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『三四郎』夏目漱石(新潮文庫) 前回の続きの10度目の楽しい『三四郎』読書報告です。 前回、今回の読書のテーマは、冒頭タイトルにあるように、美禰子の心の理解の揺り戻し、やはり三四郎に好意を抱いていたのではを探ることでした。 では、以下にその「証拠」個所となる場面を提示します。 一つ目は、二人で美術館に行った時の、野々宮の姿を発見した時の美禰子の行動とセリフについて、三四郎に寄り添って書いてある地の文の説明です。 ちょっと前後省略でそこだけ抜いてみますね。「悪くって? 先刻のこと」「可いです」「だって」と云いながら、寄って来た。「私、何故だか、ああ為たかったんですもの。野々宮さんに失礼する積りじゃないんですけれども」 女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳の中に言葉よりも深き訴を認めた。――必竟あなたの為にした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。三四郎は、もう一遍、「だから、可いです」と答えた。 『三四郎』の地の文は三人称で書かれています。しかし、ほぼ一貫して、三四郎の心情に寄り添うように(三四郎がわからないものは分からないままに)描かれています。 だから、この個所も三四郎が勝手にそう感じたと受け取れないこともないのですが、少なくともこの美禰子の瞳の記述は、一定の客観性を持って書かれていると読まないわけにはいかないと思います。(そうじゃなく読んでもいいのかもしれませんが、そんな読みばかりをしていたら、そもそも『三四郎』の読書がちっとも面白くなくなってしまう気がするんですが。) そしてもう一か所。画家の原口のアトリエで、モデルをしている美禰子が、三四郎を意識してかなり疲れた感じになる所の描写です。ここも少し抜いてみます。 なるほどそう思って見ると、どうかしているらしくもある。色光沢が好くない、眼尻に堪え難い物憂さが見える。三四郎はこの活人画から受ける安慰の念を失った。同時にもしや自分がこの変化の原因ではなかろうかと考え付いた。忽ち強烈な個性的の刺激が三四郎の心を襲って来た。移り行く美をはかなむと云う共通性の情緒はまるで影を潜めてしまった。――自分はそれ程の影響をこの女の上に有しておる。――三四郎はこの自覚のもとに一切の己を意識した。けれどもその影響が自分に取って、利益か不利益かは未決の問題である。 いかがでしょう。ただ、この場面の美禰子は、(まだ三四郎は知らないけれども)実はすでに第三の男と見合いをして、そしておそらくは婚約が成立した後であります。だから純粋な恋愛感情が美禰子の心中にあるとは言えないところであります。 というわけで、なかなか今回の読書のテーマ、美禰子の心の揺り戻しは難しそうであります。 かといって、美禰子は全く三四郎のことを歯牙にもかけていないかといえば、やはりそうでもなかろうと私は思うわけで、そんな美禰子の心情をすとんと描いているところはないだろうかと考えていますと、そういえば、とこんなところに考えが行きました。 前半部の広田先生の引っ越しの手伝いの場面です。この場面に出てくるこの言葉も、『三四郎』中の大切なキーワードです。 Pity`s akin to love これは本来の意味で翻訳するならば「憐憫は恋愛に似ている」となる言い回しですが、『三四郎』文中では、与次郎が俗謡で訳すべきだといって「可哀想だた惚れたって事よ」と訳して、広田先生に叱られ一同大笑いとなる場面です。 この二つの訳文。 与次郎の訳は、その意味を補足しつつ普通に訳すならば、恋に溺れているあいつはまさに可哀想な状態にあることだなあとなり、これはそのまま三四郎の姿となります。 では、本来の訳文の方は――。 私が今回の読書で思ったのは、多少牽強付会な部分は含みながらも、こちらの訳文こそが美禰子の三四郎への行為(思い)の正体ではなかったか、と。 美禰子の心の中央には、やはり野々宮があったでしょう。しかしその横に、ひょっとしたら憐憫の対象かもしれませんが、三四郎を置くことは、決して無理ではないのではないか、と。 人は必ずしも一人の異性をのみ愛するものではないが、後になって、その一人への愛も破局となった時、彼女は隣の二人目の異性に対してはどんな心情を抱くのか、多分それが、終盤に描かれた「ストレイシープ」ではなかったかと思います。 この度は私は、そんな風に『三四郎』を読んでみました。 名作は何歳になって読んでも感動するとはつまり、読者の千差万別の思いに、懐深く柔軟に対応できる作品だということではないでしょうか。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.05.02
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『三四郎』夏目漱石(新潮文庫) 実はわたくし、エクセルで読書ノートをつけているんですね。タイトル、作者名、読んだ日、その年の何冊目か、全体の何冊目か、そして一行だけの感想などを記しています。 この、「全体の何冊目か」というのは、この読書ノートをつけ始めてから何冊目の読書かということで、スタート地点は半世紀前くらいであります。 最初に書き始めた時は手書きだったのですが、何年かしてから、しこしこと半年くらいかけてエクセルデーターにしました。 するといろいろ便利になって、この本は今まで何回読んだかなどが、並び替えですぐにわかります。 それによりますと、この『三四郎』は、わたくし7回読んでいることがわかります。 しかし、このエクセルデーターの元になった読書ノートは、就職してからつけ始めましたから、おそらくその前の高校大学時代に最低2回は『三四郎』を読んでいると思え(初読は高校時代で、大学時代に今でも我が家の本棚にある新書版の漱石全集が刊行され始め、少なくとも始めの頃は一冊ずつ買いながら読んだはず……)、ということは、それも加えると今回の『三四郎』読書は、わたくし10度目となります。 この拙ブログでもすでに2回『三四郎』を取り上げていますが、エポックメイキングな読みになったのは9回目の読書の時の報告でありました。 それは、美禰子は、ちっとも三四郎を愛してなどいなかったという読みで、なかなか刺激的な読みでした。 しかし、といいますか何といいますか、今回の『三四郎』読書のテーマは、その揺り戻しの可能性を探る、と自分で勝手に決めて読み始めたのであります。 やっぱり美禰子も、少しは三四郎を愛していたんじゃないのかの思いは強く、その読みの可能性をもう一度探すというテーマであります。 さて、そんなテーマを勝手に持って読み始めたのですが、そんなテーマとは無関係に、やはり『三四郎』はとっても面白かったです。 筆者の無手勝流の文章のうまさについては、わたくしが今更言うまでもないですが、改めて惚れ惚れとしたり(菊人形から流れて来て二人だけになったシーンで、泥濘道を飛び越える美禰子が三四郎の両腕の中に落ちるところなんて、わたくし一人で秘かに快哉を挙げてしまうくらいに、めっちゃうまいやんけー!でした)、でも一方で、ここは漱石かなりノンシャランに書いているんじゃないかなどと思う場面があったりと、文章だけでもう満腹、という感じではありました。 しかし、忘れてはいけない我がテーマということで、頑張って最後まで読みました。すると「重要な」ポイントが、数か所出てきました。ざっくり以下に検討してみます。 まず一つ目は、二人の出会う端緒となる例の大学の池のシーンの美禰子の心理、そして作品後半部にある、その時の着物の衣装を画家に提案した美禰子の心理であります。ここの美禰子の心情に、三四郎への特別な感情が読み取れるかということですが、これはなかなか難しいことがわかります。 一つ目の池のシーンの美禰子の心情は、やはり三四郎をチャームしたものではなさそうですし(前回の私の『三四郎』のブログにその内容は書いてありますが)、その時の着物がモデルの着衣になっているというのも、作品終盤に、三四郎との出会いとモデルの着衣は、実は順序が逆だという(驚くべき)解答が書かれています。 二つ目のポイントは、世次郎が競馬ですったお金を美禰子から借りに行く三四郎のシーンですが、ここで美禰子が三四郎にこんな風に言っています。(競馬ですったのは三四郎だと思っている場面です。)「馬券で中るのは、人の心を中るよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引の附いている人の心さえ中てみようとなさらない呑気な方だのに」 ここの「人の心」とは、具体的に誰のどんな心情のことを言っているのでしょうか。 この「人」は誰か、具体的に挙げるとしたらやはり美禰子(=私)以外には考えられないんじゃないかなと思います。 そして、美禰子の心の中に特別な存在として三四郎があるのなら、このセリフは美禰子の愛情告白となるでしょう。 しかし一方、美禰子の心の中に野々宮だけがあるのなら、ここはかなり残酷な意味合い、つまり私が好きなのは野々宮さんだけなのがあなたは分からないのか、という意味になってしまいませんか。 ……うーむ。これはこの二つの読みどちらも、場面に違和感がありますよね。 とすると、この言い回しは、特に具体的な「人」を想定しない、客観的な三四郎の性質を指摘した言葉なのかもしれません。ちょっと気になりますが、有力な証拠とはいえなさそうです。 という風に、私はちまちまとエビデンスを探っていったのですが、最終的に、この描写はどう読んでも美禰子の心の中に、三四郎に対するある一定の好意の感情があるだろうと私が読んだのは2か所でした。 というところで、すみません、次回に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.04.18
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『首里の馬』高山羽根子(新潮文庫) わたくし、本文庫を古本屋で見つけまして、カバーの裏表紙の文章を読んでいましたらいろんな言葉が引っ掛かってきてそれで購入したのですが、まず冒頭に、「問読者」と書いて「といよみ」と読ませるものが主人公の仕事だとありました。 もちろんその後ろの簡単な説明文を読んだからでしょうが、私は村上春樹の小説にあった「夢読み」を連想しました。 実際は、本作の中で「問読者」は「夢読み」ほど幻想的な仕事ではないのですが、それが荒唐無稽で、かつやはりとても魅力的な作者の妄想めいたものから生まれていることは、甲乙つけがたいと感じました。 いま妄想めいたと書きましたが、現代文学の最前線の作品は、この妄想力が最も重要であるような気がします。 本作を読んでいて(特に中盤あたりまで)、これだけ妄想力を持った方が、これだけの文章力も同時に持ち合わせていてくれた結果がこの佳作なのだと思ったとき、私はその出会いの妙にほとんど感動しそうになりました。 前半から中盤までの、展開の上の特に三つの妄想的要素は、そんな、天馬空を駆けるような文学的独創性に満ちているように思いました。 具体的に言えば、まず主人公の二つの仕事(一つはボランティアですが)、沖縄の民俗学の資料館の資料整理係と、上記に触れた「問読者」のこれは正式な仕事、そしてもう一つは、台風の夜に主人公の家の庭に迷い込んだ宮古馬(沖縄種の馬)の三点セットであります。 この三つの妄想物が、様々な世界の果ての孤独と沖縄の歴史を、つまりは広がりと奥行きを十分に示しながら繋げられ語られていきます。 また、その文章についても、素朴と平易さを中心にした安定感ある淡々と筆致で、むしろそんな文体のほうがぐいぐいと展開を引っ張っていくように感じられました。(私はそんな文体を読んでいて、ちょっと安部公房の小説を連想したりもしました。) そして後半、そんな妄想的異物が読者に何を示そうとしているのか、というところになって俄然クローズアップされるのが、「孤独」という状況でありましょう。 孤独……、本作のほぼすべての登場人物の属性といってもいいこの状況は、一体なぜ生まれるのでしょうか。孤独と感じる主体の側から述べると、自らについて理解者がいないから、となるのでしょう。本作中にも理解できないものを恐れ排除する人間心理に触れています。 実は私は、本書はこの孤独状況に対する一つの解法が描かれていると読みました。 理解できない、また、してもらえないから孤独になるというのなら、理解しないをそのまま受け入れるのが解法だろう、と。 文中には主人公について、こんな風に書かれている個所があります。 「じゃあなんで、私がこの仕事に向いていると思えたのですか」 「……しいていえば、様子のおかしいことを、きちんとおかしいと判断しながら、それでもしっかり受け止めて恐れない人だと思えるからですかね。(下略) 私はここを読んでいて、これは本書の作者が実際に誰かに言われたセリフじゃないかと思いました。この「私」=主人公の持っているものは、ほとんどそのまま小説家に必要、というより小説家なら自然に持っている一種の性向あるいは価値観だと思うからです。 誰の文章だったか忘れてしまって申し訳ないのですが、昔こんな言い回しを読んだことがあります。 小説家になるには頭の良さは必須ではないが、頭の強さは必要だ。悪を悪のままに価値判断せず描くには強い頭が必要だ、と。 さて、本書に戻りますが、小説家ではない主人公は自らのこの「才能」をどう使っていったのか、それは、受け入れることでした。 ひたすら受け入れること、それが、本作の中に再三描かれています。一つだけ抜き出してみます。 この島の、できる限りの全部の情報が、いつか全世界の真実と接続するように。自分の手元にあるものは全世界の知のほんの一部かもしれないけれど、消すことなく残すというのが自分の使命だと、未名子はたぶん、信念のように考えている。これが悪事だというのなら、いくら非難を受けても、なんなら捕まっても全然かまわないという、確かな覚悟もあった。 この文は、本作の終盤あたりから抜粋しましたが、この後ろには、そんな自らに自信を持ち、誇らしく思っているという表現が続いています。 また、このひたすらアーカイブするだけの課題という発想は、理解しない=意味を問わないという意味において、これも本書の独創的なエピソードである「クイズ」と、表裏関係として、あるいは理解や意味の矮小化または相対化として取り上げられているようにも思えます。 と、そのように私はこの物語を読んだのですが、ひとつだけ少し、おや、と思った読後感があります。 それは、主人公の未名子という若い女性の身内の影がとても薄いことです。彼女が一人暮らしをしていることなどは説明されていながら、彼女が自らの人生の中で大きなハードルを飛び越えようとしているこの孤独の解法に、身内がほとんど影も光も落とさないというのは、わたくし、少し物足りなく思ったものです。 しかし、それはまた、次の筆者の作品内に秘められているのかもしれませんが……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.04.04
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『透明な夜の香り』千早茜(集英社文庫) この方の本も、わたくし初めて読みました。実にいろんな方がいろんな小説をお書きなんだなあと、つくづく思います。 この筆者は、2022年に直木賞を受賞なさっているんですね。 本作は、その2年前の作品で、渡辺淳一文学賞というのを受賞なさっています。といっても、「渡辺淳一文学賞」というのがどのような賞なのか、わたくし寡聞にして存じ上げませんので、ちらちらとネットで調べてみました。すると、ウィキにこんな風に書いてました。 「純文学・大衆文学の枠を超えた、人間心理に深く迫る豊潤な物語性をもつ小説作品が顕彰される」 なるほど。と思いつつ、でもやっぱりよくわからないなりに、ポイントは「豊潤な物語性」の部分だなと直感しました。(まー、誰でもそうわかりますかね。) という予習をして本書に臨みましたが、まず気になったのは、こんな部分でした。(けっこう全編を通してこんな個所がありましたので、その幾つか、短い引用でわかる個所だけ。) ……蔓薔薇の根元が濡れ、土の匂いがたちのぼっている。水を得た赤い薔薇はますます鮮やかさを増したような気がした。(文庫本13頁・以下同) 携帯の画面をひらき、さっきスーパーで撮った写真を眺める。ピントはずれていたが、連絡先の番号はかろうじて読めた。(13) (庭仕事をしている年配男性の描写) よく着込まれたつなぎの作業服にゴム長靴。(37) 「じゃあ、四時によろしくな。美人な未亡人だから楽しみに」(52) ……いつもの微笑みとは違う、捉えどころのない表情だった。諦めるような、可笑しむような。(106) いかがでしょうか。 もちろんプロの作家ですから、明らかな誤用というのではないとは思います。しかし例えば「水を得た」というのは、「水を得た魚」という慣用句の前半だけを勝手に切り取った表現ではないでしょうか。たまたま書きたいことがそうなった、とはいえんでしょう、やはり。 同様に、いわゆる一般的な表現としては、ピントは、ずれるんじゃなく外れるのだし、「着込まれた」は一般的にはたくさん重ね着をしたという意味でしょうし(こんな場合は普通は「着古した」ですかね)、「美人な」って、そりゃ、言えないこともないでしょうが、いくらセリフでも「美しい」とか「美人の」までじゃないでしょうか。「可笑しむ」というのも、うーん、いかがでしょう。 と、まあ、なんか「小姑みたい」なごちゃごちゃと細かくうるさい指摘になってしまったとすれば(まー、やはりそうかもしれませんが、)、わたくしの反省すべきイヤな性格でありましょうか。申し訳ない。 という感じで、ほぼ全編、気にしながら読んだのではありますが、しかし、そればかりの感想ではありません。なるほどよく頑張っているなあ、上手に書いてあるなあ、独創的だなあと思ったところもたくさんありました。 これも例えば、独創的ということでいえば、本作の圧倒的な独創性は、嗅覚を描写の中心に置いた物語であるということでしょう。 実は、これはそもそもがかなり困難な挑戦であるように私は思います。 嗅覚、それも超人的にナーバスな嗅覚感覚を文字化することは、ちょっと想像すればわかりますが、これはきわめて難しい、と。 筆者は、まずこれに挑戦しているんですね。それだけでもとても高い独創性だと思います。 わたくし、本書をその辺に注目しつつ読んでいたんですね。 すると、あ、そういうことかと思った事柄があります。それは、筆者が、作品の嗅覚の世界を(主人公小川朔の超人的な嗅覚の世界を)、エレガンス・トーンでまとめようとしていることです。 そもそも舞台が古い洋館であったり、ハーブの話題などが散見されたりしているそれですね。 では、なぜエレガンスを選ぶのか。 それはたぶん、超人的な嗅覚の紡ぎだすものが、わざわざ表ざたにするには差しさわりの多い、人間生理の中の隠された部分(多くはエロティックなものかグロテスクなもの)にまともに触れてしまうせいだと思います。 実際、前半に描かれるいくつかのエピソードはそのようなものであり、それを解いていく推理小説仕立ての物語として読んでいくと、そのエロティックまたはグロテスクな「動機」にやや不自然さがあるようにも思いました。 だから、とまで断定するつもりはありませんが、本作の後半の中心テーマは、推理小説仕立てのものから離れていったように思いました。 では、後半何が中心テーマになったのか。 それは、超能力(異能力)者の苦悩、とでもいうべきものでしょうか。 超能力者として人間社会に生きる生き辛さが掘り下げられていくように感じました。 例えばそれは、自らの圧倒的な力と社会モラルの関係、存在自体が否応なしに社会に与える嫌悪感や邪悪な感覚などが中心でしょうか。 かつて筒井康隆が七瀬シリーズで、超能力者が国家や社会から迫害され抹殺されようとするというテーマを描いていましたが、同種のものが、視点を変えながら本作にもあると思います。 本作の終盤、あれこれとそんなテーマが詰め込まれ、しかしその落としどころは、私は、本作では描かれていないと感じました。 と、思ってページを閉じたら、本作には続編があるというではないですか。 さもありなん、とも思いつつ、また、困難な嗅覚描写に再び挑戦する作者の気概と、他人事ながら、表現者の業のようなものを感じました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.03.22
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『カメオ』松永K三蔵(講談社) この作家の講演会に、ひと月ほど間をあけて、二回続けて行ったいったことがあります。 ひょっとしたら、そんな講演活動も積極的になさっているのかもしれませんね、 マスコミなどによく取り上げられているこの著者のお写真は、何といいますか、ちょっとぶすっとした感じで写っているのが多いような気がするのですが、講演会でのお話しぶりはとても気さくな感じでありました。 ご自身でも講演でおっしゃっていましたが、もっと笑った写真にすべきだったと。というのは、この筆者の、何といいますか、「売り」の言葉のようなものが、「オモロイ純文運動」という活動であるのに、ということですね。 この「オモロイ純文運動」という言い回しに、わたしはちょっと興味を持ったんですね。多分芥川賞を受賞なさってメディアで結構見聞きする頃からおっしゃっていたと思います。 拙ブログでもたまに触れていますが、笑いの純文学に、わたくし少し飢えていたんですね。だから、まず一度目この筆者の講演会に行きました。 ところが、「オモロイ純文」という言い回しはけっこうなされていながら、どんな作品がそうであるのかの具体例をあまり出していただけなかったんですね。 実はそれをしっかり聞きたいと思って、続いて二つ目の講演会にも行きました。でも、やはり具体例を出していただけなかった。 お話しなさっていたのは、菊池寛の短編小説でした。ほぼこれだけだったと思います。そして、この小説のストーリーを紹介しながら説明をなさっていたのですが、それがいわゆる「オモロイ純文」なのか、どうも、私にはしっくりいきませんでした。 ひょっとしたら、わたくしと筆者の「オモロイ」「面白い」の理解が、かなり異なっているのかもしれません。 講演会で筆者もおっしゃっていましたが、「面白い」とは、価値基準を表すものとしては、幅が広すぎるように私も思います。 例えば夏目漱石の『吾輩は猫である』は面白いよ、は当然アリだとしても、ドストエフスキーの『罪と罰』は面白いよ、もやはりアリでしょう。(『罪と罰』が面白いとはこの筆者も講演でおっしゃっていましたが。) しかしこの二つの「面白い」価値基準語は、具体的に見ていくと評価の仕方がかなり違っているように思います。 そして、私が「オモロイ純文運動」について、詳しく具体例を挙げて知りたかったのは、前者の「面白い・オモロイ」(漱石の「猫」側)であります。 (詳しくは延べませんが、本当は「オモロイ」は、「面白い」等よりもはるかに前者側の価値基準語だと思います。) ということで、わたくしにとってこの二回の講演は、内容的には肩透かし感がありました。(全体のお話としてはざっくばらんな感じで語られて、それなりに「面白く」はありましたが。) で、次に私は、これは著作を読まねばなるまいと思ったんですね。 で、図書館で調べますと、芥川賞受賞作はすごい数の予約が付いていました。 もちろん買えばいいのでしょうが、えー、読んでもいないのにこんなことを言うのはよくないですが、山登りっぽいお話、なのかな、と。しかし、山岳小説というのは、ごく個人的な好悪として、苦手っぽいかな、と思ったんですね。で、買うのもなんですし、と……すみません。 とにかく『バリ山行』の恐ろしい数の予約の末尾に私も一人分加えさせていただいた後で、冒頭の小説の方を見ますと、おや、少ない数の予約しかありません。で、こちらを申し込んだら、結構すぐに順番がきました。 この事も二回の講演会のどちらかで筆者が触れていましたが、この『カメオ』という小説は、群像新人文学賞優秀作を受賞なさっていますが、この「優秀作」というのは、群像新人文学賞そのものではないんですね、あえて言えば佳作みたいなものだと。(この回の新人文学賞受賞作は、石沢麻依『貝に続く場所にて』で、この作品は同時に芥川賞も受賞しています。) なるほど。 佳作だからという見方はしていないつもりですが、ちょっとスキマの多い作品だなあという感じがしました。その理由の一つ目は、登場人物の出し入れが、展開的な都合のよさだけで進んでいて、特に人間の「亀夫」の退場は唐突すぎないかと思いました。 それと同様なのかもしれないですが、何とも言い難いのが、やはりエンディングのあり方でしょうか。 個人的な好みで、私が本作にやや後味の悪いものを感じたのは、私の好みのモラル感の欠如というだけではなく、展開にも手前勝手な都合のよさ(主人公が自分でも何種類かの未来予想をしていて、その中の一番良い展開に終わるという都合のよさ)を感じました。 とはいえ、例えば本書の帯には「誠実さと善意、ペーソスに満ちた令和の犬文学」と書かれていますが、誠実・善意・ペーソスというのは(私はエンディングにモラル感の欠如を思いましたが)、わたくしも感じたところです。 その思いが大きかったのは、主人公と犬のカメオの何とも微妙な感情の交流であります。 このいわく言い難い親近感と距離感は、本作特有のかなりオリジナリティの高いものだと思いました。 読みながら私も気づいたのですが、この作品は太宰治の「畜犬談」へのオマージュではないか、と。太宰は、犬嫌いから親愛へと彼らしい極端な振り切り方を描きましたが、本作はその幅を小さくして、そして最後まで微妙な犬との距離感を描いています。 これも、私の好みなのかもしれませんが、「犬文学」としては清々しさを感じました。 ただ、この筆者のいう「オモロイ」とは、こういったものなのかな、これをオモロイとお考えなのかな(なるほどと理解はしますが)という思いは、ちょっと残りました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.03.07
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『沈黙』遠藤周作(新潮文庫) ……いやー、実に久しぶりに本作を再読しました。 初めて読んだのは、多分、高校生くらいの時じゃなかったのかと思います。学校推薦の高校生必読図書か何かで知って。 今回読もうとして、家にあった新潮社の純文学書下ろしのシリーズ、箱入りのあの本で読もうとしたら、思ったより字が小さかったので、……んー、と、ちょっと迷いまして、結局文庫本をアマゾンの古本で買ってしまいました。このほうが携帯に便利だしー。 で、読んだのですが、読む前に思っていたのですが、とにかくめっぽう「重い」お話なんだよな、と。殉教の話ですから、罪もない民百姓が拷問を受けたり殺されたりする話ですから、重いのも当たり前でしょうが、しかし高校生の時の私は何を考えながら読んでいたのかな、と。そもそも内容の理解はできていたのかな、と。 まー、そんなことを言えば、今回の読書でも、わたくしは本書を十分理解できたのかは、やや不安であります。ただ、読む前に重いお話重いお話、と「気合」を入れて取り掛かったわりには、結構面白く読めたように思いました。 それは、話の展開はもちろん重いままでありますが、それを描く文体が、結構軽めのものだと思ったからであります。 いえ、「軽め」と書いてしまえば語弊があります。平易・簡素な文体であります。 前半は書簡形式になっていて、初めて日本に密入国した司祭が本国の教会関係者に向けて送る手紙という形をとっています。だから基本は、未知の状況を見聞き経験したままに報告しています。比喩などの修辞をさけた、この事実提示型の文体が、ドキュメンタリーの文体のような感覚で、興味深くぐいぐい読ませていきます。 中盤以降は三人称文体に代わっていますが、ここでも語り手は事実提示型に近い文体を変えていません。やはり修辞をさけ、描く対象の価値判断をしません。 ただ、展開がいよいよ重い部分に入ってきていますから、描く自然や極貧の人々の生活が、テーマと連動した象徴性の高いものになっています。例えばこんな感じ。 灰色の砂がなだらかに拡がり入江に続き、空は曇っているので海は鈍い褐色を帯びている。浜を噛む単調な音は司祭に、モキチとイチゾウの死を思い起させる。あの日、海には絶え間なく霧雨が降り、その雨の中を海鳥が杭のそばまで飛んでいた。くたびれたように海は黙り、神もまた沈黙を守りつづけていたのだ。 ……というような、手抜き読みのできない密度のある文章になっているのですが、しかし、この引用部にもある、最大のテーマである「神の沈黙」が、神学的な難解さで深まっていくわけではないというところに、筆者の小説製作上の大きな工夫があり、私はいたずらな難解さから救われていると感じました。 それは終盤に入って(ロドリゴとフェレイラの論争あたりから)、宗教論というよりも、異文化交流の困難さの話になっている、筆者はこういう引っ張り方で難解なテーマを平易に語ろうとしている、と思ったことです。 これは、私のような宗教的に無知(まー、それ以外の物事全般にもわたくしは無知なのですがー)な者にとってはとても理解しやすかったです。少しずつ形を変えながら、この異文化交流の困難さの記述は、終盤に向けても点在しています。短い部分をいくつか抜き出してみます。 自分はあの連中への憐憫にひきずられて、どうしようもなかった。しかし憐憫は行為ではなかった。愛でもなかった。憐憫は情欲と同じように一種の本能にすぎなかった。 デウスと大日と混同した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りあげはじめたのだ。言葉の混乱がなくなったあとも、この屈折と変化とはひそかに続けられ、お前がさっき口に出した布教がもっとも華やかなときでさえも日本人たちは基督教の神ではなく、彼等が屈折させたものを信じていたのだ。 日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力をもっていない。(略)日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない。 どうにもならぬ己れの弱さに、衆生がすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。だがそのパードレは、はっきりと申した。切支丹の申す救いは、それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。 いかがでしょう。 私は、日本における他のクリスチャン作家と、遠藤周作との隔絶した違いの源がここにあると思います。特に、この日本人を主対象とした人間存在の弱さというテーマは、本作ではキチジローに集中的に象徴されて描かれています。 本作品の最終部に「切支丹屋敷役人日記」という、それまでと打って変わってとても読みにくい数ページがあります。何が書かれてあるのか、私の読解力ではよくわからなかったのですが、二度読んでみて、どうやらロドリゴとキチジローが、晩年、近い暮らしをしていたことが描かれているように理解(誤読?)しました。 私はなんだか、ほっとしました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.02.21
