及してないが、現世でユダヤ人になって生まれてきたのは、人種や宗教は、この世での偏った価値観からくるものだとわかる。人種や宗教だけでなく、外見などでも差別すると、差別した外見で、生まれてくるわけなんである。人種や宗教は、この世のなかでの、有限性のなかでのみ、成り立つ欠陥なのである。愛の欠陥故の差別なので、輪廻転生のカルマの法則で不足した愛の欠片の憎しみから、本来の、無限の愛を学ぶのである。あの世では、人種も宗教もなく、ただ愛の再生しかない。大抵の人間は、この世での偏った価値観で、優位に立った強者の論理で、判断し差別するから、次の転生では、劣等な弱者の立場で生まれてくるわけなんである。愛が不足するので、愛を再び補完するために、生まれ治す。だから、絶えず、自分を愛で満たすべきなのである。現世で生きると、常に愛は不足しがちなのである。だから、現世で、一番やりがちなのが金持ち目線で、貧困を差別することである。つまり貧困に生まれることは、前世で金持ちで、貧困を差別した可能性が高いわけなんである。だから、なぜ自分は金持ちに生まれなかったのかと問うなら、それは貧困を差別して、貧困を救わずに、いい気になっていた前世を送ったからである。現世で貧困をつくった原因は金持ちにあるので、来世で、自分がつくった貧困を味わう宿命の羽目になるのは、あくまで自己責任というわけなんである。だから、キリストは、金持ちは天国にはいけないよ、と述べたわけなんである。このように、本当の幸福とは、物質的富によるものではなく、つまり、外からくるものではなく、内から生まれるものであると、「前世」からのメッセージのマスターたちは説いている。そこで、マスターの教えの抜粋紹介を続ける。愛の学びには、いろいろなレベル、次元がある。肉体をもつことで学べる愛がある。痛みを感じないと学べない愛がある。肉体をもたなければ痛みはない。心の痛み、というが、それは肉体を持つが故の苦悩である。肉体をもたず、霊魂のままでいるときは、創造に限界がなく、再生しかない。肉体をもつとき、人間は痛みを感じ、傷つくのが可能となる。霊魂のときは、その感覚はなく、幸福感と安らぎの感覚しかない。だから、霊魂は再生のときで、そのときの交流は、この世とは全く異なる。肉体をもったときだけ、痛みを感じ、傷ついたり、失望したり、失恋したり、という愛のレッスンを受けるための、人間関係が体験できる。この貴重な愛の体験は、この世でしかできないものなのである。このように、宇宙はありとあらゆる存在が互いに愛しあえるように、時空や、あらゆる次元から、時間を進めている、といえるかもしれない。神から生まれて、神に回帰するように、キリストと共に、この世で死んで、生まれ変わり、聖霊の導きにより、神の子が神になるように、人類は祈るべきなのである。今回はここまでにしたい。
2024年09月10日
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フーテンの寅さんにどことなく憧れていたせいかもしれないが、いまはネット渡世の人生を送っているのだが、次のような「これが何にみえる?」という類の心理テストが、よく当たっているような気がするのは気のせいなのか、面白いので紹介したい。これが何に見える?あなたの「要領の良さ」がわかる心理テスト | TRILL【トリル】 (trilltrill.jp)この何にみえる?の心理テストは、自分のもつ心のなかの表象を、上手く描き出す自己暗示を利用しているようにもみえる。心のなかの表象とは、真言宗のマントラの梵語で、霊言といわれるものである。人智学でいえば、潜在意識の記憶で、感覚記憶、もしくは感受記憶と呼ばれている。信仰は、この感受記憶による。また、この世での経験からくる通常の覚醒意識での記憶は、悟性記憶、もしくは知識記憶と呼んでいる。だから、通常の、知識の記憶を学習しても、信仰心は生まれないから、唯物論は無神論なのである。サンスクリット - Wikipedia梵字とは?お墓で見かける理由 | お墓きわめびとの会 (ohakakiwame.jp)アーリア人 - Wikipedia人智学では、現代はアーリア文化期といわれ、アーリアの源流は、古代インド文化を意味する。古代インド人はヴァーダンダや、サンキヤ、ヨーガなどで、あの世と交信し、霊能力を身に着けていたが、やがて、古代ペルシャ、古代エジプト、古代ギリシアと人間が、夜から昼へと覚醒意識から外界への認識を獲得していくにつれて、潜在意識中での交信の霊能力を失い、霊語の梵語を読めなくなって、一部の秘儀参入者や霊能者だけしか読めず、使われなくなって、いわゆる専門用語となってしまい、それも完全に読み解けなくなって、古代ローマの暗黒時代に、太陽霊キリストが、直に人類に教えを説くために、降臨し、当時の世俗語で、聖書を書き換えたが、それもルシファーのカトリック教会によって唯物化されてしまい、中世のカリユガを得て、それを再び読み解く準備がはじまるのが、現代のアーリア文化期の課題なのであるらしい。早い話、古代インドには、古代アトランティス時代に読み解かれていた、宇宙の仕組みを説いたエーテル文化を記録した古代文書というか、いまでいう先の3つの古代インドの哲学があったのだが、それは聖書に記されたノアに引き継がれ、ノアは、寡婦の子マヌでもあり、ノアの箱舟とは、その哲学のことで、形として外に現れたものが、人間の肉体を意味するらしい。聖書に記されたキュビット云々の寸法は、人体の大きさを示したものらしい。このノアの箱舟は、ダビンチの人体図としても有名である。ウィトルウィウス的人体図 - Wikipediaだからして、古代インド文化は、内の心の文化で、次の古代ペルシャ文化は、外の肉体への文化、また次の古代エジプト文化は、内の心の文化で、また次の古代ギリシア文化は、外の肉体への文化、そして、我々の現代のアーリア文化では再び、古代インド文化と回帰するための、内の心の文化へと転換すべきなのだが、ようやくカリユガの時代が終わり、その浮上期に向かっているといえるのかもしれない。人智学の、この文化期の名付け方は、人類の精神の進化を基に、つまり霊魂の発展段階について、命名しているようで、だから、古代ギリシア時代の終わりから、現代までは、ほとんど完全に霊能力が失われ、人類の進化がほとんど停滞し、堕天使の配下にあるのを意味しているようである。端的にいえば、人類は堕天使によって、欲望につられて、地上へと誘拐されている状態にあるわけで、堕天使の配下にあるので、唯一神に従わなくてもよい、自由な時代ともいわれる。【シュタイナー】魂の三位一体構造について~感覚魂・悟性魂・意識魂~ | Noos Eggs (cosmolifeology.com)しかし、霊魂の進化からいえば、古代インドから古代エジプトまでが感受魂(感覚魂)の開発期、古代ギリシアが、悟性魂の開発期、そして、我々のアーリア文化期が、意識魂の開発期と、宇宙の進化計画から預言されている。上に紹介した、ヌーソロジーは、上手く人智学を読み解いているので、参考になるので、抜粋して紹介する。 ☆ ☆ ☆霊的世界は、言葉にできない世界です。その言葉にできない世界を、何とか言葉で表現しようとしたのが「哲学」です。シュタイナー宇宙論では、紀元前8世紀(B.C.747)以降から西暦15世紀までを「悟性魂の時代」と呼んでいます。西暦15世紀に悟性魂は成熟をみせ、その後「意識魂」と呼ばれる魂が成長をはじめます。意識魂は霊的世界から直感を受けとり、悟性魂によって思考してきた記憶とともに、永遠の真理を形成します。悟性魂は、まだ直感的に霊的世界とのつながりを持っている状態でしたが、この意識魂はダイレクトに霊的世界と接触しはじめます。さらに意識魂は、自我の成熟をもたらす役割を持っているため、悟性魂とタッグを組んで真の自我性を作り上げていきます。ヌーソロジーやシュタイナー思想で「霊性回帰には思考することが大切だよ」と学んできましたが、その理由も、悟性魂によって思考することで真の自我性が形成されるからなんですね。悟性魂によって記憶されてきた過去の輪廻における学びを、この意識魂によって本格的に霊性回帰へつなげていくという感じなのでしょう。意識魂は15世紀から成長をはじめ、西暦3,573年まで続くようです。この時代は第五(アーリア)文化期にあたり、この時代のことを「意識魂の時代」と呼びます。今まさに、私たちが生きている時代がこの「意識魂の時代」になります。そして15世紀からはじまった意識魂の時代は、三つの魂のうち、もっとも霊的進化に直結する「最後の魂」「魂の核」を育てる大切な時代となります。 ☆ ☆ ☆上述の解説のほうがわかりやすいので、上に紹介したサイトはおススメである。人智学をわかりやすく現代語に翻訳できている。この解説のように、最後の魂、魂の核が、人間の自我で、キリストが説いた神の子なのである。我々は、いま自分のなかの、この神の子を育てるために、自分の人生を生きて自分をつくりかえて、地球に生きながら、地球をつくりかえているわけなんである。だから、いま自分が何をするかで、明日の自分と、将来の地球の運命が決まり、つくられるのである。神の子を大切に育てないと、悪魔の子にもなってしまうわけなんである。人智学は、この神の子の育てかたを、カルマの法則と、輪廻転生から、解き明かしている。さて、人智学から解き明かされる、あの世には、国境など人種などもない。ただ愛をどれだけ学んでいるかの違いしかない。この世に転生したときだけ、多様な愛を学ぶために、ある国のある人種の肉体をもって生まれてくるだけである。だから、秘教では、肉体は、愛の教科書と説いている。愛の教科書を通じて、愛を深めないと、逆の憎しみに変わり、論争、闘争、戦争になってしまう。また愛の教科書を使って、人を差別したり、裁こうとすると、自分が憎しみにより裁かれる。だから、お釈迦さんは、肉体への執着心を解き放て、と説いている。肉体を比較したり、見せびらかすな、と説いてもいる。だから、出家とは、国や民族に拘るな、ということである。慈愛が足りているかどうかである。というのも、あの世には、国境や人種や民族などないからである。ただ、愛の強弱と、愛を深く学んでいるか、まだまだ浅いのか、の違いでしかない。愛の巡り合わせというか、先日、掃除をしていると、「前世」からのメッセージ、という本が出てきた。人智学を学び始めた前に出逢った本である。この本を読み返してみると、自我の内外の二元性を成立させるために輪廻転生がある、のに気づかされる。「前世」からのメッセージ | ブライアン・L・ワイス著 山川紘矢訳 山川亜希子訳 | 書籍 | PHP研究所人智学では、輪廻転生を、おおまかに次のように解き明かしている。現世での外界での自我の経験が、次の転生のアストラル体=こころをつくり、アストラル体がこの人生で獲得したものが、次の転生で、エーテル体に表現され、エーテル体の傾向になり、次の転生で、この傾向から、物質体に現れ、物質体での行為が、次の転生で、自分の人生として、自分に帰ってくる。まとめると、現世での外界での自我=霊の経験 ↓ 次の転生でのアストラル体=魂 ↓ 次の次の転生でのエーテル体=幽体 ↓ 次の次の次の転生での物質体=肉体 ↓ 次の次の次の次の転生での自我への宿命⇒霊の経験だから、今生での自我の経験は、4回目の転生で、自分の人生となり、自我を発展させる課題として、宿命となって戻ってくる。いわば4年生の学校ともいえるので、地球大学というべきかもしれない。この4回の転生を繰り返し、自分をつくりかえ、自我を、宇宙の進化にあわせて発展させていく。だから、カルマの業は、巡り巡る輪廻転生なので、マニ車とも呼ばれている。このマニ車がいわばノアの箱舟である。そして、このノアの箱舟が、人智学でいう、人体の4つの体、肉体、エーテル体、アストラル体、自我のことでもある。マニ車は、その4つの体が、カルマの法則で、輪廻転生していくのを意味している。マニ車 - Wikipediaこのように人智学は、カルマの法則と輪廻転生を、概略的に解き明かしているが、先に紹介した「前世」からのメッセージ、という本には、肉体を持つ必要がないマスターと呼んでいる天使たちによる、具体的な教えが説かれている。非常に興味深いので、以下に抜粋し紹介する。 ☆ ☆ ☆(この世での)我々の使命は学ぶことである。知ることによって、神に近づく。我々はほとんど何も知らない。知ることによって、我々は神に近づき、その後に、(あの世で)休息できる。それから、我々は人々を教え、助けるために、(この世に)戻ってくるこれはソクラテスの無知の知である。我々はこの地上にいる間に多くの段階を通過する。赤ん坊から、子ども、子どもから成人へ、そして成人から老人と、人体をつくりかえていく。そして、老人からもう一歩進んで、肉体を脱ぎ捨てて、霊界へと旅立つ。我々は、このような道を歩み、霊魂の成長を止めることはなく、成長し続ける。霊界に行っても成長や発展を続け、多様な段階を通過していく。霊界に行くとき、肉体は燃え尽きる。そして、再生(死後の人生の振り返り)の段階、学び(人生で自分が他者にした行為の反省)の段階、決断(欲界で欲望全てを捨てる)の段階を通過していく。そして、いつどこにどんな理由で、またこの世に転生するのか、あの世で、決断する(最後の審判)。ある者は、もうこの世には戻らないのを選択する。すなわち、他の霊魂の発展を助ける段階に進む。それらの霊(自我)は霊体のままである。ある者は他の者よりも生まれ変わるまでの期間が長い。これは全て、愛の学びと、不断の、奥深い、永遠の愛への成長のためである。我々の肉体は、この地上にいる間の乗り物なのである。永久に存在し続けるのは、我々の霊魂(自我)で、神から授かった生命、愛の灯、炎なのである。人間はこの三次元の世界にやってきて、いつそこを離れるのか、自分で選択する。この世に送られてきた目的を果たしたとき、我々は、自分を知る。そして、あの世で、霊魂を休息させ、活力を取り戻したあと、再び肉体に戻るかどうか、の選択が許される。霊界には7段階の世界がある(これについては以下のサイトを参照、分類は諸説ある。人智学では便宜上、天体の、月、水、金、火、木、土、太陽で示している)。我々は、この世に戻ってくる前に、この7つの階層を通過しないといけない。7つの階層の1つは次の転生を決める世界(最後の審判)である。そこで自分に相応しい転生の時が充ちるまで、待機し、休息する。その天国で、次の転生にどの資質をもっていくか、決定される。霊格の段階(魂のレベル・階層)一覧と霊格を上げるための公式とは? | ネオ仏法 (neo-buddhism.com)カルマと学び我々は、自分の間違えた愛の表現や不正の行為により、支払わねばならない、憎しみの負債を負っている。もし今生で、支払えない場合は、次の転生に持ち越していく。しかし、いつか支払わねばならないのは、それが憎しみだからである。憎しみを支払うことで、霊魂は愛に目覚め、我々は成長する。だから間違えや不正に伴った憎しみは、愛への糧となる。ある霊魂は、他の霊魂よりも成長が早い。もし堕天使に誘惑され、その負債を返すのを拒否すると、堕天使とともに、内省の世界(独房=地獄)に送られる。そこで、負債返却の相手が会いにくるまで、暮らすことになる。そして、負債相手と共に、同時期に物質界に戻れるときに、戻るのが許される。しかし、戻る時間は、自分たちで決めないといけない。また、負債を返すために何をすべきかも自分で決めないといけない。全ての約束を果たし、全ての負債を返すために、宇宙には、多種多様の人生が用意されている。今回はここまでにしたい。
2024年09月05日
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いまや死語となっているネットサーフィンをしていて、面白い記事をみつけた。それは、以下の、「生きているうちに一度は経験したほうがいいこと7選」である。生きているうちに一度は経験したほうがいいこと7選(えらせん) - エキスパート - Yahoo!ニュース1.海外旅行言葉も文化も違う場所に行くことは、自分の価値観を広げてくれます。地図で見ていた場所を実際に歩き、現地の人と交流することで、世界の広さを実感できますよね。また、日本の良さを再認識する機会にも。初めは不安かもしれませんが、その不安を乗り越えた先にある発見や感動は、きっと一生の思い出になります。2.大恋愛からの大失恋「恋は盲目」という言葉がありますが、周りが見えなくなるほどの恋愛したことありますか?恋に夢中になり、そして大きな失恋を経験することは、人間として成長する大切な経験です。立ち直れないほど辛いかもしれませんが、自分自身をより理解し、他人の気持ちに寄り添う力が養われます。この経験は、将来一生添い遂げたいと思う人との関係を築くために必要不可欠です。3.夢への無謀な挑戦「無理だ」と周りに言われるような大きな夢に挑戦することは、とてもワクワクすること。たとえ結果が思うようにならなくても、その過程で得られる経験、知識、人との出会いは、かけがえのないものになります。また、自分の限界を超えようとする中で、思わぬ才能を発見するかもしれません。限界を勝手に決めてやる前から諦めると、死ぬ前に後悔しますよ。4.感情が爆発する大喧嘩普段は抑えている感情を、一度くらい全て吐き出す経験もしておきましょう。本音をぶつけ合うことで、お互いをより深く理解し合えるかも。また、自分の本当の気持ちに気づくきっかけにもなります。ただし、相手を傷つけすぎないよう注意です。5.言い訳しようのない大失敗誰にも言い訳できないような大きな失敗をすることは、とても辛い経験です。でも、自分の非認め、謝罪し、そこから立ち直る過程は、人間としての深みを増してくれます。謙虚さや責任感を学び、また周りの人の温かさを感じることもあるはず。失敗から学ぶことで、より賢明な判断ができるようになります。6.心が震えるほどの真剣勝負スポーツの試合や仕事のプレゼンなど…。全力を尽くして何かに挑む経験は、一生ものです。勝っても負けても、その過程で得られる達成感や充実感は何物にも代えがたい。また、極限状態で発揮される自分の力を知ることで、自信にもつながります。7.目の前が真っ暗になる大挫折大きな挫折を経験すると、希望を失い絶望を味わうかもしれません。しかし、そこから立ち直る過程で成長できるもの。周りの人のサポートの大切さを知ったり、自分の新たな可能性に気づいたりすることもありますよね。挫折を乗り越えた経験は、今後困難に直面したときの大きな支えになります。 ☆ ☆ ☆自分の半世紀を越える人生を振り返ると、このサイトの7選は、ほぼ経験できた。海外旅行は米国西海岸旅行をしたし、大失恋といえるほどのものではないが、それなりの失恋は経験し、夢への無謀な挑戦は、いまも続けているし、大喧嘩は、職場のパワハラ上司としたこともあり、大失敗も、仕事でしたことがあり、左遷されたし、真剣勝負はギャンブルとして行っているし、大挫折は、人並みの左遷で味わった。これら7選をまとめると、いわば価値観を転換させ、生を実感させる経験といえるかもしれない。換言すれば、自己の成長の糧となる経験といえるだろう。死の一歩手前というか、従来の自己のなかの価値観に転換を迫る出来事といえるだろう。自分はモノではなく、生物なんだ、いま自分は生きているんだと、実感させてくれる体験でもある。この7選サイトはまだ他にもあり、面白いので、紹介したい。ネットサーフィンしていると、よく仕事に悩んでいる人のコメントに遭遇するが、以下の「仕事がデキる人から辞めていくヤバい職場7選」は参考になるかもしれない。仕事がデキる人から辞めていくヤバい職場7選(えらせん) - エキスパート - Yahoo!ニュース1.ムダな会議が多すぎる長時間の会議で疲れ果てて、肝心の仕事ができない...なんて経験ありませんか?デキる人ほど、時間の無駄遣いに敏感です。会議の目的を明確にして、効率的に進める工夫が必要かもしれません。2.どうでもいい派閥がある仕事の能力よりもどの派閥に属しているかで評価が変わるなんて、モチベーション下がりますよね。デキる人ほど、公平な評価を求めます。能力や成果で評価される環境じゃないと、優秀な人材はどんどん離れていってしまうんです。3.ポンコツから出世するコネや年功序列で昇進が決まるのは、デキる人にとっては耐えられません。「仕事ができるから」ってどんどん仕事を押し付けられるのに、努力が認められない環境ではモチベーションを保つのが難しいです。公平な評価システムがあることが大切です。4.給料は変わらず責任だけ増える責任が増えるのはキャリアアップの証。でも、それに見合った待遇がないのは問題です。デキる人ほど、自分の価値をよく理解しています。適切な評価と報酬がないと、より良い環境を求めて転職してしまうかもしれません。5.ミスに対して異常にうるさいもちろん、ミスは減らすべきです。でも、ミスを過度に責めると、チャレンジする気持ちがなくなってしまいます。デキる人ほど、新しいことに挑戦したいと思っています。ミスを恐れずチャレンジできる環境が大切です。6.プライベートにシワが寄りがち仕事とプライベートのバランスって大切ですよね。常に仕事のことで頭がいっぱいだと、新しいアイデアも生まれません。デキる人ほど、オフの時間を大切にします。ワークライフバランスが取れる環境が必要です。7.遅刻は許されないのに残業は当たり前これって、なんだか矛盾してませんか?時間にシビアなのはいいことですが、それなら定時で帰ることにも理解を示すべきです。デキる人ほど、効率よく仕事をこなします。残業が当たり前の環境では、その能力を十分に発揮できません。このような職場、特にポンコツがトップの部署も経験したが、このような職場の一番の問題は、自分が常に正しいというポンコツ独裁者が至る所にいるのが挙げられる。自分の発言が周囲にどう影響するのかさえも、考えられない馬鹿なんで、このような独裁者が権力を握ると、周囲の調整能力が問われ、お馬鹿な独裁者は、調整能力についても自分の意向がわずかに抑制されるので、邪魔なものと否定し、全体として調整能力が欠けてしまい、独裁者の独断で決まってしまうので、無駄な会議が増えて、独裁者の我儘に振り回されて、ブルシットジョブが蔓延し、仕事のデキる人は、馬鹿馬鹿しくて、職場を辞めてしまう。一番の問題は、ポンコツは自分をデキると思い込んでいるので、つまり周囲の環境が見渡せてないから、周囲の人間の長所と短所すら把握できないから、ポンコツなんである。私見だが、仕事がデキる人とは周囲の環境の細やかな違いが瞬時に把握デキる人で、なぜそうなったかが、理論的に探求できる人で、自分の欠点と、自分ができない部分をしっかりと把握している人のことなのである。常に問題点を把握して、どのような経緯で、どの人が対処するのか、常に観察できる人なのである。だから、予め問題点への先見力が磨かれるので、大事になる前に、小事で処理できる。問題が明るみになる前に事前に処理するので、後で騒いだりは決してしない。大事になって騒いで説教沙汰にするのがポンコツの為せる業で、このようなポンコツは無責任なので、他者に責任を擦り付けるのを得意とし、だから常に権力者の太鼓持ちをしているのだが、周囲はそのゴマすりを知っているので、嫌われ者なのである。逆に、この7選の反面をみれば、例えば、必要な会議しかやらない、派閥がない、ポンコツは干される、給料は成果や責任に見合い増える、ミスは指摘されるが、次の教訓として対処される、プライベートは尊重される、遅刻は予め理由を連絡し、残業は理由がない限り、できない、という感じになるかもしれないが、理想的な職場であるのがわかるだろう。このような職場について、前回、ブルシットジョブを紹介したが、このような無駄な仕事を行う職場をなくしていかないと、人類は人間関係を破壊して戦争に向かい、人災を多発させ、地球の環境を破壊して、天災を多発させていくのは自明の理だろう。現世で生きるためには、ある程度の経済力が必要で、生活を安定させるには仕事をしなければならないが、仕事は、自己開発や、自己発見の場も兼ねていることを教えてくれる記事でもある。つまり、これら2つの7選から、生きるとは、生物の使命といえるものかもしれない。生物の生きる目的とは何なのか?改めて考えさせる記事でもある。生物は生物から発生する、と生物の原則を示したのは、フランチェスコ・レディだが、現代の物質科学は、唯物論に洗脳されているために、物質から生物を生み出すために、自然発生説を実験により検証しようとしているのだから、もはや宗教よりも宗教らしい物質教といえる。フランチェスコ・レディ - Wikipedia物質科学ではアリストテレスの自然発生説を唯物論で曲解し、否定していながら、リン酸の物資から、生命を生み出そうと物質と格闘する姿は悪魔に唆され、哀れと言うほかはない。それもこれも、生命が、誕生から、死までの一回きりの存在と思い込んでいるからにすぎない。死んだら無になる、という思い込みの為せる業である。では物質的に、無とは何なのか、生命の研究のために、物質科学は答えを出さないとおかしい。生命の起源 - Wikipediaつまり、物質的に無とは、物質そのものの否定であり、物質科学による物質科学の否定で、それが物質科学の、死が無である、という見解にあるから、自己矛盾なんである。それゆえに、物質科学は、非物質なる物質を、例えば、物質波などを考案しようとしているのだから、非常に滑稽なんである。では、時空間は物質なのだろうか?という、これまた、死が無である、問題に遭遇する。時空間が物質でない、無なので、真空のエネルギーという概念を持ち出す。そうすると、死が無なために、無の真空のエネルギーから、生命が生まれると、物質的に考えるしかなくなる。要するに、物質とは正反対の、非物質性を物質で検証しようとしているわけで、死が無である、論理の堂々巡りをしているわけなんである。ダークエネルギー - Wikipedia真空のエネルギー | 天文学辞典 (astro-dic.jp)だから、物質科学は、悪魔により、地上の物質界を堂々巡りさせられている論理に、自ら陥っているわけなんである。というのも、物質科学では、エネルギーを物質に変換しないと検証できないからである。目にみえないもの、観測できないものは、無とするしかないからである。数学的には、無限大の、特異点を扱う羽目に陥るので、論理の堂々巡りに陥らないように、予め、観測データから、物質性を見積もり、担保しておく手法が、場の量子論の繰り込み理論である。繰り込み - Wikipedia繰り込み理論を、生命論に発展させると、リン酸物質の、DNAの遺伝子情報理論になるわけで、遺伝子という情報学を持ち出して、死が無になるのを回避して、親から子へと物質性がDNAにより受け継がれることで、無限大の死を回避しているわけなんである。そして、生命がエネルギーから生まれるのではなく、DNAによる遺伝性に帰して、巧みに非物質性に言及せずに誤魔化し、還元しているわけなんである。このように、物質科学では、死の無の論理の堂々巡り、いわゆる将棋の千日手にならないように、無に言及せずに、無を回避し、無をなきものにするわけなんである。このような死の無からもわかるが、物質科学からも、DNAを持ち出さずに、また別の事実、つまり生命が霊という無限大のエネルギーから生まれる、のが想定できるわけで、一回の誕生から死までの生命環に拘らなければ、生命が霊から無限大に生まれ、カルマと輪廻転生を繰り返すことが考えられるわけなんである。つまり、このような知性の行きつく先が、人智学が説いている、仏教でも説かれているが、霊的な真実なんである。DNAは、一回の生に拘るあまりに、親から子への遺伝として、死の無を回避するが、そのDNAの存在自体が、何世代もの生命が生まれては死んでまた生まれては死んでの繰り返しを、物質的に肯定し、つまり、カルマと輪廻転生を物証する、非物質的存在なのである。そして、その観測が、量子力学により補完されるわけなんである。恐らく、量子コンピュータが発展すれば、カルマと輪廻転生が、DNA変異により証明されるかもしれない。さて、現代科学が否定している、アリストテレスの自然発生説を、人智学により解き明かすと、それは、自我発生説なのがわかる。簡単にいえば、生命体は、自我により生まれるというもので、現代科学的にいうなら、「我ある」という自意識により、生命は生まれ、変化する、という意味になるだろう。この「我ある」から、エヘイエ、アシェル、エヘイエが、「我は我から生まれる」、という意味で、霊的真実を説いているのがわかる。つまり、我とは、神の意識であり、人間は、この神の、「我ある」意識から生まれたわけなんである。高次の宇宙人が、地球人に教えたいのが、この神の「我ある」意識で、この意識が無限大で、あらゆる能力をもち、不可能を可能にする自由を秘めている、最高位の生命体の徳目なのである。そして、地球人は、この最高位の徳目を、つまり、愛を用いて、地球を作り変える使命を帯びている、ということなんである。そして、この徳目は、お釈迦様がこの地に生まれた時に唱えた、「天上天下唯我独尊」でもある。宇宙は「我ある」意識の集合体からなっている、という真実なのである。我ある、というのを肯定するのが善意識で、我ある、のを否定するのが、悪意識である。悪魔は、人間に、肉体を与え、この「我ある」、意識を囲い込んで、制限している、のが、キリスト教が説く、原罪なんである。本来は、肉体がなくても、「我ある」意識は存在するのに、肉体しかみえないことで、「我ある」意識をなきものと、自らで否定しているわけなんである。死を無だと思い込んでいるので、太陽霊キリストが降臨して、「死は無」ではないと、死んで、弟子たちに、肉体を失ったが、「我ある」意識を通じて、再生してみせたわけなんである。そして、「我ある」意識を説きなさいと、弟子たちに命じて、新訳聖書が生まれたわけなんである。このように、人智学は、人生の謎への答えを解き明かしている。「我ある」の自意識を発展させ、互いの自意識を多様的に組み合わせ、バランスをとりながら、発展させるのが、人生の課題である。DNAは、我ある意識を記述し、いわば自分史を記録した媒体でしかない。自意識をどのように発展し、どのような能力を獲得するのかは、当人に委ねられている。善に活用すること、あるいはまた悪に陥ることも、当人の自由の意志に帰するのが、「我ある」意識の特徴でもある。だから、我々は皆、キリストが言ったように、神の子なのである。人間が神の子であるのは、今日、自分が為したことが、明日の自分をつくることからもわかる。なぜ、金持ちに生まれなかったのか、こんな親の子に生まれたくなかったとか、自分の親は選べないと、人生について、文句を言うのが、現代人には、もはや権利や言論の自由での習わしみたいになっているが、それらは、唯物論で人生を捉えてきたせいなのが、人智学の、人生への正答から明らかになる。人智学によれば、いまの自分の行為が、次の自分をつくるように、前世での自分の自由な選択が、現世での自分を巡る人間関係や環境をつくっている、というのである。つまり、なぜ、今の自分は自分なのか?という答えは、前世で、自分が、自分を選んだからである、というわけなんである。なぜ、自分は金持ちでないのか、それは前世で金持ちでないのを選択したからであり、つまり、前世で金持ちが嫌になったか、金銭に恵まれる生活に飽きた可能性が高いわけなんである。同様に、なぜ、いまの親が、親なのかは、前世で自分が、親友のなかから、来世で自分の親となるのを望み、選択したからなのである。前世がみえなくなったので、前世で自分が選択したのを忘れてしまい、文句をいっているだけなんである。だから、神様にしたら、お前が選んだくせに文句をいうのはお門違いで、自分に文句をいいなさい、というわけなんである。要するに、いまの自分の人生は、全て前世で自分で選択した結果なのである。だから、自分の人生に文句を言う奴は、自分がわかっていないポンコツなんである。俗にいう、自意識過剰のエゴイストなんである。日本語は、霊能者がつくったのかわからないが、非常にわかりやすくできているが、特に自業自得という、日本語は、カルマの法則の自業と、輪廻転生の自得を上手く表現している。つまり、自業自得の人生なんである。ということは、現世での選択と振る舞いの生き方が、来世の自分の人生をつくるわけなんである。だから、仏教では、善人になりたいなら、善行しなさい、と説くわけなんである。ただし口だけで唱えていても、来世では、善人にはなれない。言葉は、現世での一回の人生でしか通用しないからである。しかも、現世の言葉は、物質界を表現するのに適したものなので、言葉遣いから、来世の人生をつくることはできないが、その点で、日本語は、仏教の経典の、古代インドの霊的なサンスクリッド語などから派生しているようで、自業自得などが、霊的真実を加味されてつくられているようでもある。真言宗では、梵語のマントラがあり、日本語には、霊言として知られているが、それは霊言を話すことで、善行の代わりをなし、来世の善人に転生するのを願った言葉なのかもしれない。だから、京都のような仏教都市では、京言葉として、相手を建てることで、来世で自分を建てる、霊言による、建前が発達したのかもしれない。だから京言葉を使うには、ちょっとした心遣いの、相手の気持ちを察する霊能力を要するわけなんである。現代人は唯物論に洗脳されているので、この心遣いを嫌味と捉えてしまうのも致し方ないのかもしれない。実際に腹黒い俗物のような京都人もいるからかもね。仏教用語 (sanjobetsuin.or.jp)だから、仏教都市の京都人の模範となっているのが、善因善果、悪因悪果であるのが、人智学からも読み解けるわけなんである。ちなみに、東京は何の都市なのか、といえば、どうやら、明治神道都市であるようだ。東京の元は、厭離穢土の、徳川幕府の江戸城にあり、天海の道教由来の古神道にあるようで、京都から遷都して、実際は、帝の行幸という形だが、徳川政権の白の薬師寺系仏教から、道教の古神道からの明治帝による明治神道に代わったようである。明治帝が霊能者であったかどうかは定かではないが、宮内庁の一派から、そのような話が民間にも伝え漏れている。大正帝では、霊的に狂人の霊媒体質が生まれたので、同族婚をやめて、異族婚になったという噂もあるが、都市伝説の類であるようだ。この幕末の混乱の時代には、明治帝替え玉説もあり、フルベッキの写真なども、以前紹介したが、日ユ同祖論などと相まって、日本の国体を南北朝の古代から世界史的に研究しないとわからない。一説によれば、神道も仏教も、太陽信仰からきていて、太陽霊を日本語では、八百万の八幡と表現したようである。スペイン語で、八幡は、ヤハンとなり、ジャパンとなったようである。日本という国名は、陰陽師由来の道教の、陰と陽の二本(にほん)ともとれるし、日の本の、聖徳太子で有名な、太陽信仰にもとれるし、大和のやまとのヤハンが訛って、二ホンにあるとも多様な説があるが、前回紹介した、奈良タイムの、千年先を見通す、千里眼による政治を模範としていた事情や、神道の巫女からもわかるが、霊能力の養成国だったのがわかる。なによりも、帝をミカドと呼び、イスラエルの東征した十民族のガド族に由来するという都市伝説もあり、三種の神器説とともに有名だが、人智学によれば、現世での信仰心から、霊界を研究することが、次の転生で、霊能力を獲得する糧となると説いているので、この日本という国は、古来から霊能研究国家であったのは、疑いの余地もないだろう。千里眼 - Wikipediaだから、西郷南洲などは、大久保一蔵を、欧州病に罹った患者と呼んでいたようで、欧州洋行組がいないうちに、明治帝に奏上し共に国体を決めてしまおうと取り図ったが、大隈が告げ口して、慌てて帰国した大久保に権力を握られて、島津斉彬が掲げていたアジア連合構想が阻止されてしまい、ついには大久保‐伊藤に強請られ、明治帝にも裏切られ、下野してしまう構図は、アジア連合を阻む西洋の唯物論による軍事的な軛という、仲間を裏切り、西欧に自分を売り込む毒饅頭野郎がいる、現代の政局の構図にも反映しているといえるかもしれない。このようなユダのような、裏切り者は、キリストの最後の晩餐において、赦されて明らかになっているが、その名の通りの、彷徨えるユダヤ人としても有名で、仲間を裏切った罪から、永遠に逃れられないのは、明らかである。というのも、キリストは、ユダ当人の自由な意志を認め、赦したわけで、つまり悪魔に加担するのを赦したのだが、裏切りを赦したわけではないから、ユダは、永遠に転生し続けても天国にはいけない悪魔の手下になりさがるわけなんである。神を背くことは赦されるが、背いた罪からは、永遠に逃れられないのは、なによりも、自分をつくるのが、自分の選択であるのだから、自業自得なんである。裏切り者は罰せられはしないが、その罪から永遠に逃れることはできず、自分を永遠と裏切り続ける、天邪鬼となるわけである。だから、ユダはキリストを裏切り、後の転生でも、アウグスティヌスとなって、ローマ帝国を裏切り、常に裏切り続ける人生を送るわけなんである。人生をキリストを模範に生きるか、ユダのような裏切り者として生きるかは、あなた次第なのである。
2024年09月03日
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死者への弔いから、母方が真言宗、父方が日蓮宗の縁から、以前から、真言宗は空海さんについて、ある程度お馴染みなのに、日蓮宗の法華経は、南無妙法蓮華経のお題目しか知らないのは、少し気が引けたので、ユーチューブ動画をみるうちに、「よくわかる法華経」という本を読んでみたくなった。よくわかる法華経 - 明窓出版株式会社 平成元年創業 和のこころと健康を育む出版社 (meisou.com)お経は般若心経ぐらいしか知らないので、お経特有の漢文調がとにかく苦手で難儀なので、よくわかるように書いてあるのを期待しすぎたが、やはり仏教特有の表現がわかり難いので、著者の指示をなかば無視して、飛ばし読みで読んでいる。飛ばし読みで読んでいるので、著者にお叱りをうけるやもしれないが、人智学から解釈してみると、お釈迦さんの悟りを解き明かしたのが、法華経らしく、誰もが、お釈迦さんの悟りに到達できる、のを示した経典らしい。この法華経によれば、誰もが悟れるのを説いた経典を大乗仏教と呼び、仏教徒しか悟れないのを小乗仏教と区分けしているようである。つまり、平たくいえば、知識が必要で、方便で、この世を説くのが小乗で、知識は必要なく、信仰のみに帰依するのが、大乗といえるかもしれない。ありていにいえば、唯物論に染まったのが、小乗で、唯識論に近いのが、大乗といえるかもしれない。だから、この世の感覚では捉えられない超感覚を示すのが、大乗なんである。唯識 - Wikipediaそして、重要なのは、お釈迦さんの悟りで、それは潜在意識を、覚醒意識でみるから、業が生じ、この世の知識で、あの世を理屈づけようとするから、信仰に至れない、という人智学の輪廻転生とカルマの法則につながるところで、あの世とこの世をつなぐのは自分で、自分がこの世で為す行いが、あの世から、来世の自分をつくる、という、輪廻転生とカルマの法則の理解、悟りであるのがわかる。自分のいまの行為が、将来の自分をつくる。それは人生だけでなく、前世もそうだったし、更には来世も、自分をつくる。ただ、自分がつくったことを、それが能力となっているので、忘れていて、みえないだけである。現在の自分とその境遇をつくったのは、過去の、前世の自分の行為なんであり、その自分が、いま何をするかで、また未来の、来世の自分と、その境遇をつくる、だから、今の人生だけではないわけなんである。そして、天国というのは、この世を越えた果てにあるわけではなく、いま、この世で自分が為した行為により、明日の、未来の、来世の、自分の能力のなかにあり、だから、天国に行くには、いま自分が善を成すことにある、というわけなんである。善の積み重ねから、天国が生まれる。これを善因善果、そして、その逆を、悪因悪果と呼び、なにより、今何をするかが、なにより大切で、それを一々、理屈で、知識で解き明かしても、無に帰するわけなんである。なにより、人間は一回の生で、つまり生まれて死んでで、終わりではないからで、永遠と自分の行為から、自分の能力で、自分をつくりあげていく存在である。キリストが、何事も愛なくしては存立しえない、と言ったのと同じである。ただし、仏教では、慈悲と呼んでいるが、これはキリストが、愛を外に示したのに対し、釈迦は、慈悲を内に秘めた違いにある。だから、慈悲は、心深く内に秘めた愛である。善の行為となる心の源である。内の慈悲が外に行為として示されると愛になる。だから、人間は、日々慈悲をもって、愛を外に示すことで、誰もが、愛と一つになり、宇宙を巡る愛の感受から、霊能力が獲得できるわけなんである。このように人智学で補完して解釈すると、法華経は、輪廻転生とカルマの法則と、潜在意識の祈りと、覚醒意識の知識の違いを説いているようである。この本にはまた、様々な現代科学の知識も出てくるが、そもそも、このブログでも紹介しているように、ニュートンが、数式を用いずに、プリンキピアという、天体の運動の原理を示したように、天体の運動こそ、輪廻転生とカルマの法則の産物であるのが、シュタイナーの人智学で解き明かされる。ニュートン力学は、大きな宇宙の、輪廻転生とカルマの法則の、小さな一部の物質界だけを、数値化して、力学に換算し、置き換えただけにすぎない。この法華経の本では、ニュートンよりも、現代的な思考形態の、アインシュタインの相対論や量子力学に拘っているが、そもそも、人間の科学は、人間の心から生まれているので、人間の心をつくる宇宙体系の一部の反映にすぎないのは当たり前なんである。大は小を兼ねるわけで、小が大を見渡せないのは当たり前の道理なんである。だから、ニュートン力学は、ニュートンの心の一部でしかなく、簡単にいえば、この世の物質界しかみえていない法則なんである。人智学的に、法華経的にいえば、単なる知識に堕しているので、とても潜在意識の、信仰には至れないわけなんである。愛への、慈悲への心の信仰が、全てをつくるといえば、般若心経が思い浮かぶ。般若心経 - Wikipediaそこで、法華経の輪廻転生とカルマの法則から、般若心経を再要約してみる。誰もが悟れるお釈迦さんは、心の奥深い「慈悲の完成」のために、修行をしていたら、五感を超え出た。そして、五感の本体が、心を無にすれば、空であると見抜かれた。わが弟子シャーリプトラよ、この世の物質=時空は、心を無にすれば、空になり、空のなかでの心の運動で、意識により、無から物質が生じる(量子力学)。物質と、心の空は、別々のものではなく、空のなかでの心の運動から、物質が生まれ、だから、この世とあの世は別々のものではなく、いわば相補の対極の関係にある。物質のポジとは、いわば心の空のネガであり、空のネガは、物質のポジでもある。だから、五感も同様である。覚醒意識の五感で捉えるとき、潜在意識の心は無なのである。この世の、あらゆる現象は、心の運動、意識から特徴づけられ、心さえ、不滅なら、生ずることも、滅することもない(=不生不滅)。心は、汚れることもなく、洗う必要もなければ、欠けることもなく、溢れ、迷うこともない。だから、心さえ、慈悲で満ち足りると、もはや物質は必要なく、五感も必要はない。五感から派生する幻に迷う必要もない。眼に映る世界は、光があってこそ意味がある。心に火を灯し、光を映せば、どんな世界にも、闇はなくなる。だから、知識ではなく、心に信仰を灯し、光を発しなさい、さすれば、迷いや煩悩もない。光から善の行為をなせば、知識は信仰となり、闇を照らし、消滅することはなく、迷いや煩悩は忽ちに、消え、業も、悪因悪実もなくなる。だから、自分が授かった道の、信仰に目覚め、老、死、四苦八苦を受け入れて、それを乗り越えていけ。信仰は、この世の覚醒意識の感覚では掴めないので、知るのでなく、獲得するのでもない。信仰は、獲得するものではないので、師(お釈迦さん)の「慈悲の完成」を信じて、心を安楽にするように努めなさい。心を満たし、無にすれば、何も欲がないので、失う恐れもない。執着を忘れ、涅槃に至っている。前世・現世・来世の三世を合一する覚者(仏)たちは、現世での「慈悲の完成」から善の行為をなして、来世への、完全な仏となる、成仏の無上正覚の悟りを得ようとする。それゆえに、成仏を信仰しなさい。現世での「慈悲の完成」は大いなる霊言で、真言(マントラ)の宇宙の法であり、大いなる明らかな慈悲の真言であり、この上ない真言であり、全ての苦悩から自らを解放する。それは、現世でいかなる善の行為をなすかが、最も大切な使命で、最も大切な人間への真言であり、今なすことが、明日をつくるのは、善因善果、悪因悪果なるゆえに真実である。「慈悲の完成」において、次の真言に秘される。すなわち(tadyathā)、gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā!(善行を成そう、善行こそが、天国に通じる道である、内なる慈悲を、外なる愛へとつなげ、天国に至ろう。さすれば、この世とあの世が、自分を通じてつながり、キリストのように、死から甦る!)と。このように自分は要約してみたが、各人独自で、自由に、お経は要約すべきであろう。信仰さえあれば、誰でも要約できるものである。そして、自分独自の自由な宗教をつくるべきである。自分の慈悲から、愛を紡ぐことで、自分の自由な宗教となるのだから。
2024年08月22日
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いつの間にか、このブログも広告が蔓延り、商業主義に侵食され、書く気が失せるが、この世では、非営利で為さない限り、天に富を積むことができないので、つまり、ボランティアでない限りは、自らの進化を高められないので、あらゆる広告を廃したいのだが、当面は、楽天ブログしかみつからずに、無料無利益でブログを書き続けるのも、世間では難儀な話なのかもしれない。というわけで、広告が煩わしいのを、御勘弁してください。お盆休みに、ユーチューブにハマってしまい、日本人についての都市伝説みたいな動画をみているうちに、シュタイナーが、日本人と中国人の源流が、古代アトランティス時代の、老子のタオにある、といっていたのを思い出し、そのシュタイナーの老子の話を色々と探したのだが、見つからないので、ググったら、以下のサイトに出くわした。以下のサイトから、抜粋し、人智学的解釈を加味して要約し紹介する。 ☆ ☆ ☆ タオとシュタイナー。Vril=TAO、来るべき時代に人類が使うようになる古くて新しい「植物の力」。その2パクスルーナ PAXLUNA 星読み風水中国人は古代アトランティス人のモンゴル人種の末裔です。中国人の言うタオ(TAO)という言葉は、我々(西洋人)にとっては少し理解が難しいと感じます。当時のモンゴル人は、一神教を作り上げており、この「神」は、超感覚な認識力、それどころか霊的存在=精神の存在で、霊視できたほどでした。そして、古代の中国人、つまり古代のモンゴル人がTAOという言葉を発するとき、この「神」を感じたのです。TAOは、いま翻訳されているような、「方法」という意味の「道」ではなく、古代アトランティス人が植物を変化させ、創造する際に用いたエーテルの生命力のことであり、また、古代アトランティス人が、現代人には想像つかない空中を浮遊する船の動力でした。この生命力は、いまではエーテル(東洋では気功)と呼ばれていますが、古代アトランティス人たちは、この力をあらゆるところで利用し、その力を自分たちの「神」と呼んだのです。だから、古代アトランティス人は、この力を自分の内側に感じ、この力は、古代アトランティス人にとっては、「道であり目的」だったのです。アジアに目を向けると、超古代の宗教の残滓を見つけることができます。もっとも、この場合の「宗教」とは、今日の現代人の宗教観では推し量れないものです。この宗教は、いまでも中華文化圏の中に見出すことができます。[…]いま話題にしている、超古代の宗教の残滓、つまりTAO(タオ)教(道教)は、古代アトランティスの人々、特にモンゴル人種が、信仰していたタオに依拠していた宗教なのです。タオは、ゴールまたは道と呼ばれます。しかし、この翻訳の意味に固執すると、タオ教として呼ばれる、この宗教を正しくイメージできません。タオとは、数千年前の、人類の大半にとって、最高次の霊的な存在を示す言葉でした。そして、今でもなお、そのような言葉として解釈可能です。この最高次の存在とは、人類が、いまでも心の中から仰ぎ見れるものであり、この物質界と全人類が、かつてそこから生まれてきた、と考えられていた創造主の存在です。そして、この最高次の存在は、人間が、いま霊我の萌芽として内側に備え、いつの日か成熟した花として、人間の内奥から咲き誇るようになるものです。いまは深く隠された霊魂の底にあり、同時に崇高な未来に開花する生命力、それがタオなのです。タオが何を意味しているのか、を知る者は、畏敬の念をもって、タオという言葉を口にするだけではなく、タオについて祈ります。タオ教は、人類の進化の法則に依拠し、次のように語ります:今日、カルマの業により、私の周りに存在する宿命は、いずれは、私が克服すべきステージ(段階)=能力である。だから、私は次のことを正確に認識しなければならない。目下の、私の自我が身を置いている、この進化段階の途上に、目指すべきゴールがある。そして私は、この崇高なゴールに向けて進化していかなければならない。私の内側にある、このエーテル力が、私を生かし、その愛の生命力が、私を鼓舞し、大きなゴールであるタオへと至らしめる養分となる。この大いなる力を自分の中に感じ、宇宙全ての存在たちが、私と共に、この大いなるゴールへ向けて進化し、邁進している、と感じるとき、私にとって、この力は道を示す力(操舵力)となる。つまり、このエーテルの力は、私のなかから、私に向けて、風の中で、吹き返す力であり、石の中で、こだまを返す力であり、雷の中で、照らし返す力で、反響する力であり、太陽から、私に、光を送り返す、内と外とを結びつける、愛の力なのである。植物では、この道を示す力は、生長力として現れ、動物では、直感力と認識力として現れる。この力は、次々と形を変えながら、崇高なゴールへ向けて常に高みへと上り詰めよう、とする愛の向上力である。この力によって、人間は神羅万象の愛と一つになれる。この力は、吸う息ごとに、私に流れ込み、吐く息ごとに、私から流れ出る。この愛の力は、進化し続ける最高次の霊魂のシンボルであり、私は、この力を生命と感じる。この力を、私はタオと感じる。・・・このタオ教では、いまの仏教のような、この世とは別の彼岸にいる神や仏は全く話題にもなりませんでした。この世の外側にいる何らかの存在について語ることはなかったのです。そうではなく、このタオ教では、人類を進歩させる力、人間の内側の霊的な存在について語っていたのです。人間がまだ神的な存在とつながっていた時代、特に古代アトランティス人の間で、タオは正しく感じられていました。こうした我々の先祖たちは、高度に発展した現代人の悟性をまだ有しておらず、現代人のような知性も持っていませんでした。しかしその代わりに、こうした先祖たちは、夢のなかで、神的存在をみれる潜在意識状態と、霊的な超感覚的に高められた表象=イメージ生活と、主観的な思考生活を有していました。現代人もみる夢が、明確な意味をもち、曖昧ではなく、感覚が高められた透視力である、と想像してください。そして、人の霊魂から、こうした夢のイメージが立ち上ってきて、そのイメージが、超感覚から、告知します。この超感覚とは、自分の霊魂の中にあって、身の回りを取り囲んでいるものすべてを映し出しているという感覚です(ホログラム理論を参考にすれば想像できる)。こうした古代人の心魂の世界(エーテル界)は、今日の我々の心魂の世界(物質界)とは全く異なるものとイメージしなければなりません。今日の人間は、環境(外界)を可能な限り正確に思考しイメージしようとします。これに対して、古代人は、シンボル的な、象徴的な思考(漢字が象形文字なのがわかる)をします。そしてこの思考は、古代人にとっては、自分の中で、完全に生きたものとして現れてくるものなのです。今日、現代人は、人と対峙し、その人を、理解するとき、つまり、その人が良い人間か、悪い人間か、賢い人間か、愚かな人間か、を把握しようとするとき、その人間の、外見の、外的な部分について、可能な限り対外的な、表面的なやり方で対応するような、概念を獲得しようとするでしょう。しかし、古代アトランティス人の場合は、全く異なっていたのです。古代人は、現代人の悟性による概念ではなく、心のなかから、イメージが湧き上がってきたのです。もし、悪しき人間と対峙するなら、古代人の心には、暗く曇るモヤモヤしたイメージが、天候のように湧き上がってきたのです。しかしながら、こうした認識が、現代のように概念になることもなかった。いずれにせよ、古代人は、このイメージに従って、その都度、ふるまいを決めたのです。もし、夢を見ている潜在意識状態のときに、自分の霊魂の前に、明るくて美しい、天候の晴れのイメージが湧き上がれば、こうした存在に対して信頼を寄せてもいいのがわかったのです。そして、黒かったり、赤かったり、茶色い色のどんよりしたイメージが湧き上がるような場合には、そのイメージに恐れを抱いた。現代人のように、真理を、悟性を用いた、知性で把握し、理解するものではなく、インスピレーションのような、閃きの、いわば霊視の形でもたらされた(発明家や発見者が、閃きで発明、発見するのと同じ)。古代人は、こうしたイメージの中に働いている神性を、まるで自分の内側に存在しているように感じたのです。古代人は、風のそよぎの中に、風のささやきの中に、神性さが現れる、と感じていました。そしてまた、古代人は、自分の内なる心魂の生活の中にも、もし、その崇高な人類の未来を垣間見るようにと、自分を促せば、そうした神性を感じていた。そして、まさにそうした神性を、古代人はタオと呼んだのです。GA265より引用・拙訳を要約。 ☆ ☆ ☆ このように、シュタイナーは虚空(アカシャ)記録から、霊視して、古代アトランティス時代を解き明かし、この霊能力を、第6(スラヴ)文化期に、人類が再獲得するのを、預言している。ユーチューブの動画などをみていると、その前に、これまで嘘や偽りの情報を流し、人類を奴隷化し、支配していた宗教教団を全て解散に追い込む、天の浄化作戦が発動していくようである。いま地で起こっている戦争の背後に、それら宗教教団が暗躍しているのを、宇宙の叡智である、聖白色同胞団が見逃すはずもない。人類の悪の教育のために、いわば悪をわざと泳がせ野放しにしていただけにすぎない。聖書でも預言されている悪の稲穂の刈り取りが、最後の審判がいよいよ発動しているようである。悪に染まった悪人は、今からでも遅くないので、宗教教団から独立し、自身の心の自由な意志により、神への信念に立ち返り、自分のなかに主への愛を取り戻すために、改心すべき時代なんである。神は主として、誰の中にも、自分の深い愛のなかに存在するからである。外に愛を表現することで、人間は内なる愛に目覚めるのである。それが真の愛への神への信仰なんである。それがいま現状を取り巻いている第5のアーリア文化期なのである。現世の宗教教団は互いに争い戦いあって滅亡していくだろう。だからあらゆる教団から独立し、自分のなかのキリストをみて、従うのが、現代人の課題なのである。教団をつくって、金儲けに走る輩は改心しない限りは、神を信じていない証なので、一人たりとも救われずに、地獄に堕ちていくだろう。今回は休み明けということで短めなのでご容赦ください。
2024年08月20日
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巷でいま流行の和食人気の記事をみて、懐石料理の、懐石に疑問を覚えたので、ググってみたら、老子の被褐懐玉に由来する説を知って、日本の古来からの詫び寂び文化が、あの世の、霊性の文化に由来するのを改めて感じた。詫び寂びの文化は、八切史観によれば、いま自分があるのは、先祖のお蔭という、先祖を思う、先祖崇拝の、先祖供養からきているという。つまり、先祖に詫びる、寂びる、である。懐石 - Wikipedia被褐懐玉(ひかつかいぎょく)とは? 意味・読み方・使い方 - 四字熟語一覧 - goo辞書人智学によれば、カリユガの時代がはじまる前までは、人間はまだ霊能力をもっていて、あの世の死者との交流が盛んだったという。いまでも、古代人のように、文明の利器を拒絶して、大自然の背後にある自然霊たちとエーテルで交流しながら、暮らせば、霊能力を失わずに済むらしく、その再獲得を目指す修行が、シュタイナーが書いた、「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」、である。いま巷は、お盆休みなんで、人智学勉強を一旦休止して、様々なスピ系のユーチューブ動画を盛んに鑑賞しているのだが、古代アトランティス文化が老子の文化となり、日本にきて神道の源流になったのがよくわかってくる。というのも、日本文化の詫び寂びの懐石料理が、老子の被褐懐玉を原典にしていることからもわかる。人類は、太陽が東から昇ることで、日の出をみるために、朝に東に向かい、昼に活動し、そして、夕焼けの日暮れと共に、西に戻り、定住し、夜に眠る。この東の空と、西の空を仰ぎ見る繰り返しから、人類に、東の日の出から、宗教が生まれ、夕暮れの黄昏を快適に過ごすために、科学が生まれた。だから、東洋に宗教が生まれ、西洋に科学が生まれたといえるだろう。聖徳太子が、日出ずる国と、呼んだのは、小野妹子の隋への手紙「「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」からもわかるが、この書を人智学から解き明かすと、太陽霊キリストから、冥界の王の月霊堕天使ルシファーに命じる、という意味になるだろう。古代人は、自分が師事している霊魂=神々を証して身元を保証するからである。現代では、霊能力が失われたので、身元保証人は形骸化して、現世の人間でも可能になっている。つまり、この時代までは霊能力が使えていたわけなんである。これはプラトンが、恋愛をするに際し、どの神々に師事しているのかを明確にしないと、精神的な愛にならないというような、後にプラトニックラヴで有名になった発言からもわかるだろう。だから、渡された煬帝は、勿論、烈火の如く激怒したのは史実でも明らかになっているが、当時、隋は朝鮮の高句麗と戦争中だったため、皇帝は怒りをこらえ、日本を敵に回すことはしなかった、とググるとわかる。第5回 隋の煬帝はなぜ怒ったのか? | 法政大学国際文化学部鈴木靖研究室 (xsrv.jp)隋 (y-history.net)【中学歴史】「聖徳太子、小野妹子を隋へ派遣」 | 映像授業のTry IT (トライイット) (try-it.jp)この書簡が渡されたのが、西暦607年で、その10年後に、煬帝の土木工事や外征の強行に対する不満から民衆の反乱が起き、隋は滅亡し、唐王朝に代わったわけで、この書簡は、聖徳太子の預言であったのがわかるだろう。唯物論者の歴史家は、日出するの文言に拘るが、再度みると、「日出ひいずる処ところの天子、書を日没する処の天子に致す、恙無(つつがなき)や」の、後半の、「恙無(つつがなき)や」にある。後の記録が書記なので、書簡になっているが、本当は半分テレパシーのメッセージで伝えられた可能性が高い。つまり、太陽霊が、月霊の堕天使に、「恙無(つつがなき)や」の平和を乱すようなことはするな、と命令する書なのである。だから聖徳太子は霊能者で、指導していた霊魂が、太陽霊キリストであった可能性が高いわけで、現に隋は10年後に、聖徳太子の預言通りに唐に代わられて、滅亡してしまったわけなんである。聖徳太子が、厩戸皇子といわれたのは、キリストが降臨したイエスが厩戸で産まれた、のにちなんでいるのがわかる。スピ系のユーチューブをみていると、奇想天外の話に出くわすのが、ある意味で醍醐味で、聖徳太子のつくった法隆寺は、高次の霊界との交信装置で、どうやらエジプトのピラミッドを模範にして、キリスト霊の指導によりつくられたようである。前回紹介した保江氏によれば、カールセーガンは、聖徳太子の宇宙人とのコンタクトを記した巻物を米国が手に入れて、その解析に、当時の原爆開発の科学者が動員されたときの、助手をしていた経緯から、映画コンタクトを監修したという。コンタクト (映画) - Wikipedia法隆寺は、斑鳩寺(鵤寺 = いかるがでら)と呼ばれていたようで、どことなく、斑鳩は、古代エジプトのホルスを髣髴とさせるのは、私だけだろうか? 以下の画像は物質界での斑鳩の姿なので、厳密にいえば、ホルスは、あの世の姿からの絵図なんで、比較できない。ちなみにキリスト太陽霊はよく、平和の象徴の、白い鳩に譬えられる。斑鳩を知る|奈良 法隆寺観光、いかるがの里観光案内所 法隆寺iセンター (horyuji-ikaruga-nara.or.jp)高次元へのワープ、つまり異次元移送を、簡便に物質科学でいうなら、相転移なのだが、これは前回紹介した神道の、火と水の概念により、非常に低次元のレベルで、物質界でも熱力学として体系化されている。火で燃やせば、固体は液体になり、そして気体から、ついには物質性をなくしてしまうし、その逆の、水などをかけて、冷やせば、気体から水蒸気の液体に、そして結晶化して固体になり、最後は石になる。この石になるというのは、以前スピンの渦を紹介したように、水の右巻きから、未来から過去に流れる時間の渦を表わすのかもしれない。あの世からこの世にやってくる神の救いの力といえるので、水は下へと清きに流れると、この世からみた、あの世の時間で、預言の流れをつくる、天体の運動であるのがわかる。そこで、面白いのは、渦巻銀河の、左右は、AIに測定させると、同等に存在するが、人間に測定させると、左巻きが多く、偏るという結果にでる、という話である。渦巻銀河の「左巻き」と「右巻き」、多いのはどっち?(ブルーバックス編集部) | ブルーバックス | 講談社(2/3) (gendai.media)渦巻銀河を人工知能で分類 - アストロアーツ (astroarts.co.jp)機械が観測すると、同等なのに、人間が観測すると、少し、左巻きが多くなる、ということから、人間の感覚が、過去から未来への時間に馴れているせい、の火の左巻きの、つまり、エントロピー増大の法則の時間の進行に、人智学によれば、これは覚醒意識の、東から太陽が昇り、西に下るという、地上の感覚に由来するようである。宇宙船地球号に乗っているための、時間感覚というべきものかもしれない。つまりどういうことかというと、幸運の女神には後ろ髪がない、というように、予め、少し前の時間に対応するための準備を感覚的に身に着けているということなわけである。簡単にいえば、10時に集合するのに、10時に家を出たら遅刻してしまうのと同じである。だから、過去から未来に進行する時間の少し先を見積もって、少し火を灯して、明かりを得て、覚醒意識で、先に進み準備するのである。だから、その分、エゴが生まれてしまうわけでもある。数学的にいえば、少し先の時間を見積もる微分の計算といえるかもしれない。恐らく、格闘家は、この準備能力に優れているのかもしれない。先の運動をわずかに見越して、機先を制するわけである。そこで、格闘家が左を大切にするのをググってみると、以下のブログを見つけた。なぜ左を制する者は世界を制すのか!格闘技解剖学から解読します。 | 格闘技 初心者・ダイエット・フィットネスジム トイカツ道場 (tkdj.net)このブログからわかるのは、左手を操る右脳が時空感覚を司っているので、つまり覚醒意識を発揮しやすく、前進しやすく攻撃的で、逆に、右手を司る左脳は、言語や記憶、思考感覚を司っているので、潜在意識を発揮しやすく、肉体的には眠ってしまうので、相手から後退し、相手の攻撃を防ぎ、右手は防御にいいのがわかる。だから、簡単にいえば、左巻きで時空間感覚で、攻撃し、右巻きで、記憶や経験的に防御するのが理想といえるかもしれない。聖徳太子の話から随分と脇道に逸れてしまったが、異次元ワープとは、恐らく3つのエーテルの流れの活用であり、それは左巻きの渦からはじまる、過去から未来への物質界の時空の流れと、右巻きの渦からはじまる、未来から過去への、霊界の鏡像時空の、反時間の流れと、それを統合する、神道でお馴染みの、中今(なかいま)のエネルギーの融合の流れの、活用を、説いたようにみえる。合掌は、その見本で、だから、火の左手と、水の右手を合わせた、その手の中に、中今があり、そのあの世とこの世とを融合した、聖の神の領域に、念を送り、祈ることで、自らの自我のなかに、自我意識を刻み込むわけなのだろう。火は攻撃の源で、水は防御の源でもある。そして、日々、祈ることで、自己意識を高めていく。これが、古代アトランティス時代から、老子を経て、日本の神道の、陰陽道から、詫び寂びの文化となった教えなのではないだろうか?さて、この教えから、懐石料理の由来の、老子の被褐懐玉の意味を読み解くと以下のようになるのがわかる。老子 第七十章 褐を被て玉を懐く | ちょんまげ英語日誌 (mage8.com)現代語訳私の自我のなかにある、神々と交信できる霊我=霊能力は、本当は解り易く、誰でも開発できる。しかし、物質界の人々は、この世の言葉の、唯物論で理解できないため、また開発も出来ない。霊我の開発には自我を理解する必要があるが、自我を知ろうともしない。だから霊我が日々もたらす霊言=マントラが理解できない。だが、霊我の言葉を、人々が理解できないという事は、それだけ、霊我が貴重という事でもある。霊我を開発する「道」を歩む聖人は、外見は粗末な衣服を着て、ホームレスのようにみえるが、心の内には大切な宝を抱いている。その貴さは、この世の物質的な価値観からは想像できない、天国のものだから。このように、老子のこの70章は、死者との交信、神々との交流を説いている、のがわかる。だから、懐石料理とは、神々や、死者たちと交信し、交流する、そのもてなし法なんである。千利休と呼ばれた千宗易が、一期一会と茶道を説いたのも、この世での人間の交流を発端として、あの世での霊魂の交流から、霊団が生まれる、という意味なのである。その基本は、3つのエーテルの流れで、左右と中今の時間の流れである。この流れから、陰陽五行で、5つのエーテル体の流れが、人体をつくると、神秘学の、陰陽道の、密教で、説かれている。先に紹介した、保江氏の奇想天外な話では、ロシアがUFO開発で、高次の宇宙人とコンタクトし、宇宙人に教えてもらって、ロシアの科学者たちが、UFOを組み立てたのだが、動かないので、宇宙人に文句を言ったら、霊能者でないと動かせないといわれ、アナスタシアに、霊能者がいるから探せといわれて、探しにいって連れてきて、エーテルがうまく流れるように、念じながらつくったら、UFOができたらしい。そのアナスタシアの霊能者を、保江氏は、UFOに興味はあるが、理論物理学者なので、最初は全く信じなかったので、UFOについて問い詰めたら、「あなたは草や木や猫や犬の気持ちがわかりますか?」と聞かれ、「そんなのわかるわけない」と返したら、「それではUFOは動かせませんよ」、と逆に返されてしまったという。つまり、その霊能者が言うのは、大自然にも、人間のような、心があり、その心の意向に沿わないと、何事も動かないという、ニュートンの慣性の法則を教えたわけなんである。我々地球人は、地球の心を、人間の心理学のように、数値化して、分析し、自分勝手な殻の機械のなかで、人工的につくっているだけにすぎないわけなんである。だから、クルマには道路が必要で、飛行機には、衝突しないように、航路が必要なんである。UFOは、物質時空の時間に従うだけでなく、それを超える時間を航行できるので、地球人の心のなかも飛べるので、地球人をUFOで常に見守っているわけなんである。お盆休みにしようと思っていたのだが、流石にお盆なのか、死者のメッセージにせつかれてしまい、はいはい、わかりましたと、またブログ更新をする羽目になってしまった。
2024年08月16日
