朗読と音楽「重監房」より
ハンセン病療養所にとって、問題を起こす患者をどう対処したか。
多磨全生園の「山井道太事件」で語りつくせると言っても過言ではない。
山井道太は多磨全生園の洗濯場の主任であった。
洗濯作業は、年中、足場に水が流れる作業である。そのため水の漏らない長靴を履いていないと仕事にならない。ところが作業員のほとんどは、破れた長靴を履いていた。そこで、新しい長靴を支給して欲しいと施設へ掛け合いに行った。昭和16年、1941年5月末のことであった。
いよいよ物資不足になり始めた頃であった。施設側は、長靴はないと言った。ところが倉庫にいっぱいしまってあるのを、作業員の一人が見てしまった。そこで“あるではないか、長靴を出してくれるまで仕事はしない”と言ってストライキをしたのである。
その数日後の朝、山井は寝込みを襲われ、手錠をかけられ、自動車に押し込められた。その車を“うちの人を連れて行くなら私も連れて行け”と行き先がどんなところかも知らない妻が追いかけたところ、ご希望ならどうぞとばかり、何の罪もない妻女まで乗せて、草津送りにされたのである。
その1ヶ月後の7月、多磨全生園の患者の大工数人が、楽泉園に派遣された。山井夫婦のことを知り、分館長の加島正利のところへ“出してやってくれ”と日参し、7月18日になって、ようやく山井は出されたが、すでに廃人になっていて、まもなく9月1日に死んでしまうのである。同時に出された妻女は“多磨全生園のみんなが、もっと庇ってくれれば、こんなことにならなかった”と言い残し、邑久光明園に転園したのだった。
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重監房跡地は、専門家の発掘作業で掘り起こされた。
便所の中から最低生活品の一部が見つかったと言う。便所に溜まった水のおかげか腐らず残ったと言う、なぜ便所に?推測だがこの重監房はきゅうきょ取り壊される際に証拠になるものを朝知恵か便所に放り込んだのだろう。それが遺品として残されたと言うことだろう。
建物の土台だけでも永久保存すべきと僕は思っていたが「予算の都合」で再び元に戻された。そして自然消滅するのを待つのみ。国にとって恥の部分は跡形もなく消滅させるのが得策なのだろうと言う。
いま、この重監房跡地を訪れる人はほとんどいないのだろうが整備され、あたかも観光地の展望のようだ。標識案内図を見ると「展望台」と明記してある。展望台と言う言葉は不快感と憤りを感じる。山の絶景の展望台じゃあるまいし、下界にひろがる絶景を見下ろすかのように重監房跡地をながめるのはいかがなものだろうか。この無神経さが理解できない。
自動販売機でも置いて缶コーヒーでも飲みながら絶景かな絶景かな・・・
僕は月に二回訪問するが、そのつどお線香とタバコをささげる。
訪問した形跡は食まれ。あの重監房跡地の地下には、餓死発狂した罪のない人たちの霊魂が眠っていると信じます。
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