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5月2日「聖アタナシオ司教教会博士」 (記念) [30] 全能永遠の神よ、あなたは信仰の擁護者として司教アタナシオをお選びになりました。聖人の教えと模範に倣い、私達も御子が神である事を宣言し、力強い証を立てる事が出来ますように。 きょう5月2日はシスターロベルタの誕生日。1941年だから77才。 あしたバースデーを祝おうと一日フリーにしました。 僕にとっては特別な人で、大袈裟でなく恩人と勝手に思っています。 医者の無責任治療で右目失明の崖っぷちに立たされ、他で手術を受けて幸い失明はまのがれたが五線譜が書けなくなった。作曲の出来ない人生は死に値する、そんな生活の中で三年前の8月15日被昇天に偶然お会いした。 それは偶然とは言えない状況下で、やはり計らいとしか言いようがない。こんな僕程度でも生かされていると感じた。 人間の精神とは、考える程度では何も得ないですね。大げさかもしれないが、死ぬか生きるかの極限で物事を考えないと。それを僕は経験した。 目が悪くて書けなくなり、いろいろ試行錯誤やってみたが無理、しょせん無理は無理が前提で物事を考えるわけだから。限界だとあきらめかけていた時にシスターにお会いし、試行錯誤を心底から搾り出したと言うことです。わずかに残された書き方を搾り出してこんにちがあるからです。 それがなければ死んだも同然。それこそ生きている甲斐がない生活になった。 そういうことで僕にとっては恩人になります。 人間って、どこで誰に心を救われるか分からないものですね。これが神秘というものでしょう。 シスターとは数秒のすれ違いで会えなかったのだから。
2018年05月02日
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5月1日「労働者聖ヨセフ」(任意) [29-30] 万物の主である神よ、あなたは、人が労働を通して創造の業に協力するようお定めになりました。私達が聖ヨセフの模範と取り次ぎに支えられ、仕事を通して御旨を果たし、約束された報いを頂く事が出来ますように。 五月ですね。新年を迎え復活祭を待ち望みこうしている間にも一年の半分になろうとしている。 我が家を和ませてくれた三匹のワンちゃんを思い出す。いつも寝てばっかりで、犬には時間の概念はないんだろうなぁーと。考えてみれば、この時間の過ぎ去るのは人間も同じでは?いつの間にか年をとっているだけで、ワンちゃんと変わりがないと。 人にはそれぞれ才能を持って生まれてきたのだろうから、その才能を見つけ感じ取らなければ、そんなことを考えています。 音楽をやっていると、僕の才能は音楽じゃないのでは、そんなことをついつい愚痴るところです。才能があればこんなに苦労しなくて済むだろうにと。
2018年05月01日
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何の理由もなく「アイフォン」に替えました。 いろいろと便利だそうで期待していますが、やっと電話が出来そうです。メールはこれからですが。できたら、ピアノの音が出るのと、メトロノーム、簡単な録音、それにカーナビは便利そう。ネットも見られるらしいが、僕の目では無理だが、これで充分。 アイフォン8プラスとかで普通より一回り大きいようで、僕には見やすい。
2018年04月30日
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4月29日「聖カタリナ(シエナ)乙女教会博士」(記念) 聖なる父よ、聖カタリナは、あなたの愛に燃えて御子の受難を黙想し、教会の奉仕に献身しました。聖人の祈りに支えられる私達が、キリストの死と復活に結ばれて、救いの喜びに生きる事が出来ますように。4月30日「聖ピオ五世教皇」(任意) 万物を治められる神よ、あなたは聖ピオ五世を選び、教会の中に信仰が正しく保たれ、典礼が相応しく行なわれるように導かれました。聖人の取り次ぎによって、私達が信仰と愛に生き、救いの神秘に与る事が出来ますように。 死者と病者と誕生のリストを毎日起床して見ています。亡くなられた方々には、近いうちにお会いできるのを楽しみに。病床にある方々には、いつも心に留めてますよと。誕生日の名前を見ると、あぁもう何歳になるんだ、何十歳になるんだ、そのぶん僕は老いたと。 日々、ハンセン病の特別病室の台本を見て、訂正して調べて、音楽を書いては消しての三昧です。 もうすこしで僕が結婚して50年です。お弟子さんらが食事会をセットしてくれるとのこと。嬉しいやら嬉しくないやら。僕はうちづらはとんでもなく悪い。こんな生業だと喜怒哀楽なんて言葉では表現できない。そんな人間とは絶対に付き合いたくないと僕自身が思うのですから。ワイフには感謝の一言です。
2018年04月30日
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今やっと、朗読と音楽「特別病室」の台本を脱稿。あとは音楽を付けるだけなので、音楽はほぼできているので清書するだけ。やはり楽器の決定だけは未解決、コンデススコアにするかフルスコアにするか迷うところです。自分で思う通りのフルスコアがベストでしょう。タイトルを「重監房」とするか「特別病室」とするか迷ったが「特別病室」とした。それにしても、人間ってものはどれだけ非人間的なのだろうか。これが原罪というものだと。あの管理者の何某に僕もあの環境では同じだったかもしれないと思うとそら恐ろしい。僕は、草津の療養所にある重監房跡地の冬の寒い夜中を知っている。あの環境で一日と僕なら正気ではいられない。人は何億円もかけて作られた重監房資料館を見学するが、人が見学すべきはあの冬の厳寒の重監房跡地である事を。重監房で亡くなられた霊魂を慰めたくこのあと、もうひとつの台本を来週から始める。それと並行してもう5年前からかあたためている「舌読」を急がねばと思っている。
2018年04月28日
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4月28日「聖ペトロ・シャネル司祭殉教者」(任意) [29] 救いの源である神よ、南太平洋の島々に信仰を伝えた聖ペトロ・シャネルに、あなたは殉教の光栄をお与えになりました。喜びのうちに主の死と復活を祝う私達も聖人に倣い、新しい命の喜びを伝える事が出来ますように。 今4月28日、復活節第4、詩篇配分第4週。 4月も終わり5月のゴールデンウイークに世間はウキウキ。一年の半分になろうとしている。いつの間にか。 きのうは韓国南北の友好機運に多くの人がテレビに釘付けだったかもしれない。僕もその一人。 南北が一つになれば、難民の受け入れを日本はノーとは言えないでしょう。世間を気にし、強いものにはへつらう国だから。 日本の国は、外国籍の定住者?の多い世界でも不思議な国。今以上に増えると、軒下を貸して母屋まで乗っ取られる状況になる事でしょう。げんに天下のNHKも企業も外国籍者が実権を握っているように思えるから。 南北問題を抱える隣国には、多額の支援が強要されるんでしょうね。 そのお金が隣国の貧しいい人々に平等に分け与えられると良いのだが、おそらくは特定の人ののどを潤し腹を満たし栄華の加担をするだけでしょう。
2018年04月28日