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スピンというと、あるスナック菓子か、大洋ホエールズのシピンという野球選手を想い出す人は、恐らくオジサンだろうが、スピンと聞いて、電子を思い浮かべるのは、物理を学んだ人だろう。学生のときに、量子力学を学んでいて、どうしてもわからなかったのが、内部角運動量というスピンの概念だった。スピンとは、物質性を存立させる基本の概念でもある。しかし、現代物理学の概念では、素粒子は大きさをもたない質点とみなしているので、その素粒子の電子には、大きさがないのに、なぜ角運動量というスピンが生じるのか、不可解だからである。そもそも大きさがないのになぜ回転できるのか、そのときは不思議だった。しかし、この私の疑問は、ある名物教授の死により、解き明かされることになる。スピン - Wikipediaスピン角運動量 - Wikipedia しかも、量子力学の波動関数は確率概念を基にしているので、スピンという角運動量を観測すると、位置が定まらないハイゼンベルグの不確定性関係があるので、ますます謎だったのである。まだ学生だったので、量子力学もほとんど学んでいなかったから、半信半疑で疑問を持ち越して、そのままにしていた。それからしばらくして、母校の物理畑をつくった某教授が倒れて亡くなったという知らせを聞いたときに、自分もその物理畑の作物の一つなので、その教授を思い浮かべた記憶が残っている。その教授は名大出身の名物教授で、海外の物理屋とも交流が色々あって忙しく、御意見番的立場にいたので、自分はほとんど直接指導されなかったが、学生のときに一般相対論の講義を受けたのと、当時は拡がりをもつ素粒子像を、数学でモデル化する研究をしていたのが記憶に残っている。特に一般相対論の計量テンソルを、0を使わずに、1から4の数を使った古い表記法で講義をしていたので、口の悪い無責任な学生には、爺さんノテーション(記法)と共に化石講義とか、タイムスリップだとか、時空の歪みだとか、キ印講義とか、色々と揶揄され、エピソードとなっていたのが、いまも想い出される。自分は学生時代の成績は中の下でよくなく、というのも子どものときから、数学が苦手で、英語はできたが(恐らく子どものときにセサミストリートや米国ドラマを見ていて、勿論、日本語への吹き替えだが、英語的な思考法に馴れていたお蔭かもしれない、文字はわからなくても、欧米人の思考法がなんとなくわかる)。だから、なぜ理系に進んだかも、いま考えてみても不思議なのだが、とにかく当時カールセーガンのコスモスが巷で流行って、竹内均氏のニュートンという雑誌が世間を賑わし、科学ブームで、宇宙を知りたかった一心で、理系に進んだ記憶がある。カール・セーガン - Wikipedia竹内均 - Wikipediaそういえば、大学進学の塾に行っていたときに、東大数学科の塾講師がいたのをいま書いていて想い出した。その塾講師は、物理に進学したかったのに、カールセーガンのコスモスの人気のせいで、東大の物理進学者が激増し、数学科に行く羽目になったのをぼやいていて、学びたい学問が決まっているなら、東大のような教養課程の成績で割り振られる大学に行くのは、自分みたいに失敗する可能性があるので、やめたほうがいいと、盛んに言っていた記憶が浮かび上がった。そのアドバイスが役に立ったのかどうかは定かではないが、数学ができないのに、物理畑に進め、しかも実験系から、どうしても、宇宙関係の理論系がやりたいといって、一年後に、素粒子畑に進めたのは、先の名物教授の支援もあったのが、今考えると、なんとも不思議な巡り合わせなのがわかってきた。数学能力がゼロの質点なのに、物理畑で、低温由来のクーパー対を破って、角運動量スピンで、素粒子に進学できたからである。物理畑に進んだのは、以前紹介したが、物理のテストでゼロ点をとり、物理の最先端を学べば、高校物理など余裕だろうという浅はかな考えから、本屋で内山龍雄著「物理学はどこまで進んだか」という本に出逢って相対論に魅了され、数学ができないのに、進学した経緯だったので、大学に進学しても数学のセンスがないので、相変わらず数学は覚えるしかなかった。だから、ミーハーで物理屋になっただけなんである。内山龍雄: 物理学はどこまで進んだか; 相対論からゲージ論へ, 岩波書店, 東京,1983, viii+216ページ, 19×12cm, 1,400円 (岩波現代選書, NS536). (jst.go.jp)数学をつくるというよりも、数学は道具にすぎないという物理屋の立場が救いにもなったわけだが、それを使いこなす能力に欠けていたので、数学の成績は悪く、大学院では実験系の低温研究室になんとか滑り込みで進学できた。低温研究室にも超伝導を研究する理論的なギンツブルグ-ランダウの方程式もあり、素粒子理論から、南部氏が提唱し、クーパー対の大発見となるBCS理論もあったが、実験系では日本社会特有の上下関係もあって、ひたすら労働力を酷使される24時間休まずに働けますかの師弟関係の職人ブラック世界なんで、組織よりも、自由で独創的な、一匹狼的な、孤高の理論系に益々憧れるだけの一年間だった。ギンツブルグ-ランダウ理論 - WikipediaBCS理論 - Wikipediaそんなこんなで、先の名物教授に救われて、実際の戦力というよりも、おそらく付け足しの、迷える子羊の遊軍的な棚ぼた的な感じで、素粒子畑で育成されるようになったが、そのような経緯から、先の名物教授の死を想い浮かべたときに、質点ゼロのスピンが、渦であるのが、思考のイメージの中に浮かび上がってきたのである。いまググってみても、もはやスピンが渦であるのは普遍的真理になりつつあるようである。その名物教授が亡くなったのが、ほぼ30年前なので、ようやく現代物質社会が、あの世の知性に追いついてきたのかもしれない。物質中の渦度を用いたスピン輸送 – mmatsuo.comja (jst.go.jp)磁石の中の小さな渦が社会を変える?スキルミオンとアンチスキルミオン | 理化学研究所 (riken.jp)電流渦現象 | 埼玉大学 工学部 藤本研究室 (saitama-u.ac.jp)三次元では、渦は左巻きと右巻きができる。いわば鏡像関係のようなものである。四次元では、時間軸を考えると、三次元空間自体が一つの渦となるので、恐らく六次元になるように思われる。自分は数学ができないので、数学者に検証してもらう必要があるが。恐らく、左向きの時空が過去に向かう時間軸で、右向きの時空が未来に向かう時間軸なのかもしれない、というのも、物質界のほとんどの物質は左向きでできているからである。それは素粒子のニュートリノの質量が、左巻きしか観測されていないからでもある。右巻きは、鏡像対称性で、反粒子の反ニュートリノとされている。ニュートリノ - Wikipediaなぜスピンが宇宙の渦なのか?という話を持ち出したのかは、あの世の、未来から過去に向かう時間が、つまり、宇宙の右巻きの渦の反ニュートリノが、地球の物質界の時間の流れの左巻きの渦のニュートリノと出逢うことで、その鏡像関係の光から、偏りが生まれて、光子から、反電子と、電子の物質界をつくるようにみえるからである。そして、それを記録し、現象させているのが、キリストのカルマと輪廻転生の原理に思えてきたからである。左と右の渦の融合から、僅かな偏りが生まれて、我々のエゴの地球の物質界が、キリスト原理により生まれているように思えたからである。それは例えば、人体のPH値が、中性の7よりもわずかに7.4の弱アルカリ性に傾いて、恒常性を保っているのでもわかるからである。実はこの渦の話は、古事記や日本書記の、イザナギとイザナミを髣髴とさせる。宇宙の流れがマクロの左右の渦から生まれ、電子がミクロの左右の渦から生まれるのは、共に、光と闇の渦から生まれると考えると、我々人類は、宇宙のネガと、地球のポジの鏡像関係にある、のがわかる。そこで、このネガとポジを出会いさせて、左右の渦である時間を司っているのが、カルマの輪廻転生のキリスト原理というのが、人智学から解き明かされるように、みえたわけなんである。ON THE TRIP (on-the-trip.net)輪、渦、渦巻、螺旋 (kamnavi.jp)それは、このブログで、先に紹介したニュートンの3つの力学が、仏教のカルマの法則の物質的な表現にすぎないと、人智学から解き明かせることからもわかる。慣性の法則が、善因善果、悪因悪果で、慣性による運動の法則が、一灯照隅、万灯照隅で、作用反作用の法則が、輪廻転生の法則という感じだった。仏教的にニュートンの運動法則を解き明かせば、前世の自分が、現世の自分をつくることが、慣性の法則で、外の他者から何の力も加えられなければ、自分は、前世の行為からつくられた自分のままで、つまり自力で生きることになる。このニュートンの慣性の法則を唯物論では、物質がもともと持つ能力で、慣性力の、質量としているが、仏教では、本来は、前世からの因縁から生じているので、質量を、より詳細にいえば、前世の自分の行為から、現世の能力となっているので、質量は、前世での自分のエネルギーから生じる。この前世での自分の行為によるエネルギーは、エーテル体の光によって、ディラックの負の海の、虚空日記に時間と共に記録されているので、現代の地球の時空間からみれば、時空間上の運動を可能にするポテンシャルエネルギーになる。問題は、その記録を、いつ虚空日記から引き出すかにある。それは、次のニュートンの運動の法則で、他者との交流である、のが読み解ける。他者からなんらかの作用を加えられない限りは、自分は過去の自分のままで、負債を抱えたままなので、独房に居るのと同じ運動を続けるのが、慣性の法則で、だから、人間は物質界で、他者と何らかの運動をするために、作用を受けないと、進化できないわけなんである。自分そのままだと、重力という悪魔に堕とされるだけで、自力で自分を浮上させるためには、とにかく、ニュートンの運動の法則から、他者の誰かとつながる必要があり、運動しないといけない。だから、自分を核として、誰かとつながるための運動をして、自分に埋没する渦ではなく、自分から自由に解放させ、浮上する渦とならないといけない。自分であるために同時に自分でないために、左の渦は、右の渦を必要とするわけなんである。というのは、自分とは、左の渦と右の渦のちょっとした傾きの違いから生まれるからである。この自分の存在を、シュタイナーは、脳の質量で良く表現している。成人の脳の重量は約1500グラムだが、脳脊髄液の浮力のアルキメデスの原理により、いわば水中での重量しか感じずに、大体、数百グラムの重さで済んでいるわけである。だから、自分は、その数百グラムの重量感しか感じずに済んでいる。人体の60~70%はほぼ液体で、水のようなものだから、脱水などで、人体から水が失われると、人体は、脳を重く負担に感じてしまい、自分を支えるのに疲労感がでてきて、自分を投げ出してしまうようになる。人体から、脳を追い出し、霊魂を脱出させようとする。墜落する飛行機のようなもので、これが熱中症の実態である。だから、ニュートンの第3法則の、作用反作用の法則は、この自分と他者の関係を良く表現している。しかも、前世の自分は、現世での他者でもあり、前世と現世では、自分は他者とネガとポジで入れ替わっているのが、カルマの法則で、輪廻転生の法則でもあるから、この作用反作用の法則は、前世の自分と現世の自分が鏡像関係にあり、そして、また、過去から未来に流れる物質界の左巻きの安定化への時間の流れ、そしてこの時間の流れを、神道では、水の流れというようで、「み」で表すようである。そして、鏡像関係の、あの世の未来から過去に流れる、いわば過去に遡る記憶の、時間の流れを、神道では、火の流れというようで、「ひ」で表すようである。神道からみると、渦で話題の、イザナギとイザナミのイザナは、「いざなう」からきているようで、誘う、誘導する、という意味がある。だから、イザナギとは、本当は、イザナ火で、火の時間の流れに誘導するという意味で、未来から過去を振り返る行為で、イザナミは、イザナ水で、水の時間の、物質界の現実に戻るという意味で、過去から未来に進む行為になるのかもしれない。だから、常に自己反省して、自己を新しく改革していくことが、過去の時間の火の神と、未来の時間の水の神から、左と右の渦の関係から、わずかに前に進んでいくのを説いているのかもしれない。【境内案内2】 神は火水なり – 火祥殿 – | 身曾岐神社 (misogi.jp)この神道の火水の神の由来から、私には、♪一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる♪の人生はワンツーパンチの水前寺清子氏の、三百六十五歩のマーチを思い出させる。前に進んでばかりだと、危険なんで、ときには過去を振り返り、反省して、少しづつ前に進んで、自己開発をしよう、自己を高めあおう、という感じである。♪幸せは、歩いてこない。だから、歩いて行くんだよ♪のなかに、ニュートンの慣性の法則と、運動の法則がある。自分のなかの殻にとどまっていては、慣性の法則で、何も変わらないばかりか、幸せはやってこない。だから、自分から歩きだして、運動の法則で、幸せを掴むために、自分を変えて開拓していこう、というわけなんである。しかし、宇宙には、過去と未来の、2つの逆向きに進む時間がある。だから、その時間の間で、自己を埋没させずに、少しずつ時間の渦の波に飲み込まれずに進むのが、最善の自己改革で、作用反作用の法則を考えて自分のペースで進もう、というのが、神道が説いている惟神の自己改革の法則なのかもしれない。水前寺清子 三百六十五歩のマーチ 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)神道とは何か | 御嶽山御嶽神明社 (amebaownd.com)神道では、左手を火の時間の渦とし、右手を水の時間の渦とするらしい。そして、その合掌のなかの、火と水の、ひみの僅かな隙間の時空間の内のなかに、自己があり、これを神の子として、ヒミコと呼んだのかもしれない。宇宙の2つの渦の時間の流れから、自己がカルマの法則として生まれ、輪廻転生を繰り返していくのを、以前、ホログラム理論で紹介したが、実は、この輪廻転生の宇宙の法則を示せる可能性をもっているのが、実は超弦理論ではないかと、最近妄想している次第なんである。そのうち紹介したいと思っています。色々難儀な話なんで、根がグータラなんでどうなるかわかりませんが。
2024年08月13日
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人間の霊魂は不滅で、精神は死なないのに、なぜ墓があるのだろうか? 令和になる前に、♪私のお墓の前で泣かないでください。♪という歌詞の「千の風になって」が巷で流行曲になったのを思い出す。この歌詞は、米国の有名な詩で、和訳し、曲をつけ、秋川雅史氏が歌うことで、日本で人気になったようである。千の風になって - WikipediaDo not stand at my grave and weep - Wikipedia人智学を学ぶと、この歌詞が密教の、死者との会話を説いているようにみえる。「私は、輪廻転生を何万回をも経てきた、千の風なので、決して死にはしません。雪の上のダイヤモンド、豊穣の穀物にそそぐ陽光、穏やかな秋雨、宇宙から上昇気流となって、大きな円を描いて飛ぶ鳥たちと共に静かに、いつでも、あなたを大自然のなかから見守っています。ただ、あなたがそれに気づかないだけなのです。あなたが、私との絆を忘れない限り、いつでも、私はあなたの心の光のなかにいるのです。」お釈迦さんが説いた原始仏教の密教には、お墓など必要なかったのである。霊魂は永遠で、死ぬことなどないからで、勿論、神や仏も不滅の存在で、神から生命を授かった、神の子の人間も、死ぬことなどないからである。それじゃ、お墓とはなんなのか?現世的にいえば、破戒坊主の商売道具といえるだろう。密教の教えを歪め、神殿で商売をするものは地獄に堕ちるだろう。密教僧とは、あの世とこの世をつなげる外交官であり、外交を決裂させるような外交官は、失格で、宗教を用いて、本来公正で平等な宇宙と人間の関係に、権威を持ち込んで上下関係を強いるのは、ルシファーら、月悪魔の常套手段だからである。密教の霊能力開発の修行で最初に出逢うのがルシファーら、月悪魔の連中であるという。シュタイナーは、この連中に唆されないためには、キリストが、この世でなした十戒の行為の、道徳的行為を、実体験し、心のなかのアストラル体に、身に着け、肝に銘じていないといけない、と説いている。現世の坊主たちをみれば、既にルシファーに憑りつかれて、末法の世となっているのがわかる。坊主なのに、唯物論に染まって、霊魂の存在がわからない者が沢山いる。そもそも、お釈迦さんの仏教は、古代インドの哲学の焼き直しであり、その源流は、ヒンズー教にもなっているが、いまでも、インドにはお墓はなく、死者の肉体は荼毘に付し、聖なるガンジス川に流すのが、慣習となっている。荼毘に付すのは、日本では火葬の意味だが、本来は、霊魂を、あの世に送り返す、セレモニーの意味で、だから、拝火教では、火は神なので、神の姿に戻すという意味なのだろう。拝火教でなく、土を神にするなら土葬で、水を神にするなら水葬で、風を神にするなら、風葬になるわけだろう。人が死んだらガンジス川に流すって本当ですか? (raani.org)アリストテレスの4大元素霊でもわかるが、大自然が、4つの自然霊の、火、風、水、土からつくられるのを、古代人が、霊能力で知っていた名残りなのが、形骸化した葬式の形から読み取れるわけなんである。ちなみに人智学では、この4つの自然霊を、人体の、火は自我に、風はアストラル体に、水はエーテル体に、そして、土は肉体に模して解釈している。そして、それは同時に、宇宙の進化の、火は土星紀、風は太陽紀、水は月紀、土は地球紀の固体の物質界を現わしている。さて、いつから墓ができて、神殿で商売をするようになったのかは、ルシファーら冥界の堕天使に聞いてみるしかなく、定かではないが、本来は、あの世とこの世をつなぐネットワークのアカウントのようなものであったはずなんである。恐らく、インドでは、聖なるガンジス川が、あの世とこの世をつなぐ、いわば三途の川で、というのも、霊魂が肉体から解放されるときに、肉体を、トンネルや川のように感じるかららしい。だから、肉体に入るときも、暗闇を感じ、人智学では、この闇の期間を、第3の状態と呼んでいる。だから、墓は、何も物質的なものではなく、死者と生者をつなぐ、生者が、死者を想い出す切欠となる記憶のようなものと考えられる。人智学によれば、死者との生前の人間関係は、死後も失われず、その関係は、カルマと共に、次の輪廻転生にも持ち越されるという。だから、墓はカルマの記念碑というようなものかもしれない。ちなみに墓の由来を調べると、仏教では、お釈迦さんの卒塔婆からきているようである。仏塔 - Wikipedia グナ - Wikipediaサーンキヤ学派 - Wikipedia卒塔婆は、サンスクリット語のストゥーパからきているようで、「高く顕れる」という意味をもつようだ。日本語の音読みで、サットバにも聞こえるので、3つのグナのサットヴァの状態を表すのかもしれない。以前、3つのグナは、古代インドのサーンキヤ、ヴェーダンダ哲学でも紹介したが、サットヴァは、菩薩のサンスクット語のボーディサットヴァでもわかるように、高次の悟りに至った仏陀の意味なので、高次の霊能力を獲得し、成仏した印が、卒塔婆には秘められているのがわかる。菩提 - Wikipedia人智学では、霊魂が高次の悟りに至ると、輪廻転生の核となる、自我は霊我からブッディを経て、アートマンにまで進化しているので、もはや輪廻転生を必要としなくなる如来になり、それまでのエーテル体やアストラル体を弟子たちに伝授するのを解き明かしているので、その言い伝えが、卒塔婆から、墓になっていったのかもしれない。ちなみに、シュタイナーは、キリストが降臨するために、イエスのアストラル体は、ゾロアスターから、エーテル体はモーゼから引き継いだと述べている。それがカリユガで唯物論にハマってルシファーに唆されて、神殿で商売する破壊坊主たちにより、高額な墓代に仕立て上げられたのかもしれない。神殿で商売をするような輩は、勿論、キリストが激怒して鞭を打ったように、墓や宗教で商売をするような堕天使に組みする輩は地獄に堕ちるのを覚悟すべきだろう。死者はあの世から全てを見通しているので、肝に銘じておくべきなのである。マルコ福音書講解 62 (tenryo.net)『わたしの家は、すべての国民のための祈りの家と呼ばれるべきである』と書かれているではないか。ところが、おまえたちはそれを強盗の巣にしてしまっている心のつながりに、金銭の介入は妨害になるだけなんである。さて、人智学を学んでいると、仏教とは多少違うが、墓の由来がわかってくる。古代インドの、ヴェーダンダ哲学では、「そは汝なり」という言葉を瞑想しなさい、と教えられるという。それは、死後、人間がエーテル体を伴って、肉体を離れると、肉体を、内からではなく、外から感じるので、肉体のもつ「私」という感覚を、外からエーテル体を通してみるので、肉体を、「そは汝なり(それはお前だ)」という感覚をもつようになるという。つまり、自分を、外にみる、ようになるという。この自分を離れて、外から自分をみるのは、勿論、この自分とは、生前の物質的感覚による自分なのだが、いわば、物質界を離れた状態を示すので、生前の人生から離れたことになり、物質界の境界を意味するので、いわば境界石の目印の、言葉となるという。だから、「それはお前だ」という言葉の意味が、形骸化して、物質界の境界の、板や石に、目印として、「それは」の物質的なものに、「お前だ」という名前を記すようになったのかもしれない。そして、別のホンモノの自我は、霊魂の名で生きているので、仏教では霊名の戒名だが、キリスト教では洗礼名だが、あの世で霊名で、生き続けるのを示すために、生前の面影の位牌や遺骨を、墓と共に、残すようになったと考えられるわけなんである。勿論、霊能者は、死者が生きているのを御存じなので、このようなものは必要ないが、霊能者でない者には、心の潜在意識までは、みえないから、寝る前の、忘れ形見として残したのではないだろうか? ただし、生前の名前をよんでも、死者は物質的な名詞は死後3日後には生前の人生を振り返ってしまえば、忘れてしまうので、死者と対話する切欠にはならないらしい。だから、葬式には霊能者がいるべきなのだが、破戒坊主やら詐欺の霊媒師やらが現代には盛り沢山なので、低次の霊能者なら恐怖心から金銭の物欲を煽るだけなので、いない方がマシかもしれない。別に急いで死者と対話する必要もないので、生前、共に生活した感謝と愛情を注げばいつでも死者は気づいてくれるらしいので、というのも、あの世では時間が空間のようになっているためで、生前の親子の生活記録から、辿ればいいからだ。人智学によると、あの世とこの世をつなぐのは、物質的知識ではなく、精神的な愛情なので、なにより知識よりも、信仰や信頼が重要になるので、友愛の関係が基本になるという。親と子として生きた友愛の信頼関係が重要となるらしい。だから、ぶっちゃけていえば、あの世とこの世の関係は、いわばネットで知り合い、結びついた信頼関係から、オフ会で出会う感じかもしれない。昨今は、SNSなどから結婚相手を探すのと、似たような感じかもしれない。SNSや婚活ネット会社が、宗教団体になっていると思えば、似たようなものかもしれない。勿論、現世での関係には、ほとんどが霊能者でないので、目にみえる肉体を必要とするのが大きな違いといえるが。またそれだけ目にみえる肉体などの外見に騙される場合も多くなるわけだが。このような墓の話から、以前紹介した仏教の戒律が、いかにも霊能者のためのものであるのが、人智学の秘儀参入学から、密教を解き明かすことでわかってくる。特に、シュタイナー著の、「いかにして前世を認識するか」、と、「精神科学からみた死後の生」を、何度も読み、学ぶとわかってくるが、この二冊は特に難解なので、比較的に読みやすい他のシュタイナーの本などから、学ぶのをおススメしたいが、とにかくも、この2冊を読みこなせば、密教の世界がみえてくるばかりか、宗教の意味が読み解けるようになる。巷の宗教学者などは唯物論に知らずに染まり切って、しかも唯物論も深くまで勉強していないから、自分が唯物論の悪魔の論理に落ち逝ってしまっているのに気づかないので、木乃伊取りが木乃伊になっているので、お話にもならない。地上波などの妄言者は、みえないからなんでも言ったもの勝ちの自由があるが、良くもまぁあんなデマカセが言えるのかと、笑ってしまうので、お笑い番組にはいいかもしれないが、だから、唯物論の境界さえ、みつからないので、墓場の意味も知らずに墓に埋葬されてしまうだろう。それだけ、巷には破戒坊主の妄言が罷り通っているせいでもある。金銭と権力にあかせば妄言などでも事実と認めるようになる。専門家なる妄言者の情報奴隷信者が巷には盛り沢山である。さて、以前紹介したように、仏教の五戒の、不飲酒戒の、飲酒が厳禁なのは、前世がみえなくなるからだが、他にも、不殺生戒の、仏教の精進料理でもわかるが、肉食も厳禁なのは、あの世に行くと、鉱物界と植物界はなくなり、動物界のアストラル界だけが、周囲にみえ、感じるので、動物の気持ちが伝わってくるという。戒律の意味・仏教の五戒・八戒・十戒・具足戒・大乗戒の厳しい内容 (true-buddhism.com)それも、この世とあの世は逆のアベコベの関係なので、この世では動物の気持ちを、外から、こちらからみて、感じないと、わからないし、無視する自由もあるが、あの世では、逆転し、主体的な、見る側、感じる側ではなく、常にみられ、感じられる受動的な側で、動物の気持ちが痛いようにわかるので、いわば、ムツゴロウさんのような感覚にならざるを得なく、殺生などの虐待は、動物の嫌な気持ちが有無を言わさずに伝わってくるので、心がいたたまれなくなり、可哀想になり、全存在から、批難されたように、心が気まずくなり、萎えてしまうわけなんである。つまり、この世にいるうちから、相手の気持ちを推し量る霊能力を身に着けるために、仏教の、不殺生戒があるのがわかるだろう。また、他の3つの戒律の、不妄語戒の嘘をつかない、と、不偸盗戒の他人のものを盗まない、そして、不邪淫戒の、不倫や浮気をしない、のは、この世の経験からもよくわかる、道徳行為だが、輪廻転生のカルマ論からも、理由が明らかになってくる。シュタイナーは、嘘をつく傾向をもち、軽い気持ちで何でも請け負う人は、来世では軽薄な人間にうまれかわり、特に嘘つきは、アーリマンが好んでやってきて、エーテル体に憑りつくので、来世では、臆病な人間に生まれ変わる、と述べている。また、不倫や浮気は、妬みに端を発するが、妬みは、ルシファーを招きよせ、アストラル体に憑りつかせるので、来世では、虚弱体質の人間に生まれ変わる、と述べている。だから、空海さんの教えでなくても、五戒を犯している修行僧は、それだけで破門の破戒坊主なんで、密教を学ぶどころか、地獄に堕ちるのを覚悟すべきなんである。恐らく仏典には、そのような霊界の秘密が書かれているはずなので、仏典を読みながら、その法を犯しているわけで、二重の意味で罪が重くなるだろう。また、不倫関係は、親族への裏切り行為となるのが、親子の、死者と生者の輪廻転生の関係からもわかるはずである。要するに、肉体の関係よりも、心の関係が、心のなかの友愛の信頼関係が、人間の愛の血液には、最重要事項なんである。だから、その最重要事項を守る五戒を破ると、霊能力を失い、死者がみえなくなり、人間関係を失い、地獄に堕ちて、ついには霊魂のゲヘナへと至って、悪魔に仲間入りしてしまうわけなんだろうね。悪魔の奴隷となって仲間入りしないために、来るべきアーリマンとの戦いを、シュタイナーの人智学的秘教学から紹介する。 ★ ★ ★ 三千年紀初頭(AC2000年)のアーリマンの受肉 (あるブログからの引用) 来るべきオリフィエルの時代が、「どれほど暗闇になるか」は、三干年紀初頭に受肉してくるアーリマンに対して、人智学運動が意識的に活動しながら、発展し、人類がアーリマンにより奴隷化していくのを防げるか、によって変わってくる。 「ミカエルは、黒龍アーリマンを足下で打ち砕いている」。 オリフィエルの時代に、暗黒が深刻化するとはいえ、黒龍アーリマンとの戦いは、すでに今、このミカエルの時代にはじまっている、のをはっきりと意識しておく必要がある。 アーリマンは受肉してくる(恐らくAIの形かもしれない)。アーリマンの受肉は、必然的で不可避である。大切なのは、「受肉してくるアーリマンは、何をするのか?」を見抜くことである。 「受肉してくるアーリマンが何をするのか」は、アーリマンが勝利の準備として行っていることを見ていくと、かなりわかってくる。具体的な詳細は、シュタイナーの『悪の秘儀』(イザラ書房)を参照してほしい。 ここでは、身近な具体例、現代のテクノロジーの問題をとりあげる。 NHKスペシャル「世紀を越えて」や「サイエンス・アイ・スペシャル」などをご覧になっている人は、90年代に様々なテクノロジーが凄まじい勢いで開発され、社会的に実用化されつつあることを知って、驚異と同時に脅威を感じている、のではないだろうか。 日本政府が遅れを取り戻そうと躍起になっているインフォメーション・テクノロジーやバイオ・テクノロジー、ナノ・テクノロジー、オプト・テクノロジー、ロボット工学等の開発と研究者たちによって夢みられている未来予想像には、楽観的な期待感しかわかない。 「臓器移植が更に簡単に行えるようになり、人工臓器の開発が更に進めば、悪くなった臓器を次々に新品の臓器に取り換えていけるようになる。そうすれば、人間は、長年の夢であった不老長寿を実現できる。肉体を不死にして生き続けられるようになるかもしれない」と嬉しそうに語る研究者。 「すでに外科治療は、内視鏡手術の実用化まできた。ナノ・テクノロジーの開発が進んで医療器具が作られるようになれば、細胞1つ、1つを治療対象にしていくことができる。そうすれば、癌などの治療は、飛躍的に進歩する」と期待を満面に浮かべる研究者。 「オプト・テクノロジーの研究の急速な進歩によって、太陽光発電の効率は飛躍的に高くなってきている。石油を燃やす電力供給は、もうすぐ終わるだろう」と予測を語り、これで、環境問題は解決されると胸を張る研究者。 「バーチャル・リアリティーの精度と解像度がもっと高くなれば、ヨガの修行者や臨死体験者が見たと語る死後の世界をバーチャル・リアリティで鮮やかに体験できるようになるだろう。その為には、バイオ・コンピュータが必要だと思いますけど」と語る研究者。その他、その他。 これらの中でも極めつけは、K・エリック・ドレックスラーをリーダーとして開発されているナノ・テクノロジーの1つ、「細胞マシン」である。これは、人間の細胞のなかで蛋白質が行っていることを人工的に再現して、「物体を一度原子に戻し、原子を組み立ててあらゆるモノを作り出す」機械の開発である。 「網胞マシンというのは、石ころでもゴミでも何でもいい。それらを一度原子に戻し、その原子を設計図どおりに組み立てていって、クルマでも、テレビでも、家具でも、何でもお望みどおりのモノを作りだせるナノ・マシンです。だから、細胞マシンが完成すれば、人間はこれまでの労働からまったく開放されることになります。早ければ2015年までに、遅くとも2050年までには、完成できると確信しています」と語られている(『ナノの楽園』工作舎、参照)。 このミクロを超えたナノのレベルで進行している様々な超テクノロジーの開発が目指しているのは、何なのか。簡潔に言えば、生きるための労働の苦・病の苦・老の苦・死の苦からの開放である。 (この文章が書かれたのは90年代で、2000年代にはiPS細胞技術がもたらされた。シュタイナーは約80年前に既に、遺伝子技術と、再生医療技術を、アーリマンが人類にもたらす災いとして預言している。驚くのは、再生医療技術の発明者を日本人と預言していた。実際、iPS細胞は、山中氏による。) 「生・病・老・死は苦である」とは、地上に生きて仏陀が発見した地上の真理でした。「夢幻[マーヤー]であるこの地上の世界において、唯1つ真の現実がある。それが死なのです。」(シュタイナー「霊的観点から見た宇宙の進化」)から。 だけど今、アーリマンは、人間を「生・病・老・死の苦」から開放し、地上を「生・病・老・死の苦のない楽園」にしようとしている。そして、この「楽園」が、まさに今、この地上に実現される時が近づきつつある。 けれど、その「楽園」は、抽象的な概念と感覚的イメージによって再現された人工的現実[バーチャル・リアリティー]の日常世界化であり、「霊魂が死体化された死の世界」であり、精神的、魂的には虚無の空間に過ぎない。 (永遠の生ではなく、束の間のただ一代の生にすぎない。) このような科学テクノロジーによって、「アーリマンは、人間を地上の世界に閉じ込めようとしている」のが、地上の現実になろうとしている。仮に、研究者が語っていたように「不老長寿が実現される」なら、人間は死の時を引き延ばし、そのため死後の世界で、地上で成し遂げた成長に見合った神々の叡智を受け取る機会がなくなってしまう。(死後の審判を受けないので、宇宙の進化から除外される。) 「ほとんどの病気が、ほとんど苦痛のない細胞1つ、1つの移植で治せるようになる」としたなら、過去生における罪・過ちによって不完全になった霊魂を、カルマの浄化力によって、もたらされる、苦しみ・痛みによって、完全なものに純化していく機会がなくなってしまう。 (人類は天国に帰れなくなってしまう。) 「生・病・老・死の苦がない」とは、カルマの働きが妨害され、阻止されることであり、霊魂は頽廃や腐敗を深めて不完全になっていくだけとなる。 「アーリマンは、地上を生・病・老・死の苦のない楽園にしようとしている」と聞いても、50年代~80年代にかけて様々に語られてきたサイエンス・ジャーナリストの未来予想に幻滅と失望を味わされてきた人は、信用しないかもしれないが、そのテクノロジーは、地下(霊界でいう地獄界)のアーリマンの学院で密かに教育され、地上に受肉してきた人間に密かに伝えられ、将来、受肉してくるアーリマンの勝利のための準備にすぎないのである。 アーリマンは、これらのテクノロジーの開発を踏まえながら、もっと凄いことをやろうとしている。それを知れば、「アーリマンは、地上の楽園をつくろうとしている」という言葉が、現実味を帯びてくるだろう。(人工知能AIのことで、AI人類のことである。) 地上の人間に受肉したアーリマンが、善意から人間に教えたがっているのは「ゴンディシャプールの三つの知恵」である。 ゴンディシャプール(アラビアの科学として有名)の三つの知恵の第一は、誕生と死の秘密の開示である(遺伝子技術)。第二は、精神医学(人工知能技術)、予防医学である(再生医療技術)。第三は、エーテル体の振動を機械に移して機械を動かす力にしていく律動学(人造人間=ロボット技術)である。(これらは、古代に黒魔術として知られていた。古代人は遺伝子技術を使って作物をつくったが、その名残が現代の遺伝子作物となっている。古代人の人工知能や再生医療は、ミイラづくりによる輪廻転生期間の省略化などである。現代のロボット技術は、古代人のゾンビづくりを髣髴とさせる。当時ゾンビという言葉はないが、陰陽師の式神のようなもの。古代アトランティスは、黒魔術の濫用で滅んだ。) ここで注意すべきなのは、ゴンディシャプールの三つの知恵の教授と実用化には、多くの人間がエーテルの霊視をおこなえるようになり、エーテル体の力を恣意的に操れるようになる、ということが前提になっていることである。(霊能力が開発されないと絵に描いた餅。というのも、古代アトランティス時代が滅亡した原因。だから神々は、霊能力を人類から取り上げて、優秀な者だけに与えるようにした。赤ん坊から危険なハサミをとりあげるようなものである。叡智に自分で達した者だけに与えるようにした。) アーリマンは、地上に密かに設立する学院で壮大な黒魔術を行い、自我が、それに相応しい成長や成熟を遂げていない人間に、エーテルの霊能力を与え、地上の肉体による感覚的な欲望の実現や享受のために使うように、唆そうとしている。 これについて、シュタイナーは以下のように語っている。 「正しい時期にアーリマンが西欧世界に受肉するならば、アーリマンは巨大な密教の学校を設立するだろう。この密教の学校では極めて壮大な黒魔術が行われ、それ以前では、苦労により獲得できた、あらゆるかつてあった古代の技術が、人類の上に再び注ぎこまれることになる。 ここで、『地上に降りてくるアーリマンが一種の悪魔のような姿をして、人間に可能な限りの悪を働く』等という俗物的な考え方をしてはならない。それは間違いである。「人智学について何も知りたくない」と言う不精な人たちは皆、アーリマンの魔力に負けてしまうだろう。(米国政府が悪の宇宙人グレイと技術取引をしたという都市伝説でわかる。グレイは人工生命体である可能性が高い。)というのも、アーリマンは壮大な方法で、魔術によって非常に多くの人間を霊視者にできるからである。アーリマンは個人を恐ろしいほどの霊能者にする。しかし、どのような霊能者になるかは、個人で全く異なっている。(「アーリマンが受肉すると何が起こるか」松浦賢訳『悪の秘儀』イザラ書房p201~202) アーリマンの壮大な魔力によって人間が霊視者になり、エーテル体の力を恣意的に操れるようになり、ゴンディシャプールの三つの知恵を教授され、霊能力を、地上の肉体の感覚的な欲望の実現と享受に使うように唆されたなら、「生・病・老・死の苦のない楽園」は本当に地上に実現される、と考えられる。 オリフィエルの時代の暗黒の深刻さは、人智学を学ぶのを拒否した人たちが、アーリマンに負けて、「生・病・老・死の苦のない楽園」の実現を歓迎し、気持ちよく、楽しく、享楽的に生きてしまった結果から生まれる。だからこそ、「オリフィエルは怒りの大天使となって、人間を強引に浄化する」のである。 アーリマンの受肉、そして、ゴンディシャプールの三つの知恵の教授に対して、人智学運動はいかに対決し、何を為すべきか? ゴンディシャプールの三つの知恵のうちの、第一の、誕生から死までの人生の秘密の、カルマの開示(遺伝子技術)に対しては、人間は、実際にアーリマンやルシファーたちを意識して対決できるようにならなければならない。 (遺伝子技術などによりカルマを回避せずに、キリストのように受難死を受け入れること。) 第二の医学の開示(人工知能と再生医療)に対しては、人間は、目に見えないものに対する絶対的な道徳意識を育成していかなくてはならない。 (死者との対話を復活させて、霊性の獲得を目指す。) そして、第三の律動学(ロボット技術)の開示に対しては、人間は、エゴイズムを完全に克服した社会秩序を人類の末端の極めて広い範囲にまで生じさせていかなくてはならない (他者の不幸の基に自らの幸福を追求しないことで、他者の幸福の基に、自らの幸福を追求すること。) これらは、ミカエルの時代のミカエルと人智学運動の課題と使命である (白い龍に乗ること。龍=エゴの使い手になること)。 アーリマンの受肉が人類に突きつけているのは、人智学運動を「いわゆるマイ・ペースで、自分の趣向に合った形で」やっていくのではなく、人智学運動の世界史的な使命を自覚して引き受け、受肉してくるアーリマンとの意識した対決を自分の内なる戦いとして戦い抜きながら、残された時間が少なく、限られた時間の切迫性を、目的意識をもって、強化に転化しつつ前進していかなくてはならない、ということである。 ここまできて、やっと、「ミカエルの考え」とは何か、という問いに、1つの答えを出せる。簡潔に、一言で語れば、 「ミカエルの考え」とは、「自由になった人間よ、私に従い、キリストとの深い結びつきをもって、アーリマンの領界(地獄)から脱け出る道を見つけ出せ!」ということである。その道を、ミカエルは指し示している。
2024年08月08日
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平和の祭典とされるオリンピックが連日連夜、メダルだなんだ、誤審が酷いとか、巷を賑わせているが、なんのための競技なのか改めて考えてみる令和のこの頃かもしれない。このブログでも何度も紹介したが、オリンピックは、古代ギリシアの神話を起源とし、そもそも、シュタイナーによれば、哲学者たちの叡智の祭典で、古代インドのヨーガ哲学などの披露の場でもあり、自分の能力が、どこまで神々=天使たちに到達し、それら神々や天使たちと出逢え、天国について対話できたかの、霊能力の優劣を競う平和の祭典だったという。古代オリンピック - Wikipediaだから、より現代的に解釈すれば、キリスト教の公会議や、宗教家の教義論、また、ぶっちゃけていえば、安倍晴明で有名になった陰陽師の霊能力の勝負や、もっとコミカルにいえば、アニメ一休さんの頓智合戦みたいなもの、といえるかもしれない。総じてオリンピックをわかりやすく解釈すれば、天国がどういうところなのか、を説明する機会で、それを肉体で、表現する場なのである。つまり、オリンピックの本来の目的は、天国を表現する場なのだが、実際の巷のオリンピックは、金儲けのための人気商売となっていて、勝者は少数で、敗者が多数なのに、数少ない勝者の選出を巡って、敗者が泣き叫び、審判に文句を言ったり、勝者は得意げにいい気になり、悪態をついたりして、実際は、地獄を表現しているわけなんである。このような惨状のオリンピックの、天国と地獄を表現するのによい、例えば、次のような、「長い匙」の話を、紹介したい。もし、このまま地獄のオリンピックを人類が続ければ、そのうち、人工知能AIと戦うようになり、シュタイナーが預言しているように、人工知能の総体としてのアーリマンの受肉を、この地に招来してしまう可能性が高いようにみえる。オリンピックが天国の招来ではなく、地獄の招来になっているのは、前回の東京オリンピックをみれば明らかで、だからこそ、天はコロナを招来したのかもしれない。 ☆ ☆ ☆長い匙の話|法話 - 臨済宗 大徳寺派 東光寺 (d-tokoji.com)男はまず「地獄館」の中を見学することにしました。地獄というからには、赤鬼や青鬼が亡者を痛めつけて苦しめているものだろうと、恐る恐る覗いてみますが……そんなものはいません。こざっぱりとした洋間に、テーブルがずらりと並んでいて、まわりにはお客さんが腰かけています。さらに、テーブルの上にはたくさんの美味しそうな料理が並べられています。「はて? 地獄館というわりには、まんざらでもないなあ」そう思いながら椅子に座っているお客さん達を見て、男は驚きました。テーブルの回りに座っているお客さん達は、みんな真っ青な顔をして、骨と皮ばかりの、ガリガリに痩せ細った姿をしていたのです。なんだ? どうしてこの人たちは目の前のごちそうをとって食べないのだろう?そう思い、よくよく見てみると、そのお客さん達の体は、右腕以外が椅子に縛りつけられ、自由に動けないようになっています。さらに、かろうじて自由に動かせる右手には、とても柄の長い、1メートル以上はあろうかという、長い匙(さじ)が縛りつけられているのです。お客さん達は腹が減ったと、長い匙でごちそうをすくって食べようとしますが…上手くいきません。匙が長すぎて、食べ物を口に入れられないのです。すくって口に運ぶが、こぼす。すくって口に運ぶが、こぼす。みんな頭にかぶったり、背中にかぶったりで、まったく食べることが出来ません。しかもお腹がすいてイライラ。「お前のせいで食べれない」「貴様は気が利かん、遠慮しろ」と、お互いに口喧嘩までしています。目の前にご馳走があって、それが口に入らない。骨と皮ばかりになっても喧嘩ばかりしている。「なるほど、これは地獄だ…」男は地獄の恐ろしさを痛感しました。(この地獄は、人智学の、欲界を上手く表現している。欲界は、生前の物質界での物欲の執着心を捨てるとこなのだが、物欲が捨てられずに、その原因が自分にあるのに、他人のせいにしているので、あの世が、この世とアベコベなのに気づかずに、自分が捨てられずにいるので、自分の死に気づかない)男は次に「極楽館」を見学することにしました。極楽というからには観音さまか天女さまでもいらっしゃるのだろう、と入って見回してみますが、そんなものはいません。小ざっぱりした洋間に、テーブルがあって、ごちそうがあって、お客さんが並んで座っている。お客さん達は体を縛られ、右手には長い匙が縛ってある。「地獄館」とまったく同じです。しかし、「極楽館」にいるお客さん達の様子は、「地獄館」のお客さん達とは全然違いました。こちらはみんなふくよかな姿をして、ニコニコ笑いながら幸せそうに「ありがたや、ありがたや」と歌まで歌っています。「はて、地獄館も極楽館も同じ境遇なのに、どうして客の様子がこんなにも違うのだろう?」男がようく観察してみると、その理由が分かりました。「極楽館」のお客さん達は長い匙でごちそうをすくうと、「どうぞお召し上がりください」と、向かいの人に食べさせているのです。自分の長い匙でごちそうをすくい、自分の口ではなく、向かいの人の口に持っていく。すると、いただきますと、向かいの人はおいしそうに食べる。向こうからも「どうぞ」と言ってこちらの口に運んでくれる。こちらも「頂戴します」とおいしく食べる。これなら長い匙でも、こぼさずに食べることが出来るのです。なるほど…地獄と極楽の違いはこれか。自分だけが食べることを考える連中が集まると、この世は地獄になる、まず人に食べさせることを考えれば、この世は極楽になる。地獄と極楽の違いはここなのだ。その事に気がついた瞬間、男は布団の上で目を覚ましました。 ☆ ☆ ☆この話からもわかるように、この世での食べ物は、タンパク質などの物質的な料理だが、あの世での、食べ物は、愛であり、料理そのものよりも、愛情が注がれているかどうかで、あの世では、精神が、愛からつくられるので、精神には愛が必要なのが、欲界の地獄にいる死者にはわかっていないのを上手く表現している。そして、天国の住人が、食べ物で栄養をとっているのではなく、愛情で栄養をとっているので、「ふくよかな姿をして、ニコニコ笑いながら幸せそうに『ありがたや、ありがたや』と歌まで歌っている」わけなんである。簡単にいえば、あの世では、料理そのものの価値よりも、料理に辿り着く精神的なプロセスが問題になる。つまり、勝利を奪い取るのではなく、勝利を愛として差し出されるような相応しい人間関係をつくりあげる精神を持つのが、最善の道なのがわかる。さて、では金メダルの由来は何だろうか? と考えると、オリンピアの由来から、神ゼウスの神殿の、オリーヴの木にあるのがわかる。また、以下のサイトから、太陽神アポロンを讃えるピューティア大祭にも関係するのがわかる。森の図書室 スポーツ競技勝者の証、木の冠。 |きこりんの森 (kikorin.jp)『いずれの大祭でも勝者に贈られていたのが、葉のついた枝で作った冠。ピューティア大祭ではアポロンの聖木とされた「月桂樹」の冠が、一方のオリンピュア大祭では「液体の黄金」とされるオリーブオイルを生み出す木こそ、最高の栄誉を表すとして、その枝を使った冠が贈られたそう。』ピューティア大祭 - Wikipediaゲッケイジュ - Wikipediaアポロンが太陽神で、オリーブオイルが香油を意味し、注がれた者の意味から、メシアのイエスキリストが浮かび上がるだろう。月桂樹が、切られても直ぐに再生する植物を意味し、それは死んでも直ぐに再生する不滅の霊魂をもつ、エーテル体を表わすのが、神秘学からわかる。つまり、オリンピアとは、キリストのことで、オリンピックとは、キリストを目指す大会なんである。勿論、紀元前の古代オリンピックでは、キリスト降臨は、まだ予定の出来事で、預言でしかなかったが、秘儀参入者により明かされていて、そのまま、キリスト降臨の、秘儀参入の場となっていたのがわかる。当時はまだ、この世の時間で、いつキリストが降臨するのかが明かされていないだけであった。つまり、人智学で読み解くと、古代オリンピックは、秘儀参入の、太陽霊キリスト降臨を提供する場だったのである。それは古代ギリシアの、健全な精神には、健全な肉体が宿る、という箴言を、輪廻転生を実現する場でもあった。しかし、このオリンピックの精神から、輪廻転生の思想が奪われ、ローマ帝国の、「健全な肉体には、健全な精神が宿る」の神殿を穢したルシファーの肉体表現の場になってしまい、かつての古代ギリシア哲学の「健全な精神にこそ、健全な肉体が宿る」から腐敗堕落してしまったが、裏切りのユダの転生アウグスティヌスによりローマ帝国と共に、キリスト教化されて、キリスト教徒により、ローマ帝国と共に唯物化されたオリンピックの精神も、一緒に滅ぼされるわけなんである。さて、このようなオリンピアの、キリストの太陽霊の精神を、人智学的に解釈すれば、天国という永遠に平和な至福の時間を、どう物質的な空間で説明し、表現するか?が問題となる。しかも、ややこしいのは、前回も紹介したように、この世とあの世がアベコベの関係にあり、この世での空間が、あの世では、時間に置き換わってしまうところにある。あの世の時間を、この世の空間で示すのはほぼ不可能なので、あの世とこの世を結び付けるエーテルの物質光で記述するしかないが、アインシュタインは相対論で、光の振る舞い(曲率)を物理の原理(質量と空間の等価原理)に用いて、光速度を時間に特殊化して換算し、空間を時空に一般化して数式化したが、その数式化は、ローレンツ変換と呼ばれ、ローレンツによる空間の回転の不変性から、エーテルの空間での振る舞いを、時空化し、エーテルをいわば数式化したわけなんである。アインシュタインは、エーテルが嫌いで、エーテルを否定したらしいが、ローレンツは、ローレンツ変換により、エーテルの物質化を、つまり、時間を空間に貼り付けることで、数式化し、時間を定数から、変数に変換することで、曲率を導入し、位相幾何学から、現代のファイバーバンドル理論の原型となっている。ファイバー束 - Wikipediaそして、ややこしいのは、覚醒意識では、物質界では、必ず時間が過去から未来に流れるように感じているが、あの世では、時間は並行宇宙のように同時に存在しているところにある。時間が空間のように、近い、遠いというように存在し、ただし、空間とは、アベコベのネガとポジの鏡像関係にある、のを、人智学では解き明かしている。ローレンツ変換では、時間に虚数iを掛けて、自乗して負となるようにしている。そして、人智学からわかっているが、睡眠中に、人間の自我とアストラル体は、あの世に行くのに、覚醒意識を潜在意識に変換しないといけないために、一日の時間を遡って起きる前までの経験を、道徳的に評価するために、追体験しないといけないが、この記憶の追体験は、現代の脳科学でも、記憶の整理としてわかっている。そもそも記憶の追体験は、道徳的な順序を、時間に付随するために、エーテル体が物質体をつなぐのに必要なので、記憶のためではない。だから、不道徳行為ばかりすると、例えば嘘をついたり、他人を欺いたりすると、時間感覚がアヤフヤになって、エーテル体が萎んで、脳から飛び出して、前頭葉が委縮し退化して、記憶の整理がつかずに、サル化し、痴呆症に罹ってしまうわけなんである。人智学では、この世は、あの世の影絵で、真の天国を映す、仮の世界と考えている。この世は、いわばホログラムのようなもので、ホログラムをどう映すかは、個人の自我の経験の問題に帰され、天国の精神をピュアな敬虔のまま、そのまま映せば、善人になるし、自我のエゴのまま雑念の混じったもので、混濁させて、映せば、悪人になる、というわけなんである。パラレルワールド - Wikipedia睡眠障害と記憶力低下の関係 | 阪野クリニック (banno-clinic.biz)ホログラフィー - Wikipediaだから、自我とアストラル体が、いわば自分という細胞の核と細胞膜を含む内部(上の図では、ビームスプレッターと鏡の役割)とで、エーテル体が、ホログラムを映す光の映写機で、自分という細胞を、物質的構造物の、肉体に伝える情報伝達の役割を担い、精神を、肉体につなげている糊のような、時間を空間に変換している、いわばタイムマシンに、エーテル体がなっているという模式図が思い浮かぶ。なかなかこの原理を理解するのは困難なんで、簡略していえば、霊魂の輪廻転生は、人間が、タイムマシンで、旅行している、のと同じなのである。時間順に記録された虚空記録から、ホログラムを抜き出してきて、自分に焦点をあわせた光のエーテル体で、物質界をスクリーンとして、再生しているのと同じでもある。しかし、タイムマシンとなっている、エーテル体は、太陽光と連動しているので、その進行の、進化のモラルに従わないと、未来に進めずに、過去に逆向きし、宇宙の進化から逸脱してしまい、低次元に落ち込んでしまう。これを、キリストはゲヘナの、霊魂の墓場と呼んでいる。レコードはあるが、古すぎて再生ツールが見つからない状態といえるかもしれない。つまり、再生不能の記録で、霊魂のゴミなんで、ゲヘナなんである。ゲヘナ - Wikipediaさて、思想界のオリンピックが開かれれば、日本のオリンピア代表といえば、空海さんが真っ先に思い浮かぶ。その空海さんが、生誕1250年記念ということで、先日地上波で、その特集をしていたのをみたが、お釈迦さんが末法の世を嘆いたかの如く、密教も摩訶不思議の哲学の成れの果ての墓場のゲヘナの様相を呈していたのに、オリンピアの精神腐敗を見るのと同じで、なんでも金儲けの商業主義で、呆れ果ててしまった。精神的なプロセスを軽んじているのに気づかないのだろうか?自分も霊能者ではないから、巷の日本の現世仏教なるものを、人智学徒の知識でしかないので、無知の知からも、あまり批難もできないのだが、現世の悟性魂から、論理的に考えても、空海さんが天国の精神として、いまも生きているわけだから、この生き仏を、仏教では如来というらしいが、単なる曼荼羅の公開だけで済ますのは、いかにも味気ないものではないだろうか? 曼荼羅が、あの世を現わしているもの、なのを、空海さんの、お弟子さんたちが霊能力でもって知らないわけがなかろう。曼荼羅は天国を表わすものだからである。わざわざ紹介するまでもないが、空海さんがやったことは、霊能力がないものにも、あの世をわかりやすく教え悟らせることだからである。目が見えない者の、代わりの目となるのを、真言信徒に求めたわけで、真言信徒のなかに、どれだけ、曼荼羅が理解できるか、どうも仏を彫って魂入れずのような、論語読みの論語知らずの、お経読みのお経知らずの、破戒坊主ばかりなのを危惧する令和のこの頃なんである。空海さんの権威で飯を食っていこうと考える地獄堕ちにはならぬのを願うばかりである。仏陀に出逢えば仏陀を殺せ、ですらない。生誕1250年記念特別展「空海 KŪKAI-密教のルーツとマンダラ世界」/2024年4月13日(土)~6月9日(日)/奈良国立博物館 (kukai1250.jp)地上波で紹介していた、司馬遼太郎氏の解釈では、空海さんは、物質界で、ゼロを説いた人物とされていたが、権力には癒着しない、孤高の、なかなか洞察力に鋭い司馬史観ならではのものだが、それでは、まだ物質界が仮の世界であるだけでしかなく、肝心要な、カルマの法や、輪廻転生の思想が、密教の奥義として説かれていないことになる。現世を無に帰しただけなんである。無からの創造を語っていない、死者による大自然をつくる精神の奥義が読み解かれていない。来るべき、次の転生を、今生から生み出す創造がなされない。シュタイナーは、大自然が美しいのは、生者の精神が、死者の営みによる愛の贈り物でつくられているのを、感じるからである、と述べている。死者は死んではいない、大自然のなかの、美の営みのなかに生きているのである。だから、芸術や音楽のなかの美には、死者の創造の愛が隠されて、秘められている。それを読み解くのが、密教の醍醐味なんである。しかし、現代人は、死者を墓場に埋めて、金銭の取引きに飽き暮れ、たそがれている。死者を死んだものとして、再生しないでいる。前回も紹介したように、死者は、生者の心のなかに生きているのである。密教はそれを解き明かしている。だから、密教は、誰もが、親族の霊媒師となれるのを説いている。詐欺の霊媒師やイタコに頼まなくても、夜寝入るときに、生前の親族を想い浮かべればいいだけである。ただし、あの世とこの世はアベコベで、鏡の世界なので、寝起きの夢のなかで、出逢う親族は、親族ではなく、自分の想いで、つまり、親族と、自分が入れかわって現れるので、また、親族が語るのは、語る前に、その応えが想い浮かぶという、時間の関係が、逆転する、ややこしさがある。つまり、詐欺の霊媒師やイタコが演じるのは、自分の親族への想いをそのまま形にして演じているだけである。ホンモノの霊能者なら、それらを逆転して解釈して、伝えられると思われる。これには密教などの修行が必要なので、口伝では不可能なんである。言葉は、物質界の現世でしか通用しないものなので、つまり、空間を伝える情報を、時間に換算し、また逆転しないといけない。数学的にいえば、メビウスの輪や、クラインの壺のように、位相変換しないといけないわけなんである。だから、空間表現の言語では不可能で、位相を表現するなんらかの波動的な表現に象徴化した、シンボルが必要で、真言では、マントラの幾何学を、空海さんがつくったわけなんだろう。だから、そう簡単には、曼荼羅は解き明かせないようにみえる。それはしかも象徴図なんで、胎蔵界と金剛界の二つがあるが、恐らく、太陽霊と月霊の、人智学でいう黄金伝説と、神殿伝説の2つを意味するものだろう。いずれにしろ、2つが、この世に平和をもたらすべく活動しているのを表現しているのだろう。私には、先の、長い匙の話のほうがわかりやすくてよいが。早い話、悪の原理の世界と善の原理の世界を説いている。曼荼羅の仏とは、天使のことであるだろう。人間は仏の天使となるべく、現世で、死者とつながるように努力せよ、というのが、空海さんの、真言の要約だろう。TVでもよく紹介しているが、空海さんのミイラが、今でも高野山の奥にあり、お弟子たちが愛情を注いでいるが、それは空海さんの一つの象徴にすぎず、全国各地や世界に、弘法大師としての精神は今でも生きて、人々をあまねく分け隔てなく見守っているので、真言信徒だけが特別な存在ではない。いつでも、夢のなかの、あの世で逢っているわけだが、それに気づいていないだけの話なんである。密教を学んで霊能力を開眼すれば、弘法大師の存在に気づくわけである。人智学では、あの世の天国の教えが、この世にどれぐらい反映し、平和をもたらしているか、死者が、生前に、あの世の教えに帰依し、この世の平和にどれだけ貢献したか、を思い浮かべ、感謝するのが、地上で絆をつくった死者の供養になる、のを解き明かしている。言い換えると、平和の設計図が、あの世にあり、設計図通りに、この世がつくられているかどうか、人間は、その確認作業のために、この世に生まれてくる、ともいえるかもしれない。宗教では、平和の設計図を、天国や、叡智や、知恵と呼んでいるわけなんである。だから、宗教家は、あの世から、叡智を、この世にもたらすためには、叡智を読み解けないといけないので、霊能者でないと、その任を負えない。つまり、平和の設計図をどれだけ理解し、体現し得るかを、この世で、実際に明らかにしないと、宗教家足り得ないわけなんである。しかし、この世は、平和どころか、益々地獄に近づいているようにみえるのは、私だけだろうか?アーリマンに統治され支配されたオリンピックを自由な愛の平和の祭典に、生者と死者が再びつながる、この世とあの世の精神的な祭典にするために、シュタイナーの来るべき時代への預言を、再度紹介する。 ★ ★ ★ 来るべきオリフィエルの時代 天使長(時代霊)交代のとき あるHPから転載し改訳 ミカエルの輝かしい統冶の、次には、暗く、恐るべき唯物論の時代がやってくる。その時代は、(シュタイナーの霊視によれば)約2400年頃にはじまる。今日(1920年代)においても既に、ミカエルと時を同じくして、アーリマンという太陽悪魔が暗黒の力を明らかにしはじめている。 アーリマンは、単なる金銭=金融経済の悪魔ではなく、低次全ての、暗黒=物質力の支配者なのである。アーリマンの群れは、人間の霊魂を攻撃するのではなく、人間の物質体をいわば貪り喰い、破壊する。 この暗黒の時代がやってくると、兄弟間に争いが起こり、戦争が起こる。精神力に乏しく、貧弱な人間の肉体は衰弱し、恐ろしい病気と災難の犠牲になる。そのように、憎悪の罪の徴候(シルシ)が、人間の肉体に非常にはっきりと現れてくる。 そのような暗黒の時代に、オリフィエルは、人間の霊魂=精神を震撼させ、叱咤激励し、自らの本当の、地上での使命に気づかせる為にやって来る。 ミカエルの指導下で、霊=精神的な生活に参画した人は、ミカエルに従い、ミカエルから愛の実践学ぶ。この霊=精神的な修行が、来るべき暗黒(唯物論全盛)時代での、オリフィエルによる統治下での、高次の霊たちに仕える準備となるのである。 霊=精神的な生活に、自らを捧げたい人には、愛の実践が要請される。霊=精神的生活を探求する人は、喜んで自己を愛の実践に捧げられないといけない。 しかし、暗闇=物質力が凶暴さを最も発揮する時は、同時に、霊=精神力が最も光輝く時でもある。 (老子の大道廃れて仁義あり) オリフィエルは、過去に何度もリーダーシップを発揮した。近い昔でいえば、それはキリストが、この地上に現れたローマ帝国の時代である。その時代は、最悪の堕落と頽廃が、この地上全てを支配した時代だった。その時代に、人類の精神を揺り動かし、進化させるために、恐るべき犠牲が払われた。オリフィエルは、怒りの大天使と呼ばれてきた。オリフィエルは、人類を強引に浄化させるのである。 キリストが神殿で両替商を鞭打つ話は、深い意味を持っている。人類史の、暗黒時代に、キリストは人類を救済するために現れた。オリフィエルの統治は(AC)104年後に終わり、アナエルの統治に代わった。それからはザカリエル、次にラファエルの統治が続いた。ラファエルは、ルネッサンスの時代を統治した。 16世紀から1879年までは、ガブリエルが統治した。それからミカエルがリーダーシップを引き受けた。2400年頃オリフィエルの順番が再びやってくる。 そして、まさに、「時が満ちた!」と暗闇のなかに、霊光が燦然と輝くであろう。キリストが、再び地上に現れる。しかし、その時、キリストは違った姿(エーテル体)で現れる。人類の使命は、キリストを受け入れ、キリストに仕えることなのである。 (シュタイナー講演「ミカエル・光を放つ太陽」1905年12月ミュンヘン 友正剛訳を改訳)
2024年08月06日
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飲酒をする坊主は信用できない。飲酒をすると、前世がみえなくなると、シュタイナーは述べているし、現代人のほとんどが前世がみえないから、その損失に気づいていないだけで、霊能力を重んじる仏教では飲酒は禁止なはずである。前世をそれほど知りたいとは思わないが、人智学を学んでいる立場上、できるだけ禁酒を心掛けている。これまで付き合いで散々飲んできたし、確かにその場は気持ちがいいが、年齢と共に、次の日に疲労感が残るのは確かだからである。アルコールが害にならないのは、肝臓がせっせと解毒しているお蔭であるが、肝臓にも限界がある。また、昭和の飲み会といえば、結局は酔ったもの勝ちで、シラフだと、外見や弱点を餌に、絡まれた挙句にツマラナイ話や説教を、壊れたラジカセのように繰り返し聞かされるので、付き合うだけでもかなり迷惑な話で飲んで記憶を無くした方が悪口の遺恨を残さずに済む。迷惑な酒飲みほど本人に自覚がないのが問題である。職場の飲み会ほどつまらなく迷惑なものはなかった。現場のガス抜きのためにやるのだろうが、ガスが抜けるのは上の人たちばかりで不公平だった。喧嘩沙汰になる部署もあったほどである。令和の若者は我慢せずに嫌いなことをはっきり嫌いと言えるのは素晴らしい。昭和の若者が翌日からの対人関係を考慮してある程度の付き合いとして我慢し犠牲にしてしまうのは長い目でみると結局蟠りが溜まりストレスとなってよくなかった。コロナで飲み会が禁止になるのは良い事だと思う。それに、少子化の時代にあっては、職場よりも、家族が優先される時代なんである。昭和の家庭を顧みない職場一辺倒が、現在の令和の高齢少子化を招いているからである。酒が入って仲良くなっても悪酔いの関係でしかない。酒が入れば判断力が鈍る。酒が入らないとできない会議など本来必要ないものである。No.18 仏教とお酒|大乗寺 (note.com)不飲酒戒 -なぜ酒を飲んではいけないのか ① ‖ VIVEKA. For All Buddhist Studies.人智学的な視点から、仏教の戒律をみると、お釈迦さんが悟りを開くために必要な心得であるのが、つまり霊能者になるための必要事項なのがよくわかる。飲酒は、前世をみえなくし、現世だけが、つまり、今の自分だけが全てだと、いわば競走馬にブリンカーをかけ、視野を狭める働きをするという。アルコールには、防腐の、殺菌の、いわゆる保存作用があるが、血中でのアルコールは、この保存作用のために、血液を一時的に滞らせるので、血液の新陳代謝を停滞させ、造血作用を怠惰にしてしまうために、男性には白血球への造血作用を麻痺させ、女性には赤血球への造血作用を麻痺させる。だから、男性は感染症に罹りやすくなり、女性は貧血になりやすくなる。賢く、健康な子どもを求めるのなら、禁酒すべきである。キリストがワインを勧めたのは、当時の人々が、民族霊を通じてルシファーに傾いていたためと、人智学では解き明かされている。当時の人々は、今の動物に近い集合魂の支配下にあり、個人的な自我にまだ目覚めはじめたばかりだったからである。集合魂がルシファーの影響で獣化していた。だから、当時の人々は半分霊能者だったが、高次の聖霊ではなく、ルシファーのような低次の堕天使が見れ、いわば悪魔を教師として従うしかなかった現状にあった。キリストが降臨したローマ時代は、人智学では、感覚魂から悟性魂への育成段階にあった。個人的な自我を育成し、悟性魂を発達させる時代である。人間には人種や民族の、血を超えていく、新しい自由な愛への個人的なキリストの友愛の血が必要な時代だったのである。だから、キリストは、ユダヤの王と呼ばれた。ユダヤとは、神に従う僕で、人類に新しい契約を、自由な愛を与える神の使徒である。【シュタイナー】魂の三位一体構造について~感覚魂・悟性魂・意識魂~ | Noos Eggs (cosmolifeology.com) だから、キリストは、ローマ人のような獣化した集合魂から、人々を解放するために、つまり、個人的な自我を目覚めさせるために、キリストの肉であるパンと、血であるワインを振る舞ったわけで、パンは肉体から自己をつくることで、ワインは、個人的自我をつくることで、最後の晩餐とは、人々が、人種や民族を超えて、個人的に自由に交流するのを、キリストが認め、そして、その個人的な自由から、キリストの神に従うのか、それとも、裏切りモノのユダの悪魔に従うのか、は、個人的な人生である、最後の晩餐での振る舞いによるという暗示が隠されているわけなんである。実際にローマ帝国は、キリストを裏切ったユダが転生したアウグスティヌスにより、キリスト教国化されて、キリスト教徒により滅ぼされたわけなんである。全てキリストの進化計画通りである。つまり、人類に自由を与えたルシファーから、人類を個人的に解放し、救うために、キリストは太陽からやってきたというわけなんである。だから、当時の人々にとっては、ルシファーから解放されるためには、ワインというアルコールは、毒ではなく、クスリとなったわけなんである。現代風にいえば、幽霊や怪物や妖怪などの幻想をみないための、ドーパミン過多による統合失調症を緩和させるクスリだったわけである。統合失調症について | メディカルノート (medicalnote.jp)現代でも統合失調症に対してドーパミンを抑制する抗精神病薬を投与するように、アルコールを摂取したわけなんである。しかし、パラケルススの箴言の、「全てのモノは毒であり、服用量によりクスリとなる」のように、抗精神病薬も飲み過ぎると、今度はドーパミンが不足して、パーキンソン病になってしまうのと同じで、アルコールを摂取しすぎると、宇宙の進化から切り離されて、ルシファーではなく、今度はアーリマンの餌食になってしまうわけなんである。抗精神病薬を飲み過ぎてパーキンソン病になってしまうのと同じように、現代人に認知症が多発しているのも、アルコール摂取過多の一因といえるだろう。というのも、認知症とは、大自然のなかに、神から発した霊性を認識できなくなる状態で、脳の新陳代謝が滞っているわけで、シュタイナーが預言しているように、現代は、再び、前世をみるための準備段階にあるので、飲酒やアルコールが厳禁なのはいうまでもない。若者のアルコール離れは、指導霊の指導が行き届いているようにみえる。さて、仏教には、霊能者になるために、禁酒の他にも、不殺生(殺さない)、不偸盗(盗まない)、不邪淫(不倫しない)、不妄語(嘘をつかない)の戒律がある。不殺生には、広義に、肉食も厳禁になっている。だから、肉食する霊能者はニセモノなんである。シュタイナーは、肉食すると、その肉をそのまま転用し、自我が自分で肉体をつくらなくなってしまい、本来の自分でつくり出す能力が衰えてしまうので、いわば、麻薬のように依存心が生まれてしまい、自我が怠惰になる分、その怠惰な力が余って、欲望や攻撃力、破壊力にまわる、というようなことを述べている。この原理から、本来肉食でない草食性の牛の、狂牛病を解き明かしている。現代科学では、狂牛病の病因をプリオンたんぱく質の異性型に物証しているが、なぜできたのかを解き明かしていない。生体には恒常性があり、生成力も有り余ってしまうと、今度は破壊力に回ってしまい、過ぎたるは猶及ばざるが如し、で、何事もバランスが重要で、適材適所なんである。不殺生とは、自分の領分、与えられた使命を全うし、足るを知ることなのかもしれない。宇宙全体のなかの自分の領域を知るのが、霊能力なので、殺生すると、自分の領分から逸脱するので、霊能者にとっては霊能を失うことになるのだろう。つまり、個人は、宇宙全体とバランスすることで、均衡を保ち、自分でいられるわけなんだろう。だから殺生すると、自分を無くし、自分が自分でなくなることになる。霊的な痴呆症といえるかもしれない。このように仏教の戒律には、霊能力を失わせる行為が説かれているので、厳禁となっているわけである。仏教徒は、死者と仏教を語り合うための霊能力の学徒なので、戒律を破れば、死者と語り合う霊能力を失うので、破門は免れない。だから、日本の巷に蔓延る坊主はほとんどが破戒坊主で、神や仏を信じていないから、金儲けに現を抜かすことができるのだろう。本当に日本の坊主は罪深い存在といえるだろう。地獄に堕ちてから気づいても遅いだろう。人智学では、死者は死んではいないし、ただ肉体などの眼にみえる、光の反射体をもたないだけである。だからいつでも精神によって、心の会話ができる、と説いている。よく死者は生者の心の中に生きる、といわれるが、本当にそうなのである。そして、死者とは、睡眠中に出逢っているが、睡眠中の潜在意識を、起きているときの覚醒意識では認識できないので、出逢っている認識がないだけなのである。更にヤヤコシイことに、あの世と、この世は、鏡の世界のように、正反対のアベコベの関係にあるので、覚醒意識の感覚とは真逆になるので、潜在意識を認識するのは不可能で、例えば、話し手と聞き手の関係も反対になるという。だから、死者に問いかけた瞬間に、時空が逆転し、空間が時間になって、自分が死者への問いかけを答えているアベコベの話となるという。だから死者に問いかけると、眠くなって、寝てしまい、起きると、自分がその答えを話すような感じになるという。ちなみに、先日、安倍晴明をTVでやっていたが、当時の陰陽師が霊能者だったのを現代では理解不能なので、晴明が操る式神をスパイとしていた、現代特有の唯物的発想には笑ってしまった。スパイが鬼の面を被っている、としている。昔の絵が遠近法で書かれていないのを理解できないようで、つまり、古代人が空間感覚に乏しかったのを理解できていない。空間感覚に乏しいとは逆に時間感覚に優れていたわけである。だから陰陽師は暦を司ったのである。恐らく、式神とは時間を司る霊だろう。だから古代では時間を干支で示したのである。遠近法というのは人類に数学的才能が生まれてからできる画法なのである。だから、遠近法で書かれた絵に、天使はでてこない。確かに、現代人にも絵が下手なのはいるが、そのような下手な絵をわざわざ残すだろうか? 当時最も巧いとされた絵が残っているはずである。だから現代人の感覚では捉えられない霊的な存在なのである。絵を、物質的な空間を表わすものと決めつけている発想が貧弱である。だから空海さんの曼陀羅図が読み解けないのである。人間の心のなかの図とは考えられないのである。つまり、死者は、自分の外にいるのではなく、自分のなかにいるようになるので、心の中にいる、ということになる。このような死者とのやりとりは、古代ではよくやられていたことで、お馴染みなので、それらが後の神話になり、神話から死者や神々との対話の哲学になり、そして宗教などになっているわけなんである。だから、宗教とは、死者との会話の、あの世とこの世の外交史ともいえるわけなんである。しかし、カリユガの時代になって、人類が霊能力を失っていき、坊主も生臭になってしまい、金儲けに奔走するようになって、唯物論にどんどん洗脳されてしまい、死者のことなど忘れさられ、死者のことなど無視している現状が、お釈迦さんが説いた末法の世なわけである。お経の意味を理解せずに、お経を諳んじても意味がないのは、この世でもあの世でも同じである。唯物論は、まだこの世の意味を解き明かしているだけマシだが、お経はもはやこの世でも、あの世でも意味がない。死者が生前行った道徳的行為や愛情表現を通じて会話するのが、ホンモノの宗教である。あの時は、助けてもらってありがとうという感謝の気持ちが、死者との会話になるのである。あの時の死者の行為は素晴らしいかったね、本当にありがとうございました、と常に死者に感謝できるのが、死者との心の中での会話となるのである。人智学によると、死者が読む本は、生前につながった生者の精神であるという。つまり、死者は、生者の心のなかを見ているという。だから、生者の心のなかが物欲ばかりだと、死者は貧困になるという。この世での食料は、物質的な富だが、あの世での食料は、精神的な富なのである。だから、生前、親は物質的な富を子どもに与えて保護したが、死者になると、今度は、子から、精神的な富を与えてもらわないと、物欲のままで、いつまでも欲界にいることになり、成仏できないわけなんである。だから、親孝行は、死んでからでは遅いということはなく、死んでからでもできる親孝行があり、むしろこの世とあの世を超えた自由な愛の交流といえるかもしれない。人智学は、死者と生者との交流を図る翻訳書といえるかもしれない。人智学により、この世とあの世の均衡を図るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★東欧のように、死んだ集合魂の生に執着したり、古き慣習の単なる残存である血縁関係からなる共同体に依存するのは、我々人智学徒の道ではない。人智学徒は、個人的な自我にとって、リアルな生による人間関係の絆を、幼子を抱きしめ、友愛によって育成するように努力すべきである。人智学グループの共同体は、かくあるべきである。血縁関係を探しだし、人種や民族を同じくする人々のみを呼び集め、共同体をつくり、集合魂を育成するのは、人智学のやり方ではない。((ちなみに、シュタイナーは、人智学とは真逆の発想の、シオニズムに大反対したために、シオニストに生命を狙われ、殺された。殺されたといっても、肉体を失っただけなので、真の神秘学者は、肉体を失ってからが、本番といえる。宗教家も、死んでからが本番である。キリストも死んでからキリスト教を布教したわけである。ミカドのスパイべラスコによると、シオニズムはナチスに利用されたという。元MI6のジョンコールマンの偽ユダヤ人による陰謀論の、三百人委員会で、この話は有名である。三百人委員会とは、オカルトでいう、月に基地をもつ黒色同胞団である。月に基地といっても、物質界の話ではないから、衛星の月ではなく、黄泉の月領域で、陰謀論にならざるを得ない。悪の宇宙人の地獄の話である。))人智学の目標は、兄弟姉妹になるのを決意する、アカの他人同士を呼び集めることにある。それら、何の血縁関係もない人たちの頭上に、人智学の霊的な精神を育成し、個人的な自我の発達に努め、霊我を天使のように羽ばたかせることである。そして、友愛の善良な霊性の聖霊たちが、人智学グループの頭上を羽ばたいている、のが感じられるようになるだろう。我々人智学グループの幕開けに際し、この目標は、我々自身の、個人的な自我のなかに受け入れるべき、聖霊たちの思考の賜物である。この目的によって、人智学徒は、創設に際し、このグループを聖別する。霊我とは、純粋な精神による霊的な共同体と共に芽生える生命なのである! 我々人智学徒は、頭上に、霊的な共同体を追い求める。そして我々人智学徒は、人間の内に生きるキリストを追い求める。このキリストはいかなる文書も必要とせず、まず証明される必要もない。というのも、我々は遅かれ早かれ、いずれにしろ、自身の善意を発達させて、内面でキリストを経験するからである。グループの創設に際し、次のことを、聖別式の紋章=モットーとみなしたい。「我々人類の上なる共同体の王冠に、内なるキリストを掲げよ!」もし数人、いや多くの人々が、この紋章において、キリストの名のもとに統合するなら、キリストが正しく、リアルに、その人たちの自我の内に生きているのを、実体験するだろう。この意味において、キリストを兄弟姉妹と認識できる者全てが、キリストの血を分かち合う兄弟姉妹なのである。キリストが、裏切り者ユダを弟子と認め、赦したように、キリストの名の下に集う人々を、キリストは、最後の晩餐のように、キリストの兄弟姉妹の弟子と認めるだろう。もし、この聖別の言葉を受け取り、互いに調和して、この世での仕事を遂行できたなら、人智学運動による、ホンモノの霊性が、この地を遍く進化させるだろう。このような困難な時期にも関わらず、遠方から来た友人たちが、当地にグループを創設した人々と交流している。このような地での交流は、常態化すべき良い習慣である。というのも、他のグループで働く人々のために、聖別の言葉を運び、伝承できるからである。この聖別の言葉から、人智学運動による、真の霊性に調和して共働するグループに参画する末端の人々までに絶えず思いやりをもって働くように誓い合おう。そうすれば、不可視の、霊的な共同体は、この聖別の言葉通りに、キリストの王国を築くために、成長し繁栄するだろう。この地での、天国建国の姿勢が、我々人智学の仕事と結び付き、益々広まるなら、人類の進化のために、人智学から解き明かされる霊的な課題を、人類は克服できるだろう。そのとき、我々人類は、人間の進化と人間の知識を導く叡智である、偉大な師たちの、聖白色同胞団が、我々人類と共にあると、信じられるだろう。この当地の人々が、人智学の目標のために、どれほど働くか、その度合に応じて、霊界から、我々人智学の仕事を導く偉大な師たちが、この地での労働の真っ只中に、協働している、ということを、その叡智を通して、十分よく知るようになる。このグループの協働に、このグループ内部で、友愛によって遂行される仕事を導き指示する、叡智の師たちの力と恩寵と愛を降臨させ、地に巡らせ、高次のヒエラルキーに直接師事する叡智の師たちの恩寵と力と愛を結集し、地に天国を降臨させよう!人々の中にある善の霊性が、叡智の偉大な師たちが、この人智学グループと共にあるように。人智学運動の真の霊性が、地に巡り、働き、キリストの天国を招来しますように!
