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知り合いのパソコン屋さんのおじさんが作った「水撃ポンプ」です。今日、用事があってお伺いしたときに写真を撮らせていただきました。 これで田圃に水を上げたり、ドラムを叩く案山子を動かしたり、二階のベランダにあるタンクに水を上げて、それを花壇などの水やりに使っていらっしゃいます。 原理は、「水撃ポンプ」で検索してして下さい。これが、ネパールやアフリカで威力を発揮しています。子供たちが水汲みをしなくても良くなって、学校へ行くことが出来るようになったところもあるそうです。 まったくの無動力です。小生にはいまだに理屈が理解出来ていませんが、かなりのすぐれものであることは間違いないようです。このパソコン屋のおじさん、田圃の自動水位調節装置も自作してます。小生みたいな、怠惰で不器用な人間には無理そうです。(パソコン屋さん、小生と同じ歳なのに、何故か今も眼鏡がいりません‥‥‥)
2008.04.26
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【奥津城】 「○○家奥津城」と彫られた墓石です。「奥津城」は「おくつき」と読みます。神道請のお宅の墓石にはよくこのように彫られています。会津では、こうした神道請がかなり広範囲に広がっていますし、会津藩『家世実紀』の記述では、武士の中にはかなりの数の神道請の家があったようです。保科松平会津若松の始祖である保科正之公が神道請を推奨していたのですから、当然のことでろうと思われます。 また、保科松平会津藩では、「転切支丹」が寺請けではなく、神道請けになることを許可していました。会津藩『家世実紀』にそれに関する記録が残っています。こうしたことに関しては、会津藩『家世実紀』の記録を『会津キリシタン研究IV』で具体的にご紹介することにしています。 しかし不思議なことです。この墓地の檀那寺は浄土宗のお寺と曹洞宗のお寺です。その中に何故、こうした神道請のお宅の墓域があるのか。残念なことに、各市町村史はこういったところまで、何故か立ち入っていません。しかし、小生には見ることの出来ない史料を見ているかもしれないと思われる記述が記されていることもありました。 かつて、会津ではないところで、ある村の成因に関して何の根拠もない仮説を立てた方のことを耳にしました。理由を挙げているのですが、あることを知っているがために、無理矢理こじつけたとしか思えない仮説でした。ある方はそれを、「話しにならない」とおっしゃっていましたが、「話しにならない」仮説の理由は、本来は見ることの出来ない史料を見たのではないかと思える節があります。しかも、それは、キリシタンや宗門人別制度に関する決定的な誤解の上に成り立っているように思えてなりません。そして同じことが、会津でも既に起こっていることを直接耳にしています。
2010.06.14
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とある山の中の村で見付けました。実に単純な家紋ですが、「丸に二つ引き」という家紋です。足利将軍家が朝廷から受けた家紋で、徳川将軍家も二つ目の家紋として用いていたそうです。 会津には、この家紋が点在しています。この村ではこのお宅だけがこの家紋のようです。かと言って他の家々が同じ家紋というわけではありません。同じ家紋で苗字の異なる家があったり、同じ村で苗字は同じでも家紋が異なっている家があったりします。 こうした家紋と苗字に関わる伝承を集めたら、『新編会津風土記』や会津藩『家世実紀』には記されていないことが見えてくるかもしれません。同時に、門外不出・閲覧禁止にされた『会津鑑』の欠損部分に何が記されていたのかも、見えてくるかもしれません。 小生が一人で出来るようなことではないので、諦めています。会津には帰農した武士集団がいることははっきりしています。戊辰戦争の後で「士族」とされた家だけが武士だったわけではありません。保科正之公がまだ信州の高遠藩主だった頃からの家臣だったと思われる家も、農村の中に残っています。
2007.10.03
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【会津の「庚申塔群」】 会津の、庚申の年に「庚申」碑を建てる習慣のあった村の、「庚申」碑が建てられているところにあった当該教育委員会の案内板です。そして、小生が村の方にお伺いした限りでは、本来の庚申の習慣を守っていた形跡はないように思えました。この点は、旧高遠藩領内と同じです。 旧高遠藩領内では、庚申の年に「庚申」碑を建てることが習慣になっていました。そして、庚申講が行われていた村には、一ヶ村しか出会ったことがありません。しかし、その村には、本来の庚申塔は建てられていませんでした。 会津には、高遠から様々なことが入ってきています。そうした高遠時代からの文化を継承している村では、そのことをよくご存知であろうと思います。そして、その中には不思議な習慣もあります。ある写真を見ていて気が付き、それを撮るためだけに、山の中の村へ行ったこともありました。 また、会津のある地域には、信州の言葉が残っています。これも、実際にその地域の方とお話をして判りました。まるで、亡母の実家の伯母と話しをしているように感じました。もしかすると、キリシタンを「太子守宗」と置き換えることを考え出したのは、保科正之公かもしれません。
2014.05.09
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