シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2024年10月10日
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カテゴリ: 神秘体験空間
「自分は何をしている時に、安心や平和を感じるだろうか?」という疑問は重要である。「何をしているときに、自分という存在を感じられるだろうか?」 自分という存在を全体的に感じるとき、外界の、何者にもとらわれずに、外界からくる何の束縛感もなく、内面的に、全く自由である、のがわかる。

だから、マインドフルネスとは、一般的に瞑想と考えられているが、自分のなかにある、自由の意識に目覚め、自由を感じる体験といえるかもしれない。

前回は、マインドフルネスについて、神秘学から、割とざっくりと紹介したが、巷では、一般的には、唯物論に染まり切って、以下のウイキのような、わけのわからない解釈が罷り通っている。脳科学などから、心を機能的に、物質的に解釈する考え方が間違っている、のに気づいていない。

巷のマインドフルネスなども、現代の解釈から生まれた、例えば、空海さんの物真似をしたり、南無阿弥陀仏やら、南無妙法蓮華経と唱えるだけで悟れるなど、と言うような、末法と全く同じ出鱈目と言わざるをえない。ちなみに法華経とは、末法について、厳しく論じ、お釈迦さんの教えの根本に還ろう、とするお経のようである。しかし、そのような法華経からも末法の連中が生まれてしまっては元も子もない。

マインドフルネス - Wikipedia


第一、そんなに簡単に悟れるのなら、なんでお釈迦さんでも、伝説となっているように、人生を通じて、散々に苦労したのだろうか? 不思議でもある。例えば、末法が説くように、そんなに簡単に金銭などで悟れるのなら、金持ちなど悟りきって、金銭などなくても、生きていけるのだから、金銭を貧困問題の解決に役立てているはずなのに、一向に貧困問題はなくならず、人災や天変地異ばかりで、人類は、益々、論争、闘争を好んで、戦争に明け暮れ、逆に益々格差社会を拡げて、その上で胡坐をかいている悪魔のような連中を生み出している現状全ては、末法の為せる業である。

現代人のほとんどが、金持ちなどにならずに、お釈迦さんのようにホームレスで生活できないと、仏教が説く世界観から逸脱し、世の中が、おかしいわけなんである。

このような格差社会の、差別社会の、地獄の世界を考察し、金銭をいくら積もうが、マインドフルネスには到達できないばかりか、益々平和や安心から遠ざかる現状を考えてみるべきなんである。偉人などと崇め奉るような人物も、実はボンクラ詐欺師でしかなく、金銭欲や名誉欲の奴隷に成り下がっているわけで、悟るどころか、悪魔の手先に成り下がり、自分が地獄に堕ちているのさえ気づかないでいるようなのばかりなんである。戦争をする独裁者や、金銭で仲間を買い奴隷のように扱う経営者たちを見れば明らかである。

また、現代のマインドフルネスは、仏教の瞑想を基にしたものと解釈されているようだが、そもそも現代の仏教が末法になっているのだから、末法から何を解釈しようが、末法に変わりがない。というのも、肝心なカルマの法則と輪廻転生を想定しないから、自分がどこからきているのか、も読み解くことができないからである。

自分がどこからきているのか、わからないから、独裁者になったり、金銭で仲間を買うようなことをする悪魔の手先に成り下がるわけなんである。そして、自分が他人にしたことを将来思い知る人生を送ることがわからないほど馬鹿で愚かなんである。悪いことをすれば、悪いことだとわかるような人生を送る羽目になるのが、悪因悪果の意味でもある。だから、いますぐにでも、善いことをしないと、いけないわけで、だから、マインドフルネスが意味をもつのである。簡単にいえば、マインドフルネスとは、自省、内省である。