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『東大で文学を学ぶ』辻原登(朝日新聞出版) 図書館で見つけて、あ、これはマイフェイヴァレット系の本だろうと直感して、借りて読みました。 面白かったです。なかなか納得できる、あるいは考えさせられる部分もたくさんあって、とても面白かったです。 幾つかそんな個所で、短く抜き出せそうなところを挙げてみますと、こんな感じです。 (『ドン・キホーテ』が近代小説の濫觴とされることについて)それはなぜかというと、本を読む人間を主人公にしたからです。本を読む人間、つまり本というのは物語で、その物語を読むことによって世界を変えようとする、そういう人間、それがまさに近代人の始まりと言ってもいいのです。近代人が主人公の小説。まさに近代小説です。 (ジェルジ・ルカーチの書より)「小説は神に見捨てられた世界の叙事詩である」 (横光利一の書より)「純文学とは偶然を廃すること、今一つは、純文学とは通俗小説のように感傷性のないこと」 リアリティというのは、いわゆる「現実」というものに対応しているのではなく、その「現実」をどういうふうに受け取るかという、共有された感受のかたちです。 よく谷崎の関西移住を伝統回帰、日本回帰などと呼びますが、そんな単純なものではありません。これは谷崎たったひとりによって敢行されたルネッサンス、文芸復興の試みだったのです。 ……いかがですか。きりがないからこのあたりで引用はやめますが、いかにも面白そうですね。 実はわたくし、最近ちょっと思うことがあったんですね。 何かというと、そもそも好きなものですから、文学者や文学研究者などの講演会に、結構探して行っていたんですね。 ところが、最近どうもそんな先生方のお話が、さほど面白くないと感じ出したんですね。なんでかなー、と思っていたところ、先日行った小説家の講演会で、入る時にアンケート用紙をもらいました。 幾つか質問項目があったのですが、その中に、あなたはひと月に何冊くらい本を読みますかといった質問がありました。それをぼんやり見ていましたら、後ろの席から女性のおしゃべりの声が聞こえてきました。 「月に何冊本を読むかって、そんなこと聞かれても、わたしら一年に何冊かしか読まないからなー……」 と、そんな会話を聞いているうちにわかったんですね。 そのような聴衆を想定して、講演者は語らねばならないのだと。 ちょっとここからは書きにくいのですが、敢て書いてしまいますと、よーするに、私はそんな文学講演会の内容に物足りなかったというわけであります。 いくら、小説家がここだけの話だと若干の私生活を語ってくれても、それだけではやはりわたくしには「ガツン」と来るものがなかったわけですね。(かなり尊大と思われかねないことを書いていて、何とも恥ずかしいのですが。) と、そんな思いを持っていた時の本書ですから、それはとても面白いものでした。 しかし、しかし、にもかかわらず、私は読んでいて、やはり微妙な違和感を感じ始めました。この違和感は何なんだろうかと、私はまた戸惑い始めました。 本書は、西洋文学から中国古典文学、もちろん日本の古典文学・近代文学なども広範囲に触れつつ、テーマである文学とは何かについて東大で授業をなさった記録(ただし、そのままの講義録ではなさそうです)です。その博覧強記ぶりにはもちろん圧倒されますが、しかし、結局のところ、文学とは何かについては、はっきりと述べられているわけではないと、私は感じました。述べられているのは、文学にはこんな側面がある、このように理解できる、といったあたりでしょうか。 しかし、それは、ある意味で、当たり前のことでもあると思います。 常々私は、文学の実体や真理・真実などは、自然科学におけるそれらと大きく異なっているのはもちろん、社会科学的なそれらとも、かなり異なっているのではないかと思っていました。 それは素人考えではありますが、例えば100人の文学者が、それぞれ自分にとって文学とはこういうものだと口々に言い合う中で、ぼんやり総体としての輪郭が見えてくるといったタイプの真実ではないか、と。 つまり私は、本書で説かれている筆者の文学論について、感心はするが、でもそれはあなたの文学論ですよね、の小さな一言が言いたく思ったわけであります。 しかし同時に、そのような論を数を重ねていくことが、文学とは何かの真の姿の輪郭を浮かび上がらせていくことになるのだ、とも思ったわけであります。 こんな捉え方は本書にとって、素人が何を言っているのだ、なんでしょうかね。そんな気もしますが。 いえ、確かに文学について、私が本書で大いに「学んだ」ことは、きっと間違いないとは思うのですが。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.02.07
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『マチネの終わりに』平野啓一郎(文春文庫) わたくし、この作家の作品はさほどたくさん読んでいるわけではありませんが、『ある男』という作品を読んだ時に感じ、今回もまた感じました。ははん、これがこの作家の作風なんだな、と。 何のことを言っているかというと、作品にどんどん詰め込んでいく現代的課題、とでもいえましょうか、『ある男』にもいろんな話題(ほとんどが現代日本の深刻な課題)がこれでもかとストーリーに絡めて入っていましたが、本作でも同じように感じました。 しかし私は、それがよくないと思ったわけではありません。ただ、例えば谷崎潤一郎の『細雪』等をふっと思い出したりして、「この極北だな」と感じたりしただけです。 とにかく、いろんな現代的課題(今回は国内課題ではなく世界的課題)を詰め込んでいますから当然話は長くなり、文庫本で460ページほどもあります。だから、何といいますか、誉めどころも多いけれど、ツッコミどころも多いという「満腹」作品になっています。(いや、ツッコミどころも多いけれど誉めどころも多い、と書き直すべきでしょうか。) 実はわたくし、本書を読むのは2回目なんですね。 やはり、小説を再読するのはいいですね。再読すると、作品のアラよりも、思いのほかにしっかり書き込んでいると感心するところのほうが多いように感じました、少なくとも今回は。 ということで、読書報告事項が多すぎて少し困っているのですが、枝葉は捨ててざっくり幹を述べてみます。まず、2回読んでみてもちょっとここはなあ、と感じた個所ですが、やはり「大山」(一番大きな山場の部分ですね)の、三谷早苗の詐術の部分です。 ただ、都合よすぎる展開だと思ったのはむしろ、そのあとに蒔野が送ったメールでしょうか。ここはあまりに都合のよすぎる文面ではないかと感じました。(そのあとの洋子が携帯電話のスイッチをずっと入れないでおくというのは、もっと「?」ではありますが。) しかし読み終えてしばらくぼーっと考えた今は、まー、これでもいいかと思ったりしているんですね。 というのは、変な理由なんですが、この山場の描写を境にして、私は本作がぐっと読みやすくなったように感じていたんですね。そういった、後半部が読みやすくなるというのは、長い小説にはよくあることなのかもしれませんが、この度私が思ったのは、前半部作者は、いかにも慎重に慎重にこの山場に向けて伏線を張り巡らせている、そしてそれが、かなり息苦しい展開にまでなっているのに、それでも丁寧に丁寧に描いている、と言うことでした。(伏線とは、本来最も述べたい内容を直接描かないという、考えればそもそも息苦しい技法でありますね。) つまり私の変節理由は、そのようにして作った山場は、やはりそのままに読んであげるべきじゃないか、これはそんな山場の展開に、それなりのリアリティのある世界のお話なのだという、……うーん、上手く説明できたか心もとないのですが、ともあれ、筆者はここに大きな山場を持ってきたが、それはいわば段取りであって、筆者が一番書きたかったのはここじゃないと考えるということであります。 ついでにもう一つ。私がこの小説の中で一番ドキドキして読んだのは、この山場ではなく、終りから二つ目の章で描かれている早苗と洋子の会話場面の「――あなただったのね?」のところでした。 ここは上手ですねー。「ファクト」の出し入れ具合が、筆者の小説家としての職人的手さばきを存分に感じさせる見事な場面描写だと思いました。 さて、話を戻しますが、筆者が本作品を通じていちばん書きたかったことですが、もちろん一番二番の順位付けがあるのかないのかはわかりませんが、私の感じたものとしては、実は作中にけっこうあちらこちら偏在して描かれているので今更という思いはありますが、やはり一言でいうならば「恋から愛への軟着陸は可能か」ではないでしょうか。 少し長くなりますが、それが割とまとまって描かれている部分を抜き出してみます。 若い人間の心には、肉体との境界のあたりに、頗る可燃性の高い部分がある。ある時、何かの拍子にその一端に火がつくと、それが燎原の如く広がって、手が着けられなくなってしまう。その火に、相手の心のやはり燃えやすい部分が焼かれてしまうと、二人はただ、苦しさから逃れるためだけでも互いを求め合わなければならない。 恋がもし、そうしたものであるならば、土台、長続きするはずはなかった。その火は、どこかでもっと、穏やかに続く熱へと転じなければならない。 愛とはだから、若い人間にとっては、一種の弛緩した恋でしかない。その先に見据えられた結婚には、どれほどの祝福が満ちていようと、一握りの諦念が混ざり込まずにはいられないものである。 この文の中には「弛緩した恋」「一握りの諦念」という表現があります。また、この引用部の先にも、主人公の蒔野が、洋子と結婚できない未来があるかも知れないと考え、かつて彼女に恋した感情を処理した未来の自分を想像し、「そして、そのような未来の光景を、彼は憎しみに近い感情で拒絶した。」とあります。 私は、最後まで読んだ後、やはり恋から愛への軟着陸は、本作の大きなテーマだと思いました。 ただ、本作にその一つの答えが描かれているわけでも、どうもないようだと感じました。主人公の男女は、途中で何とも不条理な障害によって関係を引き裂かれていただけで、恋から愛にはまだ向かっていないのかもしれないからです。 (この「何とも不条理な障害によって関係を引き裂かれ」という部分について、私は読んでいていきなりある短編小説を思い出しました。なるほど、この不条理な展開というのはいかにも小説的なテーマなんだなと思いました。その短編小説は、村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」の二人目の中国人の話であります。) 常識的に空想して、作品の最後の場面の後に続くのは、この先、より関係を深めていく二人でしょう。(早苗は? 冷たいようだけれど離婚しかないでしょう。自分を愛していない男性と一緒に暮らし続けるのは、彼女だって辛いことでしょうし。) つまり、二人はやはり、まだ恋にとどまっているのかもしれません。 ただ、筆者が提示した「恋から愛への軟着陸」、それも「弛緩」「諦念」を伴わない繋がり、というのは、実はわたくし以前よりそれなりの興味を持っています。 これは、以前の『マチネの終わりに』の読書報告でも触れましたが、古今東西に無数にある恋愛小説には、ほとんどそれは描かれていないと(その読書量も少ない私が傲岸に述べるのもなんですが)思うからであります。(私が読んだほぼ唯一の例外は、谷崎潤一郎『春琴抄』です。) つまるところ、本作にもそれは描かれませんでした。 どなたか、いや、『〇〇〇』には描かれているぞ、とお教えいただけませんでしょうか。よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.01.24
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『桐島、部活やめるってよ』朝井リョウ(集英社) 『少女は卒業しない』朝井リョウ(集英社) 今回は2冊まとめて読書報告してみますね。 2冊まとめてというのは、久しくしませんでしたが、読み終えた今でも、内容が微妙に私の頭の中でこんがらがっているからであります。 そこで、とりあえず私のこの2冊との出会いを時系列でまとめてみますね。 私はまず、『少女は卒業しない』の映画を見ました。(監督・中川駿) ちょうど少しまとめていわゆる「青春映画」というものを見ていた時期で、(旧い映画も見ましたよ。『若者たち』とか。)その一環としてアマゾンで見たんですね。 するとこれがけっこう面白くて、かなり感心しました。 そしてこの面白さはいったいどこから来るのだろうと思いまして、見ると原作は朝井リョウとあります。(私のごく偏っている映画の評価として、やはり原作や脚本がまずしっかりしてないと面白くないんじゃないか、というのがあるんですね。いえ、全く賛同しない方々がいらっしゃることは、それなりに知っていますが。) 小説家朝井リョウの名前は、一応知っていました。しかしまだ一冊も読んだことはなく、私の知っていたことは、上記の『桐島、部活やめるってよ』という作品が一時話題になっていたという程度でした。 ベストセラー小説を読むか読まないかというのは、一種の見識であるという意見から、歪んだ選民意識(ナルシズム)であるという意見まで様々ありますが、私はどちらかというとあまり読まない派で、そのために面白い作家を見落とすということは結構あったと思っています。(多分、今回の報告もそんな一例かなと思います。) で、図書館に行ったんですね。 すると、『少女は…』は、借りられているじゃありませんか。仕方がないので、予約をして(予約順は少ない番号でした)、そして、いい機会だからと、この『桐島、…』を借りたんですね。 そして、読みました。 とっても、面白かったじゃありませんか。一気読みでした。 ちょっとびっくりしまして、あれこれ考えているうちに、『少女は…』の本が届いたとお知らせが来て、私は勇んで図書館に行き、わくわくしながら(あー、今からこの本が読めるというわくわく感は、いったいどのくらい久しぶりでしょうか。)読みました。 ところが……。 ……えっ? なんか、違う。 あまり面白くないんですね。いえ、本を放り出すほどの面白くなさ、というわけではありません。一応、先に映画で見ていることもあって、私の側の小説に対する好意的先入観は十分にあったと思うのですが、あ、いえ、ひょっとしたらそれがよくなかったのかも知れません。期待しすぎ、というやつですね。 とにかく、私はそれなりに本書を読みました。「それなりに」という感覚をまさに持って。で、私は、混乱したわけです。そんなことって、あるだろうかと。 『少女は』映画→〇、『桐島』小説→〇、しかし、『少女は』小説→……うーん。 ……こういうことも、あるのかなぁ……と。 で、私が次にしたことは、想像がつくと思いますが、『桐島』の映画を見ることでした。(監督・吉田大八) で、見ました。2回見ました。(2回見たのは、映画は複数回見たほうがよくなるという「持論」に従ったからです。) で、その感想ですが、これもあれこれ迷いましたが、もー、ざっくりまとめると、『桐島』については、小説と映画は別物である、という我が(偏見的)理解でありました。 そもそもメディアが違うのですから、小説と映画の内容が若干異なっていても、それはそういうものだろうということくらいは私も知っているつもりであります。 でも、今回の2作品は、これは究極的に別物だろうと、私は思わざるを得ませんでした。いえ、だからどちらかが劣っているということではないつもりです。 それが合うのかわからないながら、日本古典文学的マニアックな例えでいいますと、この二者の関係は、紫式部『源氏物語』と江戸期の柳亭種彦『偽紫田舎源氏』の関係(って、よくわかりませんよねー)みたい、かな、と。 少なくとも、紫式部の古典原文と例えば瀬戸内寂聴現代語訳『源氏物語』との関係と同種のものではない、と。 というわけで、今回の読書報告は、「読書報告」というにも羊頭狗肉感のあるものではありました。 しかし、ごくごくシンプルに私の読後感想を述べますと、とにかく小説『桐島』は、活きの良さ、新鮮感全開という感じでした。 斬新なタイトルと、「桐島」存在についての意表を突く展開、青春小説の諸要素(友情・恋愛・家族・未来・不安等)をすべて含みつつ、私が何より素晴らしいと思ったのは二つです。 一つ目は、微妙に未熟さも含みつつ、丁寧としっかり書き込んでいる感性的な文体。 二つ目は、19歳の筆者の意気込みをひしひしと感じることのできるデビュー作に独特の気迫。 私はこの二点にとても魅力的なものを感じました。 そして逆に言えば、この二点の不足こそが、そのまま『少女は』について私が感じたやや不満足な思いの原因でもあったように思います。(デビュー作独特のものうんぬんはもちろん無理筋ではありますが。) ともあれ私は、リアルタイムでのこの筆者の活躍ぶりについては全く知りませんが、大いに興味深いものと感じる次第であります。よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.01.10
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『春の雪』三島由紀夫(新潮文庫) 本作はわたくし、多分3回目の読書かなと思います。 加えて、『奔馬』は多分2回、『暁の寺』は多分1回、そして『天人五衰』は3回読んだように記憶しています。(「暁」が1回なのは、中に出てくる「アーラヤ識」とかの話がさっぱり分からずそれがトラウマになったせい、「天人」が他より1回多いのは、一番短いからでしょうね。) しかし、その2回も遥か昔の読書で、本当に久しぶりに本書を読みました。 ところが、というかなんというか、少し前に私は映画で『春の雪』を見たんですね。 で、実は少しショックを受けたわけです。 綺麗な場面のいっぱい出てくる映画でしたが、何にショックを受けたかというと、主人公の松枝清明に全く好意的な感情移入ができないことに、まー、ショックを受けたわけであります。 ちょっと品のない書き方になって申し訳ないのですが、このお話の主人公はそんな「最低の」男だったんだろうか、と。 実ははるか昔の読書の記憶として、細かなところはほとんど忘れているとしても、さほど悪くない読後感を持っていたように思ってたのですが、映画で見る限り、ちょっとどうしようもなかったですね。 で、そんなはずではなかったのにという思いもあって、この度3回目を読みました。 幾つかのことが納得できたですね。 まず映画がちょっと気の毒だったのは、あの三島由紀夫の鬼神の心をも動かすような絢爛豪華な文章の「鎧」を、映画は纏うことができないということであります。 いくら綺麗な場面がいくつも出て来ても、それだけでは、私としては文章だけで読者をうっとりとさせるようにはいかないと思いました。(個人的感想では、本小説中最も圧倒された場面は、清顕と聡子が初めて体を交わす場面ですが、その描写は実に見事なものでありました。) だから、映画中の主人公松枝清顕は、いわば行為だけが「裸」で進められていて、そうなるとその行為は、非生産性・無能力性に重なる強烈なナルシズムとデカダンス、おぞましく歪んだ選民意識等によるものとしか描かれようがなかったと思います。 実際、原作小説でも清顕はほぼ映画と同じ行為をしています。しかし小説では、その行為の前後が、いかにも三島由紀夫特有の(天才的な!)絢爛描写と、再三顔を出してくる作者の美学理論(!)で飾られているため、ある意味読者はそこに騙されて、うかうかとその圧倒的な歪さに気が付かないでいる、そのように展開されていると思いました。 ただ、仮に、仮にですが、この作品から、そんな筆者の描写テクニックを抜き去ってしまえば(この「仮に」について、そんな無茶な仮定はルール違反だといわれる可能性は重々わかりますが)、この作品はどこに魅力があるのだろう、と。 と、読後、かなりそんな「無理筋」の事を考えました。 例えば、至高の恋とは禁断の恋である、みたいな考えは他からも聞いたり、古今東西の優れた恋愛小説に再三描かれています。 本作を読んで私が特に思ったのは、筆者は多分『源氏物語』の光源氏と藤壺宮の恋愛が念頭にあっただろうということですが、この二つの禁断の恋を並べてみますと、松枝清顕の「無能力」は明らかです。彼はその状況を自らの手では全く何も作り出していません。(そんな意味では、この禁断の恋を作り出したのは、綾倉聡子の「能力」であります。)清顕は、その果実だけを口にしようとしたのであります。 それは、江戸期の幾つかの心中物語と比べても同様です。(筆者はきっとそんな江戸期の心中物語との比較は嫌がるでしょうが。)少なくとも彼らは、死に裏打ちされた恋愛状況を、自らの行為と人間関係の中で作り出しました。 ただ、私がよくわからないでいるのは、そんなことを、あの頭のよい三島由紀夫が気が付かなかったか、ということであります。 当然気が付いていながらこのような展開を描いたのなら、それは、松枝清顕の恋愛はピエロだということではないでしょうか。本当に作者は、清顕の存在はカリカチュアであるとまで考えて本作のストーリーを作ったのでしょうか。 実は、これも昔に読んだきりで定かな記憶がないのですが、『天人五衰』のラストシーンのことです。死を覚悟した筆者が最後に描いたあの場面をちょっと考えると、「松枝清顕=ピエロ」説は、少し興味深いかもしれません。(『春の雪』執筆時に、5年後の『天人五衰』のラストシーンのアイデアがすでにできていたのか、多分できていたのではないでしょうか、何と言っても三島由紀夫ですから。) ともあれ、そんな感じで私は読み進めていったのですが、小説としては終盤から、またガラっとトーンが変わったようになって、俄然面白くなっていきました。 聡子の妊娠が、身内に知れ渡って人々があたふたとし始めた以降ですね。 この部分は面白かったですねー。その理由は二つです。 一つは、清顕が腑抜けのようになって、独特の美意識も行動も起こせなくなって(最終盤はまた出てきますがかつての勢いはなく)、話の前面から姿を消したから。 二つ目は、そもそも本作の冒頭から筆者の筆は、主人公の二人以外の人物を描く時徹底して戯画化と侮蔑を伴ったものでありましたが、その対象となっていた人物たちのどたばたこそが、まさにここで描かれている中心であるからです。 上記に松枝清顕の性格造形について辛口の指摘をしましたが、そもそもその原型は清顕を取り巻く人物の人格であり、まだそれに加えて、小気味よいまでの無責任さと倫理観のなさが、ここに至って切れ味よく描かれています。 蓼科という老女の個性も際立っていますが、圧倒的に興味深かったのは聡子の父親の綾倉伯爵でありましょう。彼の無能力・無責任・無倫理の描かれ方は、全く心地よいばかりでありました。(しかし、小説の面白さとは、時にとんでもないところに現れるものですねぇ。) さて、そんなどたばたの中、主人公清顕は命を落とし、本編の幕はおります。 大長編小説の第一部の終わりにすぎないからでしょうか、その終わり方はどこかそっけなく、ひょっとしたらそんなことが、私のかつての読書の記憶としてさほど悪い読後感を持たなかった理由なのかもしれません。 ところで、私はこの後続いて『奔馬』を読んだものなんでしょうか。 ……ちょっと、考えてみますね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.12.28
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『てんやわんや』獅子文六(新潮文庫) 映画をわりと見るようになって3年ほどになります。なに、それは毎日が日曜日になっただけのことであります。 映画館で見る映画だけを映画というのだ、と言ってた知人もいましたが、なるほどと思いつつも、私は家でけっこうテレビで見ます。 何と言っても、家での映画は圧倒的に気楽であります。 で、家でお気楽にいくつも映画を見ていますと、同じ映画を複数回(大概は2回ですかねぇ、3回以上はあまりありません)見ることがぼちぼちあって、で、ここからがポイントなんですが、複数回見ると後のほうがよく感じる、と。 ……ま、当たり前といえば当たり前の感想ですわね。 2回目を見ようと思う段階で、すでに作品に少なくない好意を抱いているうえに、1回目はどうしてもストーリー中心に見ていて見落としていたものに、この度は新たに気付いたりすることができるわけで、当然2回目のほうがよく思える、と。 さて、この前振りの話をどこに持っていこうとしているか、ほぼ、言うまでもありませんが、冒頭の小説の読書報告であります。2回目の読書報告なんですね。前回の報告のタイトルが、「……うーん、面白くない」というのになっています。(困ったことだ。って、別に困りませんか。) やはり、今回のほうが面白かったんですね。少なくとも「面白くない」と言い切る気持ちはありません。 思うに、私が前回引っかかってしまったのは、ざっくり二つの点ではなかったか、と。 一つは、主人公の性格設定に引っかかってしまったこと。 二つ目は、四国独立運動という展開の何とも言えない尻すぼみさ。 この二つが我が感想の中心原因じゃなかったかと思います。そして軽率に「面白くない」と書いてしまった……。 では、今回の読書感想として、この二つが好意的に感じられたのかといいますと、それはやはりあまりないです。特に四国独立運動は、その後同様のテーマで井上ひさしが名作『吉里吉里人』を書きましたが、あそこまでいかずとも、今一歩も二歩も、独立運動のリアリティを描いてほしかったという思いはあります。 ただ今回私が、多分前回はそこまで読めていなかったのだろうと気が付いたのは、この上記の二つの設定と展開が、まさに戦後すぐの日本人の姿と重ねることができ、そしてささやかな彼らの希望そのものであったのじゃないかということでした。 例えば、四国独立運動についてこのような文章があります。 石油、鉄、石炭、そしてウラニウムを産しないことは、絶対平和主義の四国島にとって、なんという幸福であろうか。 四国島には、国民も、人民もいない。市民あるのみである。従って、君主も、大統領も要らない。代表者として、市長が一人いれば、結構である、そして、国家でなければ、国際紛争に捲き込まれる心配もなく、また自給自足の原始経済で、資本主義以前の社会に戻るのだから、階級闘争による内乱も、起る道理がない。 そういうところが、ひどく私の気に入るのである。臆病者の天国といっていいではないか。 また、主人公の性格設定にしても、このような表現が随所にあります。 我ながら、魅力のない人間だと思うのだが、その割に人から嫌われないのは、私が高慢を知らぬからであろう。私は運命にも、人間にも、よく服従する。それが、私の性格であり、また処世の道でもあった。 私は、鶴ヶ浦の別荘で聞いた、夜半の爆音を、忘れることができない。あの人間侮蔑の、いやな音は、いまだに、耳の底深く残っている。あの音の意味する一切のもの――戦争、内乱、暗殺、喧嘩、強盗を、私は、断固否定する。私は、怖いのである。生まれつき臆病であり、現在も臆病なのである。 そして、「臆病者の天国」であった四国独立運動があっけなく崩壊した後、生活のすべを失った主人公は、最終盤このようにつぶやきます。 私の頼みとする相手は、もはや、一人も日本にいない。ただ、生来の臆病と非力の犬丸順吉個人だけである。一茎のワラのような私だが、今は潔く、敗戦国の暗い激流の中に、身を投ずる覚悟である。 本作品は、昭和23年11月から翌年4月まで毎日新聞に連載されたそうですが、このエンディングについて、なるほど、決してハッピーエンドには描かれていませんが、読者にとっては、かなりリアリティのある、そして、一点の灯のかすかに見えるようなものであったのかも知れませんね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.12.14
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『蛍・納屋を焼く・その他の短編』村上春樹(新潮社) 本書は、1984年の発行となっています。収録されている短編小説は前年の1月から当年4月の間に文芸雑誌に掲載された5つの作品です。(さらに参考までに、筆者の年齢は35歳であります。) 少し調べてみると、筆者のキャリアの中での本短編集の位置はこんな感じです。 ・1979年『風の歌を聴け』デビューから五年目。 ・長編作品では、1982年『羊をめぐる冒険』と1985年『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のあいだで、参考までにその次の長編『ノルウェイの森』は1987年。 ・短編集では1983年『中国行きのスロウ・ボート』『カンガルー日和』に続く三冊目。 この事実から何が見えてくるかというと、まー、これも結果論的な分析になりますが、デビューして5年、次のキャリア・ステップを求めて、全体として若書き感がありながらも、それは未熟ということではなくて、意欲的に様々な試みや企みを作品に取り込んでいこうとする、まさにその言葉そのものの「若々しさ」が感じられる作品、ということでありましょうか。 例えば単純に、タイトルにしてもどうでしょう。 おやっと思うのは、「その他の短編」の部分ですね。 この「業務連絡」のようなそっけない表記は、普通は付けないでしょう。書名にこんなフレーズは基本的には付けないし、確かに似た表記としては、「他〇篇」と言うのがありますが、あれは文庫本等に多く(つまり文庫本用にまとめた形で)、タイトルそのものではないと思います。(「他〇篇」というのは、例えば、本棚からランダムに取り出したのですが、『小僧の神様・他十編』『ウィヨンの妻・桜桃・他八篇』という表記、見ると、岩波文庫が多いですね。) では「その他の短編」の表記とは、何なのでしょうか。 私は、全く個人的な感じ方ではありますが、ここに筆者の一種の若々しい「気負い」めいたものを感じました。いえ、ひょっとしたら気負いというより、「自信」なのかもしれません。「読者への挑戦」とまでは言いすぎでしょうが、そんな元気の良さを感じました。 私がそれを最も作品中に感じたのは、「めくらやなぎと眠る女」という収録作でした。 本短編集の五作品の中で、現代日本のリアリズム(日本でなくてもよさそうではありますが)を舞台にして書かれているのは、これとあと「蛍」「納屋を焼く」の三作だと思います。 その中で、「めくらやなぎ」は一番描かれているエピソードが多い作りになっています。 あとの二つの短編は、前半エピソードと後半エピソード(なんかお能の「ワキ」と「シテ」みたいにも感じます)で作られているように思います。 しかし「めくらやなぎ」には、私は、四つくらいのエピソードが混ぜ合わされながら入っているように思いました。 それが表すものは何か。 私は、筆者が、今後も小説のストーリー性を重視し追求していこうとしている「宣言」である、と思いました。(従来の小説の、「伏線」などという言葉では全く収まりきらない複雑なストーリー展開。) そもそも村上春樹は、デビュー時から、登場人物の内面や感覚を説明する描写にかなり独特な魅力がある(特に特徴的なものして個性的な比喩表現がある)作家でした。つまり、どちらかといえば、「文体」にこそ、魅力のある作家ではなかったかと思います。 しかし、本書の作品にしてもそうですが、丁寧にそんな部分だけを読んでいくと、それがどこかルーティーンめいた「限界」のようなものになっていそうにも感じます。(特徴的な文体でデビューした作家が、次に一番にせねばならないのは、自らの文体との格闘であるとは、古くより多くの作家の軌跡が示しています。) 例えばこんな部分です。 僕は何百回となくこの彼女の手紙を読みかえした。そして読みかえすたびにたまらなく悲しい気持になった。それはちょうど、彼女にじっと目をのぞきこまれている時に感じるのと同じようなやり場のない悲しみだった。僕はそんな気持をどこに持って行くことも、どこに仕舞いこむこともできなかった。それは風のように輪郭も無く、重さもなかった。僕はそれを身にまとうことすらできなかった。風景が僕の前をゆっくりと通り過ぎていった。彼らの語る言葉は僕の耳には届かなかった。 今、こうして抜き出してみても、とても魅力的な文章だと思う一方、そもそもが形のないものを描こうとしているせいももちろんありましょうが、分かる気もしながらやはりそこには具体的な像が何も結ばれないようにも思います。(いえ、それこそがこの文章の魅力なんじゃないかとも思いつつ。) 私はそこに、筆者はさらに複雑なストーリーを付け加えようとしていると読んだわけであります。 ただ「めくらやなぎ」では、まだそれはぎこちなく、やや継ぎはぎめいて感じられますが、このあとの作品で、筆者が描く複線のエピソードは、さらに混然一体となって描かれ、もはや見分けがつかない、ただ、読んでいてとても深い思いの残るものになっているように思います。 それが、こののちの長編小説作家としての筆者の、もはや誰もが認める実りあるキャリアを生み出した一因、とは、かなり強引な読み方でしょうか。 ともあれ、私はこの短編集を読み終え、筆者の若い力にあふれた瑞々しさに、とても強い魅力を感じました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.11.29
