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『共に明るい』井戸川射子(講談社) 本書は短編集で、5つのお話が収録されています。 筆者は、2022年に芥川賞を受賞されており、それを挟んで、21年発表の作品が1つ、23年発表の作品が4つとなっています。 いわゆる、受賞後第一作を中心として作った短編集となっています。 そんな、新人らしいといえば新人らしい短編集です。 どんなところが新人らしいかといえば、それはいろんな文体上の実験をしている感じのところであります。 実は私は、この筆者の小説は、芥川賞受賞作は読んでいません。ただ、その前の野間文芸新人賞を受賞なさった小説は2回読みました。 そして、いかにも純文学作家らしい、文体にかなりこだわった作家だなと感じました。 そんな文体について、まず一番「外堀」っぽいところから報告してみますね。 それは、本短編集全体に広く点在している筆者独自の表記方法についてです。 また、上記にも触れた、野間文芸新人賞作にもそれがあったのではないかと、ちらりと思い出しましたが、本短編集においては、読んでいて、特に始めはかなり気になるというか、つい、引っかかってしまうように感じました。 ちょっと、引用してみますね。 踊る大きな木の躍動、遠くで上ずる子どもの声、どれも吹くものに作用され混ぜられる。風の音が最も大きく、耳が恐ろしく受け止める。湿る公園は土のにおい溢れ、こういうのを嗅ぐととうとう売ってしまった、先祖代々の畑を思い出す、でもどうしようもなかったと国語教師は思う。 いかがですか。この短い引用部だけでもかなり個性的な文体だなと感じますね。 後で触れますが、かなり強く主語や人称にこだわった一文の成り立たせ方を感じます。 でもこの引用部から私が一番に「外堀」っぽく指摘したいのは、読点の打ち方の際立った独創性です。 「こういうのを嗅ぐととうとう売ってしまった、先祖代々の畑を思い出す、でもどうしようもなかったと国語教師は思う。」の部分ですね。 ここには二つの読点が打たれています。 しかし、よく読むまでもなく普通の文章なら、一つ目の読点は打たず、二つ目の読点は読点ではなく句点だろう、と。 特に私が今回引っかかったのは、二つ目の読点の用法であります。(一つ目の句読点の用法は、ルール違反とまでは言えないと私も思います。)本短編集のすべての作品に、ここは読点じゃなく句点だろうという文が書かれています。 ではさて、それをどう考えるか、まさか、そんなことに気が付かずに筆者が用いているとはとても思えません。 別の個所を引用してみます。これは、主人公が職場にいる時、地震がおこるという場面です。 「揺れてるよね」と野中さんに言われ、初めて揺れていることに気づいたような、神経質ではないような素振りで、彼は辺りを見回す動作をする。本当はさっきの、とても小さな揺れの音から気づいていた、彼は地震に、細心の注意をいつも払っているから。今でも寝る前には一度、体の揺れを想像してから目を閉じるから。突然に驚かされぬよう、ベッドが揺れてたわむような感触を、来るであろう縦揺れか横揺れか、感覚だけでは分からないのを、背中で想像してから眠るから。部屋で一番責任ある主任が、「机の下潜るで」と指示を出す。遠慮する動作になる彼が、隙間を縫い最後に入っていくと机の下はパンパンになる。救急車の音が聞こえる、彼は救急車に乗ったことがない。その車内にいれば、サイレンは上から聞こえるのだろうかと彼は考えてみる。外からの複雑な機械の音は止まらない。袖口が手首に当たる、動きにより作業着の布はもう手首に馴染んできている、それで頭の横を庇ってみる。 少し長めの引用になりましたが、ここにも「本来句点じゃないか読点」は散らばってありますね。(「袖口が手首に当たる、動きにより作業着の布はもう手首に馴染んできている」の読点は「いらない読点」とも読めそうですね。) でもそんな不思議な読点ばかりじゃなく、いわゆる行替え、形式段落もきわめて少ない文章ですよね。読みやすい文章を目指すなら、二つくらいは段落わけがあってもいいような内容です。 それから、現在形の多用も気になるといえば気になります。この現在形の多用も後で触れますが、筆者の個性的な文章の大きな特徴であると思います。 という、かなりこだわりの感じられる筆者の文体ですが、ただ、不思議な読点については、こうして数を読んでいけば、なんとなく筆者独自ルールみたいなものが感じられてきます。 あ、こんなルールで不思議な読点は打たれているんじゃないかと、我々読者にも、何となく思わせてくれるんですね。 だから、まー、私はこの不思議な読点を「外堀」と書いたわけでありまして、この先には、形式だけではない「内堀」の問題と考えられる表記がある、と、そんな思いであります。 ただ、だからと言って、この不思議な読点使用は、文章を読む者としてそんなに簡単に納得していいものであるとは思っていません。 要は、トータルな日本語表現に、文章作者が自分だけの勝手なルールを付け加えていいのかということであります。 私が思うに、この不思議な読点は、従来の読点よりは「拍」が長く、句点よりは「拍」が短い空白を示しているのではないかという解釈です。 もちろんそんなルールは、従来の日本語体系にはありません ……で、わたくし、あれこれ考えたんですね。 今までにない日本語表記ルールを新たに考え出した小説家はかつていないのか、と。いないなら、そんなことを勝手にしていいのか、と。 で、私なりの結論ですが、たぶん、いいのだろう、と。 あれこれ考えましたが、ざっくり一点極端例を挙げますと、明治初期の言文一致運動、つまり、近代小説の起こりが、すでにそうではなかったか、と。 ……と、まあ、最後はすこし大きな話、というか焦点のぼやけてしまった話になりましたが、実は、私が本短編集で、興味深く思った筆者の文体実験については、まだ全部触れていません。 すみません。次回に、あと二つ、そんなことを考えてみたいと思います。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.02.08
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『海峡の光』辻仁成(新潮文庫) 私はこの文庫本を、古本屋さんで見つけました。筆者については少しは知っていたのですが、裏表紙の文章に、芥川賞受賞作と書いてあって、私は芥川賞受賞作にも少々興味があったので買ったんですね。で、その時もなんとなーく、変なカバー表紙の絵だなあと思っていたのですが、読み終えて改めてその絵を見ると、なるほど、内容にふさわしいといえばふさわしい、やはり何とも気持ちの悪い変なカバー絵になっているな、と。 一言でいえば、この小説は、少し気持ちの悪い変な小説です。 まず、読んでいて、よくわからないところが、かなりありました。それは、ある部分の描写や説明がよくわからないというのではなくて、展開そのもののつじつまが合わない、あるいは、普通に読むにはあまりに説明がなさすぎるというレベルのわからなさであります。 しかし、読んでいると途中からなんとなく気が付くんですね。筆者はわざとそんなお話を書いているんだと。 遡っていけば、わざとだとなぜ気が付くかというと、そもそもの作品の設定が、説明ができない構造になっているからであります。 刑務所刑務官が「私」という一人称で、本当の主人公「花井」はそこの受刑者です。 そこでは、刑務官は不必要に受刑者に話しかけないし、受刑者同士も不必要な会話をしてはならないことになっています。つまり、作品本文の中にほとんど会話文がありません。 こういった設定では、主人公「花井」の行動は(見て)描けても、心理は描けません。そして、「花井」の行動と心理(これは推測するしかないのですが)の乖離(非論理性)こそが、多分、本作のテーマでありましょう。 例えば、一般的な非論理的な行動というものを考えてみます。 我々(人間)の、理屈が付かない非論理的な行動というものは、実は日常的にけっこうたくさんありますよね。ついカッとなってとか、そんなつもりはなかったのについふらふらととか、後になって後悔する、過ちや犯罪系の行動に多いですね。 また、お酒やある種の薬によって、あるいは病気のせいで、理性的なものが弱っていた、そんなケースもあると思います。 でも、そんなケースは、このようにまとめてしまうと、それなりに納得がいきます。 非論理的な行動だけど、一定の論理が成立するんですね。 しかし、私が本作について理解したのは、本書は、そういったケースではない、いわばもっと「純粋な」非論理的行動についてのケーススタディではないかということであります。 でもそんな作品は、例えばシュールレアリスムの文学として他にも書かれてはいないか、そんな気が私もしました。 で、少し、じーと考えたんですね。 まー、もの知らずなわたくしの知識ですので、そうでもない例もあるかとは思いますが、いわゆるシュールレアリスム文学に描かれるのは、主人公を取り巻く状況がそうなのであって、主人公の心の動き自体がシュールなのではない、と。 本作のシュールさは、むしろ絵画的な感じ、例えばダリやポール・デルヴォーの絵のような感じがします。 さて、では我々読者は、そんなお話を、どういったものを手掛かりに読んでいけばいいのでしょうか。 主人公の心理描写がなく、それを類推させるものもなく、いえ、それを類推させるはずの言動(「言」はきわめて少なく)からの類推がほぼできない(わたくしには非論理的すぎてどうも理解できない)という「読書環境」であります。 んんーー、と、まぁわたくしは、少し困ったんですね。 で、ちょっと考えたのですが、ふと、こんなことに気が付きました。 実は本書を読んでいて引っかかったのは、上記のような構造的な不可解と、もう一つあったんですね。 それは、いきなり出てくる、それまでの用語とは異なった、かなり違和感を感じさせる「古臭い」漢語であります。 例えば、下記は「私」が高校時代を振り返った時の女性関係の話の部分ですが…。 負けず嫌いの真知子と交接を持った後も、君子を手放したくなくて彼女の気を引くような振る舞いを取り続けた。 下記は、「花井」について「私」が考えている部分。 ただ、あの温和な顔つきの裏側には、依然として人倫の道を超える企みが隠されている気がしてならなかった。 いかがでしょう。どちらも短い抜き出しなのでよくわからないかもしれませんが、前文の「交接」、後文の「人倫」の漢語について、私は前後の文の流れとまるでトーンの合わない奇妙な(取ってつけたような)用語だと思いました。 極め付きは、物語のほぼラストシーンのこの部分です。 シャベルで土を掘り起こし、そこに植物の種を万遍なく蒔く花井の姿からは、超俗した者の間雲孤鶴な静けさのみが滲み出ていた。 この四字熟語の用い方って、何よ? ……例えば、喜劇のせりふや落語などで、いきなり文脈を越えて不似合いな漢語表現を出してくるというのは、一つの笑いのテクニックとして割とよく用いられているように思います。(今は亡き桂枝雀師匠は、得意の英会話をいきなり落語の中にぶち込んで、しばしば大爆笑を買っていました。) また、流行歌の歌詞にも時にその技法に似たものが用いられ、その相応しくない言葉の部分に、一種異化効果的な「華やかさ」を引き出したりします。 ……「流行歌の歌詞」。……確か筆者は、ロックシンガーで……。 さて、なんとなく私の理屈の落としどころが見えてきたかなと思いますが、ひょっとしたら、本書理解の手がかりについて、筆者は、我々読者にこうアドバイスしているのかもしれません。 そんな、額にしわを寄せて理屈を探して読んでいても仕方ないですよ。例えばポール・デルヴォーの、あのヌードの女性が静謐の町を飛び跳ねる不思議な絵は、そんな不思議な世界のものなのだと、そのまま興味津々に味わえばいいんじゃないですか、と。 いえ、わたくしの妄想でありますが……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.01.25
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『さようなら、ギャングたち』高橋源一郎(講談社文芸文庫) 筆者高橋源一郎氏については、私は拙ブログで再三とっても好きな作家と述べています。本書も、単行本が出版されてほぼ直後に買いました。裏表紙に、オーバーオール・ジーンズをはいた若き日の高橋氏の写真があったのを覚えています。 覚えていると書いたのは、その本はすでに我が家の本棚にないからです。まー、売ったか棄てたんでしょうねー。 と、やや無責任なことを書きましたが、私は時々発作的に本棚の整理をするんですね。どんな本を整理するかといえば、これも、まー、その「発作」時に残した本こそが我が文学的評価においてベストである、つまり、棄てた本は、我が文学的評価において本棚の空間の一部を占めるに及ばないと考えた、……と、まどろっこしい書き方をしてしまったのは、大概いつも、書物大整理イベントが終わった後、なぜ私はあの本を捨ててしまったのだろうと、激しく反省するからであります。 さて、そんなこんなで本書が手元にないものですから、図書館で借りてきました。で、読みました。今までにたぶん、2.3回は読んだいると思うのですが、やはり今回もそれなりに面白かったです。 ただ、なぜ面白かったのかについて、やはり少しはかつてより成長した読書力を示さねばならぬという気が、まー、起こりました。そんなつまらないものを起こす必要は、実はなかったのかもしれませんが、このような文章を書いている以上、私としては、それしか手掛かりはなく、ぼつぼつぼそぼそと以下に書いてみます。 まず本書が、いわゆる「ポストモダン」小説である、と。 これはウィキなんかにもそう書いてあります。ところが、この「ポストモダン」というものの説明が、かなりアバウトな頭の作りの私には読んでもよくわかりません。そもそも私は思想とか哲学とかとは没交渉の人生をずっと送ってきたんですね。(と、最近はちゃっかり居直ったりしています。) 仕方がないので、ウィキの説明中、これは本書の特徴といえそうだなー、と思われる表現をいくつか拾い出すにとどめました。こんな感じ。 大きな物語への不信・モザイク・遊び心 挙げようと思えばまだ挙げられるでしょうが、とりあえずここまでにしておきます。 ところがえらいもので、この3つの短い表現だけで、本作のほとんどは説明されてしまうんですね。ここは、これです。こちらはこれに当たります。あれはそれですね。……。 で、私は少しあきれました。 しかし、そんなことはないだろう。たった三表現だけで、本書の魅力がすべて説明しきれるというのは錯覚だろうと、思い直しました。で、考えました。 確かに、レッテルはそれで貼れたとしても、それはその内容を全く説明していない、と。 うーん、これも当たり前ではありますねえ。 たとえば、これはウィスキーです。これも、こちらも、あれも、別々の会社が製造したウィスキーです、と、決して間違ってはいないことを言っても、個々のウィスキーの一番大切な部分についてはなにも説明していないのと同じであります。 で、あれこれ考えまして、最後にたどり着いたのは、結局最初の問いの堂々巡りになりますが、私にとって本小説の一番好きな部分はどこだ、とぱらぱらと読み直すと、ふたつ、出てきました。 SBとの愛の生活・キャラウェイの話 じーと睨んで、そのあと私なりにまとめてみますと、結局のところ本書は、この二つの明らかな意味と構造のあるストーリーを、詩についての様々な逸話による説明と共に、多くのモザイクの中に紛れ込ませて描いたものである、と。 まずそのモザイクに描かれているものは、固有名詞と隠喩(「ギャング」は最大の隠喩でしょう)の氾濫・言葉の誤選択・文脈のすり替えなどであり、そして、中心にある二つの物語とは、みずみずしさと圧倒的な哀感の漂う物語らしい物語である、と。(そんな意味でいえば、高橋作品は「大きな物語」は否定しても、物語性そのものについては全く否定していないことがわかります。) さてこうまとめてみると、結局、高橋作品についてよく言われる特徴の読書報告になってしまいました。 しかし、本小説は、筆者のデビュー作であります。ということは、小説を書き出した時点から筆者はすでに、いつまでも色あせない、完成度の高い独創的なフォルムを持っていたということでありませんか。 やはりそれは、驚くべき才能でありましょう。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.01.11
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『しょっぱいドライブ』大道珠貴(文春文庫) 実は我が家の本棚の隅っこに隠れていた(隠れていたってことは、ないでしょうが)文庫本でありました。 手に取ってホコリを拭いて見てみますと、薄っぺらいし、さくっと一気に読んでみました。 で、読んだ後、なんとなく似た雰囲気の小説(本作もそうですが、芥川賞受賞の女性作家の小説)が浮かんだので、少し調べてみました。 本作(この文庫には3つの小説が収録されていますが、総タイトルとなった小説が芥川賞受賞作品です)は、2002年に芥川賞を受賞しています。 私が、よく似た雰囲気と思ったのは、津村記久子(2008年受賞)とか、本谷有希子(2015年受賞)とか、村田沙耶香(2016年受賞)なんですが、比べてみると大道珠貴が10年ほど先んじているのがわかりますね。 併せて気が付いたのですが、この大道珠貴の受賞あたりから女性作家の芥川賞受賞数がぐんぐん増えて来て、近年ではもう圧倒的女性優位になっているのではないですかね。 これは良い悪いの話ではないでしょうが、どんな世界においても、その世界で褒められる性に偏りがあるというのは、短期的にみれば、あまりよくないのかな、と。(短期的と書きましたが、改めて書くまでもなく、おそらくは文学においても、長い歴史スパンの中では圧倒的女性差別的期間があった事にちょっと触れているつもりであります。) で、「似た雰囲気」というのは、これも一時言われていた言葉のようですが「こじらせ女子」的な雰囲気のことで、脱力感、虚無感、自己肯定感の低さあたりを私は本作にも感じました。 ただ、主人公の描かれ方の底に流れているのはそういったネガティブなものであっても、例えば上記に並べた女性作家たちは、それらの感情や人間性を、小説に仕上げるにあたってきわめて達者に描いているという気がします。 だから読んでいて感情移入がしやすく、ユーモラスであったり、適度に癒されたりして、ほどほどの好感度が得られたりする、というのは少し意地悪な見方でありましょうか。 この度取り上げている短編集も、自分の年齢の倍以上も年上の男と同棲する30代の女性の話であったり、二十歳を越えてなお、小学校時代からの明かな主従関係の元に付き合ってきた同性女性(こちらが「主」)との話とか、ややまっとうではない(「まっとう」とは何かというのはそれはそれで難しくはあるのですが)、「こじらせ」系の主人公を描きながら、その描き方は、とてもテンポがよく、会話のやり取りなどを読んでいると、本当に達者だなあと感じさせるものです。 そんなふうに、本作は芥川賞「こじらせ女子」系作品の先達、とまとめることができるのかな、と思いました。 ただ、そんなことをぼんやりと、かつ、じっと考えていますと、やはり少し物足りない感じが残りました。 「こじらせ女子」系の話が、新しい作家の間に結果的に多く輩出されたということは、やはり時代を映していることでありましょう。 例えば、近代日本文学史のなかで、古くは「浪漫主義」「写実主義」などから「白樺派」「新感覚派」とか「第三の新人」「内向の世代」など、限られた時代に似通った作風の作家が現れるのは、やはり時代の要請と捉えることができると思います。 そんな意味で考えれば、芥川賞に女性作家の花盛りである現代というピリオドも、やはりそんな時代を表しているのだと思います。 ただ、私がどうも少し物足りなく思うのは、描かれる「こじらせ」人間関係の原因が、主人公(個人)の資質の枠からほとんど踏み出されていない感じがするところであります。だから、時代や社会の要請だとは思いつつ、そこに時代や社会を描く広がりが感じられない。 あるいはそれには、別の要素もあるのかもしれません。文学がもはや、時代や社会の諸問題と正面から有意に切り結ぶ力を失ってしまった、ということなのかもしれません。 ただ、そうだとすると、後に残るのは感性しかないのか、いや、そんなこともあるまいと思いつつ、せめてもう少し背筋をピッと伸ばして正面を見ているような主人公の姿や、それなりの大きさを持つテーマを、私などは読んでみたいと思うものではありますが……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.12.29
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『間違いだらけの文章教室』高橋源一郎(朝日文庫) さて、高橋源一郎氏であります。 現役の文学者の中で、私がとっても信頼している方のひとりであります。 そんな作家の文章教室を読むのですが、タイトルがもうすでにひとひねりもふたひねりもしていますね。でも私は最初はあまり気にしなかったです。だって高橋さんの本ですから。 そう思って読み始めたのですが、なんかだんだん、どうも読みづらく感じてきたんですね。引用がとても多くて、そこから筆者のいわんとしていることが、何といいますか、まどろっこしく感じられました。 このまどろっこしさは何だろうと少し考えてみましたが、感じたことをちょっと強めに表現しますと、あなたはひとり分かっているかもしれないが私にはまるで分からない……何だか「上から目線」的、……いえ、フェイヴァレットな高橋本ですから、この表現ほどには強くは感じてないのですが、しかし違和感的なものが残りました。 気になったのでちょっと止まって考えてみました。 ふたつ、思いつきました。 まず筆者が例として取り上げたその文章が、いかにも高橋氏が引用しそうな文章だということはわからないでもないですが、やはり一種「キワモノ」めいたものでないのか、ということです。 それは、遺書(かなり特殊な状況下の遺書)であったり、小説の一部(これもかなり特殊というか、極端に独創性の高い小説の一部)であったりしています。 それらを通して筆者が言いたいこととは私の二つ目の思いつきの内容なのですが、それは後述するとして、かなり特殊な文章を例示するにあたって、高橋氏自身は身を引きながなそれを放り投げたとでもいう感じがしました。 身を引くとは、これは一種「キワモノ」めいた文章を読者に提示する経過について、ひょっとしたら必要以上にへりくだった表現になってしまったんじゃないかということで、その書き方が、ややまだるっこしく、やや独善臭がして、そして結果としてやや「上から目線」的になったのではないかと、……まー、わたくしの愚考であります。 で、二つ目の思い付きですが、それは上記にも少し掠っていますが、いくつかの文章を取り上げて、それを通して筆者がどんなことを言いたがっているかということであります。 それはたぶん、人はなぜ文章を書くのか、ということでありましょう。 なるほど、いかにも高橋源一郎的でありますね。 物事の核心に、いきなり迫ってきています。 もちろん一番重要なのは、森羅万象あらゆる事柄において、その通りなのでありましょう。 しかし、どこか、肩透かしを食らったような気がします。 と、そこまで思って、はっと気づいたのが、冒頭に触れたタイトルについてでした。 少し極端な言い方をすると、この教室は文章教室ではなくて、文学教室なのではありませんか。なぜ書くかという問いは、文章の問いというよりも、遥かに文学の問いであります。 料理学校に習いに行ったら、化学式ばかりを教えられた、いえ、大切な体の栄養に関することですから、化学式を教えてどこが悪いといえばそうなのでしょうが、そんな難しいことはとにかく、仕事の上で必要な文章を書きたいだけですという人は、少し白けやしないかということであります。 というようなことを中盤あたりで考え考えしながら読んでいました。 でも、高橋氏といえば、おそらく今の日本の文学者の中でも一二を争うような「文学好き」な作家でありましょう。文章を論じて文学に入っていくのは必然、というか、私にとっても願うところであります。 そのようにしてタイトルのこだわりを外して読んでいきますと、やはり高橋氏であります。後半は、哀愁溢れる文学話になっていきました。 文章=文学テーマについて、筆者の主張は短くまとめると下記の引用にほぼつきます。 鶴見俊輔の文章を引用し、その解説のまとめあたりの部分です。 鶴見さんの「文章」を読んでわかることは、「文章」というものが、そもそも「教室」というものから、教えたり、教わったりすることから、かけ慣れていることだ。「それを知れば、十年は使える」やり方が、「文章」にあるなら、ぼくたちは教わりたい。ぼくも、教えたい。 けれど、そんなものは、ないのである。 この後ももう少し重ねて説明をし、そして2頁ほど後ろに、このようにまとめてあります。 その時、ぼくたちは、気づくのである。 そこに、鶴見俊輔という、ひとりの、誠実な人間の「人生」、その「物語」があり、ぼくたちは、「文章」を通じて、それを読んでいたのだ、と。 いかがでしょう。 やはりいかにも「文学マニア」高橋源一郎的ではありませんか。 「弘法筆を選ばず」とは、いろいろ問題を含んだことわざだとどこかで読んだ気がしますが、すぐれた文学者は形式・内容、何を語っても、やはり優れた文学性を表す、と、……いえ、そもそも私は高橋氏の本のファンでありますから。 この読書報告も、今はやりの言葉でいえば、「推し活」(!?) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.12.14
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『苦役列車』西村賢太(新潮文庫) えー、困った事やねー、と思いながら書き始めました。 それは、まー、何についても同じでしょうが、小説についても(作家についても、と言ってもいいかもしれません)、やはり相性、好き嫌いというものがあるということですね。 そんなことは当たり前ではないか、どうしようもないことだと、わたくしも一応は知っているつもりで、この拙ブログにおいても、どうにも個人感情によるネガティブ意見しか書けそうもないと思ったときは、その小説は取り上げないでいました。 今回、好みでないと思いつつ、冒頭の小説を取り上げてみます。 なぜかというと、自分でよくわからないところがあるからであります。そのことについて少し考えたいというのが、主旨でありますが、勢い感情的なネガティブ意見になってしまったなら、非常に申し訳なく思っております、が……。 というわけで、冒頭の小説を読みました。この作家の小説は初めて読むんですね。 そもそも初めて読むと、ちょっといろんなところで誤解を生みそうな書き方を、そもそもこの作家はしていそうだと、読んでいて気が付きましたし、ネットでちょっと調べてみても、やはり同種の感想がありました。 まー、小説とは何をどう書いてもいい文章表現なので、そんな戦略(作品がすべて連作的な関係を持つという戦略)の作家がいてもそれは良い悪いの話ではありません。(大江健三郎の作品なんかずばりそうですものね。) そんな部分もあるんだろうなとは思いつつ読んだのですが、私がどうにもいやだったのは、その文体(文体、というのでしょうかね、やはり)というか、書き方でありました。 はっきりきわめて個人的感情のレベルのことを書けば、とにかく文章がいや、読みにくいのではなくて、こんな文章は読んでいたくない、というものでありました。(客観性に欠け説得力のない書き方になってしまってすみません。) 何といいますか、私としては、しばしば出てくる陳腐な慣用表現や、文脈の中にとても座りの悪い用語(特に漢字熟語)などが、気になって気になって、とにかく嫌だったです。 で、あまりに「嫌さ」が感じられるものだから、なぜ私はこんなに嫌なんだろうかと思ったんですね。すると、ここにはなかなか興味深いものがあるんじゃないかと感じ、ネガティブ感想になるかなと思いながら書いてみました。 まず、主人公は中卒学歴の19歳の男性なんですね。時代は昭和の終わり頃ですか。 これらは筆者の実際と重なっています。と、いうか、この筆者は自分の小説は私小説であると宣言し、一種それを売りにしているようであります。 だから、中卒学歴の19歳の書いた文章なのだから、というところでわざとそんな稚拙な書き方をしているのかとは、当然考えられるのですが、そのあたりをじっと考えますと、わたくしとしては、なかなか興味深いテーマが浮かんできました。 まず、文章力などとてもありそうもない主人公を描いた作品は、わざと下手に書くのか、という問題であります。 その前に、「人称」の問題がありますが、それは後述します。本小説についていえば、人称の問題は、なかなか興味深い用いられ方がされていますから。 具体的に例を挙げてみますね。 例えば芥川龍之介「藪の中」。この小説は何人かの登場人物の弁明(語り)から成り立っていますが、その中の一人殺人者である盗賊の語りは、きわめて理路整然と描かれています。つまり、現実ではあり得ないだろうかということでも、文章表現という場合においては、その形こそがリアリティだと、我々は読んでいることがわかります。(中卒学歴の19才だから下手くそに書けばいいとはいえない。) 例えば絵画でいうならば、色彩的センスのない人物を描くときでも(まー、そんな人物を描く絵画があるとしてですが)、画家は、しっかりとした色彩でその人物を描くべきなのではないか、ということですね。 少し話は飛ぶかもしれませんが、逆の照明を当てて考えてみて、こんな例示が浮かびました。『徒然草』第85段に、有名なこんな文章があります。 狂人の真似とて大路を走らば、すなはち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。 いかがでしょう。 少し例示がずれているような気もしますが、拙いふりをして拙く書いた文章は拙い、……んでしょうかね。 さて、上記に「人称」について少し触れました。 二つ目の私の疑問は、本作の人称についてであります。 本作は「私小説」を自任しつつ、実は、三人称で書かれています。 主人公の名前は「北町寛太」で、「寛太」「彼」で一貫した完全な三人称小説です。(ただし、ある種の三人称小説にしばしば見受けられますが、三人称でありながら、神の視点を持つ語り手がいるのではなく、主人公の視点に近い心理説明などがなされます。) 私小説でも別に三人称でも構わないと思います。 ただ、三人称ということは、中卒学歴19歳の主人公とはやはり異なった視点の語り手(これは作者と完全に重なるというわけではありません)がいるわけで、この「人物」の書く文章まで稚拙にする必要が、あるのでしょうか。(どうしても稚拙にしたければなぜ一人称で書かないのでしょう。) ……と、ここまで書きましたが、私は一方で、実は作者はそんなことは皆お見通しで、その上にやはりこの形で本作を書いたのだという気もしています。その根拠は何か。 まず一つ目は、現代という時代に私小説を書くという戦略であります。 現代において、一般的にはすでに私小説なぞ息の根が止まっているという感じがまず前提にあって、にもかかわらず何人かの作家は私小説を書いています。そしてそんな作家の作品は、ことごとく、かなり技巧を凝らした私小説であると私は思っているからであります。 そして最後に二つ目です。 それは、いくつかの不明の要素があっても、本作の主人公の、生殺し・生き腐れのようなカタストロフィーを書くため、見つめ続けるためには、やはりこの描き方こそがベスト!……と考えるものなんですが……。 だとすれば、本作はなかなかの問題作、力作でありましょう。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.12.01