内省 - Wikipedia




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マインドフルネス - Wikipedia

 現在のマインドフルネスと呼ばれる言説や活動、潮流には、上座部仏教の用語の訳語としてのマインドフルネスがあり、この仏教本来のマインドフルネスでは、達成すべき特定の目標を持たずに実践される。 医療行為としてのマインドフルネスは、ここから派生してアメリカで生まれたもので、特定の達成すべき目標をもって行われる。 マインドフルネスは、大きくこの2つの流れに分けられる。
 医療行為としてのマインドフルネスは、1979年にジョン・カバット・ジンが、心理学の注意の焦点化理論と組み合わせ、臨床的な技法として体系化した。 心をリラックスさせたり、清めたり、思考を制御したり、不快感を即解決することではない
 1881年に原始仏教の経典に使われているパーリ語の学者であるトーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズが、八正道におけるsammā-satiをRight Mindfulness(the active, watchful mind)と訳したのが、sati が mindfulness と英訳された最初である。サティとは「心をとどめておくこと、あるいは心にとどめおかれた状態としての記憶、心にとどめおいたことを呼び覚ます想起のはたらき、心にとどめおかせるはたらきとしての注意力」であり、この「心をとどめておく」「注意」などの意味が英語の mindfulness の含意と近かったため、英訳として選ばれ、mindfulness が仏教的な意味を帯びるようになった。

ヴィパッサナー瞑想 - Wikipedia

さまざまな流儀のものが存在するが、共通するのは 「今という瞬間に完全に注意を集中する」 ということである。何をしていても 「今・ここの自分」 に気づいていく。この「気づき」(巴: sati, サティ、梵: smṛti, スムリティ、英: mindfulness、漢語「念」)が、この瞑想のもっとも大切な技術である(したがって、「気づきの瞑想」とも呼ばれることがある)。このようにして 自分を客観的によく観ていく実践によって、心を成長させる ことを目指すのである。

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以上に紹介したように、神秘学が説くマインドフルネスとは、上のヴィパッサナー瞑想に近いが、この瞑想は、カルマや輪廻転生を読み解く、霊能力に言及していないので、ホンモノとはいえない。日本の神道には、「中今」という瞑想法のようなものがあるが、それに似た瞑想法で、「この自分が、いまこの地上にいるのは、前世からの因縁によるものを自覚して、現世から、更なる来世の自分をつくる」ことなのである。

というのも、前回、シュタイナーの職業のカルマから紹介したように、人間の頭部は、前世の自分の行為からつくられていて、その他の人体、胸部や腹部四肢は、現世に適合するために、両親の肉体を見本にしてつくられたわけなので、自分の人生のなかには、前世からの自分の横のつながりと、現世の両親との、縦のつながりから、生まれるので、人間は十字架を背負って生きている、というわけなんである。



だから、人体の頭部と、腹部四肢とは、真逆の対応になっているわけで、例えば、左脳が、右半身とつながり、右脳が、左半身とつながっているわけで、内と外との鏡像関係になっているわけなんである。つまり、頭と他の人体がカルマの鏡像関係になっているから、自我が生まれるわけなんである。

前世と現世の自分と他者の鏡像関係が、現世の頭部と、他の人体の鏡像関係に反映されるから、しかも、他の人体は、両親をモデルにしてつくられるので、外界との親密な関係からつくられるので、人間として活動できるわけなんである。この鏡像関係を、人智学的医術から考察すると、人体の破壊過程と構築過程としての、以下のような、陰陽の関係が明らかになってくる。

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 人体の、内と外の作用の相違から、人間と外界との相互作用を、次第に見通せるようになる。人体内でのシリカの循環過程から、自我が、相反する四肢や腹部の新陳代謝に作用するときには、生命力を最大にして作用し、自我が、頭部に作用するときには、物質の破壊力を最大にして作用するのがわかれば、自我が、人体に応じて、多種多様に働く、のが見通せるようになる。

さて、人間の自我と四肢-腹部の代謝系の相対関係に注目すると、人間のエゴイズムの起源が、本質的に、この相反関係のなかにある、のがわかる。人間の性も、このエゴイズム(利己主義)に含まれる。そして、自我は、この性という迂回路を通して、人間の本性にエゴイズム(利己主義)を浸透させる。



「自我が、四肢に作用するように、シリカを用いる方法に対して、自我が、頭部に作用するように、シリカを用いる方法は、相反し、対立するのでは?」

頭部でのシリカの作用について、自我は、いわばエゴイズムから解放される。そして、この頭部のシリカの作用を、人智学で探求すれば、このシリカの作用が、物質の破壊作用なのがわかる。

 頭部とは対照的に、自我の、四肢でのシリカの奇妙な作用を、図(下図)で表現するなら、次のようになる、



「四肢での、自我は、統合的な作用(図参照、赤点線と内部のピンク)で、本質的に、人体を統合し、いわば、液体のように流動的で、区別なく、統一へと結合する作用で、従って、四肢では、自我の区別のない、固体化しない未分化な、一様な全体作用となる。」

