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【伊那谷の風景】 この4枚の写真は伊那谷で撮った写真です。雪を被っているのは中央アルプスの岳々です。伊那谷では、ツツジがきれいに咲いていましたが、中央アルプスの高いところはまだ、雪に覆われていました。また、伊那谷は天竜川が流れているのですが、天竜川の支流沿いにも、そして辰野町から松本平南西部までもが、保科正之公が高遠藩主であられた時には、高遠藩領内でした。 この旧高遠藩領内には様々なキリシタンの痕跡が残っているのですが、国土地理院の地形図を参考にしていると、会津との共通点を多数見付けることが出来ます。それだけではありません。保科正之公と共に、武士に取り立てられた3000人の人々が、山形最上経由で会津に移住していることを確認することが出来ます。 伊那高遠をキリシタン研究の為に最初に訪ねたのは2007年8月の末でしたが、それ以降にも10数回訪ねています。そして、伊那高遠で手に入れた高遠藩に関する文献や、ネット上で手に入れた『高遠町誌』をじっくり眼を通したら、様々なことが見えてきましたし、伊那高遠と穴山家との間にかなり密接な結びつきがあることも知ることが出来ました。その後、松本平や安曇野を巡り、善光寺平や佐久平を巡って、信州一帯にキリシタンが広がっていたことを確認することが出来ました。 会津にこれほどまでにキリシタンの痕跡が残っていながら、処刑されたキリシタンを確定できない理由も見えてきましたし、戊辰戦争まで、隠れ続けていたキリシタンが会津にいたことを納得することが出来ました。会津のキリシタン史は、日本の中でも極めて珍しい歴史でした。
2015.11.17
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【伊那高遠の風景】 これまでに伊那谷を何回も訪ねてきましたが、この4枚の写真は保科正之公が高遠藩主であられた時にも高遠藩領内であったところで撮った写真です。伊那高遠にお住まいの方は、何処で撮った写真かすぐにお判りになられるだろうと思います。 最初の写真に写っている道路は、南アルプス北部を縦走した帰りに通ったことがあったのですが、バスに乗り込んだらすぐに寝てしまったのでまったく記憶にありませんでした。ただ、伊那高遠のキリシタンはかなり広範囲に広がっていたようで、国道や県道を走っていると様々な不思議なものを見付けることが出来ます。 そして、会津に残っている民俗的習慣が、伊那高遠にも残っていることを確認することが出来ましたし、天竜川やその支流沿いにも同じ習慣が残っていることも確認することが出来ました。そして、その習慣は、間違いなく会津藩領内にも残っています。但し、史料にはそうした民俗的習慣は記されていません。『新編会津風土記』にも『会津鑑』にも『会津藩家世実紀』にも記されていませんから、旧高遠藩領内を丹念に巡ることによってしか知ることが出来ません。 「保科正之公はキリシタンだったんです」とある方からお伺いして、そうした習慣が残っているところにも、保科正之公と共に山形最上経由で高遠から会津に入って来られた家々があることも理解することが出来ました。「○○マキ」という同族集団です。これは会津盆地にもありますし、現在は新潟県に属している、かつては会津藩領内だったところにもあります。
2015.11.11
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【武蔵国のとあるお寺】 昨日、かなり以前から訪ねてみたいと思っていたお寺を訪ねました。武蔵国にあるかなり有名なお寺です。小生は山門のところまでは、高校生の時に一度来たことがあるのですが、中へ入ったのは昨日が最初でした。写真に写っているのは、中門とその奥にある本堂です。この本堂ではご法事が行われていましたが、正面のところまで入ることが出来たので、本堂の向きを計って来ることが出来ました。 小生が高校生の時に来た時には、周辺には畑や雑木林が広がっていましたが、現在は首都圏の周辺部の典型的な住宅地になっています。ただ、本堂の入口のところでその向きを計ったら、小生が「キリシタン方位角」と呼んでいる方位に入る方向を向けて建てられていました。そして、境内には不思議なものも残っていて、「やはりそういうことか」と考えざるを得ませんでした。 現在、東京都の北側と埼玉県の南側は、戦後しばらくしてから住宅地化したところです。また、東京大空襲で焼けたところは、環状七号線とJR高円寺駅の間くらいまでで、そこから西側は一部に田圃があったようですが、関東ローム層上の台地には、雑木林と畑が広がっていました。小生が幼稚園に通っていた頃には、阿佐ヶ谷駅の北口から少し北の方へ歩いていくと、養鶏農家や畑がありました。里芋の葉に朝露がのっているのを落としながら、幼稚園へ向かったことを覚えていますし、小学生になってからは、凧揚げをすることが出来ました。 また、JR中央線の三鷹駅から立川へ向かうと、左側に電車の広い車庫があったのですが、線路を挟んだ北側には畑が広がっていました。あるいは、今では想像することもできませんが、渋谷駅から国道246号線を路面電車に乗っていくと、用賀辺りには田圃や畑が広がっていて、亡母の従兄が養鶏をしていました。
2015.11.02
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【保科郷にあった「子安地蔵」と宝篋印塔群】 2009年5月17日に保科郷を訪ねた時に撮った写真です。大きな六地蔵が祀られていましたが、そのうちの一体は幼児を抱いたものでした。そして、とあるお寺の墓地には宝篋印塔が何基も残っていました。最初に保科郷を訪ねたのは、2003年でしたが、その時はゆっくり巡ることが出来たなかったので、木島平を訪ねたあと、保科郷を再訪したのですが、保科郷にもキリシタンが広がっていたことを確認することが出来ました。 保科家が伊那谷に最初に移動した理由ははっきりしていません。しかし、保科一族がキリシタンになっていたことは、伊那谷にはっきりとした証拠が残っています。ですから穴山梅雪の妻・見性院が何故保科正之公(当時は幸松)を保科家に養子に出すことを提案したのかが気になっていたのですが、2009年に保科郷を再訪して理解することが出来ました。 そして何よりも、保科正之公の生母・お静の方の実家がキリシタンであったことは、『会津藩家世実紀』に残っている文書から明らかになっています。そして、お静の方は日蓮宗に帰依していたとされていますが、お静の方が幸松と共に伊那高遠へ移住した時にはまだ、宗門人別制度は施行されていません。そして、実に不思議なことなのですが、お静の方は幸松を生んだ後も、秀忠の側室になっていませんし、将軍秀忠には側室が一人もいませんでした。 そして、幸松は保科正光の養子になったのですが、保科正光の妻は真田幸村の姉妹でした。しかし、真田一族にキリシタンがいたことは、蒲生氏郷の重臣に真田隠岐守と記されている人物がいたことが、天正十九年蒲生家家臣帳に残っています。この真田家の城があった上田市真田町は保科郷の真ん中を上がっていく道を上っていくと、菅平に出て、そこから少し下ると戸石城があった一帯に出ることが出来ます。
2015.11.01
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