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『日の砦』黒井千次(講談社文庫) まず、タイトルが、純文学っぽいではありませんか。 『日の砦』ですよ。何の意味なんでしょうね。雰囲気はいかにもありますが、具体的には何を表しているのかよくわかりません。 加えて、筆者が、いわゆる「内向の世代」と文学史的には派閥分けされる黒井千次であります。「内向」していく「世代」なんですね。 この筆者の作品は、私はそんなにたくさん読んだわけではありませんが、『群棲』という連作形式の短編集に、かつてかなり感心した覚えがありす。 今回の本も、この文庫本の裏表紙の作品紹介(作品宣伝)の文章を読むと、こんな風に紹介してあります。 家族の穏やかな日常にしのびよる、言いしれぬ不安の影を精緻に描き出した連作短編集 なかなか煽った文章ですね。 その上、冒頭に触れたようにわけわからぬながらいかにも純文学っぽい『日の砦』タイトルですから、これはもー、きっと『群棲』の感動再びの小説ではないか、と。 まー、そんな風に思って私は読み始めたのでありました。 全話をほぼ20頁ほどに統一した10篇の話による連作短編集です。 私は、一つ目の「祝いの夜」を読みました。 おもしろかったですねー。とても良かったです。 一つの物語空間が始まろうとしている描写が、ゆっくりしっとりと展開され、そしてそこに予想通り(作品宣伝文の紹介通り)、「しのびよる」「不安の影」らしいものの存在が、終盤ふっと現れてさっと消えていきました。そこには、いかにもという雰囲気がありました。 そして私は、二作目、三作目と読んでいきました。 悪くはなかったです。でも読み進めていくと、まー、当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが、やはり『群棲』のずっしりと重い存在論的な不安感とは違った感覚でありました。 10篇のうち、前半は、素材が少し薄味に過ぎるせいかなと、私は思いました。 作品のまとまった余韻というには、やはり描かれていることが微細すぎて、受ける思いが弱く、固まってこないように感じました。 ところが、そんな感覚の話が、六つ目あたりから少し変わってくるんですね。 どこが変わってくるかといえば、それは、還暦を過ぎ定年退職をした主人公の男性が、実際にいろいろ動き出すことからであります。 それは例えば、町で見ず知らずの男の後をつけてあれこれ世話をしようとしたり、カラスと戦闘状態に入ったり、とにかく、知人でもない人物とやたらに話をする(話しかけたり話しかけられたりする)、そんな展開になっていきます。 そのように変わっていくと、話のトーンもやはり大きく変わっていきます。 私は、主人公の変貌に、思わずこれではおせっかいな男の滑稽話じゃないかと独り言ちてしまいました。 私はそう思って、第一話「祝いの夜」の主人公の姿はどこへ行ったのだろうと、もう一度パラパラと第一話を読み直してみると、あ、と気が付きました。 第一話は、夜に家族でタクシーに乗り、その運転手と少し不気味なやり取りをするという話ですが、その運転手の不気味なセリフを引き出したのはことごとく、の還暦すぎの主人公の、あらずもがなの一言ではありませんか。……。 ……んー、とわたくし少し考えたんですね。 で、勘違いしていたことに気が付きました。 私は、『日の砦』という(純文学的)タイトル、内向の作家という筆者の位置づけ、そして、この文庫本の裏表紙の作品紹介宣伝文に勘違いしていたのであります。 おそらく、本短編集で筆者が狙ったのは、同じ「不安」ではあっても、人間存在そのものに繋がってくるような不安ではなくて、むしろ世俗的な日常生活に次々起こる些細な「トラブル」を、煩わしく思い戸惑う姿を描いたのではなかったか、と。 例えば、存在論的不安や恐怖を描いて、日本文学における第一人者は、多分内田百閒だろうと思います。また、家族間の日常にしのびよるやはり不安を描いて名作であるのは川端康成の『山の音』(これも連作短編!)だと思います。 この度の本作は、(作品完成度比較は少し置くとして、)これらの作品とはまた少し異なった新しい時代の日々の「不安の影」なのかもしれません。 だとすると、本文庫裏表紙の作品紹介文章は、さほど不正解なことを読者に期待させているわけでもなさそうであります。 (ただし、家族を描きながら、家族間の心情の食い違いについて、ほとんど触れられていないのは、やはり「不安」の中心に踏み込めていないのではないかという気は、わたくし少しするのでありましたが。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.11.17
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『ワーカーズ・ダイジェスト』津村記久子(集英社文庫) 「ワーカーズ・ダイジェスト」って、どんな意味なんでしょう? そう思って、少しネットで調べると「ワーカーズ」はともかく、「ダイジェスト」について、「要約」「摘要」「梗概」などの日本語が出てきます。 大概外国語のセンスのない私ですが、それなら、「勤労者というもの」「典型労働者」……うーん、本当に翻訳のセンスがないですねぇ。 とか思いながら読み始めたのですが、読みながら次に思ったのは、そもそもこのお話はいったいどんな読者層が読むお話なんだろう、という事でした。 まー、そんなことを思うという事は、おのれはちょっと中心読者層から外れてるんじゃないかと感じているってことですかね。 まー、そうかもしれません。 20代後半から30代くらいの都会で勤める女性、あたりが主な読者層ですかね。 (ついでの話ですが、30代位の女性というのが現在一番小説本などを購入するのだと何かで読んだような気がします。) なぜそんなことが言えるのか。 主人公がそうである(半分は同年代の男性主人公の話ですが)というのを前提にしつつ、(1)食べ物の話が多い、(2)大きな事件は起こらない、そして(3)エンディングの緩い肯定感、あたりでどうでしょう。 最後の、緩い肯定感というのは何なのか、例えば本文ではこんな感じで書かれています。 来年は、彼らも私も、もう少しだけましになるだろうと、奈加子は形式的に思いながら、二つの鍋の火を止める。あとは少しずつ回復できればいいと思う。それまでのレベルに達することができなくても、それを受け入れられるようにはなるだろう。そしてその時その時のベストを尽くせるように、後悔のないように、心持ちを整えられるようになるだろう。 そして、半ページくらい後にこんな一文があります。 音楽が鳴り始める。何の根拠もないけれど、自分は自由だと感じた。 いかがでしょう。 この個所を読んだ、想像最大多数年代層読者はきっと、圧倒的な共感と健全な小さな明日への希望を胸に抱く、と。 ……えー、ちょっとなんか変な展開になってきたので、少し別の方面のことを書いてみます。 特に前半あたりを読みながらわたくし、そうだったんだと気づいたことがありました。 これは、上記の、中心読者層の圧倒的共感とも関係することなんでしょうが、この筆者の文体は、「村上春樹的読者殺しキメ文体」(今思いついて作った造語です。すみません)ではないか、と。 特に初期の村上春樹は、マニアをとろけさせるようなエピグラム的文体、それは対象を説明する時の斬新な切り口と、それを文字化する時の圧倒的な比喩力が、本当に作品の随所に散らばっていました。 ひとつ、デビュー作『風の歌を聴け』から抜いてみますね。 かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。 高校の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることができない人間になっていることを発見した。 それがクールさとどう関係しているのかは僕にはわからない。しかし年じゅう霜取りをしなければならない古い冷蔵庫をクールと呼び得るなら、僕だってそうだ。 次に、本書から引用してみます。 せっちゃんは十か月ほど前に、三年付き合った人と別れた。いい人だったけれども、賭け事が本当に好きで気前が良すぎる人だったからだそうだ。三年間、彼の預金残高が五千円を越すことはなかったのだという。せっちゃんはお金を貸しそうになってしまい、でもそれは駄目だと思って別れたのだそうだ。その前の彼氏は、働かない人だった。 いかがですか。 とてもよく似ていますね。どちらも、「キメ台詞」「殺し文句」という感じで、私はとっても好きです。この津村節も、きっと30代都市勤労女性の好むところだと思うんですがね。 で、さて、そんな文体で、筆者は何を描こうとしたのか。 例えば村上春樹『風の歌を聴け』なら、ざっくり人間存在の根源的孤独なのかもしれません。 津村記久子なら、何でしょう。あえて言えば、労働現場の人間不在、でしょうか。 ただ本書は、上記で私があれこれ思ったように、対象読者層をかなり絞った感じがあるせいで、かなり限定的な環境の人物の生きづらさといったものが、より前面に出ている気がします。 もちろんそれは、全く悪いことではありません。 それこそは、現在最もたくさん小説本を購入する読者層の、おそらくは最も好まれるテーマであるのでしょうから。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.11.03
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『琉球処分・上下』大城立裕(講談社文庫) タイトルに「琉球処分」とありますが、この語は本小説独自のものではなく、歴史用語であるようです。例えばネットの本屋さんで検索しますと、この単語をタイトルに用いたたくさんの書籍が現れます。 本書の下巻(上下巻で1000ページにも及ぶ長編小説)解説に、こう書かれています。 金城正篤氏(琉球大学名誉教授)は、琉球処分について、〈明治政府のもとで沖縄が日本国家の中に強行的に組み込まれる一連の政治過程をいう。〉と定義する。 明治維新後の廃藩置県において、なぜ琉球だけがやや別藩と異なった対応となったのかについては、まず、琉球がそこに至るまで長く独立した別国家であったという点が一つ、もう一つは本書の筆者による「あとがき」にこう触れられています。 琉球=沖縄が、日本にとって国内軍事植民地としての重要な価値を持っていて(略) この今に至るまで沖縄を「軍事拠点」(本文中用語)と見る視点に対する危惧は、同じく本文中には作品中の時間設定として、このようにも描かれています。 いずれ日本政府が、これまでの中国より以上に恩恵をたまわるといっても、なにか、にわかには信じがたい。いや、恩恵そのものは確かにあるかもしれないが、信に琉球の人民をいつくしむ志をもってのことであるかどうか。 上記に私は、「琉球がそこに至るまで長く独立した別国家であった」と書きました。 もちろん、そのような現実の歴史的経過をどう考えるべきなのかは、本作品の極めて重要なテーマではあるのですが、同時にそれが「別国家」であったことの記述が、本書の小説としての面白さの核になっています。 そんな「別国家」の特質を、筆者は、本作の各章のタイトルにとても巧妙に表しています。たとえば、 「ぼんやり王国」「外交だらけの国」「ただふしぎな蒙昧」…… 特に私が興味深かったのは「外交だらけの国」という表現で、例えばこんな個所があります。琉球国王に家臣が進言する部分です。 古来わが国は外国に向かっては、頼り、こいねがうだけが道。薩摩だけにはそれも利きめがありませんでしたが、中国はいつでもそれを聞き届けてくださいましたし、日本政府もどうやら、大きなことを言うだけに島津よりはいくらか御しやすいものと思われます。ここまで引き延ばしてきたのですから、あと一息で我を折るに違いありません。そうすれば、おのづからまた活路はひらけるというもの。 この対応の巧妙さは、本書において再三触れられているのですが、それに対する当時の日本側対応人物の視点では、例えばこんなふうに描かれます。 (略)けれども、琉球の使節にはそれがあるとは思えない。あの表情にはひとかけらの偽りも感じられないが、真実自信のない表情にみちみちているのだ。すると、自信のないねばり強さなるものが世のなかにあるのだろうか。大久保は、たぶんはじめてそのような人生を目の前に見て、とまどってしまったのであろう。 大陸的な充実した強さではないのだよ。あくまでも島国の――貧乏な島国のものだ。なんにももたない空しさだけだ。決してかれら自体が強いのではない。が、あの空しさを見て、ぼくらが薄気味の悪さを感じとるだけなのだ。口がせまくて底の深い古井戸のようにね。 引用終盤に古井戸のような薄気味悪さとありますが、それは日本側人物の心情としては「近代的政治感覚が琉球にだけは全然通じない」という表現になり、さらには内務卿・大久保利通のセリフとしてこのように描かれます。 「一体、われわれは琉球を支配しえているのだろうか、松田君」 実は本書は、冒頭に触れたように、文庫本上下巻1000頁にも及ぶ物語でありますので、最初はかなり内容がつかみにくく(「事件(政治過程)」が主題の作品であることで、読者が感情移入しやすい主人公が表面に出てこないせいでもあります)、少し読みにくくあるのですが、上記のような対立構造がわかってくるあたりから、その双方の食い違いが無限ループのように繰り返され、えんえん下巻終盤まで、その構図が続きます。 私は、この小説の文学的成果(小説的面白さ)はここにあると思います。(1000頁もあることの意味も。) あるいは、こんな読み方はあまりに偏っているんじゃないかという気もしないではありませんが、小説が小説であって「大説」ではない面白さ素晴らしさとは、そんな部分を決して見落とさないことではないかと、……まー、少々ひねくれものを自任する私は、考えるのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.10.20
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『雪の練習生』多和田葉子(新潮文庫) 多和田葉子といえば今は飛ぶ鳥を落とす勢い、というのは、わたくし、自分で書いておきながら何を書いているのかよくわかりません―。どうもごめんなさい。 ガセネタっぽい話そのものでありますが、ちらっとだけ「解説」(「解説」ってなんやねん)いたしますと、失礼ながら、誠に失礼ながら、村上春樹はノーベル文学賞候補者としての「賞味期限」が切れたんでないか、という事であり……すみませんすみません、まことにすみません。 ……とにかくそんなこんなで、多和田葉子です。 わたくし、本書を古本屋さんで見つけまして、裏表紙の「宣伝文」を読みますと、野間文芸賞受賞作とありまして、わたくしは、あれ、と、ふーん、の真ん中くらいの感想を持ちました。 あれ、と、ふーん、の真ん中というのもまた、説明のしづらい感想なんですが、簡単に言うと、もう、かなり前になってしまいましたが、同筆者の『献灯使』という小説を読みまして、そして、その小説がアメリカで割と大きな賞を受賞したということで、かなり話題になっていたと思います。 で、今回の本書が、野間文芸賞受賞で、ふーん、多和田氏がまた名作を書いたのか、あれ、でもこの作品は話題にはあまりなっていないんじゃないか、という感想が、まー、一応、あれ、と、ふーん、であります。重ねてすみません。 で、読んでみました。三部構成の小説なんですね。 読み始めてしばらくして、……来ましたねー、がんがん、来ましたねー。 もう、飛ぶ鳥を落とす勢い! ごめんなさい、村上春樹ぶっちぎり! ……と、思ったんですね。 これは凄い小説じゃないかと、読んでいてドキドキするように思ったのであります。 小説でなければ表せないものを、物語世界を、縦横無尽に天衣無縫に飛び回っているような小説でした。高速走法、オーバードライブ、なんて言葉が浮かんだりしました。 で、第2部に入って、展開について、人間社会、あるいはヨーロッパ近代史に対するシニカルな批評めいたものがかなりストーリーの前面に出てきつつあるように感じました。 もちろんそれ自体が悪いわけではありません、しかし、その展開の変化に対して私がふと感じた違和感は、あの第1部の天翔けるような自由さドライブ感はどこへ行ったのだ、というようなものであったでしょうか。 そして、話は第3部に進んでいきました。 ……なんでしょうか、私としては、これは別のお話になってしまってはいないか、と。 ……うーん、よーわからん。 で、ふと、わたくし、思い出したのですが、本ブログにも何回か多和田氏の作品の報告を書いていますが、どれも、今一つよくわからないというものではなかったか、と。 特にわたくし的には、終盤に失速感を覚えるというような感想ではなかったか、と。 で、ちらちらと、自分の書いたブログの文章を読み直してみたんですね。 やはり、そんなことが書かれてありました。『献灯使』なんて、未完じゃないのかなんて失礼なことが書かれてあります。 『犬婿入り』も、思い出してきたのですが、その終盤の展開にあっけにとられた記憶があります。で、あまりに何だかわからなかったので、ちょっとネットで調べてみたら、芥川賞受賞時の各選考委員の感想の中で、河野多恵子が「最後の部分が文学的誠実さを失ってしまっている」と述べていたのを読んで、少し納得したのを思い出しました。 ……しかし、これは何なんでしょうね。 「お前の読み違えだ」と指摘をいただいたなら、そうかもしれないなあと思いもしたでしょうが、よくわからないのでぐずぐずあれこれ考えたりします。 例えば、この筆者は物語の発想力にずば抜けたところはありながらも、飽きっぽい性格で、書いていていやになっちゃうんじゃないか、とか。 あるいは、こんなこともわたくし考えたのですが。 本作は三部構成で、各部の長さは文庫で100頁にほぼ統一してあります。三代にわたるホッキョクグマの伝記という形になっていますが、これ、分量まで統一する必要はあったのか、とか。 もうひとつ、私としては、割といいアイデアだと思うのですが、1から3部の順番を全く逆にしてはいけないのか。そうすれば、ストーリーは後になればなるほど、どんどん盛り上がっていくんじゃないか、とか。 ……いえ、まるでふざけてばかりいるわけではありません。 そんな風にあれやこれや考えるほど、私にとっては第一部は素晴らしく、それだけに、私としては後の部分が十分納得がいかず、と。 やはり、多和田作品とは、わたくし微妙に御縁がないのかもしれませんねえ……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.10.06
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『箱男』安部公房(新潮社) 安部公房『箱男』、多分4回目の挑戦読書であります。 4回以上読んだ小説も他にないわけではありませんが、でもわたくしとしては、やはり例外的であるのは間違いないと思います。 ではなぜ、4回目の読書挑戦になったかといいますと、それはわたくしのもう一つの拙ブログで報告させていただいております。(ちゃっかり宣伝) 安部公房原作『箱男』の映画を見たんですね。 見る前に読んでおこうかな読まないでおこうかなと少し迷い、結局読まずに見ようと思いました。その理由は二つあります。 一つ目は、原作の内容をほとんど覚えていないほうが、映画が面白く感じられるんじゃないかということです。これは、よく言われることですよね。「映画化は失敗だ」なんて言われる原作付きのケースは、観客が、すでに原作から受けていた印象から自由になれないからでしょうかね、だから、映画を見るにあたっては原作はほとんど忘れているほうがいい、と。 で、もう一つ、私の場合は理由があるんですね。 それは、今まで3度『箱男』を読んで、はっきり言って自分のような軟弱な頭では理解しきれないと、今まで感じていたんですね。 だからこのまま4回目を読んでも同じだろう。むしろ、先に映画を見て、そこから何かヒントを得て原作に当たれば、何か新しい理解を得ることが出来るんじゃないか、と。(ここまで書いてきて、わたくし、健気なほどに論理的ですねと自画自賛!?) で、読んだわけです。4回目読書。 やはり、映画を先に見たのは、いろいろヒントになったように思います。 映像化されたイメージを頭において文章を追うと、文字表現だけでは自分の理解に自信があまりなかったようなところについて、やはりこの読みでよかったんだ、などと思ったりもしました。 で、どのように思ったかといえば、これは別の拙ブログでも触れましたが、やはり「箱男」というのは、ひとつの状況のネーミングではないかという事でありました。 登場人物の手記という形をとっているので当然ともいえますが、その人物の主観による状況の説明・考察・感想などがほぼ作品全体を占めていることや、今まで読んでいた時はよくわからなかった「貝殻草の話」「Dの場合」そして「ショパン」の話なども(映画では取り上げられていませんでしたが)、比喩または寓話による「箱男」的状況の説明と捉えることが出来るように思えました。 「状況」と書きましたが、プロットの中心となる筋は、ないではありません。ただ、その筋は、途中から執筆記録状況自体を主題とするメタフィクションのような展開になっていき、一本の筋は拡散していったように思います。 併せて、それを書く描写は、迷宮のようになりながらも、やはり一人称の説明・考察・感想による展開で、それは「状況の説明」から離れてはいないと思いました。 そしてやはり、「状況」こそが中心なのだと読めば、作品の冒頭と終末が、共にシンプルな箱の作り方解説になっているのも、きわめて象徴的だと私はひとつ納得をしました。 ……と、あれこれこね回したようになりましたが、しかし、私が読んでいる最中ずっと感じていたのは、実は重苦しさでした。 もちろんこの重苦しさには、内容を伴った意味があるのでしょうが、しかし、それにしても何とも重苦しい。 で、ふと考えたのですが、今まで3回読んできて、やはり毎回重苦しかったはずだ、なのになぜ3回も私は読んだのか。 一番に浮かぶのは、安部公房独特の、跳躍距離の長い乾いた比喩表現であります。 例えばこんなところ。 不快なしびれが、口のまわりに輪をつくる。夢の中の駆け足。 ぼくは空気銃男が消えた後の、無人の坂道を眺めながら、こわれた水道の蛇口のような湿っぽい気分になっていた。 或いはこんな部分は、比喩ではなく、安部公房の独壇場のシニカルの論理展開なのかもしれません。 裸と肉体は違う。裸は肉体を材料に、眼という指でこね上げられた作品なのだ。肉体は彼女のものであっても、裸の所有権については、ぼくだって指をくわえて引退るつもりはない。 もっとも、彼女について、まだ批評がましい意見を述べられるほど知っているわけでもない。しかし、右眼にとって、左眼についての知識が、なんの役に立つだろう。肝心なのは、とくに意識しなくても一つのものを注目することが出来、ごく自然に関心を共有し合える信頼なのである。 ……うーん、こういう風に引用をしていきますと、安部公房の逆説的文章というものが、重苦しさを伴いながらも、いかに強靭な魅力的構造を持っているかつくづくわかる気がします。 そして、実はわたくし、書き写していてもう一つ、ふっと連想したことがありました。 それは、確かに描かれている細部の展開は、砂を噛んでいるようにざらついて、いわば少しも魅力を感じません。まるで無機質のようです。 で、ここで私はふと思ったのですが、無機質の魅力って……。 そういえば、安部公房の芥川賞受賞作『壁』にも、無機質の魅力や、無機質が大いに称讃されていました。 で、さらに私の連想はここでまた跳んで行ってしまったんですね。 ひょっとして、無機質の魅力は、鉱物の魅力につながってはいないか、と。 そして、我が国の鉱物的文学の第一人者といえば……。 私は実は、安部公房氏がその作家が好きなことを知っているんですね。 だって、(もうお亡くなりになられましたが)一粒種の娘さんの名前が「ねり」さんですもの。 ……『グスコーブドリの伝記』。 ……宮沢賢治。 ははあ、これは、魅力的なのも当たり前だわ……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.09.22
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『草すべり』南木佳士(文春文庫) 少し前にこの本の筆者の『阿弥陀堂だより』という長編小説を読みました。(本ブログでも報告しています。) 割と面白かったので、古本屋で本書を見つけた時に、ほぼ迷わず買ったんですね。 4作の小説が収録されている短編集ですが、あの長編小説によく似たテイストだろうと少し期待したんですね。 いえ、よく似たテイストといえば、確かにそうも言えるのですが、その長編小説と大きく異なっているのは、本短編集が一種の連作仕立てになっていて、それがすべて「山岳小説」となっているところでした。 「山岳小説」――山登りをテーマにした小説があることは私も何となく知っていましたが、ネットで少し調べてみると、明らかに大きな小説の一ジャンルであること、例えば、推理小説とかSF小説とか企業小説とか恋愛小説とかと同じ一ジャンルであることを、恥ずかしながらわたくし、始めて知りました。 ついでに少しさらに調べたんですね。ネットにあった「山岳小説ベスト100」とかを見ました。 すると、えらいもので、私は全く一冊も読んでいないことがわかりました。(山岳小説がわからないわけだな、と。)ついでにこのジャンルの小説家で、名前だけでも知っていた作家は、新田次郎だけでした。(私は寡聞にして、新田次郎を一冊も読んでいません。) ……あー、世間は広いものだなーと、反省を絡めつつ感じたのですが、そんなわけで、今回の読書は、奇しくもわたくしの山岳小説読書初めになりました。 で、読みました。 今「山岳小説」と書いたところでありますが、そこに描かれている主テーマは『阿弥陀堂だより』と同様、医師である主人公が見つめる病や生と死であります。 それはまー、当たり前といえば当たり前なのですが、本ブログで主な読書対象としている「純文学」やその周辺の小説群は、突き詰めていけば「人間とは」というものがテーマとなっています。いわば本書は、それに山登り描写が絡められて描かれている、というわけですね。 でもやはり、いかんせん、山岳小説初体験のわたくしとしては、山登りを書いた描写のどこが面白くどこが凄いのかが(全くとは言いませんが)よくわかりませんでした。 ただそんな素人目で見ても、本書の描写がかなり控えめに描かれていることはきっと確かで、これは、ははん、山登りではあるけれども、それを特別なイベントとして捉えるのではなく、日常(医師としての苦悩の日常)の延長としての位置づけをにじませながら描いているのだなと感じました。 例えばこんな部分はその最も典型的な部分ですが、初老の主人公が、久しぶりに会った高校時代の女友達と一緒に、かなりハードな登山をしている場面です。(途中休憩のシーンです。) アルミホイルにくるんできたキュウリの浅漬けを差し出したら、沙絵ちゃんは二切れ取って、気持ちのよい音を立てて食べてくれた。 頭上を雲が走る。深い青空、雲、深い青空、雲。 ありがとう。 沙絵ちゃんが空になったコップを返してきた。おにぎりを二つ食べてようやく空腹感は消えた。(「草すべり」) ……実はこの短編小説には、セリフのひとえカギ(「 」)がなく、前後一行行明けで書かれているんですね。その狙いはよくわからなかったのですが、この個所なんかは見事にそれが効果的になっていますね。 展開から読むと「ありがとう」は間違いなく沙絵ちゃんのセリフでしょうが、この「ありがとう」の手前までを順に読んでいくと、「ありがとう」は、主人公の、山岳自然に対する感謝の一語のように読めます。(「深い青空、雲」の繰り返しがあったりして、私はそう読みました。) 私はふと連想したのですが、こういった日常生活の地味な一コマを、研ぎ澄まされたような工夫と文章でさりげなく読ませるというのは、まさに日本文学の、「私小説」の伝統ではないのかと。(そういえばと、私は、小津安二郎の映画もちらりと連想しました。) 様々な苦悩、それも結局のところ、生きること自体がその原因であるような苦悩を描く小説というのは、まさに文学の本道であります。 数知れない文学者かそれに取り組んでいき、そして、様々な出口を発見することが出来たりできなかった物語を作品として記録してきました。 この度の一連の山岳小説群は、いわば「山岳信仰」などにはすぐに結びつくことはない、ひとつの小さな記録の小説なのかもしれません。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.09.10
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『晩鐘・上下』佐藤愛子(文春文庫) 実は本書を読んだきっかけは極めて単純な話であります。 筆者の書いたエッセイを原作とした映画を先日見たからですね。 基本的にエンタメの映画ですから、むずかしいことはあれこれ言わず、なかなか楽しい映画でした。で、本書のことを思い出した、ということですね。 思い出したというのは、これは1年ほども前ですか、この上下2巻の本書を私は買ったんですね。佐藤愛子という作家については、世間に好評であったエッセイは今まで何冊か読んでいたものの、小説については全く読んでいず、ただ、佐藤紅録の娘であり、サトウハチローの妹であるとかは知っていて、それに加えてこれも少し前に、田辺聖子の本を読んだときになんとなく比べて興味を抱いた(例えば佐藤愛子は芥川賞の候補にもなりながら直木賞を受賞し、芥川賞を受賞した田辺聖子は、本当は私は直木賞が欲しかったといって、その後も一時、直木賞の選考委員をしていたなどのこと)のでありました。 で、この度、よいきっかけだと思って読みました。 とっても面白かったですね。その理由は、主に二つ。 ひとつは、筆者が90歳になろうとしているということ。それは作品内容とは直接関係ないじゃないかとは思われそうですが、読みながらもその意識は絶えず頭の中にあって、私はやはりこれは一種の天才作家による作品としか思えませんでした。 そしてもう一つは、これも直接は作品内容とは関係ないのかもしれませんが、私が久しぶりに上下500ページ以上の長編小説を読んだという事でありました。 このことは何と言っても長編小説読書の醍醐味で、特に本書のように一人の人物の波乱万丈な半生を描いた作品を読むと、読者もその人生をそのまま追体験したような気持になって、読了後、何と言いますか、とっても大きな「達成感」が生まれるように思います。(それこそを「感動」と呼ぶのかもしれません。) ということで、なかなか充実した読書体験だったのですが、読み終えてわたくし、つい、分析したく思ってしまうんですね、いわばこの「感動」を。 分析したところでわたくしのアバウトな頭づくりでは大した理屈は得られないのですが、まー、少し考えてみました。こんなことです。 本小説は以下の二つのパートから成り立っています。それを仮にA部B部とします。 A部→三人称で描かれる女性主人公の20歳前後からの半生記述。 B部→老境の女性主人公が綴る形の書簡形式(一人称)記述。 まずB部について触れますが、おそらくここが、筆者が工夫したところだと思います。なぜこんなパートを必要としたかについて、その狙いを考えてみました。 このB部は、すでに功成り名を遂げた女性作家が、おそらくは90歳近くになって、もうすでに亡くなって久しい文学上の先生(師)に向かって手紙を書くという形です。手紙の内容は、本小説のもう一人の重要な登場人物である主人公の夫との波乱万丈の半生の出来事を思い出して綴るというものです。 この形を取ることで、主人公の内面(感情)がとても深く書き込まれ、ひいてはそれが読者に、主人公への強い感情移入を生み出させる効果を持つと思われます。 そして、その内面描写にある種の客観性を保証するのがA部であります。 三人称描写のA部は、様々な登場人物の行為はもちろんその内面までが描かれ、それが主人公女性の言動に対する批判などを描くことを可能にし、作品内容の客観性・重層性を保証しています。 しかし読んでいると、B部の存在は、私にとって微妙に違和感をもたらすんですね。 なぜ、すでに亡くなって30年近くにもなっている文学上の師に突然手紙を書き始め、そして次々と長々と書き続けるのか、そのあたりのリアリティの保証は、私にとってはあまりありませんでした。 ただ、筆者がこの部分を必要としたであろう理由については、いくつか考え付きました。 それはすでに亡くなって久しい文学上の師と設定することで、 (1)同じく小説家志望であった夫のかつての作品に対する、主人公の評価と共感が描けること。 (2)亡くなった相手を宛先とすることで、現世的な人間関係の「めんどくささ」に及ばずに済むこと。(文中には生きている作家間の人間関係の「めんどくささ」は十分に描かれています。) さて、そんな風に私は、本書の構成を考えたのですが、別の書き方でまとめますと、A部で描写し、B部で説明する、といえましょうか。 ただ、これは私の感覚的なものかもしれませんが、筆者にとってA・B部の比重は同じではなく、B部に少し重心は傾いているのではないか、と。 言い換えれば、B部で思いのままに主人公の主観性を描きたいために、A部ではB部の主観の相対化をはかった描写をする、と。 なるほど、500ページに及ぶ作品を読者に読み通させる技術、とそれはいえないでもない筆者のテクニックであります。90歳を迎えんとした筆者の、老いてなお研ぎ澄まされた恐るべき才能でありましょう。 しかし最後に、これもまたわたくしの勝手な感想ではありますが(まー、いわずとも、この文章全部がそうなのですが)、上記にA部=描写、B部=説明と書きましたが、説明とは、結局のところ語り・意味づけ・解釈でありましょう。 実は本作品が描く大きなテーマに、主人公女性の、不可解な夫の言動を何とか理解したいという強い欲求が描かれ、しかしそれは結局果たせなかったという一つの「諦念」が描かれるのですが、別にそれに引っ張られたわけではないでしょうが、私は、少しAB部共に説明(=語り・意味づけ・解釈)が多すぎるのではないかと感じました。(小説とはもう少し描写に専念するものではないか、という。) そのことが、私の本書の読後感に一点、不純物のような濁りの感覚を残したのも、まー、読者のわがまま勝手な「特権」感想とはいえ、ありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.08.25