対照的に、頭部での作用は、上図の、金点線の矢印で表わされる個別化、多様化を示す。

この頭部の作用は、四肢での液体のような統一作用、物質力がそれほど強くない、同じシリカのプロセスの、この四肢での自我の統一作用とは、相反する(上図参照、金点線矢印)。この頭部での作用は分類化を行い、崩壊の作用である。

だから、人体は、シリカにより、下の四肢から区別なく統合され、上の頭部からは分類化され、互いに異なった作用を行う。すなわち、頭部で、分類され、組織化する力は、個別の器官に作用する為に分類化されている。いわば、頭部での独特のシリカプロセスによって、この物質化の作用は、諸器官のなかで秩序正しく働くように、心臓、肝臓他に対して、適切な振る舞いを行うように、(ホルモンのような分泌作用として)誘導されている。

 シリカプロセスを前にして思い浮かぶ、人体の循環プロセスは、下から上へと作用すれば、人体全てを万遍なく、混ぜ合わせ、上から下へと作用すれば、人体を分類化区分し、いわば組織化しながら統合支配して、個々の器官を順調に活動させる基となる。

人体は一方では、下から上への混合によってつくられ、他方では、上から下へと、様々な器官への区分化、統合組織化しながらつくられ、その相反によって生じる事象について、個人の自我の特性による、この相反する混合と分類の、均衡の恒常性が、いかに不規則になり得るか、の直観が獲得できれば、当人に何らかの異常があれば、この均衡の、方向性に従って、当人を治療する技術を学び、獲得していけるようになるだろう。

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このように、人体の疾患などは、頭部とその他人体との均衡、バランスの不具合から生じるわけで、そして、それを調整しているのが、自我で、その自我は、前世と現世の均衡、バランスを調節統合し、その不具合が生じると、次の転生の自我として、バランス回復力として持ち越すわけなんである。

だから、マインドフルネスにおいて、自我を知らないと、そして、その自我の前世を知らないと、天上天下唯我独尊である、現世に今生きる、自分の人生の目的もわからなくなるわけなんである。

だから、マインドフルネスとは、過去、未来を通じて、輪廻転生してきた、自分を知る事なんである。過去での自分の失敗など、未完成だった自分が、未来で、完成した自分に成長する機会を与えることになる。カルマや輪廻転生を知らないと何もわからなくなる末法の世になるわけなんである。

この世で幸福になるだけでなく、前世から残してきた成長の糧となる課題をも克服して、来世には、天国に帰るのが、本当の、永遠の内から来る幸福なのである。だから、現世での肉体上のバランスだけでなく、前世からの霊魂でのバランスを測るのが、カルマを解消するのが、真の幸福なのである。

自分のなかに全ての能力があるのが、マインドフルネスの、バランスによるバランスのためのバランスの存在なのである。

さて、前世療法で有名な、「前世からのメッセージ」の著書のブライアンワイス氏自らが、自らの前世を記載しているので、非常に興味深いので、以下に抜粋要約して、紹介する。

私(ブライアンワイス)は古代の僧侶でした。ジグラートという言葉が心の中に残っていた。その僧侶は絶大な権力をもっていたが、自分の地位を、霊的な真理を教えるために使わずに、より一層の富と権力を得るのに夢中だった。後半の人生においても、霊的な価値観を見出せなかった。僧侶は王族の要求を満たしている限り、霊的な真理を教えるのも自由だったのに、そうしなかった。

この夢の出来事を、起きてから調べると、紀元前1000年のバビロニアの時代の寺院がジグラートと呼ばれていたのがわかった。

そして、また他の瞑想のときに、再び、この前世が現れて、前世からのメッセージ「真理を教えるチャンスがあったのに、お前は、教えなかった」が心に響いた。

そしてまた他の瞑想時に、次の前世が現れた。

私(ブライアンワイス)はまたもや僧侶でした。しかし、今回は数世紀前のヨーロッパのどこかのカトリックの神父だった。地下牢に閉じ込められて、片方の腕は後ろの壁に鎖でつながれていた。異教的に禁じられている事柄を教えたとして、拷問にかけられたあとで殺された。

このときに、前世からのメッセージ「チャンスがないときに、お前は、教えた。お前は、この問題を強行したのだ」が心に響いた。カトリックの神父は、愛と思いやりについて、安全に教えることができたのに、当時の冷酷な政府にたてついて、殺される必要もなかったと、ブライアンワイスは反省した。

