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あまりの被害の大きさに茫然自失。これで日本の繁栄も終わったかと思うほどである。今はもう何も言う気力も出てこない。私など、余りにも無力すぎる。自分の無力さに絶望感を覚える。
2011年03月13日
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70年150年周期説筆者はオバマ大統領が提唱した「核なき世界」が実現するとすれば、西暦2060年以降になると考えている。70年150年周期説によれば、真の意味での大変革はその頃にならないと引き起こされない。ヨーロッパ発展の時代、ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代)、アメリカ発展の時代において70年150年周期説が当てはまると考えられるし、特に超ルネサンス時代(現代から未来へ)においては最もハッキリと第一次世界大戦勃発より70年ほどで最大の転換期を迎えている。現代において70年150年周期説が確実に進行中である事が最もよくわかると考えている。あとは、第一次世界大戦勃発より150年ほど(西暦2060年頃)で更なる大転換期が来るに違いない。人類は共に助け合い、真に平和な世の中が到来する。 東西冷戦終結あるいは直後のソヴィエト連邦崩壊の頃に大転換点が有り、新しい段階に入っていった。非常に大きな枠組みが崩れ去ったのは歴史上の事実である。次にアメリカ同時多発テロ、アフガニスタン戦争、イラク戦争、金融危機、世界同時不況などと続いている。以上の様々な事柄から第1次世界大戦開始(1914年)より70年経過した1984年頃からは、世界が新たな段階に入っていく最大の分かれ目であったと言える。
2011年03月12日
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まるで悪夢を見ている様だ。巨大地震、大津波、福島原発も危機的状況にある。 元気を失いつつある日本にさらに追い討ちをかけられたような、この災厄。 日本人として断腸の思いがする。 災厄のない平和な世の中は本当に到来するのか。
2011年03月12日
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これが現実だとは思えないほどの状況だ。しかし、確かに現実なのだ。この世は一寸先は闇。あまりにも酷すぎる。神も仏もあるものかと考えて当たり前のような状況だ。しかし、人間は意外な強さも持っている。関東大震災など多くの大震災からも立ち直ってきた。人生、一寸先は闇。しかし、何とか生き抜いていかねばならない。
2011年03月12日
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自然の猛威の前には、人間は無力すぎる。此の世は苦に満ちている。日本全体に大打撃。個人にとっても、国にとっても重荷の上にまた重荷。何処まで立ち直れるのか。今はもう何も言えない。
2011年03月11日
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70年150年説・ヨーロッパ発展の時代1初期ルネサンスその2 以下の記述からわかるように、ヨーロッパ諸国発展の最も大きな起点(ヨーロッパ発展の時代1初期)となったのはルネサンスと考えられる。ウィキペディアに記載されている「ルネサンス」においても様々な捉え方がなされているが、筆者は【ルネサンス(イタリア語でリナシメント rinascimento)は北イタリア、フィレンツェなど地中海貿易で繁栄したトスカーナ地方の諸都市を中心に、教会やイスラム世界、東ローマ帝国の保存していた古典文化の影響を受けて14世紀頃にはじまった、というのが一般的な理解である。】との立場に立っている。ここで一つ忘れてはならないのは「従来のカトリック的束縛からの解放」が非常に大きな流れとなって行った事である。この流れは後の宗教改革にも大きな影響を与えている。「心の新境地へ、そして新天地へ。」それは本格的にルネサンスより始まった。それは氷が融点で水に変わっていくのに似ている。ルネサンスは歴史における融点のような役割を持ったと考えている。そして、最初に大きく様相が変化していったのが、イタリアであった。以下は、同じく「手にとるように世界史がわかる本p・222」より【◆近代の始まりはルネサンスから14世紀のヨーロッパはペストの流行や相次ぐ戦乱で疲弊しましたが、一方で、政治的には封建国家が新しい体制へと転換しはじめました。やがて中世の束縛から解放された「貧しい西欧」は、近世の「西洋文明」へと脱皮して世界を席巻し、それまで先進地域だった中東イスラム圏や産物の豊かなアジア、そして新大陸アメリカも植民地化していくことになります。このように西欧文明が大発展する発端になったのが、ここで解説する「ルネサンス」、そして「地理上の発見」と「宗教改革」でした。】* * *以下は日本文芸社 平成16年1月20日 改訂第1版 第1刷発行 、鈴木晟監修、鈴木旭/石川理夫著「面白いほどよくわかる世界史P.198より」【ルネサンスはダンテの『神曲』、ペトラルカの詩、ボッカチオの『デカメロン』と、トスカーナの言葉で表現した人文主義者たちで幕を開けた。そして文学・絵画・彫刻・工芸・建築・科学とあらゆる分野に拡がり、万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの頂点に達していく。】* * *以下は同じく「面白いほどよくわかる世界史P.194~195より」【近代への序幕前略歴史の転換点ルネサンスから絶対主義時代にいたる時期は、以上のような意味でヨーロッパ史の大きな転換を画した。しかし、転換点というなら、さらに重要な意味でこの時期は転換点となった。つまり、ヨーロッパの絶対主義国家は、重商主義の一環としてアジアや新大陸への進出をはかり、同地域の多くを植民地とした。白人による有色人種の支配が始まったのである。】* * *中央公論社 昭和43年8月24日発行 編者 松田智雄「世界の歴史 7近代への序曲」はルネサンス(ここではジォットーの話)から記述が展開して行く。その最初の本文タイトルが「ヨーロッパの夜明け」である。ヨーロッパ発展の時代初期をルネサンスに置くことは歴史的常識と言える。(注・ジォットーは日本語ではジオットー、ジョットとも表記される。また、ジォットーをルネサンス以前に属する芸術家とする考えもある。私はルネサンス初期の芸術家であったとの立場である。いずれにせよ、このあたりにボーダーラインがあるのは確実だ。ジォットー単独あるいは美術史で捉えれば違う見解も入り込む余地が有るのかもしれない。しかし、ここに掲載したルネサンスに関する記述を総合的に考えれば、ジォットーはルネサンス期の人物だと考えられる。)ここでは、「世界の歴史 7近代への序曲」のむすびの言葉(P.509~510)を引用したい。【ルネサンスと宗教改革の時代、それは、こののちに近代社会と近代文化が確立される前の序幕であり、本来の近代文化、市民文化が形成されるための前提であった。ルネサンスが近代文化発生のために「前提条件」を整え、その普遍的な基盤を与えたとすれば、宗教改革は近代文化の展開をおし進める、いわば「形成力」としての役割を果たしたのである。ルネサンスは、世界文学史に聳立(しょうりつ)するダンテを生み出した。彼は、その姿をイタリアのフィレンツェに現わし、ルネサンスの一人の先駆として大きな足跡をのこした。このトスカナの首府、百合花の都には、一三世紀以来、人民の民主的意志にもとづく統治機構と、「正義の条令」やその象徴である白地に赤十字の「人民の旗」を誇りとする共和制都市が成立していた。ダンテ自身その行政長官の一人として働いた政治的経歴をもち、市民としては医師、薬剤師組合員であった。彼の『神曲』は、封建時代の諸権威が、いかに頽廃し、罪悪を重ねているかを、はげしく非難したものであった。】* * * 「彼の『神曲』は、封建時代の諸権威が、いかに頽廃し、罪悪を重ねているかを、はげしく非難したものであった。」と記述されています。この気風、気概こそルネサンスの大きな底流の一つだと思います。私はダンテがルネサンス初期の人物であったことは確実だとする者です。
2011年03月10日
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第一章 ヨーロッパ発展の時代1 ルネサンスより 目次ヨーロッパ発展の時代初期・ルネサンス 起点となる戦争ヨーロッパ発展の時代 第2段階 ヨーロッパ発展の時代 ヨーロッパ発展の時代1初期・ルネサンス ヨーロッパ(ここで言うヨーロッパとは主に西ヨーロッパ、西欧の事である)発展の時代初期とはいつのことであろうか。 以下の記述からわかるように、ヨーロッパ諸国発展の最も大きな起点(ヨーロッパ発展の時代初期)となったのはルネサンスと考えられる。ウィキペディアに記載されている「ルネサンス」においても様々な捉え方がなされているが、筆者は【ルネサンス(イタリア語でリナシメント rinascimento)は北イタリア、フィレンツェなど地中海貿易で繁栄したトスカーナ地方の諸都市を中心に、教会やイスラム世界、東ローマ帝国の保存していた古典文化の影響を受けて14世紀頃にはじまった、というのが一般的な理解である。】との立場に立っている。ここで一つ忘れてはならないのは「従来のカトリック的束縛からの解放」が非常に大きな流れとなって行った事である。この流れは後の宗教改革にも大きな影響を与えている。「心の新境地へ、そして新天地へ。」それは本格的にルネサンスより始まった。それは氷が融点で水に変わっていくのに似ている。ルネサンスは歴史における融点のような役割を持ったと考えている。そして、最初に大きく様相が変化していったのが、イタリアであった。出典「ルネサンス」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2007年9月28日 (金) 15:18。UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/より【前略ルネサンス史ルネサンスは、西欧世界の進行方向を決定付けるような、文化史・精神史の上での一大事件であった。まず、イタリア・ルネサンスと呼ばれる事象の興り・発展・終焉、次に、イタリア以外での西欧諸国のルネサンスの受容と発展の様相を見る。イタリアルネサンス(イタリア語でリナシメント rinascimento)は北イタリア、フィレンツェなど地中海貿易で繁栄したトスカーナ地方の諸都市を中心に、教会やイスラム世界、東ローマ帝国の保存していた古典文化の影響を受けて14世紀頃にはじまった、というのが一般的な理解である。その先駆者とされるのはフィレンツェ出身の詩人ダンテ(1265-1321年)である。ダンテは政敵によってフィレンツェを追放され、流浪の生活の中で代表作「神曲」を完成させた。ローマの詩人、ウェルギリウスを地獄・煉獄巡りの案内人として登場させ、魂の浄化を経て天国へ昇ってゆくという内容であり、ローマの古典文学とキリスト教による救済との調和を図った一大叙事詩である。続いてペトラルカ(1304-1374年)は古典古代の時代こそ人間性が肯定されていた理想の時代であり、中世(キリスト教公認以降のローマ帝国が衰退した時代)を暗黒時代と考えた。ペトラルカは古代の文献を収集し、ラテン語による詩作、著述を行ったが、このように古典の教養を持ち、人間の生き方について思索する知識人を人文主義者(Umanista ウマニスタ)と呼ぶようになった。また、1453年のコンスタンティノープル陥落(東ローマ帝国滅亡)の前後には、東ローマから多数の知識人がイタリアへ亡命してきた。末期の東ローマ帝国では古代ギリシャ文化の研究が盛んになっており(パレオロゴス朝ルネサンス)、彼等が携えてきた古代ギリシャ・ローマの書物や知識は古代文化の研究を活発化させた。人文主義者の一人、フィチーノ(1433-1499年)はメディチ家のプラトン・アカデミーの中心人物で、プラトンの著作を翻訳した。】* * *以下は「かんき出版 2003年9月1日 第3刷発行 、小松田直著「手にとるように世界史がわかる本p・226」より【ルネサンス文学も、先駆けは14世紀のフィレンツェでした。中世ヨーロッパでは、学問といえばラテン語でした。しかし、フィレンツェの詩人ダンテが書いた雄大な叙事詩『神曲』はラテン語ではなくイタリアの俗語で書かれました。そのため彼は、国民文学の祖といわれています。フィレンツェで始まったルネサンス文学はその後、全ヨーロッパに広がっていきました。そして、各国で国民文学が発達するようになったことで、フランス語も英語も方言が整理されて現在の形に近づき、それぞれの「国語」として確立していったのです。】* * *
2011年03月09日
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70年150年周期説 超ルネサンス時代第2段階(現代から未来へ・第2段階)概略 株式会社三笠書房刊「この1冊でアメリカの歴史がわかる! あとがきP,311」【さて私たちはいま、大変な歴史的時代に生きています。実質的な二十世紀はもう終りました。暦の上の話ではなく、二十世紀の本体は、第一次世界大戦から始まり、冷戦が終結した一九八九年に終了しました。この終りの時期は、ソ連邦が解体した一九九一年としてもいいでしょう。とにかく、実質的な二十世紀はすでに終りを告げ、私たちは、混沌として先が見えにくい過渡期のなかを、手探りで進んでいるのです。】* * * 2009年1月1日付け朝日新聞の9面「揺れる国際社会」の見出しにこう書かれている「冷戦が終わった1989年 変化は始まった」。 記事内容の概要は「東西冷戦の終結、民主化、インターネットの飛躍的な普及、経済のグローバル化。一方で民族紛争が火を噴き、国際テロの脅威の拡散など1989年がさまざまな変化の一つの起点になった。20年がたち、変化はなお加速している。」2009年11月10日付けの中日新聞社説によれば、「東西冷戦を終結させた時代の熱気は絶えて久しいが、現在の地球規模の問題の多くはその冷戦終結に直結している。」とある。そして、その問題として、核兵器拡散、民族紛争、金融・経済危機、イスラム過激派テロ、環境・エネルギー問題などが挙げられている。 私もこの考えに賛同する。敢えて、最も重要な転換年を挙げるならば1989年になると考えている。これは超ルネサンス時代の記述を読んでいただければわかると思う。ただし、私の場合はもっと広く転換期と捉えている。東西冷戦終結に関しても、冷戦構造が大きく崩れて行くのは1989年以前にある。そこで筆者は「1984年ころ(前後)」からともっと大きく捉えている。しかし、再度、最も重要な転換年を挙げるならば1989年になると考えているのは全く同じである。そして、第1次世界大戦勃発1914年より150年経過した2064年頃には常識を遥かに超えた文字通りの超大転換期が到来すると予測している。超ルネサンス時代(現代)まとめ第一次世界大戦勃発(1914年)より70年経過した頃(1984年頃)に、米ソ冷戦終結(1989年)が成された。第2次世界大戦後の世界秩序がこの時期に大きく崩れ去ったのである。筆者がこの説に最初に行き着いたのはヨーロッパ発展の時代であったが、70年150年周期説は現代において最も分かりやすい形で進行していると考えられる。70年150年周期説によれば現在の金融危機、世界同時不況、オバマ大統領誕生のニュースも、大航海時代の到来:産業革命:第一次世界大戦、世界恐慌、第2次世界大戦ほどの節目にはならない。大転換期は第一次世界大戦勃発(1914年)より150年ほど経過した頃(2064年頃)に到来すると考えられる。その頃には想像を絶するような変革が成されるだろう。
2011年03月08日