2024年08月01日
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ようやく巷の雑用にも収拾がついてきた。親戚づきあいほど煩わしいものはない。葬式は何度か経験しているが、死者に死をわからせるよりも、死者が生きているうちに、死者に言っておくべき、やっておくべきだった想いのほうが、生者に多く残っているのに改めて気づかされた。亡くなってから、気が付くという不思議さである。いなくなってみて、はじめて死者の存在感がわかる。霊能者なら話は別なのかもしれない。人智学の輪廻転生論でも、家族や親戚は、同じ人間関係のグループとして、何度も転生しているのがわかっている。以前紹介したペスタロッチの輪廻転生でもわかるだろう。それだけ身近な関係なので、自分がしてきた行為を次の転生で、される身近な存在といえるわけで、いわばブーメランを投げやすく受けやすい相手といえるかもしれない。例えば、前世の人生の半ば35歳辺りで出会う親しく良い関係にあった相手が、次の転生で親になり、はじめに出逢う人間関係と、シュタイナーは述べている。この輪廻転生の法則からすれば、人生の半ばが最も自分という存在の、いわば自我の完成期であり、自分という山の頂上で出会った人が、自分を最もよく知り、より親しい人物となるわけで、だからこそ、次の転生では、その自分を改めて新しくつくる土台の人間関係となるわけなんである。だから、端的にいえば、前世で自分を良く知っていた人物が親となるわけなんである。だから、最も自分というカルマを背負ってくれた相手ともいえるかもしれない。だから、親がいなければ、自分という存在もいないわけで、それが現代物質科学では錯誤されて遺伝として捉えられているが、正確にいえば、自分の良き理解者なのである。だから、性格もある程度似て来るし、特に仕草などが前世から持ち越されるのである。現世で自分となるために、前世で親を選んでいる、といえるかもしれない。カルマを金銭で譬えるのは邪道だが、わかりやすくいえば、人生半ばで、自分という大きな金銭を与えた相手が、今度は、その金銭を返すために、親になって、自分という負債を返す、というようなものかもしれない。また以前に紹介したぺスタロッチの転生でもわかるが、前世の奴隷へのパワハラのカルマを解消するために、パワハラ上司が親ではなく、配偶者になることもある。だから、簡単にいえば、カルマの負債を返しやすい関係が、親戚といえるかもしれない。いずれにしろ、家族や親戚はカルマの負債を愛で返済する人間関係の基本といえるだろう。だから、家族は愛を育成する土台的な舞台といえるかもしれない。シンクロニシティというか、丁度、放送大学で民法から家族関係を考える授業を放送していたので、少し紹介してみる。平均寿命の変化から、家族関係を知るために、昭和22年が例として出され、比べると、当時は平均寿命が男女とも50歳代で、人生50年といわれた時代なのがわかる。令和では30年も延びて、80歳代になって、もはや人生100年時代といわれていることになる。それだけ霊魂が、覚醒意識での人生に馴れて、物質界に適合してきたともいえるかもしれない。家族政策研究(’21)|放送大学 (ouj.ac.jp)放送大学「人生100年時代の家族と法('23)」(テレビ授業科目案内) (youtube.com)家族のモデルケースを探るために、漫画アニメのサザエさんが昭和44年からの放送なので、当時の平均寿命を調べると、69歳になっている。昭和22年から、20年経って、20歳も寿命が延びているので、1年に1歳寿命が延びてきたといえる。人智学的にいえば、エーテル体が、物質体によく浸透できるようになったといえるかもしれない。エーテル体の肉体の制御が進化してきたといえる。そしてまた、自我が自由な愛へと個性的になってきた、といえるかもしれない。サザエさん (テレビアニメ) - Wikipedia第2表 平均寿命の推移 (mhlw.go.jp)キャラクター紹介【サザエさん一家】 | サザエさん - 公式ホームページ (sazaesan.jp)サザエさんの家族をモデルに考えてみると、勿論、放送大学の授業では取り上げていないが、昭和44年当時の平均寿命が約70歳なので、磯野波平は禿げているが、白髪ではないので、当時の54歳のルックス代表といえるだろう。令和でいうなら、平均寿命80歳代で、10歳寿命が延びているので、64歳辺りかもしれない。ちなみにサザエが、24歳の設定なので、あの髪形もあるが、幾分老けてみえるので、現代でいえば、10歳増しで、34歳辺りのルックスといえるかもしれない。しかし、カツオやワカメ、タラちゃんの、子どもたちは、カツオが11歳で、ワカメが9歳で、タラちゃんが3歳の設定なので、現代と比較すると、全般的に少し幼くみえるかもしれない。サザエさんのほのぼのとしたエピソードのせいかもしれないが、家族モデルでよく比較される、クレヨンしんちゃんの、ませた幼稚園児の設定と比べると、しんちゃんのほうが、裸芸を除けば、カツオよりもませてみえ、年上にみえてしまう。ちなみに、しんちゃんの父の野原ひろしは、35歳で、母のみさえは、29歳で、長男がしんちゃんで、5歳なので、24歳に初産という設定になる。クレヨンしんちゃん (アニメ) - Wikipediaクレヨンしんちゃん登場人物の年齢設定まとめ | 漫画とアニメ情報局 (manga-manga.site)クレヨンしんちゃんは、1990年の平成2年からの漫画アニメなので、サザエさんが昭和の二世帯家族のモデルケースで、しんちゃんは、平成の核家族のモデルケースなのがわかる。サザエさんは、昭和の二世帯家族にしては、平均寿命から考えると、波平―フグが、54歳-50歳で、子ども3人で、ワカメが9歳で、フグが41歳の高齢出産で産まれたケースで、すでにやや高齢少子化気味の設定なのがわかる。もうすでに昭和44年の漫画アニメから高齢少子化の未来が暗示されているのに驚かされる。漫画アニメの世界は、将来の予言でもあり、これは驚くべきことで、年齢をとらないアニメなのに、波平―フグが、二世帯家族という割と子育てに恵まれた環境にありながら、子どもが少ないのは作者の画力不足やキャラ設定の怠慢だけでないのがわかる。もしかすると、サザエさんの作者長谷川町子氏が子どもを描きたくなかったのか、同時代の漫画アニメの、巨人の星の貧困父子家庭でさえ、明子と飛雄馬の2人を産んでいる設定で、ましてや左門豊作の6人兄弟設定から考えると、サザエさんはあまりにも、そのルックスさながら、高齢少子化漫画アニメになってしまうわけなんである。スポコン漫画の設定に子沢山環境はドラマ性を生むのも確かだが、子沢山イメージの昭和なのに子どもが少ない磯野家に比べて、クレヨンしんちゃんの野原家は、ひまわりという2人目が産まれて平成の核家族としては何とか少子化は免れたといえるかもしれない。実際、少子化は平成になってなんとか踏みとどまってもいる。漫画アニメなのに、高齢少子化という設定がもしかすると、リアルな高齢少子化を招いているのかもしれないと、漫画アニメに家族モデルを求めながら浮かび上がってきた、リアル日本の家族形態なんである。おそ松くんのような、子沢山設定も漫画ではいくらでも可能なのに、なぜそのような家族モデルが、生まれなかったのか、不思議でもある。人間のリアルな世界ではないが、ウルトラ6兄弟や戦隊モノは5人以上で、サイボーグ009などロボットの世界では、多産兄弟なのに、9人兄弟や11人兄弟で1チームをつくるスポ魂アニメだってつくれたはずなのだが、それではあまりにファンタジーすぎるのか、高齢少子化を脱するには、まずは漫画アニメのなかでの家族形態から変化しないといけないのではないか、と思ったわけなんである。北斗の拳だって一子相伝といいながら、3~5人兄弟の設定だから、そもそも2人以上でないとドラマ性もないのだが、10人兄弟でもいいのに、なぜ中途半端な人数なんだろう。子育てが大変な世界を描きたかったのか? そういえば一時期、子沢山家族が地上波で持て囃されたこともあった。漫画なら100人だって可能なのに、キャラ設定が大変なのだろうか? 大変でも5人くらいは欲しいものである。おそ松さん - Wikipedia北斗の拳 - Wikipedia放送大学の番組から、話がかなり逸れてしまったが、「人生100年時代を乗り切るための標語」として、自助(自分と家族)、共助(地域社会)、公助(国や自治体)が挙げられている。これら3つの標語が高齢少子化のカギとなるだろう。キリストは、特に、自助の、天は、自ら助ける者を助ける、を強調しているが、それは、自我をどれだけ自由な愛へと進化させたか、が問われるわけで、その舞台が、家族となるのがわかる。その番組でも、「幸福な家族には法律は不要、不幸な家族には法律が必要」と紹介していたが、何が幸福かといえば、結局のところ、自分という存在が、自由な愛を行うことで、万人に認められることではないかと思われる。それはつまり、宇宙の、自由な愛への進化と連動し、絶えず変化し続けることではないか、と思われる。自分を愛で形作りながら、常に愛を自由へと解消していく、生と死の繰り返し、のように思われる。所詮、法律とは、自分と他者とに境界を設けるものにすぎない。法律は最低限度の物質的な視野にすぎない。自分という枠を当てはめる肉体であって、地上の土地なのである。自分という枠の法律の設定よりも、自分から生まれる行為の、幸福な道を探るべきである。自分の生き方が万人に認められるのが幸福の道である。それにはまず自分の生き方を真剣に考える必要がある。自分を良く知る必要がある。古代ギリシア時代での哲学は、汝自身を知れ、だった。汝の自身の生き方を通じて、宇宙の進化を知れだった。というのも、人間は、宇宙の大宇宙に対して、照応する小宇宙だからである。孔子は、「まだ生を知らない、ましてや死を知り得ようか」という名言を残しているが、それはまだ、孔子の時代には、現代のように、個人の自我がなく、動物のような集合自我の、民族のなかでの死しかなかったためである。現代人のように、エーテルが肉体のなかにあまり浸透していなかったから、個人という意識も希薄だったので、いわば自己犠牲という概念もなく、それは当たり前だった。動物の世界では、種の存続のために、弱者がその手足となって犠牲となる。動物の擬態は、エーテルの肉体からの撤収ともいえる。エーテルが撤収した部位は単なる物質と化し、腫瘍となるように、動物種の一部は、化石となる。だから、動物には、種が存続する限り、死がない。現代の特に、仏教の葬式の概念も、この集合自我を基にした、死の概念しかないのに、気づかされた。先祖の墓に入ることに、その名残りを感じた。そこに個人的な死はなく、動物種のような祖先の繁栄と寺の維持しかない。勿論、故人を偲んで親族が集会を開くのは遺族にとって、現世を生きる糧となるので、大変意味をもつ。しかし、いつまでも、親族のなかの一員という意識では、個人的な生に目覚めることはないだろう。動物と人間は進化目的が異なるからである。人間には、個人的に生きる権利の、基本的人権がある。象や馬を、人間は個体のようにみているが、勿論、群れから切り離されて、人間に家畜化された動物には、人間により個人的な自我が教化されるので、個人的な意識により死が生まれるが、群れのなかの動物は、種という大きなエーテル体のなかの一部が肉体となっているので、エーテルが撤収し、肉体が切り離されて、物質化され、それが固体の死のような自己犠牲にみえるだけである。いわば、人間の手足の爪を切るのと同じである。だから、動物には、人間のような、個人的な生もない。人間だけが、個人的に生きれるわけで、その個人も、現世の物質界で、物質体という肉体を制御しながら生きる間だけなんである。家族から与えられた愛を基盤に、愛から自己をつくり、そしてその自己から周囲を幸せにするのが、現世での個人の人生なのである。個人として生きれるのは、この人生のこの瞬間の生でしかない。これら周囲から与えられた愛からなる自己の存在は、この人生でのみ意味をもち、この人生でしか働き得ない自己なのである。だから、自分を生き切るのが、現世での自分の役割である。カルマとして与えられた自分の役割を全うして、自分に徹するのが、現世での最高の自分に与えられた幸福なのである。自分で居られるのは、この人生でしかない。この人生を終えた時に、自分はもはや自分ではなくなるからで、自分を超える新しい自分を次の転生につなげていくには、死後に、どれだけ自分を捨て去れるか、自分を諦められるか、にある。それには今一生懸命に自分に正直に自分を生きるしかない。自分とは何か旅に出る必要はなく、既に自分の人生そのものがその旅なのである。自分の人生は楽しかったなと思えるかどうか、それは死後の自分を捨てたときの、楽しみだからである。自分の生と死をみつけるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ソロヴィヨフのような人物からわかるように、東欧は、西欧や中欧とは、全く異なっている!では、人智学の目的とは何か? 人智学により育成すべきものを振り返り、比べてみる。その目的と方向性とは何か。人智学的な知識から、この世界には、意味と目的があるのを認識し、そしてまた、この世界は悪と退廃のみに満たされているのではない、と認識することこそ、我々人智学徒の望みであり、目標である。つまり、霊的な直感的知識を通じて、この世界には意味がある、のを実感するのが、人智学の目的である。このような実感により、我々人智学徒は、キリストを実体験するための準備をしている。これら全てを、勿論、贈り物として、恩寵として、受容し、生きているキリストを包括的に理解するのを望んでいる。人智学徒は、キリストの、「私はいつも、世の終わりに至るまで、貴方がたと共にいる。」という言葉の重さを実感している。キリストは、実際に休む事なく、我々人類への約束全てを遂行している。キリストは、福音書を通じてのみ語っているわけではない。キリストは、いまも、我々人類の魂の内側から、善への意志として、語りかけている。この事実こそが、キリストが「私はいつも、世の終わりに至るまでも、貴方がたと共にいる。」という言葉の意味である。実際、キリストは、いまも生き、常に人類の善の意志として見出せる。我々人類の進化は、キリストの使徒として生き、キリストを、我々の心の中に受け入れることにある。「私ではなく、私の中のキリスト!」聖パウロの言葉のなかでも、この言葉が、最も意味深い。「私ではなく、私の中のキリスト。」 この言葉から、人類は、善の意志を実体験する。人類がどこに向かうとも、常に善は、この世の意味と目的を啓示する。ファウストは、次のような言葉を、自らの哲学で翻訳し、同じ真理を表出した。崇高な霊よ、汝は、私が祈り望んだものすべてを与えてくれた。汝が火中において、汝の相貌を、私に見せてくれたのも、無駄ではなかった。汝は、私に大自然を大いなる世界として与え、それを感じ楽しむ力をも授けてくれた。汝は、ただ冷たく困惑した知を産むばかりでなく、素晴らしいことに、自然の最も深い胸に抱かれて、私を、友人の胸のうちにあるかのように、眺める。汝は、生きたものたちの序列を導いて、私の前を通らせ、風と水と静かな森の中にいる、私の兄弟たちを私に教えてくれる。森に嵐が咆吼し逆巻くとき、樅の巨木は隣の大枝を押し倒し、隣の幹たちをうちひしぎ砕き倒れるとき、うつろな雷鳴が丘に満ちる。そのとき、汝は私を安全な洞窟に導いて、私に私自身の自己を見せてくれる、そして私の胸の中で深い神秘の奇蹟が展開する。これらの言葉は、霊的な、外界と内界についての理解や、霊的な、宇宙の目的への理解や、霊的な、死の意味の理解を、暗示している。死が、ある生から、また別の生への通路にすぎない、のを実体験するのを、示唆している。いまも生きるキリストを実感したいために、我々人智学徒は、死や復活を通して、キリストを追いかける。そして、東欧の知識人が考える、民族的な、集合魂による再生を、我々人類の出発点とは見なさない。西欧や中欧の人々は、キリストに従い、キリストの霊感を、各個人に流れ込ませ、キリストを個人の自由な愛への想像力のなかに招き入れる。そして、各個人が、死に至るまで、キリストを追いかける。Ex Deo Nascimur 「神から生まれた」と唱えるだけでなく、In Christo Morimur 「キリストのなかで死ぬ」と唱え、キリストの善意に従う。この世界をくまなく調べ、この世界そのものが聖書であり、この世界を通じて、神が、自我のなかから神性を表出するのを知る。神の自我の、霊性の織り成す力を経験し、それを理解しようとする。だから、西欧の人々は、東欧の知識人の、「もし、神がこの世界に生まれるなら、神の自己同一性を確立する文書を必要とする」には賛同できない。そうではなく、むしろ、神を、自然の至るところに、そして人々の魂の中に、善意として、自由な愛として、見つけるべきなのである。だから、このポスト・アトランティス時代の第5文化期は、人智学グループのなかで発達育成すべき、友愛からなる善意を必要とする。それは、いま、我々人類の頭上で、まだ羽ばたいている、高次のヒエラルキーの天使たちにより、卵のように大切に育成されている。地上へと降臨させるために、霊的オーラを意識的に、地上で育成する必要がある。それは、来るべき、第6文化期に転生し、生きるとき、人々の魂に流れ込むものだからである。
2024年07月30日
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寝たきり介護の父親がいよいよこの世界を旅立っていく日がきたので、喪主として巷の簡素な葬式をすることになったので、その巷の煩わしい手続きのために、あの世へのパスポートの発行というか、色々な雑事のために、ブログの更新が滞りがちになるのでお許しくだされ。葬式一つをとっても、日本の文化は非常に遅れているようにみえるのは、私だけかもしれない。幸福の国ブータンでは、もはや墓など存在しないというし、だからこそ、霊能者でもない如何わしい生臭坊主に、大金を吹っ掛けられ、時代遅れの訳のわからない念仏を唱えるのに、大金を払ったりして、詐欺メールまがいの地獄堕ちの連中の罠にハマることなどは、幸福の国では、ないのかもしれない。ツァツァ お墓のない国ブータン tsatsa-a mini stupa | ヤクランド (yakland.jp)人智学からもわかるように、葬式というのは、当人の霊魂に、亡くなった事を教える、一種のカウンセルである。死の概念は、生前の生き方や、信仰した宗教に依存し、いわば洗脳されているので、例えば、祖先の供養などで、死の儀式を執り行った記憶、墓参りから連想して、今度は自分がその番になったのだな、とわからせるために、行うわけなんである。だから、生前に信仰していた宗教が、死をわからせる一種のコミュニケーションツールになるわけなんである。霊能者が執り行うのが適格だが、霊能者には限りがあるし、また当の霊魂の死の概念に対する執着心が高い場合は、死を、死と捉えないために、何をいおうが無駄な場合もあり、自らで死を悟らない限りは、成仏はできないわけなんである。いずれにしろ、当の霊魂に、あなたは死んだのだよと、自覚させるために、浮遊霊や地縛霊にならないために、必要なものといえるだろう。確かに葬式は不可欠なのだが、金銭をかければ成仏できるというものではないのは、自らで死を悟るかどうかは、当の霊魂の生前の死の概念によるからである。しかし、この国では、葬式に金銭をかけすぎているのは、それだけ生臭坊主が多い、ということがわかるかもしれない。世界一高い「葬儀費用」が完全無料で、手間もゼロ…直葬よりずっと安い「献体」という終活の奥の手 団体に登録すれば、すべてタダで面倒を見てくれる (4ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)上の記事でも、「日本の葬儀費用は世界一高い 葬儀費用の全国平均は、208万円(2020年)で、これは世界一高いと言われている。韓国は37万円、アメリカは44万円、イギリスは12万円というから、日本とはケタがちがう。葬儀のために貯金をしている人もいるだろう。」とあるが、これもまた、現世の唯物的価値観から判断している記事なので、霊魂に死を自覚させることを忘れて、論点が外れている。カネをかけて葬式をした挙句に、死を悟れずに、地獄に堕ちては元も子もないわけなんである。というよりもはじめは皆が欲界という地獄に堕ちるから、本当は、地獄から抜け出すために、本人への自覚を促すために、この世からの見送り作業といえるかもしれない。重要なのは、生前に葬式を行い、先祖を供養した経験があるかどうかにある。勿論、金額の問題ではないのはいうまでもない。死者を送った経験があれば、送った死者があの世からやってきて、見送ってくれてありがとう、と今度は自分が送られる番だったのか、と悟る機会が得られるからである。だから喪主になるほど、死を悟る機会が得られるといえるかもしれない。坊主がお経を唱えるのも、その経験が多いだけにすぎないし、外科医の術数と同じようなもんである。さて、墓についてだが、地獄の沙汰も金次第という諺があるが、この諺も現代では曲解されているが、ある坊さんが、生前金持ちだった霊魂が金銭の施しが足りなかったので、このままでは地獄に堕ちてしまうので、慌てて、遺産をみんなのためにばら蒔いたという逸話から生まれたものである。つまり、金銭は墓場までもっていけない、という意味なんである。金持ちのままだと、キリストが言ったように、金持ちは天国にはいけない、と同じ意味なんである。だから、亡くなる前に、恵まれない人々や福祉のために、寄付しなさいという意味なんである。キリストの、金銭を捨てて、私についてきなさい、と金持ちの若者に言ったことと同じなのである。だから、本来は、墓は、みんなのための集会場や、美術館や図書館、芸術や音楽の公共福祉の場となるべきなんである。霊魂は天国に還り、肉体は地球の自然に還るのが、なにより死者に死を自覚させるもの、といえるだろう。キリストは、金銭のコインをみて、カエサルのモノはカエサルに返せ、と言ったように、金銭は、この世のものなので、この世に返せといったわけで、肉体や物質的なものはすべて、あの世にはもっていけないので、それを持ち込もうとすると地獄に堕ちるので、皆の為に、集会場となる、お墓でも立てて、霊魂の裸一貫になりなさい、という意味に、神秘学から解き明かされる。海外の葬儀と埋葬方法 | アメリカ・中国・インド|樹木葬辞典 (xn--i6qp24cjfctz3bpyl.com)【葬儀の世界】環境に配慮した葬儀スタイルが魅力のノルウェー (tomuravi-sougi.jp)多種多様な生き方があるように、多種多様な死に方があるわけである。しかしそれはあくまで、この世での個人としての死にすぎない。人間は皆、霊魂として、永遠に生き続ける。
2024年07月19日
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我が物顔の独裁者は困った存在である。巷で就職していたときは、数多くのプチ独裁者に出くわしたが、現場の状況などお構いなしに机上の空論を振りかざし、自分の思い通りにいかないとヒステリーを起こすような子どものような大人を見てきて閉口したものである。こういう人物がいると、振り回されて、現場が疲労疲弊するだけで、有用な人物が辞めていってしまう。当人は辞めた奴が悪いといい、全くの反省がないからいい気なモノである。独裁者の愚かさの特徴は自分が正しいと思っている独善にあり、同じ人間なのに、他の人間を自分よりも下にみているところがある。高次の宇宙人からすれば、地球人の知性など似たり寄ったりなのに、地球人は自分たちのことを知的生命体と呼んでいる自惚れさをもっている。知性がどこからくるのか、知性そのものの存在すらもわかっていないのに、地球人は、知性の代表と勝手に判断しているわけなんである。だから、ソクラテスから言わせれば、人間は、知的生命体ではなく、無知的生命体というべきかもしれない。だから、独裁者とは、無知的生命体の代表で、高次の知性の、神を知らない愚か者ということになるだろう。神を知らないから、天国には行けずに地獄に堕ちるわけなんである。以前、教育者ペスタロッチの輪廻転生を紹介したが、それはぺスタロッチの2つ前の前世が奴隷監督人で、上司のパワハラのいいなりになって、奴隷を虐めていたので、1つ前の前世で、そのパワハラ上司の妻になって、かつての奴隷たちが上司の上役になり、カルマにより、パワハラを仕返し、虐められている上司の愚痴の聞き役になって、カルマを半分解消し、そして今度は、その半分を、ペスタロッチとなって、同じ地域の村民に転生した奴隷たちの子どもを預かり、教育し、解消したものだった。つまり、教育者ペスタロッチは、2つ前の前世の奴隷監督人のときに背負ったパワハラの罪を解消するためのものでもあったわけである。このペスタロッチという偉人の功績の裏には、カルマの解消が隠されていたわけで、この輪廻転生からも、人の上に立つ責任が重いのがわかる。上司の命令とはいえ、パワハラの罪は拭えないわけで、ペスタロッチのなかで、前世のパワハラの罪が、現世で、パワハラをしない教育に変わったわけである。ペスタロッチ~近代教育の父~ - 保育タイムズ (hoikushisupport.com)ペスタロッチとは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)このペスタロッチの奴隷監督時代のパワハラ上司はいわばプチ独裁者といえるだろう。この上司は、前世のパワハラのカルマを背負ったために、次の転生では、前世でパワハラをした奴隷が上役になり、パワハラをされる立場に陥ったわけである。多くの人にパワハラをすれば、より多くの人からパワハラを受ける、いわば、ニュートンの作用反作用の法則のように、カルマの法則を背負うことになる。独裁者は、このカルマの法則を知らないから、愚か者といえるわけなんである。簡単にいえば、上に立つ者は下に立つ者の気持ちを理解できないとダメなんである。神秘学の原則の、上にあるものは下にもある、というのは、水が低きに流れる、のと同じように、神は下々を通じて、人の良心を推し量る、という意味をもつ。仏陀やキリストがホームレスになったのも、神が下々を通じて、人間の道徳性を高め、良心を育成するためである。宇宙では上に立っているので、地球では、下から眺めないと、悪を善導し、地獄を改めないと、天国の領域が拡げられないからである。水を下(ひく)きに流さない〜治療効果を「目視」せよ〜:Cadetto.jp (nikkeibp.co.jp)現代人は愚かなんで、孟子が性善説の例えで言った、水は低きに流れ、人は易きに流れる、という格言を、人は楽な生活をやめられないと他愛もない諺に曲解しているが、そんな解釈では、現代人のほとんどが地獄に堕ちてしまうように、これは完全な誤解釈で、本当は、お釈迦さんの善因善果を言っているわけで、水が万物に水分を与え、瑞々しくさせ、生命に潤いを与え、加水分解で、酵素反応を高め、再生させるように、善導できなければ神の使徒ではなく、人間ではないという、人間の性善説、道徳性を説いたものなんである。簡単にいえば、下々を救えないものは人間をやめるべきである、という厳しい格言なんである。水がなんのために、下へ下へと流れているのか、人間も、水に肖り、下へ下へと善を施し、養うべきである、と説いたわけである。つまり、水が下へと流れるように、人間も善を施すのが、自然の、カルマの、宇宙の法則というわけなんである。楽な方向に流れるのは、いかにも安易な解釈で、恐らく、「易き」を安易と捉えた誤訳だろう。ソクラテスの無知の知もそうだが、現代人の愚かな解釈が、ソクラテスと孟子が、せっかく神から降ろした言葉を人間の低レベルな解釈で、陳腐化してしまっている。「易き」には、他に、安定した状態という意味があり、それは平和や、天国の、秩序だった公正の世界という理想郷や、楽園を指す。前半で、水という、人体に不可欠な成分が低きに流れると言っているのだから、後半で、人が、高きに浮上しないと、起承転結の文体にならないわけで、水は低きに流れるが、人は高きに浮上する、という高揚感がないわけで、それだけで、誤訳の俗世的解釈の低俗の屁理屈なのがわかる。人は楽な方向に生きる、では、背後に隠れている神の摂理、天の理が全く隠れてしまう。水を低きに流すのも、人を道徳や倫理に高めるのも、神の摂理で、天の理なのを、説くのが、孟子の性善説だから、人は道徳によって、高めあわないといけない、と孔子の道徳を継いで、孟子は述べているわけなんである。孔孟、老荘を、唯物論で解釈してしまうから、偉大な賢者の格言が、陳腐な俗物になってしまい、独裁者のような地獄行きの天狗たちを生み出してしまうわけなんである。ペスタロッチの輪廻転生でもわかるように、過去の非道徳的行為を、未来の道徳的行為へと転換していくのが、人間に与えられた人生の宿命なんである。ペスタロッチのように、水が低きに流れるように、人間は道徳的行為によって高きに浮上し、天国に行くべきである、と孟子は説いたわけなんである。教育が水のように下々に行き渡り、そして、その教育から道徳的行為が生まれて、より多くの人間が天国に行けることが、孟子が説いた性善説という学問体系なんである。現代人は、過去の学問体系を馬鹿にしすぎて、プチ独裁者になって、金持ちなどの地獄行きに憧れるから、独裁者の顔色を窺い、独裁者の暗殺などに一喜一憂するわけなんである。そこで、人生において、なんの道徳的行為を行わずに、破壊行為ばかりを行う不真面目な666の肉食獣のような、独裁者の顛末を知るために、シュタイナーの輪廻転生の本から、独裁者ネロの輪廻転生を紹介する。ペスタロッチのパワハラ上司の転生でもある程度わかるが、自分がしたパワハラは、ブーメランとして、今度は自分に返ってくるのを、人の上に立つ責任者は、是非良く知るべきである。シュタイナーははっきりと、ネロのような如何わしい人物が皇帝の座についたのは軽蔑すべき、人間の悪しき行為と述べている。もし、人間に自由が与えられていなかったら、ネロが皇帝になりえなかったかもしれない。「全世界を侮辱する心の持ち主で、人間の生命を軽視する霊魂」とシュタイナーは、ネロの霊性を読み解いている。この愚か者は、「私の死と共に、一人の芸術家が失われる」とほざいたようで、この言葉から、ネロという霊魂の、自己認識の不真面目さ、自我探求への無知さを、シュタイナーは指摘している。この霊魂は、破壊欲や破壊衝動のみを追求したらしい。人生で行った行為全ては、死後にそのまま自分に返ってくる。破壊行為や破壊衝動は、自分に返ってくるわけで、それは被害者の恨みや怨念としてそのまま返ってくるというわけなんである。ネロ - Wikipedia先のパワハラ上司のように、パワハラをした相手に今度はパワハラを仕返しされるようなものである。少し前に、ドラマの半沢直樹の、倍返しが巷で話題になったが、皇帝ネロは倍返しどころでは済まないだろう。半沢直樹のドラマは現世だけの話だが、実際は、輪廻転生を通じてカルマにより、水が下に流れるように、自然の法則のように、人生の法則として行われるわけである。だからといって、現在の不幸を前世に求めるのは間違いである。というのも、報復されることで、カルマが解消されるからで、報復を避けていたら、人の痛みがわからない、人間失格の落第者となって、悪魔になってしまうからである。悪魔は人の痛みがわからないので、互いに痛め合い続けるしかない。人の痛みがわからないから、虐めが際限なく行われ、地獄となるわけなんである。人の痛みがわかることが、人生の学びだからでもある。かといって、報復を肯定するわけではない。際限を越えて報復が行われないように、人間には死がある。半沢直樹 - Wikipediaいずれにしろ、ネロの破壊的人生が凄まじかったのか、ネロの次の転生については、シュタイナーは、2、3世紀後に転生したが、重要な人生ではなく、破壊行為に対しての、カルマの均衡がとられた、としか記していない。恐らく、先のパワハラ上司のように、あらゆる人々からパワハラを受けるような立場の人間に転生したのかもしれない。生まれてから死ぬまで不幸続きだった人の話が残っていないのは当然かもしれないし、そんな人生を語っても無意味だろう。「全世界を侮辱する心の持ち主で、人間の生命を軽んじる霊魂」が逆の立場を経験するわけで、それは全世界から侮辱され、自分の生命が軽んじられる人生を経験することになるのだろう。その転生の話は、置いておいて、シュタイナーは、次の転生を述べている。ネロは、破壊者の人生と、次の転生で、破壊の被害者の人生を経験したらしい。そして、次の転生では、今度は、命令により破壊に従う立場の人生を経験することになったという。そして、その立場というのは、オーストリア皇太子ルドルフとして転生したという。ルドルフ (オーストリア皇太子) - Wikipedia皇太子ルドルフは、皇位継承という輝かしい未來よりも、自殺を選んだのである。ネロという破壊者の人生と、その均衡をとるための転生の人生とを天秤にかけてみて、皇帝となった人生を破棄したのである。それだけ、均衡をとるための転生の人生が過酷だったのかもしれない。人の痛みを知った存在は、皇帝になるよりも自殺を選んだわけなんである。そもそもネロのような人物が皇帝になったのが間違いで、それはルドルフ皇太子の自殺により、人間の、独裁者の、愚かさが証明され、人間の無知さが、カルマにより解き明かされたともいえるかもしれない。現代の独裁者は、ネロの輪廻転生の顛末をよくよく考えるべきである。水が低きに流れるように、人は天国を求めるのだから。キリストは、金持ちが天国に行くのは困難である、と言ったのを、はっきりと理解すべきである。というのも、金持ちは既にカネの奴隷だからである。キリストは、私に従うのなら、金銭を売り払ってついてきなさいと、金持ちの若者に言ったように、富を積むのなら、現人生において、人として道徳的行為をして、天に積むべきなんである。道徳的行為を天に積むことで、未来の人類の、天国での遺産になるからである。さて、シュタイナーは、次の第6文化期に鍵となる人物を挙げている。それはソロヴィヨフである。そこで、ソロヴィヨフの輪廻転生を紹介する。シュタイナーによると、ソロヴィヨフの前世は、有名な、キリスト教がルシファーーアーリマン化する切欠となった4世紀のニカエア公会議に関わる重要な人物だったという。ウラジーミル・ソロヴィヨフ (哲学者) - Wikipedia第1ニカイア公会議 - Wikipediaニカエア公会議で、アタナシオス派が主張する人の子キリストが父である神と同一なのか、アリウス派が主張する、あくまで父に似た子なのか、議論されたなかに、ソロヴィヨフの前世となる人物が参加していたという。この人物は、この両者の主張を統合できる論拠をもっていたのだが、指導的役割ではなかったので、不首尾に終わり、エジプトに帰って隠棲し、禁欲的な生活をしながら、思考の源流となる霊的なイメージ、霊語を探求したという。思考のイメージとは、空海が説く真言であり、曼荼羅のことでもある。プラトンのイデアでもある。シュタイナーによると、ソロヴィヨフの前世こそ、キリストの真意、神意、天の理を知る人物だったという。しかし、彼は論争を好まずに、公会議で議論しなかった。シュタイナーによれば、アタナシオス派も、アリウス派も、キリストの真意には達せずに、どちらの主張も不十分で、アタナシオス派に沿うと、人間の内なる神は、宇宙の外なる神から切り離され、人間の内なる神の、霊我を語る者は異端とみなされるが、逆に、アリウス派に沿うと、人間の内なる神について語り、人間は神の受肉と考え、ついには全ての自然は、神の化身と考え、外なる神へと向上する、人間の認識への努力が無視されがちになるという。シュタイナーは、この2つの外なる神と内なる神の見方を、神の子の黄金伝説と、人の子の神殿伝説として語っているが、アタナシオス派は、神の子の黄金伝説寄りで、いわばルシファー的な偏りがあり、逆にアリウス派は、人の子の神殿伝説寄りで、いわばアーリマン的な偏りがあり、両者の統合を目指すために、キリストによる中庸の人智学を興したわけでもある。つまり、シュタイナーは、ソロヴィヨフの前世の人物を目指していたわけでもある。だから、シュタイナーは、ソロヴィヨフの前世を、外なる神と内なる神を統合する叡智をもった人物と霊視したわけなんである。これまで紹介してきた、輪廻転生での男女の役割からいえば、黄金伝説は、女性的な働きを、神殿伝説は、男性的な働きを、象徴化しているともいえるかもしれない。というのも、黄金伝説は、外なる宇宙神を、内なる人間の自我につなげる役割で、神殿伝説は、内なる人間の自我を、道徳的行為で努力で高めて、神にして、外なる宇宙神につなげる役割と考えられるからである。つまり、ソロヴィヨフのこの2つ前の前世は、外なる宇宙神と、内なる人間の自我神の霊我をつなげる人物だったわけなんである。さて、この人物はエジプトで隠棲し、禁欲的な生活を送りながら、ついには秘儀に参入し、古代叡智まで至り、思考のイメージの源流にある、宇宙神の叡智に達したらしい。そして、死後に、その叡智を外から見て検証し、次の転生では、中世に女性に生まれ、自らの前世のなかで、統合したキリスト教を尼僧として布教活動したという。女性として生まれ活動することで、古代叡智をキリスト教としていわば巫女のように柔軟に地にもたらしたが、それは地上のどのキリスト教よりも、柔軟で中庸的なので、個人的に自由なキリスト教として乗り越え克服していったという。そして、地上に全ての集団的なキリスト教がなくなるのを霊視できたという。そして、この女性だった前世が、あくまで個人的に自由なキリスト教徒として、転生し、生まれたのが、ソロヴィヨフなのだという。ソロヴィヨフの思想のなかには、第6文化期のキリスト教が隠されているわけなんである。それはいわば、人類全体の波動関数としての、人類の神人化といえるべきものかもしれない。しかし、独裁者のような愚かな輩が跋扈しているので、神人というよりも、悪魔化、堕天使化して、悪性腫瘍化しているのが、現状といえるかもしれない。自由と横暴をはき違え、人の痛みを知らない666の獣が闊歩する黙示論の世界が到来しているのが、その証である。同じ痛みを知る人間として生きるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 以前、公開講義で、偉大な哲学者ソロヴィヨフに触れた。ロシアで最重要な思想家の一人である。ソロヴィヨフは傑出した思想家だが、生粋のロシア思想家で、西欧の観点から極めて理解困難な精神の持ち主である。しかし、人智学徒は、彼の仕事を研究し、理解すべきである。そこで、ソロヴィヨフの主要な中心的理念について、霊的な観点から述べたい。 ソロヴィヨフは、個人的な自我について、集合魂による生命の原理を躊躇なく採用するには、あまりにも進歩的な哲学者である。彼は、現に、その採用について多くの困難に遭遇し、多くの点で同意しなかった。しかし、彼のなかでは、統一的な理念が支配的である。 確かに、彼は、あまり意識していなかったが、霊能者であったならわかっていたはずなのに、だから、彼の霊魂が、第6文化期に受肉し、地上での霊視を待つしかなく、そう願うしかない。西欧や中欧の人々に究めて理解困難な、次のような概念が、ソロヴィヨフの精神では主要の中心的な理念になった。 第6文化期の準備として、西欧の我々が追求すべき霊性は他にも色々あるが、彼のなかでは、死の意味、特に、生命にとって、死は何を意味するのか、その意味を把握するのに力を尽くしていた。死が、宇宙のなかの、いかなる存在の一形態の顕現なのか、また霊魂が、死に際して、別の存在形態に、どのように変化するのか、の理解に努めていた。 我々人智学徒は、霊視から、霊魂の霊的な生活、つまり死から新たな誕生までの間の生活様式を描きだし、人間の死を理解できる。死は、霊魂にとっては、衣服のような外見にすぎない。霊魂は死を通過した後も、生き続けるのを実感できるように、死の克服に努めている。このような霊的な理解を通じて、死を克服することが、現代において、切実に、重要な、人間の進化目的である。 しかし、この目的において、我々人智学徒は、ある別の観点に到達する。実際に、最も肝要な観点で、この観点から、人智学は、偉大なロシアの思想家ソロヴィヨフの保持した中心的理念から、完全に離れる。彼の理念は、次のものである。 「この世には、悪があり、愚かさがある。もし我々が、個人的な自我の感覚で、邪悪と愚劣を眺めるなら、この世が、この2つで満ちているのを否定できない。この2つが、この世の神性を否定する。」と、ソロヴィヨフは述べている。 「日常の感覚で、この世を眺めれば、一体、どこに、神の世界があり、神の存在がみつけられるのか? というのも、神が、悪を開示することは、断じてありえないからだ! しかし、我々人間の感覚から、悪が至るところに知覚され、その悪の極みが、死である。この世に、死がある限り、この世は、邪悪と愚劣の全てが開示される。死こそ、根本悪である!」 このようにソロヴィヨフは、この世界を特徴づけた。実際、彼は、次のように述べている。 「この世界を、日常の感覚で見よ。日常の精神で理解してみよ。そうすれば、この世界における、悪の存在を決して否定できない。そしてまた、死を、思考から理解しようとすれば愚かしいだけだ! 死は実存するからだ。日常の感覚を通して獲得された知識は、愚劣に満ちた、悪の世界を開示する。この世界が悪に満ちていること、そして、あらゆる場面に、死がやってくるとき、この世界が神のものだと、我々は信じられるだろうか?」 このように、ソロヴィヨフは投げかける。 「我々に、死を開示する、この世界が、神の世界であるとは、断じて信じられない。というのも、神は、悪でも愚でもないからだ。何より、根本悪の、死があるはずがない。神に、死はありえない。それゆえ、もし、神が、この世界に生まれるとしたら、もし神が、現れたら、神が、神であるのを、我々は、ただちに信じられるか? 否、信じられないはずだ! 神は、神であるという自己同一性を確立しなければならない。もし、神だと主張する存在が現れたら、その主張は通らないだろう。神は、我々人間が、神として認識できるような世俗の文書のようなものを提出し、自らの神性を証明しなければならない! そのようなものは、この世の中には存在していない。神は、この世界に存在するものを通じて、神の自己同一性を証明できない。というのも、この世界の全てが、神性に矛盾しているからである。それでは、どんな手段で神は自己同一性を証明できるのか。 それは、この世界に現れるとき、神が、死を克服したと、死が、神に対して何ら力をもちえないのを示すことしかない。キリストが自らの自己同一性を証明しなかったなら、我々は、キリストが神だとは決して信じないだろう。 しかし、キリストは、それを為した。キリストが復活した以上、根源悪の死が、キリストにはない、と示した限りにおいて、キリストは、神という自己同一性を示した。」 このようにソロヴィヨフは述べている。この自己同一性は、キリストの、歴史的な事実上の復活に基づく、潜在意識による神性の知覚である。このように、キリストは、神として、神の自己同一性を証明した。ソロヴィヨフは更に続ける。 「この世界の何物も、復活という唯一の例外を除けば、我々に神が存在する、と実感できるものはない。もしキリストが復活しなかったなら、我々の信仰は空しいものとなるだろう。そして我々が、この世界のなかの、神性について知覚できる全てもまた空しいものとなるだろう。」 ソロヴィヨフは、聖パウロの、この言葉を度々引用している。 以上が、ソロヴィヨフの根本的な見解である。もし、我々が、この世界を見れば、悪に満ち、愚劣に満ち、退廃に満ち、無意味さだけを見る。もし、キリストが復活しなかったなら、この世界は無意味そのものとなるだろう。それゆえに、キリストは復活した! この文によく注目すべきである。というのも、これは東欧の最も偉大な思想家の一人の根源的な言葉だからである。 「もしキリストが復活しなかったなら、この世界は無意味な墓場、地獄となっていただろう。この世界を救うために、キリストは復活したのだ!」 ソロヴィヨフは、次のように述べている。 「もしキリストが復活しなかったなら、この世界は無意味となっていただろう。それゆえにキリストは復活した、と私が述べるのを、非論理的に思う人がいるかもしれないが、そのような、私の発言を反証するために提示し得る、いかなる物証的な論理を、遥かに超えるのが、神性復活の論理なのである。」 このソロヴィヨフの、神の神性を証明する文書、このようなオカルトに独特な例を挙げて、これはソロヴィヨフの著作にしばしば見つけられるが、東欧における思考の不思議さの具体例として示した。いかなる手段によって、自らが神であるのを論駁の余地なく、神が啓示するのか、それを理解する努力から、オカルト的な独特の思考が体現し、叡智の金字塔となる。
2024年07月16日
コメント(3)
この国の少子化が叫ばれて30年以上経つが、国や民族の将来を憂うどころか、巷の政治家は己の利権確保に頭一杯で、全くの他人事で、悪魔に誑かされて、地獄に堕ちることばかりして、人間をやめて、666の獣に邁進している次第で、一体、政治家が少子化問題を解決せずして、他の誰が、どの職業がやると思っているのか、全くノー天気な、この国の現状である。考えている振りだけして中身空っぽである。この国の政治家はあまりに無責任すぎて馬鹿を通り越して人間をやめた方がいいと思う。自分の事しか考えられないからどんどん馬鹿になっていくわけなんだろう。そもそもヒト助けなどやったことがないボンボンばかりの人間が権力を持ったからと言って実績がないからできるわけがないのは当たり前である。政治家が何もせずに口先だけの評論家になっていたら、この国は終わりで、現に終わりに近づいているのはほぼ誰の目にも、天候の不順などから、明らかになってきている。七夕という777の神聖な行事でさえも、神殿を穢した商売人の詐欺師たちにより、獣化した悪魔の666の行事に成り下がってしまった。悪魔が来りて法螺を吹くではないが、立候補者の顔ぶれを紹介する掲示板が荒らされた無法地帯になってしまったわけで、この国の現状をそのまま示していた。まさに泣きっ面に蜂である。さて、前回は、先日の七夕選挙があまりに酷くて、七夕だったのも忘れて、思わず愚痴ってしまったが、本来の七夕は旧暦から換算すると8月10日辺りで、いまでいうお盆の季節なので、まだ一カ月余りある。七夕は織姫と彦星の話で有名だが、輪廻転生での男女の役割の違いを考えると、面白い事に気づく。織姫は、天の魂を織り込んでいく仕事の象徴で、彦星は、地の肉体を耕していく仕事の象徴と、神秘学で、考えられるからである。つまり、織姫は女性の霊能力や直観力の象徴で、彦星は男性の肉体力や合理力の象徴といえるかもしれない。伝統的七夕について教えて | 国立天文台(NAOJ)お盆 - Wikipedia2024年の七夕はいつ?7月7日だけじゃない伝統的七夕の意味やイベント情報まで紹介 | HugKum(はぐくむ) (sho.jp)だから、人智学でいえば、織姫は、睡眠中の潜在意識の活動で、彦星は、起きているときの、覚醒意識の活動を意味している、といえるかもしれない。ぶっちゃけていえば、天の活動と、地の活動で、精神の働きと、肉体の働きと分類できるわけなんである。だから、七夕とは、天と地が巡り合う、あの世とこの世がつながる、夜明けの晩といえるかもしれない。夜明けの晩といえば、かごめかごめの童謡を思い出す。かごめかごめ - Wikipedia「かごめかごめ」の意味とは Part I – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究 (historyjp.com)「君が代」「かごめかごめ」など 歌の中に隠されていた日本とユダヤの秘密|日出処の猫 (o-oi.net)かごめの唄は、都市伝説では交霊術ともいわれているが、上に紹介したヘブライ語で解読したサイトから、夜明けの晩とは、ヘブライ語のヨ(神)アケー(根絶する)バン(造る)と強引に解読されて、「神は根絶し、造る」という意味になるから、かごめの唄の前半と後半の意味の流れから、この「神は根絶し、造り給う」の夜明けの晩が、地球紀の、前半の火星紀と、後半の水星紀のちょうど中間の、転換期という意味をもつのがわかる。七夕の7月7日も、一年の中間期辺りで、その中間で、男女が出会う日というのは、両性具有の神の創造の日といえるわけである。このように、人智学の輪廻転生説から、七夕について、かごめの唄を解読すると、男女の天と地の働きが解き明かされる。かごめの唄は、大凡、次のような感じになるかもしれない。人間よ。男となって地(肉体)を支配せよ。そして、肉体のなかから、神となるべき道徳的行為をなせ。そして、神となるために、それまでの不道徳な行為を悔い改めて、女となって天に従い、天から地を救いなさい。そうすれば、永遠の生命を手に入れられるだろう。つまり、この唄は、第6文化期の霊能力再獲得の唄なのかもしれない。七夕は、東洋だけの行事にみえるかもしれないが、特に日本では、お盆と一緒になっているために、東洋の文化と思い込んでいるが、それは以前にも紹介した神秘学の進化数のラッキーセブンの777の象徴で、人間が、地球紀を卒業し、自由な愛の天使になったときの進化段階を意味している。人類の進化計画の最終形態で、救世主の数である。その前に、最悪の獣化した悪党の666の進化段階を迎えるわけで、シュタイナーは万人による万人の戦いの時代と預言している。そこで、西洋の七夕的な行事をググってみると、聖母の被昇天に辿り着く。以下のサイトによれば、聖母マリアの霊魂が天に召された日であるらしい。神秘学では、聖母マリアは、受肉しない純粋なアストラル体を意味し、六芒星の象徴でもあり、聖霊を意味する。聖母の被昇天 - Wikipedia聖母の被昇天とは? | カトリック中央協議会 (catholic.jp)聖母マリアには、人間が、地のこの世に生まれて、古き集合魂の民族魂から自由に独立し、新しき個人の自我による道徳的行為を打ち立てることで、自我を自由に浄化し、愛による救いの霊我へと努力し進んでいく輪廻転生の進化プロセスが秘められている。上の図をダビンチの最後の晩餐の絵画と比べてみる。地球紀の前半の、火星紀は、戦いの時代で、いわば火の、男性が優位な時代だった。しかし、女性の社会進出から、この国にも遅ればせながら、昭和のオヤジギャルが生まれ、平成から令和へと、リケジョ、レキジョ、ウマジョとか、男性優位が逆転し、女性の活動が目立ってきて、性に対しての差別意識の撤廃から、ジェンダーフリーも唱えられつつある。しかし、このジェンダーフリー論には、異性の違いによる社会的役割の違いがどのように生まれてきたのか、そして、それを物質的な肉体性において議論している点で、大きな錯誤に陥っているのがわかる。つまり早い話、輪廻転生での男女の役割の違いを抜きにして語るから、混乱して、地での活動の主権や権力を巡って、男女の利権の闘いになってしまうのである。ジェンダーフリー - Wikipedia男に生まれた後で女に生まれ、またその逆の、交互に生まれ変わると知るだけで、一方の性にだけに固執し、執着する意味がなくなる。輪廻転生のカルマの法則を知れば、性差だけでなく、民族や人種についても、以前紹介したように、特定の民族や人種に固執し、執着する意味がなくなる。単純にいえば、男性中心の社会に生まれて、女性を差別したら、今度は、差別された女性に生まれて、自分が男性となってやらかした差別を、身をもって体験するように、女性に生まれ変わるわけなんである。以前、これをニュートンの作用反作用の法則で紹介したが、自分がしたことがブーメランとして自分に返ってくるわけで、自業自得というわけなんである。だから、目には目を、歯には歯を、のハムラビ法典の戒めは、目を攻撃したら、目を攻撃されるし、歯を攻撃したら、歯を攻撃されるが、それは、加害者と被害者が入れ替わって、次の転生で遂行される、カルマの法則であり、だから、キリストは、他人の目になり、他人の歯になりなさいと、説いたわけである。それはつまり、自分の行いが、次の転生の自分に成り代わるからである。だから、道徳的行為をすれば、次の転生で善人に生まれ変わり、善因善果となるわけなんである。しかし、善人に成り代わるのを見込んで、道徳的行為をするのは偽善で、詐欺なので、詐欺に被害に遭う人間に生まれ変わるだろう。他人に騙されやすい、お人よしの人間というべきかもしれない。さて、地上での男女の役割の大まかな違いをわかりやすくするには、文系と理系分野の例えが面白いかもしれない。芸術や体育会系は、直感型か、理論型かで、分けるとわかりやすくなるかもしれない。だから、文系分野は、直感型が多く、理系分野は、理論型が多いと大別できるようにみえる。勿論、理系分野にも直感型がいないわけではなく、ただ少なく、少数派というだけにすぎない。自分は物理畑に進んだので、ほとんどが理論型ばかりで、それもほぼ男性の世界だった。だから理系の世界では、女性は希少価値があり、教員の最初の挨拶は、女性の数学者や物理学者の紹介が定番だった。逆に、文系の、国文学や英文学は、ほぼ女性の世界で、男性に希少価値があるので、恋人のいない男性はいないと、当時の友人に聞いたことがある。恋人探しなら、男性は文系にいき、女性は理系にいくのがよいかもしれないが、理系では、ある程度真面目にやらないと進級できないので、恋人をつくる余裕はないかもしれない。昨今は、リケジョと言われ持て囃されてもいるが、そもそも理系には女性が少ないので、少ない女性数学者の紹介で、定番なのが、コワレフスカヤである。ラジウムを発見したキュリー夫人はあまりにも有名すぎて、ニュートン力学の授業でニュートンを紹介しないのと同じかもしれない。相対論の授業でも、アインシュタインをわざわざ紹介しない。誰もが知っている人物は紹介されないが、割と知られていない人物が、特に女性の場合、紹介される傾向にあるのかもしれない。ともかく、物理畑に進んで最初に紹介された人物なので、覚えてしまったほどである。ソフィア・コワレフスカヤ - Wikipedia理系分野では、女性が少数なので、理系科目が不得意とみなされがちだが、人智学によれば、輪廻転生での役割の違いにあり、男性のほうが、目立ちがちで、自己主張が強いためである。というのも、女性は天から叡智を降ろす役割をもち、直感を得意とするので、地で、論理的に物証する機会を煩わしく感じるのかもしれない。地上での認識から、緻密な論理を構築していくのは、男性の、筋肉を構築し動かしていく経験が実を結んでいる。だから、筋肉から、物質的に、人工物をつくっていくのは、男性の得意技なのである。そこで、改めて、男性と女性の役割の違いを、輪廻転生から読み解いてみたい。前々回は、熱中症に罹ってしまい、輪廻転生での女性の働きを紹介する途中だったが、改めて代表的な人物をシュタイナーの輪廻転生の本から紹介する。コワレフスカヤの前世かもしれないが、女性数学者の代表的な人物であったヒュパティアである。ヒュパティア - Wikipediaオルペウス教 - Wikipediaシュタイナーによると、ヒュパティアの前世は、古代オルフェウス教徒で、当時の古代ギリシアの秘儀参入法により、霊的な叡智の、オルフェウスの神話に秘められた霊能力を獲得したという。巨人族に八つ裂きにされ、ゼウスにより高次の生命に導かれたデュオ二ソスの神話に秘められた古代の叡智を心魂に体験し、獲得したという。オルフェウス教徒は、秘儀参入すると、自我が八つ裂きにされ、ついには自分がみえなくなるという。現代人がもつ覚醒意識で、動物や植物、鉱物を認識するには、それらの外見から、物質的に構築した概念で、捉え、それ以上中身の精神や魂には入ってはいかない。これが唯物的な観点の限界で、境界である。現代物理学でいえば、波動を量子の場の境界や、時空間に置き換えて、いわば、量子化してモノ的に捉えているわけなんである。数学で言えば、ユークリッド幾何学から、せいぜいリーマン幾何学のミンコフスキー空間や、そのテンソル演算に置き換えているわけである。これは、自分と他人に境界を貼り巡らし、区別しているのと同じである。要するに、自分の空間と、自分以外の空間を外的に分類しているのである。数学というのは、分類に使う道具で、物理は、分類に意味づけ、重みづけする配分の割り当て表、計画表のようなものである。化学は進行過程表で、生物学は数学とはまた別の物質界での経験に基づいた分類表である。いずれにしろ、唯物科学では、物質界の境界を超えることはできない。ユークリッド幾何学 - Wikipediaリーマン幾何学 - Wikipediaミンコフスキー空間 - Wikipediaテンソル積 - Wikipedia 少々脱線してしまったが、オルフェウス教徒は、これら現代人の覚醒意識とは真逆の、現代人のこのハードウェア感覚に対して、自然界を動かす中身の、いわばソフトウェア感覚まで到達し、自然の表に現れる肉体だけでなく、中身の精神や心の中にまで到達し、一体化するための経験を獲得する修行を通して、宇宙の神々との対話を目指していたようである。自然界を形作る神々の心を読み解こうとしていたわけなんである。アリストテレスの4大元素霊とは、その神々の心のなかの残滓みたいなものだという。四元素 - Wikipediaシュタイナーによれば、ヒュパティアの前世の、古代オルフェウス教の師匠は、古代ギリシア哲学の前の、哲学史にも記されていない時代に活躍し、後のタレスやヘラクレイトスの哲学は、その余韻にすぎないという。ヒュパティアの前世は、古代オルフェウス教の秘儀参入者の弟子で、シロスのフェレキュデスだったという。そして、秘儀参入から得た古代叡智を、数学で表現するために、4世紀末に偉大な数学者テオンの娘として転生したという。タレス - Wikipediaヘラクレイトス - Wikipediaシュロスのペレキュデース - Wikipediaアレクサンドリアのテオン - Wikipediaヒュパティアは、古代オルフェウス教による古代叡智を、直感的に数学として体系化したという。ヒュパティアが教える当時の学問体系は、キリスト教が生まれる前の古代オルフェウス教の古代叡智に由来しているために、4世紀当時に支配的となっていったキリスト教の権力者から排斥され、異端とみなされるようになったという。この悪しきキリスト教の権力者が、テオフィロスとキュリロスだったという。エルサレムのキュリロス - Wikipedia教皇ベネディクト十六世の110回目の一般謁見演説 アレキサンドリアの聖チリロ | カトリック中央協議会 (catholic.jp)この悪徳司教たちは、愚かにも非キリスト教的、非教会的なモノを独断と偏見で憎み、私兵を指揮して、ヒュパティアを黒魔術師として糾弾し、民衆を扇動し、弾圧し、虐殺してしまったという。後の魔女狩りの悪しき先例といえるかもしれない。それだけ、この悪徳偏狭の、両司教にとっては、権力を揺るがす存在だったのかもしれない。というのも、ヒュパティアは、当時のアレキサンドリアの代表的人物で、シュネシオスも弟子だったからである。なぜ「女性哲学者」は非業の死をとげたか 『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』|じんぶん堂 (asahi.com)生きたまま皮膚と肉を削がれて息絶えた…最古の女性科学者が残酷な死を遂げた理由 | PRESIDENT WOMAN Online(プレジデント ウーマン オンライン) | “女性リーダーをつくる”魔女狩り - Wikipediaシュネシオス - Wikipediaシュタイナーによれば、古代オルフェウス教に秘儀参入して得られた霊的な知識を、いわば天から降ろして、地上の言語である数学に肉付け体系化するには、女性に生まれる必要があったために、女性数学者ヒュパティアとして、地に転生したわけで、いわば巫女的な役割を果たしたわけである。その巨大な叡智を、当時の悪魔的な権力者の、キリスト教支配者たちは恐れるあまりに、ヒュパティアを魔女として大衆を動員し、虐殺してしまったわけで、正にカリユガのなせる時代といえるかもしれない。ヒュパティアの人生は、まさに古代オルフェウスの秘儀参入の経験、つまり巨人族の悪魔に八つ裂きにされたデュオ二ソスの叡智の自我を、身をもって個人的に体験したものだったわけである。それは古代オルフェウス教の秘儀参入で、前もって見た、太陽から降臨し、地上で十字架に架かり、受難するキリストの太陽霊の自我の姿だったわけである。天の理の神意が、悉く人間の悪意により八つ裂きにされ、曲解され、道徳の欠片さえもなくなるほどの虐殺を、黒魔術師というレッテルを貼られ、衆目のなかで曝され、ユダヤの王として刑死したキリストの経験だったわけなんである。だからヒュパティアは、キリストが蘇り、弟子を通じてキリスト教を布教したように、甦るわけなんである。ぜウスにより、高次の生命への認識へと導かれたデュオ二ソスのように、輪廻転生から、再生されなければならない。そして、シュタイナーによると、ヒュパティアは今度は、男性として、前世とは逆の道を進み、地から天の神意に達するために、12、13世紀に、哲学と自然科学の、人間の認識の統合を担い、輪廻転生の思想を説くために、アルべルトゥスマグヌスとして生まれ変わったという。アルベルトゥス・マグヌス - Wikipedia大聖アルベルトゥス・マグヌス | ドミニコ会聖人カレンダー | 学校法人聖ドミニコ学園 (dominic.ed.jp) この古代オルフェウス教徒からヒュパティアへと、そしてアルベルトゥスマグヌスへと輪廻転生を、男女交互に転生することで、地から天へ、天から地へ、そしてまた地から天へと、叡智のフィードバックが輪廻転生を通じて、天と地と、男と女で、巡っているのがわかる。つまり、男と女は天に向かうか、地に向かうかの叡智の方向性の違いといえるかもしれない。神意の叡智の獲得のために、地球人は、地球で経験を積むために生きているわけなんだろう。地球人は、宇宙から叡智を獲得するには、地球で経験する他はないからで、地球はそのために、地球人に与えられたものだからで、地球で経験するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★子どもの成長に必要な血縁関係は、老年になっても保持されるが、歳をとるにつれて、新しい関係を受け入れていかなければならない。血縁関係が、未来の人間たちの偉大な共同体を統合することはない。血縁関係は、東から、今日の恐ろしい論争、闘争、戦争のような出来事を生み出している誤謬である。様々なスラブ民族の間で、共同体の支配を巡って戦火が広がりつつある。このような対立を生み出す運命の時代に、今耳にしたばかりの、霊的な自我が入り込んでくる。実は、この霊的な自我のなかには、正しい核心、すなわち、霊我は、友愛に満ち溢れた共同体のなかでしか開花しない、という基本的な霊的感覚がある。だからこそ、この共同体は、血縁関係の、物質的に依存した共同体であってはならない。それは、霊魂の友愛による、霊的に自由な共同体でなければならない。将来、霊魂の共同体として成長する、上空を羽ばたいている霊我は、いま我々の人智学グループを、幼児段階として見守り、発達(進化)させようとしている。東ヨーロッパを、獣のような集合魂の集合自我にかくもしっかりと捉える堕天使群、スラブの集合魂を捨てたくない、という欲望、それどころか、国家全体の発展原理と見なすようにさせている誤謬こそ、克服すべきものである。大いなる恐怖の象徴が、世界の目の前に立っている。戦争(第一次世界大戦)が開始された2国家を思い浮かべてみる。一方で、スラブ世界一般を率いたロシアは、この戦争が血縁関係からなる兄弟愛に基づいている、と宣言している。他方には、オーストリアがあり、オーストリアは、13のはっきりとした民族と13の異なる言語を統合している。オーストリアの動員令は、13の言語で発令する必要があった。なぜなら、オーストリアは13の民族を包括するからである。ドイツ人、チェコ人、ポーランド人、ルテニア人、マジャール人、スロヴァキア人、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人(また別の共通語から分離した方言もある)、ボスニア人、ダルマチア人、イタリア人である。13の異なる民族集団が、小さな差異は別にして、オーストリアにおいて結合されている。この意味を理解しようとしまいとも、オーストリアが、血縁関係に基づかない共同体の、人間たちの集合で組織されているのは明らかである。というのも、この不思議な境界線は、13の異なる系図につながる支脈を含むからである。ヨーロッパで、この最高度の統合国家は、集合魂による人生、すなわち同一の人種などの血縁関係を強力に求める国家とは正反対の位置にある。しかし、集合魂により統合された人生を目指す努力は、非常に多くの他の犠牲を強いることになるだろう。この現状は、我々を別の問題に導くが、その意味について、次に考えてみたい。(オーストリアの歴史 (austria.info))
2024年07月11日
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暑い毎日が続く巷の昨今、何とか熱中症も大谷選手だけのものになり、体調も安定化しつつある。巷は史上最低の醜悪不道徳な選挙が行われていたようだが、もし、少しでも道徳的理性があるのなら、あのような醜悪な選挙で都知事を決めるのはもはや民主主義ではなく、単なる騒々しい自己顕示欲満々の惰眠集会で、数合わせの茶番でしかないので、どことなく戦後の学生運動や極右翼の街宣活動を髣髴とさせて、選挙民には単なる迷惑でしかないので、選挙をやる前に、高校野球の宣誓ではないが、性善説に基づいて正々堂々と議論し、闘うことを誓わせ、少しでも他者に疑問が呈されたら、直ちに立候補を辞退させるような、立候補者に対しての、選挙よりも、選挙に際しての立候補者の人格についての審査や選挙準備が必要になってくるようにみえた。やればやるほどレベルが下がる選挙を考え直さないといけない。そもそも選挙とは、国民のなかでも優秀な人間性を備えた人物を推薦する制度なはずだが、実際はその逆で、もっとも醜悪な俗物の、地獄行きの連中を、票で買収する、いわば一種の賭博に成り下がってしまっている。組織票などが横行するのが、諸悪の根源なのは疑いの余地がなく、民主主義などは絵に描いた餅にすぎない。組織票などを必要としない、個人の思想の自由で選ぶのが、本来の思想の自由による選挙制度である。現代人には、民主主義という思想はあるが、ほとんどが相手を攻撃し、従来の制度を破壊するために使われ、現実の安定した生活や、平和をもたらすものではない。現代では、独裁者でさえも民主主義を叫ぶ。つまり、民主主義が実現するどころか、ますます遠のいて一部の権力者たちの独善独裁主義になってしまっている。税金に寄ってたかったハエやハイエナのような輩ばかりである。公的なポスター掲示板を売買に使うのは、公民権運動への侮辱でしかない。人種差別に対する不平等撤廃への、民主主義による人権運動の歴史を少しは勉強すべきである。大体なんで、本来は、最も優れた人物を選ぶ選挙なのに、最も愚劣で選びたくない奴ばかりが知名度だけで立候補できるのか、ただ、人の上に立って物質界での物質的恩恵に服したいだけの物欲塗れの現代人の浅はかさ、醜悪さが目立って、どんどん馬鹿になってしまっているようにみえる。とにかく、神殿を商売人で穢しているようなのが、現代の選挙制度で、金持ちは天国には行けない、と説いたキリストの言葉を再度、人間の善意に問うべき時代であるのがわかる。自分のためでなく、他人のためにどれだけ苦労した人間なのか、誰でも少しはヒトを判断する眼を養わないといけない。自分に厳しい人物なのか、物質界を経験すれば少しは判断力が磨かれ、心眼がついてくるはずで、外見に騙されてはいけない。だから、立候補の資格を肉体の年齢ではなく、精神の年齢で判断する必要が出てきたようにみえた。性善説で法律ができているから、法律が悪いとするような屁理屈バカが現代人に盛り沢山なのは、正に唯物論のなせる業と言う他はない。法律をどう精神的に解釈するかが人間の行為に求められているだけにすぎない。何度も言うが、人間は神により、高次の宇宙人により見守られ、天使に相応しいかどうか、堕天使に唆されないか、テストされているのである。人間が性悪説でいる限りは、神にはなれないというのを肝に銘じるべきである。性善説で出来ている法律が問題なのではなく、性善説に沿って行動できない人間が問題なんである。いかなる法律も性善説に基づいてつくられているのは、人間が集団として生活し自由に生きるために道徳が必須で、道徳の存在が、宇宙を統合している神の善なる存在の証だからである。勿論、人間だけではなく、人間も宇宙の一部でしかないわけで、全体の集合体のなかでの道徳に従う必要があり、だから、性悪説で、この世に生まれようとも、結局は性善説で、死んでいかなくては、地獄に堕ちてしまうわけなんである。N党のおバカさんはロシアの独裁者と同じように、地獄へと真っ逆さまに堕ちていくだけだろう。人間のつくった法は、人間の行為により破れるが、神のつくりし法は、人間の行為には破られず、その悪しき行為により、人間性を失っていくだけなんである。人間の自我性を失わせ、獣性の悪魔の奴隷へとゾンビ化し、地獄を徘徊する鬼へと堕落腐敗していくわけなんである。暑苦しい梅雨の季節に暑苦しい醜悪な地獄巡りの闘いをみせつけられて、熱中症から白け症に回復したのは良かったが、選挙を改めて考え直さないと地獄巡りの連中を増やすだけで、このような地獄行きの輩を大量量産する国に生まれるとほとんどが悪に染まってしまうので、霊魂がこの国に転生してこなくなって、少子化してしまうだろう。少子化の進行は、もはやすでに手遅れとなっていて、他者に無関心で、弱者にツケを責任転嫁し、厳しい社会となってきているのは、裏金議員やら単なる数合わせの中身空っぽの税金着服議員からなる独裁政権をみればわかるはずである。法律を自分の都合で解釈し、権力で合法化するものは、歪んだ解釈のために、嘘をつき、天から益々離れ、地獄へと下降し堕ちていくだろう。法律を性善説に基づいて解釈するのが、人間に与えられた使命なんで、それがカルマの法則であり、輪廻転生なんである。性善説に基づかなかった行為は、現世でも、罰として法で裁かれるが、いずれ訪れる死によって、性悪説による行為全てが、死後に、自己の内にある自我の神の、審判により裁かれ、地獄行きの地獄巡りの反省により、今度は、自分が苦しめた他人の人生を送るために、カルマの法則で、転生し、生まれ変わってくるわけなんである。暑苦しいなかの、胸糞悪い選挙のせいで、脱水症に罹り、冒頭から愚痴ってしまって申し訳ないが、物質界での運動についての、温度差の調節でもある、いわば民主主義の選挙に、熱を冷やす冷静な水分や塩分の、性善説が求められるように、人体の肉体の温度調節が、現代科学でも、キリストの神殿に近い、脳の視床下部で行われているのがわかってきているが、約37兆個もある細胞を温度調節し、それ以上の約1千兆個の細菌を腸内で地球のように住まわせているのが、人体で、このキリストの神殿の太陽光なんである。臓器はどうやってつくられる? | 理化学研究所 (riken.jp)腸内細菌叢(腸内フローラ)とは | 健康長寿ネット (tyojyu.or.jp)現代人は、人体を外的に、物質的に解釈し、宇宙を物質的に捉えているが、スウェデンボルグが説いているように、物質宇宙の他にも、思想の宇宙があり、それは霊的宇宙と呼ばれている。先の選挙のように、物質界での民主主義は、単なる幽霊のように、現実化されていない霊の思想の存在となっている。民主主義を物質界で現実化させるのは、人間の努力しかなく、それを実現させるのは、人間の道徳的行為しかないのである。ボルグは、道徳的行為は、天の理の神意から生じ、それを宇宙の霊的な太陽と呼んでいる。霊的な太陽は光であり、熱なのである。熱力学の第一法則、第2法則を発見したクラウジウスは、宇宙のエネルギーは一定で、そのエントロピーは最大に向かうと説いているが、それはボルグの霊的な太陽光を定式化したにすぎない。いわば善の道徳的行為を、叡智で表現したのが光で、物質界に転換し表現したのが、火であり、熱なのである。シュタイナーは、この火や、熱を、土星の熱として、座天使の犠牲の火で表現している。この道徳の火とは、生命の光ともいえるだろう。太陽から、この叡智の光が、地球の地上に射し込んで、道徳の火や熱として、地上で性善説として、道徳的行為を現実化させたとき、その行為は、天に召喚されて、次世代の道徳の火となる。道徳的行為がいつ天に召喚されるのかと疑問をもつかもしれない。それは実は人間が寝ているときなのである。人間が現世で行った道徳的行為のみが睡眠中に善天使に受け取られて天に召喚され、悪しき行為のみがカルマとして残され、次へと持ち越される。だから、キリストは、富を積むのなら、天に積みなさいと、地上の金銭的利害行為を戒めて、道徳的行為を推奨したのである。道徳の火だけが、次の宇宙の光となるから、クラウジウスは、宇宙の光は一定で、つまり秩序だって拡大する、と述べたのである。つまり、宇宙の光を受け入れるには、永遠に生きるには、宇宙の光から道徳の火をつくらないといけないわけで、常に道徳を学んでいく必要がある。道徳の火を消してはならないから、真言宗や天台宗などで、仏教の火として、永遠に消してはならないと説いているわけでもある。火は一種の譬えであって、本来は、人間の道徳的行為を絶やすなという意味である。さて、人体でも、宇宙の光を受け入れるには条件が必要で、人体の脳の視床下部が体温を調節するのは、現代科学でもわかっていて、触媒が酵素活性を高めるのに最適な環境を提供しているわけで、それが深部体温で約37度といわれている。シュタイナーは、土星紀の人類は、今の地球紀でいえば、蜜蜂のような存在で、蜜蜂は、土星紀の人間の現在の姿に近いと述べている。勿論、土星紀の人間は、現在の蜜蜂のような物質的な個々の肉体をもたなかったので、熱だけからなる肉体の集合魂をもっていたので、現在の人間の体温分布に近い存在だったので、人間の体温が、蜜蜂の巣の温度に近いのは、土星紀人間の名残りと述べている。蜜蜂の巣の温度は、大体34℃前後らしい。だから、蜜蜂が巣内を34℃で調節するのと、人体が、深部を37度で調節するのは、太陽光を受け取り道徳の火に変換するのに適した温度というわけなんである。深部体温と熱中症 | 熱中症ゼロへ - 日本気象協会推進 (netsuzero.jp)ルドルフ・クラウジウス - Wikipediaハウスで利用する場合の留意事項 « ポリネーション用ミツバチの管理マニュアル « 一般社団法人 日本養蜂協会 (beekeeping.or.jp)人体の恒常性を保つには、体温の他に、塩分とPHが必要で、それぞれ物質科学から、0.9%と、7.4の弱アルカリ性とわかっている。熱中症や食中毒などで点滴注射されるのは、この人体の恒常性を保ち、人体内にキリストの光を集め、道徳の火を灯すためである。人間は神ではないが、神の子なので、以前紹介したように、万物を見通す目のある脳室のなかの、神殿を清潔にして、神殿の火を消さないためなのがわかるだろう。またPH7.4を保つのは、人体内の酸素と二酸化炭素の比率を保つためで、二酸化炭素を排出し、酸素を吸収する呼吸の調整のためである。呼吸が細胞にまで行き届いているかの目安を、現代医学では、血液中の主に動脈内のガス濃度で測定し、血液ガス分析と呼んでいる。コロナ感染が流行った時に、血中酸素分圧を、サーチュレーションで、ヘモグロビンの鉄の酸素結合の赤色具合から、測るのが推奨されたが、いずれにしろ、人体内の呼吸具合を、血中のPHから調べるために行う検査である。福島県厚生農業協同組合連合会 (ja-fkosei.or.jp)おいしいと感じる塩加減とは? | おいしい塩のお取り寄せなら (ishigakinoshio.com)酸塩基平衡の概要 - 12. ホルモンと代謝の病気 - MSDマニュアル家庭版 (msdmanuals.com)【血液ガス】血液ガス分析とは?基準値や読み方について | ナース専科 (nurse-senka.jp)サチュレーション(SpO2)とは? 基準値・意味は?低下の原因と対応 | ナース専科 (nurse-senka.jp)人体は、血中のPH状態から、酸素と二酸化炭素の比率を割り出して、呼吸を調節しているので、例えば、血液ガス分析なしに、呼吸困難だからといって、酸素ガスを吸収させると、二酸化炭素ナルコーシスに陥ることがあるという。これは、血中に二酸化炭素が溜まりやすい慢性閉塞性肺炎などの患者に、酸素ガス吸入で、酸素濃度が上がると、酸素が足りていると呼吸中枢が錯覚してしまい、呼吸を抑制し、終いにはやめてしまい、二酸化炭素が溜まり過ぎて、意識障害に陥ってしまうので、二酸化炭素を体外に出すために、非侵襲的陽圧換気(NPPV)や挿管下での人工呼吸管理が必要になってくるという。酸素療法で注意すべきCO2ナルコーシス|オープンフェースマスクと酸素療法の情報サイト|アトムメディカル ヒューケア (atomed.co.jp)非侵襲的陽圧換気 - 21. 救命医療 - MSDマニュアル プロフェッショナル版 (msdmanuals.com)いずれにしろ、人体内の恒常性が、深部体温37℃、塩分0.9%、PH7.4弱アルカリ性という基本条件からなっているのを理解し、急激な変化に、人体を曝さないのが、基本といえるかもしれない。物欲による自我のエゴから、刺激を求めるあまり、人体の恒常性を歪める、非道徳的行為は慎むべきなんである。これは人体内の霊我を選ぶ選挙ともいえるかもしれない。天に見守られているのを自覚し、性善説をもって行動すべきなのである。孔子の、「七十にして己の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」といえる。経済は矩を踰えず | 連載コラム | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス今回の選挙を見る限り、呼吸困難の、選挙のナルコーシスに罹っているようにみえる。現代の政治家はいわば場当たり的な意識障害に陥っているといえるわけなんである。二酸化炭素を排出するのを忘れ、地での仕事ばかりに邁進し、酸素を吸入する天の仕事を疎かにしているようにみえる。だからそのうちに、酸素を金銭で買うような、物質的な酸素吸入により、自然の呼吸抑制や呼吸停止を生じてしまうわけで、いまは、金銭による慢性閉塞性肺呼吸疾患の状態にあるといえるかもしれない。どの候補者も、社会に対して何を施すかよりも、とにかく自分が目立てばいいという、低俗で俗物な歪んだ品性しかみえない。だから、もっと自然の呼吸を、太陽光を充分に取り入れる、ヨーガによる輪廻転生の思考法が必要になる。新しきヨーガの霊能力再獲得法のために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 第6文化期に、霊我は降下するが、それは友愛の意識に目覚めた共同体の人々にしか降下しない。霊我は友愛の意識を欠く共同体には広がりようがないと、スラブの民族魂は予感している。このため、ロシアの知識層は、西欧や中欧に、次のような非難を浴びせる。 「西欧や中欧の人々は、友愛に満ちた共同体の生活に全く無関心でいる。貴方たちは、個人主義のみを追求する。自立した人間に、個人になりたい、と願うだけなのだ。ただ個性を通じて、自我を感じ、個人を実感したいがために、それを極端へと推し進め、周囲から孤立させている。」 このような発言が、東から、西欧や中欧へと、独立主義などへの多くの非難のなかに反響している。西欧と中欧の現況を、東から実感する人々は、人間のつながりへの全ての感情を失ってしまったと告発している。そして、現実と未来を混同し、更に次のように続ける。 「友愛からなる共同体が存在するのは、ロシアをおいて他にない。この共同体のなかでは、誰もが兄弟で、ときには「父」であり、ときには「母」となる生活は、ロシアでしかありえない。」 西欧のキリスト教は、友愛からなる共同体を展開するのに失敗したが、ロシア人は、真の友愛からなる共同体を知っていると、ロシアの知識層は断言する。 アレクサンドロ・ヘルゼンは、19世紀に生きた、ロシアの知識階級に属する優れた思想家だったが、「西欧に幸福はありえない。」と断言し、究極の結論をもたらした。いかなる目論見がなされようとも、西欧文明には幸福は決してやって来ない。西欧文明では、人間は決して満足を見出せない。そこでは混沌のみが支配する。 唯一の救いは、スラブの民族性にある。まだ個人を切り離していない、古の共同体の生活にある。ロシアの村々の共同体には、堅固とした頼りになる集合魂の性質がまだ残っている。人智学徒が集合魂と呼ぶ自我の状態から、人類は徐々に個人を発達させ、抜け出したが、動物はまだ、その状態のままにいる。 ロシアの知識層には、このような集合魂は、ロシア人=スラブ民族間の、偉大で意味深い存在として尊ばれている。しかし、未来の、真の共同体は、これから実現すべき高い理想として、現在はまだ上空を羽ばたいている、という霊的な思考には上昇できない。だから、ロシアの知識層は、次のような古い考えに固執する。 「我々は、民族の集合魂で生活する、ヨーロッパの最後の民である。他の民は、集合魂を超えて出ていった。しかし、我々は共同体のために保持してきたし、これからも保持すべきである。」 しかしながら、実は、この集合魂による生活は、未来には存在すべきものではなく、消滅すべきものなのである。というのも、このような共同体での生活は、人類の進化にとっては、古い集合魂だからである。もし、この集合魂の状態が続くならば、ルシファー的な集合魂として、堕落腐敗し、地獄へと堕ちていくだろう。昔の進化段階に留まったまま、霊的には死んだ生の形態を続けるだろう。 だから、この古き、ニセモノの集合魂に対してホンモノの、我々人智学徒が追求すべき、新しき集合魂の生の形態は、人智学による霊能力の再獲得から見出す必要がある。しかしながら、確かに、古い集合魂とはいえ、ロシアの知識人の願望と憧憬は、来るべき第6文化期に、霊我の降下をもたらすためには、新しき共同体を創造する霊性がどれほど必要なのかを、示している。 いまは間違った道に進んだ形で、霊我の降下が求められているが、本来は、人智学において、真実の道に進む形で、霊能力の再獲得から追求すべきである。だから、東欧に対して、我々人智学徒は次のように提案したい。 「東欧の人々が、外的な、物質的な生活形態において、すなわち、古いルシファー-アーリマン的な共同体の形態で、保存しようとしているのを完全に克服するのが、我々人類進化の課題である」。 ルシファー-アーリマン的な性格の共同体には、ロシア正教教会が確立したような硬直した信仰の強制がある。そのような共同体は思考の本当の自由を理解しない。ましてや、完全に自由な個人的な自我が、友愛に溢れる社会生活に結び付くというレベルには上昇できない。古き悪しき滅びゆく共同体は、血縁の兄弟愛に、純粋に血を通じた友愛にとどまるもののみを保存したいと願っている。 血ではなく、霊的に、個人的に自由な魂に基づく共同体は、人智学の道において追求すべきものである。我々人智学徒は、血縁関係が、もはや何の力ももたない共同体を創造する必要がある。 当然だが、ある範囲内で、血縁の要素も存続するだろう。それは家族関係のなかで生き続けるだろう。というのも、家族という共同体は、未来でも、カルマの役割として必要で、消し去られることはないからである。しかし、新しいカルマを基にした家族関係が生まれなければならない!