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『子規、最後の八年』関川夏央(講談社) ちょっと前に、地域の図書館の中を例によってぶらぶらしていた時に、全集の置いてある棚で集英社版の『漱石文学全集』全11巻というのを見つけました。 漱石の全集なら、まー、岩波書店のを読んでいれば間違いはないだろうと、安易に考えていましたので、あ、こんなのも出てるんだな程度の興味で何となく、何冊か棚から出し入れをしていましたら、第11巻目が別巻で、それが一冊まるまる荒正人の『漱石研究年表』でした。 奥付によりますと、第一刷の発行が昭和四十九年となっていますから、ちょうど半世紀前の研究です。きっと、その後新しい漱石研究についての知見もあれこれ出て来ているのでしょうが、とにかく私としては、初めてこの本のことを知った時は、やはり少し驚きましたね。 誕生から死去(+葬儀などの日程)までの可能な限りの漱石についての情報を、何年何月何日の何時というレベルにまで細かく触れて書いてある本であります。 これは、初めて読んだら、やっぱりちょっと驚きますよねー。(そういえば思い出したのですが、『源氏物語』のすべての単語を品詞分解した基礎研究があると聞いて、その頃できの悪い大学生だった私は、やはり少し驚きましたね。コンピューターなんか出回ってない時代の話ですから。) この度、本書を読んでいて、ふっとそんな感じがしました。 もちろん本書は、荒正人の研究のレベルまで正岡子規の晩年八年の日常が書き込まれているわけではありません。 でも、例えば子規のこんな短歌が引用されているんですが…。 詩人去れば歌人坐にあり歌人去れば俳人来り永き日暮れぬ 最晩年、本当に子規が体をほとんど全く動かせなくなるまで、子規の家には、この短歌のごとく四六時中様々な人があふれんばかりに訪れていたようです。 そしてそれを、筆者はその人物紹介も含め丁寧に描いていこうとしています。 当然、記述は長く緻密になっていきます。だからとても分厚い本です。四百ページ余りもあります。 ただ、そんな子規の関係者を丁寧に描こうとしている筆者の意図は明らかで、というか、これは描かないわけにはいかないのだろうなと、読んでいて気が付きます。 それは、その子規の関係者の多くが、後年さまざまな分野の第一人者として、とても大きな仕事をなすことになる人物たちだからであります。 このことは何を表しているのでしょうか。 たぶんそれは、子規の人格が、優れた人物を引き寄せたという事でしょう。これでは、子規を描くためには、周りの人物を描かないわけにはいかない、と。 ということで、そんな長い本でした。 ところで、以前にも拙ブログのどこかで触れたように思いますが、私には、文学史上かなりの高評価な文学者でありながら、なぜそんなにもたくさんの人が高い評価をしているのかよくわからない文学者が三人います。 それは、韻文系の文学者であります。 宮沢賢治、石川啄木、そして、まー、申し訳ありませんが、正岡子規ですね。 前二者については、今回はとりあえず置いておきます。 正岡子規についてですが、確かにあの病状で、俳句界と短歌界の革新をなしたというのはとてつもなく凄いのでしょうが、……うーん、「猫に小判」は、変な例えですかねー、要するにそのことの「汎近代日本文学史的凄さ」が、私にはよく理解できないでいました。 ただ、この度本書を読んで、ひょっとしたらそのヒントになるかもしれない二つのことを知った、と思いました。 ひとつは、上記にすでにふれていることです。言い換えれば、多くの優れた後進を育てた才能。(どこかでやや極端な説を読んだことを思い出しました。福沢諭吉の業績のほとんどはもはや歴史上の業績にとどまっているが、唯一「現役」の最大の業績は、優れた後進者を生み出す教育機関=慶應義塾大学を作った事である、って、極端すぎますがー。) もう一つは、例えば本文にこんなことが書かれています。 英国留学をしていた漱石が子規宛に送った手紙=「倫敦消息」について書かれた文章です。 経済が人の運命を翻弄し去るのは、ロンドンも東京もかわりはない。そんな浮世のどたばたを、事実を並べつつおもしろくえがいた「倫敦消息」は好評であった。子規はことのほか喜んだ。 この手紙の文体は、漱石にとっても発見であった。つぶさに観察された人物像が簡潔にしるしてあるのは、子規の俳句に対する態度から無意識にうけた刺激の成果であろう。 そして、その数ページ先にはこう書かれてあります。 ロンドンで、読者としての自分を発見し、また自分の書きものをたのしみに待つ病床の子規に読者の存在を実感した漱石は、このとき自分では気づかぬうちに、小説家たらんとする助走を開始していた。 少し注釈をつけますと、「読者としての自分を発見」というのは、妻の鏡子からの手紙を首を長くして待っていた漱石自身の事です。 さて、近代日本文学最大の文豪である漱石の誕生に一番影響を与えた人物としての正岡子規という図式は、わたくしも以前より何となく理解していましたが、そのことが、漱石を通しての、日本語表現の発見と読者の発見を表すことであるという論旨は、とても納得できました。 だから子規とは、俳句短歌界のみならず、汎近代日本文学的「揺籃」そのものである、と。 なるほど、切れ味鋭い関川節は、本書にも広く健在であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.08.10
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『注文の多い料理店』宮沢賢治(角川文庫) 宮沢賢治がすごい、というのは、本当にもういーーっぱいの方が述べています。 すでに賢治は文学の領域を飛び越えて、ひとつの産業、登録商標、エンタメ業界、(「金の成る木」)になっている気がして、私のような小人物は、触れるのが怖くはあるのですが、先日から何回かに分けて、地域の公民館で「『注文の多い料理店』を読む」という地域文化セミナーをしていました。 私は、「怖いもの見たさ」もあって、とりあえず第一回目の講座に参加したところ、講師の先生の「賢治愛」がとても半端ではなく、かつそれに変な嫌味や押しつけなどもなく、熱気あふれるままに講義をなされたので、私はとても好感を持ち、結局全6回のセミナーに参加しました。 で、そんな賢治がらみのとても面白い話とか、知らなかった話をたくさん聞いて、また、ぜひぜひこの童話あの詩を読んでくださいとかも言われて、改めてこの度、宮沢賢治『注文の多い料理店』を読みなおしましたが、……うーん、ちょっと、困っています。 あれだけ賢治=天才、って言われたのですから、今更それを否定する気は毛頭ありませんが、私としては、どうもきちっと腑に落ちる感じのもの=実感に欠けるんですね。 でもこれって、ちょっと困りません? だってみんながすごい凄いといっている人について、そのすごさが実感できないというのは、どう考えても私に、それを判断するとか享受するとか鑑賞する能力が欠けてるとしか言いようがないですわね。 ……えー、そんな私が以下、書いてみます。 ものの良しあしの分からん奴の文章です。そのつもりでお読みください。 上記に凄さが実感できないと書きましたが、ひとつだけは、圧倒的に賢治凄いと私でも納得できることがあります。 それは、独創性、ですね。 賢治の前に賢治なく、賢治の後に賢治なし。この空前絶後のオリジナリティは、天才的といえば、なるほど天才的であります。(それだけでもう、天才だと評価するには十分じゃないかと言われれば、なるほど、そんな気もしますが。) 全く、こんな話、賢治以外には書かないだろー、という作品だらけです。 ではそのオリジナリティーの質といいますか、正体はどのようなものかと、今回わたくし考えてみましたら、ふと気が付いたことがありました。 それは、わけの分からないことを書き続ける独創的才能ではないか、と。 これもきっと、私がどこかでそれらしいことを読んだのだと思いますが、わけの分からないことを書き続けることって、けっこう、というよりかなり、大変そうであります。 作家や画家や音楽家などが、わけは分からないが凄いというものをなんとか生み出そうとして、日々身を切るように苦闘し続けたという話は、古今東西多くの例がありそうです。 では、賢治のその方法は? それは、実は本誌の賢治の序文に書かれてありますね。有名な部分です。 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。 (略)ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、そのとおり書いたまでです。 (略)なんのことだが、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。 わたくし、ここには二つのことが宣言されていると思いました。 一つ目は、私(賢治)は、自然の思いを人間の言葉に翻訳しただけのものを預かった者=預言者である、ということ。 二つ目は、私(賢治)は人間的理性や分析ではなく、自然に対する絶対的信頼と愛情に則って物語を書くのである、ということ。 賢治の文章の大きな特徴として言われる気象学的・鉱物的・天文的表現(恐ろしく透明感のある表現)というのも、その正体は自然の理解分析というよりは写生=自然のトレースのようなものでありましょう。 賢治の童話だけに限らず、考えれば、わけの分からないことには大いに魅力があります。 そもそも人類の歴史とは、それを求め続けた行為だともいえそうですが、そんな大層な話でなくても、子供の遊びのなぞなぞや大人の薀蓄話など、謎を知ること、そしてその正体を知りたいと思うことは、心の動きそのものがとても快感であります。 冒頭のセミナーで、これは本筋の話ではなかったですが、賢治の童話の「やまなし」に出てくる「クランポン」の正体に触れた(もちろんたくさんある説のうちの一説ですが)ことをおっしゃいましたが、私は聞いていてびっくりするとともに、ちょっと鳥肌が立ちました。 (ここでその説を述べていいものか少し迷いますが、多分その研究者はすでにどこかで発表済みでしょうから、ざっくりとだけ「謎解き」結果を書いてみますね。二つ驚いた「謎解き」があるんですが、ひとつめ「クランポン」とは亡くなった子蟹たちの母親である。二つ目、そもそもの子蟹たちのいる水中は、母親の羊水の中である。……びっくりしませんか?) 結局のところ、「わけの分からないこと」を書き続けることのできた賢治のオリジナリティとは、こういう事ではないかと、わたくしこの度、思ったのではありますが、そういえば、現代日本文学の作家の中にもう一人、「わけの分からないこと」を書き続ける作家がいるぞと、わたくし、ふっと気が付きました。 併せて、やっぱり彼もすごい人気作家であるぞ、と思いました。 お気づきになられたでしょうか。 このように考えますと、全く、わけのわからないものの力は実に強力強大であります。 (そうか、『本当は怖い〇〇』なんて本も、その類だな。) あ、その作家の名前は、たぶんもう言うまでもないと思いますが、村上春樹。……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.07.27
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『ハンチバック』市川沙央(文芸春秋社) 本作は2023年後期の芥川賞受賞作ですね。 受賞が決まったとき、大きな話題になりましたね。なぜ大きな話題になったかといいますと、筆者がかなり重度の身体障碍を持った方で、作品の主人公の女性の身体の設定が、ほぼ筆者に重ねて描かれていたからですね。 そして作品に、現代日本社会が身体障碍者をどう扱っているかという姿に対し、様々なハードでビターな問いかけが描かれていたからであります。 マスコミなどに主に取り上げられていたのは、原文でいえばこんな個所ですね。 本に苦しむせむし(ハンチバック)の怪物の姿など日本の健常者は想像したことがないのだろう。こちらは紙の本を1冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がするというのに、紙の匂いが好き、とかページをめくる感触が好き、などと宣い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい。 こんな個所が、まー、マスコミ的に衝撃だったわけですね。 私もそんなマスコミの記事を初めて読んだ時は、ちょっと衝撃ではありました。 しかし思考の根本が少し緩んでいる私は、それ以前から何にも知らずに顰蹙ものの我が思考の捻じれや歪みを人様から指摘されることが多々ありましたので、今回も顰蹙ものながら、あーまたやってしまっていたのか―、的の感情が、まず、ありました。 でもやはり、今回本書を読むにあたっては、少々「覚悟」も持って取り組んだのですが、……とっても面白かったです。 いえ、もちろん、身体障碍が中心テーマにあるお話ですので、笑うような面白さではもちろんありません。いわば、小説的巧みさが全編から感じられるような面白さでありました。 しかし、重度の身体障碍を中心テーマとし、「各論」的には(1)社会の差別意識(2)障碍者の性などを描きながら、我がごとながらなぜ「重い」感じがしなかったのか、少し不思議で、あれこれ考えてみました。 まず、すぐに思いついたのは、主人公の思考の流れが極めて理性的で自然であるからじゃないか、と。 例えば、主人公の女性は「子どもを宿して中絶するのが私の夢」だと書かれています。別の個所には「胎児殺し」とも書かれています。 でもこの夢に至った経緯が説明されてある個所は、飛躍も無理もなく極めてクリアであります。 〈妊娠と中絶がしてみたい〉 〈私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう〉 〈出産にも耐えられないだろう〉 〈もちろん育児も無理である〉 〈でもたぶん妊娠とか中絶までなら普通にできる。生殖機能に問題はないから〉 〈だから妊娠と中絶はしてみたい〉 そしてもう少し先の本文に、同じ地域に育った幼馴染たちの成人後の姿を想像しながらこう書いてあります。 私はあの子たちの背中に追い付きたかった。産むことはできずとも、堕ろすところまでは追い付きたかった。 上記に、マスコミで話題になった紙の本についての記述を取り上げてみましたが、こちらは直接の話題にはなりませんでしたが、こんなことも書かれてあります。 博物館や図書館や、保存された歴史的建築物が、私は嫌いだ。完成された姿でそこにずっとある古いものが嫌いだ。壊れずに残って古びていくことに価値のあるものたちが嫌いなのだ。生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる、生き抜いた時間の証として破壊されていく。そこが健常者のかかる重い死病とは決定的に違うし、多少の時間差があるだけで皆で一様に同じ壊れ方をしていく健常者の老死とも違う。 さて、私は上記に、本書は小説としてとても「面白い」と書きました。しかし、この小説の文学性が、このきわめて本道的な理論展開にあるとは、実は、思っていません。 私が、小説的仕掛けの巧みさと、文学的な佇まいを感じたのは、作品後半、「田中さん」とのでき事が中途半端に終わり、瀕死の重傷となり入院し、そこでまた「田中さん」と言葉を交わす場面を中心に描かれている一連の「私」の心理描写にあります。 それは、冷静なリアリズムに則りつつ、加虐的かつ自虐的な思考や追い詰められた強靭な意志などが溢れ出した姿を、言葉を選んで選んで描こうとした部分です。 前半のきわめて理知的な思考形態で整理しようとしながらも、そこからはみ出す心理を、何とか言葉で繋ぎとめようとしている描写が(個人的にはまだ十分につかみ切れていない感じもしますが)、すばらしい、と。 そして、作品終盤。 この部分も、少し芥川賞受賞時マスコミに取り上げられていました。 「聖書」からの引用が少し続き、最終盤、ここに至るまでの内容をすべてひっくり返すような展開がもう一山用意されて、そして終わります。 この部分をどう評価するのかが、少しマスコミ評にもありました。 はばかりながら、私は、どちらも小説的に傷になるものではない(大きな効果のあるものでもないにせよ)と思いました。達者さを感じました。 あわせて、こういう「特異」な作家が、「特異」な主人公の姿に自分の現実を重ねて読めそうな作品をひとつ書くと、次作以降をどうするのかという不安がありそうですが、これについては、幸いにことに、現代日本文学は、本件と全く重なるというわけではありませんが、きわめてすぐれた「先達」を持っていますね。 ちらっと何かで読みましたが、本書の筆者も、好きな作家であるようですね。(当たり前かー。) 「大」大江健三郎氏であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.07.14
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『カンガルー・ノート』安部公房(新潮文庫) 本文庫の解説をドナルド・キーンが書いていて、おおよそ褒めてありますが、解説文のおしまいあたりにこう書かれています。 『カンガルー・ノート』は文字通りの前衛文学である。前衛的であるから同時代の読者に分かりかねる部分もあろう。或いは未来の読者が難なくこの小説を読んで、安部さんと同時代の批評家たちはどうしてわからなかったのだろうかと不思議がるかもしれない。 この『カンガルー・ノート』から遡ること約20年、安部公房の新潮社純文学書下ろし特別作品の『箱男』の箱の裏表紙には、同じくドナルド・キーンがこのように書いています。 『箱男』を読了して、私は輝くような場面の連続で頭が一杯になり、分析するよりも、もう一度読んでみたいという気持ちが強い。 いかがでしょう。どちらもいわば「宣伝文」ですから、もちろん褒めてはいるのですが、言っていることは決定的に違っていますね。 『箱男』については、詳しくはまだわからないけれどとても素晴らしいと書かれており、『カンガルー・ノート』の方は、素晴らしい可能性は高そうだが私には全くお手上げだ、と書かれているように私は思いました。 そして、キーン氏がそう書いた気持ちは、憚りながら、私などの素人が読んでもとってもよくわかるんですね。晩年に向けて、安部公房の小説はどんどんわからなくなってきています。 私の手元に安部公房について書かれた2冊の本があります。以前、もう一つのブログで紹介した本ですが、この2冊です。 『安部公房伝』安部ねり(新潮社) 『安部公房とわたし』山口果林(講談社) 一冊目の本は、安部公房の一粒種の娘さんの書いた本で、公房研究の第一次資料としてとても重要な本であります。しかし、公房の最晩年については、ほとんど何も書かれていません。なぜか。 それは、公房は最晩年、妻である安部真知と別居し、愛人であった山口果林とほとんど行動を共にしていたからであります。 そして『カンガルー・ノート』は、そんな最晩年に書かれた小説であります。(だから、山口果林の本は、最晩年の安部公房研究にとっては、安部ねりの本をはるかにしのぐ重要な第一次資料となっています。) 安部ねりの本に、公房が妻と別居するに至った理由について、このように書かれてあります。 40歳を過ぎた真知にも変化があり、自己に回帰するようになり、(略)真知の中に公房に対する競争心のようなものが芽生えて張り合いたくなってきた。(略)真知の公房に対する絶対の尊敬は、かげりを見せた。 そして、数行後にはこのようにあります。 事実をまるで絵画のように一部強調して感じたりすることは人がよくやることだが、ついに的外れな批評家のように知ったかぶって公房の作品を批評してしまったりもした。 で、二人は別居に至るのですが、これが原因というほど単純なものではないでしょうが(もちろん山口果林の存在がとても大きいでしょうが、安部ねりは、公房の愛人としての山口果林の存在を本文中に全く触れていませんので、このあたりはかなり奥歯にものが挟まったような展開になっています)、晩年に近づくに従っての安部作品の難解さは、わたくし思うのですが、真知氏が「批評」をしたく思うのももっともではないか、と。 ところで「ねり本」には、公房の死後、ねり氏がドナルド・キーンにインタビューした文章が収録されていて、そこにこんなことが書かれています。 お父さんはもちろん、一般の読者をただ喜ばせようとするなら、彼が若いころ書いていたものを続けて書いたらよかったのです。なにもそんな複雑なことを書かなくてもよかったのです。誰も考えていないようなものを書こうという野心がありましたから、読者が読んでくれないかもしれないと考えても、それでも書いていました。仮に批評家がわからないとか、つまらないとか書いても、本がよく売れました。 ここに描かれているのも、作品の批評を完全にあきらめた上での、その作品に対する好意といいますか、むしろ作者に対する信頼、または期待のようなものが書かれていると思います。実際に本がよく売れたというのも同じだと思います。 さて、『カンガルー・ノート』の内容に直接は全く触れずにここまで書いてきましたが、もうお分かりのように、私にも本小説の良さが、ほぼ全く分からないわけであります。 この度私は図書館で借りて文庫本で読みましたが、家には単行本があり、出版されてすぐに買って読みました。 その時もきっと全く分からなかっただろうと思いますが、1991年に刊行されてすでに30年以上になり、自分が読んで理解できない本について、私は、老人的硬直さを大いに発するようになってきました。 30年前、分からなくてもきっと素晴らしい本なんだろうという理解というか、感情の動かしかたをもはや、しなくなったんですね。 わたくし、ふと思ったのですが、書籍にも最もふさわしい出会いの時期があるという言い回しは、こういうことを指しているのじゃないかと、遠くを目を細めてみるような寂しさとともに感じたのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.06.30
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『土に贖う』河崎秋子(集英社) 友人からの薦めのような形で、本書を読んでみました。 人から薦められるとか読書会の課題図書だとかがないと、なかなか新しい作家の本に手が伸びないのは、なんとなくいかんなあと思いつつ。 読んでから、ちょっとネットで調べてみたんですね。 すると、直木賞受賞作家とありました。なるほど、それっぽい感じではありますね。さらにもう少し読んでみますと、2020年に『土に贖う』で新田次郎文学賞を受賞し、2024年に『ともぐい』で直木賞を受賞と。 つまり今回の報告作品は、直木賞受賞以前の作品であります。 何が言いたいのかといえば、私は今回の本書について、まー、なんといいますか、さほど感心しなかったわけですね。 で、いわば、まだ「成長期」の作家だったころに書かれた短編集だったんだなと、そんなふうに納得をしたという事であります。 (これは閑話ですが、芥川賞受賞者の最初の作品集なんかで、芥川賞受賞作と一緒に受賞以前の作品が収録されていて、それがとても受賞作と比較にならない「凡作」であったりしたことありませんか? もっとも、芥川賞は入門者の賞で、直木賞は初級者の上りの賞だみたいな話は聞いたことがありますが。) ということで、以下の文章は、私があまり納得がいかなかった個所の説明となり、それはどうしてもあまり褒める文脈にならないだろうわけで、少し困ったなと思ってもいます。 例えばこんなところなんですがね。 「南北海鳥異聞」という短編の冒頭近く、時代は「明治も二十年を越えた」年、鳥島でアホウドリを撲殺する仕事をしている弥平と泰介という二人の「三十男」のせりふ部分です。 少し力が余ったのか、首の部分から骨が突き出して皮を貫き、血が白い胸の羽毛を汚している。それを見咎めたのか、弥平の背後から「おいこらぁ」と野太い声がかかった。「弥平。お前、血ぃ出させるな。力入れて殴りすぎだ」「何でだ。血が出ても出なくても、鳥殺すのは一緒だべ」「あほが。鳥の羽とるのに殴ってるんだから、その羽がきれいでないと値が下がる。力加減、気ぃつけれ」「悪かった。次は気をつける」 このセリフのどこに私はおやっと思うかといえば、この描写の後にこんな説明があるんですね。 弥平は今日はもうこうして二百五十羽ほども殴り殺した。 二百五十羽も殴り殺した後のせりふのやり取りとしては、少し変じゃないですかね。 私はこんなところが気になるんですね。 さらに二人は鳥を撲殺し続けていくのですが、泰介がこんなセリフを言います。「しっかし、弥平、お前はまったく躊躇しねえなあ」 そして少し先にこんな説明があります。 弥平と泰介は東北の山奥にある寒村の生まれだ。いずれも家は小さな農家で、弥平は上に三人も兄がいる末っ子のせいか、親にも周囲からも温かく目をかけられることはほとんどなかった。 私は、泰介のせりふの中の「躊躇」という言葉に引っ掛かります。 それはお前の勝手な感じ方だといえばそれまでですが、私はもっと別のこなれた言葉で説明できないのかしらと感じたりします。 他の作品にも、この作者の描写に対して、細かい指摘ではありますが、その表現が最もふさわしいのかなと思ってしまう個所が、私としては、けっこうたくさんありました。 例えば、別の短編小説で、昭和三十五年の「札幌近郊、江別市」の、父子家庭で父親が「装蹄所」を一人で営んでいる小学校五年生の男子が、父親と話をしている場面です。話題についての引用はしませんが、父親の会話に対して男の子はこう答えます。「なんか、割り切れない。納得できないよ」 どうなんでしょ。これもお前の変な思い込みだと言われたらそうなのかもしれませんが、私は小学五年生の男子が使う用語としては、「割り切れない」はかなり違和感を感じます。 さて、そんな細かい指摘をしてしまいました。 実は全体の物語の構造などについても、少し個人的に違和感のあるところはありました。しかし、短編集全体の「近代北海道開拓史の中で厳しい自然と共に生きる人々を描く」とでもいえる大きなテーマに、とりあえず真正面から取り組んだ作者の心意気は、いかにも壮とするべきで、その後この志が直木賞受賞に至ったについては、大いに納得できると思いました。 私は、次はその直木賞受賞作を読んで、物語の構造などについても鑑賞させていただこうと思うものでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.06.16
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『ここはとても速い川』井戸川射子(講談社) 私は本ブログに、去年の2月に本書の読書報告をアップしています。この度また読んだのは、私が参加している読書会の課題図書になったからです。 以前読んだときに、講談社文庫の本書を買ったので、今回もそれをもう一度読もうと思ったのですが、家のどこを探しても出てきません。 おかしいなあおかしいなあといいながら探したのですが、どうにも出てこないので仕方なしに自転車で走って行って、少し遠い目の図書館に単行本としてあった(文庫本はなかった)ので借りて読みました。 だから2度目の読書ですが、1年以上も前の作品だとあまり内容を覚えていません。でも1年程度前の再読本だと、読んでいるうちにあれこれ思い出していきます。 それはそんな再読の小説だからそう思ったのでしょうか、前回は少し読みにくいと思ったお話が(本書には二つの小説が収録されていますが、特にそのうちの、総タイトルになっているほうの小説が)、とっても読みやすく、さらには「感動」までしてしまいました。 それは「ここはとても速い川」という題名の小説で、筆者はこの作で野間文芸新人賞を受賞し、その次作の「この世の喜びよ」で芥川賞を射止めるという、まさに絶好調の時期の作品であります。 前回読書報告をした時私は、本作品の文体はかなり工夫してあると感じ、その文体について詩的な効果があると書いたのですが、しかし一方で、やはりどうにもわかりにくい個所が少なくないとも報告しています。 今回読んでもやはり、これ説明へたくそなんちがう? と関西弁で思ってしまうような、たどたどしかったり舌足らずに感じたりするところが、特に前半部に見られるかと感じました。 そしてそれについて、私なりに問題意識を持ちながら読んでいきました。 まず思ったのは、本文が、小学5年生の男子がおばあちゃんに自分の近況報告をするために綴ったノートであるという設定。(そんな種明かしっぽいことは、なんとなく気になりながらも、本作品を3/4くらい読んだところでやっと初めて明かされます。) つまりこの稚拙感は、小学5年生の思考や語彙力で書かれたことになっているからかと、まー、誰でもそう思うでしょうが、私もそう考えたんですね。(ただ、読んでいて、こんな語彙は小学5年生の男子の頭の中にあるかな? と思わないでもない箇所はありました。) しかし、最後まで読んだときに、わたくし、本当にあっと思いました。 本作の最終盤の数ページ。主人公の少年が園長先生に訴える場面の「外堀」のようなカタストロフィーと、さらに最後2ページの「内堀」のようなカタストロフィー。 この二か所を書くために、筆者は、文脈的には描写になっていないような「へたくそ」な一人称視点の説明文を作品中あちこちに張り巡らせたのか、伏線だったのかと思ったとき、私はほとんど鳥肌が立つように感じました。 それを詳しく報告するには、本当はその部分を引用すればいいのでしょうが、そもそもが流れ落ちる滝のように切れ目なく描かれているこの文体では、短く抜き出しようがないので、うまくいくか、こんな説明をしてみます。 これは有名な、萩原朔太郎の詩。 蛙の死 蛙が殺された、 子供がまるくなつて手をあげた、 みんないつしよに、 かわゆらしい、 血だらけの手をあげた、 月が出た、 丘の上に人が立つている。 帽子の下に顔がある。 この詩の中で、描かれている状況を説明している部分は、おそらく最後の一行だけだと思います。そしてその最後の一行は、何ら論理的な説明をしていないにもかかわらず、我々読者に、この説明しかないと思わせる説得力があると私は思います。 本書の表現をこの有名な朔太郎の詩と全く同様に理解することはできないとしても、私は、それが説明になっていなくてもこの表現しかない、この表現こそが最も正確に描かれているのだと感じさせるものが、本小説のラスト数ページに、外堀と内堀のように描かれていると思いました。 そしてその先には天守閣=少年の心の真実があると、強引に感じさせる文体のパワーを、私は感じました。 実は私は、本書のような未成年者の一人称で書かれる小説には、なんというか、やや安易さがあるんじゃないかと思っていました。すべての小説がことごとくそうではないまでも、表現の拙さを一人称の心理心情のリアルであるものとして、描くべき真実にぎりぎりまで誠実に迫る表現力を放棄している様に感じてきました。 しかし、本書の小学5年生男子の一人称は、その少年の真実の心のありようを描くという狙いに従って、最も効果を計算して採用されているのではないか(高齢で施設に入っている祖母に読んでもらうためのノート記述という設定についても)と思われ、そして力技で最後まで描き通した本作は、筆者の表現に対するある意味クールなこだわりが本物に近いものである気がして、ひょっとしたら、この作家はこの先大化けする方じゃないかなと、私は思った次第であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.06.02