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『錦繍』宮本輝(新潮文庫) 「生きてることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれへん。」 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」 ……いかがですか。 って、言われても何が、とお思いでありましょうが、この冒頭のフレーズ、別々の小説から抜き出してきたんですね。 似てますよね。というか、ぱっと見、同じこと言ってませんか? ちょっと別の角度から考えてみますね。 この二つが似ているのは、そもそもがいかにもちょっと考えてみたら出てきそうなフレーズだから、それが似ていても特に問題はないんじゃないのか、とも考えられそうです。そうかもしれませんね。 では、個々のフレーズの出典を、もう少し丁寧に説明をしてみます。 上のフレーズは、今回の報告図書『錦繍』から取ってきました。下記に示しますが、本小説のテーマとかかわってくるような大切なフレーズです。新潮文庫によると、本小説は昭和57年(1972年)刊行とあります。 下のフレーズは、村上春樹の短編小説「蛍」(昭和58年・1973年雑誌初出)からの引用です。 初出年度は『錦繍』の方がわずかに先行しますが、驚くほどのほぼ同じ時期ですね。あるいは私が知らなかった当時話題になったりしたのでしょうか。 上のフレーズが小説『錦繍』にとって大切なフレーズだと書いたように、この「蛍」中のフレーズは、作中では、行を独立させてゴシック体の太字で書かれています。 さらに、この「蛍」という短編小説は、あの村上春樹の大ベストセラー小説『ノルウェイの森』の冒頭付近に、作品全体の展開もほぼそのまま取り入れられています。(このフレーズも、全く同じ表現で入っています。) そんな一文です。 と、まず、私が少し驚いたことから書き出したのですが、この類似にはっとする前、この度は『錦繍』を読んでの報告ですから、『錦繍』内にこのフレーズが出てくる(文庫本で70ページあたりです)前から、私は何となく、村上春樹の小説と感じが似ているとちらちらと思っていました。 いえ、村上春樹の小説と宮本輝の小説とは、それは違うだろうという思いはなんとなくありました(私は村上小説はほぼ読んでますが、宮本小説はあまり読んでいませんが)。 総合的にはそのとおりでしょう。今回私が、おや、似ていないか、と感じたのは、この『錦繍』も(『ノルウェイの森』同様)、主人公の男性と、そしてその男性にとって「100%運命の女性」とでも言えそうな異性との恋愛話ではないか、と読みながら感じたことでありました。 ただその考えは、本作半ばあたりから違っていることに気が付いてきました。 例えば『ノルウェイの森』が、そんな「100%運命の女性」との恋物語で最後まで書き切ったと考えるなら、本書は、途中からかなりテーマが異なっているように思います。 それは、冒頭に引用した作品にとっての重要なフレーズの用いられ方が、本作品の場合、物語が進んでいくにしたがって、微妙に連続的に変わっていった事からもわかります。 そもそも、冒頭のフレーズの作品中での解釈について、『ノルウェイの森』では、主人公の思いとして明確に示されています。主人公の自殺した友人の影響から抜けきれない心情を表した表現だと思います。 一方『錦繍』での用いられ方は、元々はモーツァルトの音楽の感想としてヒロインが迷い迷い発した言葉が、聞き手や読み手によって様々な色を付けられ、さらにはヒロインの元夫の「臨死体験」の解釈にあてはめられていく、それもかなり強引なあてはめられ方で、悪く書けば、その時々の場面に都合よく解釈されていったように思いました。 実は私は、読みながらそのあたりがかなり気になっていました。ちょっと嫌だったんですね。ただ一方で、そんなこだわりを持って読むことは、本書の心地よい読書に繋がらないんじゃないかという気もしていました。 上記にも触れましたが、私は本書の展開は真ん中あたりで二つに分かれてしまったように思いましたが(「100%運命の女」の影が消えていく)、後半は後半で、ユーモアもあってとても読みやすい展開でした。 そういえば、村上春樹の小説も極めて高いリーダビリティを持つと、誰か評論家が書いていたように思います。 本書の解説文を小説家黒井千次氏が書いていますが、そこには、「宮本輝は自他ともに認めるまぎれもなき物語作家である」とあります。 物語性の復興は、私も切に現代小説に期待するものであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.11.16
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『ブラックボックス』砂川文次(講談社) 読み終えて、私は少し困りました。 このお話のよくできているところがわからなかったんですね。 いえ、よくできているの基準は、いわゆる一般的なものではなく、本作が芥川賞受賞作であるのに、というものではあります。 つまり、もちろんそれなりにしっかりと書けているとは思いながらも、かといって、まー、現代日本でもっとも有名な純文学賞(ただし新人賞ではありますが)である芥川賞を受賞するほどのできのよさなのかということを、なにか闇夜に鼻をつままれたような唖然とするわけのわからなさで感じてしまったわけであります。 例えば、文章ですが、とても上手だなーと感じるところと、こういう書き方って、なんかどんくさい、古臭い感じがすると思ってしまうような部分が、不安定に散見されるように思いました。例えばこんな二個所はいかがでしょう。 背中から――少しだけ右の肩甲骨寄りに――地面に落ちた。落ちてもなお速度は死んでおらず、サクマはそのまま自転車と一緒に、見えない糸で引っ張られるみたいにして路上を滑った。 もっとちゃんとしなきゃなんねえ、行動で人となりを表すことのできる人間のなんと少ないことか、とサクマなんかは自戒の念も相まって改めて近藤に思いを致す。 常々襟を正しているつもりだったが、いかんせんサクマはこの手のことが長続きのしない質だった。そこを含めての自戒であっても、明日の朝までこの決意を抱えている自信はない。これも感情の決壊と同じで、自分との約束を反故にすればするほど、その行為自体に慣れてしまうのだ。 ……どうでしょうか。私は、上の文章なんかは、動きの感覚がよくわかる、上手に書かれたところだなーと思うのですが、下の引用個所などは、用いられている用語も含めて、何かどんくさい、古臭い感じがしました。 で、そう思いながら読んでいくと、要するにこの筆者は、外界の具体を描くときはとてもシャープな描き方をしている一方、内面・抽象を説明する時は、どこかたどたどしいように書かれていることに気づきました。 さて、実はこのあたりから、私はひょっとしたら、と思い始めるんですね。 えっ、描き分けている? そして私は、ざくっとですが、もう一度最初から、二度目を読み始めました。 すると、……おいおいこれはかなりしっかり書き込んでいるぞ、ということにけっこうたくさん気がつきました。 初読では読み落としていた細部が、見事に後半部の主人公の強烈な暴力性につながっているということ、そしてそんな性癖の自分と、加えて抽象的思考が極めて苦手な主人公の内面の描き方そのものが、このどんくさい・古臭いと私が感じていた筆者の手法ではないのか、と。 私は、ざっと二度目を終えて、かなり、なるほどな―と思いました。 前後半部が分裂しているんじゃないかと最初感じた思いも、いや、前半部にもかなり(半ば隠すようにしながら)書き込まれていると気づいたし、何より主人公の「苦悩」が一貫していることがわかりました。 では、その主人公の「苦悩」とは何なのか。 二回読み終えた後に、ふっと浮かんだのは「不易流行」という言葉でした。 下記は二度目に読んだ時に、つい私も噴き出した個所。「でも今時こんな古臭い問題に頭抱えてんのってダサいのかなぁとかも思っちゃうしなぁ」「なんだよ、古臭いって」「いやほら、エスディージーズとかマイノリティとかサステナブルとかゆーじゃないですか、だから今時正規がどうのとか賃金がどうのとかっていうのって違うのかなって。ぼくらももっと環境とかにコミットした方がいいんじゃないかなって、どうです?」 サクマは噴き出した。 ここは本文の自己パロディになっている個所でしょうが、結局のところ本小説も、ある意味古くからのテーマである自分探しを描いていると思いました。(「不易」ですね。) 本編中に何度も、「遠くへ行きたい」「変わらない」という、主人公のつぶやきのように描かれたフレーズがありますが、これなどはその例証でしょうか。 ではさらに、もっと具体的な主人公の「苦悩」とは、と、魚を捌くように捌いていくと、作品の味わいとしてはやや身も蓋もなくなる気はしますが、私は二点だと思います。 一つは、上記にも触れましたが、自らの粗暴的性格に対する骨がらみの苦悩。 そしてもう一つは、例えば下記のこんな部分について、私は、一度目の読みの時は軽く見落としていたのですが、二度目の読みの時は、これは重要な表出部なんじゃないかと感じたところです。 ちゃんとした仕事に就いていた時期もないではなかったが、そこに必ずついてまわる諸々にサクマは順応できなかった。三枚複写の保険の申し込み用紙とか人事とか本部とかに出す書類を見るたびに目が滑って何も考えられなくなってしまうのだった。雇用とか被用者とか期間の算定みたいな単語は、あっという間にサクマのやる気をねじ伏せてしまう。 ここに描かれていることは、本当にそのままの意味にとらえると、知的障害とまでは言えないが、そこへのボーダーライン上にある若者の、内面と知性そして苦悩の描写でありましょう。 またふっと、私の感想は飛んでいきます。 文学が描く病の中で、心理や精神、神経などのそれを扱った作品はけっこうあると思います。例えば島尾敏雄の『死の棘』とか、色川武大の『狂人日記』とか。 しかし、「不易流行」の「流行」の部分として、知的ボーダーライン層を描くというのはどうなのでしょう。 なるほどそこに注目すると、新しいものを描くというのがその評価のきっと少なくない部分であろう芥川賞を本作が受賞したというのは、いかにもふさわしいと、二回本書を続けて読んで、私はそう思うに至りました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.11.02
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『プールサイド小景・静物』庄野潤三(新潮文庫) この度、わたくしなかなかいろんなことを考えさせられるいい短編小説集を読みました。感動したといってもいいと思います。 ただ、こんな風にちょっと奥歯にものの挟まったような書き方になったのは、本短編集を読了するまでに、あれこれいろんな知識や読書体験があったからであります。 ちょっと順にさかのぼって書いてみますね。 私がこの作家の小説を始めて読んだのは、多分高校3年生のことです。なぜそんな事を覚えているかというと、ちょうどそのころ私は、受験勉強もいい加減にして、芥川賞受賞作品読書にはまっていたからであります。 結果的には、すべての受賞作品が読めたわけではないのですが、ぽつぽつと芥川賞受賞作品を、主に新潮文庫で探して読んでいました。今では、「芥川賞全集」という本が、家の近くの図書館にもあることを知っているのですが、そのころはそんな本があることを知らず、わりと地道に丁寧に本屋さんで探して買っていました。 で、私は冒頭の新潮文庫を買いました。(ただし今回読んだのは新たに購入した本で、なぜ新しく購入したかというと、高校時代に買った本はもう本の周りが焼けてしまっているうえに活字が小さくて、ちょっと読もうかという気にならなかったからです。だから今回読了したのは二冊目の新潮文庫。) そして「プールサイド小景」を読みました。これが芥川賞受賞作です。 ところが、かつてはその一作だけしか、私は読まなかったんですね。なぜなら、他の作家の未読の受賞作が他にも一杯あったからです。多分そのころ私は、前後して吉行淳之介の「驟雨」や安岡章太郎の「悪い仲間」や小島信夫の「アメリカン・スクール」等を読みました。そちらのチョイスを優先したんですね。 いわゆる「第三の新人」以外の作品も読みましたが、ちょうどあの辺り(1953年から57年あたり)は、本当に第三の新人グループの作家のものが次々に芥川賞をとっていて、私はそれらの作品の中でも、この「プールサイド小景」は、(高校生のくせに)「悪くない」という印象を持ったのでした。(今でもそれを覚えています。) で、私はこの文庫本の中の一作だけを読んで、残りはまた今度読もうと思いつつ、えらいもんですねー、もう半世紀が過ぎようとしていますよ。 その半世紀の私の読書遍歴については、書き出すと切りがありませんので置いておいて、次に私が庄野潤三の作品を手に取ったのは数年前でした。(今、その記録を探ってみれば、もう十年近く前になっています。えーーっ。速いものですねー。) 『庭のつるばら』。 その読書報告がこの拙ブログにあります。私はあまり感心していないんですね。それどころか、ちょっとひどいことを書いたりしています。ただ、私の真面目な所は(自分で書くなよー)、そんな読書体験をした時ほど、ちょっとその作品について調べてみようと思ったりするところでありまして、その時も作者や作品について調べました。そして、幾つかの知識を手に入れました。 しかし、その時もやはり他の庄野作品を読むには至らず、今回の読書まで、さらにその時から十年近くも経ってしまったわけです。 で、やっと、冒頭の文庫本、七つの収録作品すべてを読みました。 今回の読書までにあれこれ雑多な知識がすでに私の頭の中に挟まっていましたが、それらを丁寧に取り除いて、本作品たちだけについての読後感想を述べれば、とても面白かったです。 私の読書歴でいっても近来まれにみる、いい短編集を読んだなあというものでした。 総タイトルになっている「プールサイド小景」と「静物」は良かったですねー。特に、少し長い目の短編「静物」は良かった。 同時に、上記に書いた『庭のつるばら』の、我が嫌な感じの感想に繋がる「足取り」めいたものの正体も、私なりに納得しました。 そしてそのあと私はふっと、村上春樹の本を手に取ったんですね。この本です。 『若い読者のための短編小説案内』(文芸春秋) 確かこのなかに「静物」についての批評がなかったか、と。 ありました。読みました。(再読です。) で、私はちょっと驚きました。 ここには、私が感じたものと同じ内容の分析がある、と。 ……えー、すみません。 別に、私が村上春樹並みの小説読解力を持っているといいたいわけでは、本当に、本当に、心底そうではありません。 この村上本も私は過去に読んでいますから、表面上は忘れていても、実は今回の読書も村上本の内容に無意識に導かれた感想を持ったに過ぎないとも十分に考えられます。 だから、まー、これは、主観、驚いた時の私の主観にすぎないものでということで、ご容赦いただければと存じますー。 ということで、もうあっさり、村上感想の引用をさせていただきますね。こんな風に書いてあります。 「舞踏」と「プールサイド小景」といった初期の作品を初めて読んだ人はおそらく、「この人がこういう方向でこれからどんどん成熟して伸びていけば、ほんとうに素晴らしい小説家になるんだろうな」と考えるのではないでしょうか。そのような来るべき小説を手にとって読んでみたいと思う。僕もそう思いました。ところがそういう方向にはいかない。 「静物」に行っちゃうわけです。 いや、僕は何もそれを非難しているわけではありません。「静物」は文句なく素晴らしい作品だし、僕は大好きです。ただ、ああ、行っちゃったんだなと、それだけです。(略)それ自体は素晴らしい。でもそこから先は、どこか別の方向に行っちゃうしかない、ということです。ここまで書いてしまうと、もうほぐしがきかない。 いかがですか。上手に解説していますねー。私は上記に、私の考えていたことと一緒だと厚かましくも書きましたが、こうして書き写してみると、たぶん似ているのは全体の十分の一くらいの内容だと思います。(実に申し訳ない。) さらに数ページ先に、これも私が感じていたのと同じ内容(もー、やけくそに書いてます)の、上記引用文でいえば「どこか別の方向」に多分関係してのことが、こんな風に書いてあります。 小説を書くという責任を行為的に完璧に果たすことによって、小説的責任(小説自身の責任)をねじ伏せることは可能です。しかしそれはいつまでも続けられることではない。この「静物」という作品はまことに見事な作品だけれど、その鋭敏な切っ先の部分で、ほとんど目に見えないほどの先端の部分で、小説的責任を見切っている(もっと強く言えば、放棄している)……そういう印象を僕は受けざるを得ないのです。そんなことを言う資格が僕にあるかどうかはおいておくとして。 ここも見事ですね。 というわけで、私は本小説を読んで思いがけず、小説と作家の実生活の関係(あるいは作家の社会的責任や、さらには文学的既成事実なども)について、改めてあれこれと考えました。 ただ、単独でこの短編集のことだけの感想ならば、上記のくり返しになりますが、この本は圧倒的にできのいい作品集だと思います。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.10.19
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『戦場のレビヤタン』砂川文次(文芸春秋) 例えばこんな描写があります。 Kはここでの生活と、今と、それから過去自分が経験した生活と呼ぶことすらおこがましい記号的消費者としての時間の浪費について、たまに比較することがある。日々何かを買い替えたり、誰かにそれを見せびらかしたり、そうでないときは死ぬほど退屈していたあの過去の生活と、明日生きているかすら分からないほど瘦せこけた子供か青年かもわからぬ男が必死に盗みを働こうと目を爛々と輝かせ、あるいは通りで盗んだ工具箱を、反対側にわたって堂々と売りさばく、工事現場から帰ってきた中年が、家でサッカーを見、夜でも外で遊ぶような彼らの生活は、どちらが人として真っ当なのだろうか。 これはもちろん私が典型的だと思った個所を抜き出しているのですが(似たような描写は他にもあるのですが)、どうも私には、この文の文意がよくわからない、いえ、かなり、何というか、私なりに「好意的」に読めば、分からないことはありません。でも、例えば、「今と」「あるいは」などの言葉は本当にいるのだろうか、とか、「中年」に最終的には収束する長い屈折した修辞の部分は、本当にこれがベストの表現なんだろうか、といった思いはぬぐえません。 作者は、基本的に確信的にこんな文を書いているのでしょうね、多分。 さらに、このタイトルの小説(この本には二つの小説が入っています)を読み始めてしばらくすると誰でも気が付くのですが、主人公を表す人称の用語が、作品内全般にわたって、ほぼランダム的に複数混在しているんですね。 「K」「おれ」「自分」「俺」 主だったものは「K」と「おれ」ですが、極端な場合、繋がる二文で二種類の人称用語が用いられていたりします。 ただ、始めはしばらく戸惑っても、そのうちさほど気にならなくなります。それは、「K」「おれ」と、まるで異なる三人称と一人称であっても、それを受けるあとの文体が明らかに一人称、あるいは主人公に寄り添った三人称の形のもので一貫しているからです。 では、一体なぜこんな「いたずら」のようなことを筆者はしているのでしょうか。 今私は「いたずら」と書きましたが、それは私が個人的にこんな「ルール破り」をあまり好まない、まー、保守的な読み手であるからであります。 冒頭のどうにも読みにくい表現といい、混在する人称用語といい、どうなんでしょう、この筆者は確信的にいわゆる小説の基本ルールを自分は守るつもりはない(破壊しようとまでは思っているのでしょうか)と告げているのでしょうかね。 少し遡って考えてみます。 そもそも日本語はとても人称用語の多い言語で、英語なら「I」だけのところが、さていくつありますか、とにかく少なくなくありますね。それらを私たちは、日常生活の中で確かに「適当に」使い分けていてます。(用語使用時の相手、つまり誰に向かっての用語かによる使い分けと、その時々の自らの感情の在り方による使い分けなどですね。) もちろん、そのこととこの度の混在人称は同じだとは私も思いません。が、かりに「準じて」と全く考えられないわけではないのじゃないか、と。 さらに同様に遡って考えてみますが、そもそも、小説というジャンルは、作品全体の少なくない部分が言語を用いて作られている表現、くらいのルールしか、そもそもないのではないか、と。(詩人草野心平の「冬眠」という詩は、それすら守っていないか、いや、タイトルを含めたら3つの表記中、二つは一応漢字表記ではありますが……。) (しかし、それにしても、文法は一応は守らなければならない気はしないでもありません。文法すら意図的に守らないなら、これは外部に向けた表現とはとても思えなくなりませんかね。ただし、人称の統一については、それが文法と呼べる範疇のものであるのかどうか、私には、うーん、よくわかりません。) ともあれ、だとすれば、この度のことも、単なる作品の個性程度のものとして、別に取り上げてもいいが、改めて疑問を呈するというほどのことではなかったのかもしれません。 本書には二つの小説が収録されているのですが、一つは自衛隊の幹部候補生の100キロ行軍訓練の話、もう一つは、元自衛官が中東に行って武装警備員になる話です。 どちらも珍しめの設定ですから(そうでもないのでしょうか)、私などはそれなりに興味深く読みました。 ただ、その設定でおそらく取り上げられている主なテーマは、例えば冒頭で引用した個所からも読めますが、ざっくりまとめてしまうと「自分探し」小説と読めそうなものであります。 これも典型的な個所を引用してみます。 彼だけではなく、いわゆる先進国であるとか西側諸国とよばれている国で産み落とされた人間は、その誕生日から今日まで、欲しくもないものを買わされるためだけに生かされ、そうでなければ実体の伴わない、広告によって言葉巧みに作り出された恐怖に怯えながら生きてきた。少なくともおれはそうだったし、不慮の事故とか病気と老衰程度にしか自身に直接的脅威をもたらさない"恵まれた"環境が整備され、乳幼児死亡率も低く、高度先進医療が受けられるような国家に所属する人間がわざわざ中東まで出向いて銃を持つ理由は、そもそも人として壊れているか、購買意欲から逃れるためか、あるいはその両方かでしかない。ここには実体を伴った恐怖がある。 こういったテーマが、もちろん悪いわけではなく、また一概に古臭いとも思いませんが、小説作品としては、もう少し内容そのものに落とし込むほうがそれらしいかなと、わたくし、少々思ったりしました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.10.05
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『行人』夏目漱石(新潮文庫) 確かこの作品も多分4回目くらいの読書だと思いますが、さすがに 4回目だと何となくストーリーは覚えています。(作品そのものだけじゃなく、漱石関係のテーマの図書もちらほら好きで読んでいましたから。) それで、漱石長編小説の中でも結構長めだし、重厚感のある一冊なはずだと、読む前に思っていました。しかし実際に細部として割としっかり覚えていたのは(読んでから細かい所は分かったのですが)、「二郎」の友人の女性についてのエピソードでした。 それは三沢という二郎の友人がまだ学生時代、家にとある理由で、離婚をして精神が病んでしまった女性が同居することになり、三沢が外出するたびに、玄関まで見送りに出て来て「早く帰って来てくださいね」と懇願したという話でした。 私は、この話が『行人』全編の下を通奏低音のように流れているエピソードだという認識を何となく持っていました。そして、どこか少しエロティックな印象も。 今回その部分を読むと、その女性についてこんな感じで書かれていました。 その娘さんは蒼い色の美人だった。そうして黒い眉毛と黒い大きな眸を持っていた。その黒い眸は始終遠くの方の夢を眺めているように恍惚と潤って、そこに何だかたよりのなさそうな憐れを漂わせていた。僕が怒ろうと思って振り向くと、その娘さんは玄関に膝を突いたなりあたかも自分の孤独を訴えるように、その黒い眸を僕に向けた。僕はその度に娘さんから、こうして活きていてもたった一人で淋しくって堪らないから、どうぞ助けて下さいと袖に縋られるように感じた。 いかがでしょうか。上手な表現であるのは言うまでもなく、加えて色っぽく感じるのは私だけでありましょうか。 しかし、この女性が作品全体に影を落としているという私の記憶は、やはり間違ってはいなかったことを、今回の読書で私は確認できました。ただ、その「淋しくって堪らない」主体は、主人公の「一郎」ではありましたが。 本書は四つの章で構成されています。 今私が挙げたエピソードは最初の章に描かれているのですが、二つ目の章から中心になって出てくるのは、上述の「二郎」、その兄の「一郎」とその妻「お直」であります。 ストーリーを詳しく説明するつもりはないですが、そして、漱石の『行人』といえばこのエピソードだと多分もっとも人口に膾炙されているのは、一郎が、妻のお直の節操を試してほしいと二郎に頼むという常軌を逸した展開でありましょう。 この展開が、二つめの章のほぼ全体と、三つめの章の半ばあたりまであります。 思わぬことで和歌山で一夜を過ごすことになる、二郎とお直の挿話はスリリングでもあります。 ただ、四回目の読書をしていた私は、筋そのものは覚えていたこともあって、その場の展開の面白さよりも、はっきり書いてしまいますと、漱石はよくこんなストーリーを考え付いたものだという思い、この筋書きはリアリティを伴っているのかという考えを持っていました。 漱石が、実際に兄嫁に懸想をしていたと強く主張していたのは確か江藤淳だったと思いますが、確かにそんな説を出したくなるような、一種の突拍子のなさを感じました。 ただ、最終章になると、俄然作品の様相が変わってくるんですね。 今までの章で中心に描いていた妻の節操という話も、どうでもよくなるわけではないですが、最終章が描く一郎の大きな苦悩の一部に過ぎないことが描かれていきます。 その大きな苦悩は、例えば、こんな表現で書かれています。 自己と周囲と全く遮断された人の淋しさ 「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途には此の三つのものしかない」 少し長い所を抜いてみます。一郎が、妻について、友人に語っている場面です。 「一度打っても落ち付いている。二度打っても落ち付いている。三度目には抵抗するだろうと思ったが、やっぱり逆らわない。僕が打てば打つほど向こうはレデーらしくなる。そのために僕は益々ごろつき扱いにされなくては済まなくなる。僕は自分の人格の堕落を証明するために、怒りを小羊の上に洩らすと同じ事だ。夫の怒りを利用して、自分の優越に誇ろうとする相手は残酷じゃないか。君、女は腕力に訴える男より遥かに残酷なものだよ。僕は何故女が僕に打たれた時、起って抵抗してくれなかったと思う。抵抗しないでもいいから、何故一言でも言い争ってくれなかったし思う」 こういう兄さんの顔は苦痛に満ちていました。(略)兄さんはただ自分の周囲が偽りで成立しているといいます。 例えば、漱石はその生涯の作品のすべてに三角関係を描いたといわれます。実際に本作もその形をとっています。しかしこの最終章に入って、そんなロマンスの影は、ほとんどありません。 その代わりに描かれているのは、モラルを徹底的に誠実に追い詰めることの絶対的苦悩と孤独、そしてそれをこれまた一心に描いていこうとする筆者の姿が、読者の心に突きつけてくるような強烈な迫力であります。 言われてみれば、作品を成立させる動力部のようなモラルと誠実さは、漱石作品全編に見られる特徴であります。 そして、それこそが、私にとっては、漱石作品の最大の魅力であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.09.21
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『神の子どもたちはみな踊る』村上春樹(新潮社) さて、本書はもう25年も前になる村上春樹の短編集であります。 私としては、再読か、あるいは3回目くらいの読書であります。(ただし、内容はほぼ忘れています。) 時々、村上春樹の短編小説が妙に読みたくなるのは、これはどういうことでしょうねえ。 長編に手を出すのは少し厄介だし、村上春樹本人は自分は長編小説作家だとおっしゃっているようですが、周りの評価では、短編小説も優れている、いや、短編小説こそが優れている、などの評価もありそうです。そのせいかなと思います。 本書の中に、小説家が主人公の作品が一つあって(「蜂蜜パイ」この小説家の主人公・淳平は、別の短編小説集の作品にも出てきますが)、そのせいもあって、短編小説について、いろいろ面白い説明やセリフがあります。こんな感じ。 (略)淳平は言った。「でもそれはそれして、短篇小説という形式は、あの気の毒な計算尺みたいに着々と時代遅れになりつつある。(略) (略)どれも好評だった。彼は自分の文体を持っていたし、音の深い響きや光の微妙な色合いを、簡潔で説得力のある文章に置き換えることができた。 いかがですか。二つ目の引用文は、村上春樹自身の短編小説論のようですよね。だって、こんな文章を書いてるんですよ。 そのとき順子は、焚き火の炎を見ていて、そこに何かをふと感じることになった。何か深いものだった。気持ちのかたまりとでも言えばいいのだろうか、観念と呼ぶにはあまりに生々しく、現実的な重みを持ったものだった。それは彼女の体の中をゆっくりと駆け抜け、懐かしいような、胸をしめつけるような、不思議な感触だけを残してどこかに消えていった。 (「アイロンのある風景」) 焚き火の「深い響きや光の微妙な色合い」そのものの見事な描写であります。 と、そんなわけで、我が本棚にも何冊かある村上春樹短編小説集の中から、冒頭の本書を取りだしました。 しかし、本書を読み始める前に、私は、何か読書のテーマとでもいいますか、とにかくそんなものが本書読書にはあると考えました。それは、この連作小説が、阪神淡路大震災をモチーフにしているということから確認できることであります。 ちょっと調べてみましたので、年譜を確認してみますね。 1995年 1月・阪神淡路大震災、3月・地下鉄サリン事件 1997年 『アンダーグラウンド』出版 1998年 『約束された場所で』出版 1999年 『スプートニクの恋人』出版 2000年 『神の子どもたちはみな踊る』出版 出版された作品群の詳しい説明は省きますが、今回の本書は、筆者が阪神淡路大震災に数年しか間を置かず向き合って作った連作短編集であります。 そして、本書の6つのお話はすべて、1995年2月という、大震災とサリン事件の間の世情不安定な一ケ月を舞台にしています。 と、すると、この連作のテーマは、具体的な形はともかく、何らかの「癒し」や「希望」めいたものを描いたものにならざるを得ないのではないか、と。 ただその時、仮にも現代日本の純文学の第一人者の村上春樹が、この混とんとする世相の中で、読者にいかにリアリティを伴った「癒し」「希望」を示してくれるのか、これが、我々読者にとっての、本書読書の最大の「きも」でありましょう。 ……で、読み終えました。 やはり、おもしろかったですねー。時々ふと村上短編集が読みたくなるはずだなー、と思いました。 そして、読書前に考えていた読書テーマについて、考えてみました。(本当は、もう、そんな教訓めいたものは、ちょっとどうでもよかったのですが。) なんとなくそれなりのまとめができそうなので、さらっと書いてみますね。 ただ、そもそもが「オープンエンド」と呼ばれて、読者の多様な解釈を許す村上作品ですので、以下の文章はわたくしの、勝手気ままな解釈となります。 6つの作品に大小のウェイトで描かれる地震ですが、まずそれは圧倒的なエネルギー装置と位置づけられるようです。その特質には善悪、白黒はなく、ただ力が圧倒的な分、周囲には結果として理不尽な暴力破壊をもたらします。 本連作は、結局のところそんな地震のメタファーを絶えず意識しつつも、実際に地震に立ち向かうという話は一つだけ(「かえるくん、東京を救う」最もメタファーの強い作品)で、そのほかの5作は、個人の人生に降りかかってくる巨大な力や理不尽さに抵抗する人びとの、その個々人ばらばらの抵抗の仕方(または抵抗できないでいる実体)を描いています。 それは、作品順に、ほぼ抵抗できない実体から始まり、実は巨大な圧力とは自分の中にあるものだ、あるいはそれこそが世界の様相だという分析であったりしながら、そして連作の最終話においては、巨大な圧力に対して新たな一歩を決意する主人公の誠実な姿が描かれます。 そんな読み方を、今回わたくしはしました。 少しエンタメっぼく安易だったかなー(いつもはもっと心の闇の部分を深くえぐって終わる村上作品なのに―)という気もしつつ、しかしそれとは別に、この一作ごとの実にオリジナルな設定と展開がある限り、少なくとも村上短編小説は、そう簡単には「気の毒な計算尺」にはならないだろうと思いました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.09.07