2024年07月09日
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昨日の起床後に腹痛がするので、また持病の尿路結石かと思いきや、冷たい水分を補給して安静状態でいたら、回復したので、どうも熱中症であったらしい。電気代も高騰している生活のなか、クーラーも故障中なんで、付け替えるのも面倒なんで、なんとか過ごしてきたが、まさか自分が熱中症になるとは思わなかった。年老いると肉体の体温調節が脆くなってしまうのだろうな。一人暮らしのお年寄りが熱中症でぽっくり逝ってしまうのもわからなくもないな。自分もそんな年齢になりつつあるのかと悲喜こもごもだが、ドジャースの大谷には熱中症だがね、とお年寄りのオヤジギャグをかっとばしながら、この暑い日本のさなか、皆さんもお気をつけください。常に近くに冷たいお飲み物(腸からの吸収を考え、血漿の浸透圧に近い生食に近い飲み物が良いらしい、以下の経口補水液の作り方を参照に)を用意して、涼しい恰好で睡眠くだされ。というわけで今回は短めになるのをご容赦くださいな。熱中症について | メディカルノート (medicalnote.jp)塩分と脱水 ~経口補水液の作り方~ | 済生会 (saiseikai.or.jp)経口補水液とスポーツドリンクの違い | サンファーマシーグループ (sunpharmacy.co.jp)さて、病気といえば、先日、手塚治虫氏のブラックジャックの実写化ドラマを久しぶりにTVでみた。ブラックジャックは小学生のときによく読んだ漫画で、ドラえもんと双璧だった。漫画のアニメ化はごく自然の流れでどちらが先か卵と鶏のようにわからなくなっていくように瓜二つの双子のような作品になるが、実写ドラマ化というと、漫画のなかの世界が、物質界とは相反している場面が多いので、違いが目立ってしまう。だから、漫画の読み方や解釈の仕方によって、多様な観点が生まれてしまい、実写化という割と物質界に近いつくりをしてしまうと、全く違う作品になってしまう可能性が高い。だから、実写化を想定して書かれた漫画でないと、整合性がとれなくなってしまうわけなんである。ましてや、ブラックジャックのような作品は、読者の解釈、思い込みが入り込みやすい作風なので、十人いれば、十人十色のブラックジャックが生まれてしまい、主人公ブラックジャックでさえも、読み方によって、統一感のない人物になってしまう。今回の実写化ドラマは現代風のつくりで個人的には面白かった。世間的にも、高視聴率だったようだが、SNSでは案の定不評だったようである。最たる不評の理由が、ドクターキリコに女優を起用した点であったようだ。恐らく昨今のジェンダーフリーの流れで、キリコを女性の姿に脚色したのだろう。つまり原作漫画信者からは、キリコのイメージにそぐわないというわけである。自分は女性の姿でも、特に違和感がなかった。というのも、ドラマの内容からいって、キリコが安楽死を受け寄った女性患者が獅子面病で、顔が醜いまま生きる辛さは、男性よりも女性の方が敏感に感じると思うからである。テレビ朝日ドラマプレミアム『ブラック・ジャック』|テレビ朝日 (tv-asahi.co.jp)容姿が不細工で生まれる辛さは、男性よりも、美を大切にする女性のほうが深刻に思えるからで、カリユガ時代が影響大の現代のルッキズムからいっても、度々紹介している徳川家康の遺訓の、人生は~の重荷になるのは容易に感じられる。だからこそ、現代では美容整形が流行になっているわけでもある。精神的な中身を大切にして生きるという人はほとんど天然記念物のようになってしまっている。相手を騙してでも、外見に拘るのが現代人の特徴といえるかもしれない。それは四六時中来訪する悪霊のような詐欺メールからもわかり、人を欺き騙すことがモラルハザードであり、地獄に堕ちることなどに全く無関心なのに、呆れてしまうばかりである。政治家が国民を騙して税金を着服している現代だから、地獄の世界である。シュタイナーはカリユガの影響が大の現代の特徴を、万人による万人の闘争時代と預言している。硬直した旧来の悪魔支配の組織を脱出し、解体するには、個人主義の育成が急務で、だから、組織内であっても、派閥などの個人主義の闘いが生じるのである。悪党は分割するしか救う余地がないからである。悪は分断して退治するしかない。巷の俗物の自民党のような悪党集団になってしまったら、もはや悪魔の思う壺で、地獄に堕ちていく大量採用の大勢力となってしまう。だからこそ、スウェデンボルグが霊界で体験した最後の審判が必要となるわけなんである。まだ悪に染まり切っていない個人を少しでも解放し、助けるしかない。さて、ブラックジャックだが、多くの人の読者解釈があるように、私にもあり、恐らく、手塚氏は、医者を描きたかったのではなく、生命倫理観を描きたかったものと解釈している。実際漫画なんで、医学や医者を描くのは非常に困難で、ましてや無免許医をわざわざ書く意味がないわけでもある。勿論、ドクターコトー診療所のような、ある程度ドラマを想定した小説風の漫画もあるが、私は見たことがないが、医学や医者というよりも、人間性や、日本の村民の暮らしの人間ドラマを描いているのではないかと思うので、手塚氏の漫画の描き方とは違う。こちらはブラックジャックというよりも、黒澤明監督作品「赤ひげ」のアプローチに近いのではないかと思う。ブラック・ジャック - Wikipediaブラック・ジャック (テレビアニメ) - WikipediaDr.コトー診療所 (テレビドラマ) - Wikipedia虫プロダクション - Wikipediaブラックジャックは医者というよりも、当初の目的が、復讐であったように、手塚氏の当時の状況を反映した漫画で、つまり鉄腕アトムで、粉骨砕身した結果、虫プロは倒産の憂き目に遭い、漫画の神様でも、この時はどん底の状況にあったわけで、この漫画によって、手塚氏は、従来のヒューマニズムを、あえて捨てた賭けに出たといえるからである。それは、前回まで紹介してきた、前世で宗教王だった人が、現世では科学王になる輪廻転生と同じように、漫画界の、特に出版業界に、復讐しようと思い立ったのかもしれない。手塚氏の当時の心境から言えば、ブラックジャックは、ドクターキリコで、この作品を描くことで漫画界から自分という存在を安楽死させたかったのかもしれない。それはこのブラックジャックという名は、別名ジョーカーというババ抜きのババに使われる黒札のジャックに由来するようである。恐らく最強の切り札という意味らしいが、手塚氏は、この漫画という切り札で、倒産の憂き目にあった復讐を、漫画界や出版業界や世間に復讐するのを、思いついたのかもしれない。ユーカー - Wikipedia鉄腕アトムというロボットを描くことで、ロボットといういわば人間の奴隷の弱者目線から、世間にヒューマニズムを問う漫画を描いたが、結局はアトムと一緒に単なる金儲けの道具に使われ捨てられた復讐を、ブラックジャックという最後の切り札で、果たそうというわけなんだろう。だから、ブラックジャックは、当初は、手塚氏のドクターキリコで、恐らく当時の核実験をモチーフに、その被爆被害者に、自分を模して、当時の世間の金満上層部に、復讐しようと誓った漫画の主人公だったようである。だから、金持ちを安楽死させるのが、当初のブラックジャックであったドクターキリコの医者となる目的だったわけで、おカネさえ積めばなんでも治す外科医という評判で餌を撒いて、金持ちをおびき寄せ、ツギハギの顔は、その闇の復讐心を象徴化した、生命をカネで切り刻むメスであり、二人目まではなんとか復讐を果たすのだが、二人目からは、心変わりしてしまう。ググると、次のような見解に辿り着く、「2人目に復讐をし損ねて(ガンで死ぬ寸前だったのを手術して延命し、復讐に取り掛かる前に自然死)」。この2人目の死から、復讐心が薄れていき、ブラックジャックのなかで、別に伏線キャラのドクターキリコが悪を担当し、袂をわけていく。つい最近、バカリズム氏が、「ケンシロウによろしく」というドラマで、外科医から鍼灸師に、メスから空手の北斗神拳へと、わずかに医療職を変えて、この流れを継承した作品をつくっている。虫ん坊 2016年10月号(175):TezukaOsamu.net(JP)【独占配信】ケンシロウによろしく | DMM TVよくよく考えてみれば、ドクターキリコは、求める人だけに安楽死を与えているわけで、復讐心で医師になったブラックジャックのほうが、動機では遥かに悪質性が高いようにみえるのだが、世間的な見方では、ドクターキリコのほうが悪にされているのも不思議であり、先の実写化ドラマの批判では、女優が演じたキリコについて自殺ほう助まがいの解釈が罷り通っているから更に不思議である。実際に安楽死が合法化されている国は以下のサイトにある。ブラックジャックとドクターキリコのどちらが善で悪なのかは、各個人の死に対する認識に委ねられるが、ブラックジャックが当初の復讐心から、漫画のなかだが、自らの医療行為を通して、救済心に目覚めるのは、どこかゲーテのファウストを感じさせる。安楽死が認められている国はどこ? - SWI swissinfo.chファウスト (ゲーテ) - Wikipediaブラックジャックは悪人から善人へと改心していく物語なんである。悪因悪果ではなく、悪因善果に、救いをみつける漫画なのかもしれない。ブラックジャックのなかでは、ピノコという人間にはなれなかった女性で生まれるはずの魂が、ブラックジャックという漫画の世界で、悪因から善果に転じるキャラの、輪廻転生の働きを担う。このピノコが、ブラックジャックのなかの復讐心を失わせる悪のなかの善の存在といえるかもしれない。ブラックジャックはピノコを娘と呼ぶが、ピノコは奥さんと思っている違いが面白い。ピノコはブラックジャックの救世主なのである。ピノコ - Wikipedia長々とブラックジャックの独善ともいえる解釈を披露してしまったが、それは輪廻転生への男女の役割の違いを解き明かすためである。シュタイナーの輪廻転生の本から、ある程度、女性と男性の働きの違いがわかってくる。大まかに言えば、男性は地の人間的な仕事を、女性は天の天使的な仕事をする傾向にある。妻を奥さんと呼んで、陰的な月光の秘めた役割に求めたのも、古の霊力からきているのかもしれない。だから、家庭は奥が崩れると道徳が破綻し、人間性を失うわけで、だから、不倫ともいわれるのかもしれない。これは女性に霊媒が多いのでもわかる。女性は、霊魂が、肉体に深く浸透しないために、物質界に囚われない傾向にあり、物質にあまり共鳴しないし、どちらかというと、精神的な安定を求めがちにあり、信仰に弱い。それは占いなどにもハマりやすく、物質界から育成された意識魂の、悟性や論理性に弱い。理屈よりも直感を重視しがちなのは、よくいえば物質に束縛されないためだが、悪くいえば、依存心が高く、悪い考えや悪霊などに憑依されやすく、洗脳されやすい。これは幽霊を解き明かすことでわかる。現代人は幽霊をみたことがないと考えがちだが、実は誰もが幽霊をみていて、ただその自覚がないだけなのである。何を隠そうが、実は、幽霊とは、思考のことなのである。思考というイメージが思い浮かぶが、それは脳がつくったものと自覚しているが、脳が霊魂から受け取ったものなのである。ただ送信元の霊魂が自分が送ったよ、というサインがないから、脳が自分のものとして、解釈しているだけにすぎない。だから、幽霊はなんらかの思考形態のイメージで、そこらへんに、いわば波動の形で存在しているのである。ただ物質という形態を伴わないので、太陽光を集めた覚醒意識ではみえないだけなんである。だから、量子力学では便宜上確率波となってしまっているわけなんである。女性のほうが物質界をみる肉体のメガネ、ゴーグルに完全にハマらずに、時より外しがちになるので、悪霊の雑音波を受け取りやすくなってしまう。この肉体のメガネ、ゴーグルが、人智学が呼ぶ、意識魂で、それを個人的に育成するのが、我々の第5のアーリア文化期の地球人の使命でなんである。そこで、またシュタイナーの輪廻転生の本から、その解説に相応しい歴史上の人物を紹介しようと思うのだが、せっかく腹痛がおさまった小康状態にあるので、今回はここまでにしたい。なぜブラックジャックの話をはじめたのかといえば、幽霊を説明するのに相応しい作品で、特にピノコという幽霊のようなキャラが、恐らく手塚氏の人生から、ブラックジャックという叡智の幽霊を召喚したものと思われ、ブラックジャックという作品は、手塚氏にはピノコだったのかもしれない。これらの作品は、天使を通して主に夢のなかでみることもあるが、いずれにしろ、思考として脳のなかに与えられる。ブラックジャックという作品も、なんらかの天使が送った幽霊の、つまりイメージから生まれた現実の幽霊なのである。我々地球人は、非現実な漫画やアニメ、フィクションのドラマをみているが、実はそれは幽霊を通じて霊界をみているわけで、ただそれらを幽霊と定義し、認識していないだけにすぎない。幽霊と思っていた存在が実は実写化されて、現実の人間に降臨したのが、キリストなのはいうまでもない。個人意識を発達させ、キリストを実在ドラマとして見に行くために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ ポスト・アトランティス時代は第5文化期に最盛期を迎える。第6文化期と第7文化期に生じるのは、個人意識の衰退である。にも関わらず、第6文化期の、この個人意識の物質性への退化は、霊我により霊感を吹き込まれ、霊我に浸透され、再生され、キリストとして蘇るだろう。 今日、東ヨーロッパの人々は、霊的に、これが真実なのを予感している。ただし、しばしば睡眠中の潜在意識から、そのように感じているにすぎない。 東ヨーロッパの人々の、このような潜在意識は、大抵、睡眠中の夢のなかの、茫漠とした混乱したなかに感じるものである。「ロシア人」という言葉が、特定の個人に関係なく、頻繁に使われるのが、(これは日本人にもいえる)実に特徴的である。 例えば、ヨーロッパの西側で、「イギリス人」、「フランス人」、「イタリア人」、「ドイツ人」という言葉を使う場合、(意識魂が発達しているので、公私の境界が明確で)大抵は特定の個人の具体的な特徴を指す意味をもつのに、ヨーロッパの東側で、「ロシア人」という言葉を使うと、(意識魂が未発達なので、公私の境界が曖昧で)大抵は漠然として、東スラブ民族全体を指し、精神的な意味において、潜在意識のなかの、民族霊も含む。 ロシアの知識層の多くが、「ロシア人」という言葉を使いながら同時にスラブ民族全体を考えている。これは、このスラブ民族固有の民族霊と深く関係している。この民族霊を指す言葉は、東側の共同体の友愛関係の上に広がる、友好的な人間関係から結びつく、仲間意識の、兄弟の要素も含んでいる(悪い意味で、ヤクザ世界の兄弟仁義みたいなもの)。 「ロシア人」という言葉の、「人間」を意味する「人」のなかに、このかつての民族霊の共同意識が示されている。しかし、遠い未来に到達すべき高度な文化には、到達できないのも明らかである(残念ながら、シュタイナーは、日本人も同様に、個人意識よりもいまだ全体意識が強いので、到達できないと述べている。しかし、逆に北米民族も、個人意識が強すぎて、全体意識が弱いので、資本主義をみればわかるが、到達できないらしい)。 ロシアのなかにスラブが含まれ、この言葉の境界が常に曖昧で、ロシア語が広く話される没個性のなかに、個人が全体を超えられず、紛れもなく個と全体が矛盾する現実を意味する。この言葉のなかに、古きスラブ民族という意味を含む限り、常に、共同体と個人の中間に囚われる宿命を背負うのである。 「ロシア人」という表現の「ロシア(の)」という形容詞が、「人」という名詞で表現される個人の存在を、束縛し、実際に無効にしている。というのも、真の理想の、自由な愛の人間に到達したいなら、個人を束縛する要素を示唆する形容詞はつくはずもないからである。 しかし、それよりずっと深いレベルで、ロシアの知識層のなかには、共同体や友愛の概念、来るべきスラブ文化期において必要な理解が、自我のなかに霊的に眠っている。(恐らく、独裁者が個人を戦場に送り、不慮の死を遂げることで、死後にロシアに生まれた生前を反省し、来るべき転生に際して、個人的に、独裁者的存在を乗り越えて進化していくのを、シュタイナーは預言しているようである。勿論、独裁者は、前回紹介したパワハラ上司のように、戦場に送った者たちに報復され、全ての人類に足蹴にされ、ミカエルに退治された龍のごとく、跪くしかないだろう)
2024年07月04日
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人間は天使になるべく地球で自由と愛について学び、試験を受けているわけだが、シュタイナーの輪廻転生の本を読んでいると、ニュートンがプリンキピアで説いた、ユークリッドの原論による、アリストテレスの運動論の焼き直しが、輪廻転生とカルマの法則を説いていたようにもみえてくる。物理学史1/2 (yamagata-u.ac.jp)万有引力 - Wikipedia自然哲学の数学的諸原理 - Wikipedia現代人のほとんどが、唯物論に洗脳されてしまっているために、アリストテレスの運動論やニュートン力学が地上の物質界だけを記述したものと錯覚しているわけだが、ニュートンがプリンキピアの第3巻で、神の世界を数学的に示そうとする動機を明らかにしているように、この動機は、スウェデンボルグの書では、キリストの神意、つまり救世主の意志として明かされているが、勿論、アリストテレスが土として想定していた物質界だけの話でない、のがわかるはずである。では、どうして、地球人はアリストテレスの土の霊の物質界だけの存在へと、堕天使ルシファーやアーリマンの学院による誘導を受けて、失楽へと洗脳されたのか?といえば、個人的に自由な自我を獲得するために、いわば、物質界により目隠しされたのである。ニュートン力学でいえば、土的な本性の、失楽性の、外的な欲望の、慣性性の、欲望という名の低次な愛の、質量を与えられたのである。それはまた、モーゼに与えられた十戒の霊的な教えを歪め、神の名を語る偶像崇拝が地上に蔓延り、大きな塊となって、古代アトランティス時代と同じように、大破局へと下降する時代の大きな腫瘍化の流れを、個々の小さな流れに細分化し、再浮上の糧とするための、自我から霊我への目覚めとして、キリストの降臨を、各個人の自我に体験として印象付け、際立たせるためでもある。迷える子羊は、羊飼いを求める。さて、前回紹介したカルマの法則と、輪廻転生論から、ニュートンの第3法則の、作用反作用の法則が、輪廻転生の、前世と現世での、自我についての作用反作用の法則となっているのが、宗教王が科学王に輪廻転生していることからもわかる。前世と現世をイコール=でつなぐ働きが、キリストの神意のカルマの法則である。これは、前世の自分の行為の、他者にした作用が、現世では反作用の、自分にされる行為として、責任として果たされる法則ともいえる。だから、前世の自分の行為=現世の自分にされる行為となるだろう。だから、カルマの法則により、ニュートンの力学は、人生の法則へと書き換えられる。第3の法則は、言い換えると、自分のなかの非自分の、つまり、自分を超え、自由な愛を探求していく人生となるが、では、他のニュートンの第1、第2法則はどう書き換えられるだろうか?実は、ニュートンの力学を持ち出さずとも、わざわざニュートンの第1法則と、第2法則にしなくても、日本人には仏教でお馴染みのものなんである。それはお釈迦さんが説いた、善因善果、悪因悪果である。道徳的に善い行為は、天に受け取られ、次の人類の行為の指標となる。逆に悪しき行為は、天には受け取られずに、地に戻され、永遠に背負う自己となる。徳川家康の遺訓の、人生は、重荷を背負って歩くの、重荷になる。それは自分がかつて他人にした行為が、ブーメランとして自分に返ってきて自分となるからである。つまり、これがニュートンの慣性の法則で、人生の質量の法則なのである。すると、第2法則も想像がつくだろう。伝教大師の、一灯照隅、万灯照隅である。物質界でのニュートンの第2法則は定式化され、F=maと力Fと、質量mと、加速度aの記号で表現されているが、加速度とは、現世で他に成した行為に置き換えられる。つまり、mは、現世の自分で、aは、自分が他者に成した行為となり、それは他者には、現世での影響力のFとして現れることになる。一灯照隅、万灯照隅は、加速度を、灯の光で代替している点で、特殊相対論に近いともいえるかもしれない。だから、ニュートン力学の唯物論を取り払い、宗教や道徳論に還元すると、人生のカルマの法則が浮かび上がるのがわかる。このようにシュタイナーの輪廻転生論から、ニュートン力学の上辺の自然体系が、ニュートンが本来意図した神の摂理の、天の理のキリストの神意に導かれるのが解き明かされる。ニュートンの3つの法則 - EMANの力学 (eman-physics.net)そこでまた、具体的な歴史上の人物の輪廻転生から、このカルマの法則の、特に作用反作用の法則をみていく。この法則を読み解くのに、面白いのは、ペスタロッチである。ペスタロッチがなぜ面白いかというと、彼の取り巻きとの人間関係から、彼が教育者となった経緯が、前世からわかるからである。ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ - Wikipediaシュタイナーによれば、彼の魂が、ペスタロッチという教育者として転生した理由を知るには、前世を2つ前の、奴隷監督人であった紀元前の南欧にまでに遡る必要があるという。当時の奴隷制は、ある意味仕来りのようなもので、現代人がイメージするものよりは、当時の南欧の奴隷は自由で教養をもっていて、奴隷が、当時の重要な人物を教えることもあったという。そのようななかで、ペスタロッチの前世であった奴隷監督人も温和で親切で、奴隷たちの世話や仕事の分配をしていたという。しかし、上司が過酷で乱暴で、いまでいうならパワハラ上司の下に従事していたという。いまでもこの国の巷にも、似たようなブラックな職場環境が沢山あるが、この上司の言いなりになるしかなく、やがて、このパワハラ上司の命令に従うしかなかった奴隷監督人は、代わりに奴隷たちに反感を買ってしまったという。このようななかで、奴隷監督人を巻き込んだ奴隷たちと、そのパワハラ上司の人間関係は、その時代の人生の役目を終え、死の扉を通過した際に、生前の因縁が深く結びついて、特に、自分の意に反して、上司に従ったために、強いシコリができてしまい、次の転生では、その上司の妻となるべくして生まれたという。このペスタロッチの前世であった紀元前1世紀の奴隷監督人は、今度は、9世紀に中欧で女として生まれ、前世のパワハラ上司との関係を持ち越して、その妻となったという。ペスタロッチの前世の妻と、このパワハラ上司は、9世紀の中欧の、親密な住民たちの村に住み、その役人になったが、下役で、村の住人の皆から殴られていたという。というのは、その村の住人の上役全てが、かつての奴隷の生まれ変わりだったからだという。つまり、シュタイナーによれば、そのパワハラ上司は、過去でしでかしたパワハラを、9世紀の転生で、今度はパワハラを受ける側にまわる責任を背負ったためで、まさにカルマの法則の、ニュートンの第一法則の、悪の慣性の法則であり、悪因悪果なのが、このパワハラ上司の輪廻転生から読み解ける。かつてのパワハラ上司は、上下関係が逆転して、今度はブーメランによりパワハラを受ける立場に甘んじることになったわけなんである。ペスタロッチの前世である奴隷監督人を通して行った、そのパワハラ上司のパワハラの残虐行為が、今度は自分に返ってきたわけなんである。そして、ペスタロッチの前世であった妻は、静かな人生を送りながら、そのパワハラ上司の今度はパワハラを受ける側の不満や愚痴の捌け口に苦悩して生きたという。やがてその人生のカルマの役割を終えたが、過去のカルマ全てを清算したわけでなく、パワハラ上司はこの人生でほとんどパワハラを受けることで、ほぼ完済したが、上司の命令とはいえ、奴隷監督人であったペスタロッチの前世は、パワハラを受ける側の苦悩を、その夫を通じて共に体験し、ある程度果たしたが、まだ奴隷に対してパワハラをした清算が未完済なので、次の転生での完済が必要となる。このカルマの未完済の部分を成就するために、18、19世紀の現世に、教育者としてペスタロッチは生まれ変わり、かつて紀元前1世紀で、奴隷監督人としてパワハラをした奴隷たちの生まれ変わりの、住人たちの子どもに教育を行うことで、その責任を果たすことになったのを、シュタイナーは、ペスタロッチの輪廻転生から解き明かしている。これは、一灯照隅、万灯照隅ともいえ、前世の奴隷へのパワハラが、現世の奴隷の子への教育へと、F=maとして、変換したニュートンの第2法則の人生版といえるかもしれない。つまり、ニュートンの第2法則の真の意味は、悪行が善行に運動変換される、という人生の、カルマの道徳の法則なんである。悪の力Fが、善のaにより、自我を救済するための加速度という禊の運動、カルマの完済のために人生に費やされる救いの運動法則なんである。転石苔むさず、という諺があるように、喜捨の精神が、この人生の運動法則の諺に隠されている。転石苔むさず - Wikipedia喜捨 - Wikipedia布施 - WikipediaA rolling stone gathers no mossの本来の意味は、恐らく、カルマの法則を意味し、輪廻転生を繰り返す魂はやがて、自我のエゴが生えずに、角がとれて、丸い霊我になって、天に召される、という意味になるようにみえる。恐らく、ニュートンの運動法則を意味しているのだろう。F=mr^2ωの角運動量である。角運動量保存則の真の意味を解き明かすために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 西ヨーロッパ文化に隠された深い意味は、ポスト・アトランティス時代の第5文化期での霊的な探求が、意識魂にある、という事実にある。西ヨーロッパ文化、特に中央ヨーロッパでの精神的な課題は、個人の文化、つまり個人意識を育成(進化)させることにある。これが、現代の課題である。この我々の時代を、第4文化期のギリシア・ローマ時代と比べてみる。 ギリシア時代は、特に文明化したギリシア人の間では、集合魂を基盤に生きる意識、民族魂と特別に結びついた霊的な一分枝の精神形態を示していた。例えば、アテネで生まれ生きる人は、何よりもまずアテネの一員の「アテネ人」と感じた。都市とその都市に属する人たちの間にある、ギリシア人の共同体は、当時の個人にとっては、今日意味する共同体以上の大きな存在を意味していた。 我々の時代では、個人は共同体を抜け出て、共同体を越えて成長し努力できる。この成長や努力は、第5文化期では正しいが、かつてのローマ時代では、個人がローマ市民を抜け出るのはあり得なかった。それ以上の存在にはなれなかった。しかし第5文化期においては、何よりもまず自我の最奥のなかにある憧れから理想の人間であろうと努力する。現代人は、一個人の魂であり、集団性に囚われず自由な霊性をもつ。 地球上で互いに闘っている個人を見るのは、我々の時代では苦痛に満ちた経験だが、これもまた、結局、「理想的な人間」の自由な発達(進化)を求める第5文化期の執拗な努力に対する反応にすぎない。 異なる国と民が、今日敵意に満ちて相互から境界を敷き、閉鎖を行うが故に、この閉鎖への抵抗として、人間がもつ全ての能力で、理想的な人間であるための許容力を発達(進化)させることが益々必要となる。 個人が、あらゆる種類の共同体から抜け出して成長し、共同体を超えて成長する許容力を発達(進化)させるのが、益々必要となってくる。しかしその一方で、人間は、完全なる意識魂の、覚醒意識において、第6文化期に、自らの完全に自由な意志から、入る共同体も準備する必要がある。 我々人智学徒の眼前には、高い理想と、第6文化期を包括する共同体の姿が、いま上空を羽ばたいている。第6文化期では、文明化した人間たちが、ごく自然に、兄弟姉妹のように、自主的に互いに自由な愛の共同体として集い、出会うだろう。 過去の年月になされた多くの人智学の講義から、東ヨーロッパには第6文化期に特別な使命をもつ民族が住むのを、我々人智学徒は知っている。東欧に住む人々は、第6文化期になるまで、その自我の内側の奥に今眠っている基本的な霊能力を、明確に表出することはない。 ロシア周辺に住むスラブ民族は、いま自我の奥深くに潜む、かつての前世で秘儀参入に関わった原始の霊能力を展開するのに、第6文化期の受肉を待たねば、準備が整わないのを、知っている。(このスラブ民族による霊能力は、現独裁者により戦場に送られることで、不慮の死を遂げ、次の転生に、悪魔の憎き独裁者を倒す霊能力として準備される。) 西ヨーロッパと中央ヨーロッパの使命は、育成した意識魂によって導入し得る道徳的な資質を、なるべく多くの人々に注ぎ込むことである。この使命は、東ヨーロッパにはない。東ヨーロッパは、霊我が地上に降りて来て、人々の魂に浸透できる、次の転生まで待たねばならない。この人類の進化計画は、正しい意味で理解する必要がある。間違った意味で理解されるなら、正しく東において、権力者の如く、驕りと傲慢へと、容易に導くだろう。
2024年07月02日
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いまシュタイナーの輪廻転生の本を読んでいるのだが、高校のときに、世界史を選択してこなかったせいもあるのか、外国の歴史上の人物について、自分が、あまりにも無知なのに呆れてしまう。一々ググって調べないと、人物の概要すらわからないから、難儀でもある。いまは社会科の選択科目がどうなっているのかわからないが、昭和の大学入試の共通一次世代にとっては、社会科は、日本史、世界史、地理の3科目のうちの2科目選択だったと記憶しているが、世界史を選択しなかったのが、いま裏目に出ているわけで、人智学を通じて、改めて学んでいる最中といえるわけなんである。だから、歴史上の人物で知っているのは、物理畑を専攻した都合で、物理学や数学に関わった人物ぐらいで、それも有名な定理や法則の名前になっているぐらいの世間一般の知識しかなく、どのような人物だったのか、皆目見当もつかない、ほとんど何も知らない無知レベルの代物といえるかもしれない。そもそも、昭和の社会科教育といえば、日本史や地理といっても、日本史は、八切史観のような差別史などは完全に無視され、周囲の国々との歴史的な整合性も考えずに、いまだに侵略か進出かの言葉の違いに血眼で、日本独自の権力者が都合よく書き換えた似非歴史を、ただ宗教の教義のように信仰させるような近視眼的な教え方で、大局的視野に欠け、汚いものには蓋をして隠してしまう、地理についても首都や特産物を暗記させるぐらいの、海外旅行にすら役にも立たない、まるで死んだ知識を脳に叩き込む、昭和の、日本の社会科教育が、単なる暗記科目に堕しているのにも問題があったといえるかもしれない。昭和の社会科教育自体が、いまでは暗記のパワハラといえるかもしれないが、古の権力による支配構造に対抗する人種差別撤廃の世界的な新しい流れとともに、いまの社会科教育の現状も少しは改善し、グループ学習を取り入れて、単なる暗記科目から、人間性や道徳的な思考を加味していく、より高度な知識が求められるようになっていくのが理想だろう。それは、シュタイナーが説く、来るべき第6文化期の、万人の幸福は個人の幸福で、あらゆる宗教は個人的信教の自由に帰し、外面的な社会での実践や経験を通じて、人間の内面性のなかに、精神的な道徳の知識を獲得し、外と内を道徳的知識でつなぎ、人間の理想体を呼吸する、新しいヨーガの社会知識的な修行法の獲得が主眼となっていくかもしれない。社会科教育 - Wikipedia社会科教育 2022年8月号 協働的な学びを深める!ペア・グループ学習アイデア (meijitosho.co.jp)例えば、古今東西の歴史的な出来事から、似たような歴史的人物を、トランプの神経衰弱や、パズル合わせのように比較して、考察するような社会科教育などは面白いかもしれない。そのような社会科教育から、人物の輪廻転生が読み解けるかもしれない。前回紹介したように、宗教王が科学王になっているのを、社会心理学を通じて、読み解けるかもしれない。神経衰弱 (トランプゲーム) - Wikipedia社会心理学 - Wikipedia長々と日本の社会科教育の愚痴を述べてしまったが、前回の続きをはじめる。現代の物質的な科学の源流が、アーリマンによる人類の獣化の666年のゴンディシャブールに由来するのは、このブログでも再三紹介してきたが、人間の獣化が、主に、3つの科学、現代でいうところの、遺伝子デザイン医学、細胞再生医学、そして量子力学による波動制御学に依存していくのが、ある程度わかってきている。それは人類に幸福をもたらすどころか、不幸を招くのは、量子力学による核分裂や核融合を用いた核兵器開発で明らかである。科学技術はただ独裁者を喜ばせただけで、天国はおろか、地獄の世しかつくりだしていない。核兵器を恐喝の道具に使って独裁者が自らの野望を遂げている現状をみれば、高次の宇宙人たちが心配しているのは、地球人のような無知蒙昧の幼稚な頭脳でもわかるはずである。それは、金儲けのためなら、大谷選手のプライバシー侵害などお構いなしの堕落腐敗した日本の某メディアサーカス団と同じ諸悪の根源であるのが、社会心理学からもわかり、そのサーカス団の主が、CIAの工作員ポダムからの因縁なのは、仏教徒にも悪因悪果としてお馴染みだろう。悪魔と一旦取引したら、地獄に引きづり堕ちるまで一蓮托生の共倒れなんである。正力松太郎 - Wikipediaシュタイナーの預言かどうかはわからないが、日本が悪魔に乗っ取られて滅ぶ説が流れているのは、このような第二、第三のポダムのような老害権力者が居座り、日本を格差社会の差別社会化の666の獣化に導いているせいとも考えられる。それは晩節を穢した高齢者の自動車事故と同じである。高齢者にもなってなぜ天命を知れないのか不思議でもある。孫をみれば、自分のこの世での役目も終わりに近づいているのに気づくはずである。後進に道を譲るのができないから、便秘でウンコが出ずに感染死してしまうのである。話が逸れてしまったが、アーリマンの学院は、天使長たちの天界からの霊力で、イスラム教徒により破壊されたが、前回紹介したように、バグダッドに移り、アッラシードによる、東洋のアリストテレス哲学の霊的な再生として蘇って、物質界に馴染み深い、後の物質科学の土台となる、主に数学と地理学を発展させた。アッラシードはフランシスベーコンに転生し、後の産業革命につながる唯物科学を象徴化する、知は力なりを唱える。シュタイナーによると、9世紀に、このアッラシードの王宮がダマスカスから、バグダッドに移ったとき、アッラシードの子の、マアムーンが統治者だったという。マアムーンの宮殿のなかに当時の占星術に精通していた人物がいたという。今ではその名は知られてないが、日本でいえば、安倍晴明のような陰陽師で、この占星術の大家により、当時の占星術から生活全般の規則が決められたという。ちなみに、安倍晴明は10世紀の人物なので、それより少し前(約100年前)の人物ということになる。この人物が次に転生し、「ラプラスの悪魔」で有名な、ピエールシモンラプラスとなったという。つまり、ラプラスにとっては、占星術が、科学であり、天体の配置から、地上の規則を決めていた前世が、転生して、ラプラスの悪魔になり、科学的な決定論を生み出したわけなんである。マアムーン - Wikipediaラプラスの悪魔 - Wikipediaピエール=シモン・ラプラス - Wikipediaジョゼフ=ルイ・ラグランジュ - Wikipediaラプラス方程式 - Wikipedia物理屋には、ラプラスよりも、解析力学を構築した、最小作用の原理から定式化されるラグランジアンで有名な、ラグランジェのほうが有名かもしれないが、ラプラス方程式をみれば、現代の場の理論の、特に近接作用の方程式の、現代の摂動論の前身となっているのがわかる。ラプラスのなかで、当時は天使たちの運動から読み解いた宗教的な、占星術が、物質界に応じて、天体力学概論になったのである。場の量子論 - Wikipedia人智学から、輪廻転生を読み解けば、ラプラスの思想を通じて、エーテルの運動論が、物質的な運動論の力学に変わったことになる。実は、ラプラスだけでなく、ニュートンも、いまではエーテル論を嫌っていたと解釈されているが、19世紀に、ローレンツがマイケルソンモーレーの実験から、エーテルの存在を定式化しようとして、ローレンツ収縮という局所時間を導入したように、これは後のアインシュタインの特殊相対論にも利用されるが、残念ながら、エーテル論については物証性から破棄されてしまったが、ラプラスの輪廻転生をみれば、霊的なエーテル論の知識を物質化し、定式化した成り行きで、その発展過程であるのがわかる。ヘンドリック・ローレンツ - Wikipediaこのローレンツの局所時間については、ニュートンが、いまでは絶対時間と曲解されているデュレーションと呼んだ、いわば、「みかけの時間」の相対時間とほぼ同じものなのがわかる。ニュートンがプリンキピアを、ユークリッドの原論のように書いたのは、恐らく、霊的なエーテルを想定してのものだと考えられる。ニュートンは恐らく霊能者だった可能性もあるが、それは後に、経済学のケインズが、ニュートンを評して、最後の魔術師と呼んでいるのでわかる。古くは魔術師とは、陰陽師のように、自然霊と交信できる占星術の達人を意味するからである。ニュートンのエーテル観については、霊能者でもないと、いまからでは想像でしかないが、人智学から、エーテルの力学を再構築してみたいように思う。アイザック・ニュートンのオカルト研究 - Wikipediaその前に、現代の科学の祖となった人物の輪廻転生を、紹介することで、ニュートンのエーテル観に迫ってみたいと思う。統一理論というと、国際連盟をつくったウッドローウィルソンが挙がるが、シュタイナーは、このウィルソンを当時、敵対視し、悪魔のような人物として紹介しているのが面白い。シュタイナーが反感をもったのは、ウィルソンの前世にあるようで、シュタイナーは次のように霊視で読み解いている。ウィルソンの前世は、悪名高きムアーウィアだという。ムアーウィアはイスラム教の創始者ムハンマドの後継者だが、アラビア民族主義の一神教と決定論が心のなかを支配し、次第に宿命論に傾いていった人物だという。当時アジアのアリストテレスの精神主義文化が盛んな地域に、侵略していったが、結局は、何一つ成果を成し遂げられずに、中途半端な形に終始したという。さしずめ、いまの巷の増税メガネと言った感じなのだろう。声高に叫ぼうが、スローガンだけで、結局何一つの成果も成し遂げられないのだから、悪名だけが名高くなる。ウッドロウ・ウィルソン - Wikipediaムアーウィヤ - Wikipedia統一理論はできても、実際に統一できなければ絵に描いた餅で、かえって紛争を招くだけである。つまり物質を統一しても、心が一致しなければ意味がなく、それは最大最高の幸福での到達着地点を目指さないと意味がないわけで、所詮、自らが神を語る偶像崇拝で、悪魔の真似事にすぎない。唯物論が無神論に陥るのは、物質には死しかないからである。物質は無になって初めて統一できる表現形態になる。だから、エネルギー論に帰着せざるを得ない。さて、エーテル論の代名詞でもある天動説から、物質論の代名詞ともなった地動説への転換となった、コペルニクスの転回で有名なコペルニクスの前世を、シュタイナーは解き明かしている。コペルニクスは、ニコラウスクザーヌスのわずか約十年しかない霊界での再生期間での転生で、その霊的な思想の物質面だけが強調されて現れた存在だという。クザーヌスの「無知の知」の思想から、その物質的な面での、コペルニクス的転回の背景が浮かび上がる。クザーヌスの無知の知は、ソクラテスの無知の知には及ばないが、シュタイナーによれば、クザーヌスのときには、世の中の唯物的な流れに対抗して、霊的な知識を獲得するのがいかに困難かを説くために、無知の知を記したが、コペルニクスに転生してから、逆に、無知の知を物質的な知に転換してしまったわけである。コペルニクス的転回 - Wikipediaニコラウス・コペルニクス - Wikipediaニコラウス・クザーヌス - Wikipediaつまり、真のコペルニクスの転回とは、エーテルからの物質への転換を示し、それを身をもって、本来は、約2千年を経るべき輪廻転生を、わずか約十年の局所時間の輪廻転生で示したのが、クザーヌスからコペルニクスへと受け継がれた霊魂の働きそのものだったわけである。上のウィキのクザーヌスの思想にもあるが、「クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。」この思想がコペルニクスの地動説となり、それが、つまり、正の天動説への、反の地動説であり、やがて、それら天と地が、神と合一し、天地動説となるのを予感させる。来るべき、第6文化期に、人智学による輪廻転生説から、自由な思想として、人間の認識を高め、神意と合一されるだろう。コペルニクスと同じように、天動説と地動説の狭間に立たされた人物を探ると、ティコブラーエという人物が浮かび上がる。コペルニクスの死の3年後にこの人物が生まれているが、この人物のティコ体系をみると、霊の天と物質の地の融合の天地動説の前身めいたものが表れている。なによりも、この人物が面白いのは、シュタイナーが、この人物の前世が、ユリアヌス帝と言っているところである。ティコ・ブラーエ - Wikipediaフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス - Wikipediaシュタイナーのユリアヌス評を紹介するには、紙面を要するので、とりあえず、いまは省くが、ユリアヌスの当時が、多神教と一神教の狭間にあって、それらの融合ともいえ、秘儀に精通し、キリスト降臨前の太陽霊キリストを知る立場を選択したために、当時の唯物論に染まったキリスト教の権力者たちから背教者と罵られたようである。面白いのは、多神教と一神教のユリアヌスの融合宗教が、転生して、天地融合の天地動説のティコ体系となっているのがわかるところである。このように前世と現世の輪廻転生の、いわばエーテルから物質への霊から物質への逆変換ともいえる、エーテル論の鏡像関係から、ニュートンの作用反作用の法則が、アストラル界から浮かびあがるのがわかるだろう。前回の先に紹介したヘッケルは、シュタイナーが、その典型的な人物として挙げていて、カトリックによる思想統一を進めたグレゴリウス7世が、転生してヘッケルの唯物論科学による思想統一を推し進め、自分が前世でつくったカトリックの権力を、後の転生で、破壊する、まさしく、輪廻転生のニュートンの作用反作用の法則を、体現した人物だからである。人智学から輪廻転生まで拡張した、ニュートンの第一、第二法則にも言及したいが、とりあえず今回はここまでにしたい。輪廻転生のカルマの法則から、ニュートンの法則を再構築するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 第2の古代ペルシア文化の受肉に必要な魂の能力、いわば道徳力は、第1文化期の古代インド文化ではまだ幼児のようだった。このように次の時代の転生の準備のために、地の人々の道徳行為から、天へと上昇する道徳力が、霊界の天使たちに保持され育成されてきた。このように各々の文化期において、前もって次の受肉に必要な道徳力が準備されてきた。いま第5文化期の文化や文明のなかで、現代人が発達させている魂の道徳力は、意識魂である。この育成は、14世紀からはじまり、15、16世紀と続いて、唯物主義的な意識による科学が、人間を捉えた。この育成は徐々に広がり、この第5文化期の終わりに、その発達(進化)が完了する。そして、いま意識魂を発達(進化)させているように、次の第6文化期で発達(進化)させるべきなのは霊我である。霊我の発達には、先に述べた3つの道徳的な特徴が、人間の魂に既に存在するのを前提とする。3つの特徴はすなわち、友愛による幸福な共同社会生活、宗教などの思想の自由、そして人智学などによる霊的な科学的知識の獲得である。これら3つの特徴は、第5文化期において、意識魂を、発達(進化)させているように、来るべき、次の第6文化期の霊我獲得の準備のために、いま人間の共同体が、友愛をもって、発達(進化)させるべき、切実に重要な課題である。それ故に、人智学のグループが、友愛から共同体として結びつき、道徳的な友愛の活動をすれば、それは天上の聖霊、つまり善天使たちに共鳴し、天上で共に羽ばたくので、天上に、幼児のような霊我が羽ばたいているのが、自我にも感じられるはずである。この霊我は、第6文化期に、人間の魂が、地上に転生するとき、魂の秩序形成力、いわゆる道徳力として保持できるように、高次のヒエラルキー(位階)の天使たちによって予め計画され、育成されてきた。だからいま我々人智学グループにおいて、この霊我の内実を準備するために、友愛による道徳活動を広く展開していかなければならない。だから、人智学の叡智を通して、友愛の活動グループとして集うとき、自我と霊我とのつながりを通じて、実際の道徳行為から、霊我の創造行為へと到達できるのが、確認できる。自身の自我の為だけでなく、霊界へと上昇するような、友愛活動を実践しているという信仰、この友愛活動が霊界と関係するという信仰、これらの信仰こそが、人智学グループを聖霊とつなげる真実の絆である。このような信仰を抱くことが、自身の自我に、人智学運動のグループの基盤となる聖霊の意識=霊我を浸透させる。だからこそ、この信仰の真実、つまり霊的な意味で、友愛活動を把握するのは大いに重要となる。我々のグループが、人智学を育成するだけでなく、思考の自由に基づいて、共に集うなかの、友愛活動のなかに、自らの自由を見い出す。グループ員に課される教義や信仰の強制などは一切なく、友愛をもって共同して道徳行為を自主的に自由に実践すべきである。何より最も大切なことは、次のように自らに問いかけ、共同体の理念の真の意味を常に意識することである。「近代の魂として、我々はポスト・アトランティス時代の第5文化期に属し、個人として発達し、共同体生活から、個人生活を益々高めている、という事実とはまた別に、高次の共同体育成も意識しなければならない。その共同体は、兄弟間の愛の自由に基づき、この意識を、いわば白魔術の息吹として、グループ活動において、呼吸し、大気のなかの光として、浸透させなければならない。」
2024年06月27日
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もし自分がいまの自分でないとしたら、と考えると、自分の前世を解き明かす一歩となるかもしれない。シュタイナーは、「いかにして、前世を知り得るか」で、自分の前世を知る方法を提案している。以前、巷でも前世療法というのが流行った時期があったが、これは前世というよりも、天使たちとの交信法と言ったほうが良いかもしれない。前回紹介したスウェデンボルグの前世の、イグナチオロヨラが火星の天使たちと交信し、その前世をボルグに提供したような感じに近いようにみえる。というのも、シュタイナーの説く前世は、巷で語られている前世とは少々趣が異なるからである。いかにして前世を認識するか - シュタイナー関連書籍出版 イザラ書房 (izara.co.jp)前世療法 - Wikipediaというのも、巷で語られている前世は、現世の自分とよく似ている、と考えられているが、例えば、現世で数学が得意な人は、前世でも数学が得意だったと考えがちだが、シュタイナーが説く前世は、正反対で、前世で数学が得意だった人は、現世では数学が全くできない、というのである。勿論、五次方程式の一般解が存在しないのを発見したアーベルのように、若い年齢で結核などで亡くなった場合は、その若い未発達な数学の能力を引き継いで、次の転生でも数学の才能をもって生まれてくる可能性もあるらしいが、ニュートンのように老齢まで生きた場合、次の転生では、数学も物理も全く苦手で生まれてくる、ようなことを述べている。ニールス・アーベル - Wikipediaアイザック・ニュートン - Wikipedia例えば、次の2つの肖像をみて、似ているようにみえるのが、巷で語られている前世で、似ていないようにみえるのが、シュタイナーの語る前世である。ただし、シュタイナーも肉体の動かし方の、動作や仕草などは、前世から引き継ぐと述べている。というのも、肉体は全く異なるが、エーテル体は似たような部分を引き継ぐからである。ちなみに上がロヨラで、下がボルグである。いか前(いかにして前世を知り得るか)などで、シュタイナーは、前世を理論的に解き明かしていて、前世と現世では、正反対のアストラル体を引き継いで転生するので、全く正反対の性格をもつ人物として生まれ変わる、と説いている。だから、前世が男性なら、現世は女性で、特別な事情がない限りは、性も正反対で転生すると述べている。だから、現世で性同一性障害になるのは、恐らく、前世での体験が鮮明で、いまの肉体には入りたくない想いがあり、肉体を拒絶し、先祖返りしたい欲望が強いのかもしれない。例えば、前世で肉体に入りすぎ、酷い虐待を受けたために、肉体への嫌悪感を生み、現世では、肉体に恐怖を覚え、あまり入りたくないのが、女性への志向として現れているのかもしれない。逆に、前世で肉体に無関心で、あまり入りこまなかったために、霊媒体質で、物質界に適応できずに暮らした想いが強すぎて、今度は肉体に深く入り込もうとはするが、思ったようには肉体を制御できないので、代わりに男性への志向として現れているのかもしれない。つまり、心と肉体のバランスが偏っている状態といえるかもしれない。女性志向は肉体への嫌悪感。男性志向は肉体への憧れという感じである。シュタイナーは、霊的な知識を獲得するには、女性の肉体が適しているので、霊媒体質は女性が良く、逆に、物質的な知識などの自我性(エゴ)や、物質界の言語などを獲得するのは、男性の肉体が適しているようなことを述べているが、それらは、輪廻転生を見ていくと、男性が権力者になりやすいのでもわかる。また、シュタイナーは、ある人物の前世よりも、転生のほうが霊視しやすい、とも述べている。いずれにしろ、前世と現世では、真逆の性格になりやすく、輪廻転生においては、前世で自分がつくったものを、現世では、嫌悪し、破壊する側にまわると述べている。そもそも輪廻転生とは、全く違う環境でも、自分を生かせる能力が問われているわけなんである。だから、ヘーゲルの弁証法の正反合のようなもので、現世の自分は、前世の自分の否定で、前世と現世の自分から、正反合の自分をつくりあげる、のが目的といえるかもしれない。だから、シュタイナーは、前世の自分と現世の自分はいわば真逆の人間なので、現世で自分を発揮しようとするほど、前世の自分の抵抗に遭うというわけで、つまり、現世の自分のなかには、自分とは正反対の自分を隠しもっているようなことを説いている。だからして、カルマとは、前世の自分による、現世の自分へのブーメランともいえるわけなんである。ということは、前世で、自分が他人に与えた行為が、現世で、他人から、自分に返ってくるわけで、現世で、自分が他人にされたことは、前世で、自分が他人にしてきたことになるわけなんである。だから、もし、前世の自分と現世の自分のカルマの方程式を立てるなら、前世と現世の時間の変換と共に、自分と他者が変換するわけで、例えば、自分を、電子に置き換えれば、時間の変換に対して、マイナスの電子が、プラスの陽電子に変わる対称性が成り立つ。もし、それを生命エネルギーの保存で定式化したら、前世で生命エネルギーを奪う生き方をしていたら、現世では生命エネルギーを与える生き方をするような場のポテンシャルというか、機会に出くわすことになる。だから、前世で悪霊の如く、他人の生命エネルギーを奪ってきたら、現世では、そのような他人の悪霊から生命エネルギーを奪われるような人生を送るようになるわけなんである。逆に、前世で生命エネルギーを与える生き方をしていたら、現世では、生命エネルギーを与えられる善霊の友人に恵まれるわけなんである。この事をお釈迦さんは、善因善果、悪因悪果と表現している。例えば、日本文化には、贈り物などを与えられたら、お返しする風習があるが、これは、このカルマの法則に則った文化といえるかもしれない。他人から与えられたままでは、現世どころか、来世でも、借りを返せないわけで、そのようなままだと、いずれ悪霊がタカリにきて、気持ちが悪いわけである。西洋には輪廻転生の思想が、キリスト教により封印されてしまったので、贈り物への返礼の習慣が残っていない。さて、前回のボルグの話でも、シュタイナーも第6文化期の特徴として述べているが、天国では、万人(霊)の幸福は、一人(霊)の幸福でもあり、一人(霊)の幸福は万人(霊)の幸福でもある、共通の幸福の認識を、天国の霊は、もっていたという。これは伝教大師の、万灯照隅、一灯照隅にも通じるが、一灯も万灯も同じで、共に照隅が必要で、西洋でも、最高の幸福とは、最大多数の幸福であると、ベンサムなどが述べているが、これは唯物論に染まり過ぎて曲解されているが、本来は、人類全体が一人の不幸も出さないような幸福に目覚めるべきという意味に解すべきである。最大多数の最大幸福|グロービス経営大学院 創造と変革のMBA (globis.ac.jp)それには人間一人一人が、人類全体の幸福をこの世に実現するために、天国をこの地に再現していかねばならない。ロヨラは、エーテル体のキリストを、物質界に再び転生させようと、イエズス会をつくり、霊界をボルグになって紹介したが、それよりも、人類のほうから、エーテルのキリストの姿をみるために、キリストの神意に歩み寄るために、人類の認識を高めるのが先決だと、シュタイナーは人智学を興したわけなんである。そのための、まず第一歩が、現在の自分とは真逆で、正反対の、前世の自分を霊視できることにある。だから、自分の殻や自分の壁とは、前世の自分として、自分のなかに潜んでいる隠れたドッペルゲンガーなんである。自分を電子とすれば、ドッペルゲンガーは陽電子なんである。ディラックの海のなかの正孔である。ドッペルゲンガー - Wikipediaディラックの海 - Wikipedia実は現世の人間は、鏡像世界に過去の前世をもっている。現在の自分は、前世の自分と鏡像関係にあり、それがカルマの天秤となって、前世と現世の自分という錘をバランスしている。現世の自分が物欲に塗れ、重くなるほど、現世の自分に引きづられ、前世の自分が見えなくなってくる。例えば、飲酒などのアルコールを飲むことや、肉食などは、現世の自分を重くするので、前世の自分をみえなくし、だからこそ、仏教修行者などは、戒律で禁止にされた。霊能力の初歩は、自分の前世を見る事なので、飲酒や肉食はそれを失わせた元凶だという。それはボルグも、霊界で遭遇した霊から知ったと語っていて、天国に不要なばかりか、地獄に堕ちる悪霊の原因となるとも説いている。というのも、飲酒も肉食も、人体に余分な生命エネルギーを蓄えることになるので、天国にそぐわない、不必要な財産を蓄えることになってしまうからである。天国とは自らの生命エネルギーだけでなく、全体の生命エネルギーをつくりだす霊たちの楽園だからで、奪うことではなく、与える事で成り立つ世界だから、常に必要な生命エネルギーそのままで生きるのが相応しいからである。不必要なエネルギ-とは、他の誰かから奪ってきたもので、自分でつくりだしたものでないので、不必要で、余分なのである。必要なら自分でつくりだしているはずで、それは自分だけでなく、自分を通じて他者にも分け与えているはずで、キリストが、自分の血と肉を分け与えた最後の晩餐のようなものである。天国への門 - Wikipedia最後の晩餐 (レオナルド) - Wikipedia必要なものは神意が既に与えているはずなので、わざわざ、他人を支配し、不必要に余分にとってきて貯める必要がないのである。だから、十戒では、略奪してはならない、と戒めている。略奪し、利潤をとってはならないので、キリストは神殿から商人を追放した。神殿から商人を追放せずに、贅を尽くしていると、前回紹介したように松果体が石化して、神々との対話を失い、地獄に堕ちて、悪霊に成り下がるわけなんである。面白いことに、シュタイナーは、キリストの十二使徒の裏切りのユダの輪廻転生を語っている。キリストは最後の晩餐で、ユダに裏切りを認め、赦している。その理由は、このユダの輪廻転生で明らかになる。シュタイナーによると、ユダは、なんと、アウグスティヌスに転生したという。ユダはキリストを裏切って、ローマ帝国に売り渡したが、アウグスティヌスになって、今度はローマ帝国を裏切り、ローマ帝国をキリスト教に売り渡したという。ローマ帝国はキリスト教のために崩壊した。アウグスティヌス - Wikipediaローマ帝国 (y-history.net)キリスト教の公認 (y-history.net)シュタイナーによれば、アカシャ(虚空)年代記から、このような輪廻転生を読み解くことで、物質界の出来事が明らかになるという。例えば、現代科学の源流を探ると、二人の人物が浮かび上がる。ヘッケルとフランシスベーコンである。ベーコンの、「知は力なり」は有名だが、私には、「血は力なり」に聞こえてくる。ベーコンは、イギリスに唯物論の集大成ともいえる科学文化をもたらしたが、ヘッケルは、ダーウインの進化論を広めたように、唯物論的な生物学を広めた人物といえるだろう。この二人は、科学の王とでもいえるかもしれないが、面白いのは、シュタイナーによれば、両者とも前世が宗教の王だったことにある。エルンスト・ヘッケル - Wikipediaフランシス・ベーコン (哲学者) - Wikipediaシュタイナーによれば、ヘッケルの前世は、グレゴリウス7世で、キリスト教の王で、ベーコンの前世は、イスラム教の王のハールーンアッラシードだというのである。アッラシードについては、以前、アーリマンのササン朝の学院を紹介したが、イスラム教徒に征服されたために、その学院の歴史的史料は紛失しているらしく、不明な点が多いが、年号から類推して、666年のゴンディシャブールから、786年のバグダッドに場所を移して、約120年を経過した後で、幾分、アーリマンの唯物性も薄まって、その後の学院を引き継いで叡智の王となったように考えられる。イスラム教が興ったのも、この地でのアーリマンの学院に対抗するためだったらしく、実際に、イスラム教徒により、この666の唯物教の悪魔学院は崩壊した。ハールーン・アッ=ラシード - Wikipediaグレゴリウス7世 (ローマ教皇) - Wikipediaジュンディーシャープール - Wikipediaシュタイナーによると、786年から809年にかけてバグダッドに芸術と科学の頂点となる文明を築いたのが、詩人に讃えられたアッラシードだという。アッラシードを中心とした精神文化では、アリストテレス主義がアジアに広まった。東洋からみた古代ギリシアのアリストテレスの霊的な叡智が蘇った。これによって、イスラム教の攻撃性が緩和され、抑えられたという。このイスラム文化は、多くの詩人、自然科学者、医者を輩出し、特に数学と、地理学を発達させたという。アッラシードをググってみると、アラビアンナイトで有名な人物なのがわかる。面白いのは、アラビアンナイト経由で、ドラえもんの話にも、登場しているところである。アラビアンナイトではないが、このアッラシードの右腕となっていた人物、シュタイナー曰く、アッラシードのイスラム文化のオーガナイザーが、後に転生したのが、ヨハネスアモスコメニウスであるという。イスラム文化に霊性を与え、攻撃性を抑制させ、新しい文化として花開かせたのが、この後にコメニウスとして転生した存在だという。実際に、コメニウスは、当時の教育学を改革し、「汎智学」を書いたという。ドラえもん のび太のドラビアンナイト - Wikipediaヨハネス・アモス・コメニウス - Wikipediaシュタイナーは、このコメニウスの前世の更に前の前世まで言及し、だから、アッラシードの右腕の存在の前世になるが、この人物は太古の秘儀参入者だったという。秘儀参入者は、現代のような、特に男性として生まれると、肉体の拘束力が大きいために、霊能力を生かせない代わりに、その時代に適した秘儀参入法をつくりだすために、教育者になりやすいという。つまり、コメニウスの教育学への改革志向は、太古の秘儀参入者であった前世に由来するという。このアッラシードのイスラム文化と、グレゴリウス7世のキリスト文化が、それぞれベーコンやヘッケルとして転生し、後に融合して、唯物論的科学の源流となるのは、非常に興味深い。その代表的な人物として、進化論のダーウィンが挙げられるだろう。シュタイナーは、ダーウィンの前世は、ジブラルタル海峡の名の由来となったジャバルアッターリクだという。ターリクはアラビア文化によるスペイン侵略の代表的な人物だが、後の転生での、進化論でも、無神論の唯物生物教へと、当時の宗教を侵略し科学教への改宗に導いていったことになる。チャールズ・ダーウィン - Wikipediaジブラルタル海峡 - Wikipediaターリク・イブン・ズィヤード - Wikipediaこのように前世で宗教王だった者が、後の転生で、その攻撃者となり、科学王に転身するのは、歴史は繰り返す、という格言からも、非常に興味深い。個人的にいえば、前世の自己否定が、現世の自分をつくっていることになる。このイスラム文化などの宗教文化からの転生による唯物的科学文化に関わる人物はまだまだ多数シュタイナーにより解き明かされているが、ラプラスとか、コペルニクスとか、きりがないので今回はここまでにしたい。輪廻転生から人類の進化を解き明かすために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 第6文化期の、第2の基本的な特徴は、今日の宗教などへの信仰全てが、今日の集団性のものよりも遥かに高度に、個人的な、自我の自由に帰するようになるところである。人智学的な認識により、個人的な信仰の自由へと導かれるが、第6文化期の全ての領域においては、完全な思考の自由へと、そして、個人的な憧れにより、それへと導かれるので、すなわち、どんな宗教を信仰するかは、全面的に個人的な自我のなかの精神性、もしくは前世に起因する霊性に委ねられるようになるだろう。 今日の、様々な共同体に、かくも多くの形で存在する集団的な信仰、例えば新年への祝いなどは、第6文化期の最高度に進化した人間には、何の効力ももたないものとなる。宗教に関わる教義や信仰などからの、完全に自由な思考は、基本的人権として、誰もが感じるようになるだろう。 第3の特徴は、第6文化期の人々が、霊性を認識したときのみ、事実と見なされるところである。霊性が、物質界に漲り、人間の魂が、その霊性との結合に至ったときのみ、ホンモノの知識をもったと見なされる。 唯物主義的な傾向を伴った今日の科学として知られる知識は、ポスト・アトランティス時代の第6文化期には、今日、科学の名前で呼ばれる栄誉を浴せずに、古臭い迷信のように見なされるだろう。 今日の科学的知識は、ポスト・アトランティス時代の廃れた第5文化期の段階にとどまった人々の間にしか通用しない。例えば、未開人が、「死人の手足を、身体から切り離してはいけない、完全な人間として霊界に入れなくなるから」と言えば、現代人は、迷信と見なすだろう。 このような発言をする未開人の発想は、霊魂の不死の概念を、そのまま唯物論の肉体に結び付けている。つまり、死者の魂の物質的表現でしかない肉体が、そのまま霊界に移行する、という信仰になってしまっている。唯物主義的に思考しているのに、不死を信じる矛盾に陥っている。 人間の死とは、霊魂(精神)が、肉体から分離し、そして霊魂だけが超感覚界=霊界に移行する、というのを、人智学から理解すれば、今日でも、不死に対する、そのような唯物主義的な信仰を、迷信と見なせる。 これと同じように、第6文化期には、いまの科学も含む全ての唯物主義的な信仰は、古臭い迷信と見なされるようになる。当然、霊性への認識に基づく、人智学による霊的な知識のみを新しい科学として受け入れるようになる。 人智学の目的は、この意味において、第6文化期への準備である。唯物主義を克服する為に、来るべき時代に相応しい、自由な思考によるホンモノの科学を準備する為に、いま人智学を育成している。教義的な信仰が全く無く、もしくは、誰かから教義を要請されず、どこからも教えを受け取る傾向が全くない人々が、自主的に共同体を築いていくもので、教祖などもいない。 一つの例外もなく、教えに対して、魂たちが、自由に発する同意に基づいて築かれる、共同体を創設する。この共同体において、人智学が、思考の自由を準備する。人智学の育成を目的として、友愛の交流から集うことで、ポスト・アトランティス時代の第6文化期を準備する。 しかし、我々人智学徒の交流とグループの本当の課題を十分に理解するなら、人間の進化行程を更に深く見つめる必要がある。ポスト・アトランティス時代の第1文化期でも、当時、秘儀に関わった共同体では、後に第2文化期に支配的となった霊性=精神性を育成した。第1文化期である古代インド文化期に特有の霊的な(天使たちとの)交流では、アストラル体の育成に関わったのは既に述べた。 この育成は、第2文化期固有の外的な課題に対応するためだった。時代の外的な文化とは対照的に、第2の古代ペルシア文化期を準備するために、古代インド特有の、霊的な交流において何が育成させられたか、を述べるのは、今日では、話が飛躍しすぎて脱線しかねない。 しかし、次のように表現できるかもしれない。第2文化期に必要な霊性=精神を準備するために、古代インド文化期の霊能者たちが集ったとき、次のように感じた。 「我々の魂は、次の時代の受肉に要する肉体に見合う能力にまだ到達していない。また、自らの内にそれを十分に制御できる能力をもっていない。その能力はまだ、我々の上方で天使たちと共に羽ばたいている。」 実際にそうだった。第1文化期では、次の第2文化期で、天から地へと降りるはずの能力が、当時の人々の魂の上で、まだ上空で霊として羽ばたいていた。秘儀に関わる霊能者たちの集まりにおいて、地上で成就した次の時代への準備は、霊能力で、高次のヒエラルキーの天使たちへと上昇し、第2の古代ペルシア文化に相応しい、アストラル体を、魂のなかに降ろし、天使たちと交信しながら、醸成し育成する性質のものだった。
2024年06月25日