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『女のいない男たち』村上春樹(文芸春秋) 何と言いますか、とても便利な世の中になってきまして……と、いきなり何のことだとお思いになられた貴兄、まー、いつものことながら、どうもごめんなさい。 何のことを書きだしたかといいますと、映画視聴についてなんですね。 一年ほど前から、日常生活にかなり時間的ゆとりができたもので、いくつか新しいことを始めようと思ったその中の一つに(新しいことを始めるといっても、なに、全くたいそうなことなどではありません。4つほど新しいことを始めようと思ったのですが、例えばそのうちの一つは、毎週一回女房とランチを食べに行こうなどという、……あ、これはけっこうたいそうな事かな……)、積極的に映画を見ようというのがありまして、それを実践していたら起こった感情であります。 それなりの都会の大きな映画館ではやりのものを見る、少し場末っぽい単館映画館ではやりとは言いづらいだろうという感想をまず持つものを見る、居住地域の公民館などで文化行事と銘打って実施される名作ものを見る、我が家は有線テレビなのでその膨大な今まではほぼ全く見たことのないチャンネルで放映されているものを見る、BS公共放送でも見る、アマゾン・プライムで見る、などと、まだこれ以外にもあれこれ見る方法があるのは一応知っていますが、きりがないので、これ以上の視聴機会追及はしていません。 で、視聴機会の数ということでいえば、とても便利な世の中になったなー、と、冒頭のつぶやきが出た次第であります。 で、冒頭の小説のタイトルから、ではこれかとお思いの貴兄、大当たりであります。 さらに、今時分になってなぜ、とお思いの貴兄、申し訳ありません、重ねてその通りです。初めて上映されて4年ほど経った先日私は、冒頭の小説が原作となっている濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』をアマゾンプライムで見ました。 で、とってもよかったんですね、いまさらながら。 この映画は、カンヌ国際映画祭で最優秀脚本賞を受賞していますが、私もこの映画の3時間にならんとする長いストーリーに、とっても感心しました。なんて上手に作ってあるんだ、と。 そして、最近積極的に映画を見ようとしているとはいえ、そもそもは小説が好きなわたくしでありまして、そこで原作読書に至る、と、こういうわけです。 村上春樹原作短編集は、わたくし再読でありまして、最初に読んだ時の報告も拙ブログに書いてあります。読み返しましたが、やはり覚えているぼんやりした記憶通り、申し訳ないながらあまり褒めてない感じなんですね。 しかし先に、映画と原作小説との比較に関して書いてみます。 本短編集には6つのお話が収録されていますが、ざっくり私がわかった映画原作となっているお話はそのうちの2つ(「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」の2作)が中心です。(いえ本当は、「シェエラザード」のストーリーは中心とはいえず、劇中劇ならぬ、劇中の人物が話す物語としてのみです。) そして、今回読んでいて、おやと発見したのは、別の短編「木野」から一つのフレーズだけが映画に引用されていました。そして、このフレーズは、とりあえず映画理解としてはかなりキーになるフレーズで、映画ではほぼ最終盤に主人公が言う、原作ではこう書かれているフレーズです。(原文にはこの引用部全体に傍点がついてます。) おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、 さて、本短編集には、この筆者には珍しい「まえがき」が付いています。(筆者も「そういうものをできるだけ書かないように心がけてきたのだが」と書いています。) そこに、本短編集全体のテーマが自作解説されています。少し引用します。 しかし本書の場合はより即物的に、文字通り「女のいない男たち」なのだ。いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち。 また、こんな風にも書かれています。 短編小説をまとめて書くときはいつもそうだが、僕にとってもっとも大きな喜びは、いろんな手法、いろんな文体、いろんなシチュエーションを短期間に次々に試していけることにある。ひとつのモチーフを様々な角度から立体的に眺め、追求し、検証し、いろんな人物を、いろんな人称をつかって書くことができる。そういう意味では、この本は音楽でいえば「コンセプト・アルバム」に対応するものになるかもしれない。 いかがでしょうか。上手に説明してありますねー。 しかし実は私は、少し困ってしまったのですが、上記の3つの引用部を合わせると、本短編集の内容はすべて理解できてしまったじゃないかと、思ってしまったんですね。 いえ、それはお前の浅薄な理解力での話である、というツッコミも持ちつつ、なんといいますか、いつも村上作品読後に漂う深い静寂のような広がりが、勝手ながら、色あせてしまうような……。 さて、再び映画に戻ります。 上記に触れましたが、本映画は3時間近くもの長さがあり、大きな設定的なものと主な登場人物の数名は原作に負っていますが、思うにストーリーや場面の7、8割は映画作成者の創造です。それもかなり巧妙に複雑に展開していく。 私は、映画視聴後そして原作本読了後、日常的なあれこれをしながら(ご飯を食べるとか庭仕事をするとかプールで泳ぐとかですね)ぼんやり以下のようなことを考えました。 本映画は、原作小説をまず素材として採用し、そこに実に巧妙複雑に物語を付け加えた。独立作品としてそれぞれの物語を見れば、おそらく映画のほうが面白いだろう。ただ、登場人物の心の闇の深さを描くということでいえば(それは一般的な映画と文学の比較としても同様であろうが)、原作小説のほうに、より深くそしてより暗いものがあるように感じる。……。 しかし、こういう関係って、ひょっとしたら、理想的な原作小説と映画化作品との関係じゃないかしら。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.05.18
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『御社のチャラ男』絲山秋子(講談社) 本書を読み始めて4章めくらいまで行った時、ふとこんなことを思いました。 ……で、チャラ男は、誰なんだろう? そして続けて私が思いついたことは、実に陳腐ながらこんなことでした。 結局チャラ男とは、作者だ。 ……うーん、フローベルの昔から、真理として言われ続けていることですからねー。 そんなんそういう言い方をするんやったらそうに決まってるやん、と、まあ、関西弁なら一人ツッコミをするところであります。 それに、チャラ男とは作者であるとしたところで、作品がより深く理解できそうでもありませんし…。 というところで、また気持ちを入れ替えて私は読書を続けました。 さて、本小説はこの単行本の帯にもその言葉のある「会社員小説」であります。 一時期、芥川賞受賞作なんかでも「会社員小説」ってはやったように思う(今でもそうなんでしょうか)のですが、女性作家に多かったような気がします。 それは、私としては、人間不在の現代の労働環境の中で、何より女性が第一にその矛盾の塊をひっかぶり、そして、まず声を挙げたからではないかと愚考するのですが、あわせて、かなり鋭い感性を駆使して描いた作品が多かったようにも覚えています。 ただ、私としては、繊細さや鋭さを持つ感性で描かれた「会社員小説」では、なかなか構造的な社会の矛盾に対する切込みが、やや乏しくなってはいないかとも、ちらりと愚考しました。 実は本書も、そんな女性作家会社員小説を長編小説として集めたものではないのかと、さらに読み進めていきながら、私は思ったんですね。章ごとに語り手を変えて、主人公「チャラ男」を背景から描いていく、その章ごとの文体の変化はやはり小説家としての筆者の力技であり、文学的力量であると感心もしました。 しかし感性的文章を数集めて構造的社会を広く描けるものであろうかという気も、やはり少ししました。 なにより、読んでいて、何か、引っかかるんですね。 この少しのイライラ感はなんだろうか、と。 私が、現在の第一線の企業現場について、ほぼ何の知識もないのももちろんそのせいではありましょうが、はっと気が付いたのは、登場人物全員が分析をするからじゃないかということでした。 これはある意味、多くの一人称小説に言えることでありましょうが、結局のところ、一人称小説の描写や文体とは分析にほかなりません。 その分析を、「生き馬の目を抜く」ような企業の第一線で活動する登場人物が行えば、そこに描かれるものは、言ってみればこざかしい批評家の講演会みたいになってしまいかねません。分析という名の悪意か無関心。これが読んでいて、私などには少しツライ。 後半さらに物語は、一人称が様々な自分語りの様相を強め、背景から描いていた主人公の姿を拡散させながら進んで行きます。 そして、カタストロフィが来ます。 私は決して出来のよくないカタストロフィとは思いませんでしたが、同時に感じたのは、現代小説において話を終わらせるということは難しいものだなあということでした。 それは、いわゆる古き良き時代の大団円が、もうすでに賞味期限切れに近くなっているからでしょうか。小説家も大変だなあ、などと思い、そしてちらりと、あれっと感じました。何かがつながった感じがしました。 それはまず、最終盤の一つ手前のエピソードに出てきたセリフでした。 その章の語り手は、そのセリフを「パワーワード」と描き、かなりエポックメイキングな言葉として説明しています。展開としては、そう読むことは十分可能なのですが、読んだ私は、ピンときませんでした。 それは、(この言葉に至るディティールは、すみません、省略しますが)「それはどうした」というセリフです。そして、語り手によってこんな分析がなされています。 「それがどうした」はすべてをぶちこわす言葉だった。パンクだった。理不尽なクレームにも、無理な要求にも上下関係にも、ルールやマナーの押しつけにも有効だった。 しかし最終盤を読んで、小説家も大変だなあと気軽に思った私があれっと思ったこの言葉の理解は、文脈としては無理やりの誤読でした。 つまり、「それがどうした」なんて言葉は、それを書いた者にも突き付けられないはずはない、という。 私は単なる小説の一読者ですが、小説家とは、「それがどうした」という剣先に、絶えずのど元を突かれようとしている方々ではないのか。「それがどうした」はむしろ、本書の各章各章で語られた一人称会社員小説に対してつぶやかれたものではないのか、と。 作者がぶちこわそうとしたのは、この小説そのものではなかったのか、と。 ……と、思ったとき、私は、もうここまで行くと妄想だとも感じながら、もう一つつながったと思いました。 それは、フローベル。 やはり「チャラ男」は作者であるのじゃないか、と。 つまり、この小説は「メタ小説」、小説とは何かを描く小説、ではないか、と。 いえ、無理は承知ながら。……。 (ただ、そう思って読むと、最終盤の「こども食堂」の話は、また何か深い味わいのあるたたずまいを見せるように私は感じたのでありました。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.05.05
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『橋ものがたり』藤沢周平(新潮文庫) かつてたまーにしか「時代小説」を読んでいなかった時は、わたくしもの知らずだったせいで(もちろん今でも十分もの知らずですが)、時代小説と歴史小説の違いがわかりませんでした。 ところが、なんとなくその違いを知りまして(知ってしまえばほぼ当たり前といっていいようなものでしたが)、なるほど、今回読んだ作品なんかは、典型的な時代小説であるなあと理解し、しかしそう理解したところで別に作品の深い鑑賞ができるわけではないこともまた、まー、当たり前であります。 冒頭から、なんかくねくねした変なこだわりの一文を書いてしまったのは、本書の解説から、人情短編時代小説というのは時代小説の本道だと教えてもらったからでありましょうか。 割と理屈っぽい私は、そこから、そもそも人情テーマの時代小説とは何なのかなどと、考え始めたのでありました。 いえ、考え始めたといっても、すぐ頭に浮かんだのは関川夏央がかつて、そんな時代小説を分析した本を書いていたなあということで、確かそれは、我が拙ブログでも報告したぞと思い出しました。(『おじさんはなぜ時代小説が好きか』岩波書店) で、昔のブログ記事を読んでみると、なるほど、あれこれぐちゃぐちゃと書いてありました。 で、分かったのは、関川夏央は、時代小説はユートピア小説であると言っているという事でした。そして、本書を読んだ私は、なるほどその通りだと、全くすとんと理解するに至ったのでありました。 ユートピア小説としての人情時代小説。 義理と人情の葛藤を、そのままストレートに書いて感動を生み出してくれる。 例えば、ずっと初恋の異性を愛し続ける。親の病気のために苦界に身を落とす。一身につらい修行に耐えてやっと一人前の職人になる。やけになって瞬く間にばくちで借金を抱える。そして、そのことを酒と涙とともに苦悩する。……。 ……「橋」に目を付けたのがいいですよね。 橋は国境であり、出発点であり、そして終着駅であります。つまり、過去現在未来。 10の短編小説が収録されていますが、どの話にももちろん橋が出て来て、朝昼夜、春夏秋冬の川岸水際の風景が、なかなかに素晴らしい。作者の筆の見せ所だと思いました。 10ある話のほとんどが、それなりのハッピーエンドになっていると思いますが、わたしの読後感でいえば「氷雨降る」と「殺すな」には暗いものが残ると思いました。 実はこの暗さは、かつて私がこの筆者の初期の短編小説を読んだときにかなり強烈に感じた暗さの名残でした。 それは、かなり苦い感じのもので、救いのなさとか虚無感といったものを感じ、読んでいて驚いた記憶があります。 この度本書を読んで、多くの作品に愛する女性を失うなどの、ヒロインの不幸が描かれていることが少し気になりまして、安易ながら少しググッてみますと、案の定といいますか、この筆者が若い頃に病気で妻を失っていることを知りました。(初期作品の激しい虚無感もここからのものでしょうか。) で、上述の「殺すな」の短編ですが、私はこのお話が本書の中で一番出来がいい(私としては一番納得できる)と思いました。 決してハッピーエンドではない終末に向けての展開の中で、登場人物の心理の流れに無理がなくスムーズにストーリーが展開できていると感じました。 そしてエンディングのこの暗さは、一種リアリティではないか、と。 そもそも短編小説には、展開上作為がちらちらと感じられるのはやむを得ない所があります。(もちろんそんな作為を超えた素晴らしい短編小説は多々ありましょうが。) 私はいわゆる「純文学系」の作品が好みなせいでしょうが、作為の先に「余韻」のある作品が好きです。 ただ、感心するような「文学的余韻」のある短編小説は、そう誰にでも書くことはできないし、本来そんな才能を持っている作家でも、作家生活の限られた一時期にしか、なかなか作り出せないものだと思います。 本短編集が、筆者のそんな至福の時期の作品であったのかどうか、わたくしには何とも言い難く、しかし、江戸時代の大小様々の木橋の情景はたっぷりと浮かんできて、なかなか情緒深く描かれているものだと感じました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.04.21
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『ある男』平野啓一郎(文春文庫) 実は本作を読んだきっかけは、近所の文化ホールの様なところで本作を原作とする映画を上映していて、それを見たからなんですね。 最近私はけっこうたくさん映画を見ていて、もちろん楽しんでみているのですが、その評価ということになると、どうも、今一つよくわかりません。 まぁ、精力的に映画を見始めてまだ1年程度だからと、少し自らを慰めています。 で、その見た映画がなかなか良かったんですね。しっとりと落ち着いた力作という感じの、いかにも見ごたえがあったという感想を持ちました。 で、まあ、本小説にも手を出したわけであります。 映画と原作小説(別に漫画でもいいのですが)の関係については、昔、誰か小説家が自作が映画原作になったとき、こう考えたというのを読んだ覚えがあります。 それによると、映画と小説とはいわゆるメディアの質が全く異なるものだから、自作が原作であっても、映画側にそれを材料として渡した段階で、ほぼ別作品だと考えることにしている、という趣旨の文章でした。 わたくし、この説をとっても納得して今に至っているんですね。 で、『ある男』について、まず映画で見て、それからこの度小説を読了しました。 小説は、文庫本で360ページほどもある長編で、映画は何か所か端折った感じになっていたように記憶しますが、ほぼ、原作通りに作られていることがわかりました。(映画の方ラスト近くに、小説にはないわりと重要だと思えそうなるセリフがあって、その違いはなかなか興味深かったですが。) で、まず、比較して考えてみました。 映画は、2時間前後がまぁ標準ゆえに、小説中のエピソードをかなり丁寧に取り込んではいるが、どうしても各々が「薄味」っぽくなっていたかな、と。 映画とは省略の芸術である、なんて言葉をどこかで読んだことも思い出しました。 と、いうのも、実は本小説は、かなり多くのいわゆる現代日本社会の「問題」が描かれよう、少なくとも提出されている物語であります。 ざっくりどんな「課題」が提出されているか、挙げてみますね。 難病治療と副作用。臓器移植と家族ドナー。在日韓国朝鮮人をめぐるヘイト問題。来るべき大震災罹災後の社会情勢。死刑の是非。凶悪犯罪者の家族について、等々。……。 かなりのヘビーな問題が描かれようとしています。 そしてこれらの中心にあるのは、本文中あちこちに書かれていますが、こういうテーマです。 「人生は、他人と入れ替えることが出来る。」 「人生のどこかで、まったく別人として生き直す。」 「何もかもを捨て去って、別人になる。」 この中心テーマだけでかなり重そうなのに、そこに様々な「課題」が描かれようとして、どうでしょう、私は少し満腹、あるいは消化不良感がしました。 しかし上記に挙げた主テーマの展開については、感覚に流れず、構造的にかっちりと書き込んでいるとも思いました。 このテーマは、いわゆる「自分探し」の近くに位置し、昨今の新しい作家(女性作家が多い気がします。人間疎外の労働状況の影響を、女性勤労者が一番受けやすいからでしょうか。)が再三テーマとして(かつ感覚・主観的に)描いている気がします。 しかし本作は、自分探しの方向には向かわず、個人を取り巻く客観的社会状況の方にそれを持って行って描こうとしているように感じました。(繰り返しになりますが、ただ盛り込みすぎ感が、私としては、少し残念です。) ただ、私はこのようにも考えました。 上記に短く引用した文の、特に一番目の文などは、かつて「純文学」的には、少し異なったアプローチが主流だったのではないか、と。 それはつまり、存在論的な迫り方ですね。 私が今浮かぶ作家や作品でいいますと、埴谷雄高の諸作品や、安部公房の『他人の顔』『箱男』などであります。 もちろん時代が大きく変わっていますから、そういった「純文学」的テーマも変質していったと考えられます。 ただその結果、本書はかなり読みやすくなり、そして少々「感傷的」にも読めそうになったかな、と、わたくし、愚考いたします。 いえ、それは、毀誉褒貶云々という事ではなくて……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.04.06
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『阿弥陀堂だより』南木佳士(文春文庫) 本文庫の解説文を書いているのが、小泉尭史という映画監督の方で、わたくし寡聞にして存じ上げなかったのですが、本書を原作とした映画を撮った監督であります。 映画監督が小説の(それも自分が撮った映画の原作小説の)文庫本解説を書いているというのは、これもわたくしよく知らないのですが、私としてはとても珍しく、なかなか面白く解説を読みました。 小説と映画の違いというのは、今私がけっこう興味を持って考えているいる事で、例えば、本解説にはこんなことが書いてありました。 小説で存在感のある人物に出会うことは、シナリオを書く上で確かな力になります。しかし厄介なことにシナリオを基にした映画は小説よりも詩に、詩よりも音楽に近いものです。 映画は音楽に近いというのは、なかなか興味深い表現ですね。 私は読んでいて、なるほどと思うところとても多いと感じました。 と、そんなのを読んだので、ではその映画を見たいものだと思い、ネットで少し探したら見ることができました。 そこで私はこの度、小説をはじめ三分の一ほど読んだところで、それを原作とする映画を見て、見終わった後に、残り三分の二くらいの小説を読むという体験をしました。 これもなかなか興味深い体験でした。 映画の前半部を見ている時は、この場面は小説のあそこに書かれていたものだなと感じながら視聴し、映画を見終わって読書を再開した後は、この描写は映画ではああなっていたなとか思いながら読みました。 どちらも興味深く、共に深く理解できたような気がしました。 また、そんなことをしたから、より上記の「映画は小説よりも詩に、詩よりも音楽に」という表現に、「なんとなくわかるなー」感を持ったのかもしれません。 では、映画の原作としては少しおいて、単独の小説の読書報告としてはどうなのか、本文中にこれもなかなか興味深い表現があります。 本書の主人公(上田孝夫)は小説家で、有名な新人賞を受賞したもののその後、なかなか筆が進まず「鳴かず飛ばず」状態が長く続いているという設定ですが、このように書かれています。 「上田さんの小説は素朴で粗削りな部分も目立ちますが、文章の骨格がしっかりしています。こういう新人作家は磨けば光ります。どうぞじっくりと磨いてください」 多くの地道な生活者たちの平凡な感情に共鳴する小説を書きたい。できれば単行本を出版したい。それさえ実現できれば、他に望むものはないのだが。 一つ目の文は、編集者から言われた言葉ですが、二つ目の文の孝夫自身の感情の描写も含めて、そのまま本小説のいわば「ポイント」になっている気がします。 つまり本書は、設定、文体、テーマ、どれをとっても素朴といえばきわめて素朴で、しかも誠実に一生懸命書いているような感じがします。 ただ、「粗削り」というのは、どういう意味なのか少しわからないのですが、いくつか、読んでいて分からない、というか、その表現が本当に最もふさわしいものとして選ばれているのかなと思うようなところがありました。 例えば、終盤部にいきなり小説家開高健のエピソードが出てくるのですが、このエピソードなんかも、わたしにはかなり唐突感がありました。 しかし、そんなことを言えば、そもそも私は、本書に何度も出てくる地域の広報誌の囲み記事「阿弥陀堂だより」の文章の魅力がよくわかりません。 ひょっとしたら私は、本小説にとってふさわしい読者ではないのかもしれません。 (中盤あたりに、阿弥陀堂を守っている老婆が主人公に、小説とは何かと尋ね、答えきれないでいると、同じ場にいた重要登場人物である誠実な若い娘が、「小説とは阿弥陀様を言葉で作るようなものだ」と答え、老婆が納得するという挿話があるのですが、これも私にはあまりよくわかりません。) もちろんそんな個所ばかりではありません。 冒頭に映画との比較について少し触れましたが、やはり小説には、映画ではなかなかそこまで踏み込めない人間や状況に対する深い洞察があったりします。 作家として誠実というのは、そのような洞察や真理をいかに最適に表現するかについて、徹底して考え続け言葉と文章を選び続ける精神を言うのだと思います。 (そう考えれば、上記に少し批判的に取り上げた開高健のエピソードも、開高健の研ぎ澄まされたような文体のことを思い出せば、何が言いたくて書いたのかわからないというわけでありませんが……。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.03.23
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『「私」をつくる』安藤宏(岩波新書) もう10年以上前になりますか、いろんな本をやたらに乱読していた(それもカルめの本を)のを反省し、心機一転、今後は近現代日本文学を中心に読書しようと、今となってはその理由もよく覚えていませんが思って以来、特に推理小説だけというわけではないのですが、あまり推理小説も読みません。 ところが少し前に、久しぶりに一冊推理小説を読んだら、読んでいるときは推理小説の読書らしく、それなりにはらはらしつつ読んでいたのですが、読み終わったら、どうも、なにか、「引っかかる」んですね。 しばらくぼんやりと考えて、あ、それは「思った」のではなくて、「思い出した」のだと気が付きました。 昔、推理小説を読んだときに感じたこと、それは、私は作者に騙された感じが嫌だ、ということでありました。 もちろん、推理小説ですから、いわば作品中の「犯人」の仕掛けたトリックに騙されないように「名探偵」のつもりで読むところに、その面白さの醍醐味があることは、一応知っているつもりであります。 私の言いたいのは、犯人に騙されるのはいい、でも作者に騙されるのは、なんとなくいい感じがしない、という事であります。 冒頭の本書の読書報告に近づけるべく、言い方を変えればこういうことです。 作者に騙されての違和感というのは、三人称の文体の地の文に断りなく「嘘」が描かれる(仄めかされる)のは、いくら推理小説とはいえ納得がいかない(少し嫌な感じがする)という事であります。 さて、「三人称の文体」という言葉がやっと出てきましたが、冒頭の本書のテーマがそれにかかわっています。(実はそれは、「一人称の文体」でも同様の問題点をはらんでいるということですが。) 本文から、その問題意識が書かれている個所を引用してみますね。実はこれは近代小説が抱え込んだ大きな課題でもあった。なまじ〝話すように書く〟などという試みを自覚的に始めてしまったために、近代の小説は「話しているのは誰なのか」という問題、つまり作中世界を統括する主体がどのような立場と資格で語るべきなのか、という課題に突き当たることになってしまったのである。 ちょっと例を交えて(この例は文中にもある例ですが)、説明してみますね。 「彼は走った」 「彼は走ったのである」 この「~た」と「~のである」の二文を比べた時、後者の文には、微妙に誰かの主観が感じられる、そこには「話し手の判断」がある、というものであります。 どうですか。この問題意識がすでに、かなりスリリングではありませんか。 これらの事柄について、特に本書前半部に、あれこれ詳しく分析説明がなされているのですが、ざくっと、で、どう考えるの、の部分だけ、かなり端折って抜いてみますね。あえて言えば、それは外からの視点ではなく、物語の内部に浮遊する虚構の知覚主体なのであり、個々の場面に出没し、ひそかにのぞき見し、聞き耳を立てつつ、それでいて自身が存在しないかのように抑制的にふるまう、隠れた「私」なのである。 ……なるほど、ねえ。 私が、推理小説を読んでいて、微妙に嫌だなと思った原因はこれだったんですね。 さらに、上記には私は「作者に騙される」と書きましたが、本書で取り上げている「隠れた『私』」は「叙述主体」とも表現されており、作者とは全く別の「主体」であると書かれています。(なるほど、これも納得ですね。) つまり、私の違和感の正体は、「叙述主体」が物語の「犯人」と、微妙な共犯関係を持ちつつそのことを伏せたまま叙述しているせいだ、少なくとも、多くの推理小説の結末部の「種明かし」に至る部分までは、ということであります。 ということで、本書のおかげで私の推理小説に対する違和感はかなり拭われたのですが、実は本書の分析は、そのことだけにとどまっていません。 「叙述主体」のそもそもの来歴から始まって、その働き、もたらしたもの(言葉の豊かさ)と失ったもの(表現の矛盾)という功罪全般、そしてさらには今後の克服すべき課題と可能性にまで及んで、実に詳細に分析解説されています。 そのうえ、ちっとも難しく書かれていません。私のイージーな頭脳でも、一応はそれなりに理解できるように導いてくれます。 ということで、そのあたりは、ぜひお読みいただければ、と。 「是非お読みいただければ、と。」と今私は書きましたが、この表現にはどんな要素が存在していて、どんな仕掛けがどんな働きをしているのかなど、そんなことも書かれています。ぜひ。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.03.09
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『墨東綺譚』永井荷風(新潮文庫) この作品は2度目の読書報告をするのですが、前回同様、最初に一言申し添えます。 「墨」の字が、違うんですね。 本書の最後に「作後贅言」と銘打った筆者のあとがきのような文章(これがけっこうたくさんのページになっていて、少し気になるところでもあるのですが。)があって、「ぼくとう」の「ぼく」の漢字が、サンズイ偏に「墨」であることについて、「林述斎が墨田川を言現すために濫に作ったもの」とあります。 そして私の用いている日本語変換ソフトに、その字がないんですね。 なんかとっても情けないのですが、ご勘弁いただくということで、よろしく。 ということで、本書2回目の読書報告です。 多分、3回は読んでいる(ずーっと若い頃に初めて読んだ記憶があります。まー、100ページほどの薄い本ですから。)と思いますが、この度読んでちょっと驚きました。 というのも、ずっと若い頃読んだ感想についてはもちろんほぼ忘れていますが、2回目の読後感想は拙ブログにあり、そこには「僕はもう一つ面白く感じなかった」と書いてあります。 で、そのことを覚えていながらこの度読み始めて、しばらく読んだ段階で、すでに私は、「これけっこうおもしろいやん」と感じたんですね。そしてそのまま最後まで、とっても面白かったです。 ……うーん、この違いって、我がことながら、一体何なんでしょうねえ。 本書解説にもありますが、この小説は、荷風の代表作のように評価されていますが、私も今回読んで、なるほど納得できると思いました。 なぜこの面白さを、かつては感じなかったんでしょうねえ。 ……うーん、困ったものだ。(と、とりあえず他人事みたいにごまかして。ごめんなさい。) で、なぜこんなに面白く感じるのか、やはりちょっと真面目に考えてみました。 そしてそれは、割とすぐに気が付きました。 とってもたくさんの「読者サービス」が施されているからです。 でも荷風って、こんなに読者サービスをする作家だったんですかね? そのサービスを、ちょっとパロディっぽく項目にして挙げてみますね。 入れ子仕立て物語 懐かしの明治風俗ガイド 夜の東京探訪記 変身わくわく体験記 娼婦遊び心得入門 軟派小説の読み方 と、いかがでしょうか。(少しふざけすぎていますでしょうか。) しかし、ざっくりこんな内容の小説を、荷風は昭和12年朝日新聞夕刊に連載したんですね。 すると、文中にしばしば出てくる、関東大震災で崩壊した江戸期の都市風俗のノスタルジアに加え(江戸風俗は関東大震災で完全に息の根を止められたとは、私も何かで読んだことがあります。)、迫り来る世界大戦に向けて日々厳しく窮屈になっていく世相の拡がりという、まさに絶妙のタイミングに書かれた本作は、圧倒的な人気を博し、「荷風復活」と称されたそうです。 ……「荷風復活」 なるほど、本作で「復活」と称される文壇状況に、本作執筆直前の荷風はいたわけでありますね。(これについては、ネットでも少し調べればいろいろわかりますが。) しかし、それらに加えて、やはり何と言っても本作が人気を博したのは、やはりこんな部分でしょうか。(どちらも玉の井の娼婦「お雪」についての描写。) 性質は快活で、現在の境遇をも深く悲しんではいない。寧この境遇から得た経験を資本にして、どうにか身の振方をつけようと考えているだけの元気もあれば才智もあるらしい。男に対する感情も、わたくしの口から出まかせに言う事すら、其まま疑わずに聴き取るところを見ても、まだ全く荒みきってしまわない事は確かである。わたくしをして、然う思わせるだけでも、銀座や上野辺の広いカフエーに長年働いている女給などに比較したら、お雪の如きは正直とも醇朴とも言える。 お雪は毎夜路地へ入込む数知れぬ男に応接する身でありながら、どういう訳で初めてわたくしと逢った日の事を忘れずにいるのか、それがわたくしには有り得べからざる事のように考えられた。初ての日を思返すのは、その時の事を心に嬉しく思うが為と見なければならない。然しわたくしはこの土地の女がわたくしのような老人に対して、尤も先方ではわたくしの年を四十歳位に見ているが、それにしても好いたの惚れたのというような若しくはそれに似た柔く温な感情を起し得るものとは、夢にも思って居なかった。 いかがでしょうか。 こうして二つの部分を並べてみると、なんというか、人気の秘密が案外単純なものであることに気が付きますね。 要するに、物語の土台にあるものは、若く純朴な異性に思いがけず心を寄せられる年配男性の、まー、ファンタジー、ですかねえ。 いえもちろん、そればかりではないことは、上記に少しふざけた調子で書きましたが、「入れ子仕立て物語・懐かしの明治風俗ガイド・夜の東京探訪記」などについて、実にしみじみと語っているその筆致に、十二分の読みごたえがあることからもわかります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.02.25