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70年150年周期説 超ルネサンス時代(現代から未来へ)概略 ここでアメリカ発展の時代の後に来る(重複する期間もある)、現代から未来に渡る歴史区間(筆者が超ルネサンス時代と呼ぶ期間)の概要を示したい。 起点となる戦争は空前の世界戦、第一次世界大戦(1914~1918年)を置いて他にない。 第一次世界大戦開始(1914年)、死者が4000万人~5000万人と言われるスペイン風邪の流行、世界恐慌、第2次世界大戦(野生のオリーブの木の幹を切って)から70年(7年)ほど経過した1980~90年の頃にそれまでの歴史を大きく縛り形作って来た冷戦体制が崩壊する。米ソ冷戦終結宣言は(1989年)。この頃に第2段階(一つの転換期・節目)が到来した。第二次世界大戦後の世界において最も重要な構造(枠組み)となったのが、東西冷戦構造である。出典「冷戦」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2009年9月5日 (土) 12:59 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/【冷戦(れいせん。Cold War)とは、第二次世界大戦後の世界を二分した、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造である。中略概要冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を盟主とする共産主義を名目とする陣営が東ヨーロッパに集まっていたことから「東側」、対するアメリカ合衆国を盟主とした資本主義を名目とする陣営が西ヨーロッパに集まっていたことから「西側」と呼んで対峙した。その対立は軍事、外交、経済だけでなく、宇宙開発や航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。又、冷戦の対立構造の中で西ヨーロッパは統合が進み、欧州共同体や欧州連合の結成へ向かった。ヨーロッパのみならず、アジア、中東、南アメリカなどでも、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているが為に経済的、人的な情報の交流が少なく、冷戦勃発当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「鉄のカーテン」と表現した。ちなみにアフリカは西側の植民地が多いため西側の動きも見られた。このアメリカ陣営とソ連陣営のどちらにも与しない国家(開発途上国)は、「第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営の思惑の中で翻弄された。しかし、こうした両陣営の思惑を逆手に取り、両陣営を天秤に乗せる事で多額の援助を引き出す「援助外交」も活発に行なわれた。又、この米ソ両陣営の対立構造を「大国の覇権主義」と否定した国々は、インドなどを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった(といっても有名無実である国も多かった)。尚、経済発展が進んだ開発途上国が「第三世界」と呼ばれ、経済発展が遅れている開発途上国は「第四世界」と呼ばれる事もある。ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったためヤルタからマルタへということも言われる。中略冷戦終結後の経過 「一極体制」および「平成#国際関係史」も参照米蘇冷戦が終結した当初の1990年代初期においては、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』で述べたことを受けて、希望と幸福が訪れると見る向きもあった。しかし、冷戦終結直後の1991年12月に、冷戦の盟主国の一角であるソ連が死滅すると世界の均衡が崩れ、アメリカが唯一の超大国となってアメリカ的システムが絶対化されるアメリカナイゼーションが世界を席巻した。政治のアメリカナイゼーションは「民主化」の名で、経済のアメリカナイゼーションは「グローバリゼーション」の名で推進された。同時に冷戦終結により、それまでクレムリンやホワイトハウスに抑圧されていた世界各地の民族問題が再燃した。東ヨーロッパを見ると、1992年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに平和裏に分離した反面、1993年に起こったユーゴスラビア紛争は、民族同士の憎しみに火を付けてその後も続いた。カフカス地方ではアゼルバイジャンやアルメニアで内戦となり、チェチェンをはじめ各小民族が独立闘争を起こし、各国で内戦に発展した(第一次チェチェン紛争)。この内戦はロシア軍による圧倒的な火力で制圧されているが、追い込まれた独立派はテロ行為に走り、収拾がつかなくなっている(第二次チェチェン紛争)。又、このテロにはイスラム原理主義過激派の関与が疑われている。西ヨーロッパの冷戦は終わったが、東アジアではモンゴルの民主化、ベトナムとアメリカの和解の外は、中華人民共和国と中華民国の対立、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の対立が現在も続いており、日本国内では日本共産党と朝鮮総連は現在も公安当局(公安調査庁、公安警察)に監視されているなど、こちらは解決の見通しが立っていない。特に、中華人民共和国は1989年から軍備増強を強力に推し進めており、近年になって周辺国(中華民国や韓国や日本)にとって脅威となっていると言われるようになった(中国脅威論、米中冷戦)。中華人民共和国は名実ともに一党独裁国家であり、2000年代に入って暴動が多発するなど、国内が不安定化している。フランシス・フクヤマの論に従えば、一党独裁国家である中華人民共和国は、政府(中国共産党政権)が死ぬ時が必ず訪れるという論になる。ロシアは、ソ連が死滅すると共和制国家として甦生し、ボリス・エリツィン政権下で経済の再建と資本主義化が推進された。しかし、これが裏目に出てロシアの経済は悪化し、特にアジア通貨危機後の1998年にはロシア財政危機が起きて一層悪化するなど、「冷戦の敗戦国」として欧米の経済援助に甘んじていた。しかし、2003年頃より原油価格高騰の恩恵により経済は好転し、それを背景にウラジーミル・プーチン政権は再び「強いロシア」の復権を謳い、EUやNATOへの旧ソ連加盟国の取り込みを進めていた欧米に対して、牽制の動きを見せるようになった。現在のロシアも独裁体制に近く、フクヤマの論に従えば、政権が死ぬ時が必ずやってくるということになる。つまり、将来において中華人民共和国やロシアの現政府が倒されて民主化された時、大国同士の冷戦や世界大戦の危険性は消えて、全世界において民主主義体制が半永久的に続き、歴史が終わるとされる。民主主義の枠内であれば、政権交代により社会問題や他国との国際問題を解決できるとされる。しかし、現段階では、アメリカ主導の民主主義体制・資本主義体制が、民衆に必ずしも幸福をもたらしていない実状が、アメリカ発の世界同時不況により立証された。ポスト冷戦時代になると、資本主義・民主主義は、資本家による労働者の使い捨てや、不況の世界規模化といった災難を解決できていない。しかし、時間は長期になるが民主主義体制の枠内なら問題は解決可能という見方もある。又、フクヤマの論は、アメリカによる「民主化」(時には武力を伴う)を容認する内容だという誤った解釈がなされ、「自由」があることをいわば「売り」とするアメリカナイゼーションが世界中で急速に進んでいる。ただ、実状がアメリカの多国籍企業の為の利益の追及であるにせよ、結果的に第二次世界大戦以後、アメリカの同盟国・友好国・アメリカにより民主化された国(イラクなど)の民が自由を手に入れたのは事実である。冷戦中は反共主義という理由でアメリカの支援を受けていた独裁国家も、冷戦が終わるとサウジアラビアなどを除いて次々と民主化されている。アメリカは「冷戦の勝戦国」という自信から、1991年の湾岸戦争に引き続いて中東への介入を深め、ビル・クリントン政権はパレスチナ問題に積極的に関わり、初めて和平合意をもたらした。しかし、イスラエルの凶変から和平は暗礁に乗り上げ、パレスチナ過激派によるテロとイスラエル軍による虐殺によって、パレスチナは泥沼の様相を呈した。又、アフガニスタンやスーダンには1998年にミサイル攻撃を強行し、特にアフガニスタンには4回に亘る経済制裁を与えた。アフリカに対しては、スーダンの外にはソマリアにも国際連合の力で内戦に介入したが失敗し、これによって、クリントン政権は地上軍の派遣を恐れるようになった。イラクに対しては湾岸戦争以来敵対しており、イラク武装解除問題に関しても、武器査察が滞る度に空爆を加えた。これらのアメリカによる中東への介入やグローバリゼーションに反感を抱くイスラム原理主義過激派は、2001年にアメリカ同時多発テロ事件を惹き起こし、対テロ戦争と呼ばれるアメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争となった。核開発競争によって生産された高性能核弾頭を、現在もアメリカとロシアが数千発保有している。冷戦初期に核のアメリカ一極集中を恐れた一部の科学者は、核の抑止力で世界の均衡を保とうと、ソ連とイギリスとフランスに開発法を伝授し、ソ連から中華人民共和国にも継承されて、現在の核五大国が形成された。この外にも、中華人民共和国やソ連から流出した開発法によって(中蘇対立なども要因となっているが)インドやパキスタンの核保有や、アメリカから供与された技術によってイスラエルの核保有に及んでいる。2008年8月には南オセチア紛争が起こり、米露間に軍事的緊張が生じ、「冷戦の再来」「新冷戦」などと呼ばれる状況となっており、緊張状態が続いている。経済と雇用は冷戦時代とは比べ物にならない程に悪化し、実際に訪れた現象は希望と幸福ではなく、絶望と災難であった。1989年~1991年に起こった社会主義政権の死滅により、「無規制」「解雇自由」「大資本家のみの繁盛」を特徴とするアメリカ型経済システム(新自由主義)が「グローバリゼーション」の名で世界中に広まり、多国籍企業は地球規模でパイを奪い合う「大競争時代」を作り上げた。この結果、日本を初め世界中が「日銭の世界」と化して、世界中で不安定雇用労働者(プレカリアート)が爆発的に増大した。冷戦時代末期(1980年代)のアメリカでは「ダウンサイジング」という名の整理解雇ブームが民衆を襲っていたが、これが世界規模に拡大したのである。又、冷戦時代には、アウグスト・ピノチェト政権のチリがアメリカ型経済システムを敷いていた事から、冷戦終結後には、世界各国がピノチェト政権のチリと同じ状態になったとも言える。冷戦時代末期のIMF不況と1990年代のグローバリゼーションに遭遇したラテンアメリカでは、2000年代になると反米・左派の政権が続々と生まれ、社会主義が復活する動きを見せている。又、反米や社会主義を掲げるラテンアメリカの政権は、アメリカを牽制する動きを見せている。】* * * ウィキペディアの冷戦に関する記述は非常に長いので前後の極一部分だけを引用させていただいた。是非ウィキペディアを参照していただきたい。第二次世界大戦以後長期にわたって続いた冷戦体制は崩壊し、多くの問題を内包しながら新しい時代に移行していったのである。
2011年03月06日
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アメリカ発展の時代 完成期・飛躍期(概略)そして、アメリカ独立戦争から約150年経過した頃からC1:第一次、第二次世界大戦(西欧の没落)C2:世界の覇権に向けてアメリカの勢力が抜きん出てゆくC3:ロケット機関開発、宇宙へ、新大航海時代の幕開けC4:世界経済が新局面に入って行くC5:アメリカの経済的大発展C6:原子力、電子工業等の発展C7:アメリカの伸長、アメリカにとって大転換期あるいは大飛躍期となった。世界中の国家にとっても大転換期となった。この頃から、パックス・アメリカーナと表現されるアメリカ全盛時代に入って行く。アメリカ発展の時代における盛期、全盛期あるいは完成期・飛躍期といえる。以下は日本実業出版社 2001年3月10日 第21刷発行、宮崎 正勝著「早わかり世界史、第五章、二つの世界大戦で没落する西欧P.270」より【だがこの戦争は原爆の投下に象徴されるように、総力戦の規模と悲惨さの程度は第一次世界大戦とは比較にならず、世界中が荒廃してしまう。ただ、ほとんど戦場にならなかったアメリカだけは経済の好況にわき、世界の金の大半を集める超大国に成長したのである。】* * * 以下は平凡社刊「国民百科事典、世界大戦の項」1966年3月10日初版第34刷発行より。【第二次大戦の終結によって日独伊の帝国主義は崩壊したが、一方欧州の戦勝国である英仏も従来の帝国主義的大国のままではありえなくなった。中略かくて「西欧の没落」が叫ばれる一方、戦時中の経済発展によって米国は決定的に優越した地位を得た。】* * *以下は三笠書房 2001年11月5日 第6刷発行、猿谷 要著「この一冊でアメリカの歴史がわかる!P.181」より【しかし第二次大戦が終った時、ソ連はアメリカより遥かに深く傷ついていた。アメリカは戦場にならず、戦死者は約三十二万にとどまったが、ソ連は独ソ戦の戦場となり、戦死者は六百万を超えていた。そのうえアメリカは原子爆弾を所有する唯一の国だった。さらに戦後はドルが世界の基軸通貨になったことを加えれば、アメリカは圧倒的な優位を保ってソ連と向き合うことになったのである。こうして「パックス・アメリカーナ」(Pax Americana)の時代が実現した。世界の歴史のうえで、ローマ全盛時代の「パックス・ロマーナ」、十九世紀の「パックス・ブリタニカ」に次ぐ三番目の例で、アメリカ支配下の平和、あるいはアメリカ全盛時代と考えればいいだろう。】* * *パックス・アメリカーナの定義は様々なようだが、第一次、第二次世界大戦の頃がアメリカのみならず、世界的な大転換期となった。また、アメリカにとって非常に大きな飛躍期となった。 詳しくは「アメリカ発展の時代 完成期・飛躍期」を御覧ください。
2011年03月06日
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70年150年周期説アメリカ発展の時代初期(概略) アメリカ(合衆国)発展の時代初期は、アメリカ独立戦争、アメリカ合衆国建国前後の頃になると考えられる。新天地アメリカにおいて当時のヨーロッパを支配していた古い体制、宗教的束縛からの解放などさらに新しい光が差し始めた。アメリカには多くの新教徒などが信仰の自由や様々な抑圧、束縛からの解放を求めて移住していた。その流れが独立戦争により大きく加速される。アメリカ独立以前はイギリスの植民地であり、イギリス国王の支配下にあった。更なる発展の為には、イギリスの抑圧からの開放を必要としていたのである。当時のヨーロッパは世界的先進国家集団ではあったが、国民主権国家はまだ生まれておらず、国王や君主が大きな力を持っていた。最初の国民主権国家はアメリカにおいて成立し、アメリカではその体制が継続される。遅れて国民主権国家を築いたフランスでは恐怖政治に陥り、後に王政復古やナポレオンによる独裁政治が行われる。 アメリカ発展の時代・第2段階(概略)独立戦争を起点として約70年経過した頃からアメリカにおける産業革命が進行し始める。さらにこの頃に急激な領土の拡大が成される。これで太平洋岸への領土拡大が完成する。しかし、新しく成立した州を奴隷州とするか自由州とするかで南北対立が深まる。そして、南北戦争へと急激に展開して行く。これはアメリカ発展の時代における重要で大きな激動期であった。南北戦争におけるアメリカ人の戦死者は第二次世界大戦の約二倍である。アメリカ史上最大の戦死者を出して南北戦争は終わった。南北戦争以後、国内的には長期安定化に向かう。対外的には、さらに拡大して行く事になる。まさに、1845年頃よりアメリカ発展の時代は第2段階(新段階)に入っていったと考えられる。以下は三笠書房 2001年11月5日 第6刷発行 猿谷要著「この一冊でアメリカの歴史がわかる!P.104」より【第3章 なぜ一躍「世界の大国」になったのか?[この章の概観]この章が取り扱うのは、南北戦争が終った一八六五年から第一次世界大戦が終る一九一八年までの約半世紀である。日本の時代でいえば、大政奉還の二年前から大正七年まで、ほぼ半世紀近かった明治の時代がこれにあたることになり、私たちは日本の明治時代のアメリカはどうだったのかと思いながら考えていけばいいだろう。第二章までのアメリカ、つまり南北戦争までのアメリカ(その頃、日本は徳川時代)は、田園的で牧歌的な、古い衣裳をまとったアメリカであった。この章から始まるアメリカは、工場群が黒い煙を噴き上げる都会的なアメリカ、現在私たちが知っている姿に急に近づいたアメリカである。確かに南北戦争の終結とともに時代は一変する。しかし歴史のうえで断絶はあり得ない。】* * *アメリカの歴史は南北戦争の頃(南北戦争の前後)を節目として時代が一変する。これまでの記述から言える事は、アメリカの急速な領土拡大から南北戦争の頃が大転換期となった事実である。以下にヨーロッパ発展の時代年表1、イギリス発展の時代年表1、アメリカ発展の時代年表1を掲載するが、年表の同じ部分に大転換期が訪れ、それから同じ歴史的間隔を置いて各時代の完成期あるいは盛期が訪れているのは確かだとしか言いようが無いと考えている。 詳しくは「アメリカ発展の時代」を御覧ください。
2011年03月05日
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前立腺症状重症今日病院で診察してもらったら、前立腺症状重症との診断が出た。最近、夜はまともに寝れないし、体調は悪いし、やること成すことうまく行かないし、最悪に近い状態。人生長く生きていると、こんな時がしばしばあるんだよね。今回は、薬をもらってきたので、飲めば少しは良くなるだろうと。全国の病気で悩んでる方々、その他、人生の尽きない悩みに負けそうになっている方々、お互いに空元気だけでも出すだけ出して、頑張りましょう。この試練の多い人生に乾杯。ではまた、これからもよろしくお願いいたします。
2011年03月05日