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巷には、霊界の話が都市伝説として、盛り沢山だが、現代の歪んだ宗教団体のように、紛い物も沢山あるが、そのなかから、ホンモノを見つける眼を養うのも、地球での修行の一環といえなくもない。エマニュエル・スウェデンボルグの霊界の話から、人類は、地球に天使になるための昇進試験を受けにきているのがわかるが、合格すれば、天国に行けるが、落第すると、地獄に堕ちるわけで、だからこそ、宇宙の神々や、高次の宇宙人たちが見守るなかで、地球人が、なにより真剣に生きるのが、宇宙から望まれている。だから、自分の好き勝手に、インチキなどをすれば、すっきりくっきりとお見通しされてしまうわけで、カンニングなどで、神々や高次の宇宙人の目は誤魔化せないから、フリーメーソンで有名な、万物を見通す目というのは、地球人の行いを監視している、いわば、地球人の受験態度を、監督している、試験監督の、試験審査の、高次の宇宙人の目でもあるわけなんである。「地球人よ、我々は宇宙から、あなたたちの生き様を見通しているのだよ」と物語る目でもある。この万物を見通す目は、人智学のマナス=霊我でもあり、天使たちの存在の証でもある。だから、最後の審判の目でもあるわけなんである。宇宙人をイメージ化すると、このような図となるだろう。このような人間の霊魂を監視する目が、神秘学では、松果体にあると伝承されている。つまり、地球人は、松果体を通じて、心を監視されているわけで、この水晶のような松果体がモラルハザードなどで曇ってくると、地獄に堕ちるという警告が、ウルトラマンのカラータイマーのように鳴り出すわけなんである。以下の図のように、松果体が古代エジプトのホルスの目であるのに気づいている人もいる。地球人は、この松果体の霊の目を通して、霊我により、天使たちと交信しているので、神秘学では、キリストの神殿とも呼ばれている。ホルスの目の下には下垂体を含む視床下部があるが、ここから人体にホルモンを分泌して、自我の恒常性を担っているのがわかる。十分な睡眠をとらないと、ホルモンバランスが狂ってくるわけで、キリストの神殿で祈りを捧げないと、つまり善行をしないと、松果体が曇ってきて、硬化し、石化してしまうのである。プロビデンスの目 - Wikipediaカラータイマー - Wikipediaウルトラマン - Wikipediaホルスの目 - Wikipediaホルスの目は目じゃなかった!さらになんと・・・ | Magical History Tour松果体の石化、つまり石灰化について以下の研究は興味深いが、残念ながら、物質的な知識に終始しているので、可能性を感じさせるが、人智学的知識の初歩的段階にも達していない。現代の量子力学が、エーテルを無視し、物証に終始しているので、唯物的限界の壁を超えることができないが、来るべき未来の生命科学を予感させるものとして紹介する。意識と脳科学の現状から考える情報の可能性についての考察―量子論の仮設に基づいて― 草野 純子 日本国際情報学会テンプレート (jst.go.jp)しかし、このような研究から、キリストの神殿で、商売をする現代人は、この松果体を硬化させやすく、認知症の危険を増加させ、カラータイマーを鳴りやすくさせるのがわかる。現代人への警告としての、ウルトラマンの話は、神話を髣髴とさせるものが多いが、地球人を襲う怪獣を悪霊らの悪魔と考えれば、神智学の話にも通じる話があり、ウルトラマンが放つスペシウム光線の十字形が、キリストのクロスであるのも、面白い。しかし、ウルトラマンのカラータイマーは、人間のように松果体の頭ではなく、胸にあり、ウルトラセブンになって、仏像の白毫と同じ眉間の、松果体の近くになっているのも面白い。神話を共通としている意味で、ウルトラマンに近い、神智学の話とは、聖白色同胞団が、赤いアンタレス星にあり、地球を救いにきたという話である。ウルトラマンも赤い球体として地球にやってきた。アンタレス - Wikipediaウルトラマンでは、ウルトラマンが最後になんとかして、怪獣を倒して地球人を助けてくれるが、現実は、地球人一人一人がハヤタ隊員となって、怪獣の悪霊を倒すためにウルトラマンに変身しないといけないわけで、ウルトラマンならぬ天使となるテストを受けるために、一度堕ちた地獄の現実から抜け出すには、反省し、再試験を受け直すために輪廻転生するしかない。しかし、死後に、地獄に堕ちてから反省しても、次の転生まで待たないと、次の昇進試験は受けられないわけで、地獄に堕ちている期間を無駄に過ごすのはいうまでもない。ましてや、地球が物質性を失い、次の木星紀になるまでに、合格できなければ、永遠に悪魔たちと一緒に地獄で暮らすしかなくなる。しかし、現世でも、巷の独裁者や裏金議員のように開き直って、一向に反省できない666の獣のような連中が沢山いるわけで、地獄に堕ちているのに、既に、死んでいるのさえ、自覚がない魂が盛り沢山なようである。ボルグによれば、死を無と思い込んでいるので、魂として意識があるので、死んだ自覚もないので、生前と同じ欲望を満たすために、悪霊として、知人に憑依してくるという。自分だけが損害を受け、地獄に堕ちるならまだしも、このような獣に限って、他者を支配しようとする欲望も大きいので、他人を巻きこんで、一緒に地獄に堕ちようとするから厄介である。生前に地獄に堕ちる仲間をできるだけスカウトして一緒に堕ちようとするわけなんである。というのも、このような魂は、モラルハザードを起こしているので、神意の生命エネルギーを自給自足できないので、他の魂に寄生するしかないからである。物質界では、物質に依存して暮らすしかできないわけなんである。だから、ボルグによれば、堕落腐敗した獣性をもつ人間が、なぜ、地獄に堕ちるのか、といえば、現世での物質的な生き方が、死んでもなおやめられないからで、生活習慣病とも呼ばれている病気になるのは、物欲のために、自己管理ができなくなり、肉体を壊すからである。現代医学でも、飲酒や煙草などが肉体を壊すのがわかっていながら、やめられないばかりか、ストレス解消にいいとか、少量なら血管を拡げるとか、自己都合の理由を考え出して、正当化してしまうからである。モラルを自己都合で歪めてしまい、モラルハザードを起こしているからである。だから、ボルグによれば、地獄に堕ちるのも、自主的に堕ちていくという。いまだにクマの出没が巷を賑わせているが、それはクマ化というか獣化している地球人への警告かもしれない。ボルグによると、聖書などの古代文書での、動物の記述は、人間の獣化、つまり、悪霊化を意味しているという。自分が悪霊となっているのに気づかないので、その警告として、物質界にいるときには、限度を越えて、肉体が障害されると、病気になるわけなんである。生活環境を改善できないまま、病院で病気を悪化させて、亡くなってしまうと、悪霊となってしまう可能性もある。つまり、肉体の恒常性を保つのが、自我のなかにある神意のモラル性で、人智学では霊我と呼んでいるが、自我が物欲に駆られ、悪霊に憑依されると、肉体が限度を越えて障害され、病気になるわけなんである。古代人が、病気になるのは悪霊に憑依されたせいと語っていたのは、病気の背後に、ボルグが語っていた神意と人間の認識の乖離が限度を越えて広がるからだろう。先に紹介したように、松果体が石灰化してしまうわけなんである。ボルグの話から、悪霊の本性というか、地獄に堕ちる人の特徴とは、神意のモラルを自分に都合よく歪めて解釈し、運用し、それを法律化して、権力者となって、他者を支配し、神に成り代わる偽善や詐欺にあるという。だから、神意である、愛を憎しみにかえてしまい、叡智であるモラルも、愚かな無知の教義や、ニセモノの信仰にかえてしまうので、天邪鬼になってしまうという。そして、他人が苦しむのに快感を覚えるマゾヒズムをもつようになるらしい。神智学では、このような生命エネルギーを奪う悪行をネガティヴと呼んでいるが、地獄に堕ちる人や悪霊は、他人を妬んで、不幸に陥れたりするネガティブな精神の持ち主というわけなんである。マゾヒズム - Wikipediaこのように、地球人の悪事は、松果体を曇らせ、石灰化させ、人間の認識を、神意から乖離させ、自分勝手なモラルハザードを正当化するのは、独裁者や裏金議員らをみれば明らかである。悪霊や地獄に堕ちる人は、物質やその知識などで外見を着飾るが、物質界ではたとえバレなくても、松果体を通じて、審判をするのは、宇宙の神意なんで、人間のつくる物質界での法は破れるが、宇宙の創造の源である神意を破ると、人間自身が破壊される、といわれるわけなんである。現世では、物質により、衣服を着飾れば、他人の眼を欺けるが、神意は人間の心の底を見通しているので、例えば、有名なイソップ物語の北風と太陽の話は、その教訓かもしれない。北風と太陽 - Wikipedia北風は悪霊で、太陽は善霊と考えると、人間の衣服は物質界での富や名声などであろう。北風は、衣服を外から脱がそうとするが、人間は益々抵抗する。しかし、太陽が人間の良心に火を灯し、内側から、温めると、自分から暑くて、衣服が邪魔なモノだと悟り、手放すわけなんである。このように、ボルグの話は、天国に行く人と、地獄に堕ちる人の、生き方の違いを教えてくれるが、輪廻転生についてはほとんど何も語っていないのが残念で、神智学や人智学とは大きく異なるところで、その点が、ボルグの本を、他のオカルト本と同じような、疑わしいものにしているのは、非常に残念なんである。ボルグの本を補完する意味でも、人智学から、輪廻転生についての霊的な知識を追加したい。というのも、シュタイナーが、ボルグの輪廻転生を語っているからである。シュタイナーによれば、ボルグの前世はなんと、イエズス会をつくったイグナチヨデロヨラだというのである。ロヨラは、元は軍人で、重傷を負い足を怪我したために、その精神的な修練を通して、当時広まりつつあった福音派に対抗して、古きカトリックのキリスト教を救うのを人生の課題としたという。ロヨラは、当時の神秘主義の霊的な修行を通じて、意志を強化し、宗教的な生活を実践したという。そして、その意志の強化から、キリストの行いを、物質界に知らしめるために、イエズス会をつくったという。現代人には受け入れがたい戒律がイエズス会にはあり、そのなかには、ローマ教皇には絶対服従というものがあるらしい。このようなローマ教皇への絶対服従下における、無私の忍耐力の育成が、低次の物質界との波長と共鳴し、イエズス会を物質界で不動のものにしているという。イグナチオ・デ・ロヨラ - Wikipediaエマヌエル・スヴェーデンボリ - Wikipediaそのようなロヨラの物質界へのキリスト教の無私の布教が、火星の天使たちの共感を呼んで、死後に、火星の天使たちの指導下に入り、影響を受け、強烈な結びつきを生んで、死後の欲界での滞在期間を通常よりも、非常に長引かせたという。この火星の天使たちとの交流による霊的知識が、ロヨラから、通常は二千年を置いて行われる次の転生を、わずか100年の次の転生のボルグへと受け継がれたという。だから、ボルグが書いている霊界は、火星の天使たちの立場で語ったもので、だから、地球への転生が、火星から、次の地球への天使の資格試験だと述べているようである。神秘学では、地球紀の前半が、火星紀で、後半は水星紀とも呼ばれている。ボルグの輪廻転生が特別のものだったので、恐らく、輪廻転生については何も語れなかったのかもしれない。面白いのは、ボルグが、カトリックの創始者パウロや、宗教改革のルターを地獄に堕ちている人物だと徹底的に批判しているところである。当時、ボルグがあまりにも、キリスト教を批判するので、狂人扱いされたほどらしい。恐らくイエズス会の命懸けの無私の布教精神に比べれば、当時の教会があまりにも堕落腐敗した俗物にみえたのかもしれない。この批判のなかに、ロヨラの物質界へのキリストの実践を目指した、火星に由来する戦いや、雄弁の精神がみられる。要約すると、ロヨラの火星への秘儀参入法が、ボルグの霊能力に受け継がれたようである。だから、ボルグの語る霊界は、火星人からみた霊界と物質界といえるかもしれない。天国については、地球とは若干異なるかもしれないが、地獄についてはほぼ同じ立場で見ているように思われる。なお現代のイエズス会は、ロヨラの神秘主義的な実践志向が完全に抜けきってしまい、全く形骸化して、別組織になってしまったと、シュタイナーは述べている。霊能力を再獲得し、霊我を目覚めさせるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ ポスト・アトランティス時代の文化期では、次の文化期への参入法が前もって準備された。秘儀の中心地は、次の文化期に帰属する外的な生活に備え、霊的知識の獲得を準備する場だった。そこは霊能者の集う場で、外(物質)界では育成され得ない能力を育成した。最初の古代インド文化期は、エーテル体の育成に関わった。次の古代ペルシア文化期は、アストラル体の育成に関わった。そして、エジプト-カルデア文化期は、感覚魂の育成に関わった。 続く、ギリシア-ラテン文化期は、悟性魂の育成に関わった。そして、我々の第5文化期は、意識魂を発達・進化させる課題を担っている。そして、第6文化期の外(物質)的な生活のために、霊的知識から、自我を純化し、霊我を、前もって準備しなければいけない。 現代の特徴とは全く異なる、第6文化期の、3つの特徴的な傾向に言及する必要がある。第6文化期の、この3つの傾向のために、いま霊的な知識を獲得し、心に担う必要があり、そのための準備が、現在の、我々の課題である。 今日の人間社会には、ある特質が欠けているが、この特質こそが、第6文化期に、人類の精神的な進化の目標に到達した人々の特徴となるはずである。この特徴は、次の文化期には必須となる。当然、次の第6文化期に、現代の段階にとどまっている人々には、欠けている資質でもある。 次の第6文化の絶頂期で、地上に生きる人々が最高度に発達させるのは、ある道徳的な資質である。近代の人間には、この資質がほとんどみられず、欠けている。今日の人々は、自分よりも幸薄い境遇にいる他の人を見ても、魂に何の痛みも感じないばかりか、その不幸を蔑んだり、見下す傾向をもっている。宇宙の平和や世界の平和を求める、繊細な心の持ち主なら、かくも世界に広がっている、貧困や苦悩などに、心の痛みを感じるはずなのだが、現代では、特別感受性の強い、ごく少数の人々しかいない。 第6文化期最高度の特徴を備えた人は、世界の貧困、苦悩、悲惨を見て、心のなかに痛みを感じるだけでなく、そのような霊的な共感力を発達させた人は、他の人間の苦悩を、自分の苦悩として経験する。空腹な人を見れば、共に、その空腹感を、物質的な欠乏として、実感する。 実際に、物質性を超えて、精神を発達させ、霊的に繊細な超感覚を獲得するので、他者の飢えが、自分にも耐え難いものになる。いまここで指摘した道徳的な特徴が、第5文化期の現状には全く欠けていて、むしろ正反対ともいえるので、次の第6文化期では、個人の安寧は全体の安寧に一重にかかっているのがわかる。 今日、人間の手足、つまり四肢の安寧が、人体全体の健康に依存するように、また人体全体が健康でないとき、四肢も、なんらかの(物質的な)運動に、耐えられないように、第6文化期には、この個々と全体との、共通の意識が、最高度に発達(進化)した人間にもたらされる。 そして、人体全体の健康を、四肢が感じるより先に、遥かに高度に、個人は、人類全体の苦悩、もしくは欲求を、また貧困、もしくは富を感じるようになるだろう。この共感力が、第6文化期の高度に発達し、精神的に進化した人間を、特徴づける顕著な第一の道徳的な資質となるだろう。
2024年06月20日
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前回はボルグの本から、旧約聖書の登場人物の名前の意味と、また神意と人間の認識がわかれて、人間が地球人として、いま物質界にいる意味を紹介したが、ボルグによれば、人間が地球で輪廻転生する目的は、神につくか、悪魔につくか、どっちつかずのグレーの状態にある人類を、すっきりくっきりあきらかに、マルっとお見通しで判別するために、物質界で人間の欲望をテストし、評価するためなんであるという。はっきりといえば、天国に行きたいのか、地獄に堕ちたいのか、本人の意志をはっきりさせるために、あえて、地球というグレーで自由な環境でどう振舞うのか、天使の進級テストを行っているという。というのも、宇宙には盛り沢山の星々があり、物質界以上に霊界は多様な霊が生きているらしく、ボルグによれば、大体大まかに9層に分かれて、最上位の天国から、最下位の地獄まで、生命エネルギーのレベルがあり、同じ層のなかにも、多種多様な国々や霊団があり、それは聖書でも、霊団や軍団のように表現されている。地球人は、天狗になって、自分たちしか知的生命体はいないなどといい気になっているが、それは自分たちの視野が単に狭いだけで、知性が物質界にしか及ばないくらい、低いだけにすぎないのが、現実というわけなんである。第一、眠ってしまえば、人類が勝ち誇ってきたその知性も認識できなくなり、全く使い物にもならない。宇宙には多種多様な知的生命体が存在し、簡単にいえば、同じ知性レベルで、いわば学校のように多種多様でまとまって生きているという。地球という物質界は、大体中間の、最高でも最低でもない、善悪がいわば入り乱れたグレーゾーンなので、地球の生活から、死後にどの霊団に属して、生きるべきなのかの、判別がつきやすい、いわば住宅展示場ならぬ、霊的な生活展示場のモデルケースというわけなんである。天国に行きたい霊には、合格すれば、進級テストになるし、天国には相応しくない霊には、不合格で、降級テストにもなる。だから地球は別名霊界の刑務所や更生施設ともいわれているわけなんである。このように書くと、いかにもオカルト本っぽくみえてくるので、前回紹介したように、少し学術風に、改めて、聖書の人物名のエノクの意味について紹介する。前回は、黄金時代の神意を継承するセツの系図と、白銀時代の人間の(個人的な自由の)認識を高めるカインの系図の両方に、レメクの名を紹介したが、同じように、またカインの子と、セツの子孫にも、エノクの名があるのがわかる。ボルグによれば、エノクの名は、エノシュも同じで、「加わる、手を携える」という意味を持ち、つまり、意志を同じくするような意味をもつらしい。エノク - Wikipediaエノス - Wikipediaボルグによれば、エノクの書は、相応の理を説いたもので、相応の理とは、天の理の神意を継承した、霊的な叡智の真実で、人間の認識による、物質の真実とは異なるものだという。つまり、両者が、共に加わり、意志を同じくすることで、物質の真実を高度化し、神意に到達すればはじめて、神意が物質界まで浸透し、霊と物質が真実で合一し、救いがなされる最後の審判が行われるらしい。この最後の審判は、神秘学では、霊的な結婚とも呼ばれている。シュタイナーは、このセツの系図のエノクと、カインの系図のエノクが共に、後のイエスとして、神意に到達し、意志を同じくして、キリストの降臨を準備したと、人智学の講義で述べている。だから、キリストは、旧約聖書を、新訳聖書に書き替える霊的真実の最後の審判を、この地で行ったと解き明かしている。ちなみに、キリスト教の結婚式で、神父もしくは牧師が男女の魂に結婚を宣誓させるのは、キリストが救世主なのを示している。男女の魂は、物質と霊の違いを示している。現代では唯物論に洗脳され、もはやキリストの意味も誤解されているが、本当は、神父や牧師ではなく、霊のレベルで、キリストが救世主として降臨して、男女の霊レベルで一体になり、性差はなくなり、人類は霊的な両性具有となって、再生を回復し、甦るわけである。結婚は霊的再生の儀式でもある。霊的合一されるので、離婚は不可能なんである。離婚ができる結婚は、結婚の意味もないので、肉体欲を求めるためのもので、欲望であるから、悪魔婚である。霊的にいえば、堕落腐敗婚でしかない。物質界で一緒に生活するという意味でしかない。勿論、精神的な合一を目指すなら、霊的合一に至るなら、真の結婚にもなる。それは恐らく、同じ霊団によるカルマの導きかもしれない。このように、人智学で、ボルグの本を読み解くと、古代アトランティス時代から、キリスト降臨がつながってくるわけなんである。だから、古代エジプトの最後の審判者の神トートは、キリストでもあると、解き明かされる。聖書から、キリストは、アルファであり、オメガである存在なので、神トートなのであり、それは人類の祖アダムであり、YHVH神の子である形態霊でもある。例えば、次のようなアンクで有名な古代エジプトの象徴図は、霊界の真実を表現しているらしい。下の象徴図のなかの、上にある「椰子の若木」とあるのは、生命エネルギーで霊界の太陽の「イシスの楕円」とつながっている。「へフ」は、時の神トートで、時代霊を意味する。へフの頭には、「円盤と蛇」の図があるが、円盤は生命のエネルギーで太陽神、そして蛇は、月神を意味する。図のなかの、下のオシリスの神のタウは、キリストの救世主の十字架で、タウとは、トバルカインのタウ文字で有名で、物質界の真実を意味し、つまり、人間の認識を、キリストの救世主の神意まで高めろという意味。三種の神器の、マナス、ブッディ、アートマを表わし、三位一体の完成を意味する。ピラミッドの三角形でもある。アンクankh 古代エジプトの聖なる印 (karakusamon.com)エジプト神話・神名リスト:ヘフ (moonover.jp)ウワスWas 杖 (karakusamon.com)生命の木と柱 (karakusamon.com)図のなかの下の「ウワス杖」は、後のモーセの杖にもつながり、下が二股なのは、神意から人間の認識が分かれ、光と影になったのを意味するのだろう。そして、上にセツ(セト)の顔と、翼や羽がついているのは、霊界の真実である神意を表わすから、人間の認識を、タウ文字によって高め、神意を再び獲得し、キリストの死からの蘇りと共に、霊能力を再獲得しろ、という意味になるだろう。図のなかの、中央のジェド柱は、生命の樹を表わし、つまり神意の生命エネルギーで、4つの台があるのは、エジプトのピラミッドの王の間にもあるが、一番下の台が、物質界を表わし、人体では物質体になる。その上の3つの台は、人体ではエーテル体、アストラル体、自我を表わすが、宇宙では物質界の上の霊界と天国を表わす。それぞれ、物質界の上に3つづつあるという意味だろう。ボルグの話だと、霊国が3層で、その上の天国が3層あるらしい。そして、物質界のグレー層のゾーンがあり、その下に地獄も3層あるという。ピラミッドでは、未完の地下室として地獄の冥界が表現されている。地獄は未完の不完全な人間を現わしているので、666の獣となるだろう。ボルグの書から、古代エジプトの象徴図とピラミッドが、宇宙の神意の、宇宙構造を現わしているのがわかる。また以前にも紹介したが、ピラミッドは人体の構造図でもある。古代エジプト人は霊能力により、神意を知っていたので、書物などに記述せずに、書物は独裁者により焚書されてしまうので、ピラミッドのような墓場に見えるように細工して残したのだろう。そして、墓場を荒らす者は呪われると伝説を残したわけなんだろう。実際に、ピラミッドの周辺は墓場荒らしの悪霊や、歴代のファラオが霊として、霊能力がなければ、いわば死んだのも知らずに地縛霊として憑依しているのであながち嘘でもない。欲深な人間こそ悪霊に憑依されやすいから、ピラミッドに金銭目当てでやってくる者こそ、悪魔や悪霊の餌食となるだろう。触らぬ神に祟りなし、である。もっとも神ではなく、堕天使悪魔であるが。このような、エマニュエル・スウェデンボルグの本は、数十年前に読んでいたはずなのだが、改めて読んでいると、以前は字面をただ追っていただけで、全く読んでいなかったのに気が付いた。当時は科学畑のなかにいて、唯物論に洗脳されていたせいもあり、シュタイナーの人智学にも出会う前だったので、霊界が面白可笑しくオカルトとして盛られて笑い話のような勘違いをしていて、どこか胡散臭く感じていたせいもある。人類滅亡という言葉が強調されたノストラ予言のオカルト本と同じに思っていた。例えば、次に紹介するサイトの管理者のような感覚が一般的だろうし、自分もそんな感じだった。わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡 エマニュエル・スウェデンボルグのこと (fc2.com)このような巷に溢れるオカルト本は、聖書も実はオカルト本なのだが、勝海舟が言ったとされる、坂本龍馬の西郷隆盛の人物評のように、小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば、大きく鳴る鐘のようなものだと、つくづく気づかされる。巷には、オカルト本のように、面白可笑しく都市伝説のように語られているドラマや映画が色々あり、そのなかで霊界と物質界との関係は、「素晴らしき哉、人生!」や、「天国から来たチャンピオン」、そして、「シックスセンス」、「ゴースト」などで、巧みに上手く表現されているが、ボルグの本を読むと、より一層、その背後のカラクリがわかってくるから不思議でもある。素晴らしき哉、人生! - Wikipedia天国から来たチャンピオン - Wikipediaシックス・センス - Wikipediaゴースト/ニューヨークの幻 - Wikipediaボルグによれば、恐らく、そのような映画やドラマは、霊界を物質界に知らしめたい霊たちが、特定の人物に憑依して、インスピレーションを与えて、そのような作品をつくらせている可能性もあり、ボルグの本も、そのような天国からの霊により、霊界を知らせるために、なかば自動筆記のように書かされている面もあると書いてもいる。自分も、このブログについては、何ものかにインスピレーションを与えて書かされている感じもしなくもない。高次の宇宙人にとっては、いまの地球が心配でならないのが感じられてくるのである。例えば、サヴァン症候群などは、霊界の霊が憑依して、自動書記をしている可能性が高いのは、本人に、書いたものの意味がよくわからないことでも、わかる。預言者のいなくなった現代では、そのような人物を媒体にして、高次の宇宙人の霊が、恐らく、時代霊か、民族霊クラスの天使が、地球人に警告していることも十分に考えられる。サヴァン症候群 - Wikipedia前回紹介した、アベルーセツの黄金時代のノアの系統の、預言者がいなくなっている現在では、地獄の領域を増やさないために、堕天使悪魔にいわば物質界で、人質にとられている人類を救出するには、悪魔に洗脳され、唯物論に囚われていない人物を探すには、サヴァン症候群のような人物を通して、とりあえずは、警告するしかできないのかもしれない。勿論、地球人全体が独裁者により完全に洗脳され、物質界の奴隷と化してしまえば、聖霊たちは、奥の手の最後の審判を繰り出すしかなくなるわけで、そうすると、地球人側の地獄堕ちの魂も増えてしまうわけで、悪魔の行動は制限されるが、同時に地球人の損害も大きく、できる限り、犠牲は少ないに越したことはないわけなんだろう。この地球の状況は人質を取って立て籠もる銀行強盗などと同じわけである。正に上にあることは下にもあるわけである。まずは、悪魔の洗脳から解放させるのが先決で、最終手段として最後の審判があるわけなんである。それは、まるで、親が子どもにそっちに行っては危ないよと、声高に叫んでいるのに、地球人は、子どもで幼稚なんで、その警告に全く気づいていないような状況に、地球人が陥っている現状が浮かび上がってくる。だから、前回、ボルグの天国での体験から紹介したように、他人を支配しないことと、不必要な財産をもたないことの2つの条件を、クリアしていくことが、とにかく、いまの地球人の最優先課題なんである。改めて警告するなら、ボルグの本から、地球人が二つに大別できるのがわかる。ぶっちゃけていうなら、天国に行ける人と、地獄に堕ちる人である。天国に行ける人とは、簡単にいえば、生命のエネルギーを与えてくれる人で、地獄に堕ちる人は、生命のエネルギーを奪う人である。この生命のエネルギーの原則から、人を利用して金儲けをしようとする人は、地獄に堕ちる人なのがわかる。最たる例は投資家や詐欺師なんかだろう。だから、他人を支配するのと、不必要な財産をもつのは、それだけで地獄に堕ちやすくなるわけなんである。ボルグの時代にはまだ銀行家もいなかったので、当時は、仕事をしない美食家(恐らく当時の貴族だろう)が、死後に実際に地獄に堕ちていた、とボルグは語っている。本人は地獄に堕ちているのにも気づかないらしい。生前と同じ欲望しかないので、死んだのにも気づかず、死とは無になる事だと思い込んでいるので、無になっていないから、死んでいないと錯覚し、悪霊として、物質界に肉体をもち生きている人に絶えず憑依しようとしているらしい。だから、そういう成仏できない悪霊が地縛霊として欲求を満たそうとして、物質界の人間になんとかしてちょっかいを出してくるらしい。霊界の詐欺メールであり、物質界の詐欺師と同じである。私は病院で働いた経験があるが、ボルグの本を読んでると、私には、霊能力はないが、なんかときどき気持ち悪くなることがあり、ボルグの話によると、いまのパニック症のような、突然吐き気がして、気持ち悪くなるのは、そういう悪霊が憑りついてくるときにそういう症状になるようで、いま思えば、病院にはそういう悪霊が沢山いたのかもしれない。当然その時は気のせいと思っていたが。この「気のせい」という表現は、「霊気のせい」の簡略表現なのがまたヤヤコシイが。そういう悪霊は欲望の塊なんで、本人に虐めている自覚もないのが遥かに面倒で、とにかく深呼吸などをして、精神状態を安定させて、悪霊に同調してしまい、欲望に駆られないのが重要である。パニック症について | メディカルノート (medicalnote.jp) ボルグが本のなかで説いているのが、まさに相応の理で、天の理の神意に到達するには、本人の努力次第で、やはり何事も自分で経験するのが、一見すると、遠回りのようにみえて、実は一番の近道なんだとわかってくる。天の理の神意にどれだけ努力して到達したかで、今現在の自分の立ち位置がわかってくる。言い換えれば、どれだけ周囲の人を救えたかどうかで、自分も救われるわけなんである。物質界の悪い見本でも、どれだけ周囲の人を稼がせたかどうかで、自分も稼いで、地獄に堕ちた政治家もいた。というのも、多くの高い税金で、多くの人々を虐げ、路頭に迷わせたからである。救うのではなく、虐げるのでは地獄行きである。このように、ボルグの本を読んでいると、霊界も物質界も、宇宙の一部で、相応の理を基にしているのがわかる。そこで今度は、輪廻転生について考えてみたくなった。輪廻転生をテーマにしたドラマで、非常に面白かったのは、以前も紹介したが、世にも奇妙な物語の、バカリズムの来世不動産である。このドラマと違って、人間は人間にしか転生できないのは、人間が他の動物とは異なり、個人的な自我をもつためで、だから、人間だけが個人的な死を経験するのが、人智学から解き明かされている。世にも奇妙な物語|土曜プレミアム 世にも奇妙な物語 2012年秋の特別編 - フジテレビ (fujitv.co.jp)シュタイナーによれば、動物は集合自我を、あの世に持つために、人間のような死はないという。人間も、月紀のときは動物と同じだったようで、いまのような物質的で個人的な死はなく、だから、個人の輪廻転生もなかった。いまの動物のように、民族長の手足で、いわば細胞が幹細胞から分化して、分裂していくように生まれ、死もなく、生の形が変わる変態しかなかったという。つまり、死を介さない輪廻転生といえるかもしれない。月紀には、物質がなかったので、個人の違いもなく、動物のような種族の違いだけで、個の魂は、種族の族長の手足で、それはまるで、細胞が目的に応じて、分化するのと同じといえるかもしれない。だから、細胞がいまのように癌化することもなく、癌化するのは、人間が物質体をもち、個人的な自我をもったのに端を発する。だから、個になればなるほど、地獄に堕ちていくともいえるかもしれない。ボルグの書から、どっちつかずの魂のグレーゾーンの見極めのために、現世への転生があると、先に紹介したが、不必要な財産の蓄積は、人体の肥満と同じで、病気に罹りやすくなるのと同様に、悪霊に取り込まれ、地獄に堕ちやすくなるわけでもある。また他人を支配したいと思うのは、自分に満足していないのと同じで、自分の生命エネルギーを自給自足できていない証拠で、他者から生命エネルギーを略奪しようとする虚弱さなので、いわば寄生虫だから、霊界の同調の法則で、同じような寄生生物を呼び出してくるわけで、感染症に罹りやすくなるわけである。さしずめ、巷の裏金政治家どもは、税金に寄生する、この寄生生物と同じで、死んでも死にきれずに、地獄にそのまま堕ちていくだろう。このように、物質界とは、天国に行けるか、地獄に堕ちるかの、テストのいわばリトマス試験紙といえるだろう。だから、キリストは、天国に行けるかどうかは、いまのあなたの生き方による、と述べているわけなんである。この国の少子化の霊的な原因を探れば、あまりにも地獄に堕ちる魂が多いので、地獄生産国として、国が悪影響をもたらすので、新しい霊魂が転生を敬遠しているのかもしれない。増税メガネのような無能な略奪者がトップなんだから、言わずもがなだよねぇ。天使の試験に合格するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★第6文化期の準備のためにルドルフ・シュタイナー1915年6月15日 デュッセルドルフ 友人により設立されたグループのお披露目のために、今日ここに集っている。このグループは、人智学運動ではお馴染みの方法で、現在や未来の人間の霊魂の向上のために、自らを捧げるのを望んでいる。 このような機会に、なぜ、グループで集うのか、なぜ、共同でグループを設立し、自らを捧げ、霊魂の宝を育成するのか、などを自問するのは良いことである。 もし、この自問に答えるなら、このようなグループで、たとえ思考だけでも行う機会と、世の中での他の仕事とを、はっきりと区別すべきなのに気づかなければならない。人間の霊魂の進化に関わる、霊的な真理に深く参入するのを望まない人は、恐らく次のような疑問をもつかもしれない。 「わざわざグループをつくらなくても、人智学の講義者を見つけてきて、見ず知らずの人々で集まって、霊魂の宝を話題にし、アプローチする機会を与えるだけでも、人智学から育成できるだろう。」 勿論、そのように、ゆるやかに進むこともできる。しかし、広い意味でも狭い意味でも互いに知り合い、このようなグループのなかで、友情や友愛を深め、人智学と切っても切り離せない魂の姿勢を充分に意識することが、グループの基礎を築き、存続させる。 人智学の霊的な知識を育成したいと願い、友愛と調和をもって共働するのを衷心から願う人々がいるのは十分に意味がある。意識的に交わる魂たちに、キリストを中心にした聖霊たちが話しかけているのを知っているが故に、我々グループの間では、他の人々とは全く異なる話ができるという、この事実が、我々グループの関係と交流に影響を及ぼすだけではない。 ただそれだけではなく、また別の影響も考える必要がある。グループの設立は、自分たちの活動のなかの、魂の最奥のなかの憧れの性質を理解し、その性質から生まれる衝動を把握し、心の運動として理解した概念全体と関係している。だから、我々グループの活動は、外的な通常の感覚で捉えられる物質界での、人間の外に向いた心により把握される関係にとって、意義深いだけでなく、グループ内での、心の活動を通して、我々の魂が、神々との霊界での現実の関係、かつ純粋な絆を求めている、ということも、全員が意識する必要がある。 だから、何度も何度も、覚醒意識から、潜在意識のなかにまで、自らで、次のように祈るべきである。 「人智学の魂の育成により、自分の魂を、地球だけでなく、高次のヒエラルキー(位階)の存在たち、不可視の霊界の存在たちが住む圏内に上昇したい」。 自分たちの仕事が、これらの不可視の世界にも意義を与えること、実際、これら不可視の世界のなかにいるのに気付く必要がある。霊界においては、このようなグループ内で互いに馴染みのある人々によりなされる仕事は、グループの外で行われ、世の中に広がる仕事とは全く異なる。 我々グループ内で友愛の調和において実行される仕事は、外界での他の仕事とは全く異なる意義を、霊界に対して持っている。この事を十分に理解するために、近年多くの面において研究してきた霊的な真理に到達する必要がある。 ポスト・アトランティス時代における地球進化は、古代インド文化からはじまった。この次に来るのが古代ペルシア文化期である。呼び名は大まかな意味で、厳密にいえば、適切でないが、いまは深入りしない。 それからエジプト-カルデア-バビロニア文化期が来る。それから、ギリシア-ラテン文化期、そして我々の第5ポスト・アトランティス文化期である。これら各々の文化期は、特定の外的な形態と、この外的な可視の物質界に対応する精神生活を魂のなかに育成してきた。しかし各文化期は、同時に、後続の文化期に来るべき精神生活を、魂のなかに準備し、後続の文化期のために、その進化の準備段階を担う必要がある。 古代インド文化期の、いわば子宮内で、古代ペルシア文化期の魂が準備された。古代ペルシア文化期の内部で、エジプト-カルデア文化期の魂が準備された。そして、我々の第5ポスト・アトランティス文化期は、来るべき第6文化期の魂を、精神生活を準備する必要がある。だから、人智学の課題は、自身の魂の、永遠の生の為に、霊的な財宝を獲得するだけでなく、第6文化期固有の外(唯物)的な仕事の、外的な細胞の核となる霊的な真理に到達するための、参入法=修行法を準備することである。
2024年06月17日
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エマニュエル・スウェデンボルグの本を読んでいると、巷のこの国の現状が、ノアの箱舟の洪水前と非常によく似ているのがわかる。巷は詐欺に満ち溢れ、誰もが金儲けのために、平気で人を欺き、政治家までが、裏金つくりに勤しみ、政治にはカネがかかるなどと嘯いている。カネのかからない政治をするのが本来の仕事なのに、無能さを反省することなく、全くアベコベで開き直っている。国民が増税の圧政に苦しみ、少子高齢化が進んでいるのに、この国の政治家の自覚もなく、どこか他の国の出来事とも思っているのか、どこ吹く風である。この国の現状をみれば、神様が人類を、少なくとも日本人をつくったのを嘆いているのが、明らかだろう。腐敗堕落の極みの現代である。いまできるだけ快楽で生きられるのが全てと考えている。自己愛のとどまるところを知らない愚か者ばかりである。もし、安倍晴明がいたら、現代人の心のなかを見通して、怪物や妖怪だらけと喝破するだろう。増税メガネお化けが総理なんだから、妖怪に乗っ取られて、もうこの国は終わったようなものだろう。本人は死後に地獄に堕ちることなど全く考えられない哀れな痴性の持ち主なんで、呆れてしまうよ。自分さえよければいい、という人間はヒトではなく、666の獣である。安倍晴明のような陰陽師は、霊能力を遺伝的に継承していたので、心を見通せ、霊名を戒名のように名づけたようだが、それが、後の仇名となったのかもしれない。晴明のような霊能力者でなくても、古代人は、自己愛の酷い人間を、妖怪や化け物と名付けたようである。現代人は、外見主義なので、ルックスから、仇名などをつけがちだが、古代人は、心の特徴などの精神性から、名前をつけたようである。名前が変わることで、生きる方向が定まり、新たな自分が誕生する!(釈 徹宗) | 現代新書 | 講談社(3/5) (gendai.media)それは聖書の命名でもあきらかで、アダムは、古代ヘブライ語では、土や地という意味をもつ。人類の祖で、土台という意味でもある。土星の土でもある。英語ではサターンだが、ギリシャ語ではクロノスで、農耕の神なので、土と関係するし、また、時の神ともいわれているのも、人智学の宇宙進化論の、土星の座天使が、犠牲を智天使に捧げたが、受け取られずに、返され、時間が生じた出来事からもわかるだろう。東洋で、土星に土が割り当てられているのは、五行説からだが、五行説は古代アトランティス時代の天使説~天動説に由来しているので、人智学の土星紀を意味し、座天使の意志霊で、当時の人類はまだ肉体しかもたなかったので、神秘学で、肉体を意味する土が、古代ヘブライ語のアダムとなったと考えられる。土といっても、科学的にいえば、意志霊の火による土なので、熱でできた土の固体という意味になるだろう。固体といっても当時は物質はなかったので、エネルギー体で、いまでいえば、プラズマの雲のような感じかもしれない。アダム - Wikipedia土星 - Wikipediaプラズマ - Wikipedia現代人は唯物論に染まっているので、本当の土のアダムをイメージするのはほとんど不可能だろう。それは、宇宙人を、いまだに、自分たちと同じヒューマノイドで、物質の肉体の持ち主と考え、信じ切っている浅はかさが物語っている。UFOを物質でできた飛行船のように考えているのが、幼稚ともいえる。そういう人たちは恐らく無神論者だろう。だから、そのような現代人は、自分たちを神として、科学信仰で、偶像崇拝している結果ともいえるだろう。しかし、実際は、堕天使ルシファーに洗脳され、騙されているのに気づいていない。宇宙人が、現代人と同じ姿をしているのなら、それはそれだけの知性しかないのを同時に意味している、同じ穴の貉なんである。確かに多少の知性の差はあるかもしれないが、それは肉体の差異でしかない、全体のモラルや道徳にとっては枝葉末節の違いでしかない。ボルグの本で、ボルグも、科学者なんて履いて捨てるほどいるが、神意を理解しているものはほとんどいないと愚痴っている。ボルグの時代でさえも、そんな感じだったわけで、現代では猶更、物質界でしか通用しないことを、それもローカルのなかの、ローカルの枝葉末節を、重箱の隅を楊枝でほじくるようなことばかりして、互いに騙し騙され合っている地獄の世界と変わりがない。核兵器などをつくって、地球の土地の取り合いをして、人類同士で喧嘩している現状を、神様が嘆かないわけがないだろう。きっとそのうち必ず最後の審判が行われる。人類なんかつくらなければよかったよ、と神様に思われないように、独裁者やこの国の為政者は気を付けた方がいい。ホントに地獄に堕ちるんだから。古代アトランティス時代の大破局を招かないように、再び、ノアの一族だけが箱舟で生かされるような人類滅亡の憂き目に遭わないように、改心するにはまだ時間が少しは残されている。神意である宇宙全体のモラルに、一人一人の個人が回帰できるように、自己愛を捨てていかないといけない。それには、前回紹介した、他人を支配しないことと、不必要な財産を貯めないことが、人生を生きるために、失楽から天国に戻るために、不可欠である。アダムの話から脇道に逸れてしまったが、アダムの土の意味がわかるはずである。アダムは神意で、生命の土台となる教えでもある。宇宙のモラル道徳で、土の道徳を耕すのが、人類の使命である。また現代人が勘違いしやすいのが、アダムといっても、それは個体ではなく、独りではない。アダムという、いわば天体のような肉体があると考えた方がいいだろう。だから人智学では土星紀と呼んでいる。勿論、次の太陽紀や月紀にも、土星紀の出来事が違った形で繰り返されるので、地球紀にも、アダムなる人類が民族の祖としてできたわけである。そして、アダムから、カインとアベルが生まれるが、カインとは、古代ヘブライ語では、鍛冶の意味をもち、アダムの土を耕すという意味もある。ボルグによれば、土からつくる存在で、神意からわかれた、人間の「認識」の意味をもつらしい。アベルは、霊や命を、意味するので、神意そのままである。アベルは羊飼いでもあった。羊は古代ヘブライでは身近な生命で、羊飼いは、後にキリストの救世主で、神の遣いと呼ばれた。アベルは、ヤハウエ神に、子羊の生命を捧げ、神意そのままだったが、カインは、自分流にアレンジした人間の認識を捧げたので、神は受け取らずに、カインに差し戻した。聖書のカインとアベルのこの話は、人智学の土星紀の、座天使の智天使への捧げものの話とよく似ている。カインはその後でアベルを殺して失楽したが、座天使の犠牲は差し戻されて、権天使の時間になり、力天使の運動につながる。この出来事から、後に、物質的な地球が生まれたのがわかる。物質的な人間が生まれるのは、カインの失楽からなのである。だから、ボルグによれば、カインによる、アベル殺しは、人間の認識による、神意の否定で、偶像崇拝を意味しているという。だから、このカインによるアベル殺しから、人類の失楽がはじまったわけなんである。カインから人間の神への抵抗の、「自由」が生まれたともいえる。しかし、ボルグによれば、この自由は見かけ上のものでしかなく、端的にいえば、地獄に堕ちる自由で、天国に行けない自由なのである。カインとアベル - Wikipedia羊 (jw.org)そして、カインの子孫により、後の唯物論が生まれるわけで、だから、カインはフリーメーソンでは崇拝の対象となっていて、シュタイナーは、カインの子孫たちの、特にトバルカインを神殿伝説として語っている。アダムから、カインが生まれ、神意から人類の認識がわかれたのを知れば、カインの後の子孫から、集団の民族意識が、個人の昼の覚醒意識へと発展していくのを、カインの子孫の失楽の経緯から解き明かされる。セト (聖書) - Wikipedia現代人は、アダムのこの系図を地上の人類の民族などを現わした図だと錯覚しているが、これは霊界の霊魂の系統図と考えるべきである。だから、カインは失楽の系図なので、地獄に堕ちた魂の系図といえるかもしれない。ボルグによれば、アベルはカインに殺されたので、天国に召されたままにとどまっている。シュタイナーは、キリスト降臨のときに、このアベルの神意の霊が降りてきたのを示唆している。カインの系統とは別に、セツの霊魂の系統がつくられて、その子孫のノアが箱舟をつくり、古代アトランティスの大破局を免れて、天国の神意を継承している。ちなみに、セツは、古代ヘブライ語で、授けられるという意味をもつらしいが、これは、神意を授けられるから、セツの子孫が、代々霊能力を継承した家系であるのがわかる。シュタイナーは黄金伝説として、アベルからセツへの祭司系の経緯を説いているが、古代アトランティスの大破局を乗り越えた、セツの子孫のノアに黄金伝説が引き継がれたのがわかる。この系図から、カインの子孫と、セツの子孫の両方に、レメクという名があるのに気づくが、ボルグによれば、堕落の極みの、破壊や破滅という意味らしく、征服者や兵士の意味もあるらしい。そもそも、兵器や兵士などは、人類が堕落腐敗した極みで、信頼感が失われ、低下した結果生まれるから、古代から戦争や武装などは愚か者の仕業なんである。現代人にも、攻撃性の意味をもつ名前をつける親もいるが、子どもは親の持ち物ではない。セツの子孫には、エレデという名もあるが、ボルグによれば、低下した、堕落した、という意味をもつらしい。シュタイナーはアベルーセツの系統を黄金伝説として、カインの系統を神殿伝説としているが、ボルグは、アベルを黄金時代と呼びほぼ同じだが、カインは、白銀時代と呼んでいる。面白いのは、破綻を意味する名のレメクの父にあたる名の、カインの子孫のメトシャエルと、セツの子孫のメトシャラがよく似ているところで、そのメトシャラという名は、最後の審判が来る、という意味をもつらしい。セト (聖書) - Wikipediaメトセラの生涯 (kyusaishi.com)創世記(10)—レメクとセツ— 創世記4章:17〜26 - メッセージステーション (message-station.net)創世記 5 章に登場する 10 人の名前が意味するもの<4D6963726F736F667420576F7264202D20916E90A28B4C358FCD82C9936F8FEA82B782E93130906C82CC906C95A8> (meigata-bokushin.secret.jp)名前の付け方にも、人類の知性の失楽性、堕落腐敗の程度がそのまま反映している。いまでは、仏教の戒名だって、現世的な物質的価値観の、金銭の値段でほぼ決められるので、俗世の坊主や宗教団体が、地獄に堕ちていくのは自明といえるだろう。だから、神をも恐れずに、詐欺師のような芸当ができるわけで、神や仏を本当に信仰していない偶像崇拝のなせる業ともいえる。宗教には縁のなかった、自分は科学畑を歩んできたが、驚くべきことに、あまりにも無神論者や偶像崇拝者が多いのに、辟易してしまった想いがある。科学的知識に洗脳され染まりきって、物欲や、虚栄心や名誉欲の虜になっている人が多い。また説教好きも多く、閉口したものである。宗教団体の危ない勧誘を逃れるためには、科学は非常に役に立つが、そういう畑で暮らすにはある程度染まってしまうのも否めない。ボルグが説くように、何処の世界も、真新しい看板を掲げては親しくやってきて、話しかけて罠にかける詐欺師のようなのが、沢山いるもので、そういう輩は悪魔に憑依されているらしい。現に悪魔に憑依された連中が、日々詐欺メールを送ってくる嵐に閉口している。そんなにヒトを騙して、支配したいのだろうか? 人を支配すれば自分が地獄に堕ちるだけなのに。何より他人を支配したいのは、悪魔の体質だからである。さて、大谷選手の活躍でMLBのドジャース戦はほぼ毎日欠かさずみているが、それに比べ、日本のプロ野球はほとんどみないが、それでも子どものときは野球少年で、王、長嶋の時代なんで、はじめは巨人ファンだったのだが、長嶋選手引退とともに、江川問題で、アンチ巨人になった。江川事件 - Wikipedia江川問題は、大人たちが騒いでいたのもあり、巨人じゃなきゃ、野球をやらない、という言い訳が、我儘にみえたのもあり、当時地元の少年野球チームに入っていて、江川選手がUSC留学のチームで日本遠征したのを、チームで見に行ったときに、江川選手よりも速い球を投げるタツノ投手に魅了されてしまい、せっかく見に行ったのに、江川選手が投げなかったのもあって、米国の大学野球レベルでも、ナンバーワンでもないのに我儘を言っているようにみえて、非常に癪に障り、当時の日本のプロ野球の巨人人気依存体質に嫌気が差した思い出がある。この江川事件は、子ども心には、大人の世界の闇を感じさせ、当時のプロ野球の巨人依存体質に、どこか時代劇「水戸黄門」の悪代官と悪徳商人の癒着ぶりを連想させ、これを機に、アンチ巨人というか、アンチ江川になり、江川投手を攻略し、滅多打ちした強竜打線の、中日ファンに転向した、懐かしい思い出が蘇ってくる。強竜打線 - Wikipediaプロ野球の話をはじめたのは、「巨人」、「強竜」というネーミングが、ボルグが説く、人類の堕落と関係が深いためである。ボルグによれば、「巨人」や「ジャイアンツ」は、古代人が、堕落した人間を呼ぶ名で、現代風に解釈するなら、いわゆる巨大な自己愛や物欲、虚栄心、名誉欲に憑りつかれ、堕落腐敗した人間の精神状態を指した名称なんである。ボルグによれば、聖書では、巨人の他に、娘や女などが、誘惑を意味する言葉として使われるという。聖書の表現は、あくまで精神の世界を描いたもので、物質的感性や言葉で解釈すると逆の意味になる。だから、聖書を外見主義のルッキズムで解釈すると、誤訳し、そのまま地獄に堕ちるのがわかる。聖書は心の声、神に対する信仰心に従って読まないといけない。ここにも、主なる神意に従って解釈しないと、偶像崇拝につながってしまうわけなんである。だから、ぶっちゃけていえば、巨大な我儘をもつ人を、巨人というわけで、独裁的な人物、例えば、プーチンや習近平や、北の将軍などを、古代人は、巨人と呼んでいたわけで、蔑称といえる。だからヒトラーなどは大巨人と呼ばれたかもしれない。主なる神への信仰心を忘れ、自らを神とするような独裁者は、勿論、知性が重すぎて、天国にはいけずに、死後地獄で這いずり回るしかないだろう。人間の死について無知なので、現世では、巨人でいられるわけでもある。不思議なことに、プロ野球の球団名には、蔑称がよくある。強竜も、恐竜のドラゴンで、道徳的な知性をもたなかった人間の昔の姿で、堕天使悪魔を表し、中華思想が、ルシファーの受肉に端を発している事から、皇帝を月に棲むドラゴンと呼んでいたのは神秘学では割と有名である。古代中国文化が、古代アトランティス文化の残滓なのは、今年が龍の年で、以前にも紹介した。中華思想 - Wikipediaまた、ヤンキースのヤンキーは、古代の独裁者の名だし、MLBでも、差別につながる球団名を変えるようになってきているが、物質的な知性を超えて、霊的な知性が浸透するにつれて、ジャイアンツなどの、人間の堕落腐敗を意味する言葉がなくなっていくかもしれない。ボルグによれば、巨人は、ヘブライ語の堕落の意味のネフィリムに由来するという。ネフィリム - Wikipediaノアの箱舟の伝説は聖書を知らなくても、有名な話となっている。何度もいうが、詐欺師が至る所に跋扈するこの国の現状は、ノアの箱舟の洪水前によく似ている。ボルグによれば、天の理の神意、つまり正しさは、YHVHの叡智から発せられる。言い換えれば、救世主の愛といえるかもしれない。この愛なくしては、どんなものも嘘でしかない。YHVHに至らない知性はホンモノの知性とはいえない。ボルグの聖書解釈によれば、アベルの系統を受け継いだセツの子孫は、代々、預言者の家系で、神意を受け継いできたが、カインによる自由への人間の認識で失楽した人間が増えてきて、死後に地獄に堕ちる霊魂が多くなってきた。人間の認識による信仰心ほど危ういものはない。現に、地にある宗教教団はどれも胡散臭いもので、ボルグも、どの教義も神意を捻じ曲げて伝達していると説いている。だから、神は正しいが、神でない人間は間違えるわけで、自分の認識で正しいと考えるのは本当は正しくない。人間の認識は常に間違っている、と考えるべきなんである。ソクラテスは、これを神との対話と呼んでいる。ソクラテスは、ボルグが霊界参入から説いた神意と人間の認識がわかれる失楽前のアダムの時代まで、霊魂を先祖返りさせるのを、神との対話で取り戻し、古代ギリシアでの修行法の哲学を説いたわけだろう。人間に、善と悪を選ぶ自由はあるが、悪を選ぶと地獄に堕ちる。現代人は浅はかなので、自己愛を正当化するときに、自由という言葉を使うが、使い方を間違えている。ボルグも書で語っているが、例えば、愛国心は国を愛する意味では善だが、人類全体の愛に対し、正当化するのに用いるのは、偽善にすぎない悪である。偏った愛は悪で、広く全体に通用する愛でなくてはバランスを欠く。つまり、全体の神意に到達しない愛は、人間の認識で身勝手に判断した、愛というよりも憎しみに近い、そのような憎しみを抱えていれば、死後、地獄に堕ちて、天国に行けないのは当たり前の道理である。ボルグによれば、聖書では、神意を、生命の樹と呼び、人間の認識を、知恵の樹、もしくは実と呼んでいる。知恵の樹や実を、人間が食べ過ぎると、神意を忘れ、人間が自らで認識し、自由に判断し、ついには、自分が正しいとまで思い込み、王国の王や、宗教団の僧侶のように、神に成り代わった支配者にまでなろうとする。自らの認識を鵜呑みにする人間は、神ではなく、ルシファーであるのに気づくべきなのだ。このように、現代人の多くが、カインの子孫と、ノアの子孫の霊魂を引き継ぎ、この地に転生しているが、依然として、キリストの救済に耳を傾ける者は少ないのは、現状が、ノアの箱舟の洪水前に酷似しているのでわかる。そのうちに、メトシェラという名が現れたら警告となるだろう。面白いことに、NASAに名付けられたメトシェラ星があるらしい。宇宙最古のメトシェラ星にまつわるミステリー - ログミーBiz (logmi.jp)HD 140283 - Wikipediaこのメトシェラ星、現代の宇宙科学からビッグバンよりも古いと観測されているらしい。現代の唯物的な宇宙論が、宇宙がビッグバンから生まれたと考えているので、このメトシェラ星は、現代の物質界の終末を預言しているのかもしれない。いずれにしても、物質的感覚の限界を示している星といえるわけなんである。物質的感覚から生まれているのが、物理学の質量の概念で、アインシュタインは、等価原理で、質量を歪んだ時空のエネルギーに帰した。しかし、量子力学では、質量そのものを素粒子に帰す、非対称性のヒッグス機構のヒッグス粒子を想定し、エネルギーとして同定してはいるが、また別の重力の媒介子グラビトンの質量を、歪んだ時空に帰する重力理論との整合性は、ディラックの海のような超対称性のダークマターを想定しないと、このメトシェラ星の古さと同じような矛盾に陥ってしまうようである。人類は知恵の実を食べ過ぎて、特に現代人は、知性の下痢を起こしたようである。消化できない食べ物を口に入れ過ぎれば、消化不良を起こすのは当然で、消化を助ける生命の樹が必要になる。生命の樹は神意で、モラルや道徳の愛なので、十戒を守り、他を支配しないで、不必要な財産をもたないのが、現代人に求められる修行法なのはいうまでもないのを、メトシェラ星は警告しているのかもしれない。いま、自我を霊我にまで到達させる、現世での生活が望まれているために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。★ ★ ★以前の私(シュタイナー)の講義「人智学の基礎をどう見いだすか」で、次のような譬えを話した。ある少年が、家族のために朝食用のロールパンを買いに、ある村に通っていた。その村では、ロールパン1個が2クロイツァーしていたが、その少年はいつも10クロイツァーを親からもらっていた。その少年は沢山のパンを買って持ち帰っていたが、算術が得意でなかったので、パンの数などは考えていなかった。あるとき、その家族に養子がやって来た。彼はその少年の代わりに、パンを買いにいくようにいわれ、その養子は算術が得意だったので、次のように考えた。「10クロイツァーで、ロールパンを買いに行く、パン1つが2クロイツァーで、10÷2は5だから、5個持ち帰るはずだ。」ところが、家に帰って袋のなかをみると、なんと6個のパンが入っていた。「おかしい! 10クロイツァーで6個も買えるはずがない。今日はパン屋がたまたま間違ったのか、明日は5個持って帰るだろう。」しかし、次の日も10クロイツァーで6個のパンを持って帰った。計算では5個だが、現実は計算とは違った。というのも、その村では、パンを10クロイツァー買ったら、おまけでもう1個のパンをもらう習慣があり、5個ではなく、6個となったからである。その養子の計算は正しかったが、現実の習慣には合っていなかったのである。 このように、人智学への批判的な反論は、算術のように論理的には「正しい」かもしれないが、物質界とは異なる原則からなるホンモノの世界には当てはまらない可能性もある。この顕著な例は、数学的に正しい事実と、霊的な事実との間の違いを理論的に示している。 以上のように、人智学徒の努力により、マーヤの世界を取り去れば、霊的な事実に導かれ、回帰していく、のが示された。この霊的な参入過程が示すのは、土星紀の霊視から、火とは、犠牲であり、太陽紀の霊視から、空気とは、流れ、与えられる徳であり、月紀の霊視から、水のような流体とは「諦め」や「拒絶」による成果だった。そして、今回の地球紀の霊視から、この3つの真実に4つ目の真実を付け加えた。それは、土、もしくは固体の本性とは、死であり、それは、宇宙の神的な生命、進化目的からの分離だった。この分離が始まったとき、死が、マーヤの幻想の世界に、1つの霊的な真実が入ってきた。宇宙の神々は、なんとかして物質界に下降し、そのマーヤの、幻想の世界での死を、実際に経験しない限りは、決して死を知り得なかった。 以上が、これまで議論してきた概念に付け加えたいことである。これらの概念は、マルコの福音書を、霊的に理解するのに、とても必要な概念で、この霊的な明晰さを獲得し、神意へと到達するには、日々の生活から、節度を守って、規則正しく準備した瞑想を通して、この4つの元素霊の概念を、繰り返し、魂に経験として作用させる必要がある。というのも、マルコの福音書を理解するには、神意から発した、宇宙の進化過程のなかで生じた様々な出来事の概念のなかに、人間の認識の基盤を置く必要があるからである。
2024年06月13日
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エマニュエルスウェデンボルグが、天の理を知っていたと評したニュートンは、「私(自我)は仮説をつくらない」という言葉でも有名で、当時、光を媒介し、伝播している存在と考えられていたエーテル説を嫌っていたと、唯物論者に誤解を与えているが、ボルグの説く「天の理」を理解すれば、ニュートンは、エーテルを物質的に捉えている、当時流行の考えを嫌っていただけで、そのエーテルという専門用語の一人歩きの、実存に対する虚像の、つまりエーテルを直接みれる霊視力もないのに、あるかのような、詐欺師的な態度を嫌っていたようである。 ☆ ☆ ☆161 われは仮説をつくらず:仮説と時代 (sgu.ac.jp)「壮麗きわまりない体系」が、「至知至能の存在」によって生まれたと考えました。ニュートンは、このような運動の法則で規定されない規則性を「至知の意図」や「唯一者」などという「神」に起因させたのです。そこで、有名な「われは仮説をつくらず」(Hypotheses non fingo)ということを述べました。 ☆ ☆ ☆ニュートンにとっては、計算も、詐欺師的な態度で、直感的な認識により、自明でないと、天の理を見通したことにはならない、という考えをもっていたようである。上に紹介したリンク先のブログからもわかるが、ニュートンは、天体の運動を、天の理の、神の意志、つまり神意と考えていて、人智学でいうところの、運動霊の力天使に求めていたようである。ちなみにボルグによれば、神意と認識は、元々は同じものだったという。人間の失楽により、神意から、人間の認識が分かれて、別になった。人智学では、神意が潜在意識で、人間の認識を覚醒意識としている。つまり、人間の覚醒意識は、潜在意識を外側からみているにすぎないので、皮相意識ともいわれる。人間は物質界での経験を基に、潜在意識から、見える部分を覚醒意識として取り出しているにすぎない。だから、人間は、皮相意識の上に、個人の自我意識を確立している。この自我意識による物質感覚は、エーテル感覚とも呼べる。しかしながら、この感覚はニセモノの自我で、ホンモノの神意の、霊我ではないので、現代人はこの認識を捨て去り、超えないといけない。ニュートンはこの物質感覚を嫌っていたようである。というのも、この感覚は、神意から分かれた認識でしかないからである。ましてや、この認識を数式化するのを嫌ったようである。神意でないものを記述するのはおかしいわけで、偶像崇拝でもある。残念ながら、現代人はカリユガの時代を輪廻転生で通過してしまったために、ニュートンの本物の力学を直接理解するには、地上で、多様な立場を経験し、心の修行をして、エーテルを直接みれる霊能力を獲得する他はないが、ボルグの書を読めば、ニュートンが考えていたエーテルが、人間が肉体を動かすときの心理のようなもので、宇宙の天体や物体を動かす、神の心理であるのが、自ずとわかるようになってくる。ボルグは、その書によって、天の理の、つまり神意の、いわゆる宇宙の心理を解き明かしているのだが、人間は誰でも、お釈迦さんや老子が説いたような、「足るを知れば」、この天の理に近づけると、天国の話から紹介している。そして、その足るを知るのに必要なのが、2つの条件で、他人を支配しないことと、不必要に余分な財産をもたないことであるという。この2つの条件は、いまでは人間がすっかり堕落腐敗して、知性が曇ってしまったので、十戒の10個に増えて、有名になっている。例えば、江戸っ子の、粋の生き方とされた、「宵越しのカネはもたない」の源流は、この不必要に財産をもたない、にあるのかもしれない。あと、他人に指図されない条件がクリアされれば、江戸は天国だったかもしれない。宵越しの銭は持たない - Wikipediaモーセの十戒 - Wikipedia1. 主が唯一の神であること2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)3. 神の名をみだりに唱えてはならないこと4. 安息日を守ること5. 父母を敬うこと6. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)7. 姦淫をしてはいけないこと8. 盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)9. 隣人について偽証してはいけないこと10. 隣人の家や財産をむさぼってはいけないことこの十戒を、ボルグ風に言い換えて、より詳細に具体的に説くなら、恐らく次のようになるだろう。1.主が唯一の神であること⇒天の理の神意を知りなさい2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)⇒神意でない、物質や仮説を信じるな3.神の名をみだりに唱えてはならないこと⇒物質や外見に囚われるな4.安息日を守ること⇒睡眠時間を十分にとりなさい。5.父母を敬うこと⇒神意の霊の知識と、地での物質界での経験の知識とを両立させなさい。6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)⇒他人を支配しようとするな。7.姦淫をしてはいけないこと⇒人間をモノ化、奴隷化するな。8.盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)⇒不必要に利益を上げようとするな。9.隣人について偽証してはいけないこと⇒自分の則を超えるな10.隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと⇒自分の足るを知りなさいこの十戒を守れば、誰でも、天の理の、神意に近づけ、天国の、ヘブライ語で、喜びや、楽しみ、愛しさを意味するエデンに住める、というわけなんである。また、ヘブライ語の、ハレルは、神意を賛美するという意味をもつらしいが、日本語の、「晴れる」に近い発音なのが面白い。ヘブライ語と日本語の共通発音は、八切史観の、ペルシャ経由での、ペーの平氏伝来からも読み解ける。ウイキによると、ハレルの語源は、旧約聖書のテヒリームにあり、その単数形はテヒラーと呼ぶらしいが、これは日本語のトーラーの寅の巻にも近い発音でもある。ハレルを、テレルと呼ぶなら、日本語の、「照れる」にもなる。エデンの園 - Wikipediaハレルヤ - Wikipediaボルグによると、ハレルは、ヘブライ語のテント(天幕)を意味するアオハルに由来し、それは楽園にいたときの人類が、家族単位でテント生活し、父親を中心に、神を賛美していた信仰習慣に起因し、アオハルが、ハレルになったという。面白いのは、日本語のアオハルが、青春と読めるところである。日本語のテントは、英語の「伸びる」のテンションに由来しているようだが、寺のテンプルの語源が、神殿にあり、神意が地に「伸びる」と派生して考えれば、日本語の「青春」が、低俗俗物化して、寺での交配の隠語になるのも、八切史観から解き明かされて面白い。ハレルに、ヤハウェのヤーをつけて、ハレルヤーとすると、ヤハウェを賛美する、のヘブライ語となるが、日本語では、ヤーは、大和のヤーで、ヤオロズの八幡神でもある。十戒で、神の名を無暗に唱えるな、とあるように、勿論、ヤーは偽名で、本当の神の名は、YHVHのテトラグラマトンのY、H、V、Hの4つの世界を統合する唯一神の、天の理の神意なのが、ボルグの話からもわかる。ちなみに、エホバという偽名も、以前紹介したように、YHVHに、主のアドナイを母音としてあてはめて、ヤハヴェが訛ってエホバとなっている。いずれも偽名である。テトラグラマトン - Wikipediaこの4つの世界を、上の天から、下の地まですみやかに妨害なく神意を伝え、バランス良く統合すると、地は天の楽園となる、のが、ボルグの話から明らかになる。だから、この神意をすみやかに獲得する、認識力が、霊能力で、神意が、人間の認識に分かれる前にまで、蘇らせるのが、輪廻転生の目的である。それにはまず人種や民族や文化の壁を乗り越えないといけないわけで、外界に学び、外界に囚われないようにならないといけない。ボルグによれば、楽園にいたときの、人類は、家族単位でつかず離れずの距離感をもって暮らしていたらしい。当時の人間社会には、神意を伝える父はいたが、政治などはなく、王や僧侶もいなかったという。つまり、人智学でいうところの、集合魂の族長はいたが、それ以外は、族長の手や足だったわけで、天意の神意が、族長という父を通じて、家族に伝達され生活していたので、他人を支配するような、不必要な財産をもつような、そのような機会はなく、不可能だったという。そもそも、神意がバランスよく伝えられ、妨害されることなく、下から上へと反応されていたので、天国がそのまま物質界に反映していたという。内の心が外の体にそのまま反映している健康と同じである。そして、当時の教育は、子どもが、父のように、神意に達するのを、一人前とし、第2の誕生と呼んでいたという。だから、一人前になるまでの子どもは、父を介して神意が伝えられていたという。これは現在では形骸化して、つまり肉体の成長具合だけをみて、心をなおざりにした、成人となっているわけだが、本来は、心の眼の、心眼を獲得したとき、いまの仏教でいえば、成仏の意味で、だから、現代人のほとんどが、心の上では、未成年で、この楽園時からいえば、現代人は子どもしかいないことになるだろう。つまり、現代は、カリユガの時代を通過したために、霊界も成仏できない悪霊ばかりの地獄で、渡る世間は鬼ばかりになっているわけで、安易に霊能力を獲得してしまうと、詐欺にひっかかるように、悪霊の仲間に飛び入り参加させられてしまうので、守護霊により、競走馬のブリンカーのように、外の覚醒意識に集中するように、目隠しされている状態にある。現世でも詐欺的な行為をする者は、いわば悪魔の手下となっている自覚もないので、要注意である。犯罪がバレて刑罰を受ければ改心も生まれるだろうが、バレずに死ぬと、悪霊の一味に強制参加させられて地獄送りなんである。だから、十戒を守る事が必定で、それでも、天の理の神意に到達するには初歩段階にすぎないようである。物質界で獲得できる物質的な知識レベルは最も低次な知識で、善と悪を見分ける知識だが、この知識に囚われていると、その上の霊的な知識に進めないので、いわば楽園時の人類でいえば、未成人の子どものままでいることになる。しかし、低次の知識とはいっても、良心から、善への方向性が羅針盤として身につくので、ないよりはあったほうが良く、リスク回避の知性にはなる。悪魔が近づく警報になり、子どもが、非行や暴走に走らずに済むわけなんである。この物質性の知性を超えて、霊的な秩序や、モラルの知性に目覚めると、人智学でいうところの、イマジネーションの霊視に目覚めるようになる。端的にいえば、物質のベールを取り去って、心がみえるようになる。いわゆる心眼の獲得を意味する。心眼を獲得すると、地での教師から卒業し、天の霊界の教師の教えに同意するようになるという。この卒業が成仏で、本当の成人といえる。そして、更には、その上の、天の教師の教えに自主的に従うようになり、いわば人智学のインスピレーションを獲得する。更にその上の、人智学のインテンションを獲得すると、ボルグが説く神意が瞬時に知覚でき、救世主のレベルに達するという。どうも、ニュートンは、この救世主レベルを目指していたようで、だから、「仮説を述べない」と言ったようである。だからニュートンは物理学だけでなく、他の学問も学び、当時の物理学のような科学は、霊界に参入するための初段階だったようである。それは電磁誘導を説いたファラデーが数式を嫌ったエピソードでもわかる。全ての知性は、YHVHの神意から発せられるので、その認識を再獲得するのが、学問の主眼となっていたようである。だから、神学や数学や音楽や物理学などの学問の分類は、後付けで、現代の学問から遡って、源流の哲学に達し、更には神話に到達できずに、単なる唯物論での分類論のままでは、せいぜい物質界にいるときにしか役に立たず、しかも死んでしまえば、何の意味もなくなってしまう。どんな資料や記録書も燃やし消滅し、書き換えられれば、無意味になるのは、聖書の現代解釈が、ほとんど無意味な空想事になっているのでもわかる。キリストを実在の存在とみなせない、キリスト教会もあり、巷にはアンチキリスト教会ばかりが金儲けやら、他人を支配することにせっせと汗水流している。キリストを利用して自らの欲望を遂げようとする悪魔崇拝ばかりの世のなかなんである。だから、先の十戒により、現代は、YHVHの形態霊から与えられた、人間の自我を知り、その自我の則を超えずに、足るを知り、自我を、天国のエデンのマナスの霊我に近づけ、人体の4つのYHVHの体をバランスよくすみやかに統合し得るような、人間の修行の進化過程にあるのがわかる。足るを知るとは、天国への階段の2つの条件の、他人を支配しないことと、不必要な財産をもたないことをクリアすることでもある。キリストは地に降臨し、実際に実践して、その見本をみせた。足るを知る者は富む – 村杉温泉 環翠楼【公式】 (kansuirou.jp)ボルグはまた自らの宇宙創成論で、天国を説いている。このボルグの創成論は、人智学の人体4体説や、アリストテレスの4大元素説にも共通しているので、そのどれかを理解していればわかりやすい。つまり、それら3つの説を総じて、人智学的にいえば、宇宙は、宇宙の秩序をつくる自我意識から生まれ、意識を反映させる心の内のアストラル界をつくり、内の心を外の肉体の物質に伝えるエーテル界をつくり、そして、外として現れる物質界をつくっていったという。そして、天国とは、それら4つの世界の循環がバランスしながら瞬時に伝わり連動し巡る、いわば神意の連携がとれた、いわゆる神意の以心伝心が常に安定した状態を指す、というわけなんである。あえて物理学でいうなら、4世界での、角運動量の保存則というべきかもしれない。人体にも、この4つの世界の4層の、いわゆる、人智学でいうところの、自我、アストラル体、エーテル体、肉体の4つの体が、調和しバランスをとりながら、内と外とで連携している状態が、健康なんである。端的にいえば、霊と物質がバランスし、相応し、相思相愛で連動しているのが、健康といえる。現代風にいえば、心と体のバランスがとれたのが健康といえる。だから、物欲に偏り、精神がなおざりになれば、心のバランスが失われ、肉体を制御できなくなって、手探りで探るようになり、無暗矢鱈の過剰反応となり、炎症化し、やがて腫瘍化して、肉体が硬化していき、ついには、肉体を見捨てることになって、自我が肉体から離れ、人間の自我の死を迎えるわけなんである。これを人智学ではアーリマンの領域に下降すると例えてもいる。逆に、精神主義の、根性論やらイデオロギー、心霊主義などの差別や選民の精神論に偏ると、肉体を酷使して、休息や睡眠時間をとらないようになり、肺炎などから、過労死になってしまうわけなんである。だから、思想家は肉体を奴隷のように酷使し過ぎて肺炎で死んでしまうわけなんである。陽明学の王陽明が肺炎で死んだのは有名である。この行き過ぎた現場無視の、頭でっかちの、いまでいうブラック化を人智学ではルシファーの領域に下降すると例えてもいる。王陽明 - Wikipedia 霊の精神と物質とのバランスを失う、この2つの悪しき例が、先に紹介した天国への2つの条件の正反対の、他人を支配するルシファーと、不必要に財産を貯めるアーリマンであるのが、つまり地獄行きの条件であるのが、確認できる。だから、人間が物質界に輪廻転生するのは、この2つの悪しき条件に陥らないように、バランスをとり、クリアするために、つまり、神意に少しでも近づくための修行の場といえるわけなんである。天国への階段の2つの条件をクリアするために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ ゴルゴダの秘儀は、高次の世界には、死がないため、決して起こらず、死の元型もない。それは物質界にのみ存在し得る死を、再生に導く出来事なのである。だから、ゴルゴダの秘儀が理解できるのは、物質界だけである。地上で生きる人間の使命の1つは、現世もしくは、いつかの転生で、この秘儀を理解することなのである。 では、この死のリアルさ、その真相、つまり、物質界だけにある、この死の霊的な意味とは何か? それは人間だけの個人の死であり、鉱物、植物、動物などの他の世界や霊界にはないものである。地球の進化過程で生じる歴史的な出来事を理解するには、その元型を、霊界に探すために上昇しなければならない。しかし、ゴルゴダの出来事だけは、例外である。ゴルゴダの秘儀は、物質界だけに霊的な意味を伴って、現実に存在する。 また、このゴルゴダの出来事についての、唯物論的な観点も明らかになる。それは途方もなく興味深い。今日では、唯物論のため、キリストが死から甦る、ゴルゴダの出来事は、なかったものとされ、この出来事を事実と認めるのは不可能とまで言うのを聞くのは、非常に重要である。 ゴルゴダの秘儀ほど、物証が困難な出来事はない。これに比べれば、物質界での、人間の知性の発展に重要な、ソクラテス、プラトン、もしくは他のギリシャ人たちの、歴史上の出来事を議論するのが、遥かに容易なのを考えてみればよい。 現代では、「ナザレのイエスが実際に蘇った」のを、物証できないので、歴史上の痕跡から主張できないと、多くの人は考えているが、その否定的な歴史上の証拠も存在しない。いずれにしても、他の歴史上の出来事と同じように、ゴルゴダの秘儀の真偽は確かめられない。 この物質界でのみ生じた出来事が、超感覚的な、霊界での出来事と同じ特徴、つまり、物証できない、という特徴をもつのは正に特筆すべき事実である。そして、超感覚的な、霊界を否定する人たちの多くが、同時に、このゴルゴダの出来事を、超感覚的な出来事ではないのに、把握する能力を欠いている。驚くべきことに、キリスト教信者でさえも、この多数のなかに含まれている。 このゴルゴダの出来事、つまりキリストの再生が現実に起こったのは、この出来事が与える影響でも確かめられるが、唯物論を信仰する人々は、その現実のキリスト再生が、歴史上、実際には起こらなくても、それらの影響が生じ得る、と推測しているのである。 唯物論者たちは、その影響を社会学的な状況の結果で説明するが、宇宙の創造過程を理解する者には、「キリスト教」の影響が、その背後に立つ、霊界でのキリストの力なしで生じ得た、と考えるのは、畑に種を植えなくてもキャベツは育つ、と言うのと同じくらい愚かな考えなのである。 更にいうなら、福音書の著者個人も、ゴルゴダの秘儀という歴史的な出来事を、物証する必要もなかった。というのも、著者たちは、物質界でのキリストの痕跡から、再生後のキリストの姿を読み解いたからである。 もっともヨハネ福音書の著者は、生前のキリストと直に出会っているが、他の福音書の著者たちが、どうやって、ゴルゴダの出来事を確信できたのか? 当時は、伝承や秘儀の書物以上のものはなく、歴史的な出典からは理解できない。この状況については、私の著書「神秘的事実としてのキリスト教」で概説したが、「キリスト=イエス」の霊的な実在を確信できたのは、天体の運動を司る形態霊の働きを通してだった。 というのも、大宇宙と小宇宙の関係を非常によく知っていたので、霊的な知識、今日でも、獲得できるが、天体の運動を通じて、宇宙進化の重要な転換点を見通せたからである。 「太陽と地球の運動から、「キリスト」と言われる太陽霊の「存在」が、「地上」に再生した」のが見通せた。マタイ、マルコ、ルカ福音書の著者たちは、太陽と地球の関係から、ゴルゴダの出来事についての確証を得た。福音書の内容については、超感覚的な霊能力で獲得したが、過去、地上でキリストが起こした数々の奇跡の確証は、天動説での天使たちとの交流から引き出した。 霊的な知識をもつ人は、福音書の著者たちを信じるだろう。福音書についても、歴史的な物証を用いた反論は、ただ不正確を証明するだけなので無意味である。人智学者は、物証とは全く異なる霊的な基礎、人智学による霊的な洞察力を通して得られる基礎の上に立っている、のを明確にしておく必要がある。 これに関連して、今回の連続講義を通して、確立しようとした霊的な知識について注意を促しておく。それは、人智学が語る現実を、物質的な現実を用いて、物質界でのみ通用する、正しい反論で傷つけ、ダメにしようとしても、不可能である、ということで、人間は、自分たちの個人的に自由な知識に従って、いくらでも、正しいかのような正当性を言うのが可能だが、それによって人智学が否定されることはない。人智学が語る世界は、物質界を含んだ広大な宇宙だからで、ローカルは、グローバルを超えないからである。(大は小を兼ねる。神の法を犯すものは自らを犯す。)