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『古都』川端康成(新潮文庫) 少し前に、同作者の『山の音』という小説を、本当に半世紀ぶりくらいに読んだら、すっごく感心しました。改めて、さすがノーベル文学賞と惚れ惚れしたのですが、実は、『山の音』は、その半世紀くらい前に読んだ時も(だから青春真っただ中だった時も)、私は、大層感心したんですね。 何でそんなことを覚えているかというと(いえ、読んだ本に感心感動した記憶というものは、具体的な内容はほぼ忘れてしまっても、感心感動したことだけは、けっこう覚えているものだという経験則が私にはあるのですが)、大学文学部の卒論を決めるとき、『山の音』にしようか、それとも谷崎潤一郎の『蓼食う虫』にしようかと、迷った記憶があるからであります。 で、迷った挙句、『蓼食う虫』にしたのは、その時ふっと、谷崎作品のほうが論じやすいんじゃないかと考えたからであります。 谷崎の小説の展開は、思いのほか理詰め理詰めで、だからうまく補助線を引くことができれば論じやすく、一方、川端作品は、あまりといえばあまりに感覚的ではないかと、今思えば、分かったようなわからないような理屈で、私は卒論を谷崎にしたのでありました。 でも、今回、これも多分半世紀ぶりくらいに冒頭作品を読んで、やはり川端作品は、天衣無縫、無手勝流だなあという思いを強く持ちました。 例えば本書は、一読、京都年中行事絵巻か京都名所めぐりのようなお話になっています。 なぜそうなのか、初出が新聞小説だったからかもしれません。 私も、そのせいでなんとなく全体に大層「薄味」なんじゃないかな、特にエンディングなどはどこで終えても変わりばえがしないような終え方だなと思いました。 しかし、この終盤少し頼りないのじゃないかという思いは、読後しばらく思い返してみると、人物、状況に対して見事に折り合いをつけていることに気が付きました。 なるほど、この形がベストのエンディングなのかと、愚かな私は、そこで初めて驚き感心し、そして、うーん、無手勝流、と独り言ちました。 本作もそんな一連の川端作品ではありますが、上記の新聞小説ゆえかに少し続けて書くと、やはり他の川端作品に比べて物足りない思いのすることがあります。 それは、川端作品独自の、あの、エロス、であります。 「美しい日本のエロス」でありますね。 見方によっては、陰気くさい日陰の花のような(いかにも湿気の多い日本の気候風土の)エロスともいえそうですが、筆者はこのエロスに対して、割とそのままに正面から正体を明かして取り組んでいる一連の作品(例えば『眠れる美女』や『片腕』)と、何気ない日常生活の中に、突然割れ目のように姿を見せるエロスを描く作品と、二種類あるように思います。 上述の『山の音』は、後者の代表的な作品で、突然描かれるエロスが本当に唐突な感じの切り込みであるだけに、読者にとても強いインパクトを与えます。 本作も、形としては『山の音』と同じく後者だと思いますが、そのエロスの切り込みのゾクッとする度合いが、あるいは新聞小説のゆえか、少し弱いように感じました。 でもそれは、やはり作中にあります。 具体的に上げれば(前後の詳細は略しますが)、作品後半部の、「竜助」が「千重子」を、うちの前に捨ててくれたらよかったとくり返し言った場面でしょうか。 そして川端作品のすごいのは、この場面に直結して直後に、突然「芸者」と「太吉郎」の「舌すい」の話がつながっているところであります。 わたくし、強く思うのですが、このふたつの挿話を理屈の展開ではなくイメージでつなげてしまうところが、いかにも天衣無縫、無手勝流ではありませんか。この緩急の間合いが、川端エロスの真骨頂のような気がします。 そしてそのあとの描写も、少し地味に控え目に描かれたこの「竜助」の告白を、終盤に向けての展開の重要な転換点であると畳みかけるように説明していき、さらにはエンディングにおいては、アンバランスな愛の不可能性をも象徴しているのではないか、……というのは、少し深読みでありましょうか。 (深読みといえば、この愛の不可能性は、二人のヒロインが双子であって片方が片方の「ひとがた=人形」であるという設定によっており、それは遠く『源氏物語』「宇治十帖」の影「浮舟ひとかた」説を感じました。さらにそう読めば、かたや京都市街の南の宇治が舞台、かたや京都市街の北の北山が舞台と、謎めいた符牒も感じられるようで……。) そんな話でした。 先日、久しぶりに谷崎潤一郎の小説を再読した時にも思いましたが、やはり、浮世離れしているような本作も、しみじみ読書の楽しさを満喫できるということでは、古典的作品の再読は、もっとしてもいいかなと感じた次第であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.08.23
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『夏草の賦』司馬遼太郎(文春文庫) 「賦」とは、一体何かしらんと、気にしながら読んでましたが、やはり気になるのでささっと安易にネットで調べてみました。すると大体二つの意味がありました。 1、取り立てる、取り立て、割り当てる、割り当て、与える(例・月賦) 2、詩歌を作る、詩歌(例・早春賦) ……ふむ、とするとだいたいこんな感じのどちらかになりますかね。 「夏草の贈り物」「夏草の詩」 要するに作品全体に対するアバウトな(少し意地悪に言えば、どうにでも取れる)印象のタイトルである、と。世にひしめくタイトルの中には、このタイプのタイトルもたくさんありそうではあります。 でも、なんか、引っかかる感じを持ちつつ、わたくし、読み続けていきました。 一方、このお話を一言でいうのは簡単です。 戦国時代、四国全土を席巻した風雲児、長曾我部元親の生涯を描いたもの、と。 では、その主人公の生涯を通して、作者は何を描こうとしたのか。 これも、書いてあります。司馬遼太郎は、しばしば作品のテーマを自身で作中に記す癖があって、本作も、最終盤にこう書いてあります。 筆者は、長曾我部元親において人間の情熱というものを考えようとした。これをもってこの小説はおわるが、その主題が充足したかどうかは、筆者にはわからない。 なるほど、「人間の情熱」ですか。 そう思って読めば、特に終盤あたりにはこんな言葉や表現が多く散見されます。 「夢と志をうしなったとき、年齢とはかかわりなく、別な人間にかわるのではないか」 「男を成り立たせているのは夢と志なのだろう」 「…それは、野望、壮気といったものであろう」 「『男は、夢のあるうちが花だな』」 実は主人公は、作品の中盤あたりに、上記の表現でいえば、「夢・志・野望・壮気」等を失ってしまいます。圧倒的な戦力差の豊臣秀吉軍と一戦を交えることもなく降伏、そして軍門に下ってしまうわけですね。 そして作者は、さらにその後の話を、作品全体のまだ残り三分の一ほどの長さで描き続けていくわけですが、これがちょっと、わたくしは読んでいてどこか煮え切らず書きづらそうな気がしました。 ……主題が「人間の情熱」とは、実は「情熱を失った人間の生き方」の事だったのですか。……うーむ。 こうして全編を読み終えた後私は、ちょっとボーと考えまして、はばかりながら、作者もこうなってしまうのは最初から見えていたのではないか、それとも思っていた以上にこうなってしまったのだろうか、などと、あるいは見当はずれかもしれないことを思いました。 そして、いくつかのひょっとしたら、と思うことが浮かびました。 それは、読み始めてしばらくして、おや、何だかいつもの司馬作品っぽくないぞと何となく思った二つの「仕掛け」でした。(と、こう書くほどたくさんの司馬作品を、私は読んでいるわけではないのですが。) 一つは諧謔性であります。 司馬作品ってこんなにユーモラスだったかしら、と思ったのですね。それはまず元親の妻菜々の人物造形がそうであります。その最も典型なのは、「中村の御所」に描かれているキャット・ファイトのような、菜々の「うわなり討ち」のエピソードであります。 さらにそれだけではなく、そもそもの話の展開においても、例えばこんな諧謔めいた形で元親のことを描いたりしてます。 「とまれ」と閑斎はいった。 「四国きっての堅城といわれまする本山城を、力攻めでなく権詐奸謀でやすやすとわがものになされました。あのお若さでこうとは、ひと通りや二通りのお腹黒さではありませぬ」 もう一つは、作品の、まるでホームドラマ・家庭小説のような設定であります。 序盤の元親と菜々の新婚生活描写から始まって、中盤以降(上記表現でいえば、元親が夢を失って以降)の童貞息子の異性相手探し、恋愛話まで、司馬作品にこれほど家庭小説的なエピソードの多い話は、わたくし寡聞にして存じません。(エピソード中に、十代女性の恋愛心理描写があるのですが、失礼ながら、司馬遼太郎にそんなの書けるのかなとわたくし笑って……ん、いえ、全く失礼な話。) と、いろんな「仕掛け」をしながら筆者は、夢と志を失った男を描き続けます。 一方で、元親の挫折は、その時々においては真の挫折ではないのだという解釈も、(これは作品序盤の野心にあふれた主人公を描いていた時からも、)例えばこんな感じで再三説かれます。 「武将というものは、意地を美徳とする武者どもとはちがい、あくまでもわが身の亡びざる道を考えるべきものである」 「無理を承知で大きく妥協へ飛躍するのが外交というものであったが、……」 「大将というものは勝ち目のない戦さとわかれば、身一つで落ちねばならぬものだ、というのである」 いかがでしょうか。 志や野望が、行く手に立ちふさがる困難な現実によって打ち砕かれた時、人はどうその後の身の振り方をするのかについて、筆者は、その二律背反のような主人公長曾我部元親の苦悩を通して、読者に問いかけようとしたのでありましょうか。 ただ最終盤には、晩年の元親が「たしかに衰耗」してしまっているとして、筆者のこんなつぶやきが描かれます。 この点、元親と似た経歴を持つ奥州の伊達政宗が、最後までいきいきとした時勢への感度と野望をもちつづけていたのとは非常なちがいである。 「人間の情熱」を主題としつつ、「衰耗」と記載せねばならない晩年の主人公を描く作者を考えた時、私はふと、なるほど、『夏草の賦』とは、元親の生涯を振り返り悼むものとして、どこからか吹いてくる涼やかな風のような、やはりふさわしいタイトルであるのかもしれないと思ったのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.08.10
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『勝手にふるえてろ』綿矢りさ(文春文庫) 家で見るBSとか有線とかアマゾンとかも含めて、かなり映画を見るようになって3年ほどですが、映画とその原作となる小説をセットで見たり読んだりすることが少しだけ増えました。 パターンでいうと、原作小説先→映画後、が少し多いかなという感じがします。このパターンだと、かつては映画にがっかりすることが多いように思っていましたが、近年はそうでもなく、映画は映画でそれなりに興味深いなあと感じます。それは映画を見慣れたことで、映画面ゆえの独創的な魅力ということに、私が気付いてきたからかもしれません。 一方、映画先→原作小説後の場合は、主に二つの興味深さを感じます。 一つは、そもそもこのパターンで後で原作小説を読むというのは、けっこうその前に見た映画の出来がいいと感じたからで、それを踏まえて小説を読むと、頭の中は、先に見た映画の流れがそのまま展開していて、結局のところ、頭の中でもう一度映画を見ている面白さというわけであります。 といっても、やはり小説には小説の強みというか特徴があるわけで、それは心理説明に強い、ということでありましょう。それが二つ目であります。 映画での心理説明は、直接的なものなら独白と会話で表現しますが、それ以外では間接的に、人物の表情や動作、さらには様々な物や風景などに人物心理をことよせて描きます。しかし、それがちょっとうまくいっていない(あるいは私がそのように読み切れていない)場面があったりします。 そんなところを後で小説で読むと、表情、動きや物に象徴された人物心理が、「ああ、あの場面はそういう意味だったのか」と、くっきりと補足されます。 というのが、映画先→小説後パターンです。 で、今回私は、そのパターンで2作品(映画と小説)を鑑賞をしました。冒頭の一冊と、映画については同じタイトルで、監督並びに脚本の担当は、大九明子であります。 (見終わって)読み終わって、この2作品の鑑賞はとても興味深いものでありました。 なぜ今回の2作品の鑑賞が特に興味深かったかといえば、この2作品がはるかに隔たっていると感じたからであります。 後でよく考えれば、なるほどと思う部分もありました。 原作小説は、初出が純文学雑誌の「文学界」です。(上記の文庫本にもう一つ収録されている短編小説は、同じく「文学界」初出ですが、これはもろに純文学テイスト作品です。) 一方映画の方は、ジャンルでいえば、これは「ラブコメ」でありましょう。隔たっているのもムベなるかなであります。 だから私の感心は、よくこれを原作にして、これだけ別のものが作れたものだという驚きであります。(と書けば、手柄は監督脚本家ゆえと特定されもしますが。) しかし、どちらの出来が良いという好みとしてはあっても、それを脇に置くと、一つの球根から伸びながら全く色合いのちがう二輪の花が開いたようなそんな二作品ができあがるからこそ、小説家の側もきっと、驚きとそして原作者としての満足を感じられるのでしょう。 最後に一つだけ、私の思い付き、であります。 「勝手にふるえてろ」というタイトルの意味(象徴性)ですが、私はまず映画でその言葉の出る場面を見て、全くわかりませんでした。(その言葉が出てくる展開的意味合い=必然性がわかりませんでした。) 次に小説を読んで、小説には一か所この表現が出てきますが、やはりよくわかりませんでした。(前後の文脈からの意味なら分からないことはないのですが、この表現が、なぜ作品全体のタイトルにまでなっているのかが、まるで分かりません。) そんな私の思い付きは、前者の方、映画におけるこのタイトルの意味の解釈です。 (小説のほうについては、同じくわからないながら、かつてこの作家が、意味ではなくてわりと直感的にタイトルを付けるといったようなことを書いていたのを読んだことがあります。) しかし、それは、小説でこの部分について描かれた説明を読んでいなければ分かりにくいものであります。ただ、原作が先行している以上、映画監督は読んでますから、それを「証拠」とできなくもないかなということで……私の思い付きの解釈はこうです。 (映画・小説両方を読んで(見て)ないとわからないと書きつつ、しかし詳しい説明は省略して……) 「今日までの自分の正直さだけを信じていた私、勝手にふるえてろ!」 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.07.27
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『硝子戸の中』夏目漱石(新潮文庫) 森鴎外は胡坐をかかないといったのは、確か芥川龍之介であったように覚えています。 胡坐というのはもちろん比喩で、何といいますか、文章に向かう態度という感じのものでいいでしょうかね。 では、本書の漱石はどうでしょうか。 いえ、そもそもの話として、私は上記に胡坐とは文章に向かう態度だと書きましたが、胡坐をかかない森鴎外の、文章に向き合う態度がどのようなものだというのでしょうか。 胡坐をかかないというのは、きちんとした姿勢で真面目に取り組んでいるというのなら、本書における漱石の姿勢だってそうです。 芥川だって、私なんかが読めば胡坐なんて書いてないように……いえ、最晩年は、ちょっと違ったかもしれません。面会謝絶に近い状態で寝込んでいそうな感じの文章もあったように……。 冒頭の続きに戻ります。 本書は、漱石の少しまとまった随筆集であります。漱石の随筆集として有名なのは、本書と「思い出すことなど」がありますが、本書のほうがより晩年の作で、48歳、すでに亡くなる時から2年を切っています。 だから、昔から本書は、最晩年の漱石の思想を知る大きな手掛かりとして扱われてきました。ここに「則天去私」の姿があるなどという話も、どこかで読んだように思います。 で、戻って、胡坐の話ですが、私はやはり本書においても漱石は胡坐をかいていないと思いました。それはここに描かれた少なくない話に、いかにも漱石らしい端正な倫理観が描かれていると思うからで、実のところ、漱石の小説の魅力とは、この端正な倫理観ではないかと、私は強く思っています。 いえ、文学と倫理の関係はそう簡単に連動するものではないくらいのことは、一応私も理解しているつもりであります。(私の大昔の大学卒業時の論文は谷崎潤一郎テーマであります。って、これもあまり関係ないですかね。) しかし、漱石作品にとっては、この漱石的倫理観が、ほぼストレートに漱石作品の第一の魅力になっていると私は考えます。 そして本書における魅力もまさに同様で、その「漱石的倫理観」が、やはりテーマとして読めるエピソードの話が多くとても感動的であります。 幾つか具体的に挙げてみます。 例えば、講演会の話が「十五」「三十四」にありますが、謝金の話と講演に臨む態度と後日談の話。物事を、善意を核として、理詰めにきっちり考えようとする漱石の姿が描かれます。 漱石が、読者らしい女性と面会する話が「六~八」「十一」「十八」にありますが、ここには人と対応する際の漱石の自他に対して厳しいまでの誠実さが読み取れます。(「六~八」の女性の話は、小説仕立てなせいもあって、前半のエピソードの白眉であります。) そのように読むなら、後半の白眉のエピソードは「三十一・三十二」の「喜いちゃん」の話でしょうか。 ここには、漱石が終生悩みとしていた、自身の感覚の方向性を「不善の行為から起る不快」と分析しています。 これはまた、「十二・十三」で「坂越の岩崎」という嫌な人物を取り上げた中で、類似の不快感としてこう描かれています。 (略)私の感情はこの男に対して次第に荒んで来た。仕舞にはとうとう自分を忘れるようになった。茶は飲んでしまった、短冊は失くしてしまった、以来端書を寄こす事は一切無用であると書いて遣った。そうして心のうちで、非常に苦々しい気分を経験した。こんな非紳士的な挨拶をしなければならない様な穴の中へ、私を追い込んだのは、この坂越の男であると思ったからである。こんな男の為に、品格にもせよ人格にもせよ、幾分の堕落を忍ばなければならないのかと考えると情けなかったからである。 これらの、自分の「不善の行為から起る不快」や、自らの中へ中へと潜り込んでいく不快と怒りの感情こそ、まさに漱石が人生の中盤から晩年にかけて、一歩ずつ作品を通して追い詰めていこうとしたものでありました。そしてその足跡こそが、我々が漱石作品から感じる第一の魅力であると思います。 さて最後に、本文にはそれらの感情を、いかにも随筆的にまとめて絶唱のように書いた一文が、「三十三」の最後にあります。 実は、本書の読書報告は、わたくし、二回目であります。 前回もとても感動的であった部分として引用しているのですが、この度の再読のほうが、より深く共感したように思います。(前回は、ブログの文章のようだみたいなことを書いています。)もう一度、抜き出してみます。 もし世の中に全知全能の神があるならば、私はその神の前に跪ずいて、私に亳髪の疑を挟む余地もない程の明らかな直覚を与えて、私をこの苦悶から解脱せしめん事を祈る。でなければ、この不明な私の前に出て来る凡ての人を、玲瓏透徹な正直ものに変化して、私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授け給わん事を祈る。今の私は馬鹿で人に騙されるか、或は疑い深くて人を容れる事が出来ないか、この両方だけしかない様な気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている。もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.07.13
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『アンソーシャル ディスタンス』金原ひとみ(新潮社) 以前何かで読んだんですがね、と、またもや今回も出所不明の無責任文から始まって申し訳ありません。とにかく、そんな話なんですが、安部公房のエピソードなんです。 安部公房の担当の編集者が(話の内容からして、公房との付き合いが長く親しく、割と何でも言える間柄という感じの方でしょうか)、「先生、女性の裸の場面をもっと書けませんかね、そうすればもっと売れるのに」とか何とか言ったという話であります。 それだけの話なんですがね。 いえ、公房が答えたのは、「そんなことできないよー」といったものだったと思います。でも、それだけの話です。 私が何を言い出そうとしているかといいますと、一言でいえば、純文学作家の読者サービス意識、ということなんですね。 昔は、純文学作家が読者サービスを考えるなんてとてもあり得ないものだった、……といっても、その「昔」とは、明治大正そして昭和の初年くらいまでの話でありますが。 やはり今の時代、いくら純文学作家でも(「純文学作家」なんてカテゴリー自体が実際は消滅していることは、私でも少しは認識しています。この語の使用は一種のアイロニーであります)、読者サービスくらいするでしょう。ましてや、文芸雑誌の編集者ならば。 とすると、本短編小説の初出誌「新潮」は、そしてやはり筆者は、どんな読者層を想定して、どのくらい読者サービスしようと考えたのでしょうかね。 まー、仮にも「新潮」といえば、押しも押されもせぬ文芸誌の大老舗でありましょう。 純文学文芸誌としての自負も、相当なものがあると思います。 ではそこの編集の方たちは、誰にこの一連の小説を読ませたいと思って連載(1年に2回ずつの掲載)したのでしょうね。 そんなことを思うのは、私がこの短編小説たちは、20代から30代の女性向けだけの娯楽作品だとしか思えないからであります。 すぐれた作品は読者の世代を超越するとはよく言われることですが、超越された感が私にないのは、半分は、私の読解能力不足もあるかもしれませんが、でも、もともとそんな話だろうと、つい同意を求めてしまう気持ちが大いにあります。 というのも、本書の5つの話は、ざくっと、アル中女話、美容整形マニア女話、男乗り換えゲーム話、心中未遂話、そして自慰中毒女話と、いかにもいかにもではありませんか。 主人公はすべて20代後半から30代の女性の一人称で、「私」「私」ばかりの強烈なナルシスト、他責的理屈っぽさ、死の安売り、そんな人物の意見と生き方がふんだんに描かれていて、そこには他者の存在が全くなく、すさまじいまでの自己肯定とその裏腹の「生きづらさ」しか描かれていません。これって、控え目に言っても、若者の特権だから、みたいな話ではありませんか。 何より、ストーリーが、ルックスと食欲と男=セックスがらみのものしか書かれてないって、これは、ある特定の読者層(20代から30代の女性、実は、この層の方たちが、現在一番たくさん書籍を購入なさっているってことは、「本屋大賞」という賞の受賞作が如実に示していますね)に、サービスをしているお話だとしか思えないじゃありませんか……って、いつもながら、かなりバイアスが掛かりすぎですかね。 ……という感じで、あー、このお話は、わたくしはちょっと苦手だなあなどと思いながら(また一方では、文章は読みやすくっていいな、ドライブ感があるな、アル中女話が一番出来がいいんじゃないか、でも好みでいえば、美容整形マニア女話かな、などとも思いながら)、第4話まで読んでいました。 そして、第5話に入ったのですが、しばらく読んでいて、はっとこのお話はこれまでと違うぞと思ったんですね。少なくともこの話は、表面的にも(内容的にはもちろん)筆者は全く主人公の思考や行動に寄り添ってはいないと感じました。 そして、最終盤のいかにも喜劇的なエンディングを読んで、私は少し戸惑いました。 それは、この5つ目の話は、1つ目から4つ目の話のすべての否定の話なのか、という思いであります。 第5話は、主人公の設定がそもそも今までとは異なった感じで、その理屈のあり方も含め戯画的な極端な描かれ方をしていました。そして、エンディングの崩壊のさせ方が、コミカルさを十分に発揮しつつかなり客観性を保証している、つまり、これが筆者の本当の意図ならば、第4話までの内容は、すべてがここに至るための否定的エピソードになっているのではないか、と。 第5話になって、初めて筆者はここで種明かしをしたのか、……と、考えると、本短編集に溢れているのは読者サービスなどではなくて、俄然がっちりとした重層性のある作品群ではないかと、私は大いに関心をしました。 ……が、実は今に至って、そんな私の読みが本当に正しいのか、かなり自信がありません。やはり、若者向けエンタメ小説に近いものなのでしょうか。第5話の展開は、単にバリエーションの一つに過ぎないのでありましょうか。 うーん、いかがしたものでありましょう……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.06.28
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『サンショウウオの四十九日』朝比奈秋(新潮社) 病気の主人公の小説というのは、昔からけっこうあるといえばありますよね。よく考えたら、多分いくつも挙がってくるように思います。 その病気も、身体のものと精神のもの(一応分けるとして)、がありますね。 ちょっと、いわゆる「純文学」に、対象を絞ってみますね。エンタメ小説まで、例えば推理小説なんかを含んじゃうと、特殊な病気を持つ主人公や登場人物のストーリーなどは、一気に増えそうな気がします。 ということで、純文学小説で病気の主人公の話を、身体・精神それぞれ私が思う代表的な作品を、ひとつづつ挙げるとこんな当たりでいかがでしょう。 「檸檬」梶井基次郎・「死の棘」島尾敏雄 と、挙げたところで、なぜこんな話になっているかの理由めいたものは、何も申し上げていません。 要は、今回読書報告する小説には、何というか、やはり特異な病気(本文中にはその出生確率を「50万出生に1組」とし、「人口が何十億人もいることを考えれば」「たいしたことではない」と書いていますが)の話になっており、私がこの度特に興味深くスリリングに読んだのは、その病名(文中には「病気のようには思えない」との表現もありますが)が明かされる冒頭から32ページ目までの部分であります。 この物語の発端の部分は、実に様々な小説的工夫がなされていて、とても面白かったです。そのうちのいくつかの個所を、ざっくり挙げてみますね。 物語巻頭を数行読むと、地の文中に「私」の語が出てきます。読み手はここで、「私」の一人称文体小説なんだなと思います。 母親とのやり取りが少しあって、「実家」という舞台設定や、「妹の瞬」、母親のせりふの中に「二人」という語などが出てきます。 「私」の性別はまだ書かれていませんが、すぐ後に十年前の成人式の振袖カタログの話が出てくるので、姉妹の話だろうと類推できます。 しかしこのあたり(本文に入って3ページ目)で、最初の変な表現が出てきます。「妹の瞬」が、主人公たちの居住地域の十年前のグルメ雑誌を見ている場面の地の文です。 無くなった店の写真を観ているうちに瞬はひどく懐かしく感じて、胸に沁みてくる心地のままに、「あぁ、懐かし」 実際に声に出してからラックに戻し、かわりに私は隣の振袖のカタログを手に取る。 どこが変なのかお分かりになりますでしょうか。 地の文の視点=主観の混乱が見られるんですね。 地の文は「私」の一人称、つまり私の心理を主観にして自分の動作や見聞きしたことを綴っていく形を取っているはずなのに、声に出した「妹の瞬」の心の中の説明が、直接地の文に書かれています。これは、「私」には分かるはずのない(あるいは類推の)もので、この描写は、基本的に、小説のイロハに反しているでしょう、と。 ところが、私は最近、そんな小説のイロハなんてどこ吹く風という小説に、連続して二冊出会ってしまって、ちょっと、戸惑っていたのであります。 それは、どちらも逆の表現、つまり、三人称文体なのに、何の断りもなく(例えば間接話法や直接話法的な描き分けもなく)登場人物の一人称心理が地の文に頻繁に出てくる小説です。(ただ、こちらのほうが、作者がそう書きたい気持ちはわかるような気はしますが。) 私は読んでいてちょっと気持ちが悪かったのですが、それはいわば「エンタメ系小説」であったので、納得とはいきませんが、流行りの傾向なのかなと思っていました。 それと同種のものが、純文学系小説にも出てきたか、と。(純文学系小説でも、「実験小説」的なものには、以前から似た試みはあったような気はしますが。) ともあれ、そんなことを考えながらさらに読み進めていくと、なんかぼそっとした感じの「私」の父親が登場してきて、父親の兄弟、つまり主人公にとっては叔父の、生まれたころの「病気」の話がだらだらした感じで続いていきます。 実はこの話が、この小説の核となる一つ目の設定となっているのですが、簡潔にまとめると、赤ん坊だったころの叔父(名前は「勝彦」)の「病気」が、胎内に(多くの読者がここで同じイメージで思ったでありましょう)手塚治虫の『ブラック・ジャック』の「ピノコ」と同様の胎児を宿していることであったというものです。 そして、手術をして胎内から取り出したという説明の次の行の表現に、読者は思わず「あっ」と(少なくとも私は)驚きます。こうあります。 そういった面倒を片付けている間に、勝彦さんから取りだされた父は猛烈な速度で大きくなっていき、数か月で新生児治療室から出ることができたらしい。 突然現れた「父」の語に驚くんですね。 あ、これは、ぼそっと描かれていた主人公の父親の話なんだ。(父親がピノコなんだ……。) 父親(とその兄弟)は、そんな数奇な出生をしていたのだ、と、読者は(少なくとも私は)俄然興味深く思います。しかし、そのことは、上記に書いた「変」な一人称文体の説明にはなっていません。 相変わらず、気にしだすとかなり気になる主観の混乱表現はこの後も現れますが、かなり異様な父親の誕生の話がやはり伏線めいたものになって、読み手である我々は、徐々にひょっとしたらと考え始めます。 私が考えたのは(多分多くの読者も同様だと思いますが)、二重人格主人公ではないかということでありました。 ……と、いう風に読んでいき、その「謎解き」が示されるのは32ページ目であります。しかし、それをここに書くのはやはり反則かなと思います。 ただ、本小説は、芥川賞受賞作でもあり、それなりに高く評価されています。その評価は、この「謎解き」の後の展開にこそあるのでしょう。 例えば本文には、いかにも32ページ目までで作り上げた物語の設定に則った、「意識はすべての臓器から独立している」「意識が融合してしまえばどうなるのか」などの問いかけが描かれていきます。 しかし、私としては、個人的にこの先に描かれている内容については、申し訳なくも、やや消化不良に思えました。 大きなテーマに挑もうとする筆者のその心構えは、十分諒とするも。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.06.14