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『出世と恋愛』斎藤美奈子(講談社新書) 筆者は、筆者紹介によると文芸評論家となっています。 まー、そうでしょうねー。私としても、デビュー作の『妊娠小説』を面白く読んで以来、なかなかフェイヴァレットな文芸評論家だと思って何冊か読んできました。 しかし、文芸評論だけでは今の時代やっていけませんようで、社会学っぽい本や、先日読んだのは政治の本でしたが、そんなのも執筆なさっています。 でも、そんな意味でも頑張っていらっしゃるという感じではあります。 しかし、今回の本はちょっとつらそうな感じです。 というのは、サブタイトルがついてまして、それには「近代文学で読む男と女」とあります。 そして、漱石の『三四郎』、鴎外『青年』、花袋『田舎教師』で第一章が始まり、第二章は続く大正期、武者小路『友情』、藤村『桜の実の熟する時』、細井和喜蔵『奴隷』、第三章はなぜか時代が戻って、蘆花『不如帰』、紅葉『金色夜叉』、伊藤左千夫『野菊の墓』と、まだもう少し先はあるのですが、そんな風に描かれていきます。 で、タイトルとサブタイトルを見て、取り上げられてある作品を考えあわせれば、なんとなーく、どんな恋愛になるか、見えてきちゃうんですよね。 で、んー、まー、やはりその通りに進んでいきます。 「序章」の小題に筆者が書いた表現でいえば、こうなります。 青春小説の王道は「告白できない男たち」 まー、そうでしょうねー。 特に「出世」と絡めますと、男の側はそうならざるを得ないような気がします。 序章の小題にもう一つ、上記の表現とペアで、こういう風にあります。 恋愛小説の王道は「死に急ぐ女たち」 これもその通りでしょうねー。(このテーマは以前わたくし、確か「女の子を殺さない…」云々という文芸評論を読みましたよ。よく似た主旨じゃなかったでしょうかね。) さて実は、上記第三章の後にはまだ続きがありまして、有島武郎『或る女』、菊池寛『真珠夫人』と続いて、そしてやっと女性作家による作品、宮本百合子『伸子』、野上弥生子『真知子』が出てきます。 ここに至って筆者の分析トーンも変わって、「伸子」「真知子」頑張っている、となるのですが、やはり当時の日本国の社会情勢の中では、なかなか苦戦防戦となります。 以上のように、本書全体の展開は、まー、言ってみれば、ほぼ読む前から予想されていた流れではあります。 いえ、だから、本書がつまんないと言っているわけではありません。 読み終えた後本書のテーマをざっくりまとめるとこうなってしまうといっているだけで、それぞれの部分の分析はなかなか興味深いことが書かれています。(私が最も面白かったのは島崎藤村のくだりで、藤村作品はまず「暗い、まどろっこしい、サービスが悪い」と一刀両断されて、そしてなぜ「サービスが悪い」のかに焦点を当てて分析されています。興味深い。) というわけで、もちろん私が個人的なものとして小説が好きだからということはありつつ、興味深く読むことができました。 筆者について私は以前から、「分析の運動神経の良さ」という言い回しで評価しているのですが、本書にもそんな展開が随所で読めました。 最後にそんな一つですが、そもそもなぜ日本近代文学が「告白できない男」と「死に急ぐ女」になってしまったのか、最終盤にこのように書かれています。 (略)死んだ歴代ヒロインは、草葉の陰で合唱していたのではないか。 私だって、べつに死にたくて死んだわけじゃないのよ。持続可能な恋愛が描けない無能な作家と、消えてくれたほうがありがたい自己チューな男と、悲恋好きの読者のおかげで殺されたのよ。 私は「持続可能な恋愛が描けない無能な作家」というところにもっとも共感します。(しかし、作品はその時代の上に現れるものですから、作家一人のせいではもちろんありませんが。) そしてふと、いや、あれはそうじゃない作品だぞ、と、私が知りうる限りではほぼ唯一の「例外」作品を、思い浮かべました。 多分「持続可能な恋愛」を描き切った作品だと思います。 (そういえば、この小説家の作品が本書には取り上げられていないということも、それを裏付けているように思います。) この作家のこの作品。 谷崎潤一郎『春琴抄』 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.02.10
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『百年泥』石井遊佳(新潮文庫) 近代日本文学に哄笑できる作品は少ない、というのは、別にわたくしのオリジナルな発言ではありません。多くの方がお考えのことにわたくしも賛同しただけのことであります。 この度の紹介図書は2018年の芥川賞受賞作でありますが、わたくしも何人かの芥川賞受賞作家の、それも、女性の方が主で、いくつかの作品を読んでいますと、なかなかセンスのいい笑いを提供してくれる方が結構いらっしゃることに気が付いています。(一例だけ挙げてみますと『コンビニ人間』村田沙耶香など。) でもその笑いは、哄笑、というのとは少し感じが違う、自虐ネタ、ぽいものではないかとも思います。 で、さて、今回の報告図書であります。 本書は、最初にざっくり書いてしまうと、「ホラ話」であります。(少なくとも前半は。詳細後述) そして「ホラ話」とは、まさに西洋文学の本流であります。 私の貧弱な知識でも、例えば、マーク・トゥエイン、『トリストラムシャンディ』、『ガルガンチュワとパンタグリュエル』など、そうそうたる作家作品が挙げられます。 そんな「ホラ話」の系譜に、舞台がインドというわけで、そこには南米文学的マジックリアリズムがかぶさってきたもの、という感じのする小説であります。(少なくとも前半は。後述) チェンナイ生活三か月半にして、百年に一度の洪水に遭った私は果報者といえるのかもしれない。 この一文で作品は始まります。 豪雨がやんだ後、氾濫したアダイヤール川に掛かっている橋にあふれる「百年泥」の様子が描かれます。 そして、文庫本のページでいえば17ページめ、橋の上を歩く「私」の場面にこう書かれています。 (略)うとうと考えたところへ私の真ん前を歩いていた黄色いサリー姿の四十年配の女性が、いきなり泥の山の中へ勢いよく右手をつっこみ、「ああまったく、こんなところに!」 大声で叫びながらつかみだすと同時にもう一方の手で水たまりの水を乱暴にあびせかけ、首のスカーフでぬぐったのを見ると五歳ぐらいの男の子だった。 ……いきなりのこの描写を読んで、えっ? と戸惑わない読者はいないと思いますが、その戸惑いにめげずに読み進めると、その先は哄笑を伴いつつも迷宮のような「ホラ話」に突入していきます。 また、その書きぶりが極めて真面目で堅実。易しく丁寧な文体と来ていますから、真面目な顔してウソをつく、そのものであります。(新潮文庫カバーに筆者の写真が載っているのですが、真面目そうなお顔の女性があります。まー、得てしてこんな真面目タイプこそ「ウソつき」なのかもしれませんがー。) 泥の中から、いろんな人々や主人公にとって様々な過去を思い出すものが現れてくるのですが、ちょうど中盤あたりで、やはり泥の中からガラスケースの「人魚のミイラ」が出てきます。 ここからが、後半ということができるでしょう。 後半はその「人魚のミイラ」と重なって、イケメンのインド人青年の過去が大きくクローズアップされてきます。 (そのイケメン青年について、いかにイケメンであるかのエピソードが書かれてあって、「顔から血の気がひくほどの美形の男」とか、そのイケメンに上目遣いでじっと睨まれた「私」は一瞬意識が飛んで座り込んでしまい、「手をやると顔の両脇の髪がちりちりに焦げている」などと書かれてあります。よーやるわ。) そして、後半ですが、それが、ざっくりまとめると、自分探しの話になってくるんですね。インドまで旅をしてたどり着いた「私」が、過去を振り返って自分を見つめる、という。 そんな展開自体が悪いとは、私も思いません。 やはり「自分探し」は文学の大きなテーマだと思います。ただ、そこに、やはり少しの既視感がみられ、前半のまれにみる「ホラ話」と比較したとき、少し描かれた空間が縮んだ気がしたというだけであります。 ただ、最終盤、もう一度すべてをご破算にする泥掃除が描かれます。 このエンディングは悪くないと、私などは強く感じるものでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.01.27
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『海』小川洋子(新潮文庫) 知人に薦められて本書をネット経由で手に入れました。私は、同筆者の本は今までに何冊か読んでいます。 それはそんなにたくさんとは言わないまでも、短編集なら、芥川賞受賞作の載っている短編集や、刺繍する少女の話の本や、なにか確か瞼を焼くような話だった本や、などを読みました。 長編小説は、例のベストセラーになった記憶障害を持つ数学者の話とか、河馬を飼う話とかを読みました。 また、小川氏は関西にお住まいなので、以前ある大学で行われた氏の講演会にも、わたくし行きましたよ。とても興味深い講演会でした。 ということで、久しぶりという感じは少しありましたが、本書を読み始めました。 七つのお話が収録されています。 適当な順番で三つほど読んだ後、ふと目次に戻って見ていると、あれ、このタイトルの話は以前読まなかったかなという気がしました。で、その話の冒頭を少し読んで、あ、この話は間違いなく読んだことがあると気づきました。 じゃ、一体どの本で読んだのか? だって、ほかの話は初読なのに……。 そこで、書棚の奥をごそごそしてみて、二つも驚いたことがありました。 ひとつは、我が家には小川洋子の文庫本が20冊以上もあったこと。 もう一つは、その中にこの『海』の本もあり、明らかに私が読んだ後が残っていたことでありました。 ……うーん、改めて、我が記憶の信頼できないことが証明されたようで、なんとも、いわく言い難く……。 ということで、我が記憶力の不明を恥じるきっかけとなった短編小説は、「バタフライ和文タイプ事務所」であります。 本短編集の中では最も異色の、というより多分、いわゆる「小川洋子調」諸作品のほとんどとは甚だしく毛色の変わった小説であります。 私は、小川洋子の小説を読んで、これほど声をあげて笑ったことはありません。(以前読んだときはどうだったのか、私の情けない記憶力ではすでに忘却の彼方であります。) ところで本書は興味深い内容になっていまして、七つの短編小説の後ろに、筆者のインタビューが収録されています。そしてそこで、筆者自身が、収録作品の解説めいたことを述べているんですね。 そして、その後ろに、別の方の本来の文庫本らしい解説文がある、と。 たまーに、筆者の前書きや後書きのある文庫本がありますが、その類ですかね。でも、インタビューは珍しく、また、その内容が、各短編のかなり丁寧な「メイキング」になったりしていて、収録作品読解がとてもしやすい、と。 わたくし、上記に触れた小川氏の講演会に行った時も感じたのですが、とても誠実な感じの人だなあ、と。本書の「インタビュー」も、その延長なのかしら、と。 ……えー、ちょっと話が横ずれしました。 「バタフライ和文タイプ事務所」の話でありますが、インタビューによりますと、この短編は官能小説執筆を依頼されて作った、と。 えー、本当かなー、と思いませんか? 小川洋子に官能小説を書かそうなんて、そんなことを、編集者は考えるんでしょうか。 でも、誠実な小川氏は、果敢にそれに挑戦するんですね。この辺が、実に真面目、誠実でありますねー。 で、出来上がった作品を、私なんかは、ぎゃははは、と声を出して笑いながら読むわけです。 でもそれは、私が変なのではなく(たぶん)、小川氏がそれを狙ってこの作品を書き上げたからであって、事実、出色の日本文学には類いまれな上質な喜劇小説になっています。(わたくしが思うに、日本文学の上質な喜劇小説は、初期の漱石、中期の太宰治、そしてその師であった井伏鱒二の何作かの短編、後はすぐには浮かびません。) という、出色異質の短編小説なのですが、それ以外の作品は、打って変わって、「正調」小川節の短編群であります。 残り6作中、2作はきわめて短いスケッチのような作品で、もちろんそこにも「小川節」は読み取れないわけではありませんが、とりあえず、この2作は外して、私の好みで上位2作を選びますと、……えー、こうなるかな、と。 「ガイド」「海」 さっきから「小川洋子調」とか「小川節」とか、少しふざけた感じの表現をしてしまいましたが、私は、小川文学の文学性の高さを保証している属性は、この二つではないかと思っています。 残酷とエレガンス 漢字とカタカナのバランスの悪い取り合わせでありますが、「エレガンス」は辞書の意の通り「優雅・気品」でしょうか。 また「残酷」の方は「奇妙」あるいは物体としての「奇形」でもいい気がします。 残酷(奇妙)さを内に含んだ、あるいは残酷(奇形)であるが故の「優雅・気品」という印象が強く、小川氏の小説が、フランスでよく読まれるというのは、さもありなんと、感じてしまいます。 ただ、本書収録作品は、残酷(奇妙・奇形)はありながらも、より前面に出ているのは、いわゆる様々な社会的弱者への慈しみの感情であり、それが大きな作品の魅力になっています。 加えて、上記に私がその中でも2作品を特に選んだのは、これらの作品には、筆者の虚構に対する信頼と自信めいたものが強く描かれていると感じたからであります。 例えば、それは「ガイド」においては「題名屋」という初老紳士の存在であります。 それは、終盤、少年が紳士にこの一日に題名を付けることを願う場面に集約され、私はこの場面を思わずうなりながら読んでいました。 一方「海」においては、「小さな弟」と「鳴鱗琴」という設定もさることながら、そこに持っていくまでの筋道に、私は戸惑いつつも感心してしまいました。 この大胆すぎる話の展開は、もちろんきわめて独創性の高い筆者の文才の生み出したものではありましょうが、それを描くにあたって、筆者が虚構の力というものを強く信じていることが、ひしひしと感じられるようでありました。 このようにして、作者は、虚構の力を信頼し自信をもって残酷とエレガンスを描き、そこに我々読者は、しっとりと人生の静かな悲しみの感覚を読み取る、これこそが小川文学の大きな魅力だと、私は感じるものであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.01.13
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『名もなき「声」の物語』高橋源一郎(NHK出版) 本書の奥付の前のページにこう書かれています。 本書は、「NHK100分de名著」において、二〇一五年九月に放送された「太宰治『斜陽』」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「太宰治の十五年戦争」「おわりに」を収載したものです。 こうあって、次ページ奥付に、2022年7月25日に第1刷とあります。 そして上記引用文で触れられた「太宰治の十五年戦争」特別章の冒頭には「数日前に、戦争が始まった。ロシアがウクライナに侵攻したのだ。」とあって、かなり緊張感のある展開の章となっています。それは、例えばこんな部分からも、ひりひりする感じで伝わってきます。 筆者が、今こそ「あの戦争」のことを考えねばならないとして、その理由を挙げようとしている部分です。 一つは、なんだか「戦争」が近づいているような気がするからだ。そして、もし「戦争」が間近なものになったとき、どう考えればいいのか、太宰治は、それを教えてくれるような気がするからだ。 この後、もう一つの理由も書かれているのですが、それはこの一つ目の理由をさらに詳しく説明したものになっています。 そして、続いて筆者は二つのことを指摘します。 ひとつは、太宰治はその作家活動のほとんど全期間が戦時下であった、ということ。 もうひとつは、自由にものが言えない時代を「戦時」というなら、ひょっとしたらもう今だって「戦時下」なのかもしれない、ということです。 と、いう風にとても興味深く話は拡がっていくのですが、でもそれは、本書の最後三十ページほどの部分で、(もちろん有機的につながってはいますが、)本書の中心は、そこに至る『斜陽』を語る部分であります。 そしてここでも、筆者は優れた指摘をおこなっており、今回はその部分について報告をしようと思っています。 実は、私は拙ブログにすでに何度か書いていますが、漱石・谷崎・太宰が私のフェイバレット作家であります。 そしてある時、なぜ自分はこの三作家の小説が好きなのかと改めて理由を考えました。いえ、別に独創的なことを考えたわけではありません。 それぞれ一言で描けば、漱石は誠実さと倫理性、谷崎は物語並びらび文章の圧倒的才能、そして、太宰は……。 と、思って、自分なりに考えたことはあります。 しかし、どうもうまく言い切れないんですね。明らかに私は太宰の小説が好きなのに、その理由がきれいに言葉にしきれません。 でも、「好き」という感覚は、元々そんなところがありそうだしということで、まー、今までペンディングしていたわけですね。 それを、私はこの度本書で読んだ気がしました。 いえ、細かく考えれば、私の思いと全く相似形をなしているわけではないのですが、かなりすとんと心に落ちる説明がなされていました。 本書の中に、長短点在しているのですが、その一つを引用してみますね。 それは、太宰治が超能力の持ち主だったからでもなく、超天才だったからでもなく、預言者の才能を持っていたからでもない。彼には、聴くことのできる耳があった。世界でなにが起こっているのかを静かに聴くことのできる耳があった。彼は、そうやって彼が聴きとったことを、ことばに記した。まるで無垢な子どもみたいに、熱心に、目を閉じて、いつまでも、ずっと世界でなにが起こっているのかを聴きとろうとしていた。 筆者はこれこそが、今に至るまで太宰の作品が人々に読まれ続けることの理由であるとまとめています。(そしてそれは、上記の「太宰治の十五年戦争」の章の論旨につながっていくわけですね。) ……思い出しました。 私の好きな太宰作品に、「鴎」という短いお話があります。 何というか、いかにも太宰らしい、繊細さや弱さに混じって彼自身の作家的矜持も描かれている作品だと、私がほぼ偏愛する小説です。 で、その作品の冒頭、エピグラフとでも言うのでしょうか、タイトル「鴎」の次行に、こうあります。 ――ひそひそ聞える。なんだか聞える。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.12.31
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『日本映画史110年』四方田犬彦(集英社新書) わたくしのもうひとつの拙ブログにも同様のことを書いたのですが、10カ月ほど前から、いろんな映画を見るようにしました。 60本くらい見たのですが、もちろん各作品、見ていてそれなりに楽しいのですが、どうも、なんといいますか、評価する「基準」とでもいうべきものが、よくわかりません。 いい映画だったなー、と思って、具体的断片的にどこがよかったとは何となく思うものの、やはり、総論的「基準」のようなものがよくわからないんですね。 そして、そんな時私は、ちょっと不安、というか、自信のなくなるタイプであります。 という、自分自身のこともまた、この10カ月ほどで学んだんですね。 なぜそんなことに気が付いたかというと、それは、私の「不安」の原因を説明しても、一向に理解されない知人が、複数名いたりするからです。 なんで、そんなこと思うの? と不思議がられる、と。 まー、そんなこともあって、そもそも割とブッキッシュな人間であるもので、勢いその手の本なんかを読んだりします。そんな一冊が、この度の報告図書であります。 「〇〇史」を学ぶ、というか、知ることは、やはりその分野の理解のためにはとても大切なことだと思っています。 一時期、私は、日本文学史を始め、アメリカとかイギリスとかの文学史をけっこう読んだことがありました。もう古い話ですが、割と楽しかったのを覚えています。 で、映画史なんですが、本書の章分けでいいますと、第一章が「活動写真 1896~1918」となっています。そこから、21世紀の初めまでの日本映画史を、一応網羅している本なんですね。(ついでの話ですが、筆者はもちろん全作鑑賞なさっているんでしょうねえ。大変な数ですよ。でも、文学史を書く人はやはり一応全作読んでいらっしゃるでしょうしねえ。) ただその「網羅」というのが、まー、いわゆる「〇〇史」の、便利で役に立つけれど限界でもあるかな、と。 いわゆる、総花的になってしまうわけですね。 事実や知識に触れるにはいいかもしれませんが、いわゆる読書的納得や感心感動、というところまではなかなか届きません。 それに、作品に対する評価や、逆の批判についても、個々作品に対して深い掘り下げがない、という感じになります。 そんな「映画史」を、ただでさえ自らの評価基準に不安のあるわたくしなんかが読むと、まー、けっこう戸惑うわけですね。 ちょっとそんなところを抜き出してみますね。 これは第12章「制作バブルのなかで 2001~11」の部分です。 『ALWAYS 三丁目の夕日』と『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』は、いずれも高度成長期に差しかかった東京を懐かしみ、CG合成を用いてそれを再現しようとするメロドラマである。過去は失われたものであるがゆえに美化され、昭和という時代に存在していた社会的矛盾と政治的困難は慎重に排除されている。こうした後退的傾向は、バブル経済の崩壊した後、いつまでも深刻な停滞に悩む日本社会において、観客に支持された。 いかがですか。私はこの評価が間違っているとは思いませんが、多分短くまとめる必要のために、ここからあふれ出す部分をかなり切り捨てていると感じるものです。 そして実は、本書を読み終えたその日に、たまたまテレビで『ALWAYS 三丁目の夕日』が放映されていまして、それを部屋で女房と並んで見ていた私たちは、あー、昔はそうだったよねー、などと懐かしみ合いながら、そして、クライマックス部分では、やはり目頭が熱くなったりしていたわけであります。 ……そんなわけで、うーん、これが、まー、映画批評のむずかしさなんですよねー、とか言いながら、そもそもの頭の作りがイージーな私なんかは、かなり戸惑ってしまうわけであります。 というわけで、この度私は本書を読んで、よし次はこの人の作品を見てみようと思った何人かの監督の名前がメモできたことが、最大の収穫のような気がしました。 いえ、それは本書を批判的に言っているのではなく、本当はそれ以外にも、例えば戦時期における日本映画についての記載とか、日本が一時期植民地としていたアジアの地域の映画状況についてとか、今まで私が全く知らなかったことについて興味深く書かれてあり、とても感心しました。 また、21世紀に入って、映画界に、あるいは数多くの様々な芸術芸能も同様なのかと思いますが、なかなか新しいもの、優れた展開が現れてこないことについてとか、これもまた興味深い指摘がありました。 というわけで、わたくしは今もそれなりに面白く映画を見続けていますが、その一方の、自分の感想をどうまとめればいいかの「よくわからなさ」も、まだまだ続きそうであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.12.17
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『おいしいごはんが食べられますように』高瀬隼子(講談社) 2022年の夏の芥川賞受賞作です。 女性作家です。 令和元年上半期から同5年上半期までの芥川賞受賞作家をちょっと調べてみたら、全部で12人いて、男女は、男4人女8人でした。 いい割合ですよねー。国会議員の男女比もこのくらいになれば、国の政策も大きく変わるでしょうがねー。(閑話休題) 男女を分けて考えることに意味があるのかと問われれば、私としてはあるんじゃないかと考えています。 先日、夏目漱石の『野分』という小説を読んでいると、すでに漱石が文中で、文学は実生活の不如意こそが深化のきっかけである、みたいなことを書いているのに、少しびっくりしました。明治時代も後半とはいえ、近代文学のまだ揺籃期ですよ。さすが漱石と、かなり感心しました。 で、令和になってから(遡ればそれ以前からもけっこう確認できましょうが)、女性作家が花盛りというのは、女性たちの置かれている社会状況が相変わらずひどい(男もひどいでしょうが、もっとひどい)という事でありましょう。 さて、わたくしこの度本書を読みました。 単行本の帯にこう書かれて売りました。 「心ざわつく職場小説」 ……なるほど。 そういえば、芥川賞受賞作だけではなく若い女性作家の作品として、私もなんかたくさん「職場小説」を読んでいるなあという気がしました。 若い男性作家の職場小説は読んでないのかと思いだそうとしましたが、浮かびません。 読んでないのか、印象に残らないのか。 単行本の帯の裏表紙に当たる部分には、こんなフレーズがありました。 「ままならない人間関係を、食べ物を通して描く傑作」 ……また、なるほど。 (話は飛ぶのですが、わたくし、本書について情報を最初に得た時に、このタイトルって、どうよ? と思いましたが、読み終えてもやはり思っていますー。) 女性社員の、職場での「人間関係」、ですか。 ネガティブにあれこれ想像詮索するのをやめて少し考えてみると、このあたりは確かに売れ筋のような気がしますよね。 だって、いわゆる「純文学」っぽい現代小説なんか、まっとうな成人男性は読まんでしょう。(すみません、この部分はジョークのつもりで書いてます。よーするに私なんかは「まっとうな成人男性」じゃないという自虐ネタです。それだけの意味。) 本書を買った人は、きっと、ほぼ女性ですよ。 というわけで、作品内容の報告になかなか入りません。 ただ、こうして書いていることが、あながち作品内容に無関係だというわけではないつもりで書いております。 上記にありますように、私もぼつぼつと若い女性作家によるわりと新しい「純文学」現代小説を読んできまして、そしてこの度さらにそこに一冊を加えて、それらの作品群をざっくりこんな感じにグループ分けしてみました。 1.いわゆる「こじらせ」サイコ系 2.シュール変身譚系 3.元の木阿弥「小確幸」発見系 いかがでしょう。なんとなく分かってもらえますでしょうか。 なんとなく分かりますよねえ。 で、本作はどれに当たるかと考えると、ちょっと、うーん、と考えて、やっぱり「こじらせ」サイコじゃないか、と。これはどう考えても「小確幸」発見とは言えないだろうし、またシュールとまでは言えない擬似ハッピーエンド(私は終盤はやや失速したように思いました)じゃないかな、と。 と、グループ分けをしたところで、私はさらにこんな風に考えました。 しかしそもそもこれはリアリズム小説でもなかろうし。 例えば、けっこうたくさんの章分けをしてこの物語は進んでいくのですが、終盤前までは、章ごとにいわゆる「人称」が変わっています。一人称文体の章と、三人称ではありながらほぼ特定の人物に寄り添って書かれている章が、交互に描かれます。 あえてその狙いを想像すると、人物の立体化の工夫というのがまず浮かびますが、それより、作中の誰の心理をその時の謎とするのかの効果あたりかな、と思います。 その工夫が面白くないとは言いませんが、ストレートなリアリズム描写はできないのかな、それとも、そんなリアリズム描写は今は時代遅れになっているのかな、本当にそうなのかな、などと思います。 さらに「リアリズム」というのなら、作品終盤のお菓子を巡るエピソードなどは、終末につながる最大のエピソードながら、これは、リアリズムとはいえんでしょう。(私はそう思いますが、違いますか?) では、結局本作は何が描かれていて、そして、芥川賞受賞作でありますから何が高く評価されたのだろうか、と。 わたくし、じーと考えたんですけれどね。 ひょっとしたらと、思ったんですけどね。 これは実験室の実験装置の中の人間心理の分析と表現じゃないのか。 そう思うと、読んでいて確かに、上手な心理分析だなあとか、うまく心理を表現しているなあとか感じるところは多くあります。(それはまあ、何といっても芥川賞受賞作ですから。ただ、ここはスベッたかなと感じるところも……。) ただ、ここまで思って、もし、芥川賞的評価基準がこれに近いのなら、今更ながら少々あやうい気もしました。 まあ、そんな基準ばかりではないでしょうが、もしこの基準一辺倒なら、山は高くなってもすそ野はどんどん狭くなっていきそうです。 素人のくせにといわれましょうが、現代美術とか現代クラシック音楽などは、そんな状態に陥っているのじゃないのでしょうか。(あるいは、現代詩なんかも?) ……いえ、まあ、そこまで考えることもないのでしょう。 なるほど、女性の職場の人間関係はいろいろ大変だ、「心ざわつく職場小説」と、そう納得させる小説でありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.12.03