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2016年12月のベタニアの家チャリティーコンサートの一部で上演された「私の生きた恵みの分かち合い」のDVDを久しぶりに観た。ここ最近はプロの演劇舞台を見る機会に恵まれ、それらと比較して自分のやっている公演を比べてみて再確認できた。2016年の上演DVDを観て喜びを感じる。 この上演では、生楽器を当然使っているが、今後の公演を考えると、つまり金銭的問題を考えるとデジタル音楽も考慮しないといけないでしょう。朗読にかぶらせるBGMをデジタル音にして、プロローグ,インテルメッゾ,エピローグには一本のなま音を使うか、それと朗読中のBGMにデジタル音となま音をかぶせるのも面白いかもしれない。貧乏人の苦肉の策が、吉と出るか凶と出るか、試してみる価値はあるかもしれない。 DVDを見るには操作が厄介。CDの気楽さで、耳だけで聞くのは想像力が豊かになって良いのかも、そう思ってます。が、両方のダヴィングとなると色々と現実的ではないかも。 それにしても、ハンセン病とは実に厳しい病気ですね。このハンセン病への理解を持たなければ、これから未知数の不治の病のウイルスに対処できないと思う。そのためにも、人はハンセン病を知らないといけないと思います。
2018年04月25日
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4月25日 「聖マルコ福音記者」(祝日) 1306-1307 祝日共通 使徒 1248p 今日は「聖マルコ福音記者」の祝日。 「聖務日課」のページ指示248pは1248pの間違い。今使っている本は、古い出版本を捨てられずに使っているので、新本を見てみると訂正されていた。人が作るのだから仕方がないが、それでも結構ミスが多いものだ。 今日の聖マルコ福音記者は、「祝日共通」の「使徒」で、あっちに行ってこっちに飛んでと、目の不自由の人は難儀する一日です。 起床して「読書」では長い「テ・デウム」あり。個人的には好きだ。続けて「朝の祈り」これまたあっちに飛びこっちに行って。 虫眼鏡片手に四苦八苦して祈られる顔が眼に浮かぶ。僕がいればページ指示が出来るのだが。ある人は生活の知恵で“ページが複雑な日は、詩編配分の通り、神様はお許し下さりますもの”と笑い顔を見せていた。それでいいんですよね。 目や手の不自由な人と一緒に唱える信者さんが一人でも増えると良いですね。祈りとは何ぞや!共に祈ることを考える信者さんがいると良いですね。 僕は音楽の関係で「アンティフォナ」を使うことが多い。グレゴリオ聖歌がいつも身近にないと僕程度の力では音楽が作れないので。 今日もおかげ様で、音の飛躍と緩急に思い付きを得られた。 不思議なもので、毎日同じ物故者の名前を読み上げるのに、日にちよって目にとまり思い出すのが違う。霊魂の慰めになっていればいいのだが。
2018年04月25日
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きょうは、朗読と音楽「このままでは死ねない」の台本と音楽の一日です。 朗読に使う音楽はBGMからの脱皮、一つの音楽作品と意識しています。 僕も若い頃にBGMのアルバイトをずい分やりました。つまりゴーストライターですね。 BGMはミュージックカセット。つまり、旋律の引き出し(引き出し)から適当(良く言えばふさわしいの意味)に引っ張り出して指定場面の時間に合わせて音楽を書く技術。このことは複雑で非常に簡単な話で企業秘密でもあるので、ここではひかえましょう。音楽の持つ特性から来る音楽の本質の話しなので。 衛星放送の日本映画と洋画(洋画でもアメリカとヨーロッパではまた違うが)では、同じBGMでも違いが分かる。音楽を録音して後でゆっくり音楽だけを聴いてみると、日本映画と外国映画の違いが素人耳程度でも識別できる。 興味深いです。 簡単に言えることは、日本の映画やTV番組を音楽だけを聴くと、中身がない感じられない、つまりミュージックカセットから引っ張り出しただけのナガラ音楽ですね。
2018年04月24日
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4月24日「聖フィデリス(ジグマリンゲン)司祭殉教者」(任意) 全能の神よ、愛の火に燃えて宣教に尽くした聖フィデリスに、あなたは殉教の冠をお与えになりました。聖人の取り次ぎを求める私達が、信仰と愛に生きるものとなり、キリストの復活の力を知る事が出来ますように。
2018年04月24日
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きょう一日の日曜日を久しぶりに我が家で過ごす。 家の外回りを見ると、やぐらを組むために何をどこまで撤去するのか皆目わからず考えるだけで何もしないで終った。専門家にやってもらうしかない、素人ではどうにもならないと言うことにした。 そのぶん、朗読と音楽の「特別病室・重監房」と「日本のアウシュビッツ」の二作品の台本と音楽を見た。 2013年に曲は出来上がっているのでじっくり見た。 4年前の作品とにらめっこしていると、管弦楽曲を捨てきれないのが良く分かり、網膜剥離で作品が書けないどん底だった時期、我ながら自分に同情した。小編成に徹する事が出来ず、いつかは管弦楽曲に出来るのではと、淡いかすかな希望を前提に書いているのが良く分かる。それだけに、音楽に厳しさがない。 この「厳しさ」は僕の性格から来ているのだろうが、恩師に言われたのを思い出す。 “君の作品には厳しさがない”と。 良く言えば?大衆向け。誰にでも理解されたいと。そんなことは音楽にはあり得ないのに。先生から指摘されてから、それから厳しさを第一義としてきたはずだが、甘さがあるんですね。4年ぶりに自分でも良く分かった。 きょうはそんな箇所に手を加えた。 全曲を人様に聞いていただく機会は全くないが、ごく一部断片だけでも「朗読と音楽」で使う算段が出来た。 良い一日を過ごす事が出来た。
2018年04月22日
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電気代には原発の代償金が平等に分担されていると言う。数年先には、その負担金が増えるのだと言う。原発は、油や石炭に比べ理想的だったはずが、そううまい事にはならない。我が家の屋根に太陽の恵みを貯え電気にする装置を取り付けることにした。原発反対の意思表示です。これで、本当か嘘か分からないが、電力会社の電気を使わないで済むようだ。きょうは、工事のためのやぐらを組むスペースを作るために物をどかさないと。一日じゃ終わらないけど、これを機に断捨離をします。
2018年04月22日
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最近、ひとり舞台と朗読を観る機会に恵まれている。恵まれていると言うより計らいですね。自分が作っているハンセン病の「朗読と音楽」の為でしょう。人様の舞台だから感想を述べるのは控えたいが、自分の作品の確認と方向性を確かめる事が出来たと思っています。 草津のハンセン病国立療養所栗生楽泉園にある重監房跡地を初めてみたのは15年になろうか。毎月一回訪問し、線香とタバコを供えて手を合わせ、少しはこの重監房で亡くなった人達の霊を考えることができる。この重監房を作品にできないかと、そう思いながら構想を練りだし、本格的に書き出したのは2010年だからもう7年になる。そろそろやっと完成かと思っていた矢先、重監房の収監者に食事を運んでいた最後の人が亡くなった。初演を見てもらいたかった。今年の夏には初演したいと考えている。
2018年04月21日
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4月21日「聖アンセルモ司教教会博士」(任意)全てを導かれる神よ、司教聖アンセルモは、あなたの英知の深みを求め、それを人々に伝える恵みを受けました。私達も信仰の光に照らされて真理を知り、心から味わう事が出来ますように。