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ヨーロッパ発展の時代2(概略 イギリス発展の時代 完成期・飛躍期) 三十年戦争を起点として約150年経過した頃からB1:七年戦争終結。産業革命 B2:世界の覇権に向けてイギリスの勢力が抜きん出てゆく B3:世界経済が新局面に入って行くB4:イギリスの経済的大発展B5:蒸気船実用化。準大航海時代の幕開けB6:イギリスの伸長。イギリスにとって大転換期あるいは大飛躍期となった。世界中の国家にとっても大転換期となった。以下は日本実業出版社、宮崎正勝著「早わかり世界史 P.199」より【内陸国家であったフランスも、蔵相コルベールのもとで1664年に東インド会社を再建して北アメリカやインドに進出し、毛織物を輸出する外国貿易に積極的に参入することになった。フランスは、1689年以降イギリスの覇権に対する挑戦を続けた。だが七年戦争(1756~63)に際して北アメリカとインドでの戦いに敗れて、ルイジアナ、カナダなどの北アメリカ植民地をすべてイギリスに譲り、インドにおける主導権も失い、ここにイギリスが覇権国となったのである。】* * *イギリス産業革命に関する詳しい記述は「産業革命」を御覧ください。この頃はイギリス発展の時代における盛期、あるいは完成期・飛躍期といえる。以下は山川出版社発行 2002年1月10日 第9刷発行、「木下 康彦、木村 靖二、吉田 寅」編「詳説 世界史研究 P.336~337」より【産業革命世界史の転換点かりにSF風に自由にタイム・スリップができるとしよう。現在から順に過去にさかのぼっていくと、どのあたりで現在の世界とはまったく違う、別の世界に入ったと感じるだろうか。むろん、小さな「変わり目」はいくつもあるが、決定的に「違う」社会に入るのは、とくに西ヨーロッパでは18世紀末のことであろうと思われる。この境目をこえて18世紀に入ると、すでに都市はあるが、なお大半の人々は農村に住んでおり、大きな工場もなければ鉄道もない。仕事は家族がまとまってするのが普通で、家族は一日中、ほぼいっしょに活動している。学校や職場で、同じくらいの年齢のものが大勢集まっているなどということもまずない。人々は時間単位で雇われているのではないから、好きな時間に働き、好きな時間に休んでいる。町でも村でも、地域の人々はたがいに顔見知りで、たいていのことでは助け合いながら生活していた。娯楽も、祭りや地域の人々との交わりが中心であった。しかし、この社会は牧歌的なことばかりでもない。生産の能率は高くないし、科学・技術は発展していないから、人々は貧しく、生活はきわめて厳しい。しばしば飢鐘や伝染病が広がり、子どもは大勢生まれるが次々と死に、生き残った人の寿命も長くはないので、人口はあまり増加しない。病気になっても、迷信まじりの治療法しかない。女性や使用人をはじめ、多くの人々が政治的にも社会的にも一人前には扱われず、選挙権や財産権を認められていないことが多い。このようにみてくると、現代の世界の基本ができあがったのは、この18世紀末から19世紀の初めのころであることがわかる。しかも、その変化は他のどの国よりも、まずイギリスにおいておこったといえる。このように考えて、この大転換を「産業革命」1ndustrial Revo1utionと呼んだのは、スラムの改良運動をおこなっていたイギリスの学者トインビーToynbee(1852~83)であった。19世紀後半に活躍したトインビーには、都市のスラムの生活にみられる貧困や病気・犯罪などの社会問題は、この「産業革命」が生みだした弊害である、と思われたのである。しかし、「産業革命」には、国全体をみれば、生産力を高め伝統的な杜会にみられた貧困を解消する」面もあった。だから、やがて、産業革命はむしろ人類に好ましい結果をもたらしたのだ、と考える歴史家も現れた。とくに、現代のいわゆる第三世界の国々が、いずれも産業革命(工業化)といえるものを経験していない国であることを考えれば、産業革命こそが「開発された」「北」の諸国の高い生活水準をもたらしたのだ、と考えることもできる。したがって、よい意味でも悪い意味でも、産業革命こそは現代の世界が生まれてきたきっかけであった、といえる。】* * *以上の事から、イギリス発展の時代においても、三十年戦争を起点として70年経過した頃から第2段階に入って行き、約150年後に七年戦争で大植民地帝国を築き、産業革命が始まって世界中で最も優位な立場にたった。これは非常に明確である。これまで述べてきた事柄により、明らかに「70年150年説」が適用される。 パックス・ブリタニカの定義は様々なようだが、七年戦争、パリ条約、産業革命の頃がイギリスのみならず、世界的な大転換期となった。また、イギリスにとって非常に大きな飛躍期となった。 詳しくは「イギリス発展の時代初期」「イギリス発展の時代 第2段階から飛躍期」を御覧ください。
2011年03月05日
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ヨーロッパ発展の時代2(概略 イギリス発展の時代・第2段階) イギリスがフランスより優位に立つ事ができたのは、オランダのオラニエ公ウィレム(ウィリアム三世)による所が大きい。17世紀の終わり頃、覇権国オランダが凋落の傾向にあった時、最も強い力を持ったのはイギリスではなくフランスであった。当時のフランスはルイ14世(太陽王)を君主に頂き、勢力を拡大していた。1688年にフランスとアウグスブルク同盟(オランダ、スペイン、スウェーデン、神聖ローマ皇帝レオポルト1世、バイエルン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯、ファルツ選帝侯など)との間で戦争が始まる。この後、同じ年に名誉革命が勃発し、1689年、オランダ統領オラニエ公ウィレム3世がイングランド王ウィリアム3世としてイングランド王に推戴される。イギリスはアウグスブルク同盟に参加、反フランスの先頭に立っていたオランダと共にフランスに対抗、大同盟戦争を戦うことになる。イギリス、フランス両国から見ればこれが第2次英仏百年戦争の始まりとなる。第2次英仏百年戦争は「絶対王政フランス」対「議会王政(立憲王政)イギリス」の戦いとも考えられる。名誉革命を境としてオランダと同君連合に近い強い結びつきを得たイギリスが、これまでのフランス優位の立場を逆転していく。イギリス発展の時代としてみれば名誉革命の頃に第2段階(新たなステージ)に入って行った事は確実である。 名誉革命以後、立憲王政(立憲君主制)が確立し、1715年、1745年に反革命勢力ジャコバイトの反乱が起きるが、鎮圧され、国内は長期安定化に向かう。対外的には、さらに拡大して行く事になる。政治体制もほぼ確立した。グレート・ブリテンも成立した。この頃はイギリス発展の時代における非常に重要で大きな激動期であった。ただし、この頃はパックス・ブリタニカと呼べるほどの優位を築き上げたわけではない。フランスと拮抗する勢力を持ったにすぎない。 詳しくは「イギリス発展の時代 第2段階から飛躍期」を御覧ください。
2011年03月02日
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ヨーロッパ発展の時代2(概略 イギリス発展の時代・第2段階)そして、三十年戦争を起点として約70年経過した頃から英仏第二次百年戦争が始まる。この時にはこれまでの覇権国に対する挑戦者ではなく、むしろフランスの挑戦を受ける覇権国としての立場を築くことになる。イギリス発展の時代初期直前、イギリスはヨーロッパにおいて弱小国家にすぎなかった。英仏第二次百年戦争という大きな枠組みの中で動き出したイギリスはヨーロッパにおける勢力争いで更に高いレベルに達し、世界の覇権において優位な状況を保つ強国になったのである。これは明らかに新段階(本書では第2段階)に入っていった事を意味する。三〇年戦争が勃発した1618年より70年経過した1688年頃の大きな出来事として、 l ニュートン 自然科学史上最高の古典とされる「プリンキピア」(1687年)出版l 名誉革命 (1688年) l 権利の章典 (1689年)l 英仏第二次百年戦争始まる(1689~1815年)l インド産綿織物の需要が高まり、主要な輸入品となる。イギリスで綿織物工業が発展する。l イングランド銀行設立(1694年)、ロンドン株式取引所設立(1698年)などによりイギリスの経済活動は根底からの変革をとげる。などが揚げられる。ここで名誉革命、英仏第二次百年戦争に関わる重要な鍵となった人物に注目したい。出典「ウィリアム3世 (イングランド王)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2009年3月30日 (月) 00:30 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/より 【ウィリアム3世(William III (of Orange) 、1650年11月14日 - 1702年3月8日)は、オラニエ公・ナッサウ伯(在位:1650年11月14日 - 1702年3月8日)、ネーデルラント連邦共和国統領(在職:1672年6月28日 - 1702年3月8日)、イングランド王・スコットランド王・アイルランド王(在位:1689年2月13日 - 1702年3月8日)。スコットランド王としてはウィリアム2世。イングランド女王・スコットランド女王・アイルランド女王メアリー2世は妻。オランダ名はヴィレム3世(Willem III van Oranje-Nassau)。オラニエ=ナッサウ家の出身であるが、ステュアート朝の王の1人に数えられている。中略イングランド王位 1688年、イングランド議会の要請を受け、ヴィレム3世はオランダ軍を率いてイングランドに上陸。義理の父ジェームズ2世をフランスに追放した。イングランドでは1人の死者も出すことなく体制変革に成功したため、名誉革命と呼ばれている。1689年2月にヴィレムはウィリアム3世として国王に即位し、女王となった妻メアリー2世とともにイングランドの共同統治者となった。当初、イングランド議会の意向はメアリーの単独統治であり、ヴィレムは女王の夫(王配)としてのみ遇されるはずであった。しかしヴィレムはそれに反発し、オランダ軍の撤収もちらつかせながら、チャールズ1世の外孫である自らも王位に就くことを望んだため、イングランドはウィリアム3世とメアリー2世を同格の君主として戴くことになった。ここにおいて、これまで3度の英蘭戦争を戦ってきた両国は同君連合に近い形となった(オランダ統領は元首ではあっても君主とはいえないが、事実上オランダの君主と言える)。ウィリアム3世の治世中、イングランド軍の司令官にオランダ人が任命されたり、オランダ人がイギリス貴族に叙任されることもあった。ウィリアム3世のイングランドは直ちにアウクスブルク同盟に参加した(この同盟は大同盟と呼ばれ、アウクスブルク同盟戦争は大同盟戦争とも呼ばれることになる)。これに対しルイ14世は、フランスに亡命したジェームズ2世を援助し、フランス軍を率いてアイルランドを制圧すると、ウィリアム3世は自ら軍を率いてアイルランドに渡り、ボインの戦いでジェームズ2世を破った。またスコットランドの反乱も鎮圧されると、今度は本国オランダに帰ってルイ14世と戦った。英仏の抗争は北アメリカにも拡大し、英領アメリカの植民地とフランス領カナダで戦争が行なわれた。これはウィリアム王戦争と呼ばれる。ウィリアム3世の生涯は、オランダに対するフランスの侵略と戦うことに費やされた。中略歴史的評価 王政復古したチャールズ2世やジェームズ2世時代のイングランドは、太陽王ルイ14世が支配するフランスの衛星国のような存在だった。ところがウィリアム3世はオランダをフランスの侵略から守るために、大同盟戦争でイングランドを反フランス路線に引き込んだ。そもそも名誉革命自体が、この目的のためにイングランドの政治的混乱に乗じた、ウィリアム3世の軍事侵攻による政変劇に過ぎないとする見方さえある。18世紀になるとイギリス(グレートブリテン王国)は常にフランスに対抗し、スペイン継承戦争からオーストリア継承戦争を経て七年戦争でイギリスはカナダ、インドなどフランスの海外植民地をすべて奪い、19世紀のナポレオン戦争で世界的な覇権を樹立する。この一連の戦争は第二次英仏百年戦争と総称されることもある。イギリス帝国の前半期はフランスとの抗争に打ち勝った時代だといってよい。このようなイギリスの反フランス路線をセットしたのがウィリアム3世だった。国内的に権利の章典がイギリス議会政治の一里塚だった以上に、国際関係においてイギリス史の転換点を構築した。一方、オランダにとって、統領ウィレム3世のイングランド王即位によるイングランドとの連合は、長期的には不利益をもたらした。イングランドとの条約でオランダ海軍はイングランドを上回らないよう制限が設けられ、共同作戦の指揮権も握られた。以後オランダ海軍はイングランド海軍の下風に甘んじることになった。さらに貿易や海運でもイングランドに掣肘されることになり、オランダは次第に凋落へと向かっていった。】* * *イギリスがフランスより優位に立つ事ができたのは、オランダのオラニエ公ウィレム(ウィリアム三世)による所が大きい。 詳しくは「イギリス発展の時代 第2段階から飛躍期」を御覧ください。
2011年03月01日
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70年150年周期説《概略 ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代・初期)》イギリス発展の時代初期において、様々な分野で、当時のヨーロッパを支配していた古い体制、宗教的束縛からの解放、新しい光が差し始めた〔ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代・初期)参照〕。イギリスの場合はルターの宗教改革からは遥かに遅れていた。ところがエリザベス女王の時代に新教徒が圧倒的多数を占める様になり情勢は全く異なってゆく。この頃はシェークスピアなどが活躍し、文芸が花開いた。また、イギリス海軍がスペインの無敵艦隊を撃破した。この頃がイギリス発展の時代初期と考えられる。下図を見て頂ければ解かるように、それまではイギリス領土の縮小時代であった。英仏百年戦争以後、特にジャンヌ・ダルク(フランス)の活躍以後のイギリス退潮の歴史を見て、明らかにイギリス発展の時代に入ったと解かるのはエリザベス女王治世後半の頃を置いて他にない。 出典「エリザベス1世 (イングランド女王)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2009年5月6日 (水) 13:09 。 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/【エリザベス1世(Elizabeth I, ユリウス暦1533年9月7日 - グレゴリオ暦1603年3月24日)、イングランドとアイルランドの女王(在位:1558年 - 1603年)。テューダー朝最後(第6代)の女王。当時弱小国家であったイングランドの独立を維持し、「よき女王エリザベス」と慕われた。別名グロリアーナ(Gloriana、「栄光あるもの」の意)。後略】* * *イギリスは英仏百年戦争が継続されている頃には後のフランス領内に広範囲に及ぶイギリス領を持っていたのである。現在のフランスの首都パリはこの当時イギリス領であった。しかし、フランスの少女ジャンヌ・ダルクの活躍以後、イギリス領土は縮小の一途を辿ることになる。これは、ヨーロッパにおけるイギリスの相対的な勢力の衰退であった。エリザベス女王統治以前のイギリスは絶対王政確立に至る前段階にあり、見方によっては発展と捉えてもよい状況にあったようである。しかし、実質的にエリザベス女王統治以前は、イギリス発展の時代どころかヨーロッパ(特に西ヨーロッパ)おけるイギリスの相対的な勢力低下時期であったと言わざるを得ない。フランスはイギリスを大陸から追い落とし、ポルトガルは植民地を背景にイギリスよりも大きな力を持ち、広大な植民地を獲得していたスペインはポルトガルよりもさらに大きな勢力を持っていた。エリザベス女王統治以前のイギリスは西ヨーロッパにおいて弱小国家だったのである。そして、エリザベス女王治世に入っても、初期はむしろ混乱期であった。1569年には北部大貴族の反乱が起こるが、翌年には鎮圧される。イギリス発展の時代開始時期は大体この頃か少し後だと考えられる。この後もエリザベス廃位の陰謀が何度も企てられる。状況が落着くのは1587年、これまでエリザベスに強く抵抗してきたスコットランド女王メアリ・スチュアートの処刑(1587年)以後である。その翌年1588年にイギリス海軍はスペイン無敵艦隊を撃破する。イギリス発展の時代初期はこの頃からとしか考えられない。詳しくは「イギリス発展の時代初期」を御覧ください。
2011年02月28日
