人を亡くして初めて大切さが身にしみます。
もっとああすれば、もっとこうすれば良かったと。後悔先に立たずです。取り返しがつかない。
米塚さんは1948年に青森の松丘保養園に19才で自ら入所した。
強制収容される前に、病気を早く治したいばっかりに自分から津軽海峡を渡った。
療養所で治療を受ければ治ると信じて居た。母親も我が子が早く良くなって帰ってくるのをどれほど待ちわびたことか。
当時、家の若者が突然いなくなるのだから世間の目は厳しい。敗戦後の荒廃した時代である。
幸い、家の仕事柄、長期留守にできたとは言っても、いつまでも誤魔化しはきかない。
そのうち誰が言ったか「あそこの息子は網走刑務所に入った」と、あることないことが噂された。
ある意味で、親は内心ほっとしただろう。
「網走刑務所」と言えば重罪犯が入る刑務所だが、「ライ病」に罹ったと言うよりは、まだましなのだから。
それほどライ病は恐れられていたと言うことです。
ほんとうにライ病は恐ろしい病気だったのだろうか。一生涯隔離してまで。治療法のない不治の病だったのだろうか。
そうではない。専門家も政治家も承知していたのに、無知な国民操作のために黙視強制を法的手段としたのだろう。
米塚さんは治療を受ければ塀の外に出られたと言うこと。家族の元に戻れたと言うこと。ただし家から遠く離れた所で生きる事にはなったでしょうが。
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