2018年04月21日
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復活節金曜日朝起きて「死者と病者の祈り」そして「読書」と「朝の祈り」死者と病者の名前が増えた。やりきれない。テレビon。胸さわっていい? ダメ! 辞めてジエンド。真実は闇の中に。女性の権利はいつになるのだろうか。トラックも配送車も工事現場でも男と同等に働く姿は当たり前の世の中になっても、男の威厳か女性を低くみている。バカな話だ。この世の中は女性のまわりにぐるぐる回っているのが男なのに。女性を大切にすれば、男は平安な生活が送れるのに。 息子が関係させて頂いている水上勉の戯曲「釈迦内柩唄」の本をアマゾンでさっそく注文、次の日には手元に届いた。ななめ読みして、これから今一度読もうと思っている。戦中戦後の困窮の時。この舞台だけを見ても理解できない世代になっているような気がするが、この本を読むと、水上氏が何を言おうとしているかが分かるような気がしたし、目からウロコ、もあった。今も続く偏見差別意識が戦争当時にしっかり植え付けられ、戦後生まれの僕らにも植え付けられたと言うこと。本当に恐ろしい事です。朝鮮人中国人の強制労働は、日本人の心底にある恐ろしさが浮き彫りにされる。炭鉱で強制労働させられた朝鮮人中国人の環境を読むと、ハンセン病の重監房を思い出す。「オンボ」と言う言葉を知らない人が多いらしい。
2018年04月20日
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「眞の謙遜を求むる祈」(祈祷集,318-325p)人に名誉を受けたき望みより、主よ我を救い給え。人に訪ねられたき望みより、主よ我を救い給え。人に尊敬せられたき望みより、主よ我を救い給え。人に褒められたき望みより、主よ我を救い給え。人に勝りて優遇せられたき望みより、主よ我を救い給え。人に己が意見を聴かれられたき望みより、主よ我を救い給え。人に蔑にせらるゝを恐るゝ心より、主よ我を救い給え。祈願 天主たる御父,主は卑しく貧しき者を憐れみ、謙遜なる者を嘉し給うにより、願わくは我等をして御旨に適い、忠実に御身に仕うるを得ん為に我が口我が目に於いて、己を無き者にするの心を授け給え。アーメン。 人に影響を与えるような人に多く見られますね。僕の知るところでもいますもの。 偉くなると錯覚するんでしょうね。 知事さんの裏の顔、最高官僚に上りつめた裏の顔、議員さんの横柄な言動から先生と言われる人まで。 僕には何もないけど年が増えるだけ偉そうにしているかも。気を付けないと。
2018年04月19日
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県知事がキャリア官僚が突然辞任すると言うが、辞めればよいと言うものじゃないだろうに。恥ずかしくないのだろうか。 一流大学出て医者と弁護士となり原発をうたいバク転もできるスポーツマン、そんな立派なお人がネットでナンパしてお金を払って、いったいどうなってるんでしょうか。介護制度も厳しくなると言う。国の司はやりたい放題。糸の切れた凧のように日本丸は漂い続けるのだろうか。
2018年04月18日
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全生園の入所者さんが亡くなった。 高齢と後遺症とで病苦は当然だが一応はお元気なので、この入所者さんのことはまだ大丈夫だろうと後回しになっていた。 亡くなった事を知らなかった。 先日、自宅に伺い手を合わせてきた。 入所者さんの奥さんの話しでは、僕を園内で見かけたが来ないなァー。話しておきたいことがあるのに・・・。 大切な人を亡くした。 草津にある重監房。この重監房の収監者に食事を届けていた人だった。祈りつつ
2018年04月18日
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4月17日『復活節火曜日』 「読書」 唱句(ロマ6:9)「死者のうちから立ち上がられたキリストは、もう死ぬ事はない アレルヤ。死はもう、キリストを支配しない アレルヤ。」 きょうは久しぶりに一日フリー。ありがたいことです。 先日は東京のカテドラルに菅原先生の墓参、今日しか空いていないので両親の眠る八王子までこれから行ってきます。片道二時間、天気も良くないので思い切って高速道路を奮発しましょうか。 母が亡くなったのは1988年だから30年になるんですね。恩師が突然、復活徹夜祭の4月2日に召され、そのあと一段落した19日に母が安心するかのように召された。 お腹がパンパンで、「イエス様の十字架の道行きに比べればなんてことはない」「神様のお与えの苦しみは絶えられるだけ」と、先生の葬儀が一段落するまで頑張ってくれた。僕は母の心配よりも恩師の葬儀で大変だった。母の葬儀は昔風にこだわった。自分の葬儀も今風にだけはしたくないと願っている。
2018年04月17日
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恩師が良く話していたことに「友人がいなくなった」と。 その時は分からなかったが、今にして思えば良く分かる。 僕に残された時間を大切にしたいと、貴重な時間であると感じるようになってきた。 人様に目を向ける時間を少しづつ少なくしないと。時間がないのだから。 目を悪くして五線紙に書けなくなってから、新しい様式の模索中だが、いまだ自分のものにはしていないだけに焦りを感じる。 このまま終わるような、気の弱い気持ちにも正直なります。 管弦楽曲に全てを注いできたのを小編成楽曲に変えると言うことは並大抵の努力ではできない。 そんな中で「朗読と音楽」も一つの手段になるが、このテーマの一人が亡くなった。奥さんは健在だが、とは言っても90になる。早く取材を終えないと。
2018年04月16日
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さくじつ、演奏会の二時間前に予定通りに、初めての築地本願寺に到着。浄土宗西本願寺は圧巻。多くは外国人、ちょうど工事中とかで騒々しかったが勉強になった。 築地は人ひと人で、色々な外国語が飛び交う。事前に調査づみで寿司屋さんに直行。僕はランチタイムの千円の海鮮丼を注文。9人の婦人連は3千円のおまかせ。新鮮でイクラはプチプチしていた。 会場は150席ほどで、満席。 脚本ストーリーの感想は言える力はないので控える。 舞台効果は良かった。効果音は控えめで、印象的なのはカラスの鳴き声が終演後も耳に残り良かった。欲を言えば、役者の声とカラスの鳴き声の対比・会話があると良かったと、素人的に感じ残念だった。BGMも生のチェロ演奏も要所にはまり的確で同感。 BGMはパソコン音楽のようで、これが逆に生演奏の録音でないことが効果的で、それも撥弦楽器を使ったことに「目からウロコ」で共感。チェロも効果的で音楽的にも良かったと思う、腹の底から響いてくるチェロの音と役者の発声が共鳴していたこと。それもチェロと言う楽器を選んだのは見る目がある。チェロのビブラートの使い方と無に近い仏教的に聞こえる淡々とした旋律が絶妙だったと、我が子ながら「とびがたかを生む」の感あり。 俳優も訓練された声が良かった。舞台俳優とは、テレビや映画の小手先で演じる俳優とは本質的に違うと再認識できた。 僕がやっている「朗読と音楽」の方向性を確認できた。 参考になった事は、電子音の音楽と生音楽の融合。これは今後の僕に大きな希望と言うか、試作しても良いような気がしたこと。なぜなら、僕の悩みの種は、演奏家を集めることが経済的に難しいのと、演奏家の気質と言うか音楽への究明心の欠如した演奏家への失望から。 大きな収穫を僕的に得た一日でした。 これは神様が与えてくれた僕へのメッセージだと受け止めている。