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ヨーロッパ発展の時代、完成期・飛躍期(概略)ヨーロッパ発展の時代初期の百年戦争より約150年経過した頃からA1:大航海時代の幕開けA2:世界の覇権に向けてヨーロッパの勢力が抜きん出てゆくA3:世界経済が新局面に入って行くA4:ヨーロッパの経済的大発展A5:宗教改革A6:ヨーロッパの伸長。ヨーロッパによる世界的覇権の確立地域的覇権に関してはイスラム帝国、中華帝国が共に大きな力を持っていた。しかし、本当に地球規模での覇権を確立していったのは西ヨーロッパ諸国であった。A6:ヨーロッパの伸長。ヨーロッパ(特に西欧)諸国にとって大転換期あるいは大飛躍期となった。世界中の国家にとっても大転換期となった。これはローマ全盛時代のパックス・ロマーナをも遥かに凌ぐパックス・ヨーロピアーナとでも言うべき出来事であった。パックス・ロマーナの時代は地球的覇権の確立までには到底及ばなかった。ところが、大航海時代以後のヨーロッパは、善くも悪くも地球的覇権を築き上げていったのである。ヨーロッパ発展の時代における盛期、あるいは完成期・飛躍期といえる。画期的時代、勢力拡大新時代、超過渡期と表現してもよいと考える。 ヨーロッパ発展の時代完成期・飛躍期において、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロなどが活躍した。ヨーロッパの発展のみならず人類全体にとって大転換点となった大航海時代が本格的な幕を開けた。 ヨーロッパ発展の強い精神的支柱を築いた宗教改革が始まった。これから後、逆行、反動、混乱をも経験しながらヨーロッパ発展の時代は続いて行く。ヨーロッパ諸国はこれまでに無い大きな収穫を得ることになる。大航海時代それに続く宗教改革の頃がヨーロッパのみならず、世界的な大転換期となった。また、大きな混乱も引き起こされたが、ヨーロッパにとって非常に大きな飛躍期となった。 詳しくは「ヨーロッパ発展の時代(初期から第2段階)」「ヨーロッパ発展の時代 完成期・飛躍期」を御覧ください。
2011年02月27日
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70年150年周期説(概略 ヨーロッパ発展の時代)ヨーロッパ発展の時代初期 (概略)ヨーロッパ発展の時代初期(ルネサンス初期)において、様々な分野で、当時のヨーロッパを支配していた古い体制、宗教的束縛からの解放など新しい光が差し始めた。特にイタリア・ルネサンスにおける文学、美術、芸術などは新しい段階に入っていったことを実感させてくれる。科学、技術の面でも古代ギリシア、ローマ文化、東洋文化、イスラム文化の受容、発展がなされてゆく。以下は日本文芸社 平成16年1月20日 改訂第1版 第1刷発行 、鈴木晟監修、鈴木旭/石川理夫著「面白いほどよくわかる世界史P.198より」【ルネサンスはダンテの『神曲』、ペトラルカの詩、ボッカチオの『デカメロン』と、トスカーナの言葉で表現した人文主義者たちで幕を開けた。そして文学・絵画・彫刻・工芸・建築・科学とあらゆる分野に拡がり、万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの頂点に達していく。】 * * * ヨーロッパ発展の時代・第2段階(概略)そして、ヨーロッパ発展の時代初期の百年戦争より約70年経過した頃から多くの偉大で進歩的な建築物が建てられ、絵画、彫刻などの芸術が更に高いレベルで一斉に花を開いた。その背景には科学技術の発展や科学的視野の広がり、個人的自由の拡大、経済的発展などがあった。ルネサンスにおける重要で大きな激動期と考えられる。以下は河出書房「世界の歴史 12ルネサンス 昭和48年8月30日 5版発行 P・111」 会田雄次著より【社会に新興の精神があふれている時代はよい。それがいわゆる商人の英雄時代とよばれるものだ。ルネサンスでは、それはすでにふれたように一四世紀のおわりか、たかだか一五世紀はじめまでのころのことで、あとでは商人よりも政治家、利子生活者を望む傾向が強まってくる。それが、洗練された文化に高まるルネサンスの第2段階である。一六世紀には衰えが目立ってくる。だから一六世紀前半のいわゆる盛期ルネサンスは、ルネサンスの完成であるとともに、栄華の残照だといえよう。総じてルネサンス文化が短命なのは、商業が優越しすぎた理由によるのであろう。】* * *詳しくは「ヨーロッパ発展の時代 初期から第2段階」を御覧ください
2011年02月27日
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70年150年周期説 超ルネサンス時代(現代から未来へ)初期から完成期へアメリカ発の金融危機は1929年に引き起こされた世界恐慌とよく比較される。 出典「世界恐慌」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2008年11月9日 (日) 04:00。 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/より【世界恐慌(せかいきょうこう)とは1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことをきっかけに生じた金融恐慌に対する、金本位制であるがゆえのシステム的な不備と当時の各国当局の対応のまずさから生じた1930年代の世界規模の恐慌を指す。大恐慌、世界大恐慌ともいう。中略過剰生産によりアメリカ工業セクターの設備投資縮小が始まったのが大きな要因であり世界恐慌がさらに投資縮小を誘引したため、強烈な景気後退に見舞われることになった。産業革命以後、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していた。しかし1930年代における恐慌(世界恐慌)は規模と影響範囲が絶大で、自律的な回復の目処が立たないほど困難であった。中略各国の状況未曾有の恐慌に資本主義先進国は例外なくダメージを受けることになった。植民地を持っている国(アメリカ・イギリス・フランス)は様々な政策を採りダメージの軽減に努めたが、持っていない国(日本・ドイツ・イタリア)はそれができず国によっては全体主義の台頭を招くことになる。第一次世界大戦後、世界恐慌まで続いていた国際協調の路線は一気に崩れ、第二次世界大戦への大きな一歩を踏み出すこととなった。この中で経済政策で対応し、かつ満州を経済圏として持った日本のGDPは1934年に恐慌前の水準に戻り、ニューディール政策も取ったアメリカは1941年まで恐慌前の水準に回復することができなかった[2]。共和党のフーヴァー大統領は古典的経済学の信奉者であり、国内経済において自由放任政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。1931年、オーストリア最大の銀行が倒産してヨーロッパ経済の更なる悪化が予想されたことに対しようやくフーヴァーモラトリアムと称される支払い猶予を行ったが、既に手遅れであり恐慌は拡大する一方だった。1932年後半から1933年春にかけてが恐慌のピークだったようで恐慌発生直前と比べて株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止、社会主義革命の発生すら懸念された。こうした中、修正資本主義に基いたニューディール政策を掲げて当選した民主党のフランクリン・ルーズヴェルト大統領は公約通りテネシー川流域開発公社を設立、更に農業調整法や全国産業復興法を制定し、更にラテンアメリカとの外交方針を以前の棍棒外交から善隣外交へ転換した。ただ、ニューディール政策は1930年代後半の景気回復を前に規模が縮小されるなどしたため、1930年代後半には再び危機的な状況となった。このため、同政策にどれほど効果があったかについては今日でも賛否両論がある。アメリカ経済の本格的な回復はその後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需景気を待つこととなる。後略】* * * 世界恐慌は1929年に始まった。第二次世界大戦は1939年に始まっている。世界恐慌が始まってから丁度10年ほどして第二次世界大戦が始まっている。レーガノミックスや新自由主義の終焉とも採れる現在の世界金融危機や世界同時不況は2007年のサブプライムローン問題による住宅バブル崩壊、または2008年のベアー・スターンズの事実上の破綻、リーマン・ブラザーズの破綻から始まった。ここから約10年後にこの世界はどのような状況に有るのだろうか。ただ言えるのは第3次世界大戦が引き起こされるようなことはない。そのような大転換期が訪れるのは2060~70年辺りになると予測される。世界は激変して行く、現在の北アフリカ、中東情勢も激変して行く。しかし、超ルネサンス時代完成期・飛躍期の激変は突出したものになると思われる。
2011年02月25日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) ここで、前述の中国の経済的発展の項で記述した英、米、中の関係から推測される予測とほぼ同じ予測を少し違った角度から眺めてみたい。「勢力争いから見た歴史の流れ」と「超ルネサンス 世界史年表」を記載した。この2つの図から読み取れば、2060年頃(超ルネサンス完成期・飛躍期に入っていく頃)までは相対的な勢力低下傾向に陥りながらもアメリカ優位の状態が続くに違いない。東西冷戦終結直後、超大国と呼べるのはアメリカ一国だけであり、善くも悪しくもアメリカ一国主義を押し通す事ができるほどにその力は他を圧倒していた。ところが、2010年現在、アメリカの相対的な勢力低下傾向は経済、金融面ではっきりと表面化してきている。レーガノミックスや新自由主義の終焉とも採れる現在の世界金融危機や世界同時不況は2007年のサブプライムローン問題による住宅バブル崩壊、または2008年のベアー・スターンズの事実上の破綻、リーマン・ブラザーズの破綻から始まった。アメリカ金融界は泥沼状態に陥り、実体経済も大きな影響を受け、世界同時不況に陥った。現在もなおその後遺症が続いている。しかし、それでもアメリカ合衆国は、超ルネサンス完成期、飛躍期開始時期(2060年頃)まで世界的に優位な立場を維持し続けるであろう。 現在に至るもなお猛威を振るっているアメリカ発の世界的金融危機がアメリカの威信の低下であることは確実だ。しかし、これはアメリカの終焉というよりも、1980年代(超ルネサンス時代第2段階開始時期)に始まったレーガノミックス路線における新自由主義の肥大化とその終焉と捉えたほうが良いと考えられる。また、現在の世界的金融危機、世界同時不況は1929年10月24日に始まった世界大恐慌ほどの節目あるいは大転換点にはならないと考えられる。 世界大恐慌は第2次世界大戦誘発の大きな要因となった。大恐慌発生から約10年後の1939年9月に第2次世界大戦が勃発している。そして、今回の金融危機は第3次世界大戦誘発の大きな要因となるとの予測もあった。しかし、70年150年周期説あるいは250年周期説を元に予測すれば、それは有り得ない事である。要するに、この時期にそれほど大きな節目が来ることはない。来るとすればもっと先の事になるはずである。(2010年現在では、アメリカ終焉論や第3次世界大戦勃発予測はほとんど聞かれなくなった。筆者の以前の予測どおりになる可能性は高いと考えている。) 政治、経済、軍事を総合的に考えれば、アメリカは西暦2060年頃まで世界の覇権国の地位にとどまると考えられる。ただし、その地位は紆余曲折を経ながら弱まっていくに違いない。
2011年02月24日
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70年150年周期説を見出してから、既に10年目に入ってしまった。ルネサンスから大航海時代、宗教改革などに至る大きな歴史の流れの中に意外な類似性を見つけた時は、それだけで大発見だと考えた。イギリス発展の時代、アメリカ発展の時代にも相似性が確かにある。現在進行中の歴史の流れの中にはさらに確実に、前半の70年周期説が当てはまっている。これまで70年150年周期説を掲載してきて、いまだにこの信じられないような法則性は確かに有ると考えている。しかし、残念ながら、その考えを第三者に伝える能力が私には欠けていると痛感している。様々な面で自分の能力の低さに死ぬほど落胆しているような状況である。どうか笑ってやってください。まあ、できるだけやっていくしかない。2040~2050年頃になれば、状況は変わるかもしれない。しかし、現在61歳、その頃にはこの世には居ないだろう。誰か変わってくれないかな。「まあ、なるようになるさ。」と言うことで。以上、能力不足に悩む人間の独り言でした。それでも懲りずに、今後ともよろしくお願いします。
2011年02月24日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) アメリカ同時多発テロが発生し、次に「アフガニスタン紛争2001年-」が引き起こされた。「アフガニスタン紛争2001年-」の後にさらにイラク戦争も引き起こされる。アフガニスタンが第2のベトナムとなるかどうかは分からないが、近い将来において、アフガニスタンに本当の平和が到来するとは考えられない。しかし、イラクにおいては状況の改善がみられるようになっている。出典「イラク戦争」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2011年2月22日 (火) 14:23 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/より【イラク戦争(イラクせんそう)は、2003年3月20日よりアメリカ合衆国が主体となり、イギリス、オーストラリアに、工兵部隊を派遣したポーランドなどが加わる有志連合が、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由としてイラクに侵攻したことで始まった戦争である。正規軍同士の戦闘は2003年中に終了したが、後にイラク国内での治安の悪化が問題となりイラク国内での戦闘は続行した。2010年8月31日にオバマ米大統領によって正式にイラク戦争の終結が宣言された。イラク戦争(イラクせんそう)は、2003年3月20日よりアメリカ合衆国が主体となり、イギリス、オーストラリアに、工兵部隊を派遣したポーランドなどが加わる有志連合が、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由としてイラクに侵攻したことで始まった戦争である。正規軍同士の戦闘は2003年中に終了したが、後にイラク国内での治安の悪化が問題となり、現在でもイラク国内での戦闘は行われている。戦争の終結時期については解釈が分かれるが、現在も少なくとも武力紛争状態は継続している。後略】* * * イラクの治安状況は改善されてきている。しかし、これから先、安定した政治体制が確立される見通しは立っていない。イラクを含めて、最近の中東情勢は非常な流動性の中にあり、政権、政治体制は次々と塗り替えられつつある。大きく眺めれば、民主化は進んでゆくと思われる。70年150年周期説筆者はオバマ大統領が提唱した「核なき世界」が実現するとすれば、西暦2060年以降になると考えている。70年150年周期説によれば、真の意味での大変革はその頃にならないと引き起こされない。ヨーロッパ発展の時代、ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代)、アメリカ発展の時代において70年150年周期説が当てはまると考えられるし、特に超ルネサンス時代(現代から未来へ)においては最もハッキリと第一次世界大戦勃発より70年ほどで最大の転換期を迎えている。現代において70年150年周期説が確実に進行中である事が最もよくわかると考えている。あとは、第一次世界大戦勃発より150年ほど(西暦2060年頃)で更なる大転換期が来るに違いない。 東西冷戦終結あるいは直後のソヴィエト連邦崩壊の頃に群を抜く大転換期が有り、新しい段階に入っていった。非常に大きな枠組みが崩れ去ったのは歴史上の事実である。次にアメリカ同時多発テロ、アフガニスタン戦争、イラク戦争、金融危機、世界同時不況、中国の更なる台頭、北アフリカ、中東情勢の激変などと続いている。東西冷戦終結後に善くも悪しくも枠組みのハッキリ見えない新しい混沌の時代が始まっている。以上の様々な事柄から第1次世界大戦開始(1914年)より70年経過した1984年頃からは、世界が新たな段階に入っていく最大の分かれ目であったと言える。