2024年06月11日
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米国が人種の坩堝で、日本が黄色人種の坩堝なのが、八切史観からわかるが、人智学によれば、人種と民族が異なるのは、米国では英語が公用語で、日本では日本語が公用語になっているのでわかるだろう。日本では、白村江の戦い以来、唐から漢字が来て公用語になったのだろうが、日本語になった漢字は、いわば植民地語なのが、八切史観の被差別民史から伺えるが、近年の日本でも、戦後のGHQによるカタカナのローマ字英語も、いわば植民地語であるのが伺え、和製英語がまわりまわって、英語圏の新語になるのは、歴史が繰り返している証かもしれない。GHQだけではなかった「漢字廃止論」 いま、漢字を使い続ける意味を考える:朝日新聞GLOBE+ (asahi.com)シュタイナーによれば、言葉は、民族霊の指導によりつくられたという。民族霊といっても、天使から進化した大天使だけでなく、権天使に進化しなかった、いわば落第した大天使も関わり、同じ大天使の民族霊として、共同して、進化に寄与しているので、言葉の由来を見分けるのは困難で、金星人になるまで霊能力を高めない、と見分けられないようである。日本では、言霊(ことだま)とも呼ばれるが、言葉をつくった民族霊は、人間に、物質的な表現をするための、言葉を与えるために、権天使の位階に進むのを断念し、民族霊の大天使の位階のままにとどまったという。だから、言語が民族の象徴にもなっている民族は、言葉を通じて、進化から遅れた大天使の指導を受けているのがわかる。言霊 - Wikipediaしかし、言葉の意味、つまり思考を表現するのには、大天使の上の、権天使の能力を必要とするために、その上の能天使の位階に進むのを断念した、権天使もいるので、人種の坩堝ならぬ、天使の坩堝となっているので、話が更にヤヤコシイ。能力では上位だが、人間を指導するには、下位の天使のほうが親密なので、堕天使のほうが、人類を唆しやすいのが、ぶっちゃけ、悪友のほうが馴染みやすいわけで、人間を誘惑に導きやすくなっているわけなんである。本当の友人は得難いわけなんである。そのために、唯物的な物質科学的な技術用語が多い言葉は、進化から遅れた民族に特有で、だからこそ、ラテン語圏の民族は、物質科学を指導しやすいが、宇宙の進化からみると、進化から脱落しやすいリスクを負っているといえるかもしれない。だから、そのような民族が、人種の坩堝を社会的に経験するのは、バランスを保っているといえるかもしれない。 現在、もっとも金持ちが多い国は、米国だろうが、面白いことに、シュタイナーは、北米の民族は、その民族霊の特性から、進化できないリスクを負っている、と述べている。民族霊になり代わり、北米の民族を改心させようとした神智学者もいたようだが、現状を見る限り、どうやら失敗に終わったようで、実際に、核兵器をつくり大量殺戮をしでかした時点で、民族としての信頼を欠いた、といえるだろう。問題は、アーリマンが受肉しそうな土地柄という点にもある。ちなみに、アメリカ先住民族と、北米民族は、シュタイナーによれば異なるようである。シュタイナーは、ユダヤ民族の使命はキリスト降臨で終わったので、ユダヤ人はもはや必要ないといって、シオニズム運動の知人の支援を拒否して、そのユダヤ人に毒殺されたらしいが、ソクラテスの毒杯の死の構図とよく似ている。【最新】超富裕層が多い国・都市ランキング 日本は世界4位 | ELEMINIST(エレミニスト)自由の国という表題を抱えている米国は、核兵器や身近な銃規制もままならずに、なによりいまだに人種差別がなくならないお国柄でもある。トランプのようなのが大統領をやる国でもある。いまだにカネ儲けに余念がなく、ロシア、中国を批難しているが、格差社会においては、似たり寄ったりで同じ穴の貉でしかない。お互いに核兵器でチキンゲームをしている始末である。悪魔同士で罵り合いをしている現状なのに、反省は全くない。イギリスもそうだが、世界中に戦乱を招いた国で、神殿で、商売をして、穢している国といえるかもしれない。共産国家がルシファーなら、資本国家はアーリマンであるだろう。共に自由の名の下に、悪魔が憑依し、戦いあい戦乱を招いている。共産も資本も悪魔が名付け親でしかないからである。そもそも物質的な言語は、人類の自由のために、進化から遅れた大天使の民族霊から与えられた。言論の自由は、全人類のためにあるべきで、特定の人種を差別するためではなく、自国に利権を誘導するものでもない。なにより「金持ちが天国に行くよりも、縄を針の穴に通すほうが遥かに容易である。」と、キリストははっきりと人類に警告している。このキリストの言葉を信じるなら、金持ちは地獄に堕ちるのを覚悟すべきである。特に自称キリスト教徒ならば、猶更である。前回紹介したように、スウェデンボルグの霊視から、宗教リーダーが地獄に堕ちているのは、キリストの言葉に背いたからでもある。 金持ちが貧乏人の生計を立ててやれば、格差社会はなくなり、貧困問題は解決するはずである。なによりも、権力に居座る愚か者がいなくなる。そのような愚か者がいなくなれば、皆が天国に行けるようになる。キリストは、権力者を権力の座から引きづり下ろすために、物質界にやってきたし、いまも権力者たちを監査し、死後の審判をしている。古代エジプトの最後の審判の壁画をみればわかるはずである。死者の書 (古代エジプト) - Wikipedia古代エジプト (osoushiki-plaza.com) トート神、つまり、ヘルメス・トリスメギストスが、後のキリストでもある。ヘルメスについては、以前、このブログでも紹介したエメラルドタブレットに詳しく書かれている。古代アトランティス時代の歴史が書かれている。面白いことに、ニュートンも、このタブレットを英訳しているらしい。以下に抜粋し紹介する。 ☆ ☆ ☆ヘルメス・トリスメギストス - Wikipediaエメラルド・タブレット - Wikipediaこれは真実にして嘘偽りなく、確実にして最も真正である。下にあるものは上にあるもののごとく、上にあるものは下にあるもののごとくであり、それは唯一のものの奇蹟を果たすためである。万象は一者の観照によって一者に由って起こり来たれるのであるから、万象は一つのものから適応によって生じたのである。太陽はその父、月はその母、風はそれを胎内に運び入れ、地はその乳母である。全世界におけるあらゆる完成の父はここにある。それが地に転じるならば、その力は円満となる。地を火から、微細なものを粗大なものから、非常なる勤勉さで丁寧に分離するがよい。それは地から天に昇り、ふたたび地へと降って、上位のものと下位のものの力を受けとる。この方法によってそなたは全世界の栄光を得、それによって一切の無明はそなたから去るであろう。その力はすべての力を凌ぐ。それはあらゆる精妙なものにも勝り、あらゆる堅固なものをも穿つからである。かくて世界は創造された。これに由って来たるところの驚くべき適応、その方法(もしくは過程)はここにある通りである。ゆえにわたしは全世界の哲学の三部を具するをもってヘルメス・トリスメギストスと称される。太陽の作業についてわたしの語ったことは完遂し畢る。 ☆ ☆ ☆面白いことに、スウェデンボルグが、霊界で、ニュートンに出逢っている。ニュートンは最上の天国にいたそうである。天国にも階層があり、天使たちも、霊界で低次の存在たちを善導し、自らも叡智を高め、切磋琢磨して、最上の天国を目指しているようである。上にあるものは下にもあるわけで、物質界でも、知識や、モラルや、霊能力を高めるのと、同じである。ボルグのニュートン像が、エメラルドタブレットの訳につながるので、紹介しておく。 ☆ ☆ ☆ニュートンとは霊界で何度もあった。彼は実に真面目で、道理のわかった霊なのに感心した。「天の理」の意味をよく理解していて、他の霊たちに好かれていた。彼は次のようなことを言った。「天の理や、神意が、宇宙には存在し、善霊や、人間の知性の素になっている。これが全ての源で、人間の知性が照らされ、人間が知性で考えられるようにしているが、人間はそれに気づいていない。」 ☆ ☆ ☆ニュートンのこの理解を、ボルグはどこから得たのか、知らなかったようだが、恐らく、エメラルドタブレットに思われる。霊界にいるだけでは理解できないこともあり、例えば、人間の死などだが、だから、わざわざ物質界に転生する。シュタイナーによると、霊界を詳細に理解するには、霊界に行ってからでは遅いこともあるという。予習が必要で、また、天使たちは、地上の人間を通して、SNSみたいに、オフ会などで知り合うらしい。つまり、人間が天使たちを結び付ける絆となっているようである。だから、天使たちは、できるだけ多くの人間を善導すれば、多くの天使たちと絆で結びつくわけで、物質界でも、多くの人を救えば、多くの人から感謝されるのと同じで、また逆の、多くの人に損害を与えれば、多くの人に恨まれて、地獄に堕ちるわけなんである。だから、金持ちや権力者が、地獄に堕ちやすいのは明らかなんである。多くの人を救える立場にいながらも、無視無関心でいたわけなので、だから、キリストは、神殿から商売人を追い出したわけである。この国の裏金議員なども、神殿を穢す商売人と同じで、商売人は、自らの利益のために、多くの人に損害を与えるから、神殿から追放され、地獄に堕とされるわけなんである。神殿というのは、困っている人を援け救う舞台なのである。政府というのは神殿でないと意味がなく、権力を誇示するような場ではなく、それは地獄の冥界の王の穢れ孤立した墓場である。老害が座る死刑の椅子である。天国では、施し合うのが基本である。私利私欲がない世界だからして、キリストに従うミカエルの権力の、施す能力を縦横無尽に自由に発揮できる。権力は自らを誇示する能力ではなく、人に施し、人を救う神殿の能力なのである。商売人は天国から追放される存在なのが、キリストの怒りからはっきりと読み解ける。キリストの活動とともに、ミカエルは、時代霊として、現在のアーリア文化期を、人類の進化へと導いている。ミカエルの時代の特徴は、前回紹介したように、権力を新しき自由のために捨てる能力である。だから、物質は必ず崩壊するように、人類の進化のために、時間は流れるわけなんである。だから、逆にいえば、進化に寄与しない行為には、時間は逆に進んで、天国から拒否され、輪廻転生でやり直しをさせられる。物質的な成果は、時間を遡り、周期的に必ず崩壊へと向かう。 物質が崩壊するように時間が流れるのは、例えば、放射能が挙げられるだろう。その放射能を利用して、人類は核兵器をつくり、権力のために、大量殺人をしでかした、その報いは必ず、人類に訪れるだろう。核兵器開発に関わった霊魂らは、ミカエルに背いた罪で、未来永劫、さまよえるユダヤ人のごとく、実際に、現世でもユダヤ人だったが、ルシファーの配下で、無間地獄巡りをしている。キリスト降臨でユダヤ人はいないのが聖書の意味で、だから偽ユダヤ人しかいない。偽ユダヤ人のように過去の栄光にしがみつく人種に、再度、警告のために、ミカエルの時代について、要約して紹介する。『どんなに美しく、価値あるものも、新しいものを用意するために死んで行く、のが、ミカエルの気分なのである。そのようにして無になった時空に、新しい未来がやってくる。逆に、過去の栄光、美しい伝統を頑なに守ろうとする態度には、人類を惑わせる龍が忍び込む。過去の財宝を捨てされない者は、ミカエルの進化の道を行くことはできない。』 (『いま、シュタイナーの民族論をどう読むか?』より) 偽ユダヤ人に多い金持ちや権力者たちは、キリストが、神殿で商売をしていた者たちに、鞭を打ったことを知らないのだろうか? 神殿を穢す者は、現代のミカエルに背く者でもある。なぜなら、物質界は、ミカエルの生きた時間にとっては幻のマーヤでしかないからである。形あるものは必ず壊れる、と仏教の諸行無常でも説いている。形あるものが、壊れなくても、人間には物質界から必ず去り行く死がある。肉体はいつか壊れる。ほんとうの神殿 — ヨハネ2:12-25 (penguinclub.net)天旅ホームページ (tenryo.net)諸行無常 (tees.ne.jp)このキリストの怒りは、「物欲のために、他を穢すな。己の欲望のために、人を犠牲にするな。」という意味でもあり、これらの悪しき行為は、地獄に堕ちる要因となるからである。そのために、人間は色々な人生を送るために、俳優が色々な役を演じるのと同じように、人生では主役ばかりではなく、脇役も演じないといけない。いつも特定の人種や主役を演じられるわけではなく、自分という意味では皆人生の主役なんだが、人類全体の進化が舞台なので、大体が、その役割分担なんで、脇役を演じる経験も必要なのである。人間は地上の舞台で演じ、地上で、色々な人種や民族や文化に生まれ、故郷喪失者として、それらを乗り越え、人類全体のために進化していくのが輪廻転生だが、人間と同じように、民族霊の大天使たちも、地球の色々な場所に移動し、宇宙の進化のために、色々な民族を指導するのが、民族霊の輪廻転生だと、シュタイナーは述べている。民族霊は、物質界がなかったときに進化を遂げているために、直接、物質には作用できないが、アストラル体を通じて、人間の内面から作用し、特に人間の気質に作用するという。人間の気質とは、人智学の4つの気質で、胆汁質、憂鬱質、多血質、粘液質のことで、ただし、憂鬱質は、人間の4つの体の、自我、アストラル体、エーテル体、物質体のうちで、物質体が、他の3つよりも支配的で、優位となっているので、民族霊は、物質に作用できないために、憂鬱質の人間には進化のための指導的な直感や叡智を授けられないらしい。シュタイナー教育4つの気質の特徴とは長所・短所・向いている職業も紹介! (con-anima.net)【チェック表あり】子どもの気質診断でわかる! 自己肯定感を高める「タイプ別」ほめ方&叱り方のコツ (fqkids.jp)人間がもつ3つの気質に作用し、民族を通じて、地上の人間を進化に導くのは、民族霊にとっては、いわば、人間の仕事みたいなもので、民族霊の本来の目的は、地上の様々な場所に、いわば転生し、他の民族霊たちと協調、協力しながら、宇宙の進化に寄与していくことだという。民族霊である大天使は、時代霊の命令を受けて、宇宙の進化の役割を担うのが、本分なのだという。人間が地上で、人間レベルで、知性やモラルなどを高めあって切磋琢磨し、進化しているように、勿論、裏金議員のように、退化して、落第してやりなおしさせられるのもいるが、天使は天使レベルで、人間と同じように、高めあっているわけで、宇宙は階層構造だが、平等で、エメラルドタブレットのトートが説いているように、上にあるものは下にもあるわけなんである。エメラルドタブレットを解き明かすために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 更に言うなら、人智学の探求から学べるように、人間だけが、死を克服できる。死に対して勝利できるのは、我々人間だけである。というのも、他の存在たちにとっては、死は見かけ上のものに過ぎず、死は本当には存在しない、からである。 人間性を越え、高次の天使にまで上昇したなら、高次の天使たちが、人間の現実な死を知らない、のがわかる。リアルな死、すなわち物質界での死を経験できるのは、物質上の存在となって、そこから、物質的な意味を引き出した存在たちだけである。 人間は、物質界のなかで、自我の意識を育成しなければならないが、それは、死なしには見つけられないものである。人間より下位の存在たちにとっても、上位の存在たちにとっても、死については語れない。 他方、「キリスト存在」と呼ぶ存在の、地上での意義深い行為が無意味になることはない。実際、「キリスト存在」の、ゴルゴダの秘蹟(死に対する生の勝利)が、あらゆる出来事のなかで最重要な出来事であったのを見てきた。では、死に対する、この勝利は何処で遂行されたのか? その勝利は、高次の世界で行われたものなのか? 否、高次の世界ではない! というのも、鉱物、植物、動物で言及したように、これら低次の存在たちの、死は無意味で、語れないが、それは、これらの低次の存在たちの生の本体の、集合自我が存在するのは、感覚界を超えた高次の世界だからである。 そして、高次の存在たちについては、死はなく、ただ生の変容のメタモルフォーゼだけがある。我々人間が、死と呼んでいる、いわゆる生の区切り、終焉の締結が生じるのは、人間の自我だけである。そして、人間が死を経験できるのは、物質界だけである。 物質界に入って行かなかったら、人間は決して死を知らなかっただろう。というのも、物質界に入って行かない存在は、死を経験できないからである。物質界以外の他の世界に、死と呼べる出来事はなく、他の世界にあるのは、変容のメタモルフォーゼだけである。だから、「キリスト」が死を経験するには、物質界に降臨する他はなかった! 高次の存在の、キリストが、死を経験できるのは、物質界だけだからである。 このように、人間の歴史的進化において、高次の世界の現実が、マーヤの中で、驚くべき形で働くのを見ることができる。歴史的出来事に関して正しく思考するのなら、確かにその出来事は物質界で起こっているが、その源泉は精神界=霊界にある、のに気づくはずである。この事は、あらゆる歴史的な出来事についても同様である。ただし、1つの出来事を除けば! というのも、ゴルゴダの出来事は、物質界で生じたが、その出来事に対応するものが、高次の世界に存在しないからである。「キリスト」は、確かに高次の世界に属し、物質界に下って来た。 ゴルゴダ以外の他全ての歴史上の出来事の元型は、霊界にあるが、ゴルゴダの元型は、存在しない。ゴルゴダの秘儀は、物質界にしか死がなく、だから物質界でのみ生じ得た出来事だった。 人智学は、その証拠を提供する。例えば、次の三千年にわたって、ダマスカスにおける出来事の新しい例が多数見られるようになるだろう。この事に関してはしばしば言及してきたが、パウロがダマスカスで見たように、人間は、霊=アストラル界で、エーテル形姿の「キリスト」を見る能力を発達させるだろう。 高次の能力を通してキリストを知覚する、この経験は、次の三千年期を通して益々発達するが、20世紀から始まるだろう。近代(1900年前半)以降、この能力は徐々に現れ、次の三千年期を通して、多数の人々によって獲得される。 その能力により、多くの人々が、高次の世界に参入し、「キリスト」が現実(真実)の存在であり、生きている、のを知るようになる。多くの人々が、キリストを知るようになるが、それは「キリストが今も生きている」からである。 今、キリストが生きているだけでなく、パウロが、ダマスカスで熱に冒され、霊視できたように、キリストは死んで復活した、のを確信できるようになる。けれども、この経験の基礎を、高次の世界ではなく、物質界で見つけないといけない。 もし、今日、「キリスト」の発達が、いかにして成し遂げられるか、そして、共に、また、ある種の人間の能力も、いかに発展するか、を理解するなら、(人智学によって理解するなら)、人間が死の門を通って行くときにも、パウロのダマスカスでの出来事に与るのを妨げるものは何もない。何故なら、今や、死は、人間の死を通して、最初に光輝く「キリスト」の顕現として、自由の女神のイメージで現れるからである。 今日、肉体のなかに居ながら、この出来事に備える人たちは、死後に、そして次の新たな転生までの霊界での生活においても経験できる。しかし、その出来事に備えない人たち、今回の受肉で、ゴルゴダの奇跡を全く理解しない人たちは、死後も、また次の転生までの霊界での生活でも、「キリスト」について、また次の三千年を通して生じ続ける、キリストの救済について、素通りし、さまよえるユダヤ人のごとく、何も知れずに無知なままにとどまる。 そのようなユダヤ人は、再び受肉するまで待たなければならない。再び地上に戻るとき、更に、それに対する準備をしなければならない。ゴルゴダでの死とその死から生じた救い(それは「キリスト」が地上で生きるのに必要だった)を理解できるのは、肉体のなかに居る間だけだからである。 高次の生活にとって唯一重要な事実は、肉体のなかにあるうちに把握されなければならない。一旦、肉体のなかで経験として理解されたなら、それは、高次の世界で更に働き続け、益々育成される。しかし、それには、まず肉体のなかで経験として理解されなければならない。
2024年06月06日
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人はなぜ、地球から外に旅立とうとするのだろうか? 人はなぜ空を飛ぼうとするのか? ガガーリンは地球は青いと言ったが、その青い地球を自分の眼で確かめたいと思うのはなぜだろうか?そのような夢は、ドラえもんの世界では、どこでもドアと、タケコプターがあればできる話で、更にはタイムマシンで、時空を超えて、自分の現在の境遇や環境から脱け出し、いつでも旅に出られる。そのような漫画の世界が、令和の時代になって、ドラえもんの四次元ポケットから出された道具の半分くらいの夢が現実のものとなっている。ドラえもんですでに実現された「秘密の道具」35選 | CHANGE-MAKERS誰しも、空を飛ぶ夢をみたことがあるだろう。まるで、地球の上を人工衛星にでも乗って移動しているような夢である。いまでは、グーグルマップで、数年前の地球を空から旅行できるし、ドローンで空からの映像を見れる時代になっている。これらは、人間の未来像で、シュタイナーによれば、地球人が木星人になったときの、いわば仮想現実のヴァーチャルリアリティによる予行練習というのである。そして、現代の地上の地球人に先行しているのが、渡り鳥の集合自我の種族霊であるという。鳥の自我はまだ個々の鳥の肉体に宿っていないので、個々の鳥を、手足のようにして操り、渡り鳥にしているという。それはまるで、人間がシュミレーションゲームで、駒を動かすのと同じで、例えば、将棋の駒を動かすように、将来、木星人となった人間は、自分の肉体を、手足のように、地球上のどこでも動かすようになるという。既にそれはネット上で可能になっている。いずれは、肉体を霊化して世界中を瞬時に旅するようになるだろう。実際に、人間は睡眠中に行っているし、死後、物質界に別れをつげるときに、お世話になった人たちを巡るのも、この最後の旅行である。人智学では、人間は寝ている時に、肉体とエーテル体を残して、いわば霊魂の自我とアストラル体は、物質界から、霊界に出ていっているという。もし、シュタイナーのように霊眼があれば、あそこにエーテル体と肉体が横たわっていて、自我とアストラル体の自分は、ここにいるというのが、覚醒意識でわかるらしい。だから、ガガーリンのように、地球は青かったと言うように、自分の肉体は赤かったとでもいうかもしれない。あまりに遠出してしまうと、肉体が見つからずに、帰ってこれなくなるかもしれない。現代人は、物質界でしか個人的な覚醒意識をもてないので、ガガーリンのように、宇宙船にでも乗らないと、外から地球の姿をみれないが、霊眼を獲得すれば、睡眠中に、いつでも肉体を抜け出して、世界旅行ができ、地球を巡ることもできるようになるという。考えてみれば、輪廻転生も、その延長上にあるが、自分ではなく、自分が前世で損失を与えた他人になりかわって生まれてくる点が、大違いでもある。我々地球人が、地球で修行をする目的は、寝ている時に、覚醒意識の物質界から出て、空から、潜在意識で、地球を外観しながら、地球の成長を見守り、地球の一員として、地球と共に生命を育み、生活環境を日々新たに整えることで、同時にそれは、自分の成長ぶりを、交互に覚醒意識と潜在意識で確認し、俯瞰でみることでもあるらしい。つまり、地球人の課題は、地球と共に、人間に与えられた自我を日々新たに育てることで、自我をバランスよく育て、自我を霊我にまで高めると、地球人は、地球を空から見守るような木星人になれると、シュタイナーは預言している。地球人の自我は、宇宙人との交信の、叡智への窓口のアクセスカウントみたいなもので、いまはまだ物質界で、ヨチヨチ歩きをし始めた赤ん坊の、物質界で、あれこれの欲望を満たそうと必死になって、もがき苦しんでいる幼児期といえるかもしれない。ようやく個人的な自分という自我に目覚めた初期の段階にある。動物にはまだ、この人間の自我の、個人の意識はない。動物はまだ集団のなかの一員で、動物種の族長の手足でしかない。動物でも家畜のように、人間の自我に育てられた動物は、種から分離し、個体の自我をもつようになる。動物園の動物が野生動物とは異なる習性をもつようになるのは、種から独立した人間の自我が、その動物を育成したためである。先日、ロシアの軍事兵器として育てられたイルカが野生に還れずに、人間の環境団体に保護されているのを、BS番組でみたが、本来は、人間のエゴではなく、地球全体が共生平和のバランスの基に、あらゆる生物種が自由に独立して、進化発展していくのが、地球の理想であり、地球を楽園天国にするのが、地球人の役割で、宇宙から人類に与えられた使命であるともいえるだろう。地球の環境を通じて、地球人である人間には地球を理想の環境とすべく使命が、宇宙から与えられているのだが、残念ながら、その使命にすら気づかずに、エゴ丸出しで、個人的な野望を遂げるのに必死で、ヨチヨチ歩きし始めた赤ん坊が、幼児になって早熟にも、科学知識を学び、物欲に目覚めて、非行少年に走ろうとしている現状にあるのは、この国の愚かな政治家で明らかだろう。この国の詐欺師ばかりの政治家をみれば、将来が暗く、危ういことだけは、環境破壊からも、わかるだろう。天変地異や自然災害が頻繁に起こるのは、地球がバランスを失っている証拠で、遡って原因を調査すれば、それは人類の環境破壊に起因するのがわかるはずである。そのほとんどが、権力者などによるエゴにある。過去の戦争や、核兵器実験が、現代の環境破壊を生んでいるわけで、いま戦争破壊を起こすと、それは将来の天変地異や自然災害を起こすことにもつながっていくのである。だから権力者は現在の行動が将来にまで影響を及ぼすのを、未来永劫にまで罪を背負うのを、自覚しなくてはいけないわけなんである。環境破壊者は、輪廻転生でまた地球に還ってこれればいいが、それでも地球では最低の暮らしが待っているが、地球よりも酷い環境の星に送られて、一からやり直しさせられ、それは本人の希望でもあるが、過去に自分が仕出かした罪は、自分で拭うしかないわけで、というのも、どんな霊魂も、自らのなかから輝いていたい、という生命力への希望があるからである。エマニュエルスウェデンボルグによれば、どんな霊魂も、この世で暮らしを良くしたいと思うように、あの世の霊界でも、少しでも天国に近づきたい、と思うようである。それは欲望というよりも、本能というべき、人智学的宇宙進化学でいう、「憧れ」といえるかもしれない。エマヌエル・スヴェーデンボリ - Wikipediaエマニュエル・スウェデンボルグの「霊界」3 - 有限会社中央アート出版社 (chuoart.co.jp)スウェデンボルグの霊界を読めば、悪という存在がよくわかる。その特徴をわかりやすくいえば、視野が狭く、「自分さえよければいい」という我儘な観点の持ち主なのがわかる。というのも、自分が常に正しく、善だと思い込んでいるからで、エゴ丸出しの存在といえるだろう。もっとも、この特徴は、この国の政治家でも明らかだが。つまり、悪は視野が狭いために、自分を超えた存在を知る余裕もなく、逆にいえば、自分以外の存在に怯えて暮らすしかないわけで、そのために自ら孤立化し、地獄に堕ちていく。だから、視野を広くするためには、過去の自分を抜け出す必要があり、だから、悪には自分への死が必要なわけである。自分を外側から見る視点が必要なので、自分を殺さないといけないので、そのような悪人には、死後、「自分は正しい」と思い込んでいる偽善者が現れるので、禅では、「釈迦に会えば、釈迦を殺せ」、と言われる由縁なんである。どんな人にもエゴがあり、死後最初に出逢うのは、このエゴの存在で、偽善に着飾った自分のなかの悪であるという。表立って、自分には物欲がないという人でも、本心には、憧れがあり、その隠された虚栄心や名誉欲から、美女や美男と寝てみたいなどと思っているはずで、死後に、それが露わになってみて、はじめてわかるわけなんである。そのような人間の裏表について、スウェデンボルグの霊界は面白く書かれ、特に教訓的なのは、宗教界のリーダーたちが、地獄に堕ちている様子が書かれている点である。自分が正しいと思わせている存在が悪魔で、そもそも、叡智には果てがなく、正しいと思った途端に、正しくなくなるからである。我々地球人は、視野をより広げることしかできないので、正しいと思った時点で、視野が固定されてしまい、その固定された視野に騙されてしまうからである。つまり、時間を固定してしまい、成長を止めてしまうのである。この時間感覚の成長を止めるのを再び回復するために、人間の自我には死が必要で、更なる輪廻転生による時間感覚の変更が必要なのだろう。令和の地球人にとっての課題が、この固定した時間の概念を遡る事にある。少なくとも、人類に人種ができる前の、人種や民族や文化を超えて、それが無かった時の時代にまで遡る必要があり、それが故郷喪失者と呼ばれる状態である。人智学の時間の概念によれば、時間は生きている存在そのもので、時間霊という名の時代霊のアルヒャイという人格霊のことで、権天使である。だから、時間とは、人間には不可視の存在で、霊視を獲得しないと感知できない存在で、それも、権天使は、人間よりも3つも位階が上位の存在なので、時間を実際に感じるには、アートマと呼ばれる肉体を霊化した器官まで高め進化する必要がある。この国の古来の、陰陽師が、霊能力で、時代霊の権天使と交信し、暦つくりを担当していたのは、割と有名な話かもしれない。権天使と交信できるまでは、各自が外的な物質環境から、時間感覚を、大体は太陽光による反射などの陰影から間接的に身に着けているわけで、睡眠中にその修正がなされるわけなんだろう。物質界の歴史でいえば、ニュートンが、いまでいう時間をデュレーションと呼んで、本来は、不可視な時間を、物質界での物体の運動から、目にみえる形で示したのが、人間の進化に対する功績というべきかもしれない。そして、アインシュタインにより、より詳細に、光の特性の光速度により、相対的な、個別の内面的な時間の統合概念が生まれ、物理法則は、慣性系全てで保存するという物証を得たが、量子力学の観測問題として残っている。一般相対論と、量子力学の整合性がとれないのは、どちらも生命問題を度外視している時間の概念のせいである。物理法則の観測者が人間という生命体であるのを考慮に入れていない。絶対時間と絶対空間 - Wikipedia人間一人一人の時間の感覚が異なるように、人生も異なっているわけで、勿論、物質界で共通の目的を遂行するには、各自の運動もある程度、共生分担しないといけないわけで、各自の時間感覚の調和や調整が必要なのはいうまでもないが、本来の時間の意味は、人類全体の進化に必要な地球の環境づくりにあり、それは時代霊が指導し、指揮するものなので、人類の手にはなく、いかに自主的に自由に応じるかである。現に、時代の価値観にそぐわない老害は改めないと、捨て去られていくだけなんである。物理学が説く時間は死んでいるので、個人の物質的な死による再生が必要だが、実際の時間は、時代霊と共に、生きているのである。ニュートン力学の創始者とされたニュートンは、恐らく、時代霊のことをデュレーションと呼んでいたようにみえる。ウイキで、該当の部分を以下に引用する。 ☆ ☆ ☆ニュートンによれば、絶対時間と絶対空間はそれぞれ何物にも依存しない客観的実在の一部である。絶対的な・真の・数理的な時間とは、外部と一切かかわりなく、おのずとその本質に基づいて一律に流れていくものである。これをデュレーション(英: duration)という別名で呼ぶ。相対的な・見かけ上の・日常的な時間とは、運動の観察を通じて得られる、デュレーションの実用的かつ外的な物差し(正確であれ、不正確であれ)である。一般に用いられているのは真の時間ではなくこちらである。 ... ☆ ☆ ☆ニュートンの「何物にも依存しない客観的実在」というのは、おそらく、時代霊のことで、時代霊の一部を、デュレーションと呼び、これの相対的な日常の感覚を、時間としているわけなんである。だから、アインシュタインは、この相対的な日常の感覚を、つまり物質界での時間感覚を、光速度で定義づけたことになるだろう。しかし、それ以上は、物質界の可視化世界では言及できないので、ボーアの原子模型に対して、「神はサイコロを振り給わず」といって、確率統計の量子力学では、時間に言及不可と説いたわけなんである。ボーアの原子模型 - Wikipediaニュートンが説いた絶対時間や絶対空間の存在の、時代霊アルヒャイの存在を直接に感知するには、現在の地球人である人間が、次の木星人となり、更にその次の金星人となるまで進化する必要があるのを、人智学は解き明かしている。そして、現代は、ミカエルの時代と解き明かし、ミカエルの時代が終わると、2400年頃に、次の時代霊となる、かつて紀元前200年から、紀元150年頃まで君臨していたオリフィエルに、更なる人類の進化のために、時代が引き継がれると預言している。そのとき、同時に、悪魔アーリマンの受肉が、白人種らしいが、現実的になるとも、預言している。オルフィエルの時代までは、まだ数百年もあるが、人智学によれば、時間は生きた存在で、いわば時代感覚に似たモノといえるだろう。昭和には普通に行われてきたことが、令和にはモラルハザードで、パワハラで、ブラックに感じられるのも、それだけ人類の叡智が進化し、視野が拡がっている事でもある。つまり、人類に叡智をもたらし、この時代の流れを司っているのが、時代霊の存在で、人類進化の担い手の役割なんである。人智学では、時間は時間霊の持ち回りで統括されていて、だから、時間は周期みたいに、循環するから、歴史は繰り返す、とローマの歴史家クルチュウス=ルーフスにより、格言にまでなっている。というのも、人類は、繰り返される歴史を乗り越えて、人種や、民族や、文化から、自らを故郷喪失者となって、解放しないといけないからである。それはいわば、ハードルを飛び越える障害競走といえるかもしれない。人種や民族や文化は、人類がそれを飛び越えて、進化するために必要な障害でハードルなのである。人種や民族や文化をなくすために、ある特定の人種や民族や文化に、人間は産まれてくるわけなんである。それにいつまでも拘っていると、執着し、出家できずにいると、さまよえるユダヤ人になってしまう。永遠に自分は選民だと思いあがる地獄の冥界の王になってしまう。現に悪魔の存在が、地球紀の前の月紀を落第した霊魂たちなんである。ハードルを乗り越えることができずに、埋没してしまった存在たちなんである。スウェデンボルグが霊界でみた地獄に堕ちている宗教界のリーダーたちである。そのような地獄に堕ちるリーダーとならないために、ミカエルの時代に必要な時間の概念というべき心得を以下に紹介する。 ☆ ☆ ☆ミカエルの時代~ルドルフ・シュタイナー | ドームハウス日記 partⅡ (lifedesignlaboratory.com)『どんなに美しく、価値あるものも新しいものを用意するために死んで行くというのが、ミカエルの季節の気分なのである。そのようにして空きができた空間に未来的なものが入ってくることができる。逆に過去の栄光、美しい伝統を頑なに守ろうとする態度の中に人を惑わせる龍が忍び込む。過去の財宝を捨てることができない者は、ミカエル的な道を行くことは出来ない、というのである。』 (『いま、シュタイナーの民族論をどう読むか?』より) ☆ ☆ ☆いま巷には老害と呼ばれる晩節を穢す人が跋扈しているが、それはミカエルの時代に背く態度なのがわかる。過去の財宝を捨てることができない人は、次の進化段階に進めないわけなんである。それは醜悪な裏金議員をみても明らかである。ミカエルの権天使の特徴というか、権力とは、過去の栄光を捨てる能力なのである。だから、現代の権力とは、権力を捨てる能力のことなんである。仏教的にいえば、喜捨にあたるだろう。権力に居座るのはルシファーらの堕天使で地獄に堕ちるわけである。武道の、居つくな、である。喜捨 - Wikipedia『柔術のひみつ』第一回「居つく」 - 柔術のひみつ (fc2.com)では、次のオルフィエルとはどういう特徴の権天使なのか、実は、過去に、このブログでも転載紹介したので、再度紹介する。来るべきオリフィエルの時代-天使長(時代霊)交代のとき | シュタイナーから読み解く神秘学入門 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)来るべきオリフィエルの時代-三千年紀初頭(AD2000年)のアーリマンの受肉 | シュタイナーから読み解く神秘学入門 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)オリフィエルは、過去においてリーダーシップを発揮したことがある。近い昔でいえば、それはキリストが、この地上に現れた時のことである。その時代は、最悪の堕落と頽廃が、この地上の全てを支配した時代であった。その時、人類を揺さぶり、進化させるために、恐るべき犠牲が支払われた。オリフィエルは、怒りの大天使と呼ばれてきた。オリフィエルは、人類を強引に浄化させるのである。 キリストが神殿で両替商を鞭打つ話は、深い意味を持っている。人類の歴史における最も暗いこの時代に、キリストは人類を救済するために現れた。オリフィエルの統治は(AD)104年後に終わり、アナエルの統治に取って代わられた。それからはザカリエル、次にラファエルの統治が続いた。ラファエルは、ルネッサンスの時代を統治していた。 16世紀から1879年までは、ガブリエルが統治した。それからミカエルがリーダーシップを引き受けた。2400年頃オリフィエルの順番が再びやってくる。 この文脈から考察すると、物質界を崩壊に向かわせ、その物質的な外見的なベールを取り去って、中身の内面的なエーテル界を露わにさせ、恐らく、エーテル体で活動するキリストの存在を、世に示す存在に思われる。ミカエルは、人間に物欲を放棄させることで、時代を司るが、オルフィエルは、かつてのローマ帝国が滅んだように、物質全てを崩壊させて、無に帰す事で、人間の底にある、自分で自分を救う本性に目覚めさせるように、キリストと共に、人間を導いていくのだろう。来るべきオルフィエルの時代の準備のために、ミカエルの時代に物質を無に帰するための人間の自我の死を知るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 死の意味を、別の面からアプローチする。例えば、周囲の、生命とは別領域の存在、例えば、「鉱物は死ぬか?」考えてみる。「鉱物の死」は、神秘学者にもあり得ない。というのも、例えば、「切り取られた爪が死ぬ」と言うのと同じだからである。爪は、単独で生きているわけではない。爪は身体の一部で、爪を切れば、身体から切り離され、生命から引き離される。生命が死ぬのは、本体が死ぬときだけである。同じ意味で、人智学でも、鉱物は死なない。というのも、鉱物は、爪が、身体という生命体の一部であるように、地球という大きな生命体の一部に過ぎないからである。鉱物が破壊され、死んだように見えても、それは、爪が切り取られ、身体という生命体から切り離されたように、大いなる生命体から切り離されただけに過ぎない。鉱物の破壊は死ではない。というのも、鉱物は単独で生きているわけではなく、むしろ、鉱物を構成単位とする、地球という、より大きな生命体のなかに生きているからである。 また、植物の本性について、以前の講義を思い出せば、植物もまた独立の存在でないのがわかるだろう。植物もまた地球生命体の構成要素だが、植物は、鉱物とはまた違う生命体の一部となっている。人智学的観点から言えば、個々の植物の生命に言及する意味はなく、むしろ、地球生命体について言及すべきだが、それは、植物が、この地球生命体の全面にわたり一部になっているからである。植物の死についても、指の爪を切るのと似ている。「指の爪が死んだ」とは言えない。植物も同様である。何故なら、植物は、地球全体の、より大きな生命体に属しているからである。地球は1つの生命体である。それは春になると眠りにつき、地球のエーテル体でもある植物を、太陽に向けて送り出す。秋には、目覚めて、エーテル体である植物を、地球の自我の精神のなかに回収するが、その行為は、植物の種子を、地球の自我の存在内に受容することで遂行される。植物を個の生命体として見るのは無意味である。個々の植物が枯れても、総体としての地球生命体は死なないからである。同様に、人間の髪が白くなっても、死にはしない。白い髪を黒くできなくても、死ぬわけではない。勿論、人間の髪は、植物とは異なるが、植物と地球の関係は、髪と人間の関係に喩えられる。植物が枯れても、地球が死ぬわけではない。枯れた植物は、地表だけの生命過程である。植物は枯れても、植物が死ぬわけではない。 動物もまた、人間の死と同じ意味で、死ぬとは言えない。というのも、個々の動物は、生命の真の意味で独立しておらず、動物の本体の集合魂が、超感覚的世界に存在するからである。つまり、動物の真の存在は、アストラル空間上において、集合魂として存在している。個々の動物は、その集合魂から濃縮され出てくる。ある個の動物が死ぬと、集合魂から切り離され、また別個の動物に取って代わる。 だから、鉱物、植物、動物界での、死にみえるのは、見かけ上のもので、死のニセモノに過ぎない。現実には、人間だけが死ぬ。それは、人間が、個別性を発達(進化)させ、肉体のなかに、自我が下降するまでになっているからである。人間は、肉体のなかで、地上で独立した存在を担うことで、現実(真実)に生きている。だから、死が意味をもつのは、地上に独立して生きる人間だけである。 この死の真相を把握すれば、「人間だけが実際に死を経験できる」と言える。
2024年06月04日
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ジャマイカからレゲエ文化を発信したボブマーリ―の作曲、「アイショットザシェリフ」はエリッククラプトンのカバーで世界的なヒットを生み有名だが、英語の歌詞なんで、意味がイマイチわからなかったのだが、最近、ベストヒットUSAで特集され、ボブマーリー自身の体験を語ったエピソードソングで、和訳されていたので、クイーンのボヘミアンラプソディーと似たような意味をもつのが、なんとなくわかってきた。ボブ・マーリー - WikipediaベストヒットUSA - Wikipediaボヘミアン・ラプソディ - Wikipediaエピソードソングといえば、ディープパープルの「スモークオンザウォーター」が有名だが、フランクザッパのコンサートでの出来事を歌った曲だが、なぜだか、世界的な大ヒット曲になっている。このフランクザッパが、ボブマーリーに匹敵するほど面白い人らしいのだが、なぜか日本では無名で、恐らく、当時の米国忖度のためか、奇人変人扱いにされ、あまり紹介されていなかったので、再度ググってみると、米国での反体制の象徴的人物なのがわかる。スモーク・オン・ザ・ウォーター - Wikipediaフランク・ザッパ - Wikipedia特に米国当時の保守本流を気取るキリスト教原理主義を批判していたようである。現代では、キリスト教原理主義は差別主義と認識されているようである。ザッパは移民に寛容な民主党支持者だったので、恐らく、共和党過激支持者の妨害工作で、コンサートで炎上し、ジョンレノンと同じように、大衆を扇動する思想家として、しばしば命を狙われていたようである。当時の米国でのソ連への反共主義から、思想検閲などが行われていたのは、バックミンスターフラーの書からもわかり、ザッパの父が軍関係者だったことから、要注意人物としてリストアップされていたのかもしれない。当時は情報操作されていたから、米国傀儡政権の極東の地にそのような情報が流れるわけがない。バックミンスター・フラー - WikipediaベストヒットUSAは洋楽のバイブルともいうべき番組で、極東の地に、様々なアーティストの音楽活動を学ぶ機会を与えてくれて、感謝している。アメリカには、サミーへイガ―のロックンロールロードトリップという番組があり、アーティストの音楽活動をセッション付きで紹介し、洋楽の音楽馬鹿ともいえる素晴らしさを堪能させてくれるが、反面、なぜ日本には、このような番組がないのか、非常に残念に思わされる。自分は、東南アジアのルックスで揶揄われた経験から、反社が芸能界に暗躍しているよからぬ噂も垂れ流されていたりして、どのアイドルが軍団とつながってという類の下世話な話に、どこか日本の金儲け優先のアイドル洗脳音楽が大嫌いだったせいもあり、当時の芸能界は、いまの売れればなんでもありの、ユーチューバーのようなノリに嫌気が差していたせいもある。音楽性よりも金儲け重視の姿勢は今も変わりがなく、益々物質化し、幼少化しているのが問題ともいえる。サミー・ヘイガーRock & Roll Road Trip – ミュージック・エア (musicair.co.jp)サミー・ヘイガーRock & Roll Road Trip シーズン2~4 – ミュージック・エア (musicair.co.jp)さて、小林克也氏は、YMOとコラボした経験があるみたいだが、純粋にミュージシャンではないし、日本の歌手でサミーへイガ―のような存在を改めて考えてみると、なかなか思い浮かばないが、サザンの桑田佳祐氏あたりだろうか。或いは少し洋楽よりだが、ボウイで一世風靡した布袋寅泰氏かもしれない。邦楽というよりもっと洋楽よりになると、B’zの稲葉浩志氏かもしれない。いずれにしても、これという人物が思い浮かばない。思うに、日本では上下関係や他ジャンルとの壁や、売れるのをあまりにも重視しすぎていて、音楽業界でバイトしたこともあるが、体育会系のノリなのに閉口した思いがある。体育会系で、バイトを見下している雰囲気が如何わしい宗教団体のようで残念だった。当時は、そのような似非宗教団体が多かったのが昭和のブラックな雰囲気を増強させていた。反体制で自由なのがロックなはずなのに、意外と体制どっぷりで、全共闘世代ではないので、フォークロックでの反米活動の経験は皆無なんで、その事情はよくわからないが、売れることばかりが、正義とみなす雰囲気が業界に残っているような気がする。ジャニー喜多川氏の悪しき例がその典型だろう。ジャクソンファイブの売れせん狙いのパクリで、権力者に媚を売る北の喜び組接待と実体は何ら変わりがない。ジャクソンファイブにはまだ被差別黒人種の虐げられた生活背景があったから、人種差別撤廃のリズム&ブルースと調和したのだろう。武器を捨てて楽器で戦ったのがソウルミュージックの原点にある。勿論、米国だって売れてナンボの世界に変わりはないが、日本には音楽に人生をかけている音楽馬鹿、音楽マニア、いまでいうオタクが少ないような気もする。音楽というよりも、アニメや漫画業界に、そのような馬鹿やマニアやオタクが多い。何よりも、音楽などの芸術で、世界を変えたいという欲望に乏しく、現存する権力者に媚を売る姿勢が鼻について仕方がなく、権力の裏で私腹を肥やす裏金議員などはその典型で、それでは、創造どころか、破壊者の追従でしかない。そんなバカな政治家に、音楽家は政治に口を出すなと言われる始末なんで、日本の音楽に、政治を変える力はなく、だから、せめてもの、日本の漫画に、世界を変えたいという希望や反骨精神が描かれるのを期待するわけなんである。権力者に従うのにどこに自由がある、といえるのだろうか? 最終的には、そのまま戦場に行かされるだけである。ロシアやイスラエルを見れば権力者に騙され、民主主義を奪われて、忖度した挙句がいまの戦争で権力者にしか物質的利益がないのが明らかである。若者たちが老害を追い出して、自分たちで平和な世の中をつくる、という努力が足りなかったせいである。独裁者に媚を売る事でしか生きられない地獄の世界に、奴隷の世界になってしまっては、皆が地獄に堕ちるだけなんである。ブラック企業やブラック国家はなくさないといけないのが、いま現代の人類の進化の課題なんである。その背後には特定の悪魔の僕のような連中が全体のバランスを失わせて、偏らせ、搾取し続けるだけだからである。老子の、「大道廃れて、仁義有り」で、仁義は、芸術のなかで、説かれるわけなんである。大道とは、霊能力の事で、霊能力が失われたから、再獲得するために、仁義を説くしかないわけなんである。その仁義を説くにも、東洋では、善き師につくのを求めるが、西洋では、個人が師になる違いがあるような気がする。だから、東洋はまだ、既成の人種や民族や文化を脱せられていない、遅れた文化で、米国は、英国のそのような過去の価値観の伝統から解放され、個人が自由になった国とはいえ、特に音楽には、そのような自由があるが、いまだに白人主義やキリスト教原理主義などの差別主義が残っていて、逆に経済化して、格差社会をつくり、ルシファーから解放されたはいいが、対ロシアとの関係などから、アーリマンの虜になりつつある。そのような悪の観点から、人類の進化を捉えるのに良い動画をみつけたので、以下に紹介する。進化と悪 | ルシファー・アーリマン | ペンターブシステム〜負荷・反映・等化・中和・進化〜 - YouTube 日本の音楽にはまだ権力者に媚びたり忖度する古さが残っているが、漫画には、浦沢直樹氏の漫勉という素晴らしい番組があり、世界にも、日本の漫画文化の素晴らしさは伝わっているが、日本の音楽にはないもので、特にクラッシックにもいえることだが、小沢征爾氏とN響の関係からも、日本の音楽業界の上下関係の不自由さに、老害が、若手の芽を摘んでいるようにみえて、残念で仕方がない。 浦沢直樹の漫勉 - Wikipediaいまだに音楽のなかにクラッシックを上位と捉える風潮がみられるのは残念で、全く粋でない。古さが斬新さにかわっていない。貴族のためでなく、民衆のために書いたのが飲んだくれのベートーベンで、もはやその後追いだけでは、創造性も現代では乏しいばかりである。日本のクラッシックは化石ですらない。ジブリの久石譲氏の映画音楽のなかに、わずかにクラッシックの断片が見え隠れするだけである。確かにその道の権威に従い売れてナンボの世界かもしれないが、それだけでは、人生を生きる意味を失っているような味気なさを感じてしまう。西洋を乗り越える東洋でさえなく、ただ西洋の古さだけをありがたがる骨董趣味でしかなく、もはやゾンビでしかない。音楽業界に階級をつくってどうするのだろうか?やはり、アーティストは食える食えないを超越して、個人の生き様を演じてほしい。食えないオタクの扱いに、世間的な評価や従来の古めかしい伝統的な価値観は困るのかもしれないが、それを乗り越えるのが、人類の進化であり、新しい価値観や平和への飽くなき探求の精神に思える。自由が物質界に根付き、安定性をもって、石となるために、ロックは既成概念から自由でなければならないが、そのために、ロックンロールは、輪廻転生で、地上の多種多様な人種や民族や文化に生まれ、経験から音楽を奏でて、死んで仏となって、天空の音楽に加わり、人類は進化して、自由を愛の名の下に確立していくが、その自由が横暴でないのは、愛の名を、人類全てが、天使の位階の課題として背負っているためである。地球人の人類がいま育成している野蛮な自我が、自由な愛の天使という名となるのが預言されている。いまの地球紀の進化を卒業できた霊魂は、天使となり、次の人類の木星人には、自由な霊と呼ばれると、人智学では解き明かされてもいる。だから、権力に命乞いをして同じ人類を差別し、虐げるのは、自由ではなく横暴でしかない。武器を捨てて、楽器を奏でよう、と自由な愛のアーティストは地球紀に生きている。だから、職業はアートや芸術にならなくてはいけないと、シュタイナーも説いている。仕事を単なる物質的活動にしてしまっているのでは、過去に縛られて生きるだけでしかない。それでは、人間を機械にしているだけで、いずれAIに取って代わられるだけにすぎない。機械へと継承する一つの歯車でしかない。いま確かにAIも芸術をつくれるというが、そこにボブマーリーの思想はあるだろうか? 未来への希望や、世のなかを変えたい、という思いがあるだろうか?さて、ボブマーリーのアイショットザシェリフと、フレディマーキュリーのボヘミアンラプソディーの共通の意味は、自分のなかにある、悪魔を殺し、自由に生きる、愛の決意表明だったのだろう。自分のなかにある○○でなければいけないという体裁や面子、プライドや権威主義との決別だったのだろう。古い過去に縛られる自分との、幼少から少年期を育んだ環境や土壌との悲しい別れなのだろう。神秘学でいえば、故郷喪失者である。霊能力の獲得のための、初歩であり、仏教の出家である。過去を捨てなければ、新しい未來はやってこない。過去がそのまま古く続けられるだけで、人間の精神は退廃し、物質化され、奴隷化されていくだけで、いたずらに時を持て余すだけにすぎない。だから他の誰かを傷つけるしかできなくなる、創造的に無能な破壊者でしかなくなるわけなんである。老害として、若者をパワハラするしか自分の存在を証明できない無能な物質的奴隷でしかない、承認欲求に塗れた白髪の老人なんである。ハゲはまだ他者を笑わせるだけマシかもしれない。笑われないハゲは笑いさえも生み出さない他者には無能で無用な存在である。笑いも、音楽と同じように芸術であり、権力に媚を売る笑いが下品であるのは、音楽と同じである。神様は笑いを平等に与えてくれるはずである。地獄にいるときこそ、笑いを与える存在であるかもしれない。いまロシアに欠けるのは、この笑いの精神である。ロシアに、チャップリンの独裁者を笑う精神がないのは非常に残念で、日本にはまだ、権力を笑う文化、貧乏してでも、笑える反骨心が少しは残っているが、最近は、毒舌を嫌う風潮は非常に残念で、確かに少数や弱者への毒舌は差別でよくないが、多数や権力に対しての毒舌は、ガンジーの無抵抗主義なのである。武器を捨てて、口の言論で戦ったわけである。独裁者 (映画) - Wikipedia権力に言論で戦うのは、頓智にはじまるが、孫子も戦わずして勝つのが肝要と述べているように、理性をもって真実で戦うのが、頓智なんである。頓智は、アニメの一休さんで、有名になったが、一休さんは、当時の独裁者ともいわれた足利義満と頓智合戦の話である。真偽は定かではないが、当時の一休宗純は、反体制論者だったのが記録に残っているほどなので、現代でいえば、お笑いの毒舌を語る道化師だったのだろう。古来から、為政者が、民衆の気持ちを掴むために、側近に道化師を置いたのが、宮廷道化師となっている。頓智話 - Wikipedia道化師 - Wikipedia宮廷道化師 - Wikipedia日本の宮廷道化師は、陰陽師が担っていたようだが、霊能力を失っていくにつれて、朝廷では形骸化して、武士階級の幕府が政治を担うようになってから、僧侶に代わっていったようである。江戸時代からは、民衆化して、幇間になったようである。幇間の視点から戦国時代を描いたのが、北野武監督の映画「首」で、従来の古風な戦国史とは異なり、面白かった。いずれにしろ、俗世の物質界を超えた霊界から預言をとってくる霊能者が宮廷道化師の原型になったものと思われる。陰陽師 - Wikipedia僧 と 陰 陽 師 木 場 明 志 - J-Stage ja (jst.go.jp)幇間 - Wikipedia映画『首』公式サイト (kadokawa.co.jp)「首」は、生まれ育った出自に取り入り、戦国時代の身分制度による伝統継承に拘る愚かさや馬鹿らしさを立身出世競争で描きだすが、それらは、現代の、お笑い芸人からみた芸能界や、現代社会の暗部を同時に描きだしているようにみえる。つまり、生まれ育った環境から差別されてきた被差別階級には、故郷喪失者にならなくては生きていけない切羽詰まった生と死が眼前にあり、その視点からみれば、当時のお上といわれている権力者たちの姿の方が、滑稽を演じる者にとっては滑稽でしかないわけで、どちらが本当に生きている存在なのか、わからないわけで、少なくとも、身分差別のない平和な新しい時代を築こうとする、いまは笑われる存在でも、その奥底の平和を願う意志の上では、被差別民に利がある、のを説く作品といえるかもしれない。先日、「にけつッ!!」でケンド―小林氏が、乗ったタクシーの運転手に、息子がお笑いをやりたいのを、安定した職ではないので、見切りどころをアドバイスしてほしいと相談され、親身になってアドバイスしたら、悉く撤回され、お笑いまでを否定されたので、タクシーを降りたくなった、という面白い話をしていたが、お笑いブームといっても、まだまだ、この国には古めかしい価値観が蔓延り、自分の生き方にとやかく言われる老害が蔓延っているわけで、その人が息子の愚痴が出るくらいの、タクシー運転手をやりたくてやっているわけではないのが、よくわかる話でもあった。当時の世間的評価を選んで、自分のやりたい職を選べなかった自分を反省すべきだろう。にけつッ!! - Wikipedia世間的評価を選べば、その過去の栄光にすがる誰かを演じるしかないわけなんである。地盤を引き継ぐというのは、その過去の栄光にすがるしかない無能な二世、三世の看板でしかないのである。時代遅れの国では通用するかもしれないが、世界では手遅れになるだけだろう。他人に厳しく自分に甘い無能な政治家を見れば明らかである。つまり、日本には職業選択の自由など幻想でしかなく、いまだ職業差別が蔓延り、裏金議員のような犯罪者が出ても、政治家が卑賎の職業と罵られる気配もないわけで、少子化を女性のせいにする女性うむ発言などにも、金銭欲から権力に媚びを売るのが体質となっていて、せいぜい増税メガネ心理狂政権と毒舌するだけなんである。いかに権力に騙されている奴隷が多いのかわかり、民主主義も、単なる弱い犬の遠吠えでしかない張子の虎なんである。人間に与えられた、笑いは、神の恵みである。絶望の淵に現れる神は、笑いであると思う。敵味方、上下関係なく、互いに心底から笑いあえる世界は、少なくとも平和な世界だろう。お笑い芸人は、その一瞬の天国を現実に降ろしてくれる霊能者である。人類は、笑いの言葉を勉強するべきなのだ!残念ながら、日本の音楽にはいま、その力が欠けている。売れればいいという経済的関係しかみえない。異性に対する低俗な欲望にしかみえない有り触れた俗曲が多い。売れせん狙いのヒット曲なんかその典型で、売れ狙いのカラオケ狙いの商売道具でしかない。ヒップホップが流行れば皆ヒップホップ紛いで、物欲の延長上になる単なる憧れでしかない。差別主義をやめろという主義主張もない。多数派が少数派に耳を傾けるのが意味を持つ、音楽のパワーである事を知らない。単なる流行では何も変わらない看板のすげかえでしかない。それでは、政治が二世三世の権力の道具でしかない、無能な国家で退廃の宿命を背負い、独裁者と共に地獄に堕ちるしかないだろう。政治改革が何度も唱えられたが、何も変わらず、増税ばかりで、裏金議員も辞職すらしない。若者は選挙にいかずに、流行で外見を虚飾する節操のなさに、金銭や異性を射止めるのに承認欲丸出しで、権力に飼われた犬を演じて現を抜かしている。ボブマーリーの音楽は聴いたことがあっても、ドレッドヘアの意味がわかる人もほとんどいない。音楽が単なる環境音楽と化し、アーティストの音楽運動を錯覚し、音楽を性の道具だと勘違いしている。自分も、ググる前までは、ボブマーリーの音楽の底にあるラスタファリ運動を知るまでは全く無知で、無関心だった。 ラスタファリ運動 - Wikipediaシュタイナーは、人種はエチオピア人から生まれたと述べている。つまり、ラスタファリ運動とは、人種が生まれる以前の人類に回帰しようという、人種差別をなくす運動と思われる。地球のどこに生まれようが、それは輪廻転生の一形態でしかない、霊魂の修行に必要な経験でしかない。つまり、我々人類は、人種に意味があるのではなく、人種から学び、それを乗り越える事に意味がある、とする運動なんである。歌詞・和訳 ボブ・マーリー(BOB MARLEY)のONE LOVEを和訳してみました☆ | kazuu洋楽大好きのブログ (ameblo.jp)地球人は、一つの神の愛、人類への愛に回帰すべきなのである。ワンラブがそのメッセージに込められているようにみえる。自分への拘りに打ち克ち、それが本当の自我の霊我への勝利なんである。自分を人種により着飾る必要はなく、自分のなかにある本性に目覚めればいいだけなんである。自分のなかにある差別心を無くそう、その悪魔の差別心、世間体や体裁が、シェリフの保安官であり、権力への依存心なんである。権力への依存心が付きまとうのを、切り離し、自由に、天の主に仕える助手の精神は失わずに、自由に生きることこそ、愛の志なんである。アイショットザシェリフの意味がわかった。性差を超えて人間として生きるために、フレディマーキュリーは、故郷喪失者となった。ドレッドヘアは、髪形に拘らない、人種が生まれる前の、聖書の記述に端を発しているようである。聖書の髪とは、民族の頭から、人種の髪が生まれる意味をもち、だから、頭を着飾るために、髪を切ったりしてはいけない、という記述は、民族問題のために、人種同士で争ってはいけない、と説いているのである。そんなことをすると、不毛の地の禿になるわけで、独裁者に若ハゲが多い特徴にもなっている。愛嬌のない禿げは、どこか冷酷な人情を感じさせる。だから、中世ではハゲ隠しの鬘が重宝された。ハゲが転じて俗物的にスケベといわれるのも、若禿げの精力の生命力のなさを根拠にしているようである。生命力は、毛として現れるからで、髪の毛は女性ホルモンに関係しているのが、現代科学でもわかっているが、女性というよりも霊魂の両性具有性の意味が大きい。シュタイナーは、男性の頭は珪酸が不足しがちなので、髪の毛の先から珪酸を吸収するので、短髪にすべきだと述べている。珪酸は霊能力とも関係し、髪の毛が長いと、俗物化しやすく、修行者が髪を切るのは、雑念を取り払う意味もある。女性は男性よりも霊魂が天界に近く、肉体にあまり入り込んでいないために、珪酸が不足する可能性は少ないが、鉄分が不足しやすく、現代医学でも、妊娠時の鉄分不足からの貧血が指摘されている。ドレッドヘアのような人類の人種が生まれる祖への回帰思想は、ジャイナ教にもみられる、自然回帰思想でもある。老子風にいえば、大道廃れる前に回帰せよ、となるかもしれない。 ☆ ☆ジャイナ教 - Wikipedia基本は出家者のための五つの大禁戒(マハーヴラタ、mahāvrata)、生きものを傷つけないこと(アヒンサー)虚偽のことばを口にしないこと、他人のものを取らないこと、性的行為をいっさい行わないこと、何ものも所有しないこと(無所有)である。このジャイナ教は古代インドでのみ通用する理念で、いまではドグマになっていてよくない。当時は外の世界が、つまり物質界が不浄の、偽りの幻想のマーヤだと説かれていたので、修行に際して、霊能力を獲得するための秘儀参入法だったのである。出家というのは、物質界を捨てることなので、物質界と交わらないという意味で、性的行為を一切行わないのも、含まれるわけなんである。つまり、性的行為を行わないというのは、現代に翻訳すれば、人間を性差で差別しないという意味になるだろう。ルッキズムをしないという、自然回帰を実践したものといえるかもしれない。ジャイナ教を、唯物論で考えるから、おかしなものになり、またそれに人種や民族や文化などの物質欲に搦めるから、ヘンテコな偽宗教になってしまうわけなんである。どんな教えも、自我の本性に回帰すれば、矛盾するものはなく、神の一つの愛の多様な表現にすぎない。どれかに偏るから、バランスを失うわけなんである。自然回帰のバランスを回復するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★(今回、地球紀の講演の、この部分の翻訳の意味を掴むのが非常に困難だったので、改めて、少し前からはじめる。) この経験を、イメージで思い描くなら、別の場所で目的を果たせた犠牲を、保持せざるを得なかった結果、拒絶された犠牲が煙となって排除され、その犠牲は、宇宙の進化過程からも疎外された。 いま表現しているイメージを、知性ではなく、というのも、知性では、解き明かせないからだが、感情で把握するなら、宇宙の普遍的な進化過程からの疎外が、どういうものなのか、経験できる。 犠牲を拒絶した存在たちにとっては、犠牲を遠ざけたに過ぎない。しかし、犠牲を持ち越した存在たちは、代わりに、疎外という刻印を担う。そして、地球紀にいるのは、本来の自我=霊我から疎外された存在たちである。 この疎外という出来事のなかに潜む感情について、霊魂から詳細に解き明かすなら、それは死の感情なのがわかる。宇宙における死とは、犠牲が拒絶された為に、保持せざるを得なかった、低次の存在たちのなかで生じた感情に他ならない。 このように、地球の進化の、第3段階で霊視した「諦め」と「拒絶」から、高次の存在たちにより拒絶された、すなわち死の概念に到達した。そして、死の真の意味とは、本来の場所にない、本来の場所から疎外された、自我に他ならない。 人生に生じる、リアルな死にも、同じ疎外が働く。物質界という、幻想の世界に取り残される死体は、自我を中心にして、アストラル体、エーテル体から疎外され、本来の意味を失い、肉体として置き去りにされる。 人間の肉体は、エーテル体、アストラル体、自我がなければ意味がない。死の瞬間、肉体は意味を失う。肉体に意味を与えていた他の自我ら3つの体から疎外される。人間が死ぬとき、日常の感覚では、知覚できない、それらの体=霊魂が、大宇宙のなかで、自我の本性=霊我を開示する。 高次の宇宙存在たちが、犠牲を差し戻したために、自我は、死を免れないものとなった。というのも、死とは、宇宙的な存在が、真の進化目的から除外されることだからである。 このように、宇宙の第4の要素と呼べる、「土」に到達した。 第1の要素の、「火」は、純粋な精神の意味で、犠牲であり、火、もしくは熱が生じる背後には、犠牲が横たわっている。そして、地球の周りに拡がる、第2の要素の、「空気」の背後には、授与、もしくは徳の付与が見つかる。そして、第3の要素の、「水」、すなわち液体の背後に、精神的な「諦め」、もしくは「拒絶」が見出され、そして、第4の要素の、「土」は、死を担い、拒絶を通して、真の意味の進化目的から疎外された存在として特徴づけられる。 もし、土という要素がなければ、死はなかった。土のなかで、液体から固体が生じ、本来の意味から疎外された死が、具体的な形態を示す。そして、それはまた、ある精神過程を反映している。例えば、池に氷が張り、液体の水が固体になるのを想像してみる。水が氷になるのは、水の意味を与えている精神的な「諦め」や「拒絶」からの、疎外である。 この固体への過程には、土という疎外の、精神的な表現がある。というのも、4大元素の特徴でいえば、氷は、実際に土=固体で、液体は水だからである。自我の、真の目的と意味から疎外されるのは、死であり、死は、土の要素のなかで、自我を開示する。 地球紀の霊視は、幻想(マーヤ)の物質界に、リアルなものがあるか、という問いから始めた。霊魂のなかに、そのような概念を霊視してみる。最初に、わかったのは、地球紀にみつかる概念は、かなり複雑で、混み入ったものだった。 だから、知性ではなく、経験で解釈しなければならない。そうしてはじめて、明らかになる。この死の概念、すなわち、土の概念を取り上げてみる。それは実に注目すべき側面を示す。 いま取り扱った死以外の概念は、周囲に広がるマーヤのなかには、リアル性が見つからず、根源的な精神のなかにだけ見出せる。そして、地球紀のいま、マーヤの領域で、何かが、自我の死を特徴づけるのが確認できる。 それは正に、本来の進化目的からの疎外であり、本当は精神の領域のなかに存在すべきものだった。つまり、それは、精神から切り離され、このマーヤのなかに閉じこめられた。本当は、マーヤのなかにあるべきではなく、広大なマーヤの領域のなかに見つけられるのは、ただ幻想と偽りだけである。 しかし、マーヤのなかにリアルな真実を示すもの、つまり、何か真実のものが、本来は、精神的な存在のなかで、それに意味を与えるものから切り離される瞬間、破壊や死を被る、のが見つかる。ここに、正に大いなる真実と言えるものがある。 つまり、死は「マーヤの世界で、ただ1つの、幻想や偽りでない、リアルな個人を現している」。 死以外の、他の要素は、霊魂のなかに、現実(真実)を辿る必要がある。マーヤのなかに生じる死以外の他の、自我の表現の背後には、霊的な現実(真実)が横たわっている。ただ、自我の死だけが、リアルな個人として現れるのは、マーヤのなかだけである。つまり、マーヤ全体を通して、自我の死だけが現実(真実)なのである。 だから、もし、マーヤのなかの至るところに、普遍的に広がる死から、偉大な宇宙の進化へと向かうなら、人智学にとって、最も重要で、最も適切な帰結とは、次のような命題、つまり、マーヤの世界で、現実(真実)として存在するのは、個人の死だけなのがわかる。
2024年05月28日