2018年04月14日
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「釈迦内柩唄」(シャカナイヒツギウタ)水上勉作4月13日~15日(2時,6時半) 築地本願寺ホール いよいよ初日。初演を見に行ってきます。チェロが一本とかで、どんな使い方をするのか興味があります。想像は出来るのですが。 これを機に、水上勉の作品を読んでみようかと早速アマゾン。雪も解けたから無言館に行ってみたいと思ってます。
2018年04月12日
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朗読のCDを聞いた。 朗読に音楽をつけるのを頼まれ、サンプルでCDをいただいた。世間で知られる詩人で、朗読者もこれまたよく知られる四人の女優さん。 僕は「朗読と音楽」をシリーズで書いているので興味津々、まずは朗読の声を聞いた。そして音楽の扱い方を。 朗読の定義なんぞ知らない素人だから、素人の主観で聞いた。同じ作家の作品を四人で分担、おそらく個別に録音をしたのだろう気配を感じた。同一作品を四人で朗読するのなら個別ではなく、一連の流れで録音すると朗読者の技量と変化が顕著に表れるから面白いCDが作れのだろうに、現在の録音制作システムだとそうはいかないのだろう。 朗読の裏で音楽が流れる。簡便的な創作音楽で、風にそよぐ木々程度の扱いを感じる。喫茶店で流れる音楽のよう。 音楽をこんな扱い方をされると音楽がかわいそう。 音楽については論外。無難で主張も無く、ただただ流れるだけで朗読者の粗(アラ)を補充するでもなく、かえって粗を深くする音楽効果となったように感じた。 そういう意味で、音楽の扱い方の大切さを感じたところです。 そして考えた末に、音楽を書くのをお断りした。朗読と音楽の対位法か、BGMか、世俗詩の朗読に抵抗感があるので。 でも、いい勉強をしました。
2018年04月12日
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4月11日「聖スタニスラオ司教殉教者」 全能の神よ、聖スタニスラオは信仰の為に戦い、迫害する者の剣に倒れました。聖人の模範に強められて、私達も、死に至るまで信仰を力強く証しする事が出来ますように。 先日のミサで、オルガン弾きが急きょの休みとかで代理弾きをさせられた。 嫌なことをやらざるを得ないと言うことは、本当に辛い苦痛なことです。 オルガンを弾くことに集中は出来ない。楽譜を見ると何故こうなの。オルガンを弾きながら他の事を考えてしまう。だから、とうぜんうまくは弾けるはずがない。 弾きながら、なんで音がこう進んでしまうの?拍子と音符の記譜法がこれでいいの?この旋律は音符ありきで歌詞(聖句)を無理やりはめ込んだのかな?なんてことを考えながら弾くのだから、歌う人達にはいい迷惑なこと。 拍子の決定にも決まりがある。音符の書き方にも決まりがある。それらを度外視した楽譜は、ピアノを習う小学生でも分かる話しなのに。 神を賛美する音楽がこれで良いのだろうか。 だんだん教会が遠のくのを感じます。
2018年04月11日
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復活祭の聖福音、ヨハネによる福音書(21:1-9) 主と飲食を共にしていたお弟子にして、イエズスの言葉を理解していなかった、とある。一人ではなく二人して現実を見てもである。 二千年を経た我々はなおさらではないだろうか。 「信仰の目で見る」 「信仰の目で見る」という言葉は、恩師から強く学んだことでもある。 商業作品は別だが、宗教音楽の創作行為は「信仰の心で書く」と。 創作中に流れ出る音楽は、湧き水のごとく。そのほとんどは悪魔のささやき。その真贋?の見極めが「創作の業」で創作者が初めに身に付けることです。
2018年04月10日
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「釈迦内柩唄」水上勉作 築地本願寺ホールで4月13日~15日迄毎日2回公演で息子が出ます。 チェロ一本とかで詳細は全く分からないけど、たぶん録音済みのBGMと生チェロの音楽なのだと思います。 僕的には、楽器一本の舞台は面白いと思うが、どのような使い方をするのかを見てきます。 13日2時の初演を聞きに行きます。 少しでも参考になればと期待してます。
2018年04月10日
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草津の療養所での「復活祭」は三日後の4月4日でした。 とても大切な話を書こうと思い書き出してボツにしました。話が筒抜けなので。 興味のある方はメールにて。 そろそろイノシシが出没かな。 2日の夜に草津に向かう予定が、大きな問題があって結局深夜0時に家を出た。3日の3時に到着。荷物を出して駐車場に車を停めて、少し歩いたところで動物のような鳴き声?うなり声が聞こえた?気がしたので携帯電灯を向けるとイタ!中っくらいのイノシシが一頭。動物は点滅の電灯を嫌がると聞いていたので、これが大正解なり?。人間ってとっさには判断が難しいですね、固まってしまって。逃げ場がなかったし、車までは距離があるしで。
2018年04月07日
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2018年の復活主日が終わりました。 今年の聖週間は長く考えるところ大で、いつもとは違う年を迎える事が出来ました。 みなさんは如何ですか? いつものように忙しくしていると思います。 僕の今年は、いつものように忙しくせずにノンビリと「隠居」の二文字を重く感じ寂しさだけが残ります。 でも隠居とは有り難い環境で、隠居だからこそ「やり残し」のできるいいチャンスかもしれません。 持ち物の整理処分としての断捨離だけではなく、「やり残し」こそが一番大切なことかもしれません。そのためには時間を大切にしなければ。そんな心境です。 教会の聖週間と復活ミサとその周囲のことは、水の流れとして受け止めることに心がけようと思っています。おおきな川の流れに逆らってもどうにもなりませんし、心身ともに消耗するだけですので。 すこし大人になった気分です。 こんや草津に向かいます。帰宅は金曜日の朝になります。 草津教会では三日おくれの「復活の主日」です。アレルヤ!きょうは、1988年4月2日は徹夜祭で、恩師菅原先生が帰天された日でもあります。草津から帰宅して先生の思い出をブログで書きたいと思ってます。
2018年04月02日