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『かわいそうだね?』綿矢りさ(文芸春秋) 前回の続きです。詳しくは前回のところをご覧いただくとして、とりあえず、下記の本の内容を報告いたします。この本です。 『大江健三郎賞8年の軌跡 「文学の言葉」を恢復させる』(講談社) この本の冒頭には、大江健三郎によるこの賞の設立趣意書のような一文があります。これはいわば、これからこんな本をこの賞に選んでいきたいとたった一人の選者である大江健三郎が述べている文章なので、わりと重要です。だいたい、こんなことが書かれてあります。 1・今の社会で「文学の言葉」がとても痩せている。 2・しかし、だからこそ大逆転の時があるのではないか。 3・確かに、社会の表現と認識の言葉をリードしていく層の人たちが、「文学の言葉」と無縁になっているが、 4・注意深く見れば今も力にみちた「文学の言葉」は創られている。 5・それを、知的な共通の広場に推し立てたい。「文学の言葉」を恢復させたい。 と、こうなっています。 新時代に力のある文学表現としてふさわしい作品を選ぶ、というところですかね。 で、次に『かわいそうだね?』が選ばれた時の選評を読んでみます。 大江氏は、ミラン・クンデラの小説論を引用するところから始めます。(その前にも少し前振りはありますが。) ミラン・クンデラによると、小説とは、 1・ある美的な計画に基づく長い仕事の成果で、 2・自分・他者のために、本質的なもののモラルを説くべきものであろう。 いかがですか。いかにも大江健三郎が共感しそうに小説論ですね。 「1」について、大江氏は「小説のたくみさ」と補足しています。そしてこの選評をこう括っています。 才能のきらめきとのみ見えた小説のたくみさが、晩年の仕事における本質的なモラルの表現の支えとなるのを知っています。 そして、この『かわいそうだね?』との関係についてはこう書いています。 (略)彼女の文学生活のひとつの転機を記念する傑作というほかない作品をつうじて、私はクンデラの小説論を具体的に検証したいのです。 つまり、本小説は、クンデラの小説論の具体例にふさわしいから賞を与えた、と、まあ、こういうことですね。 で、以下大江氏は「検証」していくのですが、作者との対談という形式での「検証」は、やはりかなり荒っぽくはありました。ただ、読んでいる分にはなかなか面白くもあります。大江健三郎はそんなところに着目し、そんなふうに褒めるのか、と、とても興味深かったです。 以下に、私が理解できた範囲で(この「範囲」が、かなり狭いうえにかなり不安でありますが)、ちょっと書いてみますね。 ポイントは、タイトルの「かわいそうだね?」の語が否定的なものとして描かれていると捉えるところから始まります。 主人公の感情の根底にこの語があって様々な行動が描かれていき、クライマックスの後に、それが変わっていく姿が描かれます。ここが、本作の最も重要な部分だと、大江氏は説明します。その個所を少し引用してみます。 「困っている人はいても、かわいそうな人なんて一人もいない」というのが、彼女のモラルといいますか、彼女の精神的な結論なんです。今までの自分から、精神的に、人間的な深みに一歩踏み出したことが、そこで示されているわけです。 一歩踏み出した先のことを、大江氏は作品中の言葉である「慈愛」だと指摘し、これこそが「本質的なモラル」だと説明します。 「かわいそうだね」の同情は、自分と対象を切り離した上での感情だが、「慈悲」とは共感であり、その状態を共有しようとする意志だ、と。 そして、こうまとめます。 一生の間に一つの(中略)本質的な、根本的なモラルが、人間が生きていくこと自体において固まってくる。小説の中にそれを表現して、それを一つの作品として、人びとに向かって差し出すことが、作家にできることだとミラン・クンデラは言っているのです。 いかがでしょうか。だから、本小説に賞を与えた、と。 わたくし、この一連の文章を読みまして、一作品全体の評価としては、少々、「牽強付会」っぽくはないかと、ひそかに愚考いたしました。 しかし、大江賞とは大江個人が選ぶ賞でありますから、その時の選者大江氏の興味のありかがそのまま賞に反映するというのは、それはそれで、悪くはないように思うのであります。 少なくとも、大江研究にとって、それはなかなか興味深いことではないかなと、もうすでに『かわいそうだね?』の読書報告からはるかに隔たってしまっている本報告の最後に、わたくしは思った次第であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.06.01
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『かわいそうだね?』綿矢りさ(文芸春秋) まず、タイトルの意味がなんとも分かりません。 というか、もちろん書かれていることは分かるのですが(それは分からないはずはないやろ)、「かわいそうだね」に「?」がついていると、具体的にどのような状況下でこのニュアンスの用い方がされるのか、何だかよくわからないことないですか? あれこれ考えて、わたくし的にとりあえず納得できるのは、例えば、小学校の教室であります、授業をしていて、先生が生徒たちにちょっと謎をかけるように言います。こんな感じ。 「じゃあみんな。答えは3だね? それでいいね?」 これを国語の授業にして、先生の問いを小説の登場人物の心理読解の質問にします。こんな感じ。 「じゃあみんな。答えはかわいそうだね? それでいいね?」 ……、わたくし、そんなシーンしか理解できないんですけどー。 「?」が付いただけで、この言葉の抑揚もよくわかりません。そんなことないですか? 実は、後に詳しく書きますが、あの大江健三郎もよくわからないといってるんですねー。 大江氏はこう発言しています。 「私も最初は『かわいそうだね?』というクエスチョンマークのついたタイトルに、違和感を持ちました。」 あ、よくわからないとは言ってないか。違和感、か。でも、近いですよね。やはりこのタイトルは「ヘン」なんですよね。 で、その大江の発言に対して、綿矢りさはこんな風に答えています。 「題名にしても文章にしても、目を引きたいというか、奇をてらいたい部分があるから、あまり年代に関係なく、そういう部分に引っかかる人は多いかもしれません。」 ……目立ちたかったんですぅ。……んー、世界の大江によくそんなこと言うよ、と思いませんか? まー、いいですが、そんな本です。 私も読みまして、ちょっと戸惑いました。 何に戸惑ったかという前に、まず、いいなと思ったところから挙げていきますが、お話のテンポもよく、それなりにストーリーも、ぎりぎり無理なく読ませます。私は関西人ですから終盤の主人公が「キレた」(本文では「つながった」と書かれていますが)場面の関西弁もとても楽しく読みました。 それに、何と言っても、文章力は全編通して、かなり正統的なものがあると感心しました。心理描写時の直喩・隠喩の的確さ、目の付け所が実に秀逸であります。 以前私は、文章力というものは野球の守備力みたいなもので、あまり大きなスランプがないんじゃないかと考えたことがありましたが、本書も一度最後まで読むと、後はどのページをぱっと開いても、そこから面白く読み進めていけます。文章だけで勝負できるという感じですね。 でも、その正統的な文章力で、いったい何を描いているかというと、それは、控え目に考えても、私のような年配を主たる読者層とは想定していない内容じゃないか、と。これは、二十代から三十代の女性向けに書かれた小説ではないか、と。初出雑誌は「週刊文春」だし、そんな女性向けのエンタメ小説なんじゃないか、と。 ところが、本作に大江健三郎が注目するんですねー。 第6回大江健三郎賞をあげちゃうんですねー。 ……と、やっとここで、大江健三郎がつながりました。 で、上記に書いた私の戸惑いとは、ここであります。 なぜ、これが大江賞なわけ? 大江氏は、このエンタメ小説のどこをどう評価して大江賞に選んだわけ? と、まー、私は戸惑ったわけです。 で、調べてみると、こんな本が図書館にありました。 『大江健三郎賞8年の軌跡 「文学の言葉」を恢復させる』(講談社) この本は、大江賞の8回分の選評と、大江氏とその年の受賞作家との対談が載っています。(大江賞は大江一人が選者の賞です。)上記の両氏のセリフはここから引用しています。 で、他にも、大江はこんなことを言っているんですね。 「こういうジジイに読まれて賞をもらうということは不思議で、困ったとも思われたのではないでしょうか?」 それに対して綿矢りさは、もちろんそんなことないと否定します。(わたくし、これは嘘だと思いますよ。当然不思議に思ったろうし、さらに、大江健三郎に褒められたら難しい小説かと思われて買ってもらえなくなるんじゃないかとくらいは、ちらっと不安に思ったような気がします。)でも、続けてこう発言しています。 「(略)それで今回、読んでいただいて、無意識のうちに読者を限定してしまったのを、ちょっと反省しました。」 (白状しとるやないか。) と、そんなふうに、作者も大江も、読者限定小説と一応書いている本書を、大江氏はなぜ賞に選んだのか。 上記の大江賞についての本のタイトルに「『文学の言葉』を恢復させる」とありますが、これは大江賞設立にあたって大江が書いた文章中にある言葉ですが、本エンタメ小説のどこをどう評価したらこの設立趣意と繋がるのか、私は気になって読んでみました。 すると、うーん、そう読むのかー、なるほど、さすが、上手に褒めるものだなーと、なかなかに興味深かったのですが、……あー、すみません、次回に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.05.17
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『少将滋幹の母』谷崎潤一郎(新潮文庫) 以前から本ブログで何度か同じことを書いたように思いますが、こうして一応日本近代文学限定の読書報告をしていて、好きな作家が3人いますと言い続けています。 今に至ってもこの3名です。 夏目漱石・谷崎潤一郎・太宰治 一応我が陋屋の本棚には、岩波・中公・ちくまのそれぞれの全集があります。 ところが実はわたくし、3人とも、完璧には全巻読破できていないんですね。その理由は各々の作家についてにいろいろにありますが(例えば漱石全集は「文学論」「文学評論」がむずかしくって私にはよくわからないなど)、一言でいえば、どなたも人気作家だから、全集の巻数が多くてついていけないんですね。(なさけなー) そんな情けない理由なのですが、今回の作家、谷崎潤一郎においても(これも以前より何度か述べていますが)、大昔、大学の文学部卒業の際の卒業論文が『蓼食う虫』だったので、確かにその収録巻までは全部読みました。(しっかりメモまでつけて。) でもそのあとは、実はぽつぽつ読書なんですね。ずぼらな私は、取り上げた作品を分析するには、そこまでの作家の過去作品の読解だけでいいじゃないか、とズルして考えたんですね。 まー、えーかげんなこの思考は、そのまま私の書いた卒論内容に反映したわけですがー。 というわけで(何が「というわけで」なのかよくわかりませんが)、私は、本小説を読むのは多分3回目だったと思います。 といっても、高校時代と大学時代の読書ですから、もう霧の彼方のような遥か大過去であります。だからこの度読んで、まるで初読のようにとっても面白かったです。(あ、わかった。これが言いたかったんだ。) 特に前半(「その四」で滋幹の母が拉致されるあたりまで)は、ゆっくりとたゆたっているような書きぶりが、お話の進むテンポにそれとないユーモアとゆとりを生んでいるようで、読んでいてとても心地よかったです。 「筆者」を前面に出して随筆的な書きぶりで始まりますが、物語が進んでいくと、それは一種戯作的な描写になっていきます。 この戯作的な描写にゆったりしたものが感じられるのは、わたくし思ったのですが、さらに進んでいくと現れてくる性愛的な展開に対して、筆者が小説を作る技巧としてだけではなく、筆者自身の人生観的なものとしてある種の全面的な信頼感を抱いていて、筆者自身が寄り掛かりながら、安心して描いているからじゃないか、と。 なまじっか、筆者の他作品をいくつか読んでいると、特にそんな思い(期待?)が強いのかもしれませんが。 というのは、本作には、本筋と並走しながら深い関係を作っていく平中の好色逸話が描かれています。この逸話は、筆者も作中で述べているように、芥川龍之介も短編小説にしているんですね。 私も既読の短編小説ですが、この度本棚から取り出して、もう一度さくっと読んでみました。で、気が付いたんですね。 平中の造形が全然ちがう、と。 もちろん、芥川は短編小説で、こちらは長編小説の、それも重要登場人物であっても主人公ではない人物、という違いのせいもありましょうが、とにかく「芥川・平中」は、とってもシニカルでナルシスティックで神経症的であります。 「芥川・平中」は、例えば、ねらいの女性の閨に忍びもうと庭で潜み人の動きが絶えるまで待っている時など、(雨夜ではあるのですが)雨のことでも考えるとしようと、「春雨、五月雨、夕立、秋雨、……」と「雨」を列挙していきます。 またクライマックスの「おまる」の中身を見る場面でも、いよいよという段になってこんな風に考えます。 「この中に侍従の糞がある。同時におれの命もある。……」 芥川らしいといえば芥川らしい、自意識から逃れられない「芥川・平中」であります。 それに比べれば、例えば「その四」に描かれる、老大納言が左大臣に操られるかのごとくに最愛の若妻を差し出す場面など、苦悩とか自意識などは吹っ飛ばしての、思わず掛け声の掛かりそうな見事な場面づくりとなっています。 三島由紀夫が、作家として自らの老後に強い不安を持つと書いた文章に、そんな自分と対比して、谷崎潤一郎の作家的資質は、全く老いを恐れることはなくうらやましい限りだと書いていました。 それは、より具体的に書くと、谷崎独自の性愛における被虐的嗜好(おのれはつまらないものとして美しく若い女性の前にひたすらひれ伏すという構造)が、老いそのものも自己薬籠に入れてしまうような資質とでもいえるでしょうか。(事実、谷崎は老人の性を描いた日本文学史の先駆者となります。) 本書には上記に少し触れた「その四」の展開と、最後「その十一」の展開の、二つのクライマックスを持ちますが、どちらの場面も、恐ろしいような名描写が実に長い尺で描かれています。 我々は、その描写に運ばれるままに読書の快感を堪能するとともに、鬼気迫るその物語作家の天才性に、まさに舌を巻くばかりであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.05.04
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『水車小屋のネネ』津村記久子(毎日新聞出版) さて、前回の続きです。 前回は、ここで突然本小説のテーマ、と書いたところで終わりました。 では、以下に続けたいと思います。 と、ここで突然、私が考えた、本小説の主たるテーマについて触れてみます。 わたくし実は、さほど本書の筆者の小説を読んでいるわけではありませんが、何作かを読んでいて、ざっくり勤労女性を主人公にしての労働環境の人間疎外を主なテーマに描いている方かなと思っていました。 そして、各作品の最後には、ささやかながら小さな「救い」が描かれている(作品が多い)と感じており、そしてそれこそがこの筆者の作品の魅力であろうと。 本書も、構造や展開にいろんな違いはあっても、基本的に同じ形をとっているのじゃないか、と。 ただ、明らかな違いは、本作はそのテーマが労働環境ではなく、(少しまとめにくいですが敢てまとめると)「青春期の家族間疎外」あたりを主たるものとしているようです。 もう少し具体的に書くと、ネグレクト、両親の離婚、その他の家族間トラブルなどを起点とし、そしてそれがささやかながら癒されていくという物語でしょうか。 本作は、舞台である自然豊かな山間部の町に、引き付けられるようにそんな過去を抱えた青春期の少年少女達(またはさらに幼少の者)が集まってきて、互いに関係しあう姿が描かれます。 そして、ストーリーが進むにしたがって、見事にほぼ年齢順に、彼ら彼女たちに小さな「救い」が訪れる、という展開です。 ただ、個人の労働環境だけを描いた他の作品と違って、異なる環境の複数の若者達の救いを描くためには、そして、そのプロセスにリアリティを持たせるには、どうすればいいのか、その解決の試みが、この長い日常をじっくりと描く、ということであったのか、つまり、作品的な長さこそが、「救い」のリアリティの保証ではなかったかと、私は思いました。(言うまでもなく、水車小屋のヨウム・ネネがその象徴でありますね。合わせてわたくし思ったのですが、このネネのお話は、「尾籠物語」の構造を微妙になぞっているのじゃないかということです。聖なる尾籠が、人々を救い癒す、という。) またこれも多くは説明しませんが、彼らが何に救われるのかというと、それは、家族ではない他者からの幼少者に対する無償の善意によってです。 (そして年長者の善意に救われた幼少者は、次十年後に、また次の幼少者に善意をささげるというループ構造ですね。これもうまく設定してあります。) 或いは筆者は、このループ構造にこそ人が生きることの意義と希望を託しているのかもしれません。作品終盤に、ある登場人物にこんなセリフをしゃべらせています。 「誰かに親切にしなきゃ、人生は長くて退屈なものですよ」 最後にもう少しだけ触れておきたいと思いますが、長い小説を書くための工夫も、筆者はかなりなされています。 上記の、十歳ずつ成長していく登場人物たちの興味深さもそうですが、かなり細かく丁寧に工夫しているのが、作品の人称についてであります。 全体を通して、基本は三人称小説でありながら、各「話」ごとに(またはもっと細かく)、語り手が寄り添って語っている人物が変化していく表現となっています。 つまり、本作の三人称は、神の視点を持つ三人称ではなく、三人称ではありながら特定の人物の視点に寄り添う、例えば内面描写などはその人物のものしか描かないという形の三人称となっています。 その工夫は、登場人物の造形がより立体的になってくるという効果を生んでいると思います。長編小説を読者に飽きさせない工夫の一つでしょう。 と、そんな事をあれこれ思いながら読みました。 ただ、終盤は、わたくし、ちょっとしんどかったですね。 それは、途中までは順番に少しずつ描かれていた「救い」が、終盤、大団円とばかりに重なって(或いは既出の「救い」も思い出されてふたたび)描かれていき、ちょっと下世話に書くと「よかったよかったみんな幸せ」になってしまってはいないか、と感じたからであります。 いえ、そのことのどこが悪いのだ、長編小説のエンディングなんだぞ、と言われれば、まー、それは、個人的な好悪、なのかも知れませんが……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.04.19
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『水車小屋のネネ』津村記久子(毎日新聞出版) 長編小説であります。 私が読んだ新刊書では482頁もありました。 本作は毎日新聞連載で、2021年7月1日から2022年7月8日までとなっていて、ほぼ見事に1年間でありますね。 なるほど、まるまる1年間ということは、何回くらいの連載回数になるのでしょうかね。一年のうちには、新聞休刊日も何日かあるし、新聞は出ているが連載小説は休みという日もあるでしょうね。 ざっくり、350回、辺りでいかがでしょう。 夏目漱石の『明暗』は、漱石が原稿用紙に「189(回)」と書いたところで机に突っ伏してしまい、そのまま未完の作品となっていますが、岩波文庫で624頁(解説等込み)であります。本作がいかに長い小説かがわかりますね。 なぜこんなに長いのか、わたくし、頑張って読みながら、また読み終えてから、少し考えましたね。 まず、なんといっても全体の構造がユニークです。説明するのは面倒なので、目次をそのまま引用してみますね。 第一話 一九八一年 5 第二話 一九九一年 183 第三話 二〇〇一年 305 第四話 二〇一一年 393 エピローグ 二〇二一年 475 こんな感じです。どうですか、かなりユニークな作品構造だとわかりますね。「話」が進むたびに登場人物がみんな十歳ずつ年を取っていくんですね。いかにも面白そうだ。(しかし「話」ってのも、なんか変ですね。「章」とか「部」じゃないですか、普通は。) そういえばわたくし、これとよく似た構造の小説をずっと昔に読みましたよ。(つまり、本書よりかなり先行する小説)それは、 三島由紀夫『豊饒の海』 ただし、三島の小説は、巻ごとに二十年ごと進む設定であった違いと、第一、長さが「ネネ」の三倍くらいあるんじゃないでしょうか、四冊の連作長編小説であります。 私は今、似た構造だと書きました。でも、津村「ネネ」は、特に三島「豊饒」に影響を受けたとは感じませんでした。 ただ、こうして並べると、なんとなく興味深い事柄が浮かんできました。 それは、この構造にした起点となる年は、いつだったんだろうということです。 『豊饒の海』については三島自身がどこかで書いていたのを覚えています。 まず副主人公(全編を通しての狂言回しのような人物)の年齢を二〇歳から八〇歳までとし、そして、第四巻の年代設定を未来の(『豊饒の海』が書き始められたのは1965年)1970年とする、という事だったと思います。 本書(「ネネ」)の場合はどうだったんでしょうね。 筆者あとがきによると、この小説は2020年5月から2021年6月までに書いた(ごく短いエピローグだけ2022年4月執筆)とありますから、書き始めた時は、おおざっぱに最後を現代にそろえようという意図があったのかもしれません。 また、内容的な側面から類推すると、やはり2011年東日本大震災と絡めるための年代設定であったのかもしれません。確かにこの大震災の挿話は、終盤に向けてのストーリーの推進力になっています。 と、いうようなことをまずあれこれ考えました。 そして、この長さについて、さらに読み進めて感じたことが、もう一つあります。 それは、この長さこそが作品の「救い」に一定の説得力を保証しているということであります。 と、ここで突然、私が考えた、本小説の主たるテーマについて触れてみます。 と、書いたところで、あ、すみません、少し長くなりそうなので。次回に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.04.06
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『蛇にピアス』金原ひとみ(集英社文庫) 先日、住んでいる地域の公民館のようなところで映画会をしていたので見てきました。 上映していたのは、『狂った果実』という日本映画で1956年の作品です。 石原慎太郎の小説が原作で、実質上の石原裕次郎のデビュー映画だそうです。 これは私に映画の鑑賞能力がないというか理解力がないというか、少しおおざっぱな言い方をしますと、昔の映画(「昔」とは厳密に、いつからいつまでかということがいえないんですが)を見ていると、セリフ回しが全く平板で早口で、まるで読んでいるようじゃないかと思うことが多い(評価のきわめて高い小津安二郎監督の映画の中にも)と、感じてしまうんですね。 しかしまぁ、そんなところに引っ掛かりながら、昭和31年頃の「太陽族」と呼ばれた青年たちの恋愛映画を鑑賞していました。 主に金満家の家の息子や娘たち(後はいかにも戦後すぐらしい進駐軍=アメリカ人がらみの男)が、日々の退屈に任せてほぼ自由に自堕落に恋愛、あるいは情交をするという話です。しかし、中心となっている恋愛を追っていくと、それはきわめて純愛になっているというのが、やはり観客に対しての落としどころなのでしょうか、恋愛風俗はその時代としては不道徳でセンセーショナルであっても、好きという感情は古典的で、切なく愛くるしいという展開でありました。 そんな映画を見て私は、ストレートな連想として、先日詠み終えた本書と同じだなと思いました。 違っているのは、体に入れ墨を入れるとか、顔面を中心に何か所もピアスの穴をあけるとか、舌先を二つに割ってしまうとかだけで、実際、私は読んでいて、かなり終盤近くまで、本書の青春恋愛小説的展開に、少し恥ずかしいような感覚を持っていました。 ただ、では全く従来の純愛小説と同じなのかというと、やはりそうではないだろうという気はしています。 もう一度『狂った果実』の話題に戻ってみます。 映画の中に、主人公の青年(若き石原裕次郎ですね)と彼女(のちに裕次郎と結婚をする北原三枝ですね)が夜、車で海岸に行くんですね。そしてそこでラブシーンとなるのですが、その場面が、まずキスをして岩場で二人が重なっていきます。しばらくシルエットのようなその場面が続いた後、彼女のスカートをゆっくりせり上げていく手が映って、そして溶暗となります。 もちろん今見ればそれだけの場面なんですが、劇場公開時は、表現できる限界ぎりぎりのところ、観客にとっても唾を飲み込むようなシーンではなかったかと思います。 やはり、このシーンはこの映画の価値として高く評価すべきなんだと思います。 それと同じことが、本作品にも読めると私は思いました。 刺青などについては、それこそ谷崎潤一郎の『刺青』(1910年作)に、はるかにクールな場面が描かれていますが、やはりスプリットタンの風俗を初めて書いたのは本書であり、それは一種の「不易流行」であるのでしょう。 一方、上記に私は青春小説的と書きましたが、それは中心となっている展開自体が青春恋愛小説的であると同時に、本文随所に取り上げられている多くのエピソードの形や描写の仕方、また自意識や感受性の傾向などが、いかにも19歳の女性が描きそうな(あどけないといえばあどけない)ものであることもあります。 ひとつだけ挙げてみます。 (略)無気力の中、私は結婚という可能性を考えてみた。現実味がない。今自分が考えている事も、見ている情景も、人差し指と中指ではさんでいるタバコも、全く現実味がない。私は他のどこかにいて、どこかから自分の姿を見ているような気がした。何も信じられない。何も感じられない。私が生きている事を実感できるのは、痛みを感じている時だけだ。 いかがでしょう。 私は抜き出していて、この文章は、例えば太宰治の『女生徒』の中に紛れ込ませても、すぐには見分けがつかないんじゃないかと思いました。 ただ、繰り返しますが、新しい風俗をその中に持ち込んだこと、それこそが、「不易流行」の新しい「流行」にふさわしい、と。 そう考えると、本書が芥川賞を受賞したということもまた、いかにもふさわしい感じがしますね。 なるほど、もとより芥川賞は、МVPでも三冠王でもなく、その半年間のフレッシュな最優秀新人王でありますものねぇ。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.03.23
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『沖で待つ』絲山秋子(文春文庫) わたくし、このお話は二度目の読書なんですね。 前回読んだ時の読書報告もありまして、ちょっと読み直してみると、基本的にはこの度の私の感想と同じようなことを書いています。 どう書いているかというと、まー、戸惑っているんですね。 それは、作品がわからないから戸惑っているんじゃないんですね。分からないようなところはまるでありません。(そんな意味でいえば、分からないところがなさすぎるから戸惑うのだといったら、それは、まー、少しは合っているように思います。) はっきり書いてしまうと、この作品が芥川賞を受賞したことに戸惑っているんですね。なんでこの小説が芥川賞なの? と。 ついでに先に書いておきますと、この小説(もう少し正確に書きますと、本文庫には3つのお話が収録されていて、そのうちの総タイトルにもなっている「沖で待つ」が芥川賞受賞作で、とりあえずこの小説)は、読んでいて軽快で心地よい、筆者の物語づくりや描写力のとっても達者さが感じられる、スマッシュヒットのような青春小説だと私は思ったんですね。 ひさびさにウォームフルなお話を読んだなあ、と。 でも、芥川賞って、本当に今までこんなお話を選んでいたの? こんなお話は、(短すぎるけど)選ぶなら直木賞じゃないの?……と、まー、戸惑ったというわけであります。 しばらく考えたのですが、わたくし、反省いたしました。 芥川賞云々はこの際関係ないことにしよう、そこに拘っていてもわからない。要は、この小説をどう読んだかの読書報告である、と。 と、そうは考えたのですが、実は一回目の読書以降、わたくし同作家の別の作品を二つ読んだんですね。どちらも本ブログに報告していますが、『御社のチャラ男』『末裔』です。で、この二作は、(この度の読書で思い出して)いかにも芥川賞受賞作家の作品という感じがするじゃないか、と。 しかし、まぁ、そんなことを言っても、例えば筒井康隆氏みたいな方もいらっしゃいますからねぇ。やはり芥川賞を取ったから(あるいは取ったのに)どうのこうのというのは(暇つぶしに考えたらそれなりに面白かったりはしますが)、やはり作品の本質としてはどうでもいいものなんだろうということにしておきます。 というわけですが、そんな風に考えると、ちょっとくり返しになりますが、この「沖で待つ」は、私としてはさわやかファンタジー青春小説、ってところで、特に、ストーリーとして、とても小説的面白さがある(ハードディスクの壊し合い約束なんてのですね)作品でした。 また、最後までうっとおしい展開(うっとおしい展開というのは、何というか、いかにも「純文学」的うっとおしい展開)にならずに読み終えることができて読後感のさわやかな、わたくし的には近年まれにみるという感じの、お話づくりのできる作家の作品だと思いました。 さて、上記にあるように、本書には3つのお話が入っているのですが、最初にある「勤労感謝の日」という短編。本当は好みでいえば、私はこちらのほうが好きであります。 「沖で待つ」と合わせてこの二作品、主人公は共に三十代後半くらいの女性勤労者という設定ですが、どちらもほぼ作者自身とかぶっているのか、巻末の解説文によると、1986年男女雇用機会均等法施行から4年目あたりの大卒総合職希望就職、となるそうです。 作品はその時代の、つまりはバブル期真っ盛りの、いわば最前線のビジネスパーソンの実体の上に話を展開しています。 読んでいて、私も驚いたのですが、なんかすごい古臭い感じがしました。なんか遥か昔の話のような感じがしました。 これは作家のせいではなくて、いうならば、作品素材のせいでありましょう。 24時間働くことのどこがおかしいの、と日本人みんなが思っていそうな時代の労働環境の雰囲気と、もっと即物的に言えば、おそらくスマホ(インターネット)のあるなしのせいでしょうか。ちょっとついていけないような古臭さを感じました。 (これはついでの話ですが、このインターネットと同じような次の世界の画期的ゲームチェンジャーが、AI技術なんでしょうかね、まー、私はよく知りませんけれども―。) ただ、これも、小説という形態の特徴の一つで、1986年の労働風俗は古臭く感じても、明治の漱石の作品風俗は古臭く感じないというのは、多くの読者が実感するところであります。 というわけで、ざっくり青春小説とまとめてしまいました。 でも、同じ労働環境を描いて、より現代的課題に触れていると私も思う同作家の『御社のチャラ男』の原型が、なるほどここにあったのかと感じられたのは、2度目の読書のおかげでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.03.09