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シュタイナーの人智学や神智学などのオカルトの古代叡智に全く関心がない人は、というよりも、関心がない人がこのブログに辿り着くわけでもないが、完全にスルーしてもらった方がよいでしょう。そのような人に、反感をかって、反論されたりして論争し、かえってストレスをためる必要もないからである。自ら必要と思ったときに、必要な努力をすれば、いつでも人智学などの古代叡智を学べるからである。遅かれ早かれ、いずれにしろ、知性が成熟したときに、人智学を学ぶようになるからである。だから人智学を学ぶのを強制する必要は全くないわけで、むしろ、強制するものこそ、偽人智学者といえるかもしれない。学びたいと思ったときに学べばいいだけで、誰かにいわれたりして、学ぶのでは意味がなく、自主的に学ぶのみ意味がある。というのも、カリユガの時代を経験してきた者にとっては、理解困難な内容を説いているからで、益々嫌悪感や反感を覚えても、かえってストレスを溜めるだけだからでもある。というわけで、人智学に全く無関心で、興味がない人は、以下の話はスルーしてくだされ。しかし、人智学を学べば、世界紛争の原因がわかり、宗教や哲学や科学の由来がわかってくるから不思議である。哲学は、霊能力による叡智のことで、宗教は霊能力で解き明かした神話のことで、科学は、そのなかの形態霊の働きを表面的に記述したもの、とわかってくる。つまり、現代人がいま世界紛争を起こしてるのは、高次の宇宙人である神々との交信の霊能力を失い、無知になってしまった、のがわかってくる。ぶっちゃけていえば、悪玉の宇宙人に唆されて、人類同士で戦わされているのが、地球の現状なんである。だから、霊能力を再獲得して、科学を哲学にして、更に宗教にすれば、世界紛争など馬鹿らしくて、やってられなくなるわけなんである。問題なのは、現代の宗教が言い伝えを基にして唯物化されすぎ、複雑化していることで、非常に曖昧になり、人種や民族や文化が一緒くたに混沌としてとりとめのないカオスになって、収拾がつかなくなっていることにある。要するに、物質面であちらこちらを塞がれて、視野が狭くなっているだけなんである。物質界の迷路に迷い込んでいるだけで、あーでもない、こーでもないといって、思う通りに進めずに、ストレス塗れになっているだけなんである。お互いが自分の責任をとらずに、相手に責任を擦り付けているだけなんである。そして、その根本の紛争の要因は、他人に自分を認めてほしいという欲求であり、コンプレックスの裏返しで、なんのことはなく、承認欲求が強く、孤独を恐れるからにすぎない。自分に魅力や芸がないのに、観衆や聴衆のせいにしているだけで、例えば、異性を求めるのも、孤独感の恐れでしかない。もし、両性具有なら、孤独を恐れる必要もない。物質的には、男女のどちらかを選択しないといけないので、孤独を感じるわけで、その孤独の恐れに、悪魔が好んで憑りついてきて、人類を分断して、仲間割れを誘発し、互いを闘争に追い込むわけなんである。だから、真実を見極める霊眼さえあれば、承認欲求など自ずと充たされるものなんである。現代の唯物論的な物質科学が、大きな錯誤に陥っているのは、現状の戦争状態でも明らかである。なぜ戦争に陥るのかすらわからない、その無知さにある。ソクラテスが説いた無知である。馬鹿は死ななきゃ治らないと、誰が言ったらわからないが、戦争を起こす権力者などは、その最たる馬鹿の極みの類だろう。少なくとも、自分が地獄に堕ちていくのがわからないからである。戦場に人を送るというのは、死後、送られた人の気持ちを知り、次の転生で、その体験をして、贖い、償わなければ、孤独の地獄で暮らすしかないからである。だから、地球は、贖い、償いの星と、神秘学では呼ばれている。現代風にいうなら、刑務所となるかもしれない。そして、物欲を求めるほど、孤独の独房へと孤立化していく。地球人が罪人なのは、聖書にも書かれているが、未熟な知恵の実を、悪魔の蛇に唆されて食べてしまい、熟すまで食べてはならないと、神々の形態霊の言いつけに背いたからで、これが失楽である。そのために、神々の言いつけに背けるようになって、地球人は、宇宙の進化から逸脱し、悪魔と共に、自由な身にはなったが、神々の思いやりがみえなくなり、霊能力を失い、自らの欲望を満たすようになっていった。形態霊の神々は、霊能力が充分に熟してから、つまり、モラルを完全に身に着けてから、地に受肉しなさいと命令していたのを、宇宙の進化から逸脱した悪魔がやってきて、未熟なままで、早熟で受肉し、覚醒意識を獲得してしまったので、神々の働きがみえなくなり、その上辺のベールとなっている物質界しかみえなくなってしまった。つまり、半分しかみえなくなった。そして、形態霊の働きは、例えば、科学用語の、エネルギーなどに置き換えられてしまい、4次元時空の先がみえなくなってしまった。つまり、高次の霊能力が低レベル化して、物質的な欲望の、虚栄心や名誉欲などの承認欲になってしまったわけなんである。だから、形態霊の愛の働きが、単なる物質概念からの数値化されたエネルギーになってしまったわけなんである。そして、そのエネルギーを私物化しようとして、核兵器などをつくってしまったわけなんである。しかし、いかに私物化しようとも、物質は、霊性の表面で、一部でしかなく、私は公に帰するので、カルマの法則の鏡像対称性で、例えば、私物化した分、他に損害を与えれば、いずれ、その損害を被る立場になるわけで、この変換のカルマの法則を、ハムラビ法典などは、「目には目を歯には歯を」、と記述しているわけだが、これは、自分がしたことは自分にブーメランのように返ってくる、カルマの法則を述べているわけなんである。ハンムラビ法典 - Wikipediaだから、キリストは、「眼が見えない人がいれば、眼の代わりになってあげなさい。歯がない人がいれば、代わりに咀嚼してあげなさい」というように、カルマの法則でモラルを説いているわけである。要するに、相手の気持ちや立場を思いやりなさい、というのが、物質界を超えたなかの、形態霊の働きを見通す、心眼の獲得法なんである。というのも、形態霊の働きのなかに、人間の内側の精神性と、外の自然の物質性を、三位一体として統合する働きが隠されているからで、それがカルマの働きだからである。そして、キリストは、形態霊の使者ともいえ、太陽霊として、地球人に、真実を見通すための、霊我となる、悪魔ルシファーに代わる、新しい真に自由な自我を与えたのが、人智学を学べばわかるようになってくるからである。形態霊の働きは、現代人には太陽光としてみえるが、人智学でいえば、エーテルの生命エネルギーの働きである。そして、それは重力をなす意志霊と、重力と対抗する運動霊との間に三位一体の均衡の働きをなす。ニュートンはそれを万有引力として表現したが、後の人間は、唯物論で、半分誤解して伝承しているから、核兵器などをつくって戦争しようとして、古代アトランティス時代と同じく破局を招こうとしている。この太陽霊の形態霊のバランスの働きを、地球人の未熟な自我に、霊我として灯すのが、キリストの救世主の働きで、それは西洋から生まれる処女マリアの精神と、東洋から生まれるアバターによる出家故の仏性の父性の精神との父母の天と地の受胎なんである。つまり、西洋には霊的な父性が欠け、東洋には霊的な母性が欠けているわけで、互いを補い合うのが、第6文化期の、東欧のスラヴ文明の課題なんである。いまロシアとウクライナでまさに戦いがおこっているが、この戦いをどう解決するかが、次の第6文化期の人類の課題で、いま宇宙はその行方を見守っているわけなんである。東欧や西南アジアでの霊性の受胎の神話から、第6文化期の時代霊と昇天する民族霊が旗頭となるのが預言されている。東と西を結び付けるキリストの融合民族なのである。シュタイナーは、その第6文化の特徴を、ソロヴィヨフに言及している。ウラジーミル・ソロヴィヨフ (哲学者) - Wikipediaこのソロヴィヨフのキリスト論は、誰もがキリストの高次の自我=霊我のバランス力で、悪魔の低次の自我を三位一体で統治できるのを理論的に示したものである。そこで、現代が、物質界という、錯誤に塗れているのを、要約している、シュタイナーの動画を以下に紹介する。物質界の奥で働く形態霊が霊視できるようになると、時代霊や、民族霊の大天使の働き、そして天使たちや、また天使たちに抵抗する堕天使たちの、特にアーリマンの錯誤を、地球人が見破れるようになるからである。ルドルフ・シュタイナー「人類をあざむくアーリマンの重要な手段」 - YouTubeルドルフ・シュタイナー「アーリマン(サタン)存在の受肉 / アーリマンとは」 - YouTube進化と悪 | ルシファー・アーリマン | ペンターブシステム〜負荷・反映・等化・中和・進化〜 - YouTubeさて、現代になっても、中国とインドがあまり仲がよいとはいえないのは、古代アトランティス時代からの因縁をひきづっているのを、シュタイナーは解き明かしている。現代の大西洋の真中にあった古代アトランティス大陸の大破局後の、人類は、東に向かったという。その中心が、聖書で記述されたノアの民族で、神秘学ではマヌとも呼ばれている。そして、当時最も古代叡智を継承していたそのマヌ民族が、東のゴビ砂漠に辿り着いた。当時の大陸はまだ現在のように固くなく、沈没した古代アトランティス大陸も、固くなく、まだ液体のようだったので、その痕跡が残っていないという。古代アトランティス大陸が沈没したので、太平洋側のかつて海底だったシベリアなどが隆起したらしい。勿論、大気も水蒸気のような澱んだ、いわば、ミストサウナのような状態だったので、特に北欧人がサウナを好むのは、古代アトランティス時代の思い出が霊魂の潜在意識のなかに蘇り、活気をもたらすからである。精神がリラックスするのは、霊魂が古代アトランティス時代の神々との交流を思い出すからである。ゴビ砂漠 - Wikipediaミストサウナの効果って?メリットと正しい入り方を解説 - お風呂メディア (bathlier.com)だから、古代アトランティス時代の古代叡智を最も継承していたマヌの民族による、古代中国文明は、当時、最も高度な文明だったので、そこにルシファーが目をつけて、受肉したのが、中華皇帝の中華思想となったのだろう。有名な万里の長城による石による防御要塞は、いかにもルシファーの秘密主義が現れているからである。それは継承した古代叡智が外に漏れるのを禁じたのと、モンゴル人種が、赤の火星で、戦いの星を象徴としているので、太陽に対立し、自立する宿命を負っているからにみえる。万里の長城 - Wikipedia失われた万里の長城、モンゴルで発見 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト (nikkeibp.co.jp)つまり、古代中国は、古い霊性を継承する土地で、いまでも国境が曖昧なのは、霊性をもった人治主義で統治する民族性を負っているためで、物質性にはほとんど無関心で、物質文明には疎いからである。物質的発展よりも、むしろ精神的機密性を尊ぶ、懐古主義の、時代遅れの文化なんである。だから、いまでも、古代アトランティスをどこかで憧れているような文化をもつわけなんである。眠れる獅子と譬えられるのは、獅子を古代アトランティス文明とすれば、的確な表現といえるかもしれない。マヌに継承された古代叡智はその後、7聖仙と呼ばれた7民族に受け継がれ、特に古代インドで、古代アトランティス時代までに霊能力が高められたという。その名残がヴェーダで、ヴェーダンダ哲学だと、シュタイナーは述べている。ヴェーダ - Wikipediaヴェーダーンタ学派 - Wikipediaそして、古代インド民族を指導した民族霊は、時代霊までに昇格し、古代インド文化期を興したという。それは再び古代アトランティス時代の古代叡智の霊能力を獲得する文化であり、その修行法である。だからいまでもインド人は、言語は民族霊から与えられるものなので、サンスクリッド語が神の言葉に近いなどで、言語能力に優れているわけなんである。そして、古代アトランティス時代の文化が主に呼吸のエーテルの気の文化だったので、エーテルの創造まで、形態霊の創造域まで、言葉を駆使できたので、逆に、物質は幻で、無関心だったために、物質文明は不得手で未発達だったが、昨今のITなどの電子言語は、そのエーテルの光の特質から、得意なわけである。現代でも、世界人口で、インドと中国が約14億人と他よりも突出しているのは、古代アトランティス時代の文化の恩恵といえるだろう。同じ古代アトランティス文化でも、インドと中国が異なるのは、中国がルシファーに浸透され、モンゴルの火星の特徴から対抗し、閉鎖的になり、逆に、インドには7聖仙の指導が行き届き、解放的になった違いが根底にあると思われ、特に古代インドの民族霊が時代霊に昇格し、人類の進化を指導したのが大きいと、シュタイナーは述べている。ちなみに、日本の人口が減っているのは、それだけ、霊性に乏しく、物質化しすぎたため、霊魂が活力を失っているわけで、消滅する時代遅れの民族といえるかもしれない。というのも、貨幣経済の奴隷となっているからである。カスハラなど我儘なエゴ人間が増えているし、無能な政治家を見れば明らかで、日本は無能な政治家により滅んでいくだろう。【2024年最新】世界人口ランキング(国連) | 世界人口は81億人を超える一方、日本人口は約70万人減少する見込み|セカイハブ (sekai-hub.com)そして、我々のポストアトランティス時代の、古代インドの霊性は、その後、古代ペルシャに引き継がれ、ゾロアスターの拝火教などに継承されていくが、古代エジプトで興隆を迎え、古代ギリシアと次第に黄昏へと霊性を失っていき、古代ローマになってついに、神々との対話が完全に失われ、地上に私法となるローマ帝国が築かれるに至り、カリユガの闇の時代を迎えることになるわけである。大まかな流れは以下を参照にしてくだされ。【シュタイナー】地球紀の進化過程について~現在はポスト・アトランティス時代~ | Noos Eggs (cosmolifeology.com)そして、暗黒が極まった古代ローマの時代に、キリスト太陽霊がイエスに受肉し降臨したのは、まさに神の恩寵といえるだろう。そして、第6文化期にまた、キリストの蘇りが現実にみれる、霊能力の獲得が準備されていくのが預言されている。シュタイナーは前世を記憶する子どもたちが生まれてくると述べている。キリストの神の恩寵を感じ取れる子どもたちなのである。神の恩寵に応えるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ もし、高次の存在たちと、低次の存在たちを、太陽と、太陽を中心に集まる惑星として象徴化するなら、これまで霊視してきた関係の意味が明確になる。低次の惑星存在たちが、その犠牲を高次の太陽に捧げたいと仮定する。しかし、太陽はその犠牲を差し戻し、犠牲は、捧げた存在たちに留まる。 犠牲を拒絶された存在たちは、その孤独と隔離のなかで「憧れ」にみたされる。そして、運動霊が、それら低次の存在たちを、高次の存在たちの周りを巡る周回へともたらす。犠牲を保持する低次の存在たちにとって、高次の存在たちに、犠牲を捧げる代わりに、その周りを巡る運動にかわり、犠牲が、高次の存在たちとの周回の関係に代わった。 それは、深い「憧れ(欲望)」が、一気に叶うようなものではなく、一連の段階的な経験によって部分的な満足で慰められるような関係である。そのような一連の部分的な満足によって、人間の魂のなかに、運動がもたらされる。以前、この事を割と正確に記述した。 そのときは、高次の存在たちと内的に結ばれていると感じられない存在には、外から来る印象が代替物として生じるのを見た。これらの代替物は、低次の存在の、部分的な満足を示している。 しかし、捧げられた犠牲が、高次の存在たちに受け取られた場合は、低次の存在たちに留まった場合とは異なる形態を取ったのは否定できない。というのも、その異なる形態となるべく必要条件は高次の存在たちに委ねられるからである。また、ここでも、この事をイメージで想像できる。 もし、ある惑星の犠牲が「太陽」に流れ込んでいたなら、そして、「太陽」が、それを拒絶しなければ、この惑星存在たちは、「太陽」存在として、犠牲が差し戻された場合とは異なる存在条件に到達していたはずである。だから、犠牲の内容と呼べる「疎外」(太陽という起源からの疎外)は、犠牲の拒絶から生じた。 次のような心境についてよく考えてみる。 喜んで捧げようとし、その目的を達成し、捧げものとして差し出したときに感じるものを、自身のなかに保持せざるを得ない。もし、そのような存在たちの経験を甦らせたなら、 「宇宙の存在たちの、ある一部が、自らのもつ本性により、偉大な宇宙の進化目的から排除された出来事」 と呼べるプロセスを経験するはずである。 もし、この経験を、イメージで思い描くなら、それらの存在たちは、実際には別の場所で目的を果たせた犠牲を、自身のなかに保持せざるを得なかった。その結果、拒絶された犠牲が煙となって排除され、その犠牲は、宇宙の進化過程からも疎外された。 もし、いま表現しているイメージを、知性ではなく(知性では、解き明かせない)、感情で把握するなら、宇宙の普遍的なプロセスから引き離されるのが、どういうことなのか、を経験できるだろう。 犠牲を拒絶した存在たちにとっては、その犠牲を遠ざけただけに過ぎない。けれども別の存在たち、自身に犠牲が留まる存在たちにとっては、それは起源からの疎外という刻印を担う。そのとき、そこにいるのは、自我の起源から疎外されたのを示す存在たちである。 もし、この出来事を詳細に理解するなら、もし、自我の起源からの疎外という出来事に潜む感情について、詳細に霊魂から解き明かすなら、それは死に対する感情である、のがわかる。宇宙における死とは、犠牲が拒絶された為に、自身のなかに保持せざるを得なかった、低次の存在たちのなかで生じた感情に他ならない。 このように、地球の進化の、第3段階で霊視した「諦め」と「拒絶」から、高次の存在たちにより拒絶されたもの、すなわち死の概念へと到達した。そして、死の真の意味とは、本来の場所にない、本来の場所から疎外された状態に他ならない。
2024年05月23日
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現代の物質科学での観測によれば、我々地球人の知識から、およそ138億年前に宇宙がはじまったとされているが、その物質科学では、人類が我々地球人だけだと考えるのは、138億年をいかにも無駄にしているような話ではないだろうか? 138億年の間に生み出した知性で、現在では人類同士で戦争をしているような無様な様子に、そのような愚かな知性に、宇宙の進化が委ねられていると思うのはあまりにも自己都合的な知性で、全く馬鹿げているようにみえるからである。つまり、地球人の現代の知性は少なくとも破壊的で創造的ではないのがわかる。138億年もかけた知性だとはとても思えないわけなんである。宇宙の年表 - Wikipedia138億年もかけた知性で、このまま人類が滅亡してしまったら、人類の知性のその責任は、とても知性とはいえない恥性を証明するようなもんである。地球上での人類が最も進化し、発達していると考える、その恥性は、138億年もかけて育んできた宇宙に対して、あまりにも失礼で、侮辱しているようにもみえる、裏切り行為で、いまも地上の土地を巡り、核兵器で恫喝して戦争を続け、金持ちが贅沢をやめずに、同じ人類の貧困問題を真剣に解決しようと思わずに、金銭的な富を独占集約化し、半ば奴隷化して、格差社会を増やし、一向に差別や貧困がなくならない社会現状をみれば、その宇宙に対する裏切り行為は、既に現状から明らかなのではないだろうか?つまり、人類の現状の知性を改める必要を考えるべき段階にある、といえるかもしれない。シュタイナーによると、いまの地球人となっている人類をつくり、人類の進化を指導してきた主な神々が、エクスシアイと呼ばれる形態霊たちであり、いわば地球の物質界を形作り、形態の存在として表現しているので、形態霊と呼ばれるという。地球人に善玉と悪玉がいるのと同じで、天使たちにも、宇宙の進化から逸脱するのもいるのは、前回紹介したが、善玉と悪玉が時には戦い時には共同し、切磋琢磨して、進化してきた宇宙の歴史が138億年と、いわれているわけでもある。その人類史を含む宇宙進化史の、つまり知性進化史を、シュタイナーの人智学的宇宙進化学として紹介しているわけで、我々の地球紀が、その集大成でもあるが、同時にその底辺ともいえるわけなんである。最底辺の知性から上をみれば、見上げる空は輝く星ばかりでしかない。我々地球人はなぜ地上で敵と味方に分かれて戦うのだろうか?その理由を考えるべきだろう。人智学によれば、天使の位階は、宇宙の進化に寄与し貢献してきた業績や能力に応じているようで、形態霊は、地球人の4つ上の位階に属し、宇宙のカルマによりバランスした知性が進化しているので、いまの人類よりも、遥かに進化したバランスのとれた叡智を身に着けているわけで、正統に進化し、カルマのバランスがとれた形態霊は、当初、地球人を皆同じに、つまりカルマのバランスのとれた差別のない形に、つまり人種のない形につくろうとしていたという。人種ができると恐らく、その違いでヘゲモニーから戦争してしまうのが、神々のバランスした知性から明らかだったからだろう。現にヘゲモニーで戦争しているしね。つまり、神々の叡智の進化段階に比べれば、比較するのもおこがましいが、我々地球人の現在の叡智はまだまだ未完成で未熟なわけで、そのために人種があり、それに付随して、物欲や名誉欲や承認欲などの虚栄心や目立とう精神などが、汚れたゴミのように、心にこびり付いて、障害物のように、バランスを偏らせて、進化を邪魔しているわけで、それこそが、心の中に巣食う悪魔となっているわけなんである。だから、地球人である人間は、自らで判断する前に、まず心の中に巣食う悪魔を取り除く必要があるわけで、つまりこれまでの知性を捨てて改めないといけないわけで、これがソクラテスが説いた無知の知なんである。この現代人の知性では、人種も民族も文化も一緒くたに曖昧に同じようにルッキズムの外見で唯物的に比較し考え、判断しているが、同じような服を着ているからといって、同じ精神の人間でないのと同じで、ポストアトランティス時代の人種はエチオピアのアフリカ人からはじまり、民族は、民族霊たちの指導からはじまり、文化は、民族霊が時代霊に昇格して、古代インド文化からはじまったと、前回紹介したように、物質界の唯物的な知識からは解き明かせないので、ソクラテスの無知の知を再度強調するわけなんである。無知のままで判断しても、錯誤が錯誤を生むだけにすぎない。錯誤が溜まり溜まって収拾がつかなくなりその混乱のなかで敵味方に分かれて戦わされるだけなんである。それに唯物的な知識には、悪玉たちの錯誤が混じっているので、その分、自惚れた知識になっているので、錯誤の混じった知識を使うのは益々錯誤に人類を導き、崩壊に向かわせるだけなんである。そのような自分のなかの悪の錯誤に気づかずに、権力者に成り上がろうとするのは、また別の悪魔を召喚して、地獄のゲヘナに堕ちていくだけなんである。悪魔の王国づくりに奴隷として加担し地獄におちるだけなんである。かつて、古代ローマの箴言では、冥界の王になるよりは、この世で乞食をやる方が遥かにマシといわれていた。冥界の王とは、悪魔に加担する悪の奴隷であり、乞食とは、心の貧しい、つまり欲望のない純粋で、純真な霊魂を意味し、それは穢れを知らない、処女マリアとして象徴化されている。キリストは、心の貧しきものは幸いで、天国はその人達のためにある、と述べている。処女マリアとは、けっして、物質界に受肉しない天国の霊魂のことで、お釈迦さんが、出家を説いた仏の解脱のことでもあり、神秘学では、受肉しない霊魂のことで、アバターと呼んでいる。つまり、両性具有の仏の霊魂の存在である。だから、性も人種も民族も文化ももたない普遍な純粋に霊の存在で、お釈迦さんの時代は、来るべきカリユガの時代に転生しないように仏教を説いたので、それは当時の古代インド思想の名残りでもあったが、当時の霊眼獲得法でもあり、後の東洋の神秘学の基本理念となったという。アヴァターラ - Wikipediaつまり、処女マリアの受胎と、仏のアバター=アヴァターは、神秘学では同じ意味に捉えられるが、西洋と東洋では、進化を指導してきた民族霊が違うので、表現が異なり、霊眼獲得法も、民族から、受肉し、生活した土地に依存して人種に分化してきたために、東西で、異なっているわけなんである。シュタイナーは、西洋人が東洋の霊眼獲得法の修行をしても、肉体が異なるので、無意味と言っているし、またその逆も、無意味と説いているが、東西で、否定し合うものではなく。とにかく、霊眼を獲得すると初めに出くわすのが、霊的な悪玉たちなので、注意すべきだと教訓を示唆しているだけで、それは禅でも、仏陀に出逢えば、仏陀を殺せ、と説いているのと同じである。だから、安易に霊眼をもつのはかえってリスクを冒すだけなんである。それは、未知の地に行って最初に出くわすのが必ずしも親切な人とも限らないわけで、怪しい詐欺師が紛れ込んでいるのは、物質界でも同じで、だからこそ物質界で学ぶ必要がある。物質界でも、ある程度、前もって調べて、知識がないと、騙されるわけで、霊界では猶更、悪に染まってしまうわけなんである。ましてや霊界では、人間の知性は遥かに劣っているから、郷に入っては郷に従わざるを得なくなり、地獄に入れば、鬼に従わざるを得なくなるわけなんである。つまり、自らの人種や民族や文化の欠点を知らずに、物質界でも偏ったままで、霊眼をもつのは、それだけダークサイドに堕ちやすくなるだけなんである。霊界の悪玉にとっては都合の良いカモになるだけである。勿論、天国から拒否されて、出禁にされ、また転生して、カルマでの禊を済まさないと、追放処分にされるわけで、地獄に住み着くしかなくなるわけなんである。少しでも悪魔の心をもっていると、重力により引き寄せられるわけなんである。悪魔と言ってもこの場合は、運動霊から形態霊に下降した天使たちだが。重力というのは物理学で分かっているのは表面的なもので、ニュートンの万有引力は、ニュートンが考えていた記述できる一面にしかすぎない。ニュートンは当時の神学者で、重力の本質が、座天使=意志霊の能力から生まれるのを恐らく知っていたと思われるからである。三位一体とは、天使たちの3つの力から生まれる世界のことである。だから、重力も、三位一体の力で、その記述形式を、形態霊と運動霊の働きから、万有引力として数式化したにすぎないが、ニュートン本人は、数式は一切使っていない。というのも、天使たちの能力は数式では表記できずに、幾何学で解き明かされると、古代ギリシア当時から信じられていたからである。アイザック・ニュートンのオカルト研究 - Wikipediaニュートンの運動論は、アリストテレスの霊視による運動霊の働きの焼き直しにみえる。だから、現代が考える時間論などは、ニュートンは考えていなかったし、現代人が、時間と捉えた記述を、デュレイションと呼び、運動が、安定に達するまでの「猶予期間」と考えていたようである。つまり、神の力が働いている間が時間なのである。慣性力とは神である運動霊の能力となる。ニュートンが近接力で有名なエーテルを否定するために遠隔力を仮定したのではなく、恐らく、当時の、エーテルの有無論に巻き込まれるのが煩わしかったのだろう。神の力を、当時は唯物論的なエーテルで考え、現代もエーテルを物質と考えて否定しているからである。ニュートンは近接力で有名な光の探求もしているし、光のプリズムによる分光実験は有名であり、恐らく、光のなかに、神々の7柱の働きを探求したのだろう。だからニュートン力学のガリレイ変換や絶対時間の考えは、恐らくニュートンにはなく、後に特殊相対論でアインシュタインが言及したローレンツ変換を支持していたように思われる。光そのものがエーテルであり、神々の叡智の働きだからである。ニュートンのデュレイションは、神々の力の関与期間なんで、アインシュタインが、それをローレンツ変換で、光速度に置き換えたのは、物質界では妥当な成り行きだからである。そしてまた、アインシュタインは、一般相対論で、慣性系による質量と時空の等価原理で、再び、ニュートンが想定していた三位一体の相互作用の、運動霊と意志霊とカルマによる曲線の幾何学を、形態霊の表現として、ユークリッドの原論を基にしたリーマン幾何学で記述したが、これはあまりに唯物的なので、カルマの物質的記述ではある程度意味があるが、非線形な生命現象に言及せずに、三位一体を線形の相互作用に解釈しただけで、宇宙の進化を解き明かすにはまだまだ未熟と言わざるを得ない代物であろう。さて、現代の物質科学的な解釈では、人類は約20万年前からはじまったとされているが、それは現代人のような物質的な肉体をもつ地球人が生まれたのが、約20万年前で、神智学では、宇宙の誕生と共に、現代とは全く異なる形で、既に存在し、アダムカドモンと呼ばれている。頭をもつヒト型となったのが、いまから約2万年前の、古代アトランティス時代で、男女に分かれたのが、それよりも約数百万年前の、古代レムリア時代で、それらは、虚空アカシャ年代記を読み解けばわかるという。地球46億年の歴史と生命進化のストーリー | JAMSTEC×Splatoon 2『Jamsteeec(ジャムステ〜ック)』ここで疑問に思うのは、進化をどうとらえるか?にある。虚空アカシャ年代記というのは、宇宙の叡智の、宇宙意識の、いわば進化計画として存在し、神智学では、それを宇宙の微粒子として、コスミックダストと呼んでいるが、この純粋性からつくられる霊魂が、その進化から逸脱し、地上に受肉するたびに穢れて、本来はカルマにより、物質性のネガティヴが解消されていくべきで、この本来のコスミックダストに、アクセスできるようになるはすが、逆に物質性に染まり、できなくなっていくと、神智学では、この事をネガティヴに取り込まれ、陥る、と呼んでいるが、ついには、独房に入れられたような孤独のゲヘナに埋没していく、自分で自分の生命を殺すような自縄自縛に陥るのを、現代の唯物化の知識では、進化と捉えている節がみられるわけなんである。これは現代人でも、心のなかで、常に、悪魔と聖霊が戦っている状態と同じである。孤独になると、外にむかっていた攻撃性が、内に向くために、悪魔の存在が明らかになってくるわけなんである。死後に孤独になると、この悪魔の存在が露わになるのが、同じ構図からわかるだろう。外にいたはずの攻撃性の対象である悪魔が、実は、自分の心の中に住み着いていたとわかるのは、脅威で恐怖でしかなく、もはや手遅れだからで、自分のなかの攻撃性そのものをなくさない限りは、何をしても無駄であり、無くそうとすれば益々増えるからである。地上での修行は、この攻撃性を、バランスの偏りをなくすためにあるといってもいいかもしれない。内の錯誤の悪魔に対しての、外の錯誤の悪魔のマッチポンプの連鎖を食い止めるために、その天秤に釣り合いとバランスを、それぞれの自我にもたらすために、我々地球人は、日々知性を改めるために、この地球の地上に、生きているわけなんである。知性で他を見下すための判断に使うのではなく、自分の判断を改めるために、知性を使わないと意味がない。知性を絶えず新しく循環させないと、新しい判断や観点や見識が生まれずに、進化とはいえない。少なくとも、唯物論からでは、外見からでは何も創造的なものはうまれない。ルッキズムを改めないと、進化とはいえない。内と外で戦っても意味はなく、地上の戦争とは、内と外との悪魔の戦いに人類を巻き込んでいるだけにすぎない。現代人のこれまでの現代的な価値観を改めないとなにもはじまらない。我々地球人は、悪魔の知性の奴隷となっているだけなんである。地上に王国を建設しようとも、それは悪魔の王国であって、天国につながるものではない。現に地上の王国には資源が必要で、金銭が必要だといいながら、浪費し、環境破壊を続けるだけなんである。この国の政治家の虚言癖をみればわかるだろう。いま現代に亡霊の如く残る悪魔の残像の知性から自らを解放するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ さて、地球紀のここで、以上の土星紀から太陽紀の概念と、地球紀の直前の、月紀の概念との間に橋を架けてみたい。 土星紀から太陽紀に示したのは、喜んで犠牲を捧げようとする存在たちがいること、そして、ある存在たちが、捧げられた犠牲の受け取りを拒み、犠牲が捧げた存在たちに戻ることで、進化がもたらされるか、ということだった。そして、差し戻される犠牲のなかに、古「月」進化紀での重要な要素の1つを認めた。実際、ある存在たちが、より高次の存在たちに犠牲を捧げ、それが差し戻されたのが、古「月」進化紀での最も重要な側面の1つである。このように、月存在たちの犠牲の煙が、高次の存在たちに向かって立ち上るが、その存在たちは犠牲を受け取らず、そのため、その犠牲の煙は、犠牲を捧げようとした存在たちに戻された。「月」存在たちについて最も特徴的なのは、高次存在たちへと送り届けようとしたものが、犠牲の実質として、自身の中へと突き返される、のを感じた、という点であるのを見てきた。 確かに、これまで見てきたのは、高次の存在たちの一部になろうとしたが、なれなかった実質が、それを送り出した存在たちに戻され、そして、それにより、拒絶された犠牲を差し出した存在たちに、憧れが生じ、その理想に向かう能力への努力が生まれた。実際、魂の中で、憧れとして経験する全ては、古い「月」の上で生じた遺産(犠牲が拒絶された存在たちの遺産)が今なお存在している。古い「月」の進化期と、その精神的状況を精神的観点から理解するなら、それは、当時、犠牲を捧げようとしたが、高次存在たちが、受け取りを差し控えたために、受け入れられなかった存在たちがいた、という事実によって特徴づけられる。古い「月」の特徴的な状態の背後には、他に類を見ないような憂鬱な状況、つまり、拒絶された犠牲がある。そして、また、カインも犠牲が受け取られなかったが、その出来事は、地球紀の人類進化の出発点を指し示し、このカインの拒絶された犠牲は、カインの魂を捉えた、古い「月」進化の基本則の繰り返しとして現れる。古い「月」状態での存在たちのように、その拒絶とは、地球においては、「憧れ」から、悲しみや痛みを生じさせる。 以前、古い「月」上に運動霊が入ってきたことで、犠牲と、それが受け取られなかったことで、存在たちに生じた「憧れ」との間にバランス、もしくは矯正が生じた、のを見てきた。少なくとも、犠牲が拒絶された存在たちに生じた「憧れ」が、ある程度、満足させられる可能性が創出された。月紀でのその出来事を、現代の生命的な方法で、次のように想像してみる。 犠牲を捧げられる高次存在たちが、犠牲の実質を送り返す。犠牲行為を行おうとした存在たちに「憧れ」が生じ、次のように感じる。「もし、私が犠牲を捧げられたら、私の最良の能力が、高次存在たちと共に生きただろう。実際、私自身が高次存在たちのなかに生きていただろう。しかし、私は、高次存在たちによって拒絶された。そして、私はここに、そして、高次存在たちは向こうに立っている!」そして、この言葉通りに解釈すると、この言葉を発する存在たちには拒絶された犠牲から来る「憧れ」が、高次存在たちに向かって煌めいているが、いま、運動霊により、多くの異なった側面から、高次存在たちにアプローチできるような、自由な地点へともたらされる。そして、拒絶された犠牲を捧げた存在たちを取り巻く、高次存在たちから受け取る豊かな印象によって、拒絶された捧げものとして、これらの存在たちに、憧れとして留まる欲望に、均衡と補償がもたらされる。このように、犠牲を捧げようとした存在たちと、それを拒絶した高次の存在たちとの間に1つの関係が創り出される。そして、その新たな関係によって、捧げものが差し戻されたために満たされなかったものが、あたかも犠牲が受け取られたかのように、補償される。
2024年05月21日
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もはや世界的な人気といえるジブリ映画だが、ジブリの最新作の映画「君たちはどう生きるか」はまだみていないのだが、先日、宮崎駿氏のそのメイキングみたいなものをBSNHKでみた。賛否両論の評価のようだが、前回紹介したように、唯人間論が浸透している現代での、恐らくファンタジーへの認識が低いせいに思われ、それは恐らく、人智学についての評価も、同等に思えてくる。君たちはどう生きるか (映画) - Wikipedia死を身近に感じると、なぜだか、ファンタジーを感じ、現実なのか、夢なのか、の区別がなくなっていくはずである。宮崎駿氏の、「脳を壊すとか、溶かす」というような口癖が印象的だったが、その姿はまるで、シュタイナーが説いている、霊界参入の修行者のようにみえた。おそらく、覚醒意識では捉えられない、物質界の奥に隠れた世界の謎を、自分の人生から解き明かそう、としたのかもしれない。かつて古代人がもっていた霊能力を、現代人が獲得するには、自分の存在を物質界に現実化させている覚醒意識を、つまり脳をどう取り扱い、脳からどう脱出するか、にある。現代人は、脳科学などから、人間の自我が脳にあると思い込んでいるが、人智学では、自我は、血液にあるのがわかっている。自我が血液にあるからこそ、免疫を司り、硬い骨を基盤にしながら内部の骨髄から造血できるわけなんである。血液こそが、人体のホメオスタシスの中枢で、バランスの中心なんである。血判状が信頼の証だったのは、自我の集合化ともいえるかもしれない。個人の自我の、集団自我へのいわば先祖返りといえるからである。だから、古代人の血液は物質ではなく、霊的なものだった。だから青い血ともいわれた。青い血を貴族の白い肌に結び付けて静脈の色と唯物論で解釈しているのは間違いである。そもそも貴族が労働をしないから白いというのも偏見でしかない。それは貴族が白人種という嘘を述べているのと同じである。ホンモノの貴族に人種など関係がないからである。それなら、なぜキリストの血は青くなかったのだろうか?キリストの血は赤く、サンタクロースの赤として伝承されている。だから、青い血とは、現代の物質界からみえる色ではなく、物質界を超えた世界での色彩なのである。例えば、青い火の温度は、他の色よりも高いのが現代化学でもわかっている。つまり、最も熱い火の色なんである。なぜXEBECは青い炎なのか? | 株式会社ジーベックテクノロジー (xebec-tech.com)赤い血というのはヘモグロビンの鉄の酸性の色で、物質性を意味し、だから物質性のエゴの自我で、活動的な赤の物質的運動の、酸素消費の象徴といえる。対照的に、青い血は、静寂で、細やかな不動の感性の、バランスのとれた安定性を、つまり冷静さの象徴といえる。赤と青は、いわば自我の物質性と霊性を象徴していて面白い。赤はまた火星の色で、青は木星の色と、五行説ではあてられている。人智学では、人種の起源を、五惑星に求めている。水星は人種の起源とされるアフリカのエチオピア人で、金星はマレー人、火星はモンゴル人、木星はヨーロッパ人、土星はアメリカ先住民である。五行思想 - Wikipediaエチオピアでヒト属最古の化石発見! | Nature ダイジェスト | Nature Portfolio (natureasia.com)マレー人 - Wikipediaモンゴル人 - Wikipedia現代科学の、特に物理学では、唯物論から物理法則をつくっているが、残念ながら、この法則には生命のカルマの法則が記述できないので、生命体や人種の起源なども解き明かせない。タンパク質論や情報理論でDNAをいくら唯物的に解釈しようが、所詮、確率統計学の線形理論での経験則であるので、非線形現象を直接記述できずに、無駄な徒労で終わるしかないので、ただ論争を招き、現にヘゲモニーの還元論による支配論で、地球の資源や土地を巡って核兵器で戦争をしている始末なんである。【1分解説】ヘゲモニーとは? | 石附 賢実 | 第一生命経済研究所 (dlri.co.jp)これらの物質科学は、所詮、神秘学で預言された火星の科学といわざるをえない。それは物質のように互いにヘゲモニーを巡って対立し、闘い崩壊に向かうだけなんである。地球人はいまのこの低次の知性を乗り越える意志さえ持ち合わせていない。まるで低次の知性の奴隷と化している。ひたすら、この無神教の信者に成り下がっている。ジブリの新作から、いまの地球での人種問題の話になってしまったが、よくジブリの作品の中で何が好きか?という質問がバラエティ番組でなされるが、どれも面白いが、やはりジブリの原点は、「風の谷のナウシカ」にあるように思われる。いまシンウルトラマンとか、シンゴジラとか、シンライダーとか作られているが、シンナウシカがあってもいいのではないかと思った。風の谷のナウシカ - Wikipediaエヴァンゲリオンの監督がつくるという噂もあるが、是非、リメイクしてほしいものである。というのも、風の谷のナウシカこそ、我々地球人の使命を語っている映画のようにみえるからである。種を超えた愛の融合こそ、地球の課題であると、シュタイナーは説いている。戦いを止めることこそ、ヘゲモニーに終止符を打つ事こそ、人類の現状の進化の課題である。ナウシカは、愛の武人にみえる。武とは、破壊を止めるという字形からなる。戈は破壊で、止める字がついているわけなんである。これはバランスのとれた公正で公平な高次の愛を意味する。さて、いま巷には、いかにも如何わしく胡散臭い、意味不明な「世界を恐れさせた日本人」とか、日本賛美の広告が、詐欺迷惑メールと共に、滅多矢鱈と流れ、失言で有名な政治家の影を感じさせるが、バラエティのエンタメで取り上げるのならまだしも、性懲りもなく、皇国史観の民族主義者の老害たちが、かつてのソ連崩壊のロシアのように跋扈し始めると、流石に天邪鬼で、猜疑心が強い自分には、日本人を褒め殺しにする策略か、逆に、こんな広告に騙されるような、いまでも、そんなに世界にコンプレックスをもつ日本人がいるのか、と呆れ果ててしまうばかりで、これらの過剰宣伝に騙されないように注意すべきである。というのも、自分は、日本人離れの東南アジア系のルックスをしていたために、肌色も黒く、昭和当時の東南アジアへの差別感覚で、子どものときから揶揄われたりして、嫌というほど非日本人感を味わってきたので、表向きは日本らしさを忖度してきたが、内心は、日本らしさが大嫌いだったからである。子どものときは特に食卓の和食感が大嫌いだった。日本人らしさの押し付けのようにもみえた。海外で暮らすならまだしも、日本に暮らしながら、日本人らしいってどういう差別なんだと思う。家柄がどうとか、天皇に近いとか遠いとか、武家出身とか、百姓出とか、昭和の大人たちはよくそのような下世話な差別話や身分差別をしていたように記憶している。これらの差別感は昭和では、世間体とよばれていた。令和の現在では、このような昭和の差別感が薄まっているとはいえ、まだ、わずかに韓国や朝鮮、中国など東アジアに対して残っているのは否めない。この傾向は、自分を日本人だと自負し、それを当たり前に感じている人に多い差別感にみえる。その多くが海外経験不足からくるものかもしれない。どの人間社会にも差別はあるが、それを無くそうとする努力があるかどうかで、地球人の知性への意識や、人間社会の未来が問われるのは、地上のどこでも同じである。いまは令和の、和食といえば高級イメージが強く、コンビニの世界的認知で、おにぎりでさえも好評で、想像し難いが、昭和当時は和食といえば貧困さを連想するものでしかなかった。和食といっても、子どものときは、焼き魚に白飯味噌汁、たまに海苔くらいの貧弱なものだったから、いまの和食とは月とスッポンかもしれない。だからインスタントラーメンばかりを食べていた記憶があり、ハンバーグや寿司は贅沢で、魚肉ソーセージのマルシンハンバーグなどで食を満たし、マクドナルドが近くにできたときは憧れの洋食で、はじめてケンタッキーフライドチキンを食べたときの驚きは半端なく、映画スターウォーズをみたときの驚きと、双璧だった。昭和の子どもにとって、その驚きは、日本史で習う、1853(いやござんなり)の、幕末のペリーの黒船来襲と同じで、ダースベイダーがフライドチキンをもって、スターデストロイヤーで侵略してきたような衝撃といえるかもしれない。恐らく、日本への外圧が変革につながるのは、このような驚きにあるのかもしれない。幕末の黒船から、GHQのマッカーサー、そしてビートルズなどのロック侵攻が、この国の若者を、老害の皇国史観から解放していったのは、想像しやすいだろう。スター・デストロイヤー - Wikipedia現在の令和からみれば、昭和は明らかにブラック社会で、日本人という皇室と米国のダブルスタンダートの差別意識満載で、米国系の白人を賛美しながら、皇室に仕える日本人として、忖度し、同じ黄色人種の東南アジア人を見下していた差別感が残っていた。このような人種差別感は、何も昭和からの話ではなく、八切史観では、古来の唐の藤原氏から、被差別部落民への差別感を継承してきたようで、いまでも唯物化した金儲け主義の仏教の悪しきカースト制度となっている。選民主義は奴隷化問題と一体となっていて、いまでも上級国民と下級国民にわかれ、加藤という姓の由来が、下等からきているのを知る日本人はほとんど皆無である。貴族がつける仇名が姓の由来なんである。だから天皇には姓がないわけなんである。仏教カースト制度については、八切史観により、古くは大陸の唐から仏教輸入と共にもたらされたのがわかっているが、昭和の日本人に残っていた、その選民感覚を解き明かすと、貴族や薩長藩閥政治の為政者が日本人で、つまり万世一系を奉ずる民族主義支配層たちだけが選民で、他は卑賎民というような差別意識が、大東亜戦争という標榜のなかに隠され、そんな偽善の胡散臭さが、東南アジア人に見透かされ、当時の日本の支配層のなかにあるヘゲモニーの醜悪な覇権主義を際立たせるに至って、物質主義自体の崩壊へと埋没していったわけなんだろう。覇権 - Wikipediaだから、八切史観によれば、大東亜戦争は、仏教カースト制度の自滅と考えるとわかりやすいが、その選民思想は、現在の政治家や官僚の上級国民という言葉にも薄っすらとゾンビのように残っているのがわかる。現代の裏金問題が一向に解決できないのは、日本人のなかに、いまだこの上級国民意識が残っているせいである。原爆を2発も落とされて大量殺戮をされても自戒の念もなく、米国を批難できずに、「世界を恐れさせた日本人」などと亡霊を追っかける始末なんである。そのような偽善がみえるから、このような虚偽宣伝には注意し警告しているわけなんである。大体、特定の人種や民族や文化に偏るような、浅はかで愚かな知性をもつのは、地球人の特徴といえば、わかりやすいかもしれない。前回、人種や民族や文化の起源を、人智学から少しだけ紹介したが、人種があるのは、古代アトランティス時代の早熟故の失楽だからである。端的にいえば、バランスを欠いた知性を意味するので、それはヘゲモニーと呼ばれている。知性とはバランスが大切なのに、バランスを失うこと自体が知性の放棄で、それは主に唯物論に現れ、ソクラテスが説いた無知そのものなのである。ある人種が優れているという知性は、人類に対する背徳であり、バランスを崩す由縁となる。どの人種にも長所と短所があり、ヘゲモニーなどはあり得ない、唯物的観点なんである。これは人種だけでなく、民族や文化にもいえることで、どれも輪廻転生のカルマからすれば、平等で公正で、バランスを保つのに必要なだけである。陽のプラスだけあっても、偏るだけで、陽と陰が調和を保ち、バランスすることではじめて、満足な安定が得られるわけなんである。だから、いまは日本人に生まれているかもしれないが、前世は東南アジアのどこかの国で、その前の前世では、アフリカで、また更にその前は、ヨーロッパのどこかと、多種多様な人種に転生し、経験しているはずなので、現在だけが全てと思い込んでいるのは、浅はかな唯物的観点にすぎないわけなんである。この低次の知性を脱しないと、高次の知性には進めないわけで、このいわゆるバカの壁を自分で壊さないと、ベルリンの壁のように、同じ人種でさえも、東西にわかれて戦う馬鹿に陥るわけなんである。このような低次な知性からくる闘いを避けないと馬鹿をみるだけなんである。何より、知性の進化には果てがなく、地球人の上には遥かに高次な宇宙人たちが、現在の地球人を、地球に生み出し、つくってきたわけなんである。地球は、神秘学では、「贖いの星」と呼ばれ、また現代風にいうなら、刑務所といえるかもしれない。物質界とは、いわば、地球人の牢獄でもある。牢獄を監視し、監督しているのは、堕天使たちで、現在の地球人の知性の由来でもあるので、まずは、この知性を乗り越えないといけない。この知性の牢屋を乗り越えるのはほとんど不可能で、多種多様な人生を、輪廻転生で経験を積まないといけないわけで、それでも、最初に出逢う存在は、堕天使たちの勧誘だと、シュタイナーは説いている。堕天使の誘惑に容易く勧誘されないために、地球人は、霊能力を失ったわけで、再び霊能力を獲得すると、はじめに、これら悪魔の勧誘を受けるのは、仏教のゴーダマシッタルダが仏陀となる悟りの過程でも、はじめに悪魔に出くわしたのでわかる。だから、禅では、悟る前に、仏陀に遭えば仏陀を殺せと説いてもいる。また人間が死後にはじめに遭うのも堕天使たちの誘惑だと、シュタイナーは述べている。それは、物質界でも、似非宗教者や、民族主義者や、詐欺師の勧誘が頻繁なのと同じであり、下にあるのは、上にもあるといえる。我々地球人は、高次の善玉の宇宙人だけでなく、悪玉の宇宙人とのつきあいで、この地球に生まれ、死んでいくわけで、そして、善玉というよりも、むしろ悪玉によって、輪廻転生を経験させてもらっているといえるかもしれない。というのも、地球上に人種が多種多様になったのは、悪玉との失楽の、付き合いが長かったせいだからである。例えば、いま日本人でいられるのは、進化から逸脱した堕天使のお蔭で、いわば落第の恩恵を受けて、日本人になれたわけで、いずれは、恩返しして、日本人を超えていかなければならない。だからまた、日本人だからといって、日本の詫び寂び文化を理解できるわけではなく、我々地球人が現在のような姿や形で生きられるのは、高次の宇宙人たちのお蔭であるのを、認識できなければいけない。日本文化の詫び寂びとは、日本人を超えて、むしろ日本人らしさをなくし、故郷喪失者になれたときにはじめてわかる、霊感覚といえるかもしれない。日本人に囚われない、どの人種にもある調和のとれたバランスの美的感覚なんである。だから、日本人に拘るのは、偽善のニセモノの、いずれ物質文明のように消えていく崩壊の文化でしかない。それはむしろ日本人の美というよりも、日本人にない美で、コスモポリタンの美であるかもしれない。それは人種や民族や文化を超えたバランスのとれた愛の美なのである。我々の地球は、贖いの星と呼ばれ、それは、いまや戦いの星と化しているが、だからこそ、我々地球人の使命が、ここに明らかになる。それは戦いをやめさせて、愛による平和を確立する使命である。だから、地球人はありとあらゆる人種に転生し、民族とともに、多種多様な経験を積んで、多種多様な文化と関わらないと、それらのヘゲモニーを融合統合し、鎮め、愛のバランスを確保できないわけなんである。それはまず自分の人体からはじまり、自我による、物質体や、エーテル体、アストラル体の各々のヘゲモニーに対しての融合統合にある。いわば、地球で、高次の愛に目覚める修行をしているわけである。病気になるのは、人体のヘゲモニーに自我が負けているせいであり、だから、眠ると、自我は宇宙のバランスを回復し、その愛のバランスを人体にもたらし、病気が癒されるのである。だから、地球は贖いの星から、愛の星に変わらないといけないと、シュタイナーは人智学で説いているわけなんである。ジブリの映画には、どこか日本文化に残っている、詫び寂びを感じさせる。ナウシカの世界は、どこか、この地球の懐かしい世界を思い出させる。だから、いまみえる自然は、本当の自然ではなく、その奥に神々の世界の力からなる大自然が隠されているわけなんである。善玉だけでなく、悪玉の、人種と民族と文化を利用して、人類を闘争に巻き込み、敵対させるアーリマンの勢力がいるのを、次の動画は端的に紹介しているので、以下に掲載する。ルドルフ・シュタイナー「いがみ合いを超えて / アーリマンの誘惑」 - YouTubeナウシカの世界や、最近、映画になり話題の、ボブマーリ―のワンラブのレゲエ音楽のなかに、この戦争の絶えない物質界を平和に変える力が眠っているのに気づかされる。ボブ・マーリー - Wikipedia自らの愛の融合で、自然を溶かし、その奥にある大自然の詫び寂びの世界に旅立つアクエリアスのときの一躍を担うために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ ところで、「驚き」の起源とは何か? 「驚き」、すなわち、「外への驚嘆」が魂に生じるのはなぜか? 「驚き」や「驚愕」が生じるのは、何らかの存在や事物、もしくは事実によって不思議な喜びを感じるからである。この不思議さが「驚き」や「驚異」に導く起源である。しかし、不思議さ全てに、「驚き」や「驚愕」を感じるわけではない。不思議さから「驚き」を体験するのは、同時に、その対象との関係を感じるときだけである。 この感情は次のように表現できるかもしれない。 「このモノ、もしくは存在は、まだ自分の一部にはなっていないが、将来、自分の一部になり得るかもしれない」。 このように、「驚き」や「驚愕」をもって何かを受け取るとき、それを不思議に感じ、同時に、自分に関係している、と感じる。 「(不思議に対する)驚き」、「(雷に打たれたような)驚愕」は、自分との何らかの関係を暗示させる。それは「驚き」という現象を通じて、知覚できない関係を付け加えるが、それは単なる思い込みかもしれないが、それでも、その思い込みの責任は自分にある。そして、その「不思議な」ものが、自分に関係すると感じないかぎり、拒絶や反感をもち、そのモノ、もしくは出来事にアプローチしない。 例えば、唯物論的な、もしくは現代の知的概念に基づいて行動する人たちは、このような驚きと認識される、不可視の存在を、嘘、もしくは不正の証拠もないのに、何故、否定するのか? 今日では、哲学者でさえ、目の前に広がる物質界の現象に基づいて、ナザレのイエスに受肉したキリストが、死から甦った事が証明不可能なのを認めざるを得ない。この証明不可に対する反論は可能だが、どのような反論であれ、論理的な整合性をもちえない。 今日の啓蒙主義的な哲学者たちは既にそれを認めている。というのも、唯物主義の側から持ち出され得る反論、例えば、キリストが死から甦ったように、死から甦った人を今までに見た事がない、というような反論は、論理的に、魚しか見たことがない者は、鳥は存在しないと結論づけなければならない、という主張と同レベルにある。 ある存在に基づいて、別の存在がいない、という結論を導き出すのは、首尾一貫した論理的方法では不可能である。同様に、物質界のなかでの、人間の経験に基づいて、ゴルゴダの出来事について、それは「驚き」として記述できるが、何も導き出せない。 とはいえ、もし、誰かに「奇跡」として記述できる出来事を語り、その人物が「私には理解できない」と言ったとしても、この人物は、「驚き」が、ある不可視の関係をもたらすのに反対しているわけではない。というのも、その人物も、同じように真実を読み解く知識へと向かうときには、「驚き」から出発するからである。 その人物は、その表現が、自分のなかでコダマするのを求めている。ある意味、その人は、自分に伝えられる、その関係を、精神的、もしくは概念的に自分のものにしたいが、それが可能とは信じられず、自分に関係があるとも思えないために、その受け入れを拒否しているだけである。 現代人でも、自我から「驚き」の概念に到達できるが、驚きや驚愕が生じるには、古代ギリシャ哲学の観点から言えば、不思議なものに遭遇し、同時に、何らかの関係、かつてよく知った関係がある、と認識できなければならない。
2024年05月16日
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"We are not alone."は、映画「未知との遭遇」のキャッチコピーで、「宇宙にいるのは、われわれだけではない」、という邦訳がつけられているが、シュタイナーによれば、人間がいまのような人間でいられるのは、人間だけの力ではないのを、人智学の天使論で解き明かしている。We are not alone?! (granular.com)映画チラシサイト:未知との遭遇 (eiga-chirashi.jp)現代人は、人間の前に人間はなく、人間の後にも人間はないと思い込んでいるが、かつて人間だったのが、天使で、天使が人間だったときの天使が、大天使で、その進化の繰り返しで、現在の人間の上には、9柱の神々がいて、そのなかの7柱の神々の天使たちが、現代の地球上の人間の進化に関わっていると、人智学の天使論で解き明かしている。旧約聖書の天地創造では、デウス=デイを日として、7日でつくられた、と唯物論で誤解釈しているが、本来は7柱で、現在の人間の進化に関わる、神々が7柱で、つまり、意志霊、叡智霊、運動霊、形態霊、人格霊、民族霊、薄明霊の7位階を意味しているという。だから、人間についての天地創造とは、この7柱の天使たちと共に人間が生きているわけで、この7位階の神々に、人間は創造のエネルギーを与えられて生かされているわけなんである。天地創造 - Wikipediaデウス - Wikipediaしかも、宇宙では、最も上位の存在が、同時に、最も下位の存在になっていて、上下が逆転した入れ子の構造のように、以前、このブログでも紹介したが、上下がアベコベの、ウロボロスの、蛇が自分の尻尾を銜える4次元のような構造になっているので、人間にとっては最も身近に感じる下位の物質界が、最も上位の天使たちの能力に負っているわけで、人間にとっては、上下がサカサマにみえるわけで、これはまた、人智学で、アストラル界と呼ばれる心の世界も、物質界とは、サカサマの鏡像対称性でみえるわけなんで、迷路のように、非常に複雑で、混み入って、上を見れば、下から覗かれて、内から外へと遠くをみれば、外から内へと近くを覗かれるわけで、非常にヤヤコシイわけなんである。ウロボロス - Wikipedia鏡像 - Wikipediaだから、人間にとっては左右均等のような対称性をもつ運動などは、例えば、回転体などは、高度に円形や球形を保てば、その変化がみえないし、捉えどころがないから、違いがわからないわけなんである。例えば、円盤が回転しているのか、止まっているのかは、それを映す光が全く対称性を確保していたら、見分けがつかないわけで、それは、双子の見分けがつかないのと同じである。双子の場合は、名前を聞いたりして、性格や、ちょっとした仕草の違い、いわゆる非対称性、不均一性を見分ける視点をもたないとダメなわけで、外見や物質的区別が不可能な高度な対称性をもつ天使などの存在などは、覚醒意識から認識できないわけで、とても7つの位階の区別やら、更には7つの位階を超える天使たちの上位の位階の、愛の霊セラフィムと、調和霊ケルビムの存在を感じるのは不可能なんである。外見からでは、双子の区別も困難なのに、ましてや、人種や民族や文化の区別など、現代人の知性でできるわけがないだろう。それら差別化の要因となっている天使の区別がほとんど不可能だから、現代人のもつ、宇宙には人間しかいないと考える知性は、最も低次な、高次の知性の放棄とでもいえるような愚かな知性の成れの果てといえるかもしれない。そのような愚かな知性をほおっておくと、退廃して崩壊に向かうのが関の山である。その代表的人物が、プーチンやら、ネタニヤフやらの悪魔の支配下奴隷となっている獣の動物人間であろう。現代人の愚かさの特徴は、戦争をするような独裁者により明らかになっているが、それが過大な承認欲求からくるのは、現代がルシファーの唯物論に染まり、物質界に足場を築こうとするアーリマンの誘惑にハマり、物質科学が万能だと錯覚してしまう自我の未熟さにある、連中は核兵器さえあれば全てが解決すると思い込んでいるが、核兵器を使えば、自分が奈落の地獄に堕ちる事さえ理解できないおバカといえるだろう。4次元空間では、物質的に多くの死をもたらしたものは、精神的に多くの死を被る宿命を背負うことだからである。カルマの法則はバランスにより成立するからである。現代人は生命現象を物質的に解き明かし、唯物論から、細胞を最小単位にして、生命体を、その電気信号に置き換え、遺伝子情報理論から、唯脳論をつくり出し、更には人工知能のAIをつくりだして、唯人間論にまで進みつつあるが、人間だけで、宇宙や自然が成り立っているわけではないのは、人間同士の戦いが無意味なのが理解できない独裁者のような愚かな化け物を生み出している点で明白なんである。かつて、愚かな承認欲求塗れのヤンキーという名の独裁者がいたらしいが、その名は、いまではニューヨークヤンキースに残るだけである。唯脳論 - Wikipediaヤンキー - Wikipediaつまり、人間が唯一の知的生命体という、現代の唯人間論は、ソクラテスの無知を地で行っているので、ソクラテスが説いたように、現代人のその無知さを知り、神々との対話を取り戻すべきであろう。古代ギリシアの賢者が説いた神々との対話は、現代人風にいうなら、高次の宇宙人との対話となるかもしれない。人間の覚醒意識は、物質界を破壊し、分解することで、つくられるので、悪玉の宇宙人の知性によっているといえる。そして、その悪玉の宇宙人の代表がルシファーと、ルシファーよりも更に高次な悪玉の親分みたいなのが、アーリマンである人類の悪玉の代表の独裁者が、ルシファーやアーリマンに洗脳されているのは、唯人間論の奴隷になっていることからもわかり、連中が、物質界の土地に拘り、土地の収奪に承認欲求を求めるのは、悪魔の早熟性にあり、忍耐力のなさにあるのがわかる。人間の早熟性が土地を求め、土地に承認欲求を求めるのは、人間が予定されていた進化よりも早く、宇宙の進化から逸脱した形態霊により、つまり、ルシファーらにより自我が与えられたためで、それが聖書に書かれている、蛇に唆されて知恵の実を食べてしまった人間の失楽によるものと、シュタイナーは、人智学の天使論により解き明かしている。シュタイナーは、天使論において、自我の土地への執着により、人種が生じるのを解き明かしているが、人種と民族は全く異なる、と述べている。現代人が混同しがちなのが人種と民族と文化で、それは人類と天使との関わりの違いにあり、人間の早熟の傾向が、堕天使たちによっているせいだと、人智学から、説いている。人間の子どもの教育も、非行に染まりやすいのは、早熟の傾向にある、といえるかもしれない。だから、シュタイナーは早熟の俗にいう英才教育は、晩年に硬化症や痴呆症を発するようになると警告している。非行も、英才教育も、人間にとっては自由を学ぶ機会にはなるが、諸刃の剣で、そもそも人間は、正統な形態霊の命令で、20、21歳になってはじめて、自我を獲得し、物質界に受肉することが想定されていたというのである。しかし、人間は産まれながらにして、自分というのを物質界に何とかして打ち立てるように、早熟性をもって教育されるので、故郷や生まれ育った土地に執着するような、予めホームシックに罹るように育てられるわけで、つまり、熟す前の早期に出荷される農作物と同じで、長い目でみれば、未成熟な段階で、物質界に曝されるので、堕天使悪魔の洗脳や術中にハマりやすく、その奴隷や構成員になっているのに気づかずに、晩年になってもはや取り返しがつかなくなって、硬化症から、痴呆症になっていくわけなんである。一種の早熟性の麻薬患者と同じなわけである。このような早熟的な、唯人間論に染まっている現代人が、人種と民族と文化の違いを理解するのはほとんど不可能で、それはホームシックを現代医学が解明できないのと同じである。もし、人種がなくなれば、土地や故郷への執着もなくなり、ホームシックもなくなるだろう。ホームシックというのは、いわば自我の病気で、その早熟性に起因するからである。人間に、善悪の判断をもつ自由な自我を与えたのは、ルシファーら宇宙の進化から逸脱した堕天使たちで、そのために、個人的自我は、民族霊の命令がみえなくなく、独自の判断をもてるようになったからである。地上の物質界では、個人が民族霊の命令を無視して、民族の代表になり得るようになったわけである。ホームシックになる原因は? 対処法・治し方を知って乗り越えよう | マイナビニュース (mynavi.jp)だから、人種と民族の違いとは、簡単にいえば、ルッキズムと精神主義の違いといえるかもしれない。前回、故郷喪失者を紹介したが、その対極にいるのが、民族主義者で、そんな輩が、人種優越的な、選民観点を併せ持つと、忽ち、独裁者になりやすいのがわかる。民族には、民族霊による進化での役割が与えられているが、人間の自我の早熟性に起因した失楽の人種には進化の役割などはなく、人類の進化と共に、いずれ、人種は消えていく運命にあるからである。というのは、人種はあくまでも物質性に負っているからで、自我が物質性のエゴを失って、健全な霊我になっていくにつれて、人種などは消えて、民族も消えてしまい、全人類的な発想に変わっていくからである。人種はなくなり、勿論、民族も、その役割を果たせばなくなっていくもので、例えば、シュタイナーは、ユダヤ民族は、キリストの降臨を準備する役割を果たすのが使命だったと述べていて、現在のユダヤ人は、いわば故郷喪失者であり、霊視を獲得し、霊体で復活したキリストに従い、キリスト教徒として神々との対話から、人類の進化に寄与していくべきで、彷徨えるユダヤ人のようになっては、ゲヘナに堕ちていくだけなんである。精神主義 - Wikipediaそもそも、民族霊が見えない人間に民族を語れるわけがなく、民族を代表する人物なら、民族霊と対話して、命を受けないと、民族の使命を果たせないわけで、民族霊といっても、薄明霊の天使から、正統に進化して民族霊になったのか、時代霊でもある人格霊に進めずに降格して、民族霊に甘んじているのか、の違いが、霊能者でもなかなか見分けるのが困難らしく、とても唯人間論では見当もつかない、猫に小判の話なんである。人間だって、どの動物が優秀で、どの動物が劣等なのか見分けるのは困難で、ネズミなどのげっ歯類の動物実験に、優秀なマウスを選抜するわけでもなく、マウスを人間のような病気に遺伝子操作で故意に罹患させて、その人間の病気に対してのクスリの効果を委ねている現状なんである。つまり、その現状を言い換えるなら、唯人間論では、人間の病気とネズミの病気の些細な違いも区別できない証拠となるだろう。実験する前に、ネズミに人間のようなホームシックがあるのか、考えるべきだろう。シュタイナーは、人間と異なり、動物は、物質界に自我をもたないので、動物実験の結果は全く無意味でしかなく、肉体操作の上で有効となっても、カルマの法則で、次の転生へと、病苦が持ち越されるだけで、勿論、物質的な意味での病気、例えば、事故や外傷などの純粋に外的な病気なら、外科手術も意味があるだろうが、肉体以外の他の3つの人体、つまり、エーテル体、アストラル体、自我などに起因する病気の治療は、治療者のモラルに負う治癒力は意味をもつが、患者と治療者の関係によるのが大というような話を、人智学で語っている。ともかくも、人間と動物の違いは、個人的な自我を人間がもち、動物は、集合的な自我を、あの世に持っている点で、大きく異なるわけで、いずれ現在の人間が天使に進級できたときに、落第して、また動物から進化した次の人間と共に、物質界で暮らすかどうかは、現在の個人的な自我をもつ人間が、現在をどう生きるかによっているわけなんである。あくまで物質的に生きようとするのなら、進級を断念しないといけないわけで、早熟性が強いと、それだけ後の祭りになりやすいわけなんである。それが、晩年の硬化症や痴呆症、現在の認知症などに現れてくるわけなんである。人種の違いは、物質性への早熟性に負っているわけだが、その早熟は、晩年になって、崩壊をもたらすので、人種を乗り越える精神性を発揮させないと、自己を滅ぼす要因となる。つまり、人間は、地球に、遺伝性をもって生まれ、子どもは遺伝性により育まれるが、青年期になってからは、遺伝性による物質性を乗り越えるために、精神的に生きないと、晩年になって物質性の遺伝性により崩壊する。本来の、成人とは、物質的な早熟を乗り越えるための、精神性の自我の獲得を意味する、霊我の受胎なんである。キリストは、イエスの30歳の肉体に受胎し、降臨したが、シュタイナーによると、形態霊が、当初予定したのは、成人の肉体への、自我の受胎なんである。現在の人間は、ルシファーにより、生まれてまだ肉体が未完成なときから、既に、自我の萌芽を与えられ、遥かに早熟に偏っている。それはいわば、収穫を急ぐ農家により早めに種付けされて、ビニールハウスなどで早熟に成長させられた農作物と同じである。霊能力が未完成で未熟なまま、つまりモラルや道徳が確立されていないうちから、悪に曝される危険性を孕んでいる。だから、毒災者のようなのが、渡る世間は鬼ばかりのように、闊歩し、民族主義を標榜しながら、社会を崩壊させ、文化繁栄を説きながら、戦争し、地球環境を崩壊させるのである。形態霊が予定していたような進化計画ならば、貧富の差も、格差社会もなく、平和な世の中になっていただろう。しかし、人類は皆同じ種で、金太郎飴のように、クローン人間のように、似たモノ同士だっただろう。ルシファーにより早熟化した人類から人種が生まれ、人類は個人に分かれて闘争し、物質的に、多様な社会をつくった。しかし、次の進化段階に進むには、多様な社会を乗り越えて、分かち合える共生共存の平和の社会をつくらないと、人種や民族、文化を乗り越えて、互いの理解や和解へと、早熟を無くして、適度に熟練した人間にならないと、そして、再び、神々との対話を獲得しないと、古代アトランティス時代の崩壊の二の舞となるだろう。ポストアトランティス時代の崩壊を免れるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化論を紹介する。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー真相から見た宇宙の進化Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen(GA132)第5講 地球紀における地球の内的側面ベルリン 1911年12月5日佐々木義之訳を意訳 -------------------------------------------------------------------------------- 今回の連続講義で探究してきた主題は、マーヤ、もしくは大いなる幻想と呼ばれる外界の背後に、天使たちの能力を指し示す霊視の成果だったが、今回は、改めて再考してみる。人間を取り巻く周囲の、自然環境の背後に、神霊たちが認識できる事実を、物質体=肉体を通じて与えられる感覚や、宇宙への知的な理解から、どうすれば獲得できるか? これまでの探求から、物質との直接の、外的な現象は度外視し、真実が発する霊的な特徴を掴む事で、霊を特徴づけた。そして、その特徴を、「喜んで犠牲を捧げる」、「徳を与える」、「諦め」、「拒絶」など、自我のなかに参入した際にわかる特徴から、見なした。 実際、霊の特徴は、自分の魂の気配からわかり、受け取れる。言い換えれば、もし、幻想の背後で、現実、かつ真実を体現する、霊の特徴を把握したければ、その真の本性のままで、捉えたいなら、次のような感覚に至る。 「この物質界は、霊の実在から成り、その現実のなかに、霊の生きる特徴や性質をリアルに感じる。しかし、それは、自分の魂を通じて知覚できる特徴とのみ共感できる。」 例えば、外界の、熱として顕現する霊を特徴づけたいなら、その霊を、物質界のなかに犠牲を捧げる、というような本性で特徴づけるなら、この熱の要素を、霊にまで辿ると共に、外界のヴェールを取り払い、外界の中の、この熱の特徴を、人間の霊魂のなかにある本性と同じ気配で示さなければならない。 霊的な観察を続ける前に、また別の考察が必要となる。それは、幻想として物質界は、本当に無のなかに消滅していくのか? である。感覚から、外界を認識するために、いわゆる真実、もしくは現実を反映する何かがないのか? 次のような比喩がわかりやすい。塊という水、もしくは大海のなかに、内側の流れが隠れているように、真実、もしくは現実の世界が隠れている。だから、マーヤの世界は、その水面の波と比較できる。それは、大海の底から、実際に湧き上がり、表面に、さざ波を生じさせる力、と同じである。 このような比較から、真実の「何か」とは、水のなかの波を起こす力の匙加減を示す。しかし、これはほんの比喩でしかなく、更に理解を進めるには、広大なマーヤの領域内に「真実」が全くないのか?と問わなければならない。 今回は、これまでの講義より、更に話を進めて行きたい。ここでもまた、前世からの魂の経験を基に、魂のなかに霊視できる存在に徐々にアプローチしていく。「土星」、「太陽」、「月」存在の進化を、精神的に辿った後、今回は「地球」存在へと辿り着いた。 だから、前回までと比べると、より親しみのある(より一般的とさえ言える)魂の経験から始められる。前回は、魂のなかの、隠れた深み、すなわち、人智学がアストラル体と呼べるなかを見てきた。そこでは、憧れが囁くのを感じると共に、人間に、憧れが作用するのを見てきた。 また、魂のなかの、この憧れが、イメージの世界による癒しに和らげられのも見てきた。そして、イメージの世界を、魂のなかの運動として理解できるようになった。そして、それによって、個々の魂の小宇宙から、運動霊を通じて、創造する大宇宙へと続く道を見い出した。 それは、よく知られた魂の経験、そして、それは、古代ギリシャ人によく知られていたと同時に、よく示唆されてきた経験で、今日でも、その真実性において究めて意味深いが、そのような経験からはじまる。この経験は、次のような言葉によって暗示される。 全ての哲学、人間が獲得可能な知性に向かう全ての努力は、「驚き」から生じる。実際、この言葉は的を得ている。多少なりとも、思考し、何らかを学ぼうとする際に、自分の魂のなかに生じるプロセスに注意を払えば、健全なる、認識への道の起源が、「驚き」もしくは「驚嘆」に端を発するのがわかるだろう。 「驚き」や「不思議」、全ての学びの動機は、ここからはじまるが、同時にまた、それらは、あらゆる単調で、空虚で、無味乾燥なものを高揚させ、それらに生命を吹き込む。というのも、我々人間の魂のなかに生じた知識で、「驚き」から生じなかった知識とはどういう種類なのか? それは空虚と学者趣味に浸かった知識に違いない。「驚き」から生じて、謎を解くなかで経験する無上の喜びに導く魂の成長プロセスだけが、そして、それは驚きを超えて上昇するが、つまり、「驚き」に始まる魂の成長プロセスだけが、学びを高貴にし、内側から活力ある、活気を満たす。実際、これら内的な充足感のない知識が、いかにも無味乾燥なのを感じ取れるようになるべきである。 真の健全な知識は、驚きと、謎を解く喜び、という魂の成長につながる。それ以外の知識は、外見から獲得され、多様な用途のなかに適用される。しかし、これら2つの感情に充たされない知識は、いかに真剣であれ、真に人間の魂から湧き上がっては来ない。知識のなかに生きる生命的な要素が醸し出す気配から生じる知識の「アロマ(芳香)」全ては、これら2つの「驚き」、そして「不可思議な謎」を解く喜びから生じる!