2011年02月24日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) アメリカ同時多発テロ事件後にアフガニスタン戦争(アフガニスタン紛争2001年-)が勃発する。 出典「アフガニスタン紛争2001年-」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2011年2月19日 (土) 03:08 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/より【アフガニスタン紛争2001年-(アフガニスタンふんそう2001ねん)の項目では、アフガニスタンで断続的に発生している紛争のうち、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の首謀者として指定された「アルカーイダ」の引き渡しに応じなかったターリバーン政権に対し、アメリカ合衆国が主導する有志連合諸国および北部同盟(2001年以降はアフガニスタン暫定政府、2004年以降はアフガニスタン政府)が「不朽の自由作戦」に基づき、アフガニスタンにおいてターリバーン勢力、アルカーイダ、およびその他の武力集団との間で行われている武力衝突を扱う。中略概要2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件は、その損害の大きさでアメリカ合衆国を含む世界各国に衝撃を与えた。北大西洋条約機構(NATO)はテロ攻撃に対して「集団的自衛権」を発動した。アメリカ政府によって、これまで数度に渡ってアメリカに対するテロを行ったウサーマ・ビン=ラーディンとアルカーイダに首謀者の嫌疑がかけられた。アフガニスタンの9割を実効支配していたタリバン政権は、数度に渡る国連安保理決議によってビン=ラーディンとアルカーイダの引渡しを要求されていたが、拒否し続けており、今回も拒否した。NATOは攻撃によってタリバン政権を転覆させる必要を認め、2001年10月にアフガニスタンの北部同盟と協調して攻撃を行い、タリバン政府を崩壊させた。以降、国連の主導によるアフガニスタン復興と治安維持が行われているが、南部を中心としてタリバン派の勢力が攻撃を行っており、アフガニスタンの治安は2010年現在も安定していない。この攻撃はアメリカ合衆国政府によって「対テロ戦争」の一環と位置づけられ、国際的なテロの危機を防ぐための防衛戦として行われた。イギリスを始め多くの国がこのアメリカ政府の攻撃に賛同した。対テロ戦争全体の作戦名は当初「無限の正義作戦 (OIJ: Operation Infinite Justice)」とされたが、参加諸国の間で評判が悪かったため、「不朽の自由作戦 (OEF: Operation Enduring Freedom)」と改められた。英国では米国が云う「不朽の自由作戦」は「ヘリック作戦」(Operation Herrick)と呼んでいる[出典 1]。アフガニスタンにおける軍事行動の正式名称はアフガニスタンにおける不朽の自由作戦(OEF-A:Operation Enduring Freedom - Afghanistan)である。またその後、アフガニスタンからパキスタン連邦直轄部族地域にかけてタリバン系の組織活動が活発となり(ワジリスタン紛争)、海上でテロ組織の補給ルートを断ち切る海上阻止活動(OEF-MIO:Maritime Interdiction Operation)も行われている。対テロ戦争の動きは更に、イラン、イラク、北朝鮮の3ヵ国をテロ支援国家であるとするブッシュ米大統領の「悪の枢軸発言」に発展し、2003年3月にはイラク戦争が始まった。後略】* * *アメリカ同時多発テロが発生し、次に「アフガニスタン紛争2001年-」が引き起こされた。「アフガニスタン紛争2001年-」の後にさらにイラク戦争も引き起こされる。アフガニスタンが第2のベトナムとなるかどうかは分からないが、アフガニスタンに本当の平和が到来するとは考えられない。
2011年02月23日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) 冷戦終結後 12・アメリカ同時多発テロ事件 (2001年)に関して 出典「アメリカ同時多発テロ事件」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2010年8月21日 (土) 20:36 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/【アメリカ同時多発テロ事件(アメリカどうじたはつテロじけん)は、2001年9月11日にアメリカ合衆国で発生した、航空機を使った4つのテロ事件の呼称である[1]。航空機によるテロとしては未曽有の規模であり、全世界に衝撃を与えた。その後、アメリカはアフガニスタン紛争、イラク戦争を行うことになる。中略事件の影響 9・11テロは、アメリカ合衆国の政治、そして冷戦終結後の国際社会の大きな転換点となった。9・11テロが勃発する前には、「アメリカ合衆国国民の記憶に残る日」は、1963年11月22日のジョン・F・ケネディ暗殺事件、或いは1941年12月7日(日本時間12月8日)の真珠湾攻撃であった。これらに代わって、アメリカ国民は、この2001年9月11日を永遠に記憶にとどめることになった。また、9・11テロは、外国の軍や過激派がアメリカ合衆国を襲撃した事件として、真珠湾攻撃と度々対比されている。真珠湾攻撃はアメリカ本土ではなくハワイが襲撃された事件であったが、9・11テロはアメリカ本土が襲撃された事件という意味でも衝撃的な大事件ともなった。しかも、真珠湾攻撃と9・11テロは干支が同じ辛巳であり、「60年後の真珠湾攻撃」とも呼ばれた。2001年12月に開かれた真珠湾攻撃60周年のイベントでも、真珠湾攻撃と9・11テロが一緒に言及された。アメリカ合衆国国内の世論は急速に先鋭化・超国家主義化したと言われ、ネオコン(新保守主義)勢力が政治の舞台に全面的に登場。その影響力を増大させた引き金ともなった。その後、アメリカ合衆国によるテロ支援国家への攻撃には国民の大半が賛同した。議会でも野党民主党が共和党のタカ派路線を容認する動きが目立った。事件直後、ブッシュ政権が9・11へのイラクの関与をほのめかし、過剰なマスコミ報道によりそれが増幅された為国民の間にイラクとサダム・フセインに対する敵愾心が増大し、2年後のイラク戦争の呼び水となったと言われる。その後、独立調査委員会の調査でイラクの関与がハッキリと否定され、ブッシュ大統領自身もそれを認めたにも関わらず、2005年3月の世論調査では、米国民の約60%が「イラクはアルカイダを支援していたと思う」と答えている。一方、他の国ではアメリカ合衆国の方針に対して世論が二つに割れた。親米的な意見(アメリカ合衆国の主張)としては、これを基に世界中の独裁国家の民主化をすすめるべきだという意見などがある。特にブッシュ大統領が悪の枢軸としたイラク・イラン・北朝鮮などで非民主的体制が猛威を奮っているとされる状況で、これを解決するべきだとの声もある。その後のアメリカ合衆国の対応を見ると、イラクやイランに対しては強硬姿勢に出るものの、北朝鮮やリビア、サウジアラビアに対しては様々な事情(アメリカの同盟国への軍事的影響力、石油利権など)から強硬姿勢を持たないなど、二重基準と批判する対応が目立つ。反米リベラル的な意見としては、「自由の国アメリカ」のシステムを国外に普及させることを使命とするネオコン勢力の拡大は、政府の好戦的姿勢に反対する意見を言えない雰囲気を作り出しているとする声もあり、リバタリアニズムなど反ネオコン陣営からの反発も高まっている上に、アメリカ合衆国国内でさえ破綻しかけているアメリカ合衆国的価値観・システムの押し売りであると言う反発が多い。またこの事件をきっかけに、アメリカ合衆国は国連協調をなくして一国独走主義の時代になったり、冷戦時代の米ソ対立の構図の残滓も消え、世界の軸は突出した超大国一国によって動かされる(ジョン・ボルトンの国連軽視発言)時代になったとする意見もあり、これを「アメリカ帝国」と表現するアントニオ・ネグリ、マイケル・ハートのような思想家などもいる。なお軍事的には、戦争をこれまでの国家レベルの紛争から、ある結びつきによる国なき民間軍事組織と国家との紛争という新たな形として、提示されたことに意義がある。後略】* * *このアメリカ同時多発テロ事件に関しても記事が非常に長いので極一部だけを記載した。 アメリカ同時多発テロ事件後にアフガニスタン戦争(アフガニスタン紛争2001年-)が勃発する。
2011年02月22日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) 10・ソヴィエト連邦の崩壊 (1991年)に関してソ連崩壊による影響は多岐にわたっているが、ソ連崩壊(1991年)以後、左翼テロは減少し、1980年代以後目立つようになった宗教テロが拡大し、特に原理主義テロと呼ばれるテロが世界中に荒れ狂う世の中になってきている。ソ連崩壊による混乱により多くの核兵器が行方不明になっているとも報道されている。2008年6月16日配信のニュースによれば、「国際密輸グループ、小型核兵器の設計書入手」とされている。テロ支援国家と呼ばれる国家も存在している。将来、テロ組織による核攻撃の可能性さえ有り得ない話ではない。北朝鮮やイランなどは現在、小型核兵器の製造技術はないが、設計書をもっている可能性は高い。そして、残念ながら様々な憎悪の連鎖は収まりそうにない。その他、冷戦終結以後の世界はそれまでとは構造が大きく変化した領域に入っていった。 ここで何の権威もない私なので東京女子大学名誉教授、猿谷 要氏の言葉を引用させていただく。ここでも「冷戦が終結した一九八九年」または「ソ連邦が解体した一九九一年」が重要な転換点として記述されている。出典「ソ連崩壊」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2009年8月29日 (土) 03:31 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/【ソ連崩壊(ソれんほうかい、露: Распад СССР)とは、1991年12月25日にソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦(ソ連)が解体され消滅した事件である。ソ連崩壊は、1922年の設立以来、アメリカ合衆国に匹敵する超大国として69年間続いたソビエト連邦が、独立国家共同体(CIS)に取って代わられ、その国家格を失ったということと、東側陣営の総本山として君臨し、前身のボリシェヴィキ時代を含めて1917年以来74年間続いたソ連共産党によるソ連型社会主義体制が崩壊したことにより、かつて世界を二分した冷戦の時代が名実共に終焉を迎えたという、二つの文脈において重要な出来事である。中略ソ連邦崩壊の影響 かつてソ連は「労働者の祖国」と呼ばれたが、その実態は国民の自由や民主主義が抑圧された政治体制だった。ソ連崩壊により、それまでソ連から財政上も資金援助されてきた世界各国の共産主義政党は大混乱に陥った。この混乱から無縁であったのは、もとからソ連の干渉・覇権主義とは徹底して対決してきた日本共産党のみであった。日本共産党は「歴史的巨悪だったソ連共産党の解体を両手を挙げて歓迎する」と声明を出した。日本国内において東側の立場を代弁していた日本社会党は大きく党勢を弱体化させた。フランス共産党とイタリア共産党などの、社会主義を放棄した国々の旧共産党は、次々に社会民主主義政党に衣替えしていった。また、西側の社会民主主義政党は、「第三の道」と呼ばれる中道・リベラリズムに近い方向へ路線転換を図っていった。東欧革命を反スターリン主義革命に転化できなかった日本の新左翼は、敗北と言われた。ソ連のスターリン主義を主要打撃対象としていた日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(通称、革マル派)は、「世界史的大逆流」と解釈不能に陥った。新右翼活動家の野村秋介は、闘争目標を失ったとして朝日新聞社社長室で拳銃自殺した。アメリカ合衆国と唯一互角に戦えると思われていた二大パワーの一つ・ソ連の消滅によって、アメリカ合衆国は事実上唯一の超大国となった。後略】* * * 株式会社三笠書房刊「この1冊でアメリカの歴史がわかる! あとがきP,311」【さて私たちはいま、大変な歴史的時代に生きています。実質的な二十世紀はもう終りました。暦の上の話ではなく、二十世紀の本体は、第一次世界大戦から始まり、冷戦が終結した一九八九年に終了しました。この終りの時期は、ソ連邦が解体した一九九一年としてもいいでしょう。とにかく、実質的な二十世紀はすでに終りを告げ、私たちは、混沌として先が見えにくい過渡期のなかを、手探りで進んでいるのです。】* * * 2009年1月1日付け朝日新聞の9面「揺れる国際社会」の見出しにこう書かれている「冷戦が終わった1989年 変化は始まった」。記事内容の概要は「東西冷戦の終結、民主化、インターネットの飛躍的な普及、経済のグローバル化。一方で民族紛争が火を噴き、国際テロの脅威の拡散など1989年がさまざまな変化の一つの起点になった。20年がたち、変化はなお加速している。」2009年11月10日付けの中日新聞社説によれば、「東西冷戦を終結させた時代の熱気は絶えて久しいが、現在の地球規模の問題の多くはその冷戦終結に直結している。」とある。そして、その問題として、核兵器拡散、民族紛争、金融・経済危機、イスラム過激派テロ、環境・エネルギー問題などが挙げられている。
2011年02月21日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) 8・ベルリンの壁崩壊 (1989年) 東西ドイツ統一(1990年)に関して米ソ冷戦終結宣言の直前に引き起こされた、冷戦構造の象徴でもあった「ベルリンの壁崩壊」は事実上の冷戦終結であった。《《筆者注:年月日順に並べるとベルリンの壁崩壊(1989年11月9日)、米ソ冷戦終結宣言(1989年12月3日)、東西ドイツ統一(1990年10月3日)》 以下は日本文芸社 平成16年1月20日 改訂第1版 第1刷発行 、鈴木晟監修、鈴木旭/石川理夫著「面白いほどよくわかる世界史P.328より」【ソ連における大改革の始まりは西側との経済格差に不満をもつ東欧社会主義国に飛び火した。とりわけ、全世界に大きなショックを与えたのは、一九八九年十月、東ドイツのホネカー書記長が東ドイツ国民に退陣を迫られ、翌月には、ベルリンの壁が開放され、東西ベルリン間の自由往来が認められたことだ。全世界の人々はわれとわが目を疑って、ベルリン市民が壁をハンマーで叩いたり、壁の上に馬乗りになったり、感動と感激と興奮に沸く瞬間に立ち会ったのであった。半世紀にわたる東西分断の呆気ない幕切れであった。後略】* * *出典「ベルリンの壁崩壊」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2009年9月9日 (水) 20:31 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/【ベルリンの壁崩壊(ベルリンのかべほうかい)は、1989年11月9日に突如として東ドイツ政府が、東ドイツ市民に対して事実上の旅行自由化(実際には旅行許可書発行の大幅な規制緩和)を発表した事によって、実質的に意味を持たなくなったベルリンの壁が、東西通行の自由に歓喜した東西ベルリン市民(東ベルリンと西ベルリン)によって、ハンマー、建設機械その他によって粉砕された事件。中略東西ドイツ統一 ベルリンの壁崩壊はソ連・東欧を含めた世界中から祝辞を送られ、次の政治目標には、東西分裂以降ドイツ人にとっては悲願である東西ドイツ統一が設定され、その気運が高まった。ソ連の指導者であったミハイル・ゴルバチョフはドイツ統一には時間がかかると想定していた上に、東ドイツが北大西洋条約機構(NATO)に参加することを恐れていた。アメリカ合衆国大統領であったジョージ・H・W・ブッシュも、統一がそれほど早い時期に実現するとは考えていなかった。西ドイツ首相のコールですら、早急な統一には無理が生じると考えていた。東ドイツでは、円卓会議を開き、新国家のための新憲法まで作ってさえいた。 しかしながら、東西ドイツの統一はアメリカ、ソ連、そして西ドイツ首脳が考えていたよりも、はるかに速いスピードで進められた。この驚異的なスピードで進んだドイツ再統一の原動力は、ベルリンの壁が崩壊した事によって生み出された「歓喜」と「感動」以外の何物でもなかった。1990年3月、東ドイツにおいて最初で最後となる自由選挙が行われ、西ドイツのコール首相が肩入れした速やかに東西統一を求める勢力が勝利すると、それまでの社会主義統一党政権が主張していた東西の対等な合併ではなく、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東ドイツ(ドイツ民主共和国)を吸収する方式(東ドイツ4州が自発的にドイツ連邦共和国に加入する)で統一が果たされることに決定した。結局、ベルリンの壁崩壊から1年も経たない1990年10月3日東西ドイツは正式に統一されることになった。なお、統一式典ではルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」が演奏された。しかし、この「感動」と「歓喜」の情熱の渦はコールが想定したとおりの弊害をもたらした。東ドイツでは1989年11月19日以降、自分達は二つに分裂したうちの片方である「東ドイツ国民」ではなく、統一された「ドイツ国民」であると言う意識が大きくなっていった。これが早急なドイツ統一を支持する背景となった。統一後の経済的な不安が想定されて然るべきであるが、壁の崩壊直後に西ドイツ政府が西ドイツを訪問する東ドイツ市民に対して渡した一時金はこの不安をかき消す事を助長した。ドイツの再統一は東ドイツ市民を無条件で裕福にするかのような幻想を生み出した。結局「ドイツ再統一」のスピードが余りにも速すぎたことは、その後の経済的混乱によって実証される事になった。世界屈指の経済大国であった旧西ドイツと旧東ドイツの経済格差は一時的な幻想では覆い隠せないほど歴然たるものが存在した。現在でも東西の所得格差は残されたままである。また、旧東ドイツでは資本主義に適応できなかった旧国営企業の倒産によって失業者が増加し、旧西ドイツでは旧東ドイツへの投資コストなどが足かせとなって景気の低迷を招いた。このため東西双方で市民の間に不満が高まることになった。東西ドイツの統一に関する法的な見方についてはドイツ再統一を参照のこと。冷戦終結 ゴルバチョフは従来から冷戦の緊張関係を緩和させる新思考外交を展開していたが、ドイツ分裂とベルリンの壁の存在は冷戦の代名詞でもあり、いくら緊張緩和といってもベルリン問題を解消しない限り「冷戦の終結」とはいえない状況であった。 ところが、ベルリンの壁が崩壊したことで、東西ドイツの統一に一応の目処が立つこととなった。1989年12月3日のアメリカのブッシュ、ソ連のゴルバチョフの両首脳がマルタにおいて会談し、冷戦の終結が宣言された。東欧への波及 ベルリンの壁崩壊はすでに民主化を果たしていたポーランドを除いた全東ヨーロッパに波及し、チェコスロバキアではビロード革命、ルーマニアではルーマニア革命を引き起こした。すでに民主化への取り組みを始めていたハンガリーでは、汎ヨーロッパ・ピクニックの成功等により、民主化の動きが加速され、10月23日に共産主義体制は打ち捨てられた。さらにはバルト三国の独立が果たされ、共産主義の大本であったソ連自身の崩壊にも繋がった。後略】* * *