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『共に明るい』井戸川射子(講談社) 前回の続きです。 前回で私は、本短編集は、いかにも芥川賞受賞後第一作に相応しい、新しい作家の文体上の実験がたくさんなされていると書き、そのうちの「外堀」の実験を一つだけ考察してみました。 実はわたくし、少し前に、筆者・井戸川射子さんの講演会に行ったことがあるんですね。いろいろと興味深いお話をなさってましたが、編集者とのこんなエピソードを語ってくれました。 作品が活字になり始めたころ、校正の時編集者からいわゆる独特な表記について何度か確認をされたが、この表記でいいとそのまま出すと、そのうち確認はなくなった、と。 当たり前ではありますが、かなり確信的に独自の表現ならびに表記を用いていることがわかりますね。 前回は、そんな一つとして「不思議な読点」について取り上げてみました。 今回は、二つの短編小説の表現について報告したいと思います。 一つ目は、この作品がまさに芥川賞受賞後第一作なんじゃないかと思いますが、単行本の総タイトルにもなっている「共に明るい」についてであります。 そもそも筆者は、かなり人称にこだわりがある(少なくともこれらの一連の作品を書いていたころは)と思われますが、本作についてもそれは際立っています。 作品冒頭の一文はこうなっています。 冷え、結露する、ドリンクホルダーに入れられた誰かの、ペットボトルの水が揺れる。 で、以下、続いていくのですが、とりあえず地の文は三人称であります。三人称とはいえ、作中人物の誰か(多くは主人公)の視点や心情にほぼ寄り添って描いていくという手法で、これは多くの小説の設定にも見られます。 驚く、というか、少し笑ってしまうのは、この小説が寄り添っているのは、まさに「誰か」だとしばらく読んでるうちに気が付くことです。 「誰か」に寄り添っているその「誰か」というのは、一人称の「私」とか、三人称の「彼」や名前などと同じように、本来それらの人称や固有名詞が入るべきところに「誰か」が入っているということであります。 それは、上記の引用文でいえば、「誰か」は「whose」ではなくて、仮に「誰か」を「my(私)」に入れ替えて読んでも物語的にはほぼ問題がないということであります。 だから、驚いて少し笑って、いたずらみたいだと思ってもよかったと思います。 ただ、文中3か所、それだとどうもしっくりしない部分がありました。 わたくしわりとへんにこだわるタイプなんですね。 だから、この単行本で12ページの短編小説の中に、何か所「誰か」が出てくるか、そしてそれらはどんな働き並びに意味であるかをみんなチェックしてみたんですね。 するとまず、15か所「誰か」が書かれていました。 その内、1つだけ(あるいはどちらか決めづらいのがもう1つ)が、本来の不定称(who)の働きとしての「誰か」でした。しかし残りは、仮に「私」(或いは例えば「井戸川」とか「山田」とかの苗字と同じ働きの「誰か」さん)と入れ替えることが可能な、むしろ読者は心中でそのように入れ替えたほうが読みやすい「誰か」でした。 ただ、3か所だけそう読むといかにも変な表現になる所がありました。 その3つの文には、助詞が付いてないのであります。つまり、 「誰か思った」「誰か思った」「誰か思う」 これら以外の「誰か」には助詞が付いています。そして、普通わたしたちが書く文章においてはそうです。 「誰かが思った」「誰かの目の前の」「誰かは思う」…… 上の助詞の付いてない3つの「誰か」は(あるいは「誰」だけでも)、「私」などには置き換えられません。 ……これは何なのでしょうねえ。 もちろん、一つの答えは思いつきます。「誰か」を別の語に置き換えるからよくないのだ、と。「誰か」は「誰か」以外の何物でもないのだ、と。 しかし、だとするとそこには従来の日本語文法には則っていない、我々の知らない意味働きの「誰か」が生まれませんかね。 やはり、前回の報告で書きましたように(前回のは、読点について、筆者が独自のルールで用いているものがあるのじゃないかというのでした)、この度も「誰か」に、一般的な「誰か」以外の言葉の意味や働きを付加した表現なのでしょうか。 これらの表現も、必ずや筆者の中では、確信的な表現上の区別があるのでしょうが、ちょっといたずらめいた実験で、でもそれだけ刺激的な実験のような気もします……。 さて、上記に二つの短編小説を報告したいと書きました。もう一つ考えていたのは「野鳥園」という短編です。 この作品にも、かなり独創的な実験がなされていると私は思いました。 それは、この時期筆者がたぶんあれこれこだわっていたのであろう、作品の人称についての、これまたなかなか刺激的な取り組みであります。 どんくさい私はこの話を、一度目よくわからない小説だなと思いながら読み、二度目途中ではっと感じてびっくりして、そして三度目、うーん、と唸りながら読みました。 少しだけ報告しますと、上記にも触れた、「三人称とはいえ、作中人物の誰か(多くは主人公)の視点や心情にほぼ寄り添って描いていくという手法で」という部分について、いわば新機軸を試した表現だと思いました。 もう少し具体的に書きますと、地の文で心情などを描いている人物が、主語をほぼ表さずに、次から次へと変わっていってるんですね。これは、読んでいて始めびっくりします。何なんだと思いますよ。 (今、はっと気が付いたのですが、上記に新機軸と書きましたが、これって、平安古典の文章じゃないですか!) そんな短編小説です。 センスのいい人なら、一度読んだだけでその工夫にすぐ気づくのかもしれませんが、なまじっかどんくさい私だからこそ、3回読んで初めて気持ちよく読めたという経験も、なかなかエキサイティングでありましたよ。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.02.22
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『共に明るい』井戸川射子(講談社) 本書は短編集で、5つのお話が収録されています。 筆者は、2022年に芥川賞を受賞されており、それを挟んで、21年発表の作品が1つ、23年発表の作品が4つとなっています。 いわゆる、受賞後第一作を中心として作った短編集となっています。 そんな、新人らしいといえば新人らしい短編集です。 どんなところが新人らしいかといえば、それはいろんな文体上の実験をしている感じのところであります。 実は私は、この筆者の小説は、芥川賞受賞作は読んでいません。ただ、その前の野間文芸新人賞を受賞なさった小説は2回読みました。 そして、いかにも純文学作家らしい、文体にかなりこだわった作家だなと感じました。 そんな文体について、まず一番「外堀」っぽいところから報告してみますね。 それは、本短編集全体に広く点在している筆者独自の表記方法についてです。 また、上記にも触れた、野間文芸新人賞作にもそれがあったのではないかと、ちらりと思い出しましたが、本短編集においては、読んでいて、特に始めはかなり気になるというか、つい、引っかかってしまうように感じました。 ちょっと、引用してみますね。 踊る大きな木の躍動、遠くで上ずる子どもの声、どれも吹くものに作用され混ぜられる。風の音が最も大きく、耳が恐ろしく受け止める。湿る公園は土のにおい溢れ、こういうのを嗅ぐととうとう売ってしまった、先祖代々の畑を思い出す、でもどうしようもなかったと国語教師は思う。 いかがですか。この短い引用部だけでもかなり個性的な文体だなと感じますね。 後で触れますが、かなり強く主語や人称にこだわった一文の成り立たせ方を感じます。 でもこの引用部から私が一番に「外堀」っぽく指摘したいのは、読点の打ち方の際立った独創性です。 「こういうのを嗅ぐととうとう売ってしまった、先祖代々の畑を思い出す、でもどうしようもなかったと国語教師は思う。」の部分ですね。 ここには二つの読点が打たれています。 しかし、よく読むまでもなく普通の文章なら、一つ目の読点は打たず、二つ目の読点は読点ではなく句点だろう、と。 特に私が今回引っかかったのは、二つ目の読点の用法であります。(一つ目の句読点の用法は、ルール違反とまでは言えないと私も思います。)本短編集のすべての作品に、ここは読点じゃなく句点だろうという文が書かれています。 ではさて、それをどう考えるか、まさか、そんなことに気が付かずに筆者が用いているとはとても思えません。 別の個所を引用してみます。これは、主人公が職場にいる時、地震がおこるという場面です。 「揺れてるよね」と野中さんに言われ、初めて揺れていることに気づいたような、神経質ではないような素振りで、彼は辺りを見回す動作をする。本当はさっきの、とても小さな揺れの音から気づいていた、彼は地震に、細心の注意をいつも払っているから。今でも寝る前には一度、体の揺れを想像してから目を閉じるから。突然に驚かされぬよう、ベッドが揺れてたわむような感触を、来るであろう縦揺れか横揺れか、感覚だけでは分からないのを、背中で想像してから眠るから。部屋で一番責任ある主任が、「机の下潜るで」と指示を出す。遠慮する動作になる彼が、隙間を縫い最後に入っていくと机の下はパンパンになる。救急車の音が聞こえる、彼は救急車に乗ったことがない。その車内にいれば、サイレンは上から聞こえるのだろうかと彼は考えてみる。外からの複雑な機械の音は止まらない。袖口が手首に当たる、動きにより作業着の布はもう手首に馴染んできている、それで頭の横を庇ってみる。 少し長めの引用になりましたが、ここにも「本来句点じゃないか読点」は散らばってありますね。(「袖口が手首に当たる、動きにより作業着の布はもう手首に馴染んできている」の読点は「いらない読点」とも読めそうですね。) でもそんな不思議な読点ばかりじゃなく、いわゆる行替え、形式段落もきわめて少ない文章ですよね。読みやすい文章を目指すなら、二つくらいは段落わけがあってもいいような内容です。 それから、現在形の多用も気になるといえば気になります。この現在形の多用も後で触れますが、筆者の個性的な文章の大きな特徴であると思います。 という、かなりこだわりの感じられる筆者の文体ですが、ただ、不思議な読点については、こうして数を読んでいけば、なんとなく筆者独自ルールみたいなものが感じられてきます。 あ、こんなルールで不思議な読点は打たれているんじゃないかと、我々読者にも、何となく思わせてくれるんですね。 だから、まー、私はこの不思議な読点を「外堀」と書いたわけでありまして、この先には、形式だけではない「内堀」の問題と考えられる表記がある、と、そんな思いであります。 ただ、だからと言って、この不思議な読点使用は、文章を読む者としてそんなに簡単に納得していいものであるとは思っていません。 要は、トータルな日本語表現に、文章作者が自分だけの勝手なルールを付け加えていいのかということであります。 私が思うに、この不思議な読点は、従来の読点よりは「拍」が長く、句点よりは「拍」が短い空白を示しているのではないかという解釈です。 もちろんそんなルールは、従来の日本語体系にはありません ……で、わたくし、あれこれ考えたんですね。 今までにない日本語表記ルールを新たに考え出した小説家はかつていないのか、と。いないなら、そんなことを勝手にしていいのか、と。 で、私なりの結論ですが、たぶん、いいのだろう、と。 あれこれ考えましたが、ざっくり一点極端例を挙げますと、明治初期の言文一致運動、つまり、近代小説の起こりが、すでにそうではなかったか、と。 ……と、まあ、最後はすこし大きな話、というか焦点のぼやけてしまった話になりましたが、実は、私が本短編集で、興味深く思った筆者の文体実験については、まだ全部触れていません。 すみません。次回に、あと二つ、そんなことを考えてみたいと思います。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.02.08
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『海峡の光』辻仁成(新潮文庫) 私はこの文庫本を、古本屋さんで見つけました。筆者については少しは知っていたのですが、裏表紙の文章に、芥川賞受賞作と書いてあって、私は芥川賞受賞作にも少々興味があったので買ったんですね。で、その時もなんとなーく、変なカバー表紙の絵だなあと思っていたのですが、読み終えて改めてその絵を見ると、なるほど、内容にふさわしいといえばふさわしい、やはり何とも気持ちの悪い変なカバー絵になっているな、と。 一言でいえば、この小説は、少し気持ちの悪い変な小説です。 まず、読んでいて、よくわからないところが、かなりありました。それは、ある部分の描写や説明がよくわからないというのではなくて、展開そのもののつじつまが合わない、あるいは、普通に読むにはあまりに説明がなさすぎるというレベルのわからなさであります。 しかし、読んでいると途中からなんとなく気が付くんですね。筆者はわざとそんなお話を書いているんだと。 遡っていけば、わざとだとなぜ気が付くかというと、そもそもの作品の設定が、説明ができない構造になっているからであります。 刑務所刑務官が「私」という一人称で、本当の主人公「花井」はそこの受刑者です。 そこでは、刑務官は不必要に受刑者に話しかけないし、受刑者同士も不必要な会話をしてはならないことになっています。つまり、作品本文の中にほとんど会話文がありません。 こういった設定では、主人公「花井」の行動は(見て)描けても、心理は描けません。そして、「花井」の行動と心理(これは推測するしかないのですが)の乖離(非論理性)こそが、多分、本作のテーマでありましょう。 例えば、一般的な非論理的な行動というものを考えてみます。 我々(人間)の、理屈が付かない非論理的な行動というものは、実は日常的にけっこうたくさんありますよね。ついカッとなってとか、そんなつもりはなかったのについふらふらととか、後になって後悔する、過ちや犯罪系の行動に多いですね。 また、お酒やある種の薬によって、あるいは病気のせいで、理性的なものが弱っていた、そんなケースもあると思います。 でも、そんなケースは、このようにまとめてしまうと、それなりに納得がいきます。 非論理的な行動だけど、一定の論理が成立するんですね。 しかし、私が本作について理解したのは、本書は、そういったケースではない、いわばもっと「純粋な」非論理的行動についてのケーススタディではないかということであります。 でもそんな作品は、例えばシュールレアリスムの文学として他にも書かれてはいないか、そんな気が私もしました。 で、少し、じーと考えたんですね。 まー、もの知らずなわたくしの知識ですので、そうでもない例もあるかとは思いますが、いわゆるシュールレアリスム文学に描かれるのは、主人公を取り巻く状況がそうなのであって、主人公の心の動き自体がシュールなのではない、と。 本作のシュールさは、むしろ絵画的な感じ、例えばダリやポール・デルヴォーの絵のような感じがします。 さて、では我々読者は、そんなお話を、どういったものを手掛かりに読んでいけばいいのでしょうか。 主人公の心理描写がなく、それを類推させるものもなく、いえ、それを類推させるはずの言動(「言」はきわめて少なく)からの類推がほぼできない(わたくしには非論理的すぎてどうも理解できない)という「読書環境」であります。 んんーー、と、まぁわたくしは、少し困ったんですね。 で、ちょっと考えたのですが、ふと、こんなことに気が付きました。 実は本書を読んでいて引っかかったのは、上記のような構造的な不可解と、もう一つあったんですね。 それは、いきなり出てくる、それまでの用語とは異なった、かなり違和感を感じさせる「古臭い」漢語であります。 例えば、下記は「私」が高校時代を振り返った時の女性関係の話の部分ですが…。 負けず嫌いの真知子と交接を持った後も、君子を手放したくなくて彼女の気を引くような振る舞いを取り続けた。 下記は、「花井」について「私」が考えている部分。 ただ、あの温和な顔つきの裏側には、依然として人倫の道を超える企みが隠されている気がしてならなかった。 いかがでしょう。どちらも短い抜き出しなのでよくわからないかもしれませんが、前文の「交接」、後文の「人倫」の漢語について、私は前後の文の流れとまるでトーンの合わない奇妙な(取ってつけたような)用語だと思いました。 極め付きは、物語のほぼラストシーンのこの部分です。 シャベルで土を掘り起こし、そこに植物の種を万遍なく蒔く花井の姿からは、超俗した者の間雲孤鶴な静けさのみが滲み出ていた。 この四字熟語の用い方って、何よ? ……例えば、喜劇のせりふや落語などで、いきなり文脈を越えて不似合いな漢語表現を出してくるというのは、一つの笑いのテクニックとして割とよく用いられているように思います。(今は亡き桂枝雀師匠は、得意の英会話をいきなり落語の中にぶち込んで、しばしば大爆笑を買っていました。) また、流行歌の歌詞にも時にその技法に似たものが用いられ、その相応しくない言葉の部分に、一種異化効果的な「華やかさ」を引き出したりします。 ……「流行歌の歌詞」。……確か筆者は、ロックシンガーで……。 さて、なんとなく私の理屈の落としどころが見えてきたかなと思いますが、ひょっとしたら、本書理解の手がかりについて、筆者は、我々読者にこうアドバイスしているのかもしれません。 そんな、額にしわを寄せて理屈を探して読んでいても仕方ないですよ。例えばポール・デルヴォーの、あのヌードの女性が静謐の町を飛び跳ねる不思議な絵は、そんな不思議な世界のものなのだと、そのまま興味津々に味わえばいいんじゃないですか、と。 いえ、わたくしの妄想でありますが……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.01.25
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『さようなら、ギャングたち』高橋源一郎(講談社文芸文庫) 筆者高橋源一郎氏については、私は拙ブログで再三とっても好きな作家と述べています。本書も、単行本が出版されてほぼ直後に買いました。裏表紙に、オーバーオール・ジーンズをはいた若き日の高橋氏の写真があったのを覚えています。 覚えていると書いたのは、その本はすでに我が家の本棚にないからです。まー、売ったか棄てたんでしょうねー。 と、やや無責任なことを書きましたが、私は時々発作的に本棚の整理をするんですね。どんな本を整理するかといえば、これも、まー、その「発作」時に残した本こそが我が文学的評価においてベストである、つまり、棄てた本は、我が文学的評価において本棚の空間の一部を占めるに及ばないと考えた、……と、まどろっこしい書き方をしてしまったのは、大概いつも、書物大整理イベントが終わった後、なぜ私はあの本を捨ててしまったのだろうと、激しく反省するからであります。 さて、そんなこんなで本書が手元にないものですから、図書館で借りてきました。で、読みました。今までにたぶん、2.3回は読んだいると思うのですが、やはり今回もそれなりに面白かったです。 ただ、なぜ面白かったのかについて、やはり少しはかつてより成長した読書力を示さねばならぬという気が、まー、起こりました。そんなつまらないものを起こす必要は、実はなかったのかもしれませんが、このような文章を書いている以上、私としては、それしか手掛かりはなく、ぼつぼつぼそぼそと以下に書いてみます。 まず本書が、いわゆる「ポストモダン」小説である、と。 これはウィキなんかにもそう書いてあります。ところが、この「ポストモダン」というものの説明が、かなりアバウトな頭の作りの私には読んでもよくわかりません。そもそも私は思想とか哲学とかとは没交渉の人生をずっと送ってきたんですね。(と、最近はちゃっかり居直ったりしています。) 仕方がないので、ウィキの説明中、これは本書の特徴といえそうだなー、と思われる表現をいくつか拾い出すにとどめました。こんな感じ。 大きな物語への不信・モザイク・遊び心 挙げようと思えばまだ挙げられるでしょうが、とりあえずここまでにしておきます。 ところがえらいもので、この3つの短い表現だけで、本作のほとんどは説明されてしまうんですね。ここは、これです。こちらはこれに当たります。あれはそれですね。……。 で、私は少しあきれました。 しかし、そんなことはないだろう。たった三表現だけで、本書の魅力がすべて説明しきれるというのは錯覚だろうと、思い直しました。で、考えました。 確かに、レッテルはそれで貼れたとしても、それはその内容を全く説明していない、と。 うーん、これも当たり前ではありますねえ。 たとえば、これはウィスキーです。これも、こちらも、あれも、別々の会社が製造したウィスキーです、と、決して間違ってはいないことを言っても、個々のウィスキーの一番大切な部分についてはなにも説明していないのと同じであります。 で、あれこれ考えまして、最後にたどり着いたのは、結局最初の問いの堂々巡りになりますが、私にとって本小説の一番好きな部分はどこだ、とぱらぱらと読み直すと、ふたつ、出てきました。 SBとの愛の生活・キャラウェイの話 じーと睨んで、そのあと私なりにまとめてみますと、結局のところ本書は、この二つの明らかな意味と構造のあるストーリーを、詩についての様々な逸話による説明と共に、多くのモザイクの中に紛れ込ませて描いたものである、と。 まずそのモザイクに描かれているものは、固有名詞と隠喩(「ギャング」は最大の隠喩でしょう)の氾濫・言葉の誤選択・文脈のすり替えなどであり、そして、中心にある二つの物語とは、みずみずしさと圧倒的な哀感の漂う物語らしい物語である、と。(そんな意味でいえば、高橋作品は「大きな物語」は否定しても、物語性そのものについては全く否定していないことがわかります。) さてこうまとめてみると、結局、高橋作品についてよく言われる特徴の読書報告になってしまいました。 しかし、本小説は、筆者のデビュー作であります。ということは、小説を書き出した時点から筆者はすでに、いつまでも色あせない、完成度の高い独創的なフォルムを持っていたということでありませんか。 やはりそれは、驚くべき才能でありましょう。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.01.11
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『しょっぱいドライブ』大道珠貴(文春文庫) 実は我が家の本棚の隅っこに隠れていた(隠れていたってことは、ないでしょうが)文庫本でありました。 手に取ってホコリを拭いて見てみますと、薄っぺらいし、さくっと一気に読んでみました。 で、読んだ後、なんとなく似た雰囲気の小説(本作もそうですが、芥川賞受賞の女性作家の小説)が浮かんだので、少し調べてみました。 本作(この文庫には3つの小説が収録されていますが、総タイトルとなった小説が芥川賞受賞作品です)は、2002年に芥川賞を受賞しています。 私が、よく似た雰囲気と思ったのは、津村記久子(2008年受賞)とか、本谷有希子(2015年受賞)とか、村田沙耶香(2016年受賞)なんですが、比べてみると大道珠貴が10年ほど先んじているのがわかりますね。 併せて気が付いたのですが、この大道珠貴の受賞あたりから女性作家の芥川賞受賞数がぐんぐん増えて来て、近年ではもう圧倒的女性優位になっているのではないですかね。 これは良い悪いの話ではないでしょうが、どんな世界においても、その世界で褒められる性に偏りがあるというのは、短期的にみれば、あまりよくないのかな、と。(短期的と書きましたが、改めて書くまでもなく、おそらくは文学においても、長い歴史スパンの中では圧倒的女性差別的期間があった事にちょっと触れているつもりであります。) で、「似た雰囲気」というのは、これも一時言われていた言葉のようですが「こじらせ女子」的な雰囲気のことで、脱力感、虚無感、自己肯定感の低さあたりを私は本作にも感じました。 ただ、主人公の描かれ方の底に流れているのはそういったネガティブなものであっても、例えば上記に並べた女性作家たちは、それらの感情や人間性を、小説に仕上げるにあたってきわめて達者に描いているという気がします。 だから読んでいて感情移入がしやすく、ユーモラスであったり、適度に癒されたりして、ほどほどの好感度が得られたりする、というのは少し意地悪な見方でありましょうか。 この度取り上げている短編集も、自分の年齢の倍以上も年上の男と同棲する30代の女性の話であったり、二十歳を越えてなお、小学校時代からの明かな主従関係の元に付き合ってきた同性女性(こちらが「主」)との話とか、ややまっとうではない(「まっとう」とは何かというのはそれはそれで難しくはあるのですが)、「こじらせ」系の主人公を描きながら、その描き方は、とてもテンポがよく、会話のやり取りなどを読んでいると、本当に達者だなあと感じさせるものです。 そんなふうに、本作は芥川賞「こじらせ女子」系作品の先達、とまとめることができるのかな、と思いました。 ただ、そんなことをぼんやりと、かつ、じっと考えていますと、やはり少し物足りない感じが残りました。 「こじらせ女子」系の話が、新しい作家の間に結果的に多く輩出されたということは、やはり時代を映していることでありましょう。 例えば、近代日本文学史のなかで、古くは「浪漫主義」「写実主義」などから「白樺派」「新感覚派」とか「第三の新人」「内向の世代」など、限られた時代に似通った作風の作家が現れるのは、やはり時代の要請と捉えることができると思います。 そんな意味で考えれば、芥川賞に女性作家の花盛りである現代というピリオドも、やはりそんな時代を表しているのだと思います。 ただ、私がどうも少し物足りなく思うのは、描かれる「こじらせ」人間関係の原因が、主人公(個人)の資質の枠からほとんど踏み出されていない感じがするところであります。だから、時代や社会の要請だとは思いつつ、そこに時代や社会を描く広がりが感じられない。 あるいはそれには、別の要素もあるのかもしれません。文学がもはや、時代や社会の諸問題と正面から有意に切り結ぶ力を失ってしまった、ということなのかもしれません。 ただ、そうだとすると、後に残るのは感性しかないのか、いや、そんなこともあるまいと思いつつ、せめてもう少し背筋をピッと伸ばして正面を見ているような主人公の姿や、それなりの大きさを持つテーマを、私などは読んでみたいと思うものではありますが……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.12.29
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『間違いだらけの文章教室』高橋源一郎(朝日文庫) さて、高橋源一郎氏であります。 現役の文学者の中で、私がとっても信頼している方のひとりであります。 そんな作家の文章教室を読むのですが、タイトルがもうすでにひとひねりもふたひねりもしていますね。でも私は最初はあまり気にしなかったです。だって高橋さんの本ですから。 そう思って読み始めたのですが、なんかだんだん、どうも読みづらく感じてきたんですね。引用がとても多くて、そこから筆者のいわんとしていることが、何といいますか、まどろっこしく感じられました。 このまどろっこしさは何だろうと少し考えてみましたが、感じたことをちょっと強めに表現しますと、あなたはひとり分かっているかもしれないが私にはまるで分からない……何だか「上から目線」的、……いえ、フェイヴァレットな高橋本ですから、この表現ほどには強くは感じてないのですが、しかし違和感的なものが残りました。 気になったのでちょっと止まって考えてみました。 ふたつ、思いつきました。 まず筆者が例として取り上げたその文章が、いかにも高橋氏が引用しそうな文章だということはわからないでもないですが、やはり一種「キワモノ」めいたものでないのか、ということです。 それは、遺書(かなり特殊な状況下の遺書)であったり、小説の一部(これもかなり特殊というか、極端に独創性の高い小説の一部)であったりしています。 それらを通して筆者が言いたいこととは私の二つ目の思いつきの内容なのですが、それは後述するとして、かなり特殊な文章を例示するにあたって、高橋氏自身は身を引きながなそれを放り投げたとでもいう感じがしました。 身を引くとは、これは一種「キワモノ」めいた文章を読者に提示する経過について、ひょっとしたら必要以上にへりくだった表現になってしまったんじゃないかということで、その書き方が、ややまだるっこしく、やや独善臭がして、そして結果としてやや「上から目線」的になったのではないかと、……まー、わたくしの愚考であります。 で、二つ目の思い付きですが、それは上記にも少し掠っていますが、いくつかの文章を取り上げて、それを通して筆者がどんなことを言いたがっているかということであります。 それはたぶん、人はなぜ文章を書くのか、ということでありましょう。 なるほど、いかにも高橋源一郎的でありますね。 物事の核心に、いきなり迫ってきています。 もちろん一番重要なのは、森羅万象あらゆる事柄において、その通りなのでありましょう。 しかし、どこか、肩透かしを食らったような気がします。 と、そこまで思って、はっと気づいたのが、冒頭に触れたタイトルについてでした。 少し極端な言い方をすると、この教室は文章教室ではなくて、文学教室なのではありませんか。なぜ書くかという問いは、文章の問いというよりも、遥かに文学の問いであります。 料理学校に習いに行ったら、化学式ばかりを教えられた、いえ、大切な体の栄養に関することですから、化学式を教えてどこが悪いといえばそうなのでしょうが、そんな難しいことはとにかく、仕事の上で必要な文章を書きたいだけですという人は、少し白けやしないかということであります。 というようなことを中盤あたりで考え考えしながら読んでいました。 でも、高橋氏といえば、おそらく今の日本の文学者の中でも一二を争うような「文学好き」な作家でありましょう。文章を論じて文学に入っていくのは必然、というか、私にとっても願うところであります。 そのようにしてタイトルのこだわりを外して読んでいきますと、やはり高橋氏であります。後半は、哀愁溢れる文学話になっていきました。 文章=文学テーマについて、筆者の主張は短くまとめると下記の引用にほぼつきます。 鶴見俊輔の文章を引用し、その解説のまとめあたりの部分です。 鶴見さんの「文章」を読んでわかることは、「文章」というものが、そもそも「教室」というものから、教えたり、教わったりすることから、かけ慣れていることだ。「それを知れば、十年は使える」やり方が、「文章」にあるなら、ぼくたちは教わりたい。ぼくも、教えたい。 けれど、そんなものは、ないのである。 この後ももう少し重ねて説明をし、そして2頁ほど後ろに、このようにまとめてあります。 その時、ぼくたちは、気づくのである。 そこに、鶴見俊輔という、ひとりの、誠実な人間の「人生」、その「物語」があり、ぼくたちは、「文章」を通じて、それを読んでいたのだ、と。 いかがでしょう。 やはりいかにも「文学マニア」高橋源一郎的ではありませんか。 「弘法筆を選ばず」とは、いろいろ問題を含んだことわざだとどこかで読んだ気がしますが、すぐれた文学者は形式・内容、何を語っても、やはり優れた文学性を表す、と、……いえ、そもそも私は高橋氏の本のファンでありますから。 この読書報告も、今はやりの言葉でいえば、「推し活」(!?) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.12.14