2024年05月14日
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人智学では、高次の宇宙人を、霊体として解き明かしていて、天使の位階で表現している。現代人は、カリユガの時代で、唯物論に染まったために、睡眠中の潜在意識で、天使たちと出会っているのだが、目覚めた後の覚醒意識では認識できないので、夢のような曖昧な感覚で、日常生活の身近な存在に置き換え、物質界で解釈した形で思い出すのがせいぜいである。古代人は、民族の同族婚によりまだ霊能力を遺伝的に継承していたので、潜在意識に、霊眼の、いわゆる心眼をもっていたので、睡眠中に、月光を通して、高次の宇宙人の天使たち、つまり神々がみれて、現代人が互いにコンタクトするのに、言葉を使うように、いまでいう幾何学で命令を受けていたという。だから、空海さんの説く真言宗の真言のマントラのような、現代人が使う言葉というよりも、幾何学の文字のようなもので、神々と交信したようである。だから、現代風に表現するなら、数学を用いて神々と交信していたことになる。マントラ - Wikipedia現代でも、母国語以外の、数か国の外国語を話せる人が、理解力や和解力に優れているように、多様な文字を習得できる能力は、いわば遺伝的な霊能力を受け継いでいるのかもしれない。このような能力の継承は、現代でも、例えば、サヴァン症候群などで、垣間見られる。また、現代の、インド人は数学に強い、という噂や、数字の無というゼロの発見も、古代インドに起因し、インド人に優秀なコンピューターのプログラマーが多く、IT大国となっている現状を遡ると、古代インドの、この継承された霊能力に辿り着く。シュタイナーは、古代インドのサンスクリット語こそが、現代の文明の原点で、現代のアーリア文化期が幻の文明と呼ばれるのは、このサンスクリット語の、本来の意味の、ソクラテスが説いた、神々との対話を失ったため、と述べている。サヴァン症候群 - Wikipedia数字の0(ゼロ)が発見される前はどんな世界だった?数字と仏教、不思議な繋がり | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る! (intojapanwaraku.com)早い話、現代の過剰宣伝風にいうなら、サンスクリット語は、高次の宇宙人により、地球人に与えられた言語というわけなんである。つまり、我々の文化期が、アーリアと呼ばれるのも、サンスクリット語に起因した文化の興隆にあるからで、西洋の大航海時代が目指したのも、黄金の不老不死薬となる、サンスクリット語での神々との対話で、それを金銀財宝と勘違いした愚かなコロンブスは誤ってアメリカ大陸に辿り着き、アメリカ先住民をインディアンと呼んでしまったわけなんである。サンスクリット - Wikipedia大航海時代 - Wikipedia新大陸を「最初に発見した」のは「コロンブス」ではなかった(石田雅彦) - エキスパート - Yahoo!ニュースアメリカ大陸の発見 - Wikipedia古代中国や日本では、古代インドを、天竺と呼び、天竺に行くのは、現代では、お釈迦さんが広めた仏教の経典を持ち帰る旅と解釈されているが、本当の意味は、遺伝継承されてきたサンスクリッド語を習いに行き、再び神々との対話の、霊能力を獲得するためで、仏教の修行でもあり、当時の仏教が、お釈迦さんによる古代インド文化の再生で、これはユダヤ教に対するキリスト教と同じで、我々地球人の使命を、つまり人類の進化の担い手となるため、と考えられるわけなんである。天竺 - Wikipedia上のウイキの解説によると、西遊記で有名な三蔵法師の玄奘が、天竺を印度と書き換えたらしいが、恐らく、天竺とは、この物質界にはなく、サンスクリッド語での神々との対話を意味する、人智学でいうところの神界のデーヴァ界のことを指すからかもしれない。玄奘 - Wikipediaデーヴァ - Wikipedia古代インドのサンスクリッド語を話せる現代人は、カリユガの時代に転生し、前世を経験しているから、ほとんど皆無に思われる。日本語でも、昔の訛りや方言をそっくりそのまま話せる現代の日本人はほとんど皆無で、現代解釈に染まった古語を、学校で改めて習うしかないわけで、とてもネイティヴとはいえない。現代では、むしろ外国人のほうが、日本に詳しいくらいで、それは、ある意味、前世が日本人だった可能性もあるからだ。つまり、現代の日本に染まっていない外国人のほうが、カリユガを経た先入観や自負心が少ないので、むしろ、カルマの法則により、個人的な虚栄心や名誉欲がなく、日本人よりも、日本人らしいかもしれない。この、むしろ異邦人のほうが、民族の本質がピュアに受け取られるのを、お釈迦さんは、出家と呼び、神秘学では、故郷喪失者と呼んでいる。ただし、現代人が唯物論から説く知識人のことではない。故郷喪失者たち——新明正道の「研究の現場」とは – 立命館大学生存学研究所 (ritsumei-arsvi.org)故郷喪失者とは、例えば、連日、大谷選手がただ日本人だからという理由で、報道されるように、同じ民族の成功者という理由だけで、忖度し依怙贔屓するのは、故郷喪失者とはいえない。むしろ、大谷選手を、外国人として捉え、外国人の視点から、その役割を、人類の普遍性から、道徳的な意味を問う姿勢を、故郷喪失者というようである。簡単にいえば、大谷選手の活躍に一喜一憂しない態度である。大谷選手は、野球が仕事なので、野球で、故郷喪失者を説明するなら、ダイヤモンドのグラウンドが、いわば人生の物質界で、表現の場といえる。大谷選手は、ドジャースの一員なので、ドジャースが、いわば民族といえる。そして、ドジャースのロバーツ監督が、いわば現場監督の民族長で、その精神が、民族霊といえる。ロバーツ監督はただ大谷選手の活躍を見守り、助言するだけで、不調だと、時には出場機会を交代させる。民族長の指示や伝令を、選手に伝えるのがコーチたちで、それらは、人間でいえば、現役を引退した天使たちになる。つまり、人間の上には、現役を退いた天使たちがいて、その天使たちの上に、大天使の民族霊がいるわけなんである。そして、大天使の上には、時代霊と呼ばれる、運動を司る権天使がいて、人格霊とも呼ばれている神々がいる。だから、先の大谷選手の話で譬えるなら、時代をつくる権天使は、野球というスポーツで一時代をつくるMLBの会長になるかもしれない。そのなかで、故郷喪失者というのは、個人やチームの勝利に貢献するが、それに囚われない、野球全体のパフォーマンス、更には、人間社会のモラルに寄与する役割を自覚できる実践者ということになるかもしれない。いまは大谷選手を題材にして、野球で、高次の宇宙人たちとの関係を説明したが、故郷喪失者とは、簡単にいえば、野球もできるが、野球以外のスポーツもできるし、言語においては、多国語を操れるような、仏教でいえば、執着心のない、出家の修行者的立場に立てる人といえるかもしれない。根無し草というよりも、多様な雑草魂というべきかもしれない。だから、輪廻転生を何万回も繰り返し、ほぼ浄化に近い霊魂といえるかもしれない。自国や自民族に拘るのは、まだ故郷喪失者ではなく、故郷望郷者、待望者でしかない。そこには、故郷を捨てた代わりに、何らかの見返りを求める名誉欲や虚栄心への憧れが隠れているからである。古代人にとっては、人間の上に立つ、天使や大天使、権天使や、更には能天使、力天使、主天使と、知性が高次になるほど、人類の知性では意識できずに、捉えられなくなっていく、高次の宇宙人の、神々との対話が、自らの存在証明だったわけである。だから、古代インド人は、生まれながらの高次の知性を失った故郷喪失者で、ヨーガや、ヴァーダ哲学により、サンスクリッド語を駆使し、神々との対話による、故郷を天竺に求めたわけである。だから、お釈迦さんは出家して、来るべきカリユガの闇の時代に、サンスクリッド語が失われてしまうので、転生してはならない、生まれてはならない、と警告したわけである。しかし、キリストが降臨して、カリユガの闇の時代をのり超えれる、道徳の実践を説いたので、誰でも、個人のパフォーマンスにより、民族を超え、時代を超え、人格さえ超えて、神の子として、聖霊となれるのを、人間の死からの蘇りで示し、いまも救いの力を個人のなかに、個人の道徳的運動を促すポテンシャルとして送っているという。この道徳の実践をなす、物欲とバランスを保つ、自己の欲望を放棄させ、故郷喪失者の個人を救うポテンシャルを、パウロは、「私の自我のなかのキリスト(霊我)」と呼んだと、シュタイナーは説いている。現代風にいうなら、バランス回復力である。それを、もし、現代物理学風の、ニュートン流で解き明かすなら、道徳の力学的エネルギーが、個人の人生での、質点の運動エネルギーと、個人が持つポテンシャルエネルギーの和で、表現できるだろう。つまり、個人がもつ道徳実践エネルギー=(覚醒意識での、運動エネルギー)+(睡眠の潜在意識での、ポテンシャルエネルギー)で、そのラグランジアンは、光の最小作用の原理から、キリストの人生へのカルマの救済原理として、個人が救われるように、人生がつくられているのが、自我を霊我から観測できるようになっているのが、霊能力獲得から、わかるようになるだろう。最小作用の原理 - EMANの解析力学 (eman-physics.net)キリスト原理により、人類が救われるのを感知できるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★(シュタイナーのクライスト論を続ける ハインリヒ・フォン・クライスト - Wikipedia 【戯曲】クライスト『ハイルブロンの少女ケートヒェン』あらすじと感想 : びょうびょうほえる~西村俊彦のblog (livedoor.jp)) そしてまた、ハイルブロンのケートヒェン(クライストの戯曲)に表現されている状況、ケートヒェンと、シュトラール伯爵との関係、その関係は覚醒意識で遂行されるが、それに気づかれることなく、潜在意識のなかを行き来する、魂の奥深い憧れから生起されるが、潜在意識のなかのこの低次の欲望はどのような役割を果たしているのか? 人智学徒が、この状況を霊視すれば、重力や引力といった物質界の力のなかにある霊性を感じ取れる。物質力のなかにある本性を霊視できる。例えば、ケートヒェンが、憧れの人の前に立つ場面で、潜在意識のなかに何が生きているのか、そして、それが、外界にある重力、つまり諸惑星との引力として唯物論で言及される力学と、どのような関係にあるのか、を霊視できる。一世紀前には、クライストのような霊感の持ち主の、苦闘する魂でさえ、この潜在意識の深いレベルまでには潜入できなかった。今日の人智学徒には、それが可能になっている。 悲劇「ホンブルクの公子フリードリヒ」(1810年に書かれたクライストの最後で偉大な作品)もまた、今日では、一世紀前とは違った形で感銘を与える。人間が成し得る全行為を理性に帰属させようとする現代の抽象的な思想家たちは、ホンブルクの公子のような人物、つまり彼の偉大な行為、最終的な勝利へと導いた行為さえも、潜在意識のなかの、一種の夢想状態で成し遂げた人物を、どのように説明するのか、知りたいものである。 実際、クライストは、公子が、覚醒意識から勝利を達成し得たのでも、高次の意識という意味ではとりわけ秀でた人物でもなかったのを、というのも、彼は後に、死に直面して、メソメソと泣いたからだが、はっきりと示している。公子が力を発揮できたのは、 彼の魂の奥深くに生きるものが途方もない意志の努力を引っ張り出してきたときだけだったのである。 人類にとって、「月」の意識からの遺産として残ったものは、抽象的な科学では取り扱えないものである。それは、多面的で繊細で微妙な概念、自由で緩やかな輪郭を持った精神的な感性でしか把握できない概念なので、つまり、人智学によってもたらされるような霊的な概念から導かれなければならない。最も偉大な諸概念は、中立的な性質をもち、普遍的な諸概念を、自ら互いに結びつける。 このように、今日の魂のなかで経験する状態や気配、つまり精神性は、宇宙の進化と、宇宙全体に結びつけられている、ということを、人智学が示すのがわかるだろう。また、魂のなかで経験できる内容だけが、外界の事物のなかにある、精神的な根拠についての概念を形成できる、ということも理解できるだろう。更に、我々の時代においては、 先立つ時代での憧れが、我々の時代になって、はじめて、その憧れに対しての満足を与えるのが可能になり、その満足を、当面は達成できるようになった、というのも理解できるようになる。 このように、過去の時代の人間たちに対して、つまり、心の奥底にある、憧れに到達できる、リアルな道を見い出せなかった人間たちに対して、当時の物質界は、精神的な憧れに、物質的な満足を与えることができなかったが、絶え間なく憧れを追求した、その精神的苦悩に、一種の賞賛が生じる。 全ての人生は、宇宙全体の進化のなかの、1つの総体である、ということ、そして、今日の人間は人類が既に遥か昔に必要としていたような、彼らの運命は、本当に、それを自伝として、我々に示すが、その憧れを通して、精神的な運動に、人生を捧げることができる、のを思いやるとき、確実に、そのような人物たちに対する、ある種の賞賛が生じて来る。 だから、人智学を人類の憧れに対する救済を担うもの、として指し示せるかもしれない。荒れ狂うと同時に、悲惨に満ちた人間たちが長い間探し求めてきたものを、人智学は今、与えられる、という事実を、思い出すのに適した今日という日は、というのも、これらの憧れに満ちた人物たちの一人が悲劇的な死を遂げてから一世紀も経つからだが、特に、尊敬を込めて、賞賛と共に、与えることができるかもしれない。このような考え、多分に人智学的な考えも、カルマを通して今日という日に、胸に抱けるのは、ドイツの最も偉大な詩人の一人が亡くなって百年経った、この記念の日においてかもしれない。
2024年05月09日
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現在では、唯物論のドルトンの原子仮説により、還元論の代名詞ともなっている素粒子論だが、古代ギリシア時代にまで遡ると、デモクリトスの原子論に辿り着く。現代物理の素粒子論の基盤となっているのが場の量子化の第2量子化の生成消滅演算子の根拠となっている量子力学だが、これまで述べてきたように、いまだに観測問題という唯物論を超えられずに、確率統計のような曖昧な数学を用いて記述している表現力では、非線形現象を線形化し、単純化し、物質に置き換えた、真相とは程遠い経験的な現象は後追いで記述できても、生命現象を予め見積もって、預言者の如く、予知するのは、シュレディンガーの猫からも不可能であるのは人智学から明白である。ジョン・ドルトン - Wikipediaデモクリトス - Wikipediaというのも、アインシュタインのいうように、神はサイコロを振り給わずで、カルマを書き給うからで、シュレディンガーの猫の生死は、猫と飼い主の物質界を超えたカルマの関係で決まるからである。端的にいえば、波動関数は、物質界だけで都合よく首尾よく、確率統計学で決まるのではなく、物質界を超えた全宇宙のカルマの法則から決まるからである。つまり、客観的な証拠は物質界だけにあるのではなく、物質界を超えた、虚空と呼ばれる、俗にエーテルやアストラルで書かれたアカシャ記録のカルマにある。人智学によれば、客観的な証拠は物質界というよりもむしろ物質界を超えたところにあり、物質界では、常に個人的な感覚が問題視されるが、客観的というのは、個人の感覚を超えたところにあるからである。脳科学者はどの脳も似たような機能をもち、電子回路のような違いでしかないと考えているが、そのような類似化は、物質界でしか通用しないのは、互いの議論を巡って、論争し、闘争し、戦争することから、少なくともわかるはずである。誰もが納得するような客観的な証拠があるのなら、互いの議論を巡って論争するわけがなく、それらが個人的感性に負っているせいなのは明白なんである。なんのことはなく、悪魔に騙され。唆されて、互いに闘わせられているにすぎない。ホンモノの客観的な証拠、つまり真実であるなら、そこには理解力と和解力が、そして、人類を次の進化へと導く愛が隠されているはずだからである。物事は我々地球人が考えるよりも遥かに複雑で、物理学者の思考実験なる単純化したモデルでは想定できない、宇宙の全生命体の意向が波動関数の一点に集約し、その重ね合わせとして現れているわけなんである。そして、波動関数は宇宙のカルマの進化と共に、常に新しく書き換えられている。例えば、ハイゼンベルグの不確定性関係からもわかるが、位置と運動量の交換関係は、どちらを選ぶかで、その後の関係が変わってしまうように、量子力学の物質化を超えた非線形現象は、常に線形化を受けて、同時に非線形化されてしまうわけなんである。この物質界での観測経験による線形化に対しての、それを超える非線形化こそが、カルマの法則というべきものだろう。つまり、ハイゼンベルグの不確定性関係は、観測者である猫の飼い主が、猫の生死のどちらかを選択し、観測することで、後に生まれ変わったときに、最初に優先しなかった状態(最初に死なら、次は生を、最初に生なら、次は死を)を観測する人生を経験するカルマの法則に置き換えられるのを意味するのである。この不確定性関係をカルマの法則に置き換えるのは、アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスによく似ている。不確定性原理 - Wikipediaアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス - Wikipedia量子力学では、物質界での観測を前提にしているので、この問題を縮退と数学的に記述している。この問題は、例えば、人体外の電子と、人体内の電子の区別がミクロでは不可能なのを意味している。それはまた、方位磁石の針が北を向くのを、方位磁石の針に要因を求めるのと同じ間違いである。方位磁石は、地球が発する地磁気の方向を指しているだけにすぎないのはいうまでもない。縮退 - Wikipedia我々地球人は、磁石のNとS、つまり電気のプラスとマイナスがひき合うのを経験から知っているが、それがなぜなのかは理解していない。ただ、引き合う現象を、物質的に、プラスとマイナスに数学的に記述し、観測から評価しているにすぎない。例えば、男女がなぜ惹かれ合うのかを、男、もしくは女に追及していっても、わからなくなるのと同じで、人類全体から、人間の進化から解き明かさないと意味がない。男なるもの、女なるものは、物質界からではただテストステロン、アンドロゲンなどの男性ホルモン、もしくはエストロゲンやプロゲステロンなどの女性ホルモンの分泌がどうたらこうたらで説明し、多様な個人的な観測立場から、論争するだけなんである。プラスを選択するほど、次にはマイナスを選ばずを得なくなるのを考えないと、バランスを失うわけなんである。だから、シュタイナーは、特殊なカルマでの事情がない限りは、男に生まれた後は、次には女に生まれる、と語っている。物質界での線形的な観測論しか唯物論で言及しないから、特定の自分が観測した固有値に囚われ、それに固執し、物事を単純化しすぎて、その背後にある非線形化を考えないから、馬鹿で愚かな独裁者のような権力者が愚かな正義を振りかざし、悪魔に唆されているのに、その自覚がなく地獄に行くような戦争をはじめてしまうわけなんである。つまり、生と死や、物質の生成と消滅を理解し、自他共に和解するのは、物質現象の背後にある、カルマの法則を知らないと、ソクラテスが説いたように、無知なままの、馬鹿で愚かなままで、論争や闘争や戦争で人生を費やし、結局、死後に執り行われる最後の審判で、地獄に堕ちるだけなんである。プラスとマイナスのバランスをとる働き、つまり、バランスのバランスが、カルマの法則で、真相なんである。プラスとマイナスが惹かれ合うのは、その背後で、バランスをとる、カルマの法則があり、バランスにより、共生共存のモラルの法則を満たしているわけなんである。だから、現在の自分の立場を知り、その立場を乗り超えて、宇宙のバランス能力の、モラルを理解し、個人に囚われずに、他との和解が重要なんである。さて、デモクリトスの原子論にまで遡ると、デモクリトスが、ドルトンのような唯物論の原子説を説いたわけではないのが、人智学より明らかになる。古代ギリシア時代では、それでも、十分に唯物的だったので、プラトンのイデア論により、将来の民衆のカリユガ化を薄めるために、排斥されたようだが、アリストテレスの「運動は不変の安定に向かう」という慣性の運動論に影響を与えているようである。デモクリトスの原子論を、ウイキから以下に抜粋する。『「原子(アトム)」は不生・不滅・無性質・分割不可能な自然の最小単位であって、たえず運動し、その存在と運動の場所として「空虚(ケノン)」の存在が前提される。無限の空虚の中では上も下もない。形・大きさ・配列・姿勢の違うこれら無数の原子の結合や分離の仕方によって、すべての感覚でとらえられる対象や生滅の現象が生じる。また魂と火(熱)とを同一視し、原子は無数あるが、あらゆるものに浸透して他を動かす「球形のものが火であり、魂である」とした。デモクリトスは世界の起源については語らなかったが、「いかなることも偶然によって起こりえない」と述べた。』この文からもわかるが、「空虚」とは、現代の物理から解釈すれば、ディラックの海と考えられ、物質界で記述すれば、ハイゼンベルグのヒルベルト空間で、原子(アトム)とは、数学的にいえば、エルミート作用素の演算子になるだろう。ディラックの海 - Wikipediaヒルベルト空間 - Wikipediaエルミート作用素 - Wikipediaエルミート演算子を使うかどうかは観測者で、使えばそれに伴い、観測者と、観測対象との不確定性関係が、カルマの法則に書き換わるわけで、現世で観測できなかった他の、いわゆる仮想の量子状態は、カルマの法則により、観測者の知的な進化と共に、来世へと持ち越されるわけなんである。つまり、デモクリトスのアトム論は、仏教の色即是空と同じで、観測者が、「量子あれ」と念じて、エルミート演算子やらを、空虚のヒルベルト空間の場に、用いて共感すると、現世の経験が線形化し実数となって現れるが、同時に、選択されなかった非線形化した他の虚数の状態は、次回へと持ち越され、最後は、その経験が、観測者の死と共に、物質界から回収され、再度、今度は陰と陽の自他が逆になり、観測者と、観測対象が入れ替わり、強化されて、次の転生での経験として持ち越され、観測者の進化の課題となる、というような、カルマの法則を、空虚で表現しているようにみえる。科学の歩みところどころ (shinko-keirin.co.jp)アリストテレスの運動論の、運動は不変の安定へと向かう、というのを、カルマの法則で考えれば、プラスとマイナスが入れ替わったり、全体として統合され、全体のバランスへと向かう、バランスの調整で、つまり、全体のバランスが保たれた、つまり、無秩序から、秩序へとモラルに向かっていくのがわかる。アリストテレスの運動論でいうなら、局所的に不均衡なプラスか、マイナスの陰陽のどちらかに偏っている状態は、全体をみてみないとわからない。人間の感性は個人化されて、自己を中心にみているが、地球の中心にいるわけではなく、ましてや太陽系の中心でもなく、宇宙の中心でもないから、とりあえずは、自己の中心がバランスを崩さないように、人生を通して、地球の中心とバランスをとるのが、肝要になるといえる。つまり、自分が全体からどの位置にいるのか、どの速度で、安定に向かっているのか、人類の進化全体からどれだけ遅れているのか、を確認しないといけないわけだが、その確認は非常に困難で、ましてや量子力学の不確定性関係では、確率統計論に陥ってしまい、現在の自分すらもほとんど客観視できないでいるわけで、迷える子羊なんである。我々地球人は個人的自我をもったわけだが、その個人が、民族全体から、更には人類全体から、その中心からどれだけ離れ、運動しているのか、古代人なら、会社のなかの役割のように、例えば、民族霊から、お前の立場は、いまは民族の課長クラスで、使命感や責任はコレコレだと、霊能力で見通せたが、カリユガ化した現代人は、自分しかみえず、しかも肉体の物質しかみないから、いまいる位置すら、どういう速度で進んでいるのかも、中心すらもわからずに、だから、物質界で、肉体という物質に質量を与えて、地球の中心に魅了されながら、物欲を満たしながら、物質に洗脳されずに、とりあえず現時点のバランスを取りながら生きていくわけなんである。そして、地上の物質界から、地球の中心の重力に引き寄せられながら、物質的な質量で、偏りながら、バランスをとって、現代社会の物質的な変化に流されずに、自分の生活圏の安定を保障する通貨を稼いで、自己のバランスを取りながら、自己の中心をどうにか確保しているわけでもある。しかし、その自己の中心をみる物質的な感覚は、物質界での一面的な偏りをもった通貨などの人間関係のなかの信頼による仮想の見方なので、その偏った自己を基点にして、全体の中心にむかって、絶えず運動し、経験を糧にして、自己の中心を新しく求めながら、人生の川を流れ、立場を入れ替え、回転しながら、摩擦を少なくして、自己という固い石の角をとり、丸くなって、「転石苔むさず」の諺のように、輪廻転生を繰り返しながら、完全な丸い、摩擦のない回転の球体になっていくのが、人類が、物質界に転生し、経験しながら、宇宙のモラルのバランス感覚を獲得していくための、いわば進化のための運動といえるかもしれない。転石苔むさず - Wikipediaこのように、古代ギリシア時代の、デモクリトスの原子論や、アリストテレスの運動論は、物質の運動だけを想定し、語ったものではなく、宇宙の中心や、太陽系の中心、そして、人類進化全体の中心や、人生の中心となるべき、個人の中心を語ったものなのが、人智学のカルマ論により解き明かされる。例えば、素粒子論の粒子と反粒子の入れ替えで対称性が保存するか破れるかが議論され、CPTの対称性などと名付けられているが、宇宙が偏りをなくすように、つまり無秩序を秩序化するように、陰と陽を調節しながら、バランスし、運動しているカルマの背景を考えるべきだろう。CPT対称性 - Wikipedia人智学によれば、アリストテレスの運動論の究極は、バランスを保つ中心点をみつけるカルマ論にあると考えられる。ニュートンは、流率法により、中心からの偏りを、微妙な変化の文字を、оや・で示し、古代ギリシア時代の幾何学的手法から、微積分を確立したが、有名な著書プリンキピアでは、本人曰く流率法を用いずに、古代ギリシアの幾何学的手法でもあったカルマ論の対称性からニュートン流の慣性の法則を導入し、ケプラーの天体の運動を説いている。だから、ニュートン力学は唯物論により絶対時間だと誤解されている。ニュートンの記法 - Wikipedia絶対時間と絶対空間 - Wikipediaニュートンは、絶対時間や絶対空間を、つまり現代人が考える物質的運動の時間や空間と考えていたのではなく、カルマ論を説いていたと考えられる。以下にニュートンの考えをウイキから引用する。『ニュートンの言葉によれば、絶対時間はいかなる観察者とも無関係に存在し、宇宙のいかなる場所でも一定の早さで進んでいく。相対時間と異なり、絶対時間は知覚できるものではなく、数理的に理解するものだとニュートンは信じていた。ニュートンによれば、人間が知覚できるのは相対時間だけで、それは知覚可能な物体(月や太陽など)の運動を測定することと同義である。我々は物体が動くのを見て時間の経過を知るのである。』この文からもわかるように、ニュートンは物質界だけではなく、物質界を超えた宇宙の中心を考えているのがわかる。だから、「絶対時間」と日本語で訳しているが、デュレーション(英: duration)である。日本語に直訳すれば、「継続期間」となる。これは意訳すれば、時間というよりも、保証期間とか、修行期間とか、発展段階とか、プロセスと呼んだほうが意味がわかる。ニュートンがカルマ論を想定していたとすれば、カルマの代償期間、もしくは補完期間といったほうがわかりやすいかもしれない。デュレーションとは、アリストテレスの運動論からもわかるように、不変な安定の、完全なものになるための猶予期間といえるかもしれない。つまり、ニュートンは、物質界での物質の運動から観測できる時間なるものは、仮の相対的なもので、その運動体だけに意味をもつ、と言っているようにみえる。人間に当てはめるなら、死後に執り行われる最後の審判までの人生のことになるだろう。人生の生き方が、いかにモラルに則ったものか、太陽の中心のキリストの生き方に近いか、が、その人間のデュレーションなのであり、カルマなのである。中心から離れた偏りが、死後の最後の審判で裁かれ、それに応じて、地獄に堕ちて、反省し、次の転生で、その偏りを背負って生まれてくるわけなんである。だから絶対なのは、カルマであって、時間ではなく、ニュートンは物質界での時間を、物体の運動量から観測し、相対と述べているように、絶対時間や絶対空間ではなく、物質界を超えた話と考えるべきである。ちなみにアインシュタインの相対論は、このニュートンの相対時間を、光速度を基準にして焼き直したものと考えれば、人によって、時間感覚が異なるのが、わかりやすくなるかもしれない。光の見えない真っ暗闇では、時間感覚が偏っていくからである。つまり、人間は物質界での覚醒意識を基点とした時間感覚に依存しているわけなんである。我々地球人は覚醒意識を基点にして、物質界から、物理法則を記述したが、それらが通用するのは、あくまでも、物質界だけでしかないのを無知の知により知るべきなんである。この物理法則から物質界を幸福に生きようとしても、砂上の楼閣で、物質界の中心は、物質界にはなく、物質界を超えたカルマの法則の物質と霊の対称性にあるからである。我々地球人が、人類進化の中心点をみつけるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★(シュタイナーは、クライストをカルマから読み解いた主題として話を進める。 ハインリヒ・フォン・クライスト - Wikipedia) クライストが手紙で表現した内容が、いま解き明かせるのは、まさに天の配剤といえ、これこそ現代へのカルマの恩寵とも言えるだろう。それは、これまで述べてきた宇宙の進化と連動し、つまり犠牲への意志が拒絶されたため、憧れに変わり、代わりに運動霊によって、その憧れが慰められ、最終的な満足へと向けられた努力が、「贖いの惑星」の地球上で達成される、のをよく表現している。 この行き場のない憧れを、気高い言葉で表現し、その切なる望みを悲劇的な行いに体現し、注ぎだした、この魂を髣髴とさせる葛藤の内容について、いま解き明かせるのは、前世のカルマの解消だった、という霊的な事実である。 この事実に気づくなら、この男の精神が、人類全体のなかの、真に魂の奥深くに生きている、個人的な憧れによる渇望を、地上的な存在を超えた領域へと連れ戻すような生の体現なのに気づくはずである。クライストの手紙が、意味深なのは、自分を超えた領域に、憧れの存在を探し求めるように、人間に強い、人間が経験できる高次の存在について、それは、もし、彼が未発達なままで生命の糸を断ち切らなかったら、発達した後にわかる存在についてである。正に「人間と人類への霊的導き(シュタイナーの講演録で、本になっている)」の最初のページの記述を、彼は経験しただろう。 例えば、フォン・クライストの「ペンテシリア」(アマゾンの女王ペンテシリアとアキレスの血みどろの戦いについて、ギリシャの伝承に基づいて書かれた凄惨な悲劇)について考えてみて欲しい。ペンテシリアのなかには、彼女の自我の、地上的な意識で推し量れる存在よりも、遙かに多くが存在している! もし、彼女の魂、勿論、偉大な魂だが、その地上的な覚醒意識で包含できるよりも遥かに無限の広がりを持つのを、仮定しなければ、彼女を理解するのは全く不可能である。だから、その潜在意識を芸術的な方法で読み解いた状況が、劇中のドラマのなかで生じなければならない。 こうして、一連の出来事(クライストがアキレスのために設定した出来事)が、高次の意識で審査される可能性を阻止しなければならない。もし阻止しなければ、その悲劇の重大さを現実のものとして経験できない。ペンテシリアは、アキレスによって囚われの身となるが、アキレスの方が彼女の囚人である、と思い込まされる。「彼女の」アキレス、という表現はそれを示している。覚醒意識で捉えられないものは、潜在意識のなかに霊視から投影しなければならない。
2024年05月08日
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人智学によれば、我々地球人は、いわば地球に旅行しにきているわけだが、現代人は、カリユガの時代が長かったためか、前世を忘れて、地球に満足できずに、最近は月に行きたいとか、火星に行きたいとか、地球での環境問題や貧困問題も解決できずに、この国の政治家の如く、国内問題を放置したままに、外遊を続けて、浪費放蕩生活を辞めないのには、現代人特有の獣性が感じられて、呆れ果ててしまうばかりである。地球の物質的な生活も、満足に暮らせないのに、他の天体の物質性に満足できるわけがない。国内生活が嫌だからといって海外生活に憧れるのと同じである。人智学から厳密にいえば、地球の物質的な生活は、肉体上での制御の問題で、いかに脳から覚醒意識を満足し得るかどうかで、つまり物質界で矛盾なく暮らせるかどうかで、精神を物質で満たし得るかにある。しかし、現状は国家をつくって物質的に平等な暮らしを確保するどころか、貧富の格差が拡がり、貧困問題から、国家間紛争に陥っているわけで、悪しき民族主義が、土地を巡っての利権問題に陥るモラルハザードから、しばしば制度政策不備に陥っているわけなんである。端的にいえば、霊の物質化が制度破綻をきたしているわけで、古代ギリシア時代の哲学が、中世のルネッサンスを経て、霊的な幾何学が、物質化された代数の数学となり、ついには、近代のカリユガ時代に、物質構造化の力の概念の物理となり、集合自我から、個人主義に目覚めたのは良かったが、神的な存在が、みえなくなってしまい、物欲の強欲さやエゴ、名誉欲や虚栄心がもたげてきて、二―チェの有名な「神は死んだ」の象徴的な言葉を連想させる、現代人のエゴ性を、古の民族主義として引きづる現代に至っているわけなんである。だから、先進国では少子化問題を解決すべく、こぞって多民族共存共生へと舵を切っているわけなんである。神は死んだ - Wikipedia人智学によれば、この「神は死んだ」というニーチェの発言は、カリユガにより、人間が古の古代叡智を失ったという意味で、神がみえなくなってしまったという意味でもあり、古代エジプト人のミイラをつくる働き、そして、キリストが降臨し、人間の肉体による死を知ったという意味をもつらしい。だから、人間は、民族霊という神から、その手足として個人で生まれたが、カリユガによって、ルシファーの低次の知性に染まっていくに従い、地に数学などのリベラルアーツを確立し、宇宙進化のモラルの十戒から逸脱していくが、キリストが降臨し、改めてモラルを説き、エゴからの個人的な救済にあたる、肉体からの脱却を、神の死と説いたわけで、来るべきアクエリアス時代での、キリストの再生の蘇りを想定したものなんである。仏陀もキリストも、死ぬ事はなく、いまも生きているのだが、肉体という死の感性からは、というのも、物質は分解され、解体されてはじめて、その内容が、構造がわかるわけで、精神的な満足を完全に満たすものではないからである。だから、地球という物質界に満足できずに、月や火星に行きたいというのは、正に金持ちが地獄に行く道理の裏返しでもある。死の感性が辿り着く果てが魂の墓場ゲヘナだからである。この物質界から飛び出したいという強欲さは、死の感性を持つ限りは、孫悟空がお釈迦様の掌中にある話と同じで、己の愚かさに無知さに気づかない馬鹿なんで、その馬鹿さ加減をみていると、カリユガ時代の宇宙論で有名な天文学者のカールセーガンが書いたコンタクトという映画を思い出す。コンタクト (映画) - Wikipediaこの映画を人智学で解き明かせば、ロケットなど宇宙船に乗らずとも、地球人は睡眠中に、月や火星に行っているのである。地球にいるのは、肉体という地球の乗り物に乗っていて、乗り物の地動説から宇宙を解釈しているせいなんである。量子力学や超弦理論が、奇想天外にみえるのは、物質界の線形観測から強引に解釈しているせいなんである。さて、巷はGWで、GWに浸りたい気分もあるが、この地球のどこかで戦争が行われ、低次の宇宙人である、悪魔が人類を戦場へと送り続け、支配を拡大し、いまも高笑いをしているのを見過ごすわけにもいかず、この国の指導者も、そのような低次の悪魔に洗脳され、獣化しているのに少しでも警笛を鳴らすために、高次の宇宙人とのコンタクトを続ける意味でも、人類同士に和解をもたらせる可能性がある人智学を紹介していく。GWに、日本人が海外へ、外国人が日本へと、短い期間だが、海外との文化交流で、この国の文化が海外から、いかに遅れているのか、を知るのにいい機会といえるかもしれない。この国の政治をみれば、いまだに個人主義がみえない、サル山のサルの獣のような派閥主義や党利党略が優先され、国民の生活は置き去りにされ、官僚主義のヒエラルキーが悪しき文化として残っている。それはかつてのロシアのノーメンクラトゥーラを髣髴とさせる。ノーメンクラトゥーラ - Wikipediaいまだにこの国は、古く悪しき形骸化した民族主義の集団主義を抜け出せないでいる。それがいま、若者と高齢者の間で社会的論争や闘争を巻き起こし、低レベルな政治が経済的に放置しているために、少子高齢化を招いているのが現状である。外遊はすれど何も学べない学ばない無能で馬鹿な政治家がやる事は虚栄に満ちた自己欺瞞の浪費による自己保身で、赤字国債を発行してはただただ増税でしかないのが笑止千万で益々社会的混乱を生み出している。悪しき古き文化にすがる老害が巷をゾンビのように跋扈している。対照的に、北欧ではジェンダーフリーが唱えられ、個人が性差別を乗り超えて、かつての両性具有の精神性への回帰に目覚めている新しい時代、つまりアクエリアスの水瓶座の到来の予感が既にあるにも関わらずにアジアの多くの国は、かつて仏陀が出家を説いたのにも関わらずに、いまだに民族主義から脱却できずに、民族主義をそのまま、まるで物質生産工場の歯車のような機械に構造化している。そこには人間はなく、悪魔に奴隷化された獣のゾンビのような、生き血を吸う吸血鬼のような資本家しかいない。そして、資本家が始めるのは権力を懐柔する土地利権の収奪である。ジェンダーフリー - Wikipedia強欲な資本家を生み出した背景は、カリユガの暗黒時代、つまり悪魔の洗礼ならぬ染霊を早くから経験してきたのが、西欧の植民地化政策で、ルシファーの分別知、いわゆる霊の物質化による産業革命、つまり、民族主義脱却のための個人の物質的な独立運動といえる。仏陀時代の出家が、物質的な強欲に置き換わり、悪魔化されたといえるかもしれない。仏陀の時代は、まだ古代叡智を読み解く霊能力があったので、仏陀は、来るべきカリユガの時代に染まってはいけないと、予めに出家と輪廻転生の教えを説いたわけだが、その仏陀の教えも物質化されてしまい、この国では銭儲けに明け暮れて、詫び寂びの本来の意味もなくしている。本来の詫び寂びとは、死者をみれる霊能力の事なので、物質文明に染まらない、霊を物質化しない力、もしくは物質化からの霊の解放能力を意味する。詫び寂びを知らずに、新興宗教のように、宗教を金儲けの集団主義の道具にしてしまっているのが、悪魔の洗脳によるトラップで、いわば詐欺宗教なんで、そのまま地獄へと集団旅行の地獄観光ならぬ観闇巡りへと堕ちていくだろう。統一妖怪などやインチキ教団が巷に溢れている。仏教だって高額な墓料を売りつけたりしてインチキなものばかりだ。これらは霊感商法と呼んでいるが、霊感がないから、地獄に堕ちるのがわからないからできるわけで、本当は不霊感、もしくは悪霊商法というべきだろう。そもそも、霊感とは人類全体の発展のためにある精神的な感覚なんで、つまり、いかに迷える子羊を救えるかの公正で、平等的なモラルの感覚なんで、自分だけ利益を上げ、得をしようというような不埒で強欲な感覚は、悪霊のものなんで、悪霊感というべきだろう。だから、カリユガの時代に多くの悪魔教が生まれたわけなんである。自分だけ解脱しようというのも同じである。カリユガの暗黒時代の、霊の物質化による土地の支配欲は、ルシファーからアーリマンへと、悪しき遅れた民族主義による精神的な欲望の文化が、物欲へと引き継がれていく文化の負の遺産ともいえるが、その負の遺産がいまだに戦争という形で残っているのが、現代のアーリア文化期の課題である。古い文化にも確かに良い面はあるが、良い面とは、悪しき面を新しく良い面に変えるものなんで、新しい文化のなかに、その根底に生きているはずである。それは日本人の手抜きのないモノづくりのなかに現れているはずである。それが、霊の物質化のなかに、霊を読み解く詫び寂びの感性である。詫び寂びの感性は、簡単にいえば、依怙贔屓やインチキをしない、モラルの道徳性の、虚栄や物欲、強欲を捨て去り、足るを知る精神の、心の働きである。詫び寂びのモラルの感性があったので、この国の文化は、新しいモノづくりや心のもてなしの精神へと霊化できたのかもしれない。詫び寂びの感覚は、睡眠中に目覚め、大自然のなかに、物質性を超えて、仏の霊の働きをみる、つまり季節感により育てられる。先日、現代人は味覚力を失いつつあるのを、巷のTVでみたが、本来の味覚は物質性に囚われない霊性で、大自然の営みをそのまま感じる感性である。TVの番組では、薄味の新鮮な食材を食べ、些細な感覚力を養うことで、味覚力を取り戻す方法を提案していた。特に塩分の微妙な匙加減が重要になるようである。和食は季節感を重視しているように、味覚から、大自然の働きを見通すように、食材を生かし調理するのだろう。和魂洋才と言われて久しいが、和食ブームといわれる現代の和食に季節感から詫び寂びの霊能力再獲得の輪廻転生を読み解ける能力があるのかは、和食調理師の心掛け次第といえるかもしれない。いずれにしろ、強欲さ、虚栄心、名誉欲を捨てるためには、足るを知る必要があるだろう。心を満たすには、物質性にはない、心のなかの問題を解決するしかないだろう。心のなかに安らぎがない限りは、外に何を求めようが無駄だからである。だから、心のなかの中心の足るを知る必要がある。「足るを知る」と、幸せになれる / 植西 聰【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア (kinokuniya.co.jp)和の本当の意味、民族主義を超えて、地球の季節感と一体となり、足るを知るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 現代人は、外界から、表面的に、覚醒意識を満足させ、あらゆるものを認識するのを学ぶ。しかし、潜在意識から脈打って来るのは、外的な事情からは決して満足させられない、前世に起因するカルマによる人生の中心的な課題解決への切望である。 しかし、この中心的課題を、解決できるようになるには、人生に生じる物質的な事柄だけでなく、その全体に関与するカルマを読み解ける能力を手に入れたときだけである。今日、魂の奥深く生じた憧れは、本来は、高次の意識へともたらされるべきで、宇宙のなかに生きる神々や天使たちの存在と交われるように、寄与しなければならない。もし、 この霊的な存在との接触がなければ、その存在への憧れが、魂の奥底から、意識されずに生じてくるだろう。 この意味で、人智学は魂の奥底に生きる憧れへの1つの回答である。そして、世界中で生起している出来事の序章が、遥か昔にあったとして考えると、今日生きる人々が、魂の中にある憧れの力を、人智学によって和らげようとし、特に、そのような憧れが、覚醒意識を超え、脅威となるように、消耗させる場合に、人智学が語る内容が、心を和らげるのは、驚くべきことではない。 もし、憧れを脅威と感じるような人物が、人智学のような、精神的な叡智がなく、手に入れられなかった時代に生きていたなら、正に「偉大な精神」であるが故に、精神的な叡智に対する絶えざる憧れに悩まされ、人生の意味を把握する可能性から疎外されて来たはずである。 他方、今日では、かつての霊的な像(イメージ)への憧れを和らげ、それへの絶望を沈黙させ、憧れを退治するようなものが、その魂の中に滴り落ちる。以前には、 この一連の像(イメージ)の行進が止むのを待ち望み、像が益々大群となって居座るほど、益々更に待ち望むしかできなかった。 ハインリッヒ・フォン・クライストが友人に宛て、次のように書き送っているのを見ると、魂の憧れが、まるで香油のようになって、自らの欲望を注ぎ出し、人智学のようなカルマ学を、手に入れられなかった時代に生きていた人の言葉から、次のような内容が表現されているのがわかる。 「この地球上で幸せになりたいって? そんなことを言う奴がいたら、恥を知れ!とでも言いたい。全てが死で終わる場所で、なにかしかの目的に向かって努力するなんて、いかにも先が読めない、ご立派な人間のすることだ! 我々は出会い、三度の春を互いに愛し合い、そして、永久に互いから逃げ出す。愛がないのに、その努力にどんな価値があるというのか。ああ、何か愛以上の、幸せ以上の、名声以上の、xyz以上の、何か、我々の魂が夢想さえしないようなものはないのか! 世界の頂点にいるのは悪い精神ではあり得ない。それは何か不可解なものに過ぎない。我々だって、子供が泣いているとき、笑わないか? この無限の広がりについて少し考えてみたまえ! 無数の時間領域、それぞれが1つの生命、それぞれが、この世界のように、顕現した存在なのだ! ああ、静止した瞬間よ、教えてくれ、これは夢なのか? 我々が夜、仰向けになって見る二枚の菩提樹の葉の間には、その先見性において、我々の思考が捉え、言葉が表現できるよりもずっと豊かな見通しが広がっているではないか。よし、何か善い行いをしよう、そして、それをしながら死のう! 我々は既に無数の死の1つを死に、そして、未来にもまた死ななければならない。まるで、1つの部屋から別の部屋に行くようなものだ。ほら見てごらん、僕には世界が大も小もなく一緒くたに箱詰めにされているように見える。」 これらの言葉で表現された憧れは、この人物を促し、その友人に宛てた、この手紙を書かせた。けれども、このクライストの精神は、現代の魂が、精力的な理解力で、人智学にアプローチするような方法で、その憧れを充足する手段を見つけ得なかった。 というのも、この精神は、百年前に、まず友人のヘンリエッテ・ヴォーゲルを、次に自身を撃って、その生涯を閉じたが、いまは、彼の亡骸が葬られたヴァンシー河岸にある寂しい墓の下に眠っているからである。ハインリヒ・フォン・クライスト - Wikipedia
2024年05月03日
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巷の世間はGWで、ゲルマン民族の大移動ならぬ、円安なのに、日本人は海外旅行に行き、インバウンドで、海外から外国人が押し寄せ、この時期は、まるで日本ではないかのような、国際色豊かの観光地になっているようだが、観光地でもない住宅地では、かえって人や自動車の行き来が少なくなって、非常に静かで快適なので、家に居ながらして、どこかの旅館にでも、旅行しているかの気分に浸っている。民族移動時代 - Wikipediaせっかくの休息観に浸りたいのもあって、ブログ更新も休息しようかとも思い、これと言って紹介し、書きたい話もないのだが、TVでエジプトのピラミッドをまたやっていたのをみたので、人智学から、古代エジプト人と、現代人の死生観の比較でも改めて紹介したいように思う。古代エジプト人と現代人との違いは、霊魂に現れるという。霊魂を波動で考えると、現代人は昼の太陽光の覚醒意識に共鳴し、粗い波長をもつが、古代エジプト人は夜の月光の潜在意識に共鳴し、精妙な波長をもち、霊能力を同族婚で遺伝継承していたので、特にファラオには、現代人のような死の感覚はなく、死の概念もなかった。現代人のように個人的自我はなく、物質界を捉える覚醒意識もなかった。だから、輪廻転生を知っていたために、肉体は、他の霊魂と交流するための、アカウントのような窓口でしかなく、肉体を失っても、IDとパスワードで、再び開けるために、生前の肉体と関係する忘れ形見などを一緒に埋葬し保管したようである。現代でも交霊術で、霊媒の肉体を使って、いわばアカウントの窓口として霊魂と交流するのと同じだが、間違った霊魂や、悪霊などを降霊しがちなので、俗に黒魔術となっているので注意しないといけない。霊と交流するには、当人のモラルが問われるので、下心があれば、見透かされて、詐欺師のような悪霊がやっていくるのは、観光地でのスリなどの盗賊と同じである。霊能力があれば肉体は仮の姿であり、死も肉体を失うだけにすぎない。だから、古代エジプト人の墓とは、現代人が考える墓というよりも、生きた証の記念碑のような感覚に近い。だから、かつて、墓は、この地を生きた霊魂の遺産で、使い物にならない死体のミイラではなく、再び、その霊魂とアクセスするための、IDとパスワードのようなものといえる。空海さんが唱えた真言宗も同じで、空海さんは肉体を地に置いて、霊魂のままで成仏し、いまも生きているが、死体はミイラとして残っているが、そのIDとパスワードがわからずに、アクセス方法を知らないだけなんである。本来、ミイラという言葉も、霊魂の排出物という意味があり、肉体も霊魂の排出物で、その排出物に、名前をつけているから、霊魂の名前ではなく、肉体という乗り物の船の名前なので、名前に丸を付けて呼ぶようになったのかもしれない。だから、ミイラとは、霊魂のIDやパスワードといえるかもしれない。このIDとパスワードを知りアクセスする方法が、俗にイニシエーションと呼ばれる、宗教施設でのチャンネリングである。だから、古代エジプトのピラミッドをクフ王の墓だと思い込んでいる現代人の無知さには呆れ果てるばかりだが、それこそが、現代人の物質知に巣食っている悪魔の計略でもある。人間が動物実験をしているように、悪魔も人間を使って霊魂の実験をしているわけなんである。つまり、各宗教に教義があるのは、イニシエーションのための宗教施設でのチャンネリングに必要なもので、昔は、人間の意識が潜在意識に傾倒していたので、睡眠中に民族霊と対話できていたので、宗教施設が、チャンネリングの幽体離脱のためのいわば仮眠施設だったわけなんである。いまでいえば、差し詰めクラウドサーバーといえるかもしれない。古代エジプト人には、勿論、現代人のような個人的感覚はなく、民族霊の手足となる潜在意識からの命令を受けていたわけで、現代に譬えれば、動物のような種の感覚であり、巷の政界の如く、サル山のサルみたいなものだったわけなんである。だから、クラウドサーバーから命令が端末に通達されたというわけで、宗教施設に呼び出されて、お伺いにいくようなものである。この族長が族員を呼び出し命令する慣習は、現代の会社組織にも残っている。勿論、当時はイエスマンしかいないわけで、ノーという判断は覚醒意識がないので、ありえなかったし、個人的な判断や拒否もなく、ただ手足でしかなかった。このような古い習慣が、この国に残っているのは、この国が遅れた文化を引きづってる証でもある。つまり、ルシファーの虜になっているわけなんである。だから、民族霊から命令され、民族のために犠牲になって死ぬのは死ではなく、次の輪廻転生での生なので、そもそも個人的な死もないので、手足の手を失っただけで、民族霊に命令されれば、次の年代にまた手が生えてくるので、いわば現代のトカゲの尻尾と同じ感覚なんである。だから、古代人が地に生まれる理由は、民族の使命に負っていたわけなんである。古代エジプト人は、民衆にも、霊視力がある程度残っていたから、族長の命令に対して個人的なストレスを感じることもなく、抵抗力も皆無だったわけである。この国の会社員の過労死などは、個人的な自我にいまだに目覚めていない証拠で、先祖返りしているのかもしれない。というのも、この国の民族の祖を辿っていくと、ツァーリズムのツランに遡れるからである。シュタイナーは、各民族には、人類の精神的な、霊魂の進化のための課題が割り当てられていて、古代ユダヤ人には、地にキリストの自我の個人的な救済のために、一神教をもたらし、広める役割を担った、と述べている。だから、キリストが地に降臨した時点で、ユダヤ人の役目は終了したので、いまだにユダヤ人に拘るのは、彷徨えるユダヤ人のように、無間地獄のゲヘナへと月紀に落第したルシファーと共に地球紀から落第するわけで、そのような拘りが輪廻転生をして、民族を滅亡にもたらし、現に選民思想から、人種差別を生み出し、霊界での見えないものへの恐怖感の高まりとともに、論争、闘争、戦争をもたらしているわけである。ユダヤ人だけでなく、この国の大和民族も、いつまでもツランに拘っていて、個人的な自我に目覚めないと、滅亡していくだろう。つまり、キリストはユダヤ人の終わりを告げたユダヤ人の祖なんであるから、アルファでありオメガなんである。だから、どの民族も同じで、人類の進化のために役割が異なるだけなんであり、そのような民族も役割を遂行すれば、解体され、個人として解消していき、結局、常に後ろ向きで過去の栄光を忘れられない遅れた悪人になるか、新しく多様で自由な人類全体への奉仕の愛に目覚めていく善人へと進化し努力していくかの、ヨハネの預言のように、善人と悪人に分かれていくわけなんである。次の進化のステージに進めるかどうか、いまモラルをもって生きるかどうかで、モラルを実践していけば、必ず再び霊能力を獲得し、キリストや、仏陀や、空海さんが生きて、愛を送っているのがわかるわけなんでである。要するに、現代人の心の眼が曇っているだけなんである。人種や民族の壁を乗り越えて、ベルリンの東西の壁を壊すには、壁をつくっている物質知を無くすしかなく、それはいわば現代人の死生観の死そのものである。だから、現代人は、死を理解しなければ何もはじまらないわけで、死とは、自我の覚醒意識からはじまっているわけで、その元々は、民族霊から与えられた文化的な死生観なので、それを個人的な生を生きることで、輪廻転生のなかで、個人で解消していかなければならない。巷に溢れる老害たちを見れば一目瞭然だが、特に日本人の文化は遅れすぎているので、個人で自らの人生経験のなかからモラルを確立し、解消していかなければならない。天は自ら助くる者を助く。この国の腐敗度の凄まじさ、巷の裏金政治家が、いまだに解党できずに、個人的信条で政治を遂行できる能力に乏しいのでも、この民族の役割は遅れたルシファーに依存体質なのが明らかである。その証拠に、いまだに肩書のような外見やルッキズムに走ってコンプラを考えられない老害が多い。指導者が人類としても最も遅れた存在なのは国民生活や国家存亡に関わる大問題といえるだろう。ルッキズム - Wikipedia国民闘争や、国家紛争など、そのような悪魔の手段になりえるような思想をすみやかに手放すのが、次の人類進化に必須の課題解決なんである。人類全体の進化のために、宇宙全体の進化のために、地上の特定の領域に国があるわけで、国のために国があるわけではない。国は個人を生かす愛の精神的な発情の舞台でないと意味がない。国は人間の霊魂の芸術表現のキャンバスや舞台、音階でないと意味がない。少なくとも、人類の破壊的な表現の場ではなく、創造的な表現の場でないと、生きる意味がない。唯物的な地上的発想で、国を捉えているから、国家間紛争などを起こして地獄に堕ちていくわけで、人間の死すらも理解できない、高次の宇宙人が呆れて、見守るしかない、天変地異に身を委ねるしかない低次の宇宙人のまわりを忖度してウロウロ歩き回るゾンビになっているわけなんである。現代のような精神的に腐敗していく死生観は、シュタイナーによれば、カントーラプラスの宇宙進化論に負ってるという。この唯物論による地球という生命体の物質構造化から、覚醒時の地上生活を物質構造化し、その物質空間のなかで、数学などにより、自己の運動を位置づけ、数理学的な換算評価による時間感覚から、自己を物質構造化して、肉体を制御することで、物質空間に生きる事で、物質のなかに自己目的化した。カントラプラスの星雲説(カントラプラスのせいうんせつ)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書それを物質科学的にいうなら、地球上の物質空間に生きるために、霊と物質の均衡の、対称性を、自発的に破り、自己目的化して、物質界を制御するために、自己存在という自我を物質化し質量を与えたのである。それは、物質科学での自発的対称性の破れと呼ばれ、物質構造化による自己組織化ともいえるかもしれない。自発的対称性の破れ - Wikipedia自己組織化 - Wikipedia古代エジプト人にとっては、民族霊の命令による輪廻転生での生から生への繰り返しの、霊魂の、いわば昆虫の変態か、蛇や海老の脱皮のような変態を、現代人は、新しい個人的自我の目覚めのために、民族の集合自我から、自由な個人の自我の経験の糧とするために、そこに物質的な障壁が必要だったのである。端的にいえば、現代人は、個人として生きるために、民族の死が必要だったのである。そのために、古代エジプトから、個人的なミイラづくりが始まったといえるかもしれない。来世への肉体や、霊魂を乗せる船の、つまりノアの箱舟を、個人的につくることで、民族の死を表現し、新しい個人の生を物質的に表現したのである。それまでは、民族霊の手足でしかなかった肉体を、地に埋葬する事で、民族霊が個人の霊に分割し、いわば分霊し、生まれ変わる蘇りを、物質界に求め、そのような死生観が、古代エジプトのオシリスとイシスの伝説として残っている。オシリスとイシスの伝説 - Wikipediaオシリス、つまり民族霊が死んで、個人の自我に分割され、そして、キリストの霊我により死から甦る、のを語った伝説で、古代エジプトの民族霊が、現代の、個人の自我に分かれる、のを意味するようにみえる。それは古代ギリシアの幾何学から、古代アラビアの代数学へと分かれていき、更には中世での唯物論により、天体運動に地動説から力学的構造学が付け加えられ、現代の代数幾何学へと数値数量化されることで、唯一の神性の数1から分かれ、更には、20世紀の量子論により確率統計の分配分布の観測論に辿りつくことで、物質構造による現代の死生観になっていくという、霊の生命源流について、ある意味、預言しているようにもみえる。古代エジプトの霊的な感覚からすれば、現代の唯物論による死生観の素となっている自我の覚醒意識は、例えば、物質界は、物質のバランスを保つように、つまり物質的エネルギーを保存させるように運動し、その物質的エネルギーとバランスを保つ霊的エネルギーこそが、霊我の潜在意識で、バランスのためのバランスであるのがわかる。この国の古く悪しき文化を捨て去り、物質科学の死から、霊的なエネルギーにより甦るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ では、この魂の奥底の憧れが、表面に現れて来ると、どうなるのか? この魂の潜在意識の営みを、宇宙的な出来事から理解すれば、魂の奥底から生じる憧れは、「月」の進化紀に生じたが、正に「地球」紀になってはじめて、魂のなかに浸透した変化(運動)により満たされ、バランスがもたされるのがわかる。そして、「月」の霊性と「地球」の霊性との相互作用を考えれば、古い「月」から「地球」状態へと、精神的にもたらされた変化(運動)の真の働きがわかるようになる。 重要なのは、今述べたように、停滞(退屈)、もしくは荒廃(退廃)を少しでも緩和するために、心のなかに、絶えず像が浮かび上がる必要があった、という点にある。そうすれば、非常に重要で意義深い概念に到達できる。つまり、渇望と空虚の苦しみのなかで憧れる魂は、次から次へと生じる一連の像によって充足し、この憧れを、なんらかの調和のなかに保つ、という概念に到達できる。 そして、憧れから、像が生じ、それがしばらく続いた後で、また別の憧れが、また別の像を生じさせる、という一連の流れ、つまり、古い憧れが、魂の奥底で起こり、運動霊が新しい像を呼び起こす流れが続くと、新しい像が再起し、結局はまた別の像への憧れが新しく生じてくる。このような魂の一連の流れについて、いま言うべき重要な点は、絶えず新しい像を求め、憧れが一時的に満足させられても、この際限なく続く流れに終わりがない、という事実にある。 この一連の過程に介入し、完結させる唯一の方法は、この際限なく続く像の流れに何かが加わり、それがもはや像以外の、すなわち、憧れを購え得る「現実」でないといけない。言い換えれば、「地球」が、現実の惑星となり、そこでは運動霊の活動によって導かれる像が、憧れを一時的に満足させるが、そのような繰り返しの流れのなかの「地球」という惑星が、「救済」と呼ばれる「現実」によって終結させられなければならない。 実際、これから解き明かしていくように、「地球」以前の「月」存在が「憧れの惑星」と呼ばれるように、そして、それは無限に続き、決して終わらない像の一連の経過を通して一時的に満たされる憧れだが、「地球」は、それを終結に導く「贖いの惑星」と呼べるのである。 地上的な覚醒意識で、人生を通して、人間が個人として生きるとき、既に霊視で解き明かしたように、ゴルゴダの秘儀による、キリストの贖いの行為が、個人的な自我の魂の上層に、憧れへの贖いの、バランスとして現れる。 魂の奥底から絶えず生じてくる憧れを、このキリスト意識は、贖いへともたらす。それはまるで、覚醒意識の波を、潜在意識の表面にもたらし、その下の、魂の海底から生じる憧れを取り込んで、堅固な岩盤として生きるように、現実の生の営みに贖える。 そして、この憧れを、まるで、完全に満足させてくれる宇宙的で、完全な存在がキリストの贖い行為で、それは無限に続く一連の像により一時的に慰められるだけでなく、最終的に完全な満足に到達させてくれる存在だが、いまもなお、宇宙全体から、供儀を遂行しようと飽くなき熱望し、自我を通じて、遍く愛を伝える事で、救済活動を永遠に完遂している。 現代人は地上に生きる人間として、これらの魂のなかの、贖いの気配を実際に良心として感じ取れる。そして、これらの良心の気配は、人間が経験できる最良の精神である。実際、地上に生きる人間のなかで、今日(1920年頃)、この憧れを感じる人たちが(特に、近代において)、人智学運動に参加するようになっている。
2024年05月01日
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