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『復活の主日』 「読書」 読書 「出エジプト記」(14:15-15:1) 「エゼキエルの預言」(36:16-18) 「ローマへの手紙」(6:3-11) 「マタイによる福音」(28:1-10) 賛美の賛歌(テ・デウム) 全ての者の主、神よ、あなたを称えて歌う。永遠の父よ、世界はあなたを崇め尊ぶ。神の使い、力ある者、ケルビムもセラフィムも絶える事なく高らかに賛美の歌を上げる。聖なる主、聖なる主、全てを治める神、あなたの栄光は天地を覆う。共に声を合わせ、あなたを褒め歌う。救いを告げた預言者の群れ、気高い使徒と殉教者。世界に広がる教会もあなたを称える。偉大な父、真の独り子、証の力・精霊を。栄光に輝く王、勝利のキリストよ、永久にあなたは父の独り子。全ての人の救いの為に、乙女から生まれ、死に打ち勝ち、信じる者に神の国を開かれた。父の右に座し、全てを裁く為に、栄光のうちに再び来られる。尊い血に贖われた私達を支えて下さい。諸聖人と共に永遠の命を喜ぶ事が出来るように。 神よ、あなたの民を救い、従う者を祝福し、いつまでも高め、導いて下さい。日ごとに感謝を捧げ、世々にあなたの名を褒め称える。私達を今日も、罪からお守り下さい。神よ、豊かな憐れみを私達に。あなたに寄り頼む私達に。あなたにかけた私の希望は永久に揺るがない。 ~~~~~~~ 「朝の祈り」 神の言葉 神はこのイエズスを三日目に復活させ、全ての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私達に現わして下さった。イエズスが死者のうちから復活された後、私達はイエズスと食事を共にした。このイエズスが、生きている者と死んだ者との裁き主として神によって定められた方である事を、人々に宣べ伝えその証しを立てるように、私達は神から命じられているのである。預言者も皆、この方を信じる者は誰でも、その名によって罪の赦しが受けられる、と証ししている。 福音の歌(ザカリヤの歌) 神を褒め称えよ、イスラエルの神を。神は民を訪れて贖い、私達の為に力強い救い主を、僕ダビデの家に立てられた。神は昔、預言者によって語られたように、私達に逆らう者、恨みを抱く者の手から、私達を救い、祖先を憐れみ、尊い契約を心に留められた。神は先祖アブラハムに約束された通り、逆らう者から私達を救われた。生涯を清く正しく平和に送り、神に仕える事が出来るように。 幼な子よ、お前も神の預言者と呼ばれ、主の前を歩み、その道を整え、罪の赦しによる救いをその民に知らせる。全ては神の憐れみの心による。神の深い憐れみにより、夜明けの太陽は私達に臨み、闇と死の陰にある人を照らし、私達の歩みを平和に導く。 結びの祈願 全能の神よ、あなたは今日御独り子によって死を打ち砕き、永遠の命の門を開いて下さいました。主イエズスの復活を記念し、この神秘に与る私達を、あなたの霊によって新たにし、永遠の命に復活させて下さい。私達の主イエズス・キリストによって。アーメン。 ~~~~~~~ おめでとうございます。 きょうは人並みに夜明け前に起きて暁課から神妙に勤行。人は一人では何もできない事を感じる、今年の聖週間でした。 イエスが裁判の席に座り、なじられ、少し前には、道に着ている物を敷いてまるで王様待遇だったのに。先生様と言っていた、舌も乾かないのに「あいつ・お前」となじり、主の愛されたお弟子さんにして「あの人は知らない」と、「あの人」と言ってのけた。 これが二千年経っての僕らの姿なんです。 墓に入り遺体のないのを自分の目で見て「復活」についてを思い出した。それも現場に「二人で立ち会った」からこそ「復活の確認」が出来たと言う事です。 これが一人だったら半信半疑で、どうせ人に言っても信じてもらえないのだからと沈黙、事実のもみ消しをしたでしょう。主の愛する弟子にしても。 「二人三人いる所には私がいる」が実現した。 一人ではないと言うこと。これが「分かち合い」なんですね。あるシスターが言っていたことにやっと気がついたお恥ずかしい告白です。 おめでとうございます。 きょうは長い一日です。
2018年04月01日
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『聖土曜日』「読書」詩篇唱和 第一詩編004 「神に寄り頼む」詩篇唱和 第二詩編016 「神にのみ救いと喜び」詩篇唱和 第三詩編024 「栄光の王が入る」読書 「ヘブライ人への手紙」(ヘブライ4:1-16)~~~~~~~「朝の祈り」第一唱和 詩編064 「全てを裁かれる神に祈る」第二唱和 旧約の歌(イザヤ38:10-14,17-20)「死の苦しみから救われた喜び」第三唱和 詩編150 「賛美の合奏」神の言葉 (ホセア5:15-6:3a) 神は仰せになる。「彼等は悩みの中にあって、私を捜し求めて言う。『神に立ち帰ろう。神は私達を引き裂いたが、癒し、私達を打ったが、その傷を包んで下さる。神は二日の後、私達を生き返られ、三日目には私達を立ち上がらせる。私達は、神の前に生きる。』」福音の歌(ザカリヤの歌) 神を褒め称えよ、イスラエルの神を。神は民を訪れて贖い、私達の為に力強い救い主を、僕ダビデの家に立てられた。神は昔、預言者によって語られたように、私達に逆らう者、恨みを抱く者の手から、私達を救い、祖先を憐れみ、尊い契約を心に留められた。神は先祖アブラハムに約束された通り、逆らう者から私達を救われた。生涯を清く正しく平和に送り、神に仕える事が出来るように。 幼な子よ、お前も神の預言者と呼ばれ、主の前を歩み、その道を整え、罪の赦しによる救いをその民に知らせる。全ては神の憐れみの心による。神の深い憐れみにより、夜明けの太陽は私達に臨み、闇と死の陰にある人を照らし、私達の歩みを平和に導く。
2018年03月31日
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きょう3月30日の三時。皆さんは何をしてましたか?―――――✝ ♰ ✝――――― 【十字架上のイエズスに向う祈】 仁慈にしていとも甘美なるイエズス、我御前に跪き平伏し奉る。預言者ダヴィドが主につきて“彼等は我が手我が足を貫き、我が骨を悉く算えたり”と言いし御有様を、今目前に見奉りつつ、心の大いなる愛情と苦痛とを以って、主の五つの御傷をひたすら眺め、且つ心にて思い巡らし奉る。信望愛の烈しき感情と、我が罪の真の痛悔と、これを改むる最も固き決心とを、我が心にしみ徹らせ給わん事を単に願い奉る。 【御傷の尊敬】 十字架に磔られ給いし愛すべき主イエズスよ、我至福なる童貞聖マリア、並びに諸天使諸聖人と共に、「1.右手,5.左手,3.右足,4.左足,5.御脇腹」の御傷を平伏して拝礼し奉る。▴願わくは御傷の御功徳によりて、哀れなる煉獄の霊魂、わけてもこの世に在りて、御傷を深く尊敬せし者を憐れみ給え。 「主祷文」「天使祝詞」「栄唱は」 (リフレイン 5回) 悲しみを極めませる御母、我等の為に祈り給え。▴キリストの御約束に我等を協わしめ給え。 祈願 十字架に磔けられ給いし主イエズス・キリスト、願わくは聖き御苦難の御功徳によりて、我が祈りに力を与え給いて、我等を聖ならしめ、臨終に於いては尊き秘跡を受け、遂に永遠の福楽に至るの恵みを、與え給わん事を祈り奉る。▴アーメン。
2018年03月30日
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3月30日『聖金曜日』「読書課」詩篇唱和 第二詩編022 「神の僕の苦しみと願い」(1011-1013p) 私の神、私の神、どうして私を見捨てられるのか。どうして遠く離れて助けようとはせず、私の叫びを聞こうとされないのか。昼、私が叫んでも、あなたは答えられず、夜、叫んでも、心は安らぐ事がない。 イスラエルが称える神、あなたは気高く聖なる方。私達の先祖はあなたを信じ、あなたは彼等を救われた。彼等は助けを求めて聞き入れられ、信じて恥を受ける事はなかった。 私は虫けらであって人ではない。人に誹られ、民に侮られる。私を見る者は皆笑い、私を嘲って言う。「彼は神を頼みとした。神が救いに来れば良い。神が、彼を心にかけているのなら、救い出せば良い。」 あなたは母を私に授け、その乳房で私を育てられた。この世に生を受けた時から、私はあなたのもの。母の胎にいた時から、あなたは私の神。私から遠く離れないで下さい。悩みは私に迫り、助けに来る者もない。 雄牛の群れが私を囲み、バシャンの野牛が私に迫る。猛り狂う獅子のように、歯をむき出して私に襲いかかる。 私は力尽き果て、足腰もたたなくなり、心はロウのように溶けた。顎は土器の欠けらのように乾き、舌は上顎につく。私は死の塵の上に伏す。犬が私を取り囲み、悪を行なう者の群れが迫り、私の手足を引き裂いた。私は晒し者にされ、彼等は私を見つめる。彼等は私の衣を分け合い、着物をくじ引きにした。神よ、私から遠く離れず、力強く、急いで助けに来て下さい。私の魂を剣から、命を刃から救って下さい。獅子の牙、野牛の角から、私を助け出して下さい。私はあなたの名を兄弟に告げ、その都度の中であなたを称える。栄唱