2011年02月20日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) 70年150年周期説 ここで少し断っておきたい。現在は「超ルネサンス時代 第2段階」に関する記述をしている。これはただ単に、起点とする戦争である「第一次世界大戦」から約70年経過した時期を「超ルネサンス時代 第2段階開始時期」としているのではない。現代における明らかな大転換期と捉えて「超ルネサンス時代 第2段階(中期、新段階、新たなるステージ、新領域と呼び変えてもよい。)」と呼んでいる。これは「ヨーロッパ発展の時代」「イギリス発展の時代」「アメリカ発展の時代」においても同じである。単に起点となる戦争から70年経過した頃を「第2段階開始時期」と呼んでいるわけではない。その時期が明らかに大転換期となっているから「第2段階開始時期」と呼んでいるのである。これを表した図は水の氷点、沸点と似通ったところがある。まず、氷(固体)を起点として、氷点以上になれば、氷が溶け出して水(液体)となる。次に、水(液体)が沸点以上になれば、水蒸気(気体)になる。このようにある転換点(ここでは氷点、沸点)を過ぎると様相が全く変わる事がある。この転換点(転換期)と似通っているのが、「第2段階開始時期」および「完成期・飛躍期開始時期」である。この転換期を境にして情勢が大転換して行く。 各時代における歴史的激変ヨーロッパ発展の時代1第2段階においては、ルネサンス建築、美術などの分野で急激な開花が見られた。これは科学、技術分野での発展、思考、思想などの進化、発展、その他様々な分野での発展に裏打ちされている。ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代)第2段階ではイギリスがオランダと連合する。そして、イギリスはフランスと敵対して世界の覇権を競い合う第二次百年戦争に入って行く。名誉革命を境として急激な枠組みの変化が引き起こされた。アメリカ発展の時代第2段階では、急激な領土拡大による南北対立の激化から南北戦争へと展開する。超ルネサンス第2段階の転換点(転換期)は1989年頃になると考えられる。2009年1月1日付け朝日新聞の9面「揺れる国際社会」の見出しにこう書かれている「冷戦が終わった1989年 変化は始まった」。記事内容の概要は「東西冷戦の終結、民主化、インターネットの飛躍的な普及、経済のグローバル化。一方で民族紛争が火を噴き、国際テロの脅威の拡散など1989年がさまざまな変化の一つの起点になった。20年がたち、変化はなお加速している。」2009年11月10日付けの中日新聞社説によれば、「東西冷戦を終結させた時代の熱気は絶えて久しいが、現在の地球規模の問題の多くはその冷戦終結に直結している。」とある。そして、その問題として、核兵器拡散、民族紛争、金融・経済危機、イスラム過激派テロ、環境・エネルギー問題などが挙げられている。 私もこの考えに賛同する。敢えて、最も重要な転換年を挙げるならば1989年になると考えている。これは超ルネサンス時代の記述を読んでいただければわかると思う。ただし、私の場合はもっと広く転換期と捉えている。東西冷戦終結に関しても、冷戦構造が大きく崩れて行くのは1989年以前にある。そこで筆者は「1984年ころ(前後)」からともっと大きく捉えている。しかし、再度、最も重要な転換年を挙げるならば1989年になると考えているのは全く同じである。超ルネサンス第2段階は東西冷戦終結、ソ連崩壊という劇的に枠組みが変化した頃に始まった。まさに急激な枠組みの崩壊であった。次にヨーロッパ発展の時代1完成期・飛躍期には芸術が最高峰ともいえる段階に達した。また、バーソロミュー・ディアス喜望峰に到達(1488年)、コロンブス、アメリカ発見(1492年)などの快挙が成され、急激な展望の拡大がなされた。西欧諸国の可能性が劇的に拡大したのである。ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代)完成期・飛躍期では七年戦争が終結し、産業革命が引き起こされる。イギリスの優位が決定的になり、世界が劇的に変わっていくことになる。アメリカ発展の時代完成期・飛躍期には未曾有の世界大戦(第一次世界大戦、第2次世界大戦)により西欧が没落し、アメリカが超大国としての力を持つ。空前の激変期といえる。そして、第1次世界大戦勃発1914年より150年経過した2064年頃には常識を遥かに超えた文字通りの超大転換期が到来すると予測している。それが超ルネサンス時代完成期・飛躍期である。現在、世界を揺るがしている金融危機、世界同時不況その他などは全く問題にもならないほどの変化になるだろう。
2011年02月20日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) 7・米ソ冷戦終結宣言 (1989年)に関して(その2)世界を二分した冷戦構造の崩壊は、世界中の体制の大きな変革に結びついている。それが丁度、第一次世界大戦開始から約70年後に引き起こされている。その時期にあたる頃からを「70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階)」と呼ぶのは、決して間違ってはいないと考えている。この時期が群を抜いた大転換期となっているのは間違いがない。出典「冷戦」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2011年2月15日 (火) 19:33 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/【冷戦(れいせん。Cold War)とは、第二次世界大戦後の世界を二分した、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造である。中略概要冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を盟主とする共産主義を名目とする陣営が東ヨーロッパに集まっていたことから「東側」、対するアメリカ合衆国を盟主とした資本主義を名目とする陣営が西ヨーロッパに集まっていたことから「西側」と呼んで対峙した。その対立は軍事、外交、経済だけでなく、宇宙開発や航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。又、冷戦の対立構造の中で西ヨーロッパは統合が進み、欧州共同体や欧州連合の結成へ向かった。ヨーロッパのみならず、アジア、中東、南アメリカなどでも、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているが為に経済的、人的な情報の交流が少なく、冷戦勃発当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「鉄のカーテン」と表現した。ちなみにアフリカは西側の植民地が多いため西側の動きも見られた。このアメリカ陣営とソ連陣営のどちらにも与しない国家(開発途上国)は、「第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営の思惑の中で翻弄された。しかし、こうした両陣営の思惑を逆手に取り、両陣営を天秤に乗せる事で多額の援助を引き出す「援助外交」も活発に行なわれた。又、この米ソ両陣営の対立構造を「大国の覇権主義」と否定した国々は、インドなどを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった(といっても有名無実である国も多かった)。尚、経済発展が進んだ開発途上国が「第三世界」と呼ばれ、経済発展が遅れている開発途上国は「第四世界」と呼ばれる事もある。ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったためヤルタからマルタへということも言われる。中略ポスト冷戦時代 「現代 (時代区分)」、「一極体制」、および「平成#国際関係史」も参照米ソ冷戦が終結した当初の1990年代初期においては、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』で述べたことを受けて、希望と幸福が訪れると見る向きもあった。しかし、冷戦終結直後の1991年12月に、冷戦の盟主国の一角であるソ連が死滅すると世界の均衡が崩れ、アメリカが唯一の超大国となってアメリカ的システムが絶対化されるアメリカナイゼーションが世界を席巻した。政治のアメリカナイゼーションは「民主化」の名で、経済のアメリカナイゼーションは「グローバリゼーション」の名で推進された。同時に冷戦終結により、それまでクレムリンやホワイトハウスに抑圧されていた世界各地の民族問題が再燃した。東ヨーロッパを見ると、1992年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに平和裏に分離した反面、1993年に起こったユーゴスラビア紛争は、民族同士の憎しみに火を点けてその後も続いた。カフカス地方ではアゼルバイジャンやアルメニアで内戦となり、チェチェンをはじめ各小民族が独立闘争を起こし、各国で内戦に発展した(第一次チェチェン紛争)。この内戦はロシア軍による圧倒的な火力で制圧されているが、追い込まれた独立派はテロ行為に走り、収拾がつかなくなっている(第二次チェチェン紛争)。又、このテロにはイスラム原理主義過激派の関与が疑われている。西ヨーロッパの冷戦は終わったが、東アジアではモンゴルの民主化、ベトナムとアメリカの和解の外は、中華民国と中華人民共和国の対立、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の対立が現在も続いており、日本国内では日本共産党と朝鮮総連は現在も公安当局(公安調査庁、公安警察)に監視されているなど、こちらは解決の見通しが立っていない。特に、中華人民共和国は1989年から軍備増強を強力に推し進めており、近年になって周辺国(中華民国や大韓民国や日本)にとって脅威となっていると言われるようになった(中国脅威論、米中冷戦)。中華人民共和国は名実ともに一党独裁国家であり、2000年代に入って暴動が多発するなど、国内が不安定化している。フランシス・フクヤマの論に従えば、一党独裁国家である中華人民共和国は、政府(中国共産党政権)が死ぬ時が必ず訪れるという論になる。ロシアは、ソ連が死滅すると共和制国家として甦生し、ボリス・エリツィン政権下で経済の再建と資本主義化が推進された。しかし、これが裏目に出てロシアの経済は悪化し、特にアジア通貨危機後の1998年にはロシア財政危機が起きて一層悪化するなど、「冷戦の敗戦国」として欧米の経済援助に甘んじていた。しかし、2003年頃より原油価格高騰の恩恵により経済は好転し、それを背景にウラジーミル・プーチン政権は再び「強いロシア」の復権を謳い、EUやNATOへの旧ソ連加盟国の取り込みを進めていた欧米に対して、牽制の動きを見せるようになった。現在のロシアも独裁体制に近く、フクヤマの論に従えば、政権が死ぬ時が必ずやってくるということになる。つまり、将来において中華人民共和国やロシアの現政府が倒されて民主化された時、大国同士の冷戦や世界大戦の危険性は消えて、全世界において民主主義体制が半永久的に続き、歴史が終わるとされる。民主主義の枠内であれば、政権交代により社会問題や他国との国際問題を解決できるとされる。しかし、現段階では、アメリカ主導の民主主義体制・資本主義体制が、民衆に必ずしも幸福をもたらしていない実状が、アメリカ発の世界同時不況により立証された。ポスト冷戦時代になると、資本主義・民主主義は、資本家による労働者の使い捨てや、不況の世界規模化といった災難を解決できていない。しかし、時間は長期になるが民主主義体制の枠内なら問題は解決可能という見方もある。又、フクヤマの論は、アメリカによる「民主化」(時には武力を伴う)を容認する内容だという誤った解釈がなされ(フクヤマ自身もイラク戦争は誤りであったと述べている)、「自由」があることをいわば「売り」とするアメリカナイゼーションが世界中で急速に進んでいる。ただ、実状がアメリカの多国籍企業の為の利益の追求であるにせよ、結果的に第二次世界大戦以後、アメリカの同盟国・友好国・アメリカにより民主化された国(イラクなど)の民が自由を手に入れたのは事実である。冷戦中は反共主義という理由でアメリカの支援を受けていた独裁国家も、冷戦が終わるとサウジアラビアなどを除いて次々と民主化されている。アメリカは「冷戦の勝戦国」という自信から、1991年の湾岸戦争に引き続いて中東への介入を深め、ビル・クリントン政権はパレスチナ問題に積極的に関わり、初めて和平合意をもたらした。しかし、イスラエルの凶変から和平は暗礁に乗り上げ、パレスチナ過激派によるテロとイスラエル軍による虐殺によって、パレスチナは泥沼の様相を呈した。又、アフガニスタンやスーダンには1998年にミサイル攻撃を強行し、特にアフガニスタンには4回に亘る経済制裁を与えた。アフリカに対しては、スーダンの外にはソマリアにも国際連合の力で内戦に介入したが失敗し、これによって、クリントン政権は地上軍の派遣を恐れるようになった。イラクに対しては湾岸戦争以来敵対しており、イラク武装解除問題に関しても、武器査察が滞る度に空爆を加えた。これらのアメリカによる中東への介入やグローバリゼーションに反感を抱くイスラム原理主義過激派は、2001年にアメリカ同時多発テロ事件を惹き起こし、対テロ戦争と呼ばれるアメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争となった。核開発競争によって生産された高性能核弾頭を、現在もアメリカとロシアが数千発保有している。冷戦初期に核のアメリカ一極集中を恐れた一部の科学者は、核の抑止力で世界の均衡を保とうと、ソ連とイギリスとフランスに開発法を伝授し、ソ連から中華人民共和国にも継承されて、現在の核五大国が形成された。この外にも、中華人民共和国やソ連から流出した開発法によって(中蘇対立なども要因となっているが)インドやパキスタンの核保有や、アメリカから供与された技術によってイスラエルの核保有に及んでいる。2008年8月には南オセチア紛争が起こり、米露間に軍事的緊張が生じ、「冷戦の再来」「新冷戦」などと呼ばれる状況となっており、緊張状態が続いている。経済と雇用は冷戦時代とは比べ物にならない程に悪化し、実際に訪れた現象は希望と幸福ではなく、絶望と災難であった。1989年~1991年に起こった社会主義政権の死滅により、「無規制」「解雇自由」「大資本家のみの繁盛」を特徴とするアメリカ型経済システム(新自由主義)が「グローバリゼーション」の名で世界中に広まり、多国籍企業は地球規模でパイを奪い合う「大競争時代」を作り上げた。この結果、日本を始め世界中が「日銭の世界」と化して、世界中で不安定雇用労働者(プレカリアート)が爆発的に増大した。冷戦時代末期(1980年代)のアメリカでは「ダウンサイジング」という名の整理解雇ブームが民衆を襲っていたが、これが世界規模に拡大したのである。又、冷戦時代には、アウグスト・ピノチェト政権のチリがアメリカ型経済システムを敷いていた事から、冷戦終結後には、世界各国がピノチェト政権のチリと同じ状態になったとも言える。冷戦時代末期のIMF不況と1990年代のグローバリゼーションに遭遇したラテンアメリカでは、2000年代になると反米・左派の政権が続々と生まれ、社会主義が復活する動きを見せている。又、反米や社会主義を掲げるラテンアメリカの政権は、アメリカを牽制する動きを見せている。後略】* * * 第二次世界大戦以後長期にわたって続いた冷戦体制は崩壊し、多くの問題を内包しながら新しい時代に移行していったのである。