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『俺の自叙伝』大泉黒石(岩波文庫) さて、大泉黒石であります。 って、果たしてどれほどの方がこの名前をご存じでいらっしゃったでしょう。 自慢ではありませんが、もちろんわたくしも全く存じ上げませんでした。 と、いうより、岩波文庫、ちょっと、やりすぎでないかい。 いえ、本来私は岩波文庫の出版基準については、大いに一目も二目も置いており、さすが日本文学の老舗出版社と「リスペクト」致しております。 本当にその敬愛と尊敬はかなり以前からなのですが、特にさすがだなあと思ったのは、上司小剣の作品集を読んだ時で、この時は岩波文庫の目の高さに、まさにひれ伏すような感覚でありました。 で、この度の大泉黒石でありますが、いえ、日本文学の研究者の方ならご存じの作家なのかもしれませんが、例えば高校レベルの文学史の教科書なんかには、まったく出てきません。(それは上司小剣も同じですが。) わたくし、気になったのでちょっと調べてみました。 まず学燈社の『日本文学全史』の第5巻「近代」の索引を見てみましたが、大泉黒石の名前はありません。(ついでに第6巻「現代」も見ましたがありません。) 次に新潮社の『日本文学小辞典』に当たってみたら、さすがにありました。 ただ、3段組みの本文体裁ですが、そのわずか10行だけであります。(これもついでに上司小剣を調べたら、3段組み丸々1ページ以上の記載がありましたよ!) そこで、冒頭に私が書きました「ちょっと、やりすぎでないかい」でありますが、しかし、わたくしもう一度考えたんですね。 つまり、本来このような作家の作品こそが、わたくしがこの拙ブログで取り上げようと考えていたものではなかったか、と。 思い起こせば、ぼそぼそと10年以上も本ブログを発信してきて、いつのまにかなんでありーになっていますが、(一応「純文学作家」というのを微妙に守っているような、破っているような……)最初に私が考えた、本ブログで取り上げる作品・作家の基準はこうでした。 1.メジャー作家の、相対的マイナー作品。 2.メジャー作家の中の、相対的マイナー作家の作品。 (2番の注釈を入れますと、日本文学史の中に名前が残るというだけで、その作家はすでに「メジャー作家」であると前提し、その中の「相対的マイナー作家」という基準ですね。) この基準に照ら合わせますと、この大泉氏なんかはまさに、ど真ん中のストライクであります。 ということもあれこれ考えつつ、私は本書を読み始めたのでありますがー……。 しかし考えれば、「自叙伝」というジャンルについて、今までわたくしあまり読んできませんでしたし、またあまり好みでもありません。 小学校のころ読んだりする『ナイチンゲール伝』とか『野口英世伝』とかも、あまり面白くなく、ルパンかドリトル先生のほうを好んでいました。(しかし、伝記文学というジャンルは、特に世界文学の中では優れたジャンルのものであるというのは、何かで読んだ気はしますが。) もっとも、日本文学は、「自叙伝」と銘打たないだけで、「私小説」なんかはよく似た内容のものだという気はしますが。 ともあれ、読んでみました。 ……長い。380ページ余りあります。 それが4つの章に分かれているんですね。章題をちょっと書き出してみます。 「少年時代」「青年時代」「労働者時代」「文士開業時代」 この第1章の「少年時代」が筆者のほぼデビュー作で、これが雑誌「中央公論」で評判になったそうです。そして、2編3編と書き継ぎ、それを書いている現時点あたりを第4章で書いて終わっているという形式であります。 そしてこの執筆当時は、売れっ子のベストセラー作家であったそうです。 なるほど、読んでいて、後の章になるほど、どんどん面白くなってきています。 第4章などは、それだけでまとまった作品になっています。というより、この第4章は「自叙伝」の形ではなくて、亡くなった祖母の遺骨を持って故郷長崎に行くという一つのエピソードだけが描かれています。(面白いです。) そんなお話でした。 で、読み終えて、わたくし的に感動したとか、ああー、面白かった、となったかというと、そこが少し当て外れでありました。(だから冒頭の「やりすぎ」うんぬんが出てきたんですね。) ただ、初出当時本作が大いに読まれたということについては、納得するところがありました。それは、主人公の人物(「俺」で、一応作者自身ということになっています)の性格設定が、とても魅力的であるからです。 それは例えば、同じく「俺」の一人称小説、漱石の『坊ちゃん』を並べて挙げてみるとよくわかると思います。主人公の性格に、適度な世間知のなさや愚かさがあり、そしてそれ以上の純粋さ、一本気さがあります。 ここに至り、私は、はっと気が付いたんですね。 あ、そういうことか、と。 それはつまり、そういった魅力を持つ主人公は、必ずや時代を超えて読者に愛されるはずであるということを、岩波書店の文庫担当の方々が、……なるほど、狙ったのか―、と。 ……うーん、穿った経営戦略でありますねー。 (私のこの推理のほうが、もっと穿ってますかね?) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.11.19
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『二百十日・野分』夏目漱石(岩波文庫) この文庫の解説の冒頭に、これらの作品がいつ書かれたかが述べられてあります。解説を書いているのは、小宮豊隆です。 それによりますと、明治39年の9月に4日間で「二百十日」が書かれ、12月に約二週間で「野分」が書かれたとあります。 うーん、唖然とするような、漱石の天才のほとばしりですよねー。 さらに、このころは漱石はまだ大学の先生をしている時でありました。唖然の上の唖然であります。 唖然と言えば、やはり唖然とするのが、本作前後の漱石の作品群です。ちょっとタイトルを並べてみますね。 『草枕』→「二百十日」→「野分」→『虞美人草』→『坑夫』 どうですか。あれこれ唖然とする材料はあるでしょうが、私が唖然とするのは、漱石の文体についての怖ろしいような引き出しの多さであります。文体がカメレオンのようにころころと変化していってます。そして、それがほとんど完成形に近い、と。 漱石は38歳から小説を書き始めるという晩成型であったせいか、発表作にいわゆる「若書き」といったものがありません。 しかしこうして並べてみると、やはり改めて唖然というか、圧倒される感が大いにありますね。 あと少しこれに付け加えると、「野分」の後に漱石は朝日新聞社に入社、つまりプロの小説家になります。もうひとつは、『坑夫』の次の作品が、漱石全作品の中でも大変完成度が高いといわれる『三四郎』であります。 さて、そのくらいの唖然を前振りとして、まず「二百十日」を読みました。 実はわたくし、漱石の主だった作品は3回以上は読んでいます。一番たくさん読んでいるのは『こころ』で、5.6回は読んでいると思います。 それと同じくらいにたくさん読んだのがこの「二百十日」で、その理由は、昔わが家に少年少女版の漱石作品集があって、その中に収録されていたからだと思いますが、短くて読みやすくて、なによりこの落語のようなセリフのやり取りがとても面白かった記憶があります。 冒頭近くの竹刀と小手の話などは、わたくし涙を流して笑いながら読んでいたような覚えがあります。 そんな思い出のある「二百十日」ですが、今回読んでみて、ちょっと、あれっと思いました。そんなに面白くなかったんですね。でも、まー、涙を流したのは半世紀近く昔のことでありますし、やむなし、かなと思ったわけです。 そのかわり続いて「野分」にとりかかって、私は、あ、「二百十日」というのは「野分」の序章のような話なんだなと分かりました。 面白くも観念的であった「二百十日」の圭さんと碌さんの会話に、少し具体性を加え小説的に展開させると「野分」になることがわかりました。 そして同時に、私は「野分」について、これもかなり昔に読んだきりでしたので、とにかく主人公が嵐の日に演説をする話だとしか覚えていなかったのが、思いのほかに小説的な展開(高柳や中野といった青年たちの話が絡んでくる)があることに、少し驚きました。(しかしよく考えたら当たり前の話で、主人公の演説しかないような小説を漱石が書くはずはありませんよね。) で、わたくしけっこう楽しく「野分」を読み終えました。そして、少しボーとしながら「教えられる喜び」ということを思い出しました。 これは以前にも拙ブログで書いたことがあると思いますが、小説を読む喜びの中に、作中人物に教えられて心地よい、というのがある(少なくとも私にはある)と思っています。 漱石作品でいえば典型的なのは『三四郎』の「広田先生」です。この「偉大なる暗闇」と別称される登場人物には漱石の身近にモデルがいたらしいですが、とにかく彼の言動から、文学や人生や学問などのことについてあれこれ啓蒙されるのが、読んでいて存外に楽しいと、私なんかは思っています。 この喜びは、例えば司馬遼太郎の小説にも、しばしば展開から横道にそれて語り手が顔を出して語り始めますが、同様の読書の楽しみだと思います。 白樺派の作家たちなんかは、そんな啓蒙話芸を小説のテーマにまでした一群の方たちという気もします。(武者小路実篤『真理先生』、長与善郎『竹沢先生という人』など。) と、そんなことを考えたのですが、さらに私はふと「白井道也先生」と『三四郎』の「広田先生」はどこが違うかと思いました。 ちょっと考えましたが、やはり両者は違うだろう、と。そして、漱石は、道也型から広田型にキャラクターを変化させていき、とうとう晩年の作品には、同じ「先生」と作中で呼ばれながらも、完全に形を変えてしまった『こころ』の「先生」に行きついてしまったのではないか、と。 「道也先生」の演説が代表する本小説のテーマもさることながら、この変わりゆく姿に、漱石の生涯の小説テーマの「主戦場」変貌のプロセスを重ねることも、あながち強引ではあるまいと、私は思ったのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.11.05
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『芽むしり仔撃ち』大江健三郎(新潮文庫) 実に、約半世紀ぶりの再読であります。 半世紀も前に読んだ本なんて、何も覚えていなくたってそれは私の記憶力に問題があるとは思いませんが、この度は、なんとなーくいろんなシーンを覚えていたようで、何と言いますかー、えらいものであります。 わたくし、それに関して、経験則的に感じていることがあります。 それは、むかーしに読んだ本で、内容についてはほぼ忘れてしまっているのに、この本は自分はけっこう感動して読んだ、などの記憶だけが残っていることが、割とあるんですが。こういうのって、どうなんでしょうか。 例えば今回の大江作品でいえば、『万延元年のフットボール』なんて小説は、やはり半世紀ほど前に読んで内容はほぼ忘れているけれど、感動したという記憶は何となく残っている、と。……。 さて、『芽むしり仔撃ち』であります。 上記にあるように、断片的には内容を覚えているところがあるものの、初読時のトータルな読後感の記憶がないんですね。 かつて高校生だった頃の私は、この本を読んで、感動した、よかったと思ったのだろうか、と。 実はこの度読み終えて、わたくし、どうも一つ疑問が残ったのであります。 いえ、それは、作品そのものにというものではありません。 (作品そのものというなら、文章表現について触れねばならず、これについては、私もすばらしいとしか言いようはないと思います。少女との感情の交流の場面、雪の日の場面などの瑞々しい描写は、この筆者の天衣無縫の怖ろしいばかりの表現力を、力技で感じさせてくれます。) 本書の解説文の中に、この小説に対する作者の言葉として、「この小説はぼくにとっていちばん幸福な作品だったと思う」とあったり、それ以外にも大江氏がこの小説が好きだと言っている等のことを読んだりするのですが、困ったことに、この度再読してみても、なぜそうなのかが、どうもよくわかりません。(好き嫌いの話なんだから、というような単純なものではきっとないと思うわけですね。) とはいえ、筆者は日本の誇るノーベル文学賞受賞作家であります。先日亡くなられましたが、昭和、平成、(そして令和もですかね)の日本文学史上の「大巨人」であります。 よくわからないのはお前のせいだといわれると、私自身、当然のように納得してしまいます。 ということで、身の程知らずにも、何と言いますか、かなわぬまでもという感じで、私の思いを以下に書いてみますね。 いえ、私の考えたことは極めてシンプルです。 私たちは小説を読む時に、誰に(何に)感情移入して読むのか、という事です。 そして付け加えるなら、(いかにも素人っぽい読みかもしれませんが、)読後やはりカタルシスが欲しくないか、という事であります。 本書は、十代の青年が主人公の一人称小説です。最後まで、その視点から離れて描かれることはありません。 と、すれば、読者はやはり主人公に感情移入して読むのではないか、と。(もっとも、感情移入して読むことの正誤良し悪しは考えられねばならないでしょうが。) つまり、私は、主人公に襲い掛かる圧倒的に理不尽な暴力、そしてその結果としての屈辱感、無力感が、読んでいて我が事のようにつらかった、不快感を伴ったということであります。 そしてエンディングの絶望。 少し長いですが、そこを引用してみます。 しかし僕には凶暴な村の人間たちから逃れ夜の森を走って自分に加えられる危害をさけるために、始めに何をすればよいかわからなかった。僕は自分に再び駈けはじめる力が残っているかどうかさえうわからなかった。僕は疲れ切り怒り狂って涙を流している、そして寒さと餓えにふるえている子供にすぎなかった。ふいに風がおこり、それはごく近くまで迫っている村人たちの足音を運んで来た。僕は歯をかみしめて立ちあがり、より暗い樹枝のあいだ、より暗い草の茂みへむかって駈けこんだ。 どうですか。 ここに描かれているのは絶対的な絶望的状況ですよね。 とすれば、この先にあるのは、主人公の死以外にないんじゃないでしょうか。 上記にも書きましたが、圧倒的に理不尽な暴力にさらされ、恋人を失い弟を失い、友人たちからも離れられていった主人公の作品最後の状況がこれだとすれば、その主人公に寄り添うように読んでいった読者(わたくしですね)は、どこにカタルシスを覚えればいいのでしょうか。 大江氏の述べる「幸福な作品」「好きな小説」の意味がよくわからないとはそういう意味であります。 と、いうようなことを、先日、我が文学鑑賞のメンターに述べたんですね。 するとあっさり、「あんた、読み違えている」と否定されました。 そして、だいたいこんな風なことを教えてくれました。(ちょっと違うかもしれませんが、私はこんな風に理解しました。) なるほど、このラストシーンに描かれているのは、絶対的な絶望状況かもしれん。しかし、だから次には主人公の死とは、どこにも書かれていない。初期の大江がしばしばテーマにした監禁状況だが、そこからの脱出ができたのかできなかったのか、その寸前、別の言い方をすれば、主人公の置かれている絶対的絶望状況そのものの確認の時点で、筆者が筆をおいているところに注目すべきじゃないか。絶対的絶望状況、だから脱出できなかったと筆者は書かなかったのか、だけど脱出できたと筆者は書かなかったのか、大江が晩年に至るまでこの作品を好むといっているならば、たぶんその理由は、この辺りの読みにあるのではないか。 そして、ではなぜ、筆者は脱出の成功不成功を書かなかったのか。それは、こう言いかえることができるのではないか。 この絶望的状況こそあなたが生きている現実ではないのか。 少なくとも、初期の大江作品における現実認識はこのようであったと思う。その困難を困難の中で生きることが、今を生きるということだと考えていたのじゃないだろうか。 ……うーん、なるほどねー。 ……そー読むんかー。 これなら、筆者の本作についての好き嫌いの発言も、なるほど納得できますよねー。 いやー、えらいものです。 いえ、この度はいいことを教えていただきました。 吉田兼好がいったのはこういうことだったんですね。 「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。」と。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.10.22
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『街とその不確かな壁』村上春樹(新潮社) さて、村上春樹の不思議な新作長編であります。 不思議なというのは、作品一部(本作品の第一部のところですね)が2回目の書き直し発表、つまり最初の作品から合わせると3バージョンテクストになるという、そんな話だからです。 でもこういう形って、よくよく考えれば、日本文学の中には(外国文学についてはわたくし何も知りませんので)けっこうあるのかな、と。 例えば、短編小説が最初に書かれて、その後長編小説の中にそれが含まれていくってのは、村上氏自身の他作品にもありますし(『ノルウェイの森』なんか)、確か志賀直哉あたりにもそんなのなかったですかね。(『時任謙作』と『暗夜行路』) また短編小説をいろんな雑誌にとびとびに発表して、そのあと一冊の本にして長編小説にするというパターンもあって、その大御所は何といっても川端康成でしょうね。『山の音』とか『千羽鶴』とか。 でも今回の村上作はそれらとも少し違って、でもまあ、これも十分ありなんじゃないかなとは思いながら、ともかく、珍しい形の新作長編小説であります。 第一部が、上記にも触れました、その書き直し部分ですね。 「リメイク」って、言っていいような気もします。 相応しい例えになっているかどうかわからないのですが、例えば横溝正史『八つ墓村』なんて、もーいろんな方が金田一耕助をテレビや映画でなさっているじゃありませんか。 あれを小説として一人の作家がやっている感じですかね。 だから、というか、今回は、バージョンアップした感がありました。しっかり細かく作ってしっかり書き込んでいる感、ですかね。 実は、第一部は全体の七分の二くらいの分量です。(中心は第二部で全体の三分の二くらいの長さ。)だから、読了後の感覚から言えば、第一部はまずしっかり土俵を作ったという感じでありました。(私としては、「きみ」の消失後の「私」の慌てぶりに少しぎこちないものを感じもしましたが……。) そして、満を持してそこから「新作」部分の第二部に入ります。 長いです。重く、暗いです。(初期の村上作品に頻出していたユーモアが、近年の村上長編にほとんどないのは、展開上やむなしのようにも思いますし、もう少し何とかしてほしい感はあります。でも、何個所かだけ私は読んでいてにこっとしましたが。) で、読んでいる私は、少し考え込んでしまうんですね。 まず、二点。 一つ目は、もうざっくり言ってしまうと、これは過去のいろんな村上作品の焼き直しではないのか、設定や展開に、そして登場人物にも、ことごとく既視感があるように感じました。 そして二つ目ですが、近年の村上作にはどんどん幻想性が強くなっている気はしていましたが、本作に至って、なんか幻想性が爆走、というか暴走している気がしました。 そして読者である私は(少なくとも私にとっては)その非リアルの説得力についていけない所がいくつかありました。 それは、少しネガティブに言えば、白けてしまうという感覚であります。 そこでさらに私は、この二点をもとに考えてしまうんですね。 多くの村上ファンのように、私もデビュー作から、新作が出るたびに読んできましたが、そもそも村上作品は、「本当に」どこが魅力なんだろうか、と。 ……ストーリー(展開)、語られ方(文体)、テーマ(これはざっくり喪失、かな)、キャラクター(主人公)……。 どれもそれなりに魅力的ではありますね。 特に、これも多くの人がたぶんそうだったと思いますが、初期の村上作品というのはそのおしゃれな文体が、もー、何とも言えず読んでいて快感でしたねー。 ……うーん、かいかん……きもちいい……。 ほとんどエクスタシー状態……。 しかし、その文体もだんだん後衛に立ち位置を変えて来て、その代わりガチっと描写するような決して悪くない文体になってきました。(諧謔性は薄れましたが……。) と、いうように、わたくし、あれこれ考えたのですね。 で、私が、テレビの時代劇のように放送されるたびについ見てしまう、出版されるたびについ読んでしまう、本当の本当の原因(本文中の表現でいうならば「水面下深くにある、無意識の暗い領域」って、あ、これは無意識じゃないですかね。)は、……、どうでしょう、つまるところ、主人公のキャラクターの魅力なんじゃないか、と。 上記に私は「既視感」という言葉を使いました。 例えば本作の「子易」に、村上過去作品のいろんな登場人物の性格を、「きみ」(喫茶店の彼女もですか)にもやはり村上過去作品の様々なヒロインの姿を重ねてしまったのですが、そんなことを言えば、主人公の「ぼく・私」なんて、ずっと同じ性格設定な気がします。 でも、「ぼく・私」は、いいんですね。 このキャラだから、気持ちよく読めるんですね。 何を矛盾した訳の分からないことを言っているのだと、お怒り、またはお呆れの皆さま、どうもすみません。 再び本文中の表現でいうなら「現実と非現実はごく日常的に混在していたし、そのような情景を見えるがままに書いていた」って、これも、ピントはずているかしら。 (ただ、真面目な話、そういう風に同じがいいと感じる作品というのは、文学性という言葉のもとでみた時、はたしてどうなんだろうかという気は、少ししますが。) しかし、少し寂しいことに、近年の村上作品は私にとって(私だけであれば、それはそれでいいことでありましょうが)、ストーリーの幻想性が突出、暴走して、私の中の感情共有が追いついていかず、展開がどこか他人事のように感じられ、そこを何とか主人公のキャラクターの魅力で繋ぎとめながら凌いでいる感じが増していくようで、……少しつらくあります。 私には、本作も、そのようでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.10.07
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『晩年様式集』大江健三郎(講談社) 本書は奥付によると2013年10月に第一刷が発行されています。 一方初出は「群像」誌で、2012年1月号から2013年8月号までの連載です。つまり、2011・3・11東日本大震災の直近、といっていい時期であります。 実はこの連載という形式が、本作の一つの大きな仕掛けになっています。 そして、大江氏は2023年に老衰で亡くなられますが、それまで10年を残して本書は氏の最後の小説となっています。 この度本書を読み終えまして、わたくし、何と言いますか、いろんな意味で感想が整理しきれないでします。 読み始めてしばらく、中盤あたりまでは、結構面白く読みながら、本書のテーマは二つだと思いました。基本的には、読み終えた今もそう思ってはいます。 一つは、3・11以降の日本の運命。 もう一つは、「私」の老い、でしょうか。 こう書いてみると、やや陳腐なテーマのように見えますが、これらをまとめて象徴的に描いたシーンが、作品中に何度か繰り返される「私」が家の階段の踊り場に立ちつくして声をあげて泣くという場面ですが、こういういわばポイントとなる場面の出し入れや、そこに漂う印象深い「詩情」のようなものを描くその手さばきは、まさに大江氏の面目躍如たるもので、とても見事なものです。 この場面は何度か出てくるのですが、少しまとめて描いている個所を抜き出してみます。「私」の娘のセリフの一部です。 そしていまは、自分らみなについても、国じゅうの原発が地震で爆発すれば、この都市、この国の未来の扉は閉ざされる。自分らみなの知識は死物となって、国民というか市民というか、誰もの頭が真暗になる。滅びてゆく。そのなかに人一倍何もわからなくなったアカリさんがいる、そういう行く末を連想して、パパはウーウー泣いたのじゃないか…… 上記にも触れましたが、本書は基本的にはこのテーマを中心に展開していくのですが、その展開のさせ方が、何と言いますか、今まで以上に「大江健三郎的」であります。 それは、はっきり言って、なんでもありの展開であります。 なんでもありとはどういう意味か、なかなか説明しづらいのですが、いわゆる「メタ」小説的展開を晩年の作品になるほど筆者は書いてきたように思いますが、本書に至っては、今まで書いてきた自分の作品を次々と挙げてはその「内輪話」や、ウソばかり書いてきたことを、作品に何度も登場するおなじみのメンバーたち(「私」の妻、娘、妹そして「アカリ」さんたち)が述べて、「私」(作者!)に反旗を翻すという展開になっています。 また、これもいかにも「メタ」っぽい仕掛けとして、大江小説と切っても切れない知的障害を持つ「アカリ」さんが、パパの作品は私の本当の言葉を書いていないと言ったりします。過去の作品には、他の登場人物の言動については虚構を施していても「アカリ」のセリフだけは嘘は書いていないと、これもまた作品中の「私」が書いてあったりしていたのに。 そして畳みかけるように他の登場人物たちが、「私」のことを、「アカリ」とよく話をしないでいる、「アカリ」という人格を敬っていないなどと、中年以降の大江作品ほぼすべてに対する絶望的な種明かしのようなものをします。 その時、とても効果的な仕掛けとして用いられているのが、冒頭でも触れました「群像」誌連載という形式であります。 特に中盤部くらいまでこの形式を用いて、交互に「私」と家族たちの言葉を語らせていき、家族の語り部分が、次つぎに「私」の語り部分を否定していくという仕掛けになっています。(作家生活半世紀を経験した大作家であっても、こういう仕掛けをまたも新作品に施すというのは、何と言いますか、筆者はまさに根っからの小説家でありますねー。) 私としては、そんな前半部が特に面白かったです。過去の作品や作家の人柄さえ家族たちに否定される「私」は、しかしこれまでの大江作品がそうであったように、やや被虐的なユーモアが感じられ、そんな内容すら小説にして主人公が語っていくという、何重にも張り巡らされた筆者と主人公、筆者と作品の輻輳的な関係性が読み取られ、読みごたえがありました。 ただ、これも私の過去の読書体験に重なるのですが、どんどん読み進めていくうちに、作品が「難渋」になっていきます。 いえ、「難渋」というのとは少し違うかなという気もします。 これは、大江氏の他の作品にも何度か感じたことですが、書かれてある内容が難しいのではなくて、今何が書かれようとしているのかその意味がよくわからないという感覚であります。 これは、なんとも言い難く、……いえ、やはりこれは「難渋」なのでありましょうか。 と、そんな印象を持ちました。 また私は、読んでいる途中からふと、室生犀星の、やはり最晩年の小説のことを思い浮かべました。 実はかなり昔に読んだので内容はほとんど覚えていないのですが、多分室生氏の最晩年の作品で、タイトルが『われはうたえどもやぶれかぶれ』です。 タイトルがすでに内容を見事に象徴していますが、そんな老境のやぶれかぶれさえ小説の仕掛けにするという強烈な小説家の意志、というか「業」のようなものの感じられるタイトルです。 結果として本作は、あと10年を残して大江氏の最後の小説となりましたが、ひょっとしたら、最後の小説という思いは執筆中の大江氏にもあったのかもしれません。 もっとも、小説家という人種は、とても一筋縄ではいかない方たちですから、そんな思いはいつでも裏返ってしまうという、本当に結果論の話ではありますが。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.09.23
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『田紳有楽』藤枝静男(講談社) 少し前、たまに足を向ける神戸の街で、たまたま古本屋があったもので(神戸の街も結構古本屋さんのたくさんある街です)、ぶらりと入ろうとしたら、入口の横、道に面して設置してある本棚に、上記の本がありました。 箱入りできれいな本です。「谷崎潤一郎賞受賞」と書いてある帯も箱についていて、中を開くと、ページもぱりぱりとした感じで、新刊のようにきれいです。 昭和五十一年第一刷発行と奥付にあって、値段は1200円。 それが、この棚の書籍はすべて100円。 実はこの棚で、この本以外にも何冊か目についた、あるいは手に取った本があったのですが、それはこの度は省略して、とにかく本書が、この本が、100円(!)。 「田紳有楽」は以前読んで、訳が分からないながら、これは名作に違いないと、拙ブログでも報告しました。 その「田紳有楽」が100円とは、わたくし、あまりにかわいそうな気がして、つい、買って帰りました。 で、読みました。 と、ここで、話題は大きく飛びます。すみません。 以前より何度か、本ブログで、小説とはいったい何なのだろうかという、少々原理めいたことを考える時に、何度か取り上げたのが、三島由紀夫の『小説とは何か』の中のフレーズであります。 何度か書いたのと、そもそも有名なフレーズではあるのですが、そして、今回の読書中もずっと私の頭の中にあったのですが、ちょっと正確に、どんな前後の文脈の中で書かれたものであったか気になって、探してみました。 すぐに見つかったのですが、本書は連載エッセイ(三島氏の最晩年の連載エッセイ)の形で発表されていたのですが、その最終回に書かれてあります。 ということは、三島氏の死後発表(劇的というかなんというか、今だ難解な部分を持つ三島氏の自死の後)であります。本書の箱の帯にも「天賦の才能を恣にして逝った三島由紀夫の文学的遺書!」とあります。 その最終回の冒頭がこのように始まっています。 小説とは何かと、といふ問題について、無限に語りつづけることは空しい。 そのあと、その空しさの説明が少し続いて、そして、ミナミ象アザラシこそ理想的な小説だという「発見」に続いていくわけです。 筆者は両者の類似点をさらに説明していきますが、ちょっとよくわからないところ(私がよくわからないんですね。すみません。)があるのですが、こんな風にまとめてあります。 彫刻が生の理想形の追及であつたとしたら、小説は生の現存在性の追及であつた。小説におけるヒーローは、劇におけるヒーローとちがって、糞をひり、大飯を喰ひ、死の尊厳をさへ敢て犯すのだつた。 なるほど、「生の現存在性」というのが「ミナミ象アザラシ」なわけですね(たぶん)。 と、一応、納得するようなしないようなことを思って、さて、やっと、冒頭の本書「田紳有楽」であります。 本書の奇怪さ(普通の小説じゃない有り様)については、実はわたくし、一度拙ブログで報告させていただいています。 設定がまず奇怪であれば、その展開も圧倒的に奇怪であり、そして、終末に至ってほぼ難解(描かれていることが難解というのではなく)、読者を振り切って唖然として終わっていく、そんな小説です。 しかし私も、今まで少しはいろんな日本の小説を読んできまして、いわゆる筋の整合性だけ追いかけても仕方がないという話にも、いくつか出会っています。 そんな時、どのようにその作品を「理解」(本当はすでにこの言葉にあまり意味がないのですが)するかの基準は、ごくごく私的なものでありますが、私は「好感」に置きます。 本当は「上品」と言ってもいいのですが、「上品」の属性について、かなり私的な理解を行っているようなので、「上品」という表現は少し控えます。 そんな一言の読書報告であります。 しかし、それだけではあまりに報告が無内容ではないかと、我ながら少し困っていますと、読み終えてから、箱の帯の裏側の部分に、大江健三郎がこのように書いているのを見つけました。さすがに、上手に説明してあります。一部抜粋。 私小説の本流をなす作家である藤枝氏が、その「私」を自由・多様に拡大する方向に進まれたのは自然である。そうなれば、「他者」のきわみである物質に、その「私」を観照的に移入することも、やはり自然な展開のひとつであろう。 ……うーん、見事な着眼と説明ですね。 「物質に、その『私』を観照的に移入する」と、一人称が「グイ呑み」や「抹茶茶碗」や、あまつさえ「弥勒菩薩」にまでなってしまうわけです。(「私小説の本流」ですよ!) ……うーん、しかし訳が分からなくても、読み終えて、広がりのある心地よさと達成感(と、少しのドキドキ)が残る、そんな小説は、やはり「傑作」でありましょうねえ。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.09.10