2018年03月30日
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3月29日「聖木曜日」イエズスは、ご自分の血によって民を神のものとする為に。門の外で苦しみを受けられた。私達も宿営の外に出て、主のもとに行き、その辱めを受けようではないか。私達は、ここに永住するのではなく、これから来る都を捜し求めているのである。キリストを通して私達は、賛美の生贄、神の名を称える声を、絶えず神に捧げよう。
2018年03月29日
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3月28日『受難の水曜日』「朝の祈り」福音の歌(ザカリヤの歌)(ルカ1:68-79) 交唱 (受難の水曜日) キリストは聖霊によってご自分を汚れのない生贄として捧げ、私達を神に仕える者として下さる。 神を褒め称えよ、イスラエルの神を。神は民を訪れて贖い、私達の為に力強い救い主を、僕ダビデの家に立てられた。神は昔、預言者によって語られたように、私達に逆らう者、恨みを抱く者の手から、私達を救い、祖先を憐れみ、尊い契約を心に留められた。神は先祖アブラハムに約束された通り、逆らう者から私達を救われた。生涯を清く正しく平和に送り、神に仕える事が出来るように。幼な子よ、お前も神の預言者と呼ばれ、主の前を歩み、その道を整え、罪の赦しによる救いをその民に知らせる。全ては神の憐れみの心による。神の深い憐れみにより、夜明けの太陽は私達に臨み、闇と死の陰にある人を照らし、私達の歩みを平和に導く。 昨日はテレビに釘付け。淡い望みを持ちながら「結局またか!」。これの連続ですね。「これが人生と言うものでしょう」なんて悟った大人の人生観。希望が見えないですね。それでも心にだけは希望を持ちたいです。 “指示はありませんでしたね”と美人有名人の自民党員の誘導尋問? パフォーマンス 国民はどう判断するか。 教育勅語をとなえる子供達の学校を作ろうと一国民の考えに賛同し、べらぼうな安さで国土を与えるなんぞ、ありえへん現実。有難い国ですね、事実なら。 国民は馬鹿にされ続けている。
2018年03月28日
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3月27日、受難の火曜日昨夜は夜中に目を覚ますと、壁にかけてある十字架上のイエズス様が磔刑のお姿で浮かび上がっていた。蛍光塗料制の御像なのだから当然と言えば当然なのだが。しっかり目が覚めたのでイグナチオの「霊操」を読む。
2018年03月27日
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テレビを見るでなく、つけっぱなしが僕の仕事の習慣。流れテレビの中でクラシックが放映され目にとまった。 L.バーンスタインの「ミサ」だと、指揮者が解説していた。作曲家自らの自分史を曲にしたらしい。 この作品については、二十年か三十年か前にそんな話を聞いたことがあったが、情報不足か誤解からか聞く耳が無かったが、今回は仕事を中断してテレビを見た。 見ながら不思議に思った。 確かバーンスタインはユダヤ教徒ではなかったのか。それともカトリックに改宗したのか、それなら納得できないが納得するしかない。 主役は司祭で、その歌う内容が司祭らしくない。主役が司祭ではなく、せめて平信徒ならいざ知らず、どこか別の所に意図があるのではと感じられる。 偉くなれば、世界的な人になれば、何でも許され、それが名曲となる、と言うことなのでしょうか。「裸の王様」をまた思い出した。 ついでに言うと、ある司祭の曲があまりにも有名で、楽譜を最近見た。これってなぁに?これでいいのかなぁ?司祭が書いたのだから誰も異論をとなえる人はいないと言うことか。 真贋なんぞはどうでもいい。要は偉い人が書いたから素晴らしいと。
2018年03月26日
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3月25日『受難の主日(枝の主日)』『神のお告げ』(祭日)我が家の外掃除をしないといけないのですが、大切なことを優先。これから、あっちこっちへとハシゴ、夜遅くに帰宅の予定。 アニマクリステに書けると良いのですが、ちょっと沸いているので移動車中で書けると良いのですが。二声とアンティフォンとオルガンとBCで。一本旋律楽器で色を付けてもいいかな、なんて欲もあるんですが入れない方が良いとも思いますが。
2018年03月25日
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病院の待合室での出来事。 どこからか心地よい音楽が流れてくる。どこに行っても流れてくる強制的な音楽はいつも苦痛を感じる。ショルダーバックを探すと耳栓がない、いつも入れてあるのに。しかたなしに、なぜか清水の舞台から飛び降りる心境で音楽に前向けに耳を傾けた。 どの曲もただ音が流れるだけで、ときおり目を覚ますような衝撃音が混じっているのが特徴。とにかく人の心を逆なでするような、難しい表現は一切ないのがBGMで人の心に自然に入るように工夫されている。もしかすると、これが欧米でBGMが流れるとしたら別の曲になるのだろうと想像もしてみた。まずは現実的ではないが仮にBGMが流れるとしたら日本とは選曲が違うのだけは理解できる。 僕は「朗読と音楽」の朗読の合間に、また朗読と同時に音楽を挿入しているが、それをBGMと、何の意味もなしによんでいるが、本来のBGMとは全く違う事に気がついた。それでは僕のBGM?は何て言うのだろうか?と思ったが回答が出てこない。 自分では考えもなしに「BGM」と「Selah」(セラ)と使い分けているが、BGMは正しいとは言えないと感じている。 いま欲する時に答えてくれない今を歯ぎしりの思いだけです。先生がいらっしゃれば教えてくださったでしょう。自分で考えるしかないが力不足でせんない。
2018年03月24日
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3月23日「聖トゥリビオ(モングロベホ)司教」(任意) 全ての人の救いを望まれる神よ、あなたは、司教聖トゥリビオを、勇気と熱意に満ちた使徒とし、ペルーの教会を導いて下さいました。信仰と愛に成長する恵みをあなたの民にお与え下さい。楽器は、全体が鳴るから楽器なんですよね。 このことは音楽者は確認しないといけないと思います。 バイオリンも魂柱(こんちゅう)によって表板と裏板に響き合うのが楽器。 オルガンもそうですね。普段は聖堂の中でオルガンや歌声を聞くが、教会に来られず遠くからでも聞こえるのは、オルガンの音が教会全体を楽器として教会全体を鳴るすんですよね。 都会では、専門家と鋭い感性の持ち主でないと聞き分けられないだろうが、田舎の小高い丘に建っている教会だとそれが顕著に聞く事が出来る。 これほど幸せを感じる瞬間はないですね。 ヨーロッパの音楽意思と建物と乾燥した空気とが音楽を作り育てる。やはり音楽が発達し愛されるのが良く分かる。日本だと木の建物で湿気が邪魔をして音は消えてしまう。音楽が人生の糧となる余地と環境が乏しいと言うことでしょうか。 そうは言っても、草津の療養所の中にあるカトリック教会では歌声やオルガンの音が聞こえてくるんですよ。こういう時に教会そのものが楽器として存在している。教会が、心の底から神に感謝し神を称えているんだ、そんな気持ちにも慣れる瞬間です。 都会の教会では感じない一瞬でしょうか。 楽器を鳴らす技術の錬磨を考えてもらいたいものです。 そう、「そばなり」と言う言葉が日本にもありますね。とくに日本の盲人音楽が参考になりますね。興味のある方は電話で。