2011年02月19日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) 7・米ソ冷戦終結宣言 (1989年)に関して(その1)超ルネサンス時代が確かに第2段階(新段階)へ移行したと言える出来事は、これまで続いてきた冷戦構造が崩壊した事である。現代において70年150年周期説が最もハッキリとわかる状況で推移しつつある。世界情勢に関心のある方であれば冷戦構造の崩壊が新しい舞台の最も大きな幕開けになったことはよく理解されていると思う。 米ソ冷戦終結宣言の最も大きな意義の一つは核超大国による全面核戦争の脅威が薄れ、人類滅亡の可能性が低くなった事にあると考えている。たとえ9・11アメリカ同時多発テロのような大事件が引き起こされた時点においても、それが即全面核戦争に繋がるなどと予測した人は殆どいなかったと思われる。いかなるテロ組織であろうとも旧ソ連と質量共に同等の核兵器を保有している事など有り得ないからである。過激派による宗教テロは多くの場合、自爆テロという非常に劇的な手段に訴える。このため世間の耳目を集め、いやがうえにも危機意識を高める。しかし、これを地球的規模での危険度から見れば、冷戦時代の核危機、地球滅亡の危機には到底及ばないものである。地球的規模での危険度は冷戦終結以後非常に低くなっている。この件に関しては歓迎すべき事だと思う。しかし、冷戦が終結してから既に20年以上経過している。現状は、米ソ間では核削減が大幅に進んでいる。しかし、全世界的に核拡散が進行し、新しい核危機の時代に入っている。一度は危険度が劇的に低くなったのだが、再び、地球滅亡の危機が徐々に高まりつつあると考えられる。出典「核戦争」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 最終更新 2009年8月3日 (月) 19:05 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/【概説 核戦争とは原子爆弾、水素爆弾、中性子爆弾などの核兵器、またそれらを運搬する各種のミサイル、爆撃機、潜水艦などを主要な[要出典]兵器として両勢力が用いる戦争を指す。その規模については限定的なものから全面的なものまでさまざまな形態が考えられているが、いずれにしても甚大な被害が生じると考えられている。2008年現在までに核兵器の実戦使用は第二次世界大戦におけるアメリカの日本への2発の原爆投下があるが、核戦争は発生したことがない。しかし、1962年のキューバ危機など、核戦争を引き起こしかねない危機は発生している。 後略】* * *出典「キューバ危機」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 最終更新 2009年9月6日 (日) 16:31 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/【キューバ危機(キューバきき、The Cuban missile crisis)は、アメリカのすぐ南に位置するキューバにおいて、1962年10月15日から13日間続いた、米ソ間の冷戦が頂点に達して核戦争の危機を招いた国際緊張の事である。後略】* * *
2011年02月19日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) 6・ロナルド・ウィルソン・レーガン合衆国大統領(任期1981~1989年)に関して現在の世界情勢にも多大の影響を与えているロナルド・W・レーガン大統領の政策が推進される。レーガン大統領の諸政策は東西冷戦の終結に大きな影響を与えた。また、2009年現在、世界を混乱に陥れている世界金融危機や世界同時不況の直接的な原因ともなっている。 「レーガノミックス」及び「新自由主義」については「70年150年説」をご覧ください。出典「ロナルド・ウィルソン・レーガン」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新2009年8月30日 (日) 18:15 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/より【ロナルド・ウィルソン・レーガン(Ronald Wilson Reagan, 1911年2月6日 - 2004年6月5日)は、アメリカ合衆国の俳優、政治家。第40代アメリカ合衆国大統領。最年長で選出された大統領(69歳349日)であり、唯一離婚歴を有する大統領である。人物概説 一期目は「レーガノミックス」に代表される大幅減税と積極的財政政策でアメリカに長期の好景気をもたらし[1]、就任当初から、前任者ジミー・カーター時代のイラン革命や、中米ニカラグアでのサンディニスタ政権成立などで、当該国の親米独裁政権を失ったことを批判して失地を挽回するため世界各地で強硬策を実行し、ベトナム戦争以来となる本格的な海外への武力侵攻をグレナダに対して行うなど、強いアメリカを印象づける出来事が目立った。高い支持率を維持した結果、1984年の大統領選では対立候補の地元を除く49州を獲得するという地滑り的大勝で再選された。しかし2期目はイラン・コントラ事件に代表される数々の政治スキャンダルに揉まれ、政権の体質に対する各方面からの厳しい批判が目立った。外交ではデタントを否定して、ソビエト連邦を「悪の帝国」と名指しで非難、「力による平和」戦略でソ連と共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を打ち出して世界各地の反共主義運動を支援した。前者はソ連の崩壊、後者はベルリンの壁崩壊に代表される東側諸国の自主的民主化を招き、結果として冷戦の平和的終結が実現した。退任から5年後、自らアルツハイマー症であることを告白して公の場から完全に姿を消した。2004年6月5日、長い闘病の末、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市の私邸で死去した(93歳没)。中略止むことない軍備増強を続けた結果、ソ連の軍事力は1980年代初頭までにアメリカのそれを凌駕するまでに巨大化していた。それまでアメリカの軍備は、数の上ではソ連に及ばないものの、技術面ではソ連を寄せ付けない先端技術を保持し続けており、これがソ連に対する「質の脅威」であり得たが、1980年代におけるソ連の科学技術の進歩はこの両者の開きをかつてないほど狭いものにしていた。その槍玉にあげられたのが、デタントだった。レーガン政権は、米ソ両超大国の力の均衡を維持することに役立っただけで、冷戦そのものの解決にはまったくならなかったばかりか、いたずらにこれを長期化させる原因になっていたデタントを否定し、ソ連を「悪の帝国」と名指しで非難。替わりに「力による平和」と呼ばれる一連の外交戦略でソ連と真っ向から対抗する道を選んだ。その概要は、国防予算を大幅に増額してスターウォーズ計画を一方的に推進する ソ連はこれに追いつこうとするあまりより一層の無理を強いられる その結果アフガニスタン侵攻の泥沼化でただでさえ逼迫しているソ連の国家財政は破綻し、社会保障制度が麻痺する ソ連の国民はそんな共産主義政権を見限りソビエト連邦は崩壊する というシナリオだった。果たしてその読み通り、早くも1980年代中頃になるとソ連の財政赤字は肥大化し、財政は危機的状況に陥った。また1985年にゴルバチョフが書記長に就任すると、「グラスノスチ」によりソ連の危機的状況が西側にも明らかとなり、アメリカはソ連から核兵力・通常兵力・対東欧諸国政策のすべてにおいて大幅な譲歩を引き出すことに成功した。「中距離核戦力全廃条約」を参照こうしたソ連の態度軟化を変化の兆しと見たレーガンは、自らも強硬な外交路線を修正、ゴルバチョフに対してはこれまでの改革を評価するとともに、より一層の改革を行うことを促した。レーガンはゴルバチョフと、ジュネーヴ(1985年11月)、レイキャビク(1986年10月)、ワシントンD.C.(1987年12月)、モスクワ(1988年6月)と四度にわたって首脳会談を行っている。主な議題はいずれも軍縮と東欧問題だったが、一回目は米ソ首脳が6年半ぶりに会談すること自体に意義があり、二回目は物別れに終わったもののゴルバチョフが交渉に値する人物だという確証を得ることができた。そもそもレーガンは三回目のワシントン会談でゴルバチョフを訪米させることにかけていた。終わりの見えない不況と、あってなきが如き社会保障制度に喘ぐソ連の国民が、好景気に沸くアメリカ社会の実態を間近に垣間見る機会があれば、彼らが現在の体制に疑問を抱き、やがて不満が爆発するであろうことは十分に予見できたのである。そして、この自国民による「内圧」がアメリカによる「外圧」よりもはるかに強い力となって、実際にゴルバチョフ政権とソビエト共産党を根底から揺さぶり始めるのに、そう時間はかからなかった。翌年モスクワを訪問したレーガンを、ソ連のメディアはまるでハリウッドスターのような扱いで好意的に迎えた。あるジャーナリストから、まだソビエトのことを「悪の帝国」と考えているかと質問されたレーガンは、はっきり「いいえ」と答え、「あれは別の時、別の時代のことを指した言葉です[9]」とつけ加えることを忘れなかった。そんなレーガンに、ゴルバチョフはモスクワ大学で自由貿易市場についての特別講義をすることまで依頼している。後に回想録『An American Life』の中で、レーガンは当時ソ連が取りつつあった新しい方向を楽観的に見ていたこと、膝を割った会話ができるまで気心知れる盟友にまでなったゴルバチョフに対しては極めて親密な感情を抱いていたこと、そして大規模な改革を急速に断行するゴルバチョフ政権の帰趨や本人の生命を真剣に心配していたことなどを記している。また当時、2人の親密な関係を指して「Rega-Chev(レガーチェブ)」と読んだ新聞さえ出現した。こうして一度動き始めた改革の流れは止まることを知らず、日を追って、しかも誰もが予想し得なかった速度で、その勢いを増していった。「レーガン・ドクトリン」によって地道に支援されてきた東欧の反共産主義運動は、モスクワの屋台骨が揺らぎ始めると、1989年8月、ハンガリー政府当局が約1000人の東ドイツ国民を自国経由でオーストリアに脱出する手助けをするという「ピクニック事件」が起きたのを皮切りに、11月にはドイツでベルリンの壁が崩壊し、チェコスロバキアではビロード革命が共産党による一党独裁を廃止、12月にはブルガリアの共産党政権が崩壊し、ルーマニアではチャウシェスク独裁政権を血祭りにあげるなど、東欧諸国は雪崩を打って民主化を果たし、ここに冷戦は事実上終結した。ソビエト連邦が解体されたのは、それから2年後のことだった。後略】* * *
2011年02月18日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) 4・世界で宗教テロが目立ち始める (1980年代より)に関して以下は、日本文芸社刊 世界情勢を読む会編著「面白いほどよくわかる 世界の紛争地図 P.40」より【1980年代に入ると、左翼テロに替わり、リビアを中心としたアラブ過激派がテロの主役として登場する。1979年、ホメイニ師の指導のもとに達成されたイラン革命がイスラム世界に与えた影響は大きく、米国を中心とした西側諸国や、米ソに協力的とみられたイスラム政権、西洋近代主義にまみれているとみなされた政党や政治組織もテロの標的になった。イスラム過激派のメッカ襲撃、エジプトのサダト大統領暗殺などはこの時期のことである。】* * *2005年12月4日付け中日新聞「学校の教材に役立つ大図解、世界の宗教地図」より【前略世界中で宗教を背景にした暴力やテロが相次いでいます。十一月九日にはヨルダンの首都アンマンのホテルで同時爆弾テロがありました。イラクでも自爆テロなどが連日のように起きています。いずれもイスラム教過激派の犯行と見られています。しかし、宗教が関連した暴力やテロはイスラム教だけに限られません。イスラエルのユダヤ教、米国のキリスト教、インドのヒンズー教などにも過激派がいて、暴力やテロを引き起こしています。日本のオウム真理教事件はサリンなど生物化学兵器用の物質を使った初の宗教テロとして、世界に衝撃を与えました。世界で宗教テロが目立ち始めたのは一九八〇年代からです。後略(防衛大学校教授 立山 良司)】* * *この宗教テロの拡大を象徴する事件が9・11アメリカ同時多発テロであった。2006年にはイラク、イスラエルなどの中東地域やヨーロッパで猛威を振るった。2006年8月9日イギリスで摘発された旅客機同時爆破未遂事件が世界を震撼させた。これはアメリカ行きの旅客機9~10機の爆破を狙った事件であり、実行されていればアメリカ同時多発テロをも凌ぐ大惨事になった可能性がある。2011年現在、宗教テロは世界中に拡散し、収束する気配は無い。9・11アメリカ同時多発テロは世界中に衝撃を与えたが、その被害の大きさから見れば、9・11テロとは無関係だったとされるイラクで吹き荒れた宗教テロ関連の事件の方がより深刻だったといえる。最近の焦点の一つは、アフガニスタン、パキスタン問題である。パキスタンは既に核保有国家となっている。パキスタンがさらに不安定化すればテロ組織と核兵器や核物質が結びつく可能性もある。パキスタン・アフガニスタンの緊張は高まる一方だ。パキスタン同様インドも核保有国となっている。隣国北朝鮮も既に核保有国家となり、イスラエルの核保有は周知の事実とも言える。核拡散の恐怖が世界中に広がりそれが新たなる核拡散を生み出す状況に陥りつつある。近い将来イランも核保有国となる可能性が高い。現状を見れば核廃絶は絵空事のように思える。
2011年02月17日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) 3・ソ連のアフガニスタン侵攻 (1979~89年)に関して出典「アフガニスタン紛争(1978年-1989年)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 最終更新 2009年8月1日 (土) 05:14 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/【アフガニスタン紛争(1978年-1989年) (アフガニスタンふんそう1978ねんから1989ねん)では、アフガニスタンで断続的に発生している紛争のうち、1978年に成立したアフガニスタン人民民主党政権に対するムジャーヒディーンと呼ばれる武装勢力の蜂起から、1979年にソビエト連邦が軍事介入を行い、1989年に撤退するまでの期間を扱う。ソ連・アフガン戦争と呼んだ場合、アフガニスタンの反政府組織や義勇兵とソ連軍の間で発生した戦闘を指す。ソ連軍のアフガニスタン国内の戦闘は1979年の出兵から1989年の完全撤収まで10年に及んだ。中略影響 ソ連軍はゲリラに対して決定的な勝利を得られないまま1989年に全面撤収するが、ソ連による戦術の結末は次のようなものであった。ソビエト連邦 ソビエト連邦側では1万5千人が死亡し、7万5千人が負傷した。アフガン人はソ連兵の100倍も死者を出した上に、市民に対して非道の限りを尽くした。 ソ連側の費用は1986年のドルで計算して一年におよそ200億ドルかかっており、ソ連の財政を圧迫した。 ソ連は占領経費の増大によって冷戦の継続が不可能となり、ペレストロイカによって路線を大幅に転換する。 冷戦終結と改革開放によって、アフガン撤退からわずか3年足らずでソ連崩壊に至る。 アフガニスタンに駐留するソ連軍兵士の間で麻薬が蔓延し、帰国後も兵士達が社会に復帰ができないことが社会問題となった。 後略】* * * ソ連のアフガニスタン侵攻は多大の占領経費を費やし、ソ連崩壊の大きな要因ともなった。ソ連撤退(1989年)の約30年後、9・11アメリカ同時多発テロに衝撃を受けたアメリカが対テロ戦争の名の下にアフガニスタンに侵攻した(1922年)。 現在アフガニスタンにおいてはタリバンが復活し勢力を強めつつある。アフガニスタンだけでなく隣国パキスタンも大きな不安定要因になっている。パキスタンは核保有国であり、その不安定化は世界の平和にとって大きな脅威である。
2011年02月16日