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『苦役列車』西村賢太(新潮文庫) えー、困った事やねー、と思いながら書き始めました。 それは、まー、何についても同じでしょうが、小説についても(作家についても、と言ってもいいかもしれません)、やはり相性、好き嫌いというものがあるということですね。 そんなことは当たり前ではないか、どうしようもないことだと、わたくしも一応は知っているつもりで、この拙ブログにおいても、どうにも個人感情によるネガティブ意見しか書けそうもないと思ったときは、その小説は取り上げないでいました。 今回、好みでないと思いつつ、冒頭の小説を取り上げてみます。 なぜかというと、自分でよくわからないところがあるからであります。そのことについて少し考えたいというのが、主旨でありますが、勢い感情的なネガティブ意見になってしまったなら、非常に申し訳なく思っております、が……。 というわけで、冒頭の小説を読みました。この作家の小説は初めて読むんですね。 そもそも初めて読むと、ちょっといろんなところで誤解を生みそうな書き方を、そもそもこの作家はしていそうだと、読んでいて気が付きましたし、ネットでちょっと調べてみても、やはり同種の感想がありました。 まー、小説とは何をどう書いてもいい文章表現なので、そんな戦略(作品がすべて連作的な関係を持つという戦略)の作家がいてもそれは良い悪いの話ではありません。(大江健三郎の作品なんかずばりそうですものね。) そんな部分もあるんだろうなとは思いつつ読んだのですが、私がどうにもいやだったのは、その文体(文体、というのでしょうかね、やはり)というか、書き方でありました。 はっきりきわめて個人的感情のレベルのことを書けば、とにかく文章がいや、読みにくいのではなくて、こんな文章は読んでいたくない、というものでありました。(客観性に欠け説得力のない書き方になってしまってすみません。) 何といいますか、私としては、しばしば出てくる陳腐な慣用表現や、文脈の中にとても座りの悪い用語(特に漢字熟語)などが、気になって気になって、とにかく嫌だったです。 で、あまりに「嫌さ」が感じられるものだから、なぜ私はこんなに嫌なんだろうかと思ったんですね。すると、ここにはなかなか興味深いものがあるんじゃないかと感じ、ネガティブ感想になるかなと思いながら書いてみました。 まず、主人公は中卒学歴の19歳の男性なんですね。時代は昭和の終わり頃ですか。 これらは筆者の実際と重なっています。と、いうか、この筆者は自分の小説は私小説であると宣言し、一種それを売りにしているようであります。 だから、中卒学歴の19歳の書いた文章なのだから、というところでわざとそんな稚拙な書き方をしているのかとは、当然考えられるのですが、そのあたりをじっと考えますと、わたくしとしては、なかなか興味深いテーマが浮かんできました。 まず、文章力などとてもありそうもない主人公を描いた作品は、わざと下手に書くのか、という問題であります。 その前に、「人称」の問題がありますが、それは後述します。本小説についていえば、人称の問題は、なかなか興味深い用いられ方がされていますから。 具体的に例を挙げてみますね。 例えば芥川龍之介「藪の中」。この小説は何人かの登場人物の弁明(語り)から成り立っていますが、その中の一人殺人者である盗賊の語りは、きわめて理路整然と描かれています。つまり、現実ではあり得ないだろうかということでも、文章表現という場合においては、その形こそがリアリティだと、我々は読んでいることがわかります。(中卒学歴の19才だから下手くそに書けばいいとはいえない。) 例えば絵画でいうならば、色彩的センスのない人物を描くときでも(まー、そんな人物を描く絵画があるとしてですが)、画家は、しっかりとした色彩でその人物を描くべきなのではないか、ということですね。 少し話は飛ぶかもしれませんが、逆の照明を当てて考えてみて、こんな例示が浮かびました。『徒然草』第85段に、有名なこんな文章があります。 狂人の真似とて大路を走らば、すなはち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。 いかがでしょう。 少し例示がずれているような気もしますが、拙いふりをして拙く書いた文章は拙い、……んでしょうかね。 さて、上記に「人称」について少し触れました。 二つ目の私の疑問は、本作の人称についてであります。 本作は「私小説」を自任しつつ、実は、三人称で書かれています。 主人公の名前は「北町寛太」で、「寛太」「彼」で一貫した完全な三人称小説です。(ただし、ある種の三人称小説にしばしば見受けられますが、三人称でありながら、神の視点を持つ語り手がいるのではなく、主人公の視点に近い心理説明などがなされます。) 私小説でも別に三人称でも構わないと思います。 ただ、三人称ということは、中卒学歴19歳の主人公とはやはり異なった視点の語り手(これは作者と完全に重なるというわけではありません)がいるわけで、この「人物」の書く文章まで稚拙にする必要が、あるのでしょうか。(どうしても稚拙にしたければなぜ一人称で書かないのでしょう。) ……と、ここまで書きましたが、私は一方で、実は作者はそんなことは皆お見通しで、その上にやはりこの形で本作を書いたのだという気もしています。その根拠は何か。 まず一つ目は、現代という時代に私小説を書くという戦略であります。 現代において、一般的にはすでに私小説なぞ息の根が止まっているという感じがまず前提にあって、にもかかわらず何人かの作家は私小説を書いています。そしてそんな作家の作品は、ことごとく、かなり技巧を凝らした私小説であると私は思っているからであります。 そして最後に二つ目です。 それは、いくつかの不明の要素があっても、本作の主人公の、生殺し・生き腐れのようなカタストロフィーを書くため、見つめ続けるためには、やはりこの描き方こそがベスト!……と考えるものなんですが……。 だとすれば、本作はなかなかの問題作、力作でありましょう。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.12.01
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『日の砦』黒井千次(講談社文庫) まず、タイトルが、純文学っぽいではありませんか。 『日の砦』ですよ。何の意味なんでしょうね。雰囲気はいかにもありますが、具体的には何を表しているのかよくわかりません。 加えて、筆者が、いわゆる「内向の世代」と文学史的には派閥分けされる黒井千次であります。「内向」していく「世代」なんですね。 この筆者の作品は、私はそんなにたくさん読んだわけではありませんが、『群棲』という連作形式の短編集に、かつてかなり感心した覚えがありす。 今回の本も、この文庫本の裏表紙の作品紹介(作品宣伝)の文章を読むと、こんな風に紹介してあります。 家族の穏やかな日常にしのびよる、言いしれぬ不安の影を精緻に描き出した連作短編集 なかなか煽った文章ですね。 その上、冒頭に触れたようにわけわからぬながらいかにも純文学っぽい『日の砦』タイトルですから、これはもー、きっと『群棲』の感動再びの小説ではないか、と。 まー、そんな風に思って私は読み始めたのでありました。 全話をほぼ20頁ほどに統一した10篇の話による連作短編集です。 私は、一つ目の「祝いの夜」を読みました。 おもしろかったですねー。とても良かったです。 一つの物語空間が始まろうとしている描写が、ゆっくりしっとりと展開され、そしてそこに予想通り(作品宣伝文の紹介通り)、「しのびよる」「不安の影」らしいものの存在が、終盤ふっと現れてさっと消えていきました。そこには、いかにもという雰囲気がありました。 そして私は、二作目、三作目と読んでいきました。 悪くはなかったです。でも読み進めていくと、まー、当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが、やはり『群棲』のずっしりと重い存在論的な不安感とは違った感覚でありました。 10篇のうち、前半は、素材が少し薄味に過ぎるせいかなと、私は思いました。 作品のまとまった余韻というには、やはり描かれていることが微細すぎて、受ける思いが弱く、固まってこないように感じました。 ところが、そんな感覚の話が、六つ目あたりから少し変わってくるんですね。 どこが変わってくるかといえば、それは、還暦を過ぎ定年退職をした主人公の男性が、実際にいろいろ動き出すことからであります。 それは例えば、町で見ず知らずの男の後をつけてあれこれ世話をしようとしたり、カラスと戦闘状態に入ったり、とにかく、知人でもない人物とやたらに話をする(話しかけたり話しかけられたりする)、そんな展開になっていきます。 そのように変わっていくと、話のトーンもやはり大きく変わっていきます。 私は、主人公の変貌に、思わずこれではおせっかいな男の滑稽話じゃないかと独り言ちてしまいました。 私はそう思って、第一話「祝いの夜」の主人公の姿はどこへ行ったのだろうと、もう一度パラパラと第一話を読み直してみると、あ、と気が付きました。 第一話は、夜に家族でタクシーに乗り、その運転手と少し不気味なやり取りをするという話ですが、その運転手の不気味なセリフを引き出したのはことごとく、の還暦すぎの主人公の、あらずもがなの一言ではありませんか。……。 ……んー、とわたくし少し考えたんですね。 で、勘違いしていたことに気が付きました。 私は、『日の砦』という(純文学的)タイトル、内向の作家という筆者の位置づけ、そして、この文庫本の裏表紙の作品紹介宣伝文に勘違いしていたのであります。 おそらく、本短編集で筆者が狙ったのは、同じ「不安」ではあっても、人間存在そのものに繋がってくるような不安ではなくて、むしろ世俗的な日常生活に次々起こる些細な「トラブル」を、煩わしく思い戸惑う姿を描いたのではなかったか、と。 例えば、存在論的不安や恐怖を描いて、日本文学における第一人者は、多分内田百閒だろうと思います。また、家族間の日常にしのびよるやはり不安を描いて名作であるのは川端康成の『山の音』(これも連作短編!)だと思います。 この度の本作は、(作品完成度比較は少し置くとして、)これらの作品とはまた少し異なった新しい時代の日々の「不安の影」なのかもしれません。 だとすると、本文庫裏表紙の作品紹介文章は、さほど不正解なことを読者に期待させているわけでもなさそうであります。 (ただし、家族を描きながら、家族間の心情の食い違いについて、ほとんど触れられていないのは、やはり「不安」の中心に踏み込めていないのではないかという気は、わたくし少しするのでありましたが。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.11.17
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『ワーカーズ・ダイジェスト』津村記久子(集英社文庫) 「ワーカーズ・ダイジェスト」って、どんな意味なんでしょう? そう思って、少しネットで調べると「ワーカーズ」はともかく、「ダイジェスト」について、「要約」「摘要」「梗概」などの日本語が出てきます。 大概外国語のセンスのない私ですが、それなら、「勤労者というもの」「典型労働者」……うーん、本当に翻訳のセンスがないですねぇ。 とか思いながら読み始めたのですが、読みながら次に思ったのは、そもそもこのお話はいったいどんな読者層が読むお話なんだろう、という事でした。 まー、そんなことを思うという事は、おのれはちょっと中心読者層から外れてるんじゃないかと感じているってことですかね。 まー、そうかもしれません。 20代後半から30代くらいの都会で勤める女性、あたりが主な読者層ですかね。 (ついでの話ですが、30代位の女性というのが現在一番小説本などを購入するのだと何かで読んだような気がします。) なぜそんなことが言えるのか。 主人公がそうである(半分は同年代の男性主人公の話ですが)というのを前提にしつつ、(1)食べ物の話が多い、(2)大きな事件は起こらない、そして(3)エンディングの緩い肯定感、あたりでどうでしょう。 最後の、緩い肯定感というのは何なのか、例えば本文ではこんな感じで書かれています。 来年は、彼らも私も、もう少しだけましになるだろうと、奈加子は形式的に思いながら、二つの鍋の火を止める。あとは少しずつ回復できればいいと思う。それまでのレベルに達することができなくても、それを受け入れられるようにはなるだろう。そしてその時その時のベストを尽くせるように、後悔のないように、心持ちを整えられるようになるだろう。 そして、半ページくらい後にこんな一文があります。 音楽が鳴り始める。何の根拠もないけれど、自分は自由だと感じた。 いかがでしょう。 この個所を読んだ、想像最大多数年代層読者はきっと、圧倒的な共感と健全な小さな明日への希望を胸に抱く、と。 ……えー、ちょっとなんか変な展開になってきたので、少し別の方面のことを書いてみます。 特に前半あたりを読みながらわたくし、そうだったんだと気づいたことがありました。 これは、上記の、中心読者層の圧倒的共感とも関係することなんでしょうが、この筆者の文体は、「村上春樹的読者殺しキメ文体」(今思いついて作った造語です。すみません)ではないか、と。 特に初期の村上春樹は、マニアをとろけさせるようなエピグラム的文体、それは対象を説明する時の斬新な切り口と、それを文字化する時の圧倒的な比喩力が、本当に作品の随所に散らばっていました。 ひとつ、デビュー作『風の歌を聴け』から抜いてみますね。 かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。 高校の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることができない人間になっていることを発見した。 それがクールさとどう関係しているのかは僕にはわからない。しかし年じゅう霜取りをしなければならない古い冷蔵庫をクールと呼び得るなら、僕だってそうだ。 次に、本書から引用してみます。 せっちゃんは十か月ほど前に、三年付き合った人と別れた。いい人だったけれども、賭け事が本当に好きで気前が良すぎる人だったからだそうだ。三年間、彼の預金残高が五千円を越すことはなかったのだという。せっちゃんはお金を貸しそうになってしまい、でもそれは駄目だと思って別れたのだそうだ。その前の彼氏は、働かない人だった。 いかがですか。 とてもよく似ていますね。どちらも、「キメ台詞」「殺し文句」という感じで、私はとっても好きです。この津村節も、きっと30代都市勤労女性の好むところだと思うんですがね。 で、さて、そんな文体で、筆者は何を描こうとしたのか。 例えば村上春樹『風の歌を聴け』なら、ざっくり人間存在の根源的孤独なのかもしれません。 津村記久子なら、何でしょう。あえて言えば、労働現場の人間不在、でしょうか。 ただ本書は、上記で私があれこれ思ったように、対象読者層をかなり絞った感じがあるせいで、かなり限定的な環境の人物の生きづらさといったものが、より前面に出ている気がします。 もちろんそれは、全く悪いことではありません。 それこそは、現在最もたくさん小説本を購入する読者層の、おそらくは最も好まれるテーマであるのでしょうから。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.11.03
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『琉球処分・上下』大城立裕(講談社文庫) タイトルに「琉球処分」とありますが、この語は本小説独自のものではなく、歴史用語であるようです。例えばネットの本屋さんで検索しますと、この単語をタイトルに用いたたくさんの書籍が現れます。 本書の下巻(上下巻で1000ページにも及ぶ長編小説)解説に、こう書かれています。 金城正篤氏(琉球大学名誉教授)は、琉球処分について、〈明治政府のもとで沖縄が日本国家の中に強行的に組み込まれる一連の政治過程をいう。〉と定義する。 明治維新後の廃藩置県において、なぜ琉球だけがやや別藩と異なった対応となったのかについては、まず、琉球がそこに至るまで長く独立した別国家であったという点が一つ、もう一つは本書の筆者による「あとがき」にこう触れられています。 琉球=沖縄が、日本にとって国内軍事植民地としての重要な価値を持っていて(略) この今に至るまで沖縄を「軍事拠点」(本文中用語)と見る視点に対する危惧は、同じく本文中には作品中の時間設定として、このようにも描かれています。 いずれ日本政府が、これまでの中国より以上に恩恵をたまわるといっても、なにか、にわかには信じがたい。いや、恩恵そのものは確かにあるかもしれないが、信に琉球の人民をいつくしむ志をもってのことであるかどうか。 上記に私は、「琉球がそこに至るまで長く独立した別国家であった」と書きました。 もちろん、そのような現実の歴史的経過をどう考えるべきなのかは、本作品の極めて重要なテーマではあるのですが、同時にそれが「別国家」であったことの記述が、本書の小説としての面白さの核になっています。 そんな「別国家」の特質を、筆者は、本作の各章のタイトルにとても巧妙に表しています。たとえば、 「ぼんやり王国」「外交だらけの国」「ただふしぎな蒙昧」…… 特に私が興味深かったのは「外交だらけの国」という表現で、例えばこんな個所があります。琉球国王に家臣が進言する部分です。 古来わが国は外国に向かっては、頼り、こいねがうだけが道。薩摩だけにはそれも利きめがありませんでしたが、中国はいつでもそれを聞き届けてくださいましたし、日本政府もどうやら、大きなことを言うだけに島津よりはいくらか御しやすいものと思われます。ここまで引き延ばしてきたのですから、あと一息で我を折るに違いありません。そうすれば、おのづからまた活路はひらけるというもの。 この対応の巧妙さは、本書において再三触れられているのですが、それに対する当時の日本側対応人物の視点では、例えばこんなふうに描かれます。 (略)けれども、琉球の使節にはそれがあるとは思えない。あの表情にはひとかけらの偽りも感じられないが、真実自信のない表情にみちみちているのだ。すると、自信のないねばり強さなるものが世のなかにあるのだろうか。大久保は、たぶんはじめてそのような人生を目の前に見て、とまどってしまったのであろう。 大陸的な充実した強さではないのだよ。あくまでも島国の――貧乏な島国のものだ。なんにももたない空しさだけだ。決してかれら自体が強いのではない。が、あの空しさを見て、ぼくらが薄気味の悪さを感じとるだけなのだ。口がせまくて底の深い古井戸のようにね。 引用終盤に古井戸のような薄気味悪さとありますが、それは日本側人物の心情としては「近代的政治感覚が琉球にだけは全然通じない」という表現になり、さらには内務卿・大久保利通のセリフとしてこのように描かれます。 「一体、われわれは琉球を支配しえているのだろうか、松田君」 実は本書は、冒頭に触れたように、文庫本上下巻1000頁にも及ぶ物語でありますので、最初はかなり内容がつかみにくく(「事件(政治過程)」が主題の作品であることで、読者が感情移入しやすい主人公が表面に出てこないせいでもあります)、少し読みにくくあるのですが、上記のような対立構造がわかってくるあたりから、その双方の食い違いが無限ループのように繰り返され、えんえん下巻終盤まで、その構図が続きます。 私は、この小説の文学的成果(小説的面白さ)はここにあると思います。(1000頁もあることの意味も。) あるいは、こんな読み方はあまりに偏っているんじゃないかという気もしないではありませんが、小説が小説であって「大説」ではない面白さ素晴らしさとは、そんな部分を決して見落とさないことではないかと、……まー、少々ひねくれものを自任する私は、考えるのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.10.20
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『雪の練習生』多和田葉子(新潮文庫) 多和田葉子といえば今は飛ぶ鳥を落とす勢い、というのは、わたくし、自分で書いておきながら何を書いているのかよくわかりません―。どうもごめんなさい。 ガセネタっぽい話そのものでありますが、ちらっとだけ「解説」(「解説」ってなんやねん)いたしますと、失礼ながら、誠に失礼ながら、村上春樹はノーベル文学賞候補者としての「賞味期限」が切れたんでないか、という事であり……すみませんすみません、まことにすみません。 ……とにかくそんなこんなで、多和田葉子です。 わたくし、本書を古本屋さんで見つけまして、裏表紙の「宣伝文」を読みますと、野間文芸賞受賞作とありまして、わたくしは、あれ、と、ふーん、の真ん中くらいの感想を持ちました。 あれ、と、ふーん、の真ん中というのもまた、説明のしづらい感想なんですが、簡単に言うと、もう、かなり前になってしまいましたが、同筆者の『献灯使』という小説を読みまして、そして、その小説がアメリカで割と大きな賞を受賞したということで、かなり話題になっていたと思います。 で、今回の本書が、野間文芸賞受賞で、ふーん、多和田氏がまた名作を書いたのか、あれ、でもこの作品は話題にはあまりなっていないんじゃないか、という感想が、まー、一応、あれ、と、ふーん、であります。重ねてすみません。 で、読んでみました。三部構成の小説なんですね。 読み始めてしばらくして、……来ましたねー、がんがん、来ましたねー。 もう、飛ぶ鳥を落とす勢い! ごめんなさい、村上春樹ぶっちぎり! ……と、思ったんですね。 これは凄い小説じゃないかと、読んでいてドキドキするように思ったのであります。 小説でなければ表せないものを、物語世界を、縦横無尽に天衣無縫に飛び回っているような小説でした。高速走法、オーバードライブ、なんて言葉が浮かんだりしました。 で、第2部に入って、展開について、人間社会、あるいはヨーロッパ近代史に対するシニカルな批評めいたものがかなりストーリーの前面に出てきつつあるように感じました。 もちろんそれ自体が悪いわけではありません、しかし、その展開の変化に対して私がふと感じた違和感は、あの第1部の天翔けるような自由さドライブ感はどこへ行ったのだ、というようなものであったでしょうか。 そして、話は第3部に進んでいきました。 ……なんでしょうか、私としては、これは別のお話になってしまってはいないか、と。 ……うーん、よーわからん。 で、ふと、わたくし、思い出したのですが、本ブログにも何回か多和田氏の作品の報告を書いていますが、どれも、今一つよくわからないというものではなかったか、と。 特にわたくし的には、終盤に失速感を覚えるというような感想ではなかったか、と。 で、ちらちらと、自分の書いたブログの文章を読み直してみたんですね。 やはり、そんなことが書かれてありました。『献灯使』なんて、未完じゃないのかなんて失礼なことが書かれてあります。 『犬婿入り』も、思い出してきたのですが、その終盤の展開にあっけにとられた記憶があります。で、あまりに何だかわからなかったので、ちょっとネットで調べてみたら、芥川賞受賞時の各選考委員の感想の中で、河野多恵子が「最後の部分が文学的誠実さを失ってしまっている」と述べていたのを読んで、少し納得したのを思い出しました。 ……しかし、これは何なんでしょうね。 「お前の読み違えだ」と指摘をいただいたなら、そうかもしれないなあと思いもしたでしょうが、よくわからないのでぐずぐずあれこれ考えたりします。 例えば、この筆者は物語の発想力にずば抜けたところはありながらも、飽きっぽい性格で、書いていていやになっちゃうんじゃないか、とか。 あるいは、こんなこともわたくし考えたのですが。 本作は三部構成で、各部の長さは文庫で100頁にほぼ統一してあります。三代にわたるホッキョクグマの伝記という形になっていますが、これ、分量まで統一する必要はあったのか、とか。 もうひとつ、私としては、割といいアイデアだと思うのですが、1から3部の順番を全く逆にしてはいけないのか。そうすれば、ストーリーは後になればなるほど、どんどん盛り上がっていくんじゃないか、とか。 ……いえ、まるでふざけてばかりいるわけではありません。 そんな風にあれやこれや考えるほど、私にとっては第一部は素晴らしく、それだけに、私としては後の部分が十分納得がいかず、と。 やはり、多和田作品とは、わたくし微妙に御縁がないのかもしれませんねえ……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.10.06
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『箱男』安部公房(新潮社) 安部公房『箱男』、多分4回目の挑戦読書であります。 4回以上読んだ小説も他にないわけではありませんが、でもわたくしとしては、やはり例外的であるのは間違いないと思います。 ではなぜ、4回目の読書挑戦になったかといいますと、それはわたくしのもう一つの拙ブログで報告させていただいております。(ちゃっかり宣伝) 安部公房原作『箱男』の映画を見たんですね。 見る前に読んでおこうかな読まないでおこうかなと少し迷い、結局読まずに見ようと思いました。その理由は二つあります。 一つ目は、原作の内容をほとんど覚えていないほうが、映画が面白く感じられるんじゃないかということです。これは、よく言われることですよね。「映画化は失敗だ」なんて言われる原作付きのケースは、観客が、すでに原作から受けていた印象から自由になれないからでしょうかね、だから、映画を見るにあたっては原作はほとんど忘れているほうがいい、と。 で、もう一つ、私の場合は理由があるんですね。 それは、今まで3度『箱男』を読んで、はっきり言って自分のような軟弱な頭では理解しきれないと、今まで感じていたんですね。 だからこのまま4回目を読んでも同じだろう。むしろ、先に映画を見て、そこから何かヒントを得て原作に当たれば、何か新しい理解を得ることが出来るんじゃないか、と。(ここまで書いてきて、わたくし、健気なほどに論理的ですねと自画自賛!?) で、読んだわけです。4回目読書。 やはり、映画を先に見たのは、いろいろヒントになったように思います。 映像化されたイメージを頭において文章を追うと、文字表現だけでは自分の理解に自信があまりなかったようなところについて、やはりこの読みでよかったんだ、などと思ったりもしました。 で、どのように思ったかといえば、これは別の拙ブログでも触れましたが、やはり「箱男」というのは、ひとつの状況のネーミングではないかという事でありました。 登場人物の手記という形をとっているので当然ともいえますが、その人物の主観による状況の説明・考察・感想などがほぼ作品全体を占めていることや、今まで読んでいた時はよくわからなかった「貝殻草の話」「Dの場合」そして「ショパン」の話なども(映画では取り上げられていませんでしたが)、比喩または寓話による「箱男」的状況の説明と捉えることが出来るように思えました。 「状況」と書きましたが、プロットの中心となる筋は、ないではありません。ただ、その筋は、途中から執筆記録状況自体を主題とするメタフィクションのような展開になっていき、一本の筋は拡散していったように思います。 併せて、それを書く描写は、迷宮のようになりながらも、やはり一人称の説明・考察・感想による展開で、それは「状況の説明」から離れてはいないと思いました。 そしてやはり、「状況」こそが中心なのだと読めば、作品の冒頭と終末が、共にシンプルな箱の作り方解説になっているのも、きわめて象徴的だと私はひとつ納得をしました。 ……と、あれこれこね回したようになりましたが、しかし、私が読んでいる最中ずっと感じていたのは、実は重苦しさでした。 もちろんこの重苦しさには、内容を伴った意味があるのでしょうが、しかし、それにしても何とも重苦しい。 で、ふと考えたのですが、今まで3回読んできて、やはり毎回重苦しかったはずだ、なのになぜ3回も私は読んだのか。 一番に浮かぶのは、安部公房独特の、跳躍距離の長い乾いた比喩表現であります。 例えばこんなところ。 不快なしびれが、口のまわりに輪をつくる。夢の中の駆け足。 ぼくは空気銃男が消えた後の、無人の坂道を眺めながら、こわれた水道の蛇口のような湿っぽい気分になっていた。 或いはこんな部分は、比喩ではなく、安部公房の独壇場のシニカルの論理展開なのかもしれません。 裸と肉体は違う。裸は肉体を材料に、眼という指でこね上げられた作品なのだ。肉体は彼女のものであっても、裸の所有権については、ぼくだって指をくわえて引退るつもりはない。 もっとも、彼女について、まだ批評がましい意見を述べられるほど知っているわけでもない。しかし、右眼にとって、左眼についての知識が、なんの役に立つだろう。肝心なのは、とくに意識しなくても一つのものを注目することが出来、ごく自然に関心を共有し合える信頼なのである。 ……うーん、こういう風に引用をしていきますと、安部公房の逆説的文章というものが、重苦しさを伴いながらも、いかに強靭な魅力的構造を持っているかつくづくわかる気がします。 そして、実はわたくし、書き写していてもう一つ、ふっと連想したことがありました。 それは、確かに描かれている細部の展開は、砂を噛んでいるようにざらついて、いわば少しも魅力を感じません。まるで無機質のようです。 で、ここで私はふと思ったのですが、無機質の魅力って……。 そういえば、安部公房の芥川賞受賞作『壁』にも、無機質の魅力や、無機質が大いに称讃されていました。 で、さらに私の連想はここでまた跳んで行ってしまったんですね。 ひょっとして、無機質の魅力は、鉱物の魅力につながってはいないか、と。 そして、我が国の鉱物的文学の第一人者といえば……。 私は実は、安部公房氏がその作家が好きなことを知っているんですね。 だって、(もうお亡くなりになられましたが)一粒種の娘さんの名前が「ねり」さんですもの。 ……『グスコーブドリの伝記』。 ……宮沢賢治。 ははあ、これは、魅力的なのも当たり前だわ……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.09.22
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『草すべり』南木佳士(文春文庫) 少し前にこの本の筆者の『阿弥陀堂だより』という長編小説を読みました。(本ブログでも報告しています。) 割と面白かったので、古本屋で本書を見つけた時に、ほぼ迷わず買ったんですね。 4作の小説が収録されている短編集ですが、あの長編小説によく似たテイストだろうと少し期待したんですね。 いえ、よく似たテイストといえば、確かにそうも言えるのですが、その長編小説と大きく異なっているのは、本短編集が一種の連作仕立てになっていて、それがすべて「山岳小説」となっているところでした。 「山岳小説」――山登りをテーマにした小説があることは私も何となく知っていましたが、ネットで少し調べてみると、明らかに大きな小説の一ジャンルであること、例えば、推理小説とかSF小説とか企業小説とか恋愛小説とかと同じ一ジャンルであることを、恥ずかしながらわたくし、始めて知りました。 ついでに少しさらに調べたんですね。ネットにあった「山岳小説ベスト100」とかを見ました。 すると、えらいもので、私は全く一冊も読んでいないことがわかりました。(山岳小説がわからないわけだな、と。)ついでにこのジャンルの小説家で、名前だけでも知っていた作家は、新田次郎だけでした。(私は寡聞にして、新田次郎を一冊も読んでいません。) ……あー、世間は広いものだなーと、反省を絡めつつ感じたのですが、そんなわけで、今回の読書は、奇しくもわたくしの山岳小説読書初めになりました。 で、読みました。 今「山岳小説」と書いたところでありますが、そこに描かれている主テーマは『阿弥陀堂だより』と同様、医師である主人公が見つめる病や生と死であります。 それはまー、当たり前といえば当たり前なのですが、本ブログで主な読書対象としている「純文学」やその周辺の小説群は、突き詰めていけば「人間とは」というものがテーマとなっています。いわば本書は、それに山登り描写が絡められて描かれている、というわけですね。 でもやはり、いかんせん、山岳小説初体験のわたくしとしては、山登りを書いた描写のどこが面白くどこが凄いのかが(全くとは言いませんが)よくわかりませんでした。 ただそんな素人目で見ても、本書の描写がかなり控えめに描かれていることはきっと確かで、これは、ははん、山登りではあるけれども、それを特別なイベントとして捉えるのではなく、日常(医師としての苦悩の日常)の延長としての位置づけをにじませながら描いているのだなと感じました。 例えばこんな部分はその最も典型的な部分ですが、初老の主人公が、久しぶりに会った高校時代の女友達と一緒に、かなりハードな登山をしている場面です。(途中休憩のシーンです。) アルミホイルにくるんできたキュウリの浅漬けを差し出したら、沙絵ちゃんは二切れ取って、気持ちのよい音を立てて食べてくれた。 頭上を雲が走る。深い青空、雲、深い青空、雲。 ありがとう。 沙絵ちゃんが空になったコップを返してきた。おにぎりを二つ食べてようやく空腹感は消えた。(「草すべり」) ……実はこの短編小説には、セリフのひとえカギ(「 」)がなく、前後一行行明けで書かれているんですね。その狙いはよくわからなかったのですが、この個所なんかは見事にそれが効果的になっていますね。 展開から読むと「ありがとう」は間違いなく沙絵ちゃんのセリフでしょうが、この「ありがとう」の手前までを順に読んでいくと、「ありがとう」は、主人公の、山岳自然に対する感謝の一語のように読めます。(「深い青空、雲」の繰り返しがあったりして、私はそう読みました。) 私はふと連想したのですが、こういった日常生活の地味な一コマを、研ぎ澄まされたような工夫と文章でさりげなく読ませるというのは、まさに日本文学の、「私小説」の伝統ではないのかと。(そういえばと、私は、小津安二郎の映画もちらりと連想しました。) 様々な苦悩、それも結局のところ、生きること自体がその原因であるような苦悩を描く小説というのは、まさに文学の本道であります。 数知れない文学者かそれに取り組んでいき、そして、様々な出口を発見することが出来たりできなかった物語を作品として記録してきました。 この度の一連の山岳小説群は、いわば「山岳信仰」などにはすぐに結びつくことはない、ひとつの小さな記録の小説なのかもしれません。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.09.10