2018年03月23日
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教会の典礼音楽では歌の助けとして楽器が使われる。楽器は楽器の独自性を生かすのではなく、あくまでも歌の旋律をなぞる生かす伴奏となる。歌は、その昔は女性の声を使わず、女声音域を変声期前の男子の声でおぎなった。聖堂で神の声を表現、神への賛美にはアカペラであるべきが基本だと。女声と楽器の音色は感受性が強く官能的でもあるので、そのために選ばれたのがオルガンで声部密集伴奏となる。人間の声に近く人声に溶け込むオルガンだけが選ばれた。管弦や打楽器ではあり得ない。けっしてオルガンのキャラクターを展開させる演奏はされなかった(歴史はオルガンに楽器のキャラクターを求めるようになったが)。そのオルガンが電子オルガンに代わったのは、おそらく楽器メーカーの営業と演奏者の選択でしょう。演奏する人は、現実的にはオルガン専攻のオルガニストではなく、ピアノや声楽などのピアノ経験者が中心となる。オルガンとピアノとでは奏法が違うが、ピアノ感覚で弾ける電子オルガンを選ぶのはごく自然の流れとなったのが想像できる。真摯な態度で音を求めると言う意識ではなく、とにかく弾きやすいようにゴマカシやすいように、自分の弾きやすい楽器を選ぶことになる。それに音色も素人耳にはオルガンの音色に聞こえるから。オルガンと電子オルガンとでは表現力が違う。そして音源の志向性。これはとても大事なことなのですが。これは神への賛美ではなく、自分の演奏の場であり自己満足の領域となる。オルガニスト用ではないオルガン伴奏譜が出ると良いのですが。
2018年03月23日
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音とは不思議ですね。神秘的。たった一音を聞いて人それぞれの受け止め方がある。「ド」の音をピアノで叩くと、そのドのほかに低いドや、高いドが聞こえる。おまけに厄介なことに「ソ」も「ミ」も聞こえるような気がする。だから「ド」がドなんだかソかもしれない、なんてあいまいに聞こえる。このように聞こえて正解なんですね。かすかにソやミも混じっているんです。それがピアノの音なんです。つまり、ほかの弦に共鳴するわけです。同じピアノでもグランドピアノとアップライトピアノでは天地の差がある。僕の場合だと、作曲にピアノが使いたいと思うとアップライトだと使い物にならない、それほど微妙なんです。作曲をするとき、絶対音感のある人は別ですが、僕には音叉が必要になります。また複雑な音の響きは楽曲によってはピアノで確認しなければならないことがあります。こんなときに、ピアノで確認するととんでもない誤解が生じる。だから作曲にはピアノは使わずリードオルガンを使うことになります。「ド」はその音だけしか発音しないから。電子ピアノはとんでもない別物。これを使うと実際の楽器演奏をするととんでもない響きになりますので、作曲にはご注意。音は不思議ですね。
2018年03月22日
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メールありがとうございます。スピーカー音は、生の音とは全く違う音源であることを本質的に理解してから演奏をしないといけない。それがいつの間にか忘れられると音楽全体をゆがんだ方向に向かわせ、それが今の現実がある。管弦打楽器すべてが技術の進化でスピーカーを利用した便利な楽器が当たり前にある。消音器の便利さから、夜でも小さな部屋でも練習が出来るようになった。が、技芸を磨くのに消音楽器やスピーカーとヘッドフォンに慣れすぎると、ある意味で生楽器とは違うテクニックが生まれてくる。その結果、新しい音楽観と感性が、音楽への感受性が変わった演奏者が増えたと言うよりは、ほとんどと言っても過言ではない現実です。こうなったら生の音楽とは別の音楽になっていることに、演奏者も音楽の中核にいる音楽者も気がつくべきですが、期待は出来ないでしょう。きょうはとても良い話しがありましたが、ここでは書かない事にします。なぜなら草津で言われるのが嫌なので。
2018年03月21日
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教会でパイプオルガンの音を聞いた。祭壇に近い最前列が友人がいつもの席、久しぶりにご一緒したが後ろが気になって落ち着かない。前にいると、立ったり座ったりの指揮者にもなります。前の人にならうので。ただオルガンの音の残響が祭壇からも響いて特等席です。ふと思った。これが電子オルガンだったらどうだっろうかと。スピーカーの直線的指向の音はマダラな音となるから音楽的ではない。それにスピーカー音は会衆の声とは溶け込まない、水と油の関係だから。パイプオルガンは高価すぎるけどリードオルガンで充分。電子オルガンと言っても数百万円するのだからリードが買える。が、日本では注文受注だし楽器そのものが合板でリード管も質が悪くなったし、修理する人もいなくなったので現実的でなくなってきた。ある人と言っておきましょうか。リードオルガンを教会に入れたいとのこと。僕的には噴き出しリード管をお勧めした。日本人と日本の聖歌だと吸い込みリードは合わないから。日本の昔の音楽教室にあったあの足踏みオルガンは吸い込みリード管なんです。あれは日本の音楽には合わない。
2018年03月21日
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久しぶりにお声がかかって、ある人を訪問した。「教会の祈り」を持参した。連れ合いを亡くしてから毎日一人して祈るので目と指先の不自由を献げているのでしょう。教会の祈りは、元々は修道者の祈りで俗人にはハードルが高すぎる。それで単純に詩篇配分でページをめくることになる。いまは四旬節、ページを指示するとそれだけで充分な時間が過ぎる。一人して祈る毎日だから、時にはこうして祈ることがどんなに嬉しい事か。高齢で教会にも行けず、御聖体にも与れずの生活者のなんと多いこと。自分もその高齢者になるから他人事ではない。おおきな問題ですね。なんせベビーブームの子供が爺さん婆さんになったのですから。教会も考えないと。高齢者のミサ送迎を。健康な者だけが通う教会をイエズス様はどう思うだろうか。送迎の奉仕善意には期待できない現実があるような気がする。
2018年03月20日
