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明治35(1902)年7月22日の『墨汁一滴』は、松瀬青々(せいせい)の句「 甘酒屋打出の浜に卸しけり 」について書かれています。
子規は、河東碧梧桐が絶賛するこの句の良さがわかりませんでした。子規の疑問のひとつは「卸しけり」の使い方、もうひとつは初めの句に「甘酒屋」を置くことでした。
子規は碧梧桐に尋ねました。すると、「卸しけり」は甘酒の荷をおろしたという意味で、初句の「甘酒屋」については、通常の作法を打ち破ったところに良さがある」といいます。
誤魔化されているように感じた子規は、この句の良さをずっと考えます。一夜二夜過ぎて再び句をみると、ずっとよく思えてきました。
「甘酒屋」を初めの句に置くと句の主人公が明確になり、まるで千両役者が花道を出てきたような趣きを感じるようになります。主人公と「打出の浜」が定まっているのに、「卸しけり」の代りに「荷を卸す」を入れると、単なる普通の句になってしまいます。
「卸しけり」とすることで、甘酒屋が大きな打出の浜一面を占領したような風景が浮かんできます。そこが面白いと子規は思いました。最初はつまらない句だなと思った青々の句でしたが、子規は名句かもしれないと思うようになりました。
子規が生きた明治時代には、天秤棒に荷を担いで街を売り歩く甘酒屋が多くいました。季節は夏。陽射しのきつい海岸に来た甘酒屋が、ほんのわずかな日陰を見つけて荷を卸します。そんな暑さと涼しさが交差する夏の海岸風景が頭に浮かびます。
この句をつくった松瀬青々は、明治2(1869)年、大阪の大川町(現北浜)に生まれました。幼少より算術にすぐれていた青々は、第一銀行に入社して経理を担当していましたが、そのうちに俳句に熱中し、「ホトトギス」や「日本」へ投句するようになります。「ホトトギス」に掲載された「明治三十一年の俳句界」には「大阪に青々あり」と書かれています。
ちょうどその頃、高浜虚子は大腸カタルを発病し、「ホトトギス」の編集から遠ざかっていました。「子規にも負担をかけてしまう」と思った虚子は、子規に相談もせず、青々に「ホトトギス」編集に加わらないかと声を掛けました。
青々は、明治32(1899)年10月1日から、「ホトトギス」の編集に加わります。しかし、経理のプロの青々の手にかかると、「ホトトギス」の経理などすぐに終わります。しかし、編集はずぶの素人の青々には難しく、どうしても時間がかかり、失敗も多くなります。しかも、虚子は年長の青々を指図することに抵抗があり、二人の間にはわだかまりが溜まっていきました。
子規の門人たちも大阪から突然やってきて、「ホトトギス」の編集人になった青々には冷たく当たりました。東京に知人のいない青々は、現実の厳しさに直面したのです。 青々は、翌年の5月に大阪に帰ります。わずか7カ月の在京でした。
大阪に帰った青々は、朝日新聞社会計課に勤務することになりました。子規には変わらぬ尊敬の念を持ち続け、秋の時節には奈良漬をいつも贈りました。子規は「 奈良漬の秋を忘れぬ誠かな 」の句に「 大阪青々に酬ゆ 」の詞書を添えています。
青々は、虚子が主宰する「ホトトギス」とは距離を置くようになりました。虚子から声掛けされた「編集」という名の「甘酒」は、魅力的な香りにもかかわらず、よほど不味かったのでしょう。
『守貞謾稿』によれば、江戸と京阪の甘酒売りには違いがあり、江戸は真鍮釜、京阪は鉄釜を使うとあります。『塵塚談』には、甘酒売りはかつて寒い冬のものでしたが、今は暑い中に往来を売り歩くと記されています。
京坂(阪)はもっぱら夏夜のみこれを売る。もっばら六文を一椀の値とす。江戸は四時とともにこれを売り、一椀値八文とす。けだしその扮相似たり。ただ江戸は真鍮釜を用い、あるいは鉄釜をも用う。鉄釜のものは、京阪と同じく筥(箱)中にあり。京阪必ず鉄釜を用ゆ。故に釜みな筥(箱)中にあり。
『塵塚談』にいう、甘酒売りは冬のものなりと思いけるに、近ごろは四季ともに商うことになれり。我ら三十歳ころまでは、寒冬の夜のみ売り巡りけり。今は暑中往来を売りありき、帰って夜は売る者少なし。浅草本願寺前の甘酒店は古きものにて、四季にうりける。そのほかに四季に商う所、江戸中に四、五軒もありしならん。
栄養豊富な甘酒は、夏バテしたときの疲労回復に最適で、甘酒の季語も「夏」となっています。
松風に甘酒さます出茶屋かな (明治21)
甘酒の甘きをにくむ我下戸ぞ (明治30)
甘酒の釜の光や昔店 (明治34)
甘酒も飴湯も同じ樹陰かな (明治34)
甘酒や蟇口探る小僧二人 (明治34)
人の親の甘酒売を呼びにけり (明治34)
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