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『晩鐘・上下』佐藤愛子(文春文庫) 実は本書を読んだきっかけは極めて単純な話であります。 筆者の書いたエッセイを原作とした映画を先日見たからですね。 基本的にエンタメの映画ですから、むずかしいことはあれこれ言わず、なかなか楽しい映画でした。で、本書のことを思い出した、ということですね。 思い出したというのは、これは1年ほども前ですか、この上下2巻の本書を私は買ったんですね。佐藤愛子という作家については、世間に好評であったエッセイは今まで何冊か読んでいたものの、小説については全く読んでいず、ただ、佐藤紅録の娘であり、サトウハチローの妹であるとかは知っていて、それに加えてこれも少し前に、田辺聖子の本を読んだときになんとなく比べて興味を抱いた(例えば佐藤愛子は芥川賞の候補にもなりながら直木賞を受賞し、芥川賞を受賞した田辺聖子は、本当は私は直木賞が欲しかったといって、その後も一時、直木賞の選考委員をしていたなどのこと)のでありました。 で、この度、よいきっかけだと思って読みました。 とっても面白かったですね。その理由は、主に二つ。 ひとつは、筆者が90歳になろうとしているということ。それは作品内容とは直接関係ないじゃないかとは思われそうですが、読みながらもその意識は絶えず頭の中にあって、私はやはりこれは一種の天才作家による作品としか思えませんでした。 そしてもう一つは、これも直接は作品内容とは関係ないのかもしれませんが、私が久しぶりに上下500ページ以上の長編小説を読んだという事でありました。 このことは何と言っても長編小説読書の醍醐味で、特に本書のように一人の人物の波乱万丈な半生を描いた作品を読むと、読者もその人生をそのまま追体験したような気持になって、読了後、何と言いますか、とっても大きな「達成感」が生まれるように思います。(それこそを「感動」と呼ぶのかもしれません。) ということで、なかなか充実した読書体験だったのですが、読み終えてわたくし、つい、分析したく思ってしまうんですね、いわばこの「感動」を。 分析したところでわたくしのアバウトな頭づくりでは大した理屈は得られないのですが、まー、少し考えてみました。こんなことです。 本小説は以下の二つのパートから成り立っています。それを仮にA部B部とします。 A部→三人称で描かれる女性主人公の20歳前後からの半生記述。 B部→老境の女性主人公が綴る形の書簡形式(一人称)記述。 まずB部について触れますが、おそらくここが、筆者が工夫したところだと思います。なぜこんなパートを必要としたかについて、その狙いを考えてみました。 このB部は、すでに功成り名を遂げた女性作家が、おそらくは90歳近くになって、もうすでに亡くなって久しい文学上の先生(師)に向かって手紙を書くという形です。手紙の内容は、本小説のもう一人の重要な登場人物である主人公の夫との波乱万丈の半生の出来事を思い出して綴るというものです。 この形を取ることで、主人公の内面(感情)がとても深く書き込まれ、ひいてはそれが読者に、主人公への強い感情移入を生み出させる効果を持つと思われます。 そして、その内面描写にある種の客観性を保証するのがA部であります。 三人称描写のA部は、様々な登場人物の行為はもちろんその内面までが描かれ、それが主人公女性の言動に対する批判などを描くことを可能にし、作品内容の客観性・重層性を保証しています。 しかし読んでいると、B部の存在は、私にとって微妙に違和感をもたらすんですね。 なぜ、すでに亡くなって30年近くにもなっている文学上の師に突然手紙を書き始め、そして次々と長々と書き続けるのか、そのあたりのリアリティの保証は、私にとってはあまりありませんでした。 ただ、筆者がこの部分を必要としたであろう理由については、いくつか考え付きました。 それはすでに亡くなって久しい文学上の師と設定することで、 (1)同じく小説家志望であった夫のかつての作品に対する、主人公の評価と共感が描けること。 (2)亡くなった相手を宛先とすることで、現世的な人間関係の「めんどくささ」に及ばずに済むこと。(文中には生きている作家間の人間関係の「めんどくささ」は十分に描かれています。) さて、そんな風に私は、本書の構成を考えたのですが、別の書き方でまとめますと、A部で描写し、B部で説明する、といえましょうか。 ただ、これは私の感覚的なものかもしれませんが、筆者にとってA・B部の比重は同じではなく、B部に少し重心は傾いているのではないか、と。 言い換えれば、B部で思いのままに主人公の主観性を描きたいために、A部ではB部の主観の相対化をはかった描写をする、と。 なるほど、500ページに及ぶ作品を読者に読み通させる技術、とそれはいえないでもない筆者のテクニックであります。90歳を迎えんとした筆者の、老いてなお研ぎ澄まされた恐るべき才能でありましょう。 しかし最後に、これもまたわたくしの勝手な感想ではありますが(まー、いわずとも、この文章全部がそうなのですが)、上記にA部=描写、B部=説明と書きましたが、説明とは、結局のところ語り・意味づけ・解釈でありましょう。 実は本作品が描く大きなテーマに、主人公女性の、不可解な夫の言動を何とか理解したいという強い欲求が描かれ、しかしそれは結局果たせなかったという一つの「諦念」が描かれるのですが、別にそれに引っ張られたわけではないでしょうが、私は、少しAB部共に説明(=語り・意味づけ・解釈)が多すぎるのではないかと感じました。(小説とはもう少し描写に専念するものではないか、という。) そのことが、私の本書の読後感に一点、不純物のような濁りの感覚を残したのも、まー、読者のわがまま勝手な「特権」感想とはいえ、ありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.08.25
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『子規、最後の八年』関川夏央(講談社) ちょっと前に、地域の図書館の中を例によってぶらぶらしていた時に、全集の置いてある棚で集英社版の『漱石文学全集』全11巻というのを見つけました。 漱石の全集なら、まー、岩波書店のを読んでいれば間違いはないだろうと、安易に考えていましたので、あ、こんなのも出てるんだな程度の興味で何となく、何冊か棚から出し入れをしていましたら、第11巻目が別巻で、それが一冊まるまる荒正人の『漱石研究年表』でした。 奥付によりますと、第一刷の発行が昭和四十九年となっていますから、ちょうど半世紀前の研究です。きっと、その後新しい漱石研究についての知見もあれこれ出て来ているのでしょうが、とにかく私としては、初めてこの本のことを知った時は、やはり少し驚きましたね。 誕生から死去(+葬儀などの日程)までの可能な限りの漱石についての情報を、何年何月何日の何時というレベルにまで細かく触れて書いてある本であります。 これは、初めて読んだら、やっぱりちょっと驚きますよねー。(そういえば思い出したのですが、『源氏物語』のすべての単語を品詞分解した基礎研究があると聞いて、その頃できの悪い大学生だった私は、やはり少し驚きましたね。コンピューターなんか出回ってない時代の話ですから。) この度、本書を読んでいて、ふっとそんな感じがしました。 もちろん本書は、荒正人の研究のレベルまで正岡子規の晩年八年の日常が書き込まれているわけではありません。 でも、例えば子規のこんな短歌が引用されているんですが…。 詩人去れば歌人坐にあり歌人去れば俳人来り永き日暮れぬ 最晩年、本当に子規が体をほとんど全く動かせなくなるまで、子規の家には、この短歌のごとく四六時中様々な人があふれんばかりに訪れていたようです。 そしてそれを、筆者はその人物紹介も含め丁寧に描いていこうとしています。 当然、記述は長く緻密になっていきます。だからとても分厚い本です。四百ページ余りもあります。 ただ、そんな子規の関係者を丁寧に描こうとしている筆者の意図は明らかで、というか、これは描かないわけにはいかないのだろうなと、読んでいて気が付きます。 それは、その子規の関係者の多くが、後年さまざまな分野の第一人者として、とても大きな仕事をなすことになる人物たちだからであります。 このことは何を表しているのでしょうか。 たぶんそれは、子規の人格が、優れた人物を引き寄せたという事でしょう。これでは、子規を描くためには、周りの人物を描かないわけにはいかない、と。 ということで、そんな長い本でした。 ところで、以前にも拙ブログのどこかで触れたように思いますが、私には、文学史上かなりの高評価な文学者でありながら、なぜそんなにもたくさんの人が高い評価をしているのかよくわからない文学者が三人います。 それは、韻文系の文学者であります。 宮沢賢治、石川啄木、そして、まー、申し訳ありませんが、正岡子規ですね。 前二者については、今回はとりあえず置いておきます。 正岡子規についてですが、確かにあの病状で、俳句界と短歌界の革新をなしたというのはとてつもなく凄いのでしょうが、……うーん、「猫に小判」は、変な例えですかねー、要するにそのことの「汎近代日本文学史的凄さ」が、私にはよく理解できないでいました。 ただ、この度本書を読んで、ひょっとしたらそのヒントになるかもしれない二つのことを知った、と思いました。 ひとつは、上記にすでにふれていることです。言い換えれば、多くの優れた後進を育てた才能。(どこかでやや極端な説を読んだことを思い出しました。福沢諭吉の業績のほとんどはもはや歴史上の業績にとどまっているが、唯一「現役」の最大の業績は、優れた後進者を生み出す教育機関=慶應義塾大学を作った事である、って、極端すぎますがー。) もう一つは、例えば本文にこんなことが書かれています。 英国留学をしていた漱石が子規宛に送った手紙=「倫敦消息」について書かれた文章です。 経済が人の運命を翻弄し去るのは、ロンドンも東京もかわりはない。そんな浮世のどたばたを、事実を並べつつおもしろくえがいた「倫敦消息」は好評であった。子規はことのほか喜んだ。 この手紙の文体は、漱石にとっても発見であった。つぶさに観察された人物像が簡潔にしるしてあるのは、子規の俳句に対する態度から無意識にうけた刺激の成果であろう。 そして、その数ページ先にはこう書かれてあります。 ロンドンで、読者としての自分を発見し、また自分の書きものをたのしみに待つ病床の子規に読者の存在を実感した漱石は、このとき自分では気づかぬうちに、小説家たらんとする助走を開始していた。 少し注釈をつけますと、「読者としての自分を発見」というのは、妻の鏡子からの手紙を首を長くして待っていた漱石自身の事です。 さて、近代日本文学最大の文豪である漱石の誕生に一番影響を与えた人物としての正岡子規という図式は、わたくしも以前より何となく理解していましたが、そのことが、漱石を通しての、日本語表現の発見と読者の発見を表すことであるという論旨は、とても納得できました。 だから子規とは、俳句短歌界のみならず、汎近代日本文学的「揺籃」そのものである、と。 なるほど、切れ味鋭い関川節は、本書にも広く健在であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.08.10
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『注文の多い料理店』宮沢賢治(角川文庫) 宮沢賢治がすごい、というのは、本当にもういーーっぱいの方が述べています。 すでに賢治は文学の領域を飛び越えて、ひとつの産業、登録商標、エンタメ業界、(「金の成る木」)になっている気がして、私のような小人物は、触れるのが怖くはあるのですが、先日から何回かに分けて、地域の公民館で「『注文の多い料理店』を読む」という地域文化セミナーをしていました。 私は、「怖いもの見たさ」もあって、とりあえず第一回目の講座に参加したところ、講師の先生の「賢治愛」がとても半端ではなく、かつそれに変な嫌味や押しつけなどもなく、熱気あふれるままに講義をなされたので、私はとても好感を持ち、結局全6回のセミナーに参加しました。 で、そんな賢治がらみのとても面白い話とか、知らなかった話をたくさん聞いて、また、ぜひぜひこの童話あの詩を読んでくださいとかも言われて、改めてこの度、宮沢賢治『注文の多い料理店』を読みなおしましたが、……うーん、ちょっと、困っています。 あれだけ賢治=天才、って言われたのですから、今更それを否定する気は毛頭ありませんが、私としては、どうもきちっと腑に落ちる感じのもの=実感に欠けるんですね。 でもこれって、ちょっと困りません? だってみんながすごい凄いといっている人について、そのすごさが実感できないというのは、どう考えても私に、それを判断するとか享受するとか鑑賞する能力が欠けてるとしか言いようがないですわね。 ……えー、そんな私が以下、書いてみます。 ものの良しあしの分からん奴の文章です。そのつもりでお読みください。 上記に凄さが実感できないと書きましたが、ひとつだけは、圧倒的に賢治凄いと私でも納得できることがあります。 それは、独創性、ですね。 賢治の前に賢治なく、賢治の後に賢治なし。この空前絶後のオリジナリティは、天才的といえば、なるほど天才的であります。(それだけでもう、天才だと評価するには十分じゃないかと言われれば、なるほど、そんな気もしますが。) 全く、こんな話、賢治以外には書かないだろー、という作品だらけです。 ではそのオリジナリティーの質といいますか、正体はどのようなものかと、今回わたくし考えてみましたら、ふと気が付いたことがありました。 それは、わけの分からないことを書き続ける独創的才能ではないか、と。 これもきっと、私がどこかでそれらしいことを読んだのだと思いますが、わけの分からないことを書き続けることって、けっこう、というよりかなり、大変そうであります。 作家や画家や音楽家などが、わけは分からないが凄いというものをなんとか生み出そうとして、日々身を切るように苦闘し続けたという話は、古今東西多くの例がありそうです。 では、賢治のその方法は? それは、実は本誌の賢治の序文に書かれてありますね。有名な部分です。 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。 (略)ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、そのとおり書いたまでです。 (略)なんのことだが、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。 わたくし、ここには二つのことが宣言されていると思いました。 一つ目は、私(賢治)は、自然の思いを人間の言葉に翻訳しただけのものを預かった者=預言者である、ということ。 二つ目は、私(賢治)は人間的理性や分析ではなく、自然に対する絶対的信頼と愛情に則って物語を書くのである、ということ。 賢治の文章の大きな特徴として言われる気象学的・鉱物的・天文的表現(恐ろしく透明感のある表現)というのも、その正体は自然の理解分析というよりは写生=自然のトレースのようなものでありましょう。 賢治の童話だけに限らず、考えれば、わけの分からないことには大いに魅力があります。 そもそも人類の歴史とは、それを求め続けた行為だともいえそうですが、そんな大層な話でなくても、子供の遊びのなぞなぞや大人の薀蓄話など、謎を知ること、そしてその正体を知りたいと思うことは、心の動きそのものがとても快感であります。 冒頭のセミナーで、これは本筋の話ではなかったですが、賢治の童話の「やまなし」に出てくる「クランポン」の正体に触れた(もちろんたくさんある説のうちの一説ですが)ことをおっしゃいましたが、私は聞いていてびっくりするとともに、ちょっと鳥肌が立ちました。 (ここでその説を述べていいものか少し迷いますが、多分その研究者はすでにどこかで発表済みでしょうから、ざっくりとだけ「謎解き」結果を書いてみますね。二つ驚いた「謎解き」があるんですが、ひとつめ「クランポン」とは亡くなった子蟹たちの母親である。二つ目、そもそもの子蟹たちのいる水中は、母親の羊水の中である。……びっくりしませんか?) 結局のところ、「わけの分からないこと」を書き続けることのできた賢治のオリジナリティとは、こういう事ではないかと、わたくしこの度、思ったのではありますが、そういえば、現代日本文学の作家の中にもう一人、「わけの分からないこと」を書き続ける作家がいるぞと、わたくし、ふっと気が付きました。 併せて、やっぱり彼もすごい人気作家であるぞ、と思いました。 お気づきになられたでしょうか。 このように考えますと、全く、わけのわからないものの力は実に強力強大であります。 (そうか、『本当は怖い〇〇』なんて本も、その類だな。) あ、その作家の名前は、たぶんもう言うまでもないと思いますが、村上春樹。……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.07.27
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『ハンチバック』市川沙央(文芸春秋社) 本作は2023年後期の芥川賞受賞作ですね。 受賞が決まったとき、大きな話題になりましたね。なぜ大きな話題になったかといいますと、筆者がかなり重度の身体障碍を持った方で、作品の主人公の女性の身体の設定が、ほぼ筆者に重ねて描かれていたからですね。 そして作品に、現代日本社会が身体障碍者をどう扱っているかという姿に対し、様々なハードでビターな問いかけが描かれていたからであります。 マスコミなどに主に取り上げられていたのは、原文でいえばこんな個所ですね。 本に苦しむせむし(ハンチバック)の怪物の姿など日本の健常者は想像したことがないのだろう。こちらは紙の本を1冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がするというのに、紙の匂いが好き、とかページをめくる感触が好き、などと宣い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい。 こんな個所が、まー、マスコミ的に衝撃だったわけですね。 私もそんなマスコミの記事を初めて読んだ時は、ちょっと衝撃ではありました。 しかし思考の根本が少し緩んでいる私は、それ以前から何にも知らずに顰蹙ものの我が思考の捻じれや歪みを人様から指摘されることが多々ありましたので、今回も顰蹙ものながら、あーまたやってしまっていたのか―、的の感情が、まず、ありました。 でもやはり、今回本書を読むにあたっては、少々「覚悟」も持って取り組んだのですが、……とっても面白かったです。 いえ、もちろん、身体障碍が中心テーマにあるお話ですので、笑うような面白さではもちろんありません。いわば、小説的巧みさが全編から感じられるような面白さでありました。 しかし、重度の身体障碍を中心テーマとし、「各論」的には(1)社会の差別意識(2)障碍者の性などを描きながら、我がごとながらなぜ「重い」感じがしなかったのか、少し不思議で、あれこれ考えてみました。 まず、すぐに思いついたのは、主人公の思考の流れが極めて理性的で自然であるからじゃないか、と。 例えば、主人公の女性は「子どもを宿して中絶するのが私の夢」だと書かれています。別の個所には「胎児殺し」とも書かれています。 でもこの夢に至った経緯が説明されてある個所は、飛躍も無理もなく極めてクリアであります。 〈妊娠と中絶がしてみたい〉 〈私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう〉 〈出産にも耐えられないだろう〉 〈もちろん育児も無理である〉 〈でもたぶん妊娠とか中絶までなら普通にできる。生殖機能に問題はないから〉 〈だから妊娠と中絶はしてみたい〉 そしてもう少し先の本文に、同じ地域に育った幼馴染たちの成人後の姿を想像しながらこう書いてあります。 私はあの子たちの背中に追い付きたかった。産むことはできずとも、堕ろすところまでは追い付きたかった。 上記に、マスコミで話題になった紙の本についての記述を取り上げてみましたが、こちらは直接の話題にはなりませんでしたが、こんなことも書かれてあります。 博物館や図書館や、保存された歴史的建築物が、私は嫌いだ。完成された姿でそこにずっとある古いものが嫌いだ。壊れずに残って古びていくことに価値のあるものたちが嫌いなのだ。生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる、生き抜いた時間の証として破壊されていく。そこが健常者のかかる重い死病とは決定的に違うし、多少の時間差があるだけで皆で一様に同じ壊れ方をしていく健常者の老死とも違う。 さて、私は上記に、本書は小説としてとても「面白い」と書きました。しかし、この小説の文学性が、このきわめて本道的な理論展開にあるとは、実は、思っていません。 私が、小説的仕掛けの巧みさと、文学的な佇まいを感じたのは、作品後半、「田中さん」とのでき事が中途半端に終わり、瀕死の重傷となり入院し、そこでまた「田中さん」と言葉を交わす場面を中心に描かれている一連の「私」の心理描写にあります。 それは、冷静なリアリズムに則りつつ、加虐的かつ自虐的な思考や追い詰められた強靭な意志などが溢れ出した姿を、言葉を選んで選んで描こうとした部分です。 前半のきわめて理知的な思考形態で整理しようとしながらも、そこからはみ出す心理を、何とか言葉で繋ぎとめようとしている描写が(個人的にはまだ十分につかみ切れていない感じもしますが)、すばらしい、と。 そして、作品終盤。 この部分も、少し芥川賞受賞時マスコミに取り上げられていました。 「聖書」からの引用が少し続き、最終盤、ここに至るまでの内容をすべてひっくり返すような展開がもう一山用意されて、そして終わります。 この部分をどう評価するのかが、少しマスコミ評にもありました。 はばかりながら、私は、どちらも小説的に傷になるものではない(大きな効果のあるものでもないにせよ)と思いました。達者さを感じました。 あわせて、こういう「特異」な作家が、「特異」な主人公の姿に自分の現実を重ねて読めそうな作品をひとつ書くと、次作以降をどうするのかという不安がありそうですが、これについては、幸いにことに、現代日本文学は、本件と全く重なるというわけではありませんが、きわめてすぐれた「先達」を持っていますね。 ちらっと何かで読みましたが、本書の筆者も、好きな作家であるようですね。(当たり前かー。) 「大」大江健三郎氏であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.07.14
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『カンガルー・ノート』安部公房(新潮文庫) 本文庫の解説をドナルド・キーンが書いていて、おおよそ褒めてありますが、解説文のおしまいあたりにこう書かれています。 『カンガルー・ノート』は文字通りの前衛文学である。前衛的であるから同時代の読者に分かりかねる部分もあろう。或いは未来の読者が難なくこの小説を読んで、安部さんと同時代の批評家たちはどうしてわからなかったのだろうかと不思議がるかもしれない。 この『カンガルー・ノート』から遡ること約20年、安部公房の新潮社純文学書下ろし特別作品の『箱男』の箱の裏表紙には、同じくドナルド・キーンがこのように書いています。 『箱男』を読了して、私は輝くような場面の連続で頭が一杯になり、分析するよりも、もう一度読んでみたいという気持ちが強い。 いかがでしょう。どちらもいわば「宣伝文」ですから、もちろん褒めてはいるのですが、言っていることは決定的に違っていますね。 『箱男』については、詳しくはまだわからないけれどとても素晴らしいと書かれており、『カンガルー・ノート』の方は、素晴らしい可能性は高そうだが私には全くお手上げだ、と書かれているように私は思いました。 そして、キーン氏がそう書いた気持ちは、憚りながら、私などの素人が読んでもとってもよくわかるんですね。晩年に向けて、安部公房の小説はどんどんわからなくなってきています。 私の手元に安部公房について書かれた2冊の本があります。以前、もう一つのブログで紹介した本ですが、この2冊です。 『安部公房伝』安部ねり(新潮社) 『安部公房とわたし』山口果林(講談社) 一冊目の本は、安部公房の一粒種の娘さんの書いた本で、公房研究の第一次資料としてとても重要な本であります。しかし、公房の最晩年については、ほとんど何も書かれていません。なぜか。 それは、公房は最晩年、妻である安部真知と別居し、愛人であった山口果林とほとんど行動を共にしていたからであります。 そして『カンガルー・ノート』は、そんな最晩年に書かれた小説であります。(だから、山口果林の本は、最晩年の安部公房研究にとっては、安部ねりの本をはるかにしのぐ重要な第一次資料となっています。) 安部ねりの本に、公房が妻と別居するに至った理由について、このように書かれてあります。 40歳を過ぎた真知にも変化があり、自己に回帰するようになり、(略)真知の中に公房に対する競争心のようなものが芽生えて張り合いたくなってきた。(略)真知の公房に対する絶対の尊敬は、かげりを見せた。 そして、数行後にはこのようにあります。 事実をまるで絵画のように一部強調して感じたりすることは人がよくやることだが、ついに的外れな批評家のように知ったかぶって公房の作品を批評してしまったりもした。 で、二人は別居に至るのですが、これが原因というほど単純なものではないでしょうが(もちろん山口果林の存在がとても大きいでしょうが、安部ねりは、公房の愛人としての山口果林の存在を本文中に全く触れていませんので、このあたりはかなり奥歯にものが挟まったような展開になっています)、晩年に近づくに従っての安部作品の難解さは、わたくし思うのですが、真知氏が「批評」をしたく思うのももっともではないか、と。 ところで「ねり本」には、公房の死後、ねり氏がドナルド・キーンにインタビューした文章が収録されていて、そこにこんなことが書かれています。 お父さんはもちろん、一般の読者をただ喜ばせようとするなら、彼が若いころ書いていたものを続けて書いたらよかったのです。なにもそんな複雑なことを書かなくてもよかったのです。誰も考えていないようなものを書こうという野心がありましたから、読者が読んでくれないかもしれないと考えても、それでも書いていました。仮に批評家がわからないとか、つまらないとか書いても、本がよく売れました。 ここに描かれているのも、作品の批評を完全にあきらめた上での、その作品に対する好意といいますか、むしろ作者に対する信頼、または期待のようなものが書かれていると思います。実際に本がよく売れたというのも同じだと思います。 さて、『カンガルー・ノート』の内容に直接は全く触れずにここまで書いてきましたが、もうお分かりのように、私にも本小説の良さが、ほぼ全く分からないわけであります。 この度私は図書館で借りて文庫本で読みましたが、家には単行本があり、出版されてすぐに買って読みました。 その時もきっと全く分からなかっただろうと思いますが、1991年に刊行されてすでに30年以上になり、自分が読んで理解できない本について、私は、老人的硬直さを大いに発するようになってきました。 30年前、分からなくてもきっと素晴らしい本なんだろうという理解というか、感情の動かしかたをもはや、しなくなったんですね。 わたくし、ふと思ったのですが、書籍にも最もふさわしい出会いの時期があるという言い回しは、こういうことを指しているのじゃないかと、遠くを目を細めてみるような寂しさとともに感じたのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.06.30
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『土に贖う』河崎秋子(集英社) 友人からの薦めのような形で、本書を読んでみました。 人から薦められるとか読書会の課題図書だとかがないと、なかなか新しい作家の本に手が伸びないのは、なんとなくいかんなあと思いつつ。 読んでから、ちょっとネットで調べてみたんですね。 すると、直木賞受賞作家とありました。なるほど、それっぽい感じではありますね。さらにもう少し読んでみますと、2020年に『土に贖う』で新田次郎文学賞を受賞し、2024年に『ともぐい』で直木賞を受賞と。 つまり今回の報告作品は、直木賞受賞以前の作品であります。 何が言いたいのかといえば、私は今回の本書について、まー、なんといいますか、さほど感心しなかったわけですね。 で、いわば、まだ「成長期」の作家だったころに書かれた短編集だったんだなと、そんなふうに納得をしたという事であります。 (これは閑話ですが、芥川賞受賞者の最初の作品集なんかで、芥川賞受賞作と一緒に受賞以前の作品が収録されていて、それがとても受賞作と比較にならない「凡作」であったりしたことありませんか? もっとも、芥川賞は入門者の賞で、直木賞は初級者の上りの賞だみたいな話は聞いたことがありますが。) ということで、以下の文章は、私があまり納得がいかなかった個所の説明となり、それはどうしてもあまり褒める文脈にならないだろうわけで、少し困ったなと思ってもいます。 例えばこんなところなんですがね。 「南北海鳥異聞」という短編の冒頭近く、時代は「明治も二十年を越えた」年、鳥島でアホウドリを撲殺する仕事をしている弥平と泰介という二人の「三十男」のせりふ部分です。 少し力が余ったのか、首の部分から骨が突き出して皮を貫き、血が白い胸の羽毛を汚している。それを見咎めたのか、弥平の背後から「おいこらぁ」と野太い声がかかった。「弥平。お前、血ぃ出させるな。力入れて殴りすぎだ」「何でだ。血が出ても出なくても、鳥殺すのは一緒だべ」「あほが。鳥の羽とるのに殴ってるんだから、その羽がきれいでないと値が下がる。力加減、気ぃつけれ」「悪かった。次は気をつける」 このセリフのどこに私はおやっと思うかといえば、この描写の後にこんな説明があるんですね。 弥平は今日はもうこうして二百五十羽ほども殴り殺した。 二百五十羽も殴り殺した後のせりふのやり取りとしては、少し変じゃないですかね。 私はこんなところが気になるんですね。 さらに二人は鳥を撲殺し続けていくのですが、泰介がこんなセリフを言います。「しっかし、弥平、お前はまったく躊躇しねえなあ」 そして少し先にこんな説明があります。 弥平と泰介は東北の山奥にある寒村の生まれだ。いずれも家は小さな農家で、弥平は上に三人も兄がいる末っ子のせいか、親にも周囲からも温かく目をかけられることはほとんどなかった。 私は、泰介のせりふの中の「躊躇」という言葉に引っ掛かります。 それはお前の勝手な感じ方だといえばそれまでですが、私はもっと別のこなれた言葉で説明できないのかしらと感じたりします。 他の作品にも、この作者の描写に対して、細かい指摘ではありますが、その表現が最もふさわしいのかなと思ってしまう個所が、私としては、けっこうたくさんありました。 例えば、別の短編小説で、昭和三十五年の「札幌近郊、江別市」の、父子家庭で父親が「装蹄所」を一人で営んでいる小学校五年生の男子が、父親と話をしている場面です。話題についての引用はしませんが、父親の会話に対して男の子はこう答えます。「なんか、割り切れない。納得できないよ」 どうなんでしょ。これもお前の変な思い込みだと言われたらそうなのかもしれませんが、私は小学五年生の男子が使う用語としては、「割り切れない」はかなり違和感を感じます。 さて、そんな細かい指摘をしてしまいました。 実は全体の物語の構造などについても、少し個人的に違和感のあるところはありました。しかし、短編集全体の「近代北海道開拓史の中で厳しい自然と共に生きる人々を描く」とでもいえる大きなテーマに、とりあえず真正面から取り組んだ作者の心意気は、いかにも壮とするべきで、その後この志が直木賞受賞に至ったについては、大いに納得できると思いました。 私は、次はその直木賞受賞作を読んで、物語の構造などについても鑑賞させていただこうと思うものでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.06.16
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