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『いずれ我が身も』色川武大(中公文庫) ひさしぶりにこの筆者のエッセイを読み直しました。 以前は、丸谷才一なんかと並んで、私はかなり熱心にこの作家のエッセイを読んでいたように思いますが、丸谷氏も同様、この筆者もすでに亡くなって久しく、そういえば最近、「ファン」として次つぎと読んでいく(繰り返して読んでいく)マイ・フェイヴァレット・エッセイストがいないような気がします。 なんか、さびしいですねえ。 で、なぜ、色川武大のエッセイなのかといえば、それはやはり第一に「凄み」でしょう。 細かな言葉の斡旋にまで、ぞくっとするような凄みがあります。例えば、こんな書き方。 横浜の街とは、十五、六の時分から、いろいろな意味で交際がある。横浜大空襲の日も、中学をサボって、長駆、横浜花月というレビュー小屋に、夜までささりこんでいた。それで命からがら逃げまどったものだ。 どうですか。この短い文章中に用いられている「ささりこんで」なんて表現は、この筆者の文以外で私は読んだことはないし、またこの筆者の表現でなければ心動かさるとは思いません。 この「凄み」は、この筆者の作品を一冊でも読んだ人ならそこからきっと少しは探ってみて発見する、この筆者自身の人生の「凄み」のせいであります。 例えば上記引用文の数行後には、こんなことがさらりと書いてあります。 横浜はばくちの天国だった。東京はさすがに首都圏だし、取締まりもきびしいので地下賭場が大げさにはびこるということはない。川崎や千葉では、客が打ち殺されて絶えるか、その逆に賭場の方が似ても焼いても喰えない客たちに突っつかれて全滅してしまうか、どちらかだ。 実にさらりと凄いことが書かれていますね。この凄さは、幾たびもその場にいて、そしてそれらをじっと目撃しつづけた作者の視線の存在の凄さであります。 そんな筆者の、総タイトルになっている「いずれ我が身も」というエッセイが、冒頭に掲げてあります。この「いずれ我が身も」に続く内容は、こうなっています。少し離れた部分二か所を引用してみます。 犯罪をおかしたりして、窮地におちいっている人間を、我が事に感じる。汗が出るほどにそうなる。これは小さい頃からで、五十の声をきく現在もなお変わらない。 犯罪が発生した記事を見ると、私はいつも、覚悟、のようなものをする。ここに自分のしたことがある。いつかはきっと捕まってしまう。だからその件についての中間報告記事を見て一喜一憂する。それは被害者に対して、世間に対して、ひどく不謹慎なことで、だから口外はしない。けれども、万一、刑事がやってきて訊問されたら、いつの場合でも、私は涙声をあげて自白してしまったかもしれない。 私はこれらの文章を読んで、少しニュアンスは違うが、その心の底辺には同じものがあるのだろうと想像させる文章をどこかで読んだ気がしました。 それは、よどみながら流れるどぶの水を見るたびに、そこにうつぶせに顔を浸けて死んでいる自分を想像するというもので、それは確か、俳優の渥美清が何度か言っていたのを書いた文章だったと思います。 こういう人生観を作り上げてしまう人生の前半生を過ごしてきた人物の書く文章というものは、いわば、そのすべてとは言わないまでも、様々なところに名言・格言が、普通にさりげなく書かれています。そしてそれはやはり「凄み」としか言えないのですが、本書にも至る所にあります。 引用し始めると切りがないのですが、二つ抜き出してみますね。 (略)私が幼い頃から馴染み親しんだ人の多くは、もうこの世に居ない。来世は信じないけれど、まんざら見知らぬ所へ行くのでもないような気がする。 それとはべつに、一生というものがこんなに短いとも思わなかった。芝居でいうと、一幕目が終わるかどうかという頃合いに、もう残り時間がすくなくなっている。 どうも無責任なようだが、近年、私は、人間はすくなくとも、三代か四代、そのくらいの長い時間をかけて造りあげるものだ、という気がしてならない。生まれてしまってから、矯正できるようなことは、たいしたことではないので、根本はもう矯正できない。だから何代もの血の貯金、運の貯金が大切なことのように思う。 どうですか。どちらも面白いですが、二つ目の文章の内容はとても独創的でおもしろいですよね。 この文章は、さらにこのようにつながっていきます。 さらにいえば、人間には、貯蓄型の人生を送る人と、消費型の人生を送る人とあって、自分の努力がそのまま報いられない一生を送っても、それが運の貯蓄となるようだ。多くの人は運を貯蓄していって、どこかで消費型の男が現われて花を咲かせる。わりにあわないけれども、我々は三代か五代後の子孫のために、こつこつ運を貯めこむことになるか。 こんな人間観の人のエッセイは、なるほど面白いはずですね。 そして、そこにさらに虚構をまぶした小説作品は……。 いうまでもないですよね。 また、久しぶりに読み直してみましょうかね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.08.27
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『森』野上弥生子(新潮文庫) さて、『森』であります。 そのご高名は以前よりつくづくと伺っておりました。 何のご高名かとは、申すまでもないのかも知れませんが、筆者野上氏の、99才の作であること。数日後に100才を控えながら、亡くなる三日前まで執筆を続けられていたこと。その作品『森』は本人の生前の話から、後数十枚で完結するだろうという地点にありながら、未完に終わったこと。 その他付け加えるならば、書き出したのは筆者87才からで、13年間こつこつと書き続けられて、この度私が読んだ新潮文庫で580ページもの長さであること、等々……。 さて野上弥生子といえば、漱石の直弟子(どうも漱石の「木曜会」の常連参加ではなくて、手紙のやりとりや添削などを受けていらっしゃったようですね)であります。 以前にもわたくし考えたことがあるのですが、漱石山脈などという言葉もあり、多くの新進作家を世に送り出した漱石でありますが、「出藍の誉れ」とまでは行かなくても(だって、現在に至るまで漱石以上の作家と目されている人は多分いないのですから)、とりあえず文学史上でそれなりの評価を下されている作家を思いだしてみると、実は、あまりいません、よね。 一番に挙がるのは芥川龍之介でしょうか、晩年の弟子であることは間違いないでしょうし、高校の教科書の小説の定番に『羅生門』が入っていることから、まー、高校進学をした人ならほぼ全員が作品を読んだ作家ではあるでしょうね。 でも、これもすでに指摘があるように、小説の質としては、ほぼ短編小説しか書いていないことからも、漱石筋の作家と考えるには、現実としてはかなり無理がある、むしろ敢えて言うなら、鴎外筋ではないかと。 芥川の後、誰が挙がるかと考えますと、内田百けん、中勘助あたりでしょうか。 もちろんそれなりに優れた作家であり、マニアのようなファンもいらっしゃるようですが、でも、でも漱石には及びますまい、ねえ。 というところで、改めて私の認識の中に登場してきたのが、この度の野上氏であり、『森』でありました。 この方の文学史的評価というものはどうなっているのでしょうかねえ、いろんな事を知らないわたくし故でもありましょうが、よく分かりません。 寡作であるからでしょうかね。私が知っている作品で言いますと、『真知子』『迷路』『秀吉と利休』の長編と後いくつかの短編小説くらいでしょうか。(ちょっと調べましたら亡くなられてから全集が編まれ、23巻になるそうであります。寡作じゃあ、ない、ですか。) こんな時に便利な本としてわたくし、手元にある山田風太郎の『人間臨終図巻』をちょっと調べてみました。やはりありました。息子野上素一の文章として「母の執筆のノルマは、一日に原稿用紙二枚というわずかなものであるが、それを死ぬまで続ける決心をしている。」とあります。 本書を読めばひしひしと理解されるのですが、この作品は柔らかくも極めて強靱と言えるような文体で書かれています。縦糸と横糸がびっしり編みあわされたような文章で、隙間やほつれ目がありません。仮に急ぎ読みをしようとしても、それを許さず押し返してくるような力があります。 それが、毎日毎日原稿用紙二枚ずつ書かれていた……、十三年間……。 わたくし、上記にこの作家の文学史的評価はどうなんだろうかということを書きましたが、八十七才から十三年間毎日原稿用紙二枚の筆者の日々を、リアリティを持って頭の中に描き出すと、なんか、そんなこともうどうでもいい、という気になります。 この筆者を位置づけるなど、そんな畏れ多いことなどしてはならないといった気持ちになります。 さて、そんな『森』をこの度読了しました。 冒頭から、いかにも長編小説らしい、心地よいたゆたった表現とストーリーが続きます。十代の女学生が主人公の、筆者の自伝的作品のように滑り出しました。 ところがしばらくすると、三人称小説でありながら主人公の女学生に寄り添って描かれていたストーリーが、大きくはみ出し始めます。 私は、構成が崩れだしているのかなと思いました。 しかし、さらに読み進めていって、どんどん主人公から離れていく展開に、はっと気がついて、一瞬鳥肌が立つような思いになりました。 この小説は、脇役のいない小説なのだ、と。 詳しいことはよく知らないのですが、アニメや漫画にスピンオフ作品というものがありますね。別に最近に始まったのではなく、古い映画などでも「外伝」などの作品がありそうです。 ただ、本小説は、一人の作家が一つの物語の中にそれを展開しようとしています。『森』とは、いかにもよく付けたタイトルであります。 例えば、主人公の女子生徒が、何かを買おうとしてある店に行ってそこのおかみさんに会う。するとそこからそのおかみさんの生き方過去人物関係などの物語が描かれ始めます。それも本作特有の強靱なみっちりした文章で。……。 このように書かれた六百ページ弱の物語です。読者はそんな不思議な感覚に揺られながら、そしてこの構造に思い及ぶと、やはり一種の戦慄を覚えるように思います。 そんな作品です。あるいはひょっとしたら、評価などしようがないのかも知れません。 上述の『人間臨終図巻』の野上弥生子の項の最後はこう書かれています。 「満でいえば五月六日の誕生日まで、百歳にあと三十七日であった。 最後の長編『森』は、おそらくあと数十枚を残して、未完の作品となったが、一豪の老いも感じさせぬみずみずしさで、その年の文学ベストワンにあげる批評家が少なくなかった。」 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.08.13
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『鴎外随筆集』森鴎外(岩波文庫) 久しぶりに古本屋さんを覗いたら本書が目に入りまして、思わず、あれっ? 鴎外って随筆書いてるんや、という、まー、その後すぐ自分でも愚かしい思い違いと分かるような感想を持ちました。 我が家には、今を去ること40年くらい前に岩波書店から出た新書版サイズの「漱石全集」と「鴎外選集」があります。どちらも我が家の本棚の肥やしです。 で、それによりますと、「漱石全集」は少し薄い目の巻数で4巻、「鴎外選集」は分厚い目の巻数で3巻、随筆らしい巻があります。(それぞれを重ねて並べて背比べしたら、ほぼフラットでした。) 漱石の方は、「小品」なんてタイトルのついているのが主に随筆関係(2巻)で、有名な「思ひ出す事など」や「硝子戸の中」とか、おや、「夢十夜」「永日小品」なんかも入っていて、これは随筆とは言えないんじゃないですかね。 一方「鴎外選集」の方は、「評論・随筆一~三」となっていて、なるほど、評論と一緒にしたらそれは多いだろうな、と、納得。だって鴎外といえば、一時期「ケンカ屋林ちゃん」(鴎外森林太郎ですね)として、主に文芸評論世界でブイブイ言わせていた方ではありませんか。 しかし、本当のところ、私が鴎外って随筆書くんだと、愚かしい思い違いをした理由は、なんとなくわかっています。 いろんな鴎外関係の本を読んでいると、鴎外って、なにか絶えず戦っているって感じがするんですよねー。(山崎正和『鴎外・戦う家長』なんてその典型ですよね。芥川も、鴎外は胡坐をかかないなんて言ってますし、上述の「ケンカ屋林ちゃん」もそうかな。) だからついそう思っちゃったんですね。 戦士は戦場で随筆を書くか? と。 と、本書を読み始める前からやたらとゴタクが多いのですが、読みだしてしばらくしてまた驚いたことが一つ。(違いますね、読みだす寸前に気づいたことですかね。) 本書は総ページ数、解説と最後の初出一覧まで入れて246ページであります。 ところが本編の随筆は155ページで終わっています。 この差、実は注釈(語注)が75ページもあるんですねー。 収録随筆は18編です。平均値を出すことには何の意味もありませんが、偏在はありながらも、1ページにかなりの語注がついています。 これは結構煩わしいですよー。でも、語注を読まないと訳が分からないページも多いです。ちょっとだけ、引用してみますね。(かなり古ーい難しーい漢字が使われているところは、すみませんが、引用者が勝手に略字に変えてます。) 余す所の問題はわたくしが思量の小児にいかなる玩具を授けているかというにある。ここにその玩具を検して見ようか。わたくしは書を読んでいる。それが支那の古書であるのは、今西洋の書が獲がたくてして、その偶獲べきものが皆戦争(※)を言うが故である。これはレセプチイフ(※)の一面である。他のプロドュクチイフ(※)の一面においては、彼文士としての生涯の惰力が、僅に抒情詩と歴史との部分に遺残してヰタ、ミニマ(※)を営んでいる。 (※)の語に語注がついていますが、最初の「戦争」以外は、私がもの知らずなせいか、注がなければ全く何を言っているのかわかりません。 というか、4つ以外にも、本当はもっとわからない表現だらけであります。 というわけで、適当に飛ばしつつも、しかし読まねば前後がわからない注釈をしこしことページを繰りながら読み終えました。 でも、少し読み始めると慣れてきて、さほど煩瑣ではなくなるんですね。 それは、思うに、やはり鴎外の明晰な文体によるものではないでしょうか。 難しい言葉はいっぱいあるのですが、非常に端正に書かれた文章は、どんどん読んでいくと「優しい」感じがしてくるんですね。(「易しい」ではありません。) 解説に「鴎外随筆を代表する」とある「サフラン」「空車」などの随筆も、読者に優しく語りかけてくれるような、何と言いますか、一種「気品」の様なものがあります。さすが鴎外ですよねー。 と、そんな読書の楽しみを味わせてくれる部分は確かにありながら、でも私としては、読み終えてしばらくするとやはり何か気になるんですね。 例えば、鴎外の小説「じいさんばあさん」などでは読後感がとても心地よいのに、例えば「最後の一句」とか「杯」なんかは、端正に美しく描かれていながら、どこか狭苦しい感じが残るんですね。 この後者の読後感と同じ感覚のものが、どうしてもこれらの随筆には残ってしまいます、わたくしとしては。 その正体らしいものは、例えば上記の三つの短編を読み比べれば、たぶん誰でも納得がいくと思います。 また、本書の解説にもこのように書かれたところがあります。(解説は千葉俊二) また鴎外にいわゆる随筆風の文章が少ないのには、小説や戯曲ならばフィクションという仮面をかぶることで自由にものをいうことができるが、随筆ではあまりに自己があらわに表現され過ぎることを嫌ったからかも知れない。 (やっぱり鴎外、戦ってますねー。戦士ですねー。) かつて小林秀雄は、『徒然草』の作者吉田兼好のことを「見えすぎる眼」と評しました。 私が大学で習った先生は、そんな小林こそ「見えすぎる眼」を持っていたと教えてくれました。 鴎外が、少なくとも小林秀雄より劣って見える眼を持っていたとはとても思えません。 その「見えすぎる眼」で書かれた文章に、より「自己があらわに表現される」随筆に、(そして戦場の戦士に、)どこかシニカルなものが漂い、そしてそれが読後感を少し狭苦しく感じさせるのは、やむなしとは思うものではありますが……。 そういえば、見えすぎる眼の不幸は、小林秀雄もすでに語っていたと思います。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.07.29
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『渦――妹背山婦女庭訓 魂結び』大島真寿美(文春文庫) 確か数年前に、この筆者がヴィヴァルディについて書いていた小説を読みました。詳しい内容は忘れてしまったのですが、きちーんとしっかり描いていたような印象が残っています。 で、この度は、近松半二のお話ですか。守備範囲がとても広いですねー。 近松半二という名前は、わたくしたぶん日本文学史の本で読んだような気がします。江戸時代の歌舞伎作家か何かじゃなかったかしらん。(浄瑠璃作家だと、本書を読んで知りました。) と、その程度の知識しか持ち合わせていませんでしたが、代表作がタイトルにもあります『妹背山婦女庭訓』、これも名前だけは知っていました、ただし名前だけ。 この度の読書で、これらのことはそれなりに詳しく知ることができたのですが、今回かなり納得したのが、歌舞伎と浄瑠璃はまるで違うということで、もちろん芸能興行形態が、一方は人間により他方は人形によるので違うのは当たり前ですが、私が特に知ったのは、歌舞伎と浄瑠璃における原作者(それぞれ「立作者」というそうですが、集団制作も多かったそうです)の芸能集団内での立ち位置の違いみたいなのでした。 文中にも「歌舞伎は所詮、役者のもんや」とありますが、なるほどまあそういうことですね。 で、近松半二は、浄瑠璃の作者であります。 それと関係してもう一つ、なるほどと改めて納得したのは、ざっくり言うと「著作権」という考え方がほぼなかった時代の創作者の人生上の困難、という事でしょうか。 著作権がほぼないのですから、これは、考えるだにきつい人生であります。 だから、(「だから」なのか「にもかかわらず」なのか、いえ、多分「だから」)芸事には無頼の人生が生まれるのでありましょう。 少し前に又吉直樹の「火花」という小説を読んだ時、私は、ああ、現代はこんなところに無頼派作家がいるのかという感想を持ちましたが、思い返してみれば、それ以前にも藤本義一という作家が「鬼の詩」という小説で、芸事に取りつかれた生き方の恐怖、狂気そして陶酔を描いていました。 その裏には、芸能や芸事に生きる者が、明日の衣食住がままならないぎりぎりの生き方と並走している状況が確かにあったのだと思います。 にもかかわらず、芸術芸能に取りつかれた表現者の陶酔は、このように描かれるととても魅力的であります。 実は本作は、それだけが書かれていると言い切ってもいいのですが、つまりどこを切り取ってもそこにつながるのですが、以下に、作品の初めの頃の、「病」が相対的にまだ「軽い」主人公の心理描写を挙げてみます。 「病」はまだ「軽い」ですが、狂気と陶酔の感じがとてもよくわかる描写です。(尾羽打ち枯らした主人公が久々に家に帰ってきた部分です。「以貫」というのは「半二」の父親。) 浄瑠璃か。 浄瑠璃な。 以貫が湯から出て、詞章をうなっている。よく聞き取れないが、なにやら気持ち良さそうに頭を揺すっている。 浄瑠璃か。浄瑠璃な。 半二はざぶりと湯をかぶりながら、道頓堀の賑わいを思い出していた。 幟がはためき、人々がさんざめき、うまそうな匂いが漂い、木戸番が声をかける。 半二が笑う。そうか、浄瑠璃な。 浄瑠璃という、その言葉を口にのぼらせただけで、心がはずみ、途端に気が急いてくるのは、どうしたわけだろう。 浄瑠璃か。 浄瑠璃なら道頓堀よな。 半二がくつくつと笑う。 あー、阿呆やな。わし、阿呆や。 大坂へ戻ってきたんなら、まずはあそこやないか。真っ先にあそこへ行かな、あかんやないか。 道頓堀や、道頓堀。 髭を剃り、髪を整え、絹が用意した新しい着物に袖を通すと、半二はそのままふいと道頓堀へと繰り出した。そうして、それきり、戻らなかった。 いかがですか。「浄瑠璃か。浄瑠璃な。」の繰り返しがとてもいいですよね。 さて、そのようにして半二が芸事=病に取りつかれていき、どんどん取りつかれていき、そして、終盤の間近、そもそもその芸事の創作とは何なのか、筆者はそこに一つの言葉を用意します。 いわく、「虚無」。 そして、一つの描写を行います。 若い時から切磋琢磨し合ってきた狂言作家の「正三」(並木昭三ですね)との会話の場面であります。「ときたま、会うたりするんや」 正三がいう。「だれにや」 半二がきく。「その男にや。つまり、もうひとりのわしやな」「んな阿呆な。なにいうてんのや」「いや、ほんまや。こないだもな、わし、法善寺の角、ひょいと曲がっていきよる、あいつの後ろ姿をみたんや」 おい、正三、からこうてんのか、といいかけて、半二は、正三がひどく真面目な顔をしているのに気づいた。いつもの明るさが消え、どことなく影が濃くなっているようにみえる。ああ、と半二は思う。こいつも、虚に食われだしとる。「あかんで、正三」「なにがや」「そいつをおっかけたらあかん」 半二がいうと、正三が、はっとしたように、目を大きく開いた。「ようわかったな、半二。お前、なんでわかった。そうや、わし、たまにそいつをおっかけとうてたまらんよう、なるんや。おいっ、お前はなに書いとんのや、みしてみ、いうて、ひっ捕まえて、たしかめとうてたまらんようなる」「あかん、あかん。それしたらあかん。そいつのことは、ほっとき。決して相手したらあかんで」「そうか」「そうや」 ここにはいわゆる「ドッペルゲンゲル」が描かれていますが、ものを作ることをとことん突き詰めていった先のうすら寒い「虚」の姿を、上手にさし出していると思います。 さて、そんな一種の精神の「地獄」に陥りながら、しかしなぜ創作者はその世界をさらにさらに追及しようとするのか。 本書が最後に触れようとするるのは、そこです。 これも引用したいところなのですが、しかしここは各自で読んでいただこうと思います。 かつて私は宮沢賢治を扱った小説を読んだ時、こういった実在の文学者を扱った小説というのは、基本的にハッピーエンドなのだな(少なくとも私のような文学好きの読者にとっては)、と思いましたが、やはり本書もそのように思います。 なぜならば、あるいは言うまでもないことかもしれませんが、21世紀の今に至って、近松半二の作った作品は、演じられ、読まれている(読まれては、あまりないかもしれません)からであります。 もって瞑すべし、ハッピーエンドでしょう。…… よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.07.16
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『あひる』今村夏子(角川文庫) わたくし、本書を古本屋さんで見つけました。 文庫本に帯がついていまして、そこに、「芥川賞候補作&河合隼雄物語賞」とありました。 芥川賞はともかく、河合隼雄さんってのは、心理学の人だったか日本猿の人だったか、その辺がよくわからないまま買って読み始めたら、若い女性と主に子供たちの話が始まったんですね。 で、なんかわたくし、変に錯覚したんですね、これは児童文学なんだな、と。 本書には三つのお話が収録されていて、最初の「あひる」を読み終えました。 ところが読み終えた時、なんか、いきなりどこかに放り出されたような、少し嫌な感じがしたんですね。 で、なんか、愛想のない児童文学だなーと思って、改めて、文庫の帯の「芥川賞&河合隼雄物語賞」という文字をじーと眺めていたら、今更ながらあれっと気が付きました。 芥川賞は、児童文学にまでそのテリトリーを多分広げていないんじゃないか、で、やはり河合隼雄物語賞って、どんな賞? で、少しウィキってみました。ウィキペディアにはこう書いてありました。 河合隼雄物語賞は「人のこころを支えるような物語をつくり出した優れた文芸作品に与えられる。河合隼雄が深く関わっていた児童文学もその対象とする」とされ、(略) ……うーん、そんなところにあまりこだわる必要もないのでしょうが、「人のこころを支えるような物語をつくり出した優れた文芸作品」って、何? そうじゃない文芸作品って、あるの? なんか、丸い卵って言い方とあまり変わらない気がします。 ただ、「児童文学」について触れていますね。なるほど、やはり児童文学が掠っている作品なのか、と。 そして私は、2作目と3作目の小説を読みました。 で、わかりました。この薄い短編集は、芥川賞受賞作の単行本によく見られるタイプの、メインのお話一つと、ちょっと「落ちる」かもしれませんが、筆者がその前後に書いた小説を合わせて一冊にしたものです、と。(えー、ちょっと失礼な書き方になっているかしら。そうならば、申し訳ないのですが。) いえ、2作目と3作目もそれなりに面白く、かつ、「あひる」とも大いに関係のあるお話であります。 連作といってもいいのかなと思いますし、私がかつて読んだ本でいいますと、黒井千次の名作『群棲』が似たニュアンスの短編集(連作)だったように思いました。 で、とにかくメインは「あひる」だな、と。 そして、このお話は、不気味な話だな、と。 で、さかのぼって改めて気が付くのが「芥川賞候補作」という帯の言葉でした。 なるほど、芥川賞には本作と似たテイストの受賞作が結構あると私は思い出しました。アバウトな類似点になって少し申し訳ないのですが、少し前なら多和田葉子の『犬婿入り』とか、ちょっと近い所では小山田浩子の『穴』とか……。 日常生活の中に、なんか変なものが出てくるんですね。 いえ、元は別に変なものでもないんですね。本書でもそうですが、動物やお年寄りなんかです。(この並べ方って、「差別」っぽいですかね。すみません。でも、よーするに、ちょっと自分と異存在のもの、ですかねぇ。) で、それらを巡って出来事や登場人物の言動が、少しずつ変、つまり常識的なものから、なんか皮膚感覚的に気持ちの悪いものにずれていくんですね。 こういった感覚は、いわゆる存在の不安なんでしょうか。 気がつかなければ気はつかないのですが、一度気がついてしまうと、もー神経症的にどうしようもないもの。 これは実は、かなり文学の普遍的なテーマでもあります。 私は上記に多和田葉子以降を挙げてみましたが、このテーマは多分もっとさかのぼれるでしょう。(ざっと思い出すと、「内向の世代」あたりの芥川賞受賞作もいくつかはそんなようだった気がします。) ただ本書についていえば、私が最初に感じていた児童文学的な構造、それは私の読みそこないだったのかもしれませんが、それをどう考えたらいいのか、という引っかかりを持ちました。 というのは、もちろん児童文学などとラベルを張る必要のない(張るべきではない)すぐれた作品もありましょうが、私は少なくない児童文学について、児童を主な読書対象とするゆえの「人間性の簡略化」を感じます。(まー、相変わらずのわたくしの「偏見」なんでしょーねー。) 本作にも私はちょっとそんな感じを持ちました。 申し訳ないながら、少し物足りない思いを持ちました。 さて冒頭で、私は古本屋で見つけたという話を書きましたが、実は筆者について私は全く何も知らなかったわけではありません。 あ、芥川賞作家が、受賞前に書いたお話だな、と思って、まー、買ったんですね。 上記に私は、批判的なことばかり書いているように思われるかもしれませんが、この存在の不安という文学の本道に近い所にあるテーマは、決して私は嫌いなものではありません。 つまり、次にはぜひ、読んでいなかったこの筆者の芥川賞受賞作『むらさきのスカートの女』を読みたいものだと思った次第であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.07.02
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『静かな生活』大江健三郎(講談社文芸文庫) 本書は、わたくし再読であります。 読書報告も2回目(以前に一度、本書の読書報告をしたという事)、であります。 さっきパラパラと自分が書いた昔の報告を読み直してみたのですが、まー、一応、今でもほぼ同種の感想と思えることが書かれてありました。 それは、大江氏はよくこんな小説を書くものだなぁという事であります。 こんな小説というのは、大江氏自身がモデルと思われる(そのように読んでも差し支えない)小説家の家族の話で、ただ、視点(語り手)が、その小説家の娘(大学生二十歳)となっています。 つまり、娘の立場として、例えば父親に対する人物批評などが書かれているんですね。 (ただこの書き方は、このねじれたような重層性が微妙なユーモアを生み出して、なかなか悪くないですが。) とはいえ、まー、ちょっと下世話に書きますと(こんな下世話な書き方がよくないのかもしれませんが)、いわば、親父が、きっと娘はこんな風に俺のことを思っているんじゃないかと、勝手に(!)考えて書いているという形ですね。 大江氏は、自分がそんな風に書いた小説を、娘が読むことは考えなかったのでしょうか。読んでもいいと思って書いているのでしょうか。 まー、そうなんでしょうねー。(ただ、小説家の家族には、その夫なり妻なり父親なり母親なりが書いた小説は読まないという人が少なくないというような話は、どこかで読んだ気がします。しかしそうだとしたら、やはりちょっと(かなり)、嫌な思いがそこにあるのでしょうねぇ。) という風に考えていくと、同じく一人の娘を持つ父親の私としては、今回もはらはらしながらの読書とならざるを得ません。 加えて、ストーリーが、いわゆる性的な内容に及んでいるんですね。 視点である娘さんは、レイプされそうになったりします。 うーん、これって、どーよー? どういうイマジネーションのあり方なんでしょうかねー。 何と言いますか、やはりいろいろ考えてしまいませんかー。(前回の私の読書報告でも、私は「ひやひやする」「はらはらする」と書いてあります。) だって、いくら小説家だとは言え、そして小説とはフィクションだというのは一応基本的な共通理解であるとはいえ、世の中そんな理知的な人ばかりでもないでしょうにー。 やっぱり、「普通のお父さん」は、そんな小説書けないですよ。(その認識は、お前が凡人であるせいだと言われれば、まー、そうではありますがねー。) と、いうようなあたりまでは、わたくし今回の読書でも、前回の読書とほぼ同様に感じつつ読んでいました。 ただ私は、前回の読書以降にも大江氏の別作品も何冊か読んでいて、その結果前回には思い及ばなかった「認識」も持ち合わせて読みました。 その認識とは、『河馬に噛まれる』という連作短編集に書かれてあった言葉、これです。 鳴り物いりで生き恥をさらしつづけるのもな、作家の任務だぜ! これは作中人物のセリフですが、筆者大江氏にもほぼ同種の「覚悟」があるのではないかと、私は読んだのであります。 前回の読書報告にも筒井康隆が小説を書くということは、作家本人の身近な人間関係を破壊する行為であるということを書いていたと触れましたが、筒井氏以外にも、例えば文豪井伏鱒二も、小説は作家を喰ってしまうと書いています。 まー、小説家の宿命なんでしょうねー。 しかし、実は私はそんなことだけを考えて、本連作短編集を読んでいたわけではありません。 本書には、6つの短編が収録されていますが、(すべて娘さんの視点での一人称小説です)中にはちょっと難しい作品もあったりしながら、しかし全体としては総タイトル通りの心地よい「静かな生活」が描かれています。 いえ、描かれている個々のエピソードそのものは、決して静かなものではないのですが(上述のレイプ未遂事件や恐喝話など)、そんなトラブルが少しずつひとつづつ丁寧にほぐされていく様子が描かれており、読み終えてみると、心静かになるような透明感、安定感、そして未来への少しの希望を感じさせてくれます。 このあたりはやはり、筆者のとんでもない小説創作能力なんでしょうねえ。 それが最も典型的に表れているのが、大江ファンにとっては、なくてはならないたまらない「イーヨー」の言動であります。 総タイトルにもなっている一つ目の短編「静かな生活」のエンディングに出てくる「イーヨー」の短いセリフなどは、わたくし、読んでいて思わず目頭が熱くなりました。 こんな小さな、しかし珠玉のような場面があるから、大江作品は、ほかの部分が(私にとって)少々難解であっても、つい手を出さずにいられないのだろうと、うーん、小説って(小説家って)、凄いものですねー。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.06.18