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3月19日「聖ヨセフ」 (祭日) 祝日共通 聖人 1276pきょう3月19日は「聖ヨセフ」の祭日。聖務日課はあっちこっちと飛ぶので、始める前にページの確認をしないとならない。厄介難解です。「前晩の祈り」の「答唱」で「私達は神のもの、その民はその牧場の羊」とあります。この「もの」はどう漢字で書くのだろうか。神の者?神の物?古い聖書を見ると「神の属(モノ)」とありました。きのうのミサと一日は、いろいろな意味で良かったです。3時からハンセン病療養所の中にありますカトリック教会で、大司教様司式で四旬節第5主日のミサでした。四旬節第五主日の聖福音はヨハネ12:20-33。一粒の麦。福音朗読も良かった。僕の理想とする朗読でした。「聖書と典礼」のパンフレットを見るでなしに目をつむり耳から朗読が入った。目の不自由な患者さんも耳から聞く朗読をよく理解していた。大司教様のオメニアが感動的だった。ここ、ハンセン病療養所の教会は今回で二回目だという。一回目は関西で神学生だった約40年前のこと。召命へのゆれる神学生の時期にこの教会で聞いた典礼聖歌が大きな力となったとのこと。音楽の力を改めて認識する心を、新たにできたひと時だった。五人の神学生の中から一人の司祭をうみ、司教に、そして大司教となってこの教会に戻ってきた。僕が作った朗読と音楽「私の生きた恵みの分かち合い」。ハンセン病の両親から生まれた子がシスターとなった話を、音楽を織り込んだ上演のDVDを大司教様に手渡す事が出来た。いま入所しておられる信者さんは24人とのこと。実際に教かにこかれる信者さんは僅か数名、ほとんどが要介護の年齢ですもの。十数年前になるのでしょうか、裁判の前は東京都下にハンセン病の療養所があるなんて知らなかったでしょう。知っていても、偏見意識しかなかった時代です。さすがに高い塀はなかったが、近寄る事も入る事も考えられなかった時代には、信徒は熱心にお勤めを果たしていたのですから。いまは、あまりにも歳を重ね過ぎました。それだけに大司教様が来られミサを上げて下さった事は、入所者信者にとっては嬉しい出来事だったようです。
2018年03月19日
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あす18日、日曜日、ハンセン病療養所全生園のなかにありますカトリック愛徳教会で、午後3時から菊地大司教様の司式でミサがあります。東京教区の新しい大司教様の司式とは嬉しい事ですが、口コミで沢山の方が訪問する事でしょう。台風が通り過ぎるだけで何ら期待する余地もないし、別にそれはそれで良いのですが、僕が一番懸念する事は受け入れる側の問題です。信者にとって、まして強制隔離され園内で洗礼の恵みを受け信者となった教会に、大司教様が来られるなんぞとは夢にも思わなかった事。それが現実になるのですから。とは言っても、遅すぎましたね。いま残っている信者さんは80過ぎてますもの。
2018年03月17日
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3月17日「長崎の信徒発見記念日」(任意) 慈しみ深い神よ、あなたの恵みに支えられて、日本のキリシタンは厳しい迫害にもくじけず、代々にわたって信仰を守り抜きました。この日、その末裔が長崎で、サンタ・マリアの導きによって発見された事を喜び祝う私達も、聖母の祈りに守られて試練に耐え、力強く信仰の道を歩む事が出来ますように。3月17日「聖パトリック司教」(任意) 救いの源である神よ、あなたは、アイルランドの民に福音をもたらす為、司教聖パトリックを遣わして下さいました。キリスト者となった人々が、聖人の祈りに支えられて、いつも信仰の証しとなる事が出来ますように。きょう3月17日は、祝日共通の「聖母」で、ページがあっちからこっちへと飛びます。目が不自由だと、この聖務日課のお勤めは厳しいのが想像できます。忙しく生活している現代人には無理?なのが分かるような気がします。きょうは長崎の信徒発見の記念日。「鮮血遺書」に隠れキリシタンが恐るおそる教会を訪れ、ここでもまた女性は強いですね、「マリア様はどこにおわす」と聞き、マリア像を見て「同じ心です」と信者を名乗り出たとのことです。新しい日本になり、キリスト教会を訪問してもイエズスの磔刑の十字架とマリア像のない教会があることを当時の信者は疑心暗鬼だったでしょう。日本はザビエルが上陸してマリア様に日本国のご加護と献げ、多くの殉教者が出た特異な国としてヨーロッパで知られていた。私見で無理があるだろうが、日本国が植民地にならなかったのは殉教国・聖人の国だったから、欧米諸国は植民地には出来なかったと言うことではないだろうか。そうだと思っています。
2018年03月17日
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草津の療養所から日の出前に帰宅。草津の療養所のことは沢山話したいことがあるが書くのはやめにしておきます。いろいろあるので。波風を起こしたくないので。大事な話もあるのでメールか電話にて。僕的にも、のんびり構えていた例の件をきゅうきょ最優先しないといけなくなったので迷惑をかけると思います。今度の日曜日から動きます。
2018年03月16日
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1995年1月17日に阪神淡路大震災で6500人、 16年後の、 2011年3月11日に東日本大震災で16000人、 の方がお亡くなりになった。 まだやることがあるので11時頃に家を出て草津に向かいます。 14日(水)1時から御ミサ。雪はないのでお出かけください。 教会の屋根が雨漏りしているとのこと。どんな状態か心配です。物置の屋根は、ブルーシートで復活祭までは持つといいのですが。 森友学園問題がもみ消されないことを願ってます。 それにしても麻生大臣の記者への対応は、いったいどこからきてるのでしょうか。それにカトリック信者だと聞きました。霊名はフランシスコ。聖人フランシスコのように、ご加護を願い祈りつつの霊名だと思いますが真逆に世間では見えるのですが。 何とも言えません。カトリックがまた猫背で小さくなって生きる時代の前ぶれでしょうか。
2018年03月12日
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3月11日四旬節第4主日をハンセン病療養所内のカトリック愛徳教会にハシゴした。 聖福音はヨハネによる福音3:14-21。イエズスの声が聞きたかった。朗読も慣れてくると、人によるだろうが自我中心となる、天主の声、イエズスの声が朗読の方法で朗読者の声色(コワイロ)が聞き手の耳には災いする。 親切からなのだろう「聖書と典礼」という式次第のパンフレットが完備している。老眼用にサイズが倍のパンフレットがあって重宝する。重宝便利なだけに文字を目で追って神の言葉を耳で聞かなくなる。もっとも大切な御言葉を聞くと言う所作を失ったと言うことです。 来週の18日はハンセン病国立療養所「全生園」で、大司教様の司式です。 聖福音は、ヨハネによる福音12:20-33。 弟子の知人の声、イエスの声、天からの声、群衆の声などなどをどのように朗読すのか。 以前の音楽の使い方は、聖歌隊になぜ女性の声をつかわなかった、女声の代わりにボーイソプラノを使った、信徒の座る後ろから聖歌隊の歌声が聞こえた、オルガニストはどこにいるのか陰に隠れていた、これらは全て神の御聖堂ではどうでもいいもので脇役の存在。朗読もしかり、聖書に書かれた御言葉を口に出すとき「我」を出さず、ただ淡々と御言葉を発するだけ。 幸いかな日本語の強弱はある意味で御言葉の朗読には最適かもしれない。それを演劇者のごとく派手な発音になると御言葉が心に入らなくなる。心掛けることは、謙遜へりくだりのみですね。
2018年03月12日
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