四方山話に夜が更ける

四方山話に夜が更ける

June 11, 2008
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カテゴリ: 恋愛小説

  海のある街に長く住んでいるというのに、なぜかこの街では潮の香りを感じることが

 あまりない。大型船の石油のにおいがするほうが、何となくこの街の海に似合っている

 と私は思う。風が運んでくる湿った空気の中に、潮の香りを感じると、「ああ、私は

 海のある街に住んでいるのだ」と思い出す。

  学生時代、祖母の家に向かう坂をのぼりながら、遠くに見える外国船とクレーンの

 並ぶ臨海地区の光景が好きだった。薄ぼけた空色の空間にゆっくりと吸い込まれて

 いく煙は軽いのか、重たいのか。港に浮かぶ巨大な船は動いているのか泊まって

 いるのか。滑るように空をゆく、白い羽を持たぬ鳥の名はいったいなんというのだろう

 か。そんなことを考えながら、学校帰りの道を進むと次第に人影がまばらになる。

 洋館の脇にある大きな木の下の柵に寄りかかって港全体を見下して、変わらない風景

 を記憶のどこかに刻み込む作業を、私は繰り返すことが私の学生時代の日課の

 ひとつだった。

  思い出が積み重なって私を創った。忘れたはずの出来事も、ぼやけてしまった光景

 も、今なら私ははっきりと思い出すことができる。アルバムのページを一枚、また一枚

 めくるように。そして、モノクロームの写真にも私は色をつける作業を続けるように人生

 を過ごそうと思う。思い出は、若葉が息吹く様子をスローミーションで見るように動き

 出す。

  山下通りに沿って植えられた木々の間から、イルミネーションに飾られた氷川丸が

 煌々と光を放つように静かな海に浮かんでいるのがみえる。潮風に揺れる髪を掻き

 あげて、久しぶりの横浜の港の香りを身体いっぱいに受けた。かつて丘の上から見た

 風景は目の前で広がり、紺色の制服を疎ましく思っていた私ではなく、タイトなパンツ

 スーツに身を包む私がいる。神奈川県立音楽堂の階段を下りながら、私はいまだ

 冷めやらぬ興奮を感じていた。姉の果歩は私ほどではないにしても、今日のオペラは

 素晴らしかったという思いは同じように感じている様子だった。

 「果歩、今日は付き合ってくれてありがとね」

 「うん。でも、来てよかったよ。オペラなんて観るのは初めてだったけど、結構よかった。

 琉夏が言うだけのことはある。すごく感動した」

 「そっか。よかった。でも、果歩の感動は・・・私ほどではではないだろうけどね」

 「なに、その言い方。まるで私がオペラを理解できていないような言いぐさじゃない」

 「そんなこと言ってない。まあ、美味しいお酒でも飲んで機嫌直してよ」

 「もちろん。お約束どおり美味しいワインでも飲ませていただきましょうか」

 「りょうかい。ドルチェでいい?」

  私が、このオペラがここで上演されることを知ったのは、二ヶ月ほど前のことだった。

 ひとりで行ったライブコンサートの入り口で、開演までの時間をひとりふらふらと歩き

 ながらロビーで費やしていた。上演予定のパンフレットのラックを眺めているとき、この

 イタリアオペラの横浜公演の広告を見つけた。

  オペラなど観たことがないし、「二十六歳にもなって」と思うのだが、やはり初めての

 オペラをひとりで観にいくには少々敷居がたかい。一緒に観にいってくれるような友人

 も思い当たらなかったので仕方なく果歩を誘った。「オペラなんて・・・」という姉に、

 「プッチーニだよ、知ってるでしょ」と言って、美味しいお酒をおごるからと付け加えて、

 今日ここにふたりでやって来ることになった。

  一度は観てみたい作品だった。たぶん果歩もその理由を薄々気がついていたのかも

 しれない。何も言いはしなかったが、だからこそ私に付き合ってくれたのだろうと思う。

  山下公園から中華街に向かってしばらく歩くと細い路地がある。古い家屋が並ぶ細い 

 道で、観光客の目に留まることはあまりない。見つけにくいその場所にある「ドルチェ」

 という名の店は、私が学生の時にアルバイトをしていた店だった。古びた木製のドアを

 入ると、中はカウンターのあるだけの隠れ家のような店で、二十年以上も昔からこの

 場所にある。外国人客も多く、なんとなくイギリスのパブのような雰囲気だ。オーナーの

 前島はすでに六十近く、今では頭だけでなく、ひげにまで白髪が多く目立つ。

 「いらっしゃい」

 「こんばんは。奥、いい?」

 「めずらしいね。ふたり揃っておしゃれして」

 「今日は、果歩とそこでオペラ観てきたの」

 「へぇー、琉夏にオペラ鑑賞の趣味があるとは知らなかった。優雅だねー」

 「優雅じゃないって。マスター、知ってるでしょ。私の本性。ただ、ずっと観てみたいと

 思っていたものが上演されるって聞いたから、今日は特別よ」

 「へー、オペラにあこがれる琉夏ねー。考えたこともなかったけど、ま、いいんじゃない。 

 で、果歩ちゃんもあこがれてたってわけ?」

 「それが、ぜんぜん。今日はおごってもらえるってことで、琉夏に付き合ったんですよ」

 「やっぱり・・・。 で、琉夏、あこがれのオペラとやらは楽しかったかい」

 「もちろん。黄色い太陽は奇蹟が起こるしるしだって。そのシーンを観ただけでも感激

 だったよ」

  黄色い太陽

  その言葉が、私の口からでた瞬間に前島の表情が消えて、「ああ、そうか」と小さく

 呟いた。

 「やだ、そんな顔しないで。私の写真展が来月開かれるでしょ? その前に見ておき

 たかったのよ。黄色い太陽は奇蹟のしるしってやつ」

 「黄色い太陽って?」

 そう言ってグラスを磨く手を止めて訊いてきたのは佐々木比呂だった。二年ほど前から 

 この店で働いているのに、彼が口を利いているのをあまり見たことがない。有名大学の

 経済学部を卒業した後、勤めていた会社を辞めて調理師の免許を取り、挙句の果てが

 「ドルチェ」のバーテンダーをいう変わった経歴の持ち主だった。

 「ああ、佐々木君は知らなかったっけ。私の黄色い太陽にね、蓮が命を吹き込んで

 くれたの」

 「蓮って、あの写真の?」

 そう言って佐々木は、壁にある写真に目をやった。

                                              つづく






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Last updated  June 11, 2008 05:30:33 PM コメント(2) | コメントを書く
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