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『銀河鉄道の父』門井慶喜(講談社) 宮沢賢治が主人公、いえ本当は賢治のお父さんが主人公です。 でも、賢治がいなければ成立しません。賢治が現在超有名人だからこそ、こんな風に小説になるんですね。 そもそも、小説になる小説家、というか、その伝記的なものがお話や映画などになる小説家って、どのくらいいるのでしょうかね。どんな小説家がお話の主人公級になるのでしょうか。 ちょっと考えてみました。条件は二つあるいは三つかな、と。 まず広く国民が知っている有名小説家、つまり有名作品があること。 次に、かなり変わった人柄人間性、であることかなあ。 まあ、ここまででもいいのですが、あえてもう一つ挙げると、プラスアルファの盛り上がりイベントがあること、でしょうか。 そんな条件に当てはまる小説家を適当に思い浮かべてみますと、やはり太宰治が一等賞かなと思います。たくさんのいろんな映画などになっているような気がします。 そして上記の私の三条件に見事に当てはまっていますよね。(いうまでもありませんが、太宰の三つ目の条件は、異性関係心中付きであります。) 私は宮沢賢治は二等賞だと思っていますが、その前に、三等賞以下をさらっと考えたいと思います。 三等賞は、わたくし漱石じゃないかなと思います。けっこう小説や映画などの主人公級になっていますよね。漱石の場合、条件三は、少し弱い気がします。しかし、条件一は圧倒的だし、条件二の変人性もかなり強烈なものがありそうです。 で、三等賞、と。 以下は、と、考えると、……あれ、なかなか浮かびません。中也? 啄木?……。 私の無知故もあるでしょうが、どうですか、貴殿は思い浮かんだでありましょうか。 というわけで、入賞は三等賞まで。以下、なし、と。 で、さて、宮沢賢治であります。いえ、宮沢賢治の父であります。 主題はあくまで「父」なんですね。これがわたくし、本小説の最大の手柄だと思います。 父と息子の物語というのは、ギリシャ神話の頃より(エディプスコンプレックスってのも、父と息子の話ですかね、あれは、母親がポイントでしたっけ)数多くあるような気がします。父を息子がいかにして乗り越えるかという話ですね。 少し話は飛ぶかもしれませんが、父と息子と二代続きの優れた作家というのは、あまりいらっしゃらない気がしませんか。父と娘なら割といい線まで行くコンビは幾組か思い浮かびますがねー。 で、さて、再び賢治と賢治の父です。賢治の父は小説家ではありませんが、地方の名士、成功者でありました。そして、本書によりますと、賢治にとっては「骨がらみの父」であるわけです。本書の第一章のタイトルが「父でありすぎる」とあって、本作品のテーマがすでに挙げられています。 偉大な父でかつ結果として息子を溺愛する父。 そんな父親だと規定すると、その存在は賢治にとってはやはり一つの苦痛であったように思います。そしてそれが、よく描かれています。 加えて、そんな父がきわめて内省的で理性的であるところが、本書の興味深さの中心にあるように思いました。 本書の第二章に、こんなことが書かれています。(「政次郎」が父親です。) われながら矛盾しているが、このころにはもう政次郎も納得している。父親であるというのは、要するに、左右に割れつつある大地にそれぞれ足を突き刺して立つことにほかならないのだ。いずれ股が裂けると知りながら、それでもなお子供への感情の矛盾をありのままに耐える。ひょっとしたら質屋などという商売よりもはるかに業ふかい、利己的でしかも利他的な仕事、それが父親なのかもしれなかった。 こんな感じで、本小説にはほぼ初めから最後まで、「父親論」が描かれています。 もちろんそれは、主人公の父の主観によるもので、自分の気持ちの辛さが描かれているのですが、終盤になっていくほど息子はまったく意のままにならず、父親を生きることの苦悩が積み重なっていくという話になっていくのですが、しかしお話が俄然面白くなっていくのはこの辺りからで、父の様々な姿がどんどんユーモラスになっていくんですね。 この辺がうまいですねー! 本書には二つのクライマックスがあります。 ふたつめのそれは、賢治の死です。三七歳で迎えてしまう賢治の死です。 そして中盤のそれは、名作「永訣の朝」に描かれる最愛の妹トシの死の場面ですね。 冒頭に書いた条件三盛り上がりイベントは、賢治の場合はこの妹の死になります。 という風に泣かせる部分も抑えつつ、しかし、私は本書を読みながら、特に終わり近くになって、ふと気づいたことがありました。 冒頭に書いた、お話になる小説家という話題ですが、特に賢治がらみだからそうなのかもしれまんが、このお話はきっと「ハッピーエンド」になると、予想できたことでした。 もちろんハッピーエンドだから良い作品ではありませんが、確かに賢治は夭折といっていい年齢で亡くなりますが、その後の彼の作品の大いなる広がり方を知っている我々にとっては、映画が、伝記的事実のどの時点までで終わろうと、やはりその先に浮かぶのは、文学者としての宮沢賢治の「ハッピーエンド」だと思います。 私はそんな思いで終盤を読み上げました。 個人的な感想かもしれませんが、文学好きの私にとってはとてもウォームフルな「ハッピーエンド」でありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.06.04
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『雁』森鴎外(新潮文庫) 本小説は、わたくし多分4回目の読書ではないかと思います。 以前拙ブログにも一回取り上げています。その時私は、なぜ鴎外はこんな小説を書いたのかというテーマを持って、まー、一応の自分の納得点を書いています。(さっき、読み返してみました。) 今回は、ちょっと私事でぐじゃとぐじゃと忙しかったこともあって、それなりのまとまった時間続けて読むことはせず、途切れ途切れに読みました。 初めは、読み始めるたびに前回までのあらすじがよく思い出せなかったりして、落ち着いた読書にならないなあと思っていましたが、しばらくたって、いや、これはこれでなかなか面白い読書の形だぞと思い直しました。 ぼんやり持っていた知識で、この小説は『スバル』という雑誌に連載していたはずだ。『スバル』ってのは、月刊雑誌じゃなかったかしらん。そうであるなら、本来鴎外が想定した読者の読書リズムに近くはないかしら、などと。 実は新潮文庫の解説文の最後に「『雁』の発表の大体をつぎに示しておく。」とあって、発表事情が書かれています。なんか、私みたいな読み方をする人を見透かしたような解説で、少しびっくりしたのですが、こんな風にあります。 ・一九一一(明治四四)年九月~一九一二(明治四五)年七月(拾捌マデ) ・一九一二(大正元)年九月(拾玖) ・一九一三(大正二)年三月、五月(弐拾壱マデ) ・一九一五(大正四)年五月単行本『雁』(籾山書店)刊行の折、以下を完結(弐拾四マデ)。 ……なるほどねー。 これによると、この小説は2回、大きく中断されていることがわかります。(明治45年と大正元年は同年ですね。) 一つ目の切れ目は「19」章の終わり、つまり中盤のクライマックス岡田の蛇退治が終わったところであります。(なるほど、この蛇退治は、これを受けて二人の仲はどう変わるのかと次に気を持たせる狙いのあったエピソードですねー。) 二つ目の切れ目は「21」章の終わり、展開としては、末造は出張で、下女のお梅を実家に帰して、いよいよ満を持して岡田に話し掛けよう、そのために勝負床屋(!)へ髪を結いに出かける、というところであります。 うーん、ここはまたここで、次回に大いに読者の気を持たせるところですねー。 鴎外、うまい! 鴎外、策士! ……と、いうようなことを知ったのですが、その前からも、このように途切れ途切れで読んでいると、ストーリー中心ではなく、場面場面の描かれ方により興味が行くことに気づき、何と言いますか、今更ながらに鴎外の文章のうまさにほれぼれしました。 以前何かで読んだのですが、芥川龍之介が鴎外について「鴎外は胡坐をかかない」と言っていたそうですが、それを読んだときは、うーんいかにもそんな感じだなー、芥川もさすがに上手に言うな―、と思いました。 本作を読んで、なるほど鴎外は胡坐はかいていないが、本作においてはどこか着流しの格好のようなしゃれた懐かし気な文体を感じました。 本小説は、お玉が岡田に淡い恋心を抱くという話ですが、描写の中心になっているのは、お玉もさることながら、いえ、もちろんお玉描写も抜群にうまいのですが、わたくし今回、お玉描写には、時々鴎外の他作品に見えるような少し「啓蒙家」っぽい書きぶりを感じました。それに比べて圧倒的に感心するのは、高利貸し末造の造形であり心理描写でありましょう。これは、本当に凄い! 先日パラパラと司馬遼太郎の『街道をゆく』を、見るような読むようなことをしていました。 朝日文庫37巻目「本郷界隈」の巻であります。 そうですね、無縁坂について書かれてあり、当然ではありますが、『雁』に触れられています。 その中にこんな部分がありまして、わたくし思わず我が意を得たりと興奮しました。こうあります。 その岡田と、末造の妾お玉との淡い交情を運命的にえがいたのが『雁』なのだが、末造の描き方が入念で、みごとというほかない。いまはファイナンスなどとよばれる高利貸という職業は、明治時代、社会のどの層からも疎まれていた。 そういう男が妾を持ちたがったという情念の質感についても、鴎外は、末造の尻のあたりの脂がにおってくるように書く。 どうですか。 「尻のあたりの脂がにおってくる」なんて、よー書くモンですなー、司馬センセイも。 しかし、その末造の描写も終盤は出張に行かされたまま、やや尻すぼみに終わります。 冒頭に書きましたが、以前読んだとき、私は鴎外はなぜこんな小説を書いたのだろうと考え、私なりの一応の結論として、ボヴァリー夫人がフローベルであるように、お玉は鴎外なのだと考えました。 そう読めば、わが生涯を嘆くお玉の描写が、鴎外の冷めた現実直視の姿に似ている気は確かにします。 しかし、今回、ストーリーはあまり追いかけず、場面の描写に(ほれぼれしつつ)読んだ結果思ったのは、なるほど、お玉はエリスか、という事でした。 お玉はエリスとは、あまりに荒唐無稽な気が、わたくしもします。 しかし、この荒唐無稽の「裏付け」として私に浮かんだのは二つの事柄です。 ひとつは、鴎外の長男森於菟が書いた「鴎外のかくし妻」の話。(『父親としての森鴎外』ちくま文庫) もう一つは鴎外の詩『「扣鈕(ぼたん)」』にあるフレーズ、これです。 えぽれつと かがやきし友 こがね髪 ゆらぎし少女 はや老いにけん 死にもやしけん 鴎外は1922(大正11)年に亡くなります。 『雁』を書いていた時期は、他に『興津弥五右衛門の遺書』や『阿部一族』が書かれ、すでに晩年の「史伝」執筆に向かい始めた時期であります。 「扣鈕(ぼたん)」では「はたとせまえ」とあって、青春時代のブロンズの髪の女性(たぶん「舞姫」のエリスのモデル女性)を懐かしがっています。 『雁』の描かれる15年ほど前、鴎外は「かくし妻」を一時期持ちます。 晩年を身近に控えつつあった鴎外が、その時の彼女をふと振り返り、思い出し、そしてエリスに重ね慈しむ様にして描いたのがお玉ではないかという私の「妄想」について、私は、今回の読書報告として、まったく勝手に満足している次第であります。 (と、いうことは「尻のあたりの脂がにおってくる」ように描かれた末造は、鴎外自身の姿ということになりますが、私はそれはそれで何も問題はなく、小説に取り組む鴎外らしい真率な態度だと思います。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.05.21
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『冥途・旅順入城式』内田百閒(岩波文庫) この文庫本には、標題のとおり『冥途』と『旅順入城式』という2冊の短編集が一冊にまとめて収録されています。 ほとんどが数ページくらいのきわめて短い短編小説で(一作だけ少し長いのがあります)、『冥途』の方は18編、『旅順…』の方は29編、合計で47編の短編小説集です。 『旅順…』に、前書きのような筆者の文章がついていて、ざっくりまとめるとこんなことが書かれてあります。 自分は『冥途』をまとめるのに10年かかった、『旅順…』をまとめるのにまた10年かかった、その間、関東大震災があった、うんぬん。 つまり20年で47編だから、一年に2~3編の小説を書いていたんですね。(一応、書かれたのがこの作品集の作品だけと考えて。) ……うーん、なるほど。 だとすれば、読むほうも、そのままの日数をかけてとはいかないまでも、せめて一日1編、ひと月半くらいで読み終えるくらいであるべきではなかったか、と。 と、まあ、そんなことを思ったのは、実はわたくし本書を3日間くらいで読んだんですね。 最初の10編くらいまでは確かに面白かったですよ。唸るような筆者の文章力にほれぼれしました。 描かれているのは、結局のところ、皮膚感覚のような恐怖感覚で外界に疎外されている生の実態、と、そんな感じですか。 皮膚病のような不快感というものが、実に多彩に描かれて、そして終盤、いきなり大地の底が抜けて、異界に茫然と放り出されたような感覚でぷつりと終わっています。 引用しだすと切りがなくなるのですが、一つだけ抜き出してみますね。こんな感じです。 それから私は長い間待っていた。女は何時迄たっても帰って来なかった。そのうちに、私は腹が立って、ひとりでに歯ぎしりをする様な気持ちになったり、又何だかわからない熱いものが咽喉の奥から出て来て、口の中じゅうに拡がるように思われたりした。すると私は急に顎の裏や、頬の内側がくすぐったくなって来たので、舌で撫でるようにして見たら、口の中一杯に、毛が生え出しているらしかった。私は驚いて、口の中に指を突込んで見たら、柔らかな湿れた毛が、口の中一面に生え伸びていた。そうして、まだ段段伸びて来そうだった。もっと長くなれば、仕舞には唇の外にのぞくかも知れない。女が帰って来て、私に接吻しに来たらどうしようかと思った。すると又、急に女がどこかで、何人かと接吻している様な気がした。すると又、咽喉の奥から、熱いものが出て来て、口の中の毛が少しばかり伸びた様に思われた。 どうですか。よくこんな事を思いつくなあと少々呆れつつ、しかし考えれば、内田百閒の小説といえば、玄人好みであるという感じが確かにします。この文章力も含めて。 ただ、とはいえ、もちろんワンパターンでは絶対にないながら、こんな話を一気に10編くらいも続けて読むと、それはそれ、ちょっとツライ……。 今、ワンパターンではないと書きましたが、実際細部の描写はよくこれだけ手を変え品を変え皮膚感覚的恐怖感を描写することができるものだと感心はしつつ、しかし大きな枠の作りでいえば、やはり「パターン化」しているともいえそうです。 それはまとめれば、例えばこんな感じ。 AがBしてCになったのでDでした、というのが普通の文脈なら、百閒小説の文脈は、AがBしてCになった「すると」「突然」「ふいに」「ふと」Dである、といった感じ。 実は百閒小説は、「ふいにD」の所のイメージと造形が圧倒的に素晴らしいのですが、ただこの展開ばかりを読んでいると、だんだんABCの部分の読みがおろそかになっていきます。どうせDには論理的につながらないのだから、と。 しかしそうなると、必然的に「ふいにD」の、イメージの飛翔とでもいうべきものによる驚きも面白さも失われてしまいます。……。 筆者は20年間、毎年2、3編の小説だけを発表していました。(もちろんそれだけでは食えないわけで、基本的には別に教育職をなさっていたんですね。しかし、一方で百閒の貧乏暮らしぶりは有名でありますが。) 上記に触れた『旅順…』の前書きに、またこのように書かれてあります。 「文章ノ道ノイヨイヨ遠クシテ嶮シキヲ思フ而巳」 実は晩年筆者は、猫の話と旅の話を書いてベストセラー作家になります。 なるほど、例えば野球のピッチャーについて、「ベテランの配球」という言い方がありますが、それは若い頃に、火の玉のような「真向直球勝負」をしていた選手だから、晩年そんな妙味が出せるのでありましょう。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.05.07
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『河馬に噛まれる』大江健三郎(文春文庫) 作品を読みながらこう考えた。(すみません。『草枕』のしょうもないマネですー。) 近代日本文学における「私小説」が、偏っていびつになった原因は田山花袋の『蒲団』にあることは、初歩的な理解事項。 圧倒的な西洋文学の影響を受けていた明治黎明期の日本文学において、現実社会をそのままに描くという主にフランスの「自然主義」が、田山花袋の中で「現実社会」ではなく「自分」になってしまったせいだ、と。 しかし、これは花袋の誤解というよりは、花袋の「ずぼら」のせいでありますよね。 現実社会そしてそこに生きる人間を描く、それも徹底的に描くというのなら、なるほど、自分をモデルにするのは最も有効で簡便な方法であります。 そして花袋は花袋なりに、そうでなきゃウソになると考えたのでしょうが、それはわからないでもないですね。 でも西洋人的粘りのない花袋は、ウソにせず自分じゃない人間を書くという西洋人作家のフンバリがなかったんでしょうね。また周りの連中がそれに同調したというのも(だってその後花袋式「自然主義=私小説」が文壇の主流になりましたから)、島国的で根性のない日本のような気がします、わたくし。 そして描かれた小説のあれもこれもが、作家が主人公の小説なものだから、「私小説」の大きな欠点といわれる物語性の欠如が生まれはびこって(場合によっては居直って)しまったんですよねー。 つまり、冒険もロマンも何にもない(あっても少しだけの)、おもんない小説の集まりが純文学である、と。 さて、ここで大江健三郎が出てきます。 わたくし、この度本書を読んで、なぜ大江はこんな「私小説」めいた結構の小説ばかり書くのだと思っていた問いに対して、一つの自分なりの結論を得ました。 いえ、そんなことはすでに多くの指摘があるのかもしれません。しかし、自分としては初めて納得に近いものを感じたので、ここに報告してみます。つまり、 大江健三郎の小説の才能は、卓越した物語づくりにある、と。 なんだ、そんな当たり前のことかとお思いになった貴兄、がっかりさせてすみません。 そう思えば、私も以前何かの本で、大江が、亡くなった開高健について、もちろんたくさんの評価もしながら、あの方は物語づくりの才能はあまりなかった、お話をすればあれほど面白い方だのに、というようなことを書いていたのを思い出しました。 大江はおそらく、自らの中からこんこんと湧き出る物語に、自信があったに違いありません。しかし、一方でこの吹き出してくるような物語たちを、どのように制御していけばいいのかについて、ずっと長く多岐にわたり深刻に考え続けたその結果が、あの大江健三郎独特の「私小説」めいた物語構造であったのだ、と。 それは、現実に小説家として生きている私の話ですよと、小説の中で散々語ることで、迸り出てくる虚構の物語のリアリティを確保したということであります。 しかしそんなことをすればどうなるのでしょうか。 我々小心者の市民が一番に考えるのは、そんなことをして現実の人間関係が崩壊してしまわないのかという事でありましょう。本書の中にもこんな一節があります。 あなたは私たちのことを、あることないこと次つぎに書かれました。それでいて自分については、大切なことをひとつ、書かないまま通してきたことがあるじゃないか、それを率直に書いたらどうですかあ、と呼びかけているのです。 何というか、少しあきれるのは、こんな内容も小説として(ぬけぬけと)書いているという事でありましょう。(そういえば、筒井康隆も小説の中で、小説家として生きて書くことは一つの地獄であると書いていました。) 大江健三郎は、そんな「私小説」の極北の姿を、自分、家族(娘の一人称で、父である自分=大江の生活を描く小説すらありました)、そして一族の歴史や故郷の歴史にまで及んで「あることないこと」を書き続けます。 そんな「地獄」(筒井流の言い方)を作家はどのように考えているのか、本文にまたこんな一節がありました。 鳴り物いりで生き恥をさらしつづけるのもな、作家の任務だぜ! この一文を読んだとき、私はひょっとしたらこれかと思いました。そして、頭に浮かんだのは、こんなことです。 この破れかぶれは、太宰治に通じているのではないか、と。 太宰は自らをしばしば年老いた辻音楽師に例えました。 また『斜陽』では「МC=マイ・コメディアン」という表現で、小説作品世界に対する意気込みと親愛を示しました。 太宰に通じるということは、とりもなおさず文豪に通じているということで、それはいわゆる文学に生活すべてを奉仕するという姿勢ではないでしょうか。 さてなるほど、そんな作者の今回のテーマが「連合赤軍」であります。 『洪水はわが魂に及び』で見事に描き切ったと思われていた「連合赤軍」は、大江の中で、またこのようにフィクショナルにあふれ出ました。 しかし考えてみれば、日常を装いながら極北の非日常が思いのままに描けそうな題材として、それはいかにも大江小説の構造にふさわしそうです。(それを大江は見落とさない。) やはり本書の連作短編や中編小説は、実に緻密に計算された空想世界でありました。 ただ、現実と虚構が混然一体となって、また筆者独特の文体とも相まって火球のようにイメージやストーリーが飛び回るものだから、その読解は、読者としては時に煩わしく難解で、読み手にハイレベルな読解力を求めてくるものであります。 その特徴を仮に2点にまとめます。 まず、評論文的な論理性(現実)の中に、荒唐無稽な挿話(虚構)が挟み込まれ描かれること。 そして、その論理性が、実はグロテスクな虚構のイメージによって担保されているということ、でありましょうか。 そんなこの筆者独自の難解さを作品は持っています。 しかし作品が求めて来るものに対して、一歩ずつ誠実に読み進めていくことができれば、それは達成感といってもよい素晴らしい読後感を、我々は手に入れることができると思います。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.04.22
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『模範卿』リービ英雄(集英社文庫) なかなかの問題作と、わたくし、思いました。 あれこれ考えたのですが、(まー、下手の考えではありますがー)本書に私がなじめないポイントをざっくり言うと以下のようになります。(いきなりなじめないから入るのは、そこ以外はかなり「なじめた」からであります。) 極端に個性的な半生を送った主人公の、自らの過去の語りを、我々はどの程度リアリティを持って受け入れることができるのか、という……。 さほどに、筆者の特に幼少年期の環境は、特徴的であります。 ただ、そう感じるのは、「島国日本」で呆けたような人生を今まで送ってきたわたくしゆえのことでないのか、くらいの「客観性」は、いちおー、持っております。 例えば少し前に読みました『悪童日記』の筆者アゴタ・クリストフが体験した生涯の「言語の変遷」も、はなはだしいものがあります。(「言語の変遷」と今私が書いたのは、使用する言語が何度も(強制的に)変更させられるという意味です。ついでに、「変遷」するものは「所属(させられる)国家」でもあります。) つまり日本にいるからそんな人生を「特殊」と感じてしまうのですが、ヨーロッパあたりに行けば、少なくない人間にとってザラにある成長期の言語環境であるということも、なんとなく理解はしています。 本書のテーマの一つはそんな、いわゆる「越境文学」のなかでも、特に、読んでいてほとんど母語が崩壊している主人公が、自らの言語体験を辿る中からアイデンティティを模索していくという話であります。 この作家の「不幸」(あるいはこれはほぼ「幸運」と同義語ですが)は、その半生が、人間の成長期の言語獲得というフィールドにおいて、かなり異様であったにもかかわらず、その言語を第一の必要能力とする職業についてしまったことでありましょう。 そう思ってしまうほどに、主人公の苦悩はひりひりと深いです。(上記に「幸運」と書いたのは、一般論として文学は、やはり苦悩から生まれるものだからであります。) さて、もう少し具体的に考えてみます。 これも私の個人的な印象批評ですが、本書の文体はどうも読みにくいと感じました。滑らかに進んでいかない。 どうしてなのかと考え付いたのは、この本文にはエクスキューズがとても多いのじゃないかということです。それは、とにかく正確に書こうとしているのではないか、と。 じゃ、なぜそうなのか。 んー……、かなり乱暴に(かつ先入観と共に)いえば、母語じゃないからでしょうかね。 というより、上記にも少し触れましたが、筆者は、英語・日本語・多種の中国語(台湾の言葉・大陸の様々な地域の言葉など)を内面に輻輳して持つことで、思考と言語のかなり深いつながりの部分において自覚的に混乱、あるいは崩壊しているということを、様々な場面で描いています。 (それを作中に、多和田葉子の表現と注して「かかとを失くす」と書かれており、うーん、これは筆者と多和田とどちらを誉めればいいのか、なかなかすごい表現だなあと思いました。) ただ、読んでいて少ししっくりこないのは、上記に挙げた言語のうち、英語と多種の中国語の内面の混乱については再三描かれておりながら、実際この作品を書いた日本語(筆者にとっての日本語の意味)については、十分に深く描けているとは思えませんでした。 (「ゴーイング・ネイティブ」という作品の中に、パールバックはなぜ中国語で書かなかったのかという問いかけがあって、ぎりぎりまで迫りながら、やはり説得力豊かに自らの日本語を振り返るまでは描かれていないと思いました。あわせて、「ゴーイング・ネイティブ」という短編は、本書全体の謎解きのような興味深い作品でもあります。) さて、上記に私は、筆者の言語苦悩を本書のテーマの一つと書きました。 本書には、もう一つテーマがあると思います。 それは、「私小説」(「私小説」で書くことの意味)でありましょう。 それについては、じかに筆者が短くこのように触れています。 アメリカの少年として体験した風景の上をすれすれに飛びながら、大人のアメリカ人たちと違ってそのことを誰にも打ち明けない。むしろそのことにもとづいて「私小説」を書く、その中で回想は単なる回想なのか、それとももう一つの意味に結晶されるのか、試されるのだ、と思いをめぐらしているうちに、JAL機がなめらかに台湾の土に着陸した。 筆者はさりげなく「私小説」の意味を、自らの体験を別の意味に結晶させることと書いています。 実は本書の「私小説」としての意匠は、かなり破格なものです。 一人称の名前は筆者自身で、ほかの小説家の名前や作品の引用、また過去の自作品の引用(小説ではないものまで)などが出てきます。 これは、長い私小説の伝統を持つ日本文学の中でも、かなり異例と思います。(近い所を考えると、大江健三郎あたり、いや、かなり違いますか。) これは結局のところ何なんでしょうか。 私が個人的に、現代文学全体に共通するテーマの一つと考えているものになぞりますと、寿命を迎えつつある小説の写実主義的表現に変わるものの模索、かな思います。 そんなわけで、本作は、わたくし、なかなかの「問題作」と、冒頭で触れさせていただいた次第であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.04.10
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『英子の森』松田青子(河出文庫) この作者は、わたくし、初めて読んだ作家ではありません。少し前に『スタッキング可能』という本を読みました。(これは個人的な私の問題なのかも知れませんが、若い作家の作品を初めて読んで、また次も読みたいと思える方が、どうもあまりいないように感じるのですが、やはり私自身の問題なんでしょうかねえ。) 『スタッキング…』は、とてもおもしろかったです。 しかし、そもそもこの筆者のペンネームは、これは何なのでしょう。まあ、近代日本文学史を遡れば、二葉亭四迷という大物の人を食った筆名がありますから、この程度はまだおとなしいのかも知れませんが、このユーモラスさとシニカルさは、そのまま『スタッキング…』の中にありました。 扱っているテーマは、わりと正当なんですね。 人間不在の労働環境とかフェミニズムとか、そんなざっくりまとめが、(もちろんいろいろはみ出すところを持ちながら)できるかも知れません。 ただ、この小説達の(『スタッキング…』は短編集です)おもしろいところは、そんなざっくりテーマをずらしてずらして訳が分からなくなるくらいにずらして描いているところであります。いわゆる、論文や評論文とは異なる小説の醍醐味ですね。 そしてそこにおいて、筆者はとても魅力的です。 繰り返しになりますが、ユーモラス、シニカル、内出血のような笑いはとてもおもしろいし、言語センスには水際だったシャープさがあるように感じます。それは才能というよりも、運動神経みたいなものでありましょうか。 で、さて、冒頭の本書であります。 ……うーん、なんか、もひとつ。(ごめんなさい。) 『スタッキング…』の方が、深みというか厚みというか、展開そのものに小説的な「おいしさ」があったように思いました。 これは難しいところで、風刺だけでは文学的な深まりは、きっと難しいのでしょう。テーマがあまり剥き出しになると、作品がやせてしまうという、なかなか難しい所であります。 ただ、これは「おにいさんがこわい」という作品の一節ですが(本書も短編集であります)、テレビの幼児番組で「おにいさん」がいきなり本番出演中の幼児に大声で恐がられてしまいます。それをステージ脇から見ていた「おねえさん」の、次は私だという恐怖の独白場面です。 おねえさんはようやく決まった大きな仕事だった。評判も上々で、何の問題もなく一年が過ぎた。このままいけると思っていた。そうしたらこれだ。おねえさんなんて本当はどうでもいいと思っている私の気持ちを、あの子はすぐに炙り出すだろう。そりゃそうだ。おねえさんなんかじゃないのにがんばろうとするから。つまらない夢を見るからこうなる。もうたくさんだ。やめてもおねえさんだった事実は消えないだろう。ニセモノのおねえさんだったのに、さもさも本当のおねえさんだったかのように、ネットや見ていた人の脳みそに情報が残るだろう。私がこれからどんな仕事に就いても、私を見たことのある人覚えている人が、あなたはおねえさんだったでしょう、すごいじゃない、とにこにこ笑いながら言うだろう。すごくなんかないのだ。私はニセモノだったのだから。それよりいっそその記憶を大海原に捨て去ってほしい。セメントブロックの重りをつけて二度と浮き上がらないように。 どうでしょう。 軽くおもしろがって読み飛ばしてもいい場面なのかも知れませんが、この恐怖の独白にリアリティ、あるいは普遍性はあるのでしょうか。 私しばらくじーっと考えたのですが、ないとは言えないだろう、と思いました。 引用部の最後の方に描かれている事柄を、「デジタルタトゥー」という言い方でまとめることもできそうですが、そうでなくても、ここに描かれようとしているのは新しい社会で人間が出会う新しい「危機」と言えなくはないように考えました。少なくとも私は今までこのような「危機」について、人ごとでなく真剣に向き合った記憶はありません。そんな私にとっては、何か「新しい」ものと感じました。 実は、私は本短編集の作品には、結構「好き嫌い」を感じました。 6つのお話が収録されているのですが、私はその中の「おにいさんがこわい」と「スカートの上のABC」がおもしろいと思いました。 上記で触れた「おにいさん…」の話は、この後、どんどんストーリーがずれていきます。そもそも引用したおにいさんの話は、作品冒頭からずれまくった展開でありますし、この後のエピソードもどんどん地崩れのように横滑りしていきます。 こんなお話は、その終え方が結構難しいと私は考えるんですね。 上に挙げた「スカートの…」も同じで、両作品とも、筆者は実に興味深いエンディングを書いています。ただ、それが優れているのかどうかは、私には分かりません。深さとか趣とか余韻とかがあるわけではありません。(むしろそれらの極北。) ただ、このエンディングを、私は何となく捨てがたく感じます。 あるいは、こんな一種「人を食った」ようなエンディングを書いた筆者の内面が、興味深いのかも知れません。正体がまだ分からないという高揚感。 私はふと、初期の短編小説に安部公房は、こんな話を書いてはいなかったかしらと思ったりしました。……でも、まぁ、……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.03.26
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