そして、「今回はうまくやりなさい。」
前世からのメッセージの声が諭すように心優しく響いたという。

このように霊的な真理の、カルマの法則と輪廻転生なしでは、マインドフルネスは全くの無意味になることを、続けて、マスターたちのメッセージから紹介する。

我々は、地上に、霊的存在として学び、成長して、もっと愛と思いやりを深め、人生のバランスと調和を達成し、心の平和をいつも感じるようになるために生まれてきた。

物質界に知性のレベルがあるのと同じように、霊界にも叡智のレベルがある。肉体を失って、霊魂の存在になったからといって、すぐに霊界の叡智が身につくわけではない。無知で愚かな霊から、優れたマスターたちのように、いくつものレベルがある。その違いを見分けるのが、とても重要である。

霊界からのメッセージは、シンボル、寓話、ヴィジョンなどのイメージで現れるために、その解釈が、意味を読み解くカギになる。職人が技術のコツを伝授するようなものなので、体験、経験、努力を通じて、感性を磨くのが重要となる。霊媒によっては全く正反対に間違って解釈してしまう事も十分にありえる。



マインドフルネスを意味あるものにしないと、明日の自分がつくれないので、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。

フィッシャーの小説

「美学」の哲学者フィッシャーは、「アオホ・アイナー」という小説で、夢の特性を示す、面白い話を書いている。この話は、職業や、仕事についての例証なので引用する。

フィッシャーは、父と息子の話を書いた。二人は一緒に歩いている。父が息子に色んなことを尋ねたあと、息子が、父に、「あのね、『どんな仕事をしているの?』と誰にでも尋ねるべきだ、と先生は僕たちに言ったんだ。マトモな仕事をしている人かどうかで、その人がきちんとした人間かどうか、きちんとした心魂かどうかがわかるんだ。」と話した。

「へぇ、そうかい」と父親は応える。

すると、息子は、「そうなんだ。先生が学校でその話をしてから、僕は夢を見たんだよ。僕は、湖に行った。僕は夢のなかで、湖に、『どんな仕事をしているの?』って訊いたんだ。すると、湖は、『瑞々しくするのが仕事だよ』っていったんだ。」

「そうとも」と父親は頷いた。

この話は、非常に、精神豊かな物語である。多くの示唆に富む、生活認識を明かす物語である。父親は息子をダメにしたくない。しかし、「なんて愚かなことを、先生は言うのか」と、息子には言いたくはない。父親は、先生よりも、賢明な方法で、息子を啓蒙しなければならなかっただろう。

「そんな表面的な見方で判断してはいけない。そのような誤った判断で、マトモな仕事をしていない人はきちんとした人間ではない、と思ってはいけないよ。その人には何か事情があるのかもしれない。」と、父親は諭す必要があっただろう。このように、父親は息子を教えるべきだっただろう

しかし、父親は教える必要もなかった。好都合にも、夢が、その代わりをしてくれたからである。息子の覚醒意識に上った夢は、父親の忠告よりも、力となるからである。夢は、覚醒意識下の、潜在意識のなかで活動するが、教師が授業で語った愚かな見方を、心魂から拭い去る。

すなわち、表層の覚醒意識よりも、賢い潜在意識のなかで、夢は活動し、夢を通じて、教師の愚かな観点が、笑いとばされる。湖は、「瑞々しくするのが、自分の仕事、職業だよ」と応える。この夢が、息子の心魂に、治癒的に働き、教師の教えを通じて発生するかもしれない、有害な、上辺だけの先入観を、解毒する。

夢は、次の夜に追憶として現れたのだが、同時に、人生を修正する。

実際、夢として、アストラル体は作用する。そして、人生の経験から、なによりも誤った教育から、霊魂のなかにもたらされたものの残滓の傍らに、覚醒意識下の、潜在意識のなかに、人生の訂正者がいるのを、やがて、人間は、そのうち見出すだろう。

子どもの頃のことなら、しばしば、同じ人生のなかで訂正が行われる。しかし、なによりも、その訂正者は、死の扉を通って運ばれていき、次の転生にも作用する。本当に、人間には、自己訂正者が存在する。この霊的な真理に、注目(マインドフルネス)しないといけない。

(つまり、瞑想とは、白昼夢のことなのである。)





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Last updated  2024年10月11日 14時31分09秒
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