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70年150年周期説ここで少し断っておきたい。現在は「超ルネサンス時代 第2段階」に関する記述をしている。これはただ単に、起点とする戦争である「第一次世界大戦」から約70年経過した時期を「超ルネサンス時代 第2段階開始時期」としているのではない。現代における明らかな大転換期と捉えて「超ルネサンス時代 第2段階(中期、新段階、新たなるステージ、新領域と呼び変えてもよい。)」と呼んでいる。 これは「ヨーロッパ発展の時代」「イギリス発展の時代」「アメリカ発展の時代」においても同じである。単に起点となる戦争から70年経過した頃を「第2段階開始時期」と呼んでいるわけではない。その時期が明らかに大転換期となっているから「第2段階開始時期」と呼んでいるのである。これを表した図は水の氷点、沸点と似通ったところがある。まず、氷(固体)を起点として、氷点以上になれば、氷が溶け出して水(液体)となる。次に、水(液体)が沸点以上になれば、水蒸気(気体)になる。このようにある転換点(ここでは氷点、沸点)を過ぎると様相が全く変わる事がある。この転換点(転換期)と似通っているのが、「第2段階開始時期」および「完成期・飛躍期開始時期」である。この転換期を境にして情勢が大転換して行く。 ヨーロッパ発展の時代1第2段階においては、ルネサンス建築、美術などの分野で急激な開花が見られた。これは科学、技術分野での発展、思考、思想などの進化、発展、その他様々な分野での発展に裏打ちされている。ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代)第2段階ではイギリスがオランダと連合する。そして、イギリスはフランスと敵対して世界の覇権を競い合う第二次百年戦争に入って行く。名誉革命を境として急激な枠組みの変化が引き起こされた。アメリカ発展の時代第2段階では、急激な領土拡大による南北対立の激化から南北戦争へと展開する。超ルネサンス第2段階の転換点(転換期)は1989年頃になると考えられる。2009年1月1日付け朝日新聞の9面「揺れる国際社会」の見出しにこう書かれている「冷戦が終わった1989年 変化は始まった」。記事内容の概要は「東西冷戦の終結、民主化、インターネットの飛躍的な普及、経済のグローバル化。一方で民族紛争が火を噴き、国際テロの脅威の拡散など1989年がさまざまな変化の一つの起点になった。20年がたち、変化はなお加速している。」2009年11月10日付けの中日新聞社説によれば、「東西冷戦を終結させた時代の熱気は絶えて久しいが、現在の地球規模の問題の多くはその冷戦終結に直結している。」とある。そして、その問題として、核兵器拡散、民族紛争、金融・経済危機、イスラム過激派テロ、環境・エネルギー問題などが挙げられている。 私もこの考えに賛同する。敢えて、最も重要な転換年を挙げるならば1989年になると考えている。これは超ルネサンス時代の記述を読んでいただければわかると思う。ただし、私の場合はもっと広く転換期と捉えている。東西冷戦終結に関しても、冷戦構造が大きく崩れて行くのは1989年以前にある。そこで筆者は「1984年ころ(前後)」からともっと大きく捉えている。しかし、再度、最も重要な転換年を挙げるならば1989年になると考えているのは全く同じである。超ルネサンス第2段階は東西冷戦終結、ソ連崩壊の劇的な枠組みの崩壊によって始まった。まさに急激な枠組みの変化であった。(詳細は後述)次にヨーロッパ発展の時代1完成期・飛躍期には芸術が最高峰ともいえる段階に達した。また、バーソロミュー・ディアス喜望峰に到達(1488年)、コロンブス、アメリカ発見(1492年)などの快挙が成され、急激な展望の拡大がなされた。西欧諸国の可能性が劇的に拡大したのである。ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代)完成期・飛躍期では七年戦争が終結し、産業革命が引き起こされる。イギリスの優位が決定的になり、世界が劇的に変わっていくことになる。アメリカ発展の時代完成期・飛躍期には未曾有の世界大戦(第一次世界大戦、第2次世界大戦)により西欧が没落し、アメリカが超大国としての力を持つ。空前の激変期といえる。そして、第1次世界大戦勃発1914年より150年経過した2064年頃には常識を遥かに超えた文字通りの超大転換期が到来すると予測している。それが超ルネサンス時代完成期・飛躍期である。現在、世界を揺るがしている金融危機、世界同時不況その他などは全く問題にもならないほどの変化になるだろう。
2011年02月16日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) 2・イラン、イスラム革命 (1979年)に関して出典「イラン革命」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2009年9月6日 (日) 16:14 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/【イラン革命(イランかくめい)は、イランにおいて1979年に起こったルーホッラー・ホメイニーを指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者を支柱とする反体制勢力が、パフラヴィー朝に代わって政権を奪取した事件を中心とする政治的変動のことである。イラン・イスラム革命とも呼ばれる。中略革命の国外に対する影響 イスラム共和国体制は、アメリカの支援を受け近代化を行っていたパフラヴィー朝を倒したことや、露骨な反欧米主義とイスラム至上主義を掲げたことから、アメリカをはじめとする西側諸国とイランとの関係が悪化した。特に、11月にはアメリカ大使館占拠事件が起こり、アメリカとの関係は断絶寸前となる。またパフラヴィー朝が西側諸国に発注していた兵器の開発・購入計画が全てキャンセルされた事で、イギリスのシール(チャレンジャー1)戦車やアメリカのキッド級ミサイル駆逐艦など多くの西側諸国の兵器開発に影響を及ぼす事になった。一方、周辺のアラブ諸国にとっては、十二イマーム派を掲げるイランにおける革命の成功は、十二イマーム派の革命思想が国内の十二イマーム派信徒に影響力を及ぼしたり、反西欧のスローガンに基づくイスラム国家樹立の動きがスンナ派を含めた国内のムスリム(イスラム教徒)全体に波及することに対する怖れを抱かせ、イランは周辺アラブ諸国からも孤立することになった。1980年、長年国境をめぐってイランと対立関係にあり、かつ国内に多数の十二イマーム派信徒を抱えてイラン革命の影響波及を嫌った隣国イラクがイランに侵攻、イラン・イラク戦争が勃発した。イランの猛烈な反撃によりイラクが崩壊し、産油地域が脅かされたり、十二イマーム派の革命が輸出されたりすることを懸念したアメリカがイラクに対する軍事支援を行った結果、この戦争は8年間の長きにわたり、イランの革命政権に対して国内政治・国内経済に対する重大な影響を及ぼした。また、戦争は国際化し、ニカラグアの内戦(コントラ戦争)から波及したイラン・コントラ事件など、国際的なスキャンダルを巻き起こした。また、イラン革命と同じ1979年に起こったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻も、ソ連が、イスラム革命がアフガニスタンへ飛び火することを恐れたために長期化したとも言われる。後略】* * * イスラム革命は、それまで支配的勢力を振るってきた西欧文明や資本主義、過去の植民地主義、帝国主義、宗教的差別、富や資源の搾取などに対する抵抗でもあったと考えられる。このイスラム革命がイスラム文化圏に与えた影響は非常に大きい。そして、2011年2月現在、イランは核開発問題で世界の焦点の一つとなっている。チュニジア、エジプト政変により、どこまでイスラム革命の影響が広がるのかも注視されている。2011年2月現在、北アフリカ、中東で反政府デモが広がっている。イランでも反政府デモが行われた。しかし、イランの政権が短期間で崩壊する可能性は低いと思われる。イスラム革命を基盤にした政権はチュニジアやエジプトの政権よりは根が深いようだ。 確かに、これまでのキリスト教圏、西欧文明圏には解決しなければならない問題や矛盾、その他闇の部分も大きかった。これからも多くの軋轢が噴出してくるのは確実である。また、イスラム圏といっても一枚岩ではない。その体制は実に様々である。多くの主義、主張を乗り越えて、世界中の人々が共に理解し合い、共存できるのはいつの事だろうか。
2011年02月15日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) 「予測のズレ」今回は前回「予測の一致」とは違う「予測のズレ」について記述したい。「予測の一致」では「初めてBRICsという言葉を使ったレポート「Dreaming with BRICs: The Path to 2050」では約45年後である2050年の世界経済勢力図を下記のように予測しています。1、2050年の国内総生産(GDP)は中国、アメリカ、インド、日本、ブラジル、ロシアの順番なっている。2、中国のGDPは2007年にドイツ、2015年に日本、2039年にはアメリカを抜き、2050年には世界最大の経済大国になっている。」とある。筆者は中国の国家、政治体制にはアメリカの国家、政治体制よりも多くの矛盾があり、アメリカ発展の時代第2段階におけるアメリカの躍進よりは力強さに欠ける結果になると予測している。これからの発展途中で中国の国家、政治体制の大きな変革があると考えられるからである。その結果アメリカ発展の時代のアメリカより5~10年ほどは差が出る可能性が高いと思われる。また、アメリカ発展の時代第2段階の終了期においては、まだイギリスが経済的に優位に立っていた。基軸通貨は第一次世界大戦以前にはポンドであった。超ルネサンス時代第2段階の終了期においては、まだアメリカが経済的に優位に立っていて、基軸通貨は第三次世界大戦開始以前までドルである可能性が高いと考えている。(筆者は残念ながら第三次世界大戦は必ず引き起こされると考えている。)第一次世界大戦以前のアメリカは大国ではあったが、超大国ではなかった。イギリス、ドイツ、フランス、ロシア、イタリア、日本などと勢力を競いあう一大国だったのである。勃発するであろう第三次世界大戦以前の中国は大国ではあるが、第一次世界大戦以前のアメリカほどの力は持っていないと予測している。日本に関して言えば、これからまだまだ世界の大国として復活する可能性は高い。アメリカ発展の時代完成期・飛躍期(第一次、第二次世界大戦以後)においてアメリカは超大国と言える力を持った。しかし、超ルネサンス時代完成期・飛躍期(第三次世界大戦以後)においては、中国が超大国になるのではなく、全く違った展開になると予測している。超変革が引き起こされるに違いない。さて、あなたの予測は?
2011年02月13日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) 予測の一致EXCITEマネー やさしい経済講座 【情報提供:FXプライム(株)】http://www.fxprime.com/excite/bn_ykk/ykk_bn20.htmlの記述を引用すると、「初めてBRICsという言葉を使ったレポート「Dreaming with BRICs: The Path to 2050」では約45年後である2050年の世界経済勢力図を下記のように予測しています。 1、2050年の国内総生産(GDP)は中国、アメリカ、インド、日本、ブラジル、ロシアの順番なっている。2、中国のGDPは2007年にドイツ、2015年に日本、2039年にはアメリカを抜き、2050年には世界最大の経済大国になっている。」以上の予測は筆者の予測とかなり良く合致している、これまでの歴史の流れとも相似性がある。もちろん70年150年周期説とも類似性がある。以上の予測がほぼ当たっていれば、70年150年周期説(この説は1年、2年の厳密さで言っているのではない。歴史を大きく鳥瞰した時に現れる周期性であって揺らぎがある。)による予測ともほぼ一致する。実は「EXCITEマネー やさしい経済講座 【情報提供:FXプライム(株)】」の記述は今朝(2010年11月20日)見たばかりである。そこでやっと「この予測と自分の予測がほぼ一致している。」と気づいたわけで、情けない限りなのだ。しかし、これまでに記述してきた筆者の予測と非常によく似通っているので、心強く感じている。筆者は以下のように予測してきた。「英、米、中ここで、なぜこのような類似性が現れるのか筆者にとっても不思議な気がするのだが、英、米、中経済の類似点を挙げておきたい。70年150年周期説を基とすると、アメリカ、中国の経済的発展の流れにはかなり似通った部分があるのがわかる。「アメリカ発展の時代 第2段階(中期、あるいは転換期、新段階)」の開始時期にアメリカの工業化が進展し始め、アメリカ台頭の兆しが現れる。そして南北戦争による混乱から抜け出し、アメリカの本格的な工業化が進む。1880年代になると工業生産順位ではアメリカがそれまで「世界の工場」と呼ばれていたイギリスを抜いて世界第1位となっている。しかし、金融大国、軍事大国であったイギリスは第一次世界大戦までは世界的に優位な立場を保った。一例として基軸通貨は第一次世界大戦までは英ポンドであった。「超ルネサンス時代 第2段階(中期、あるいは転換期、新段階)」の開始時期に、中国は市場経済導入などの経済開放政策を取り、工業化が進展し始め、中国台頭の兆しが現れる。そして六四天安門事件(ろくしてんあんもんじけん)などによる混乱から抜け出し、中国の本格的な工業化が進む。現在では「世界の工場」と呼ばれるまでになっている。2008年の世界銀行GDP統計(購買力平価)では中国は日本を抜いて世界第2位となっている。2009年には独を抜き世界最大の輸出国になり、自動車の販売台数でも中国が既に世界第1位となっている。このように、様々な分野でアメリカ優位の状況は揺らぎつつある。しかし、2010年現在、基軸通貨は米ドルであり、当分の間この状況は保たれると考えられる。過去の経済状況と現在の経済状況を比べるのは非常に難しいと思われる。しかし、完全に一致していると言うつもりは全く無いのだが、かなり大きな類似性、相似性が有るのは確かだと考えられる。アメリカ発展の時代年表1,2と超ルネサンス時代年表1,2と比較すると、アメリカと中国の経済成長の時期はほぼ同じで、同じようなパターンを描いていると考えられる。2009年現在、国内総生産(GDP)で世界第1位であり、金融大国、軍事大国でもあるアメリカは様々な面で世界的に優位な立場を保っている。しかし、その将来は?英、米、中のかなり高い類似性から推測すれば西暦2050~2060年頃まではアメリカ優位の状態が続きそうである。」
2011年02月13日
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70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・第2段階》 (中期、あるいは転換期、新段階) では次に、超ルネサンス時代の第2段階を考えてみる。起点となる1914年より70年経過した1984年頃の出来事として、 1・中国の経済的発展 2・イラン、イスラム革命 3・ソ連のアフガニスタン侵攻 4・世界で宗教テロが目立ち始める 5・イラン、イラク戦争 6・ロナルド・W・レーガン大統領 7・米ソ冷戦終結宣言 8・ベルリンの壁崩壊 9・湾岸戦争 10・ソヴィエト連邦の崩壊 11・EU(欧州連合)発足 アメリカ同時多発テロ事件 などがある。 1・中国の経済的発展 (1980年代)に関して以下のウィキペディアの記述にあるように、「中華人民共和国は、国家指導者の指導理論や政策などによって、毛沢東時代(1949年 - 1978年)ととう小平時代(1978年 - )の二つの時代に分類することができる。」経済的発展を遂げるのは、とう小平時代(1978年 ~ )からである。ただし、とう小平時代と言われるのは1978年12月からなので、実質的な経済の発展は1980年代からと考えられる。出典「中華人民共和国」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2009年9月12日 (土) 17:33 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/【中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)は、1949年に中国共産党によって建国された社会主義国家。東アジアのユーラシア大陸東岸に位置し、その国土の大陸部は、「中国大陸」とも呼ばれる。首都は北京市。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ロシア、モンゴル、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタン、インド、ネパール、ブータン、ミャンマー、ラオス、ベトナムと隣接している。また東シナ海を挟んで日本や大韓民国(韓国)とも接している。ギネスブックによれば最も多くの国と国境を接している国である。人口の94%を占める漢族のほか、チワン族、ウイグル族、モンゴル族、チベット族、回族、ミャオ族、イ(彝)族、トゥチャ族、満族など、政府が認定している55の少数民族よりなる多民族国家である。中略中華人民共和国成立後詳細は「中華人民共和国の歴史」を参照中華人民共和国は、国家指導者の指導理論や政策などによって、毛沢東時代(1949年 - 1978年)ととう小平時代(1978年 - )の二つの時代に分類することができる。毛沢東時代の中華人民共和国は、社会の共産主義化を推進した。毛沢東の指導のもとで大躍進政策を行なったが、多くの餓死者を出して政策は失敗に終わった。その後、経済の立て直しを巡る対立から毛沢東が文化大革命(文革)を発動し、「反革命」派とされた人々の多くがつるし上げや殺害を受け、国内は内乱状態となった。文革は、毛沢東の死と共に終結した。その後、華国鋒が毛沢東の後を継いだが、1978年12月第11期三中全会でとう小平が実権を掌握した。とう小平時代の中華人民共和国は、政治体制は中国共産党による一党独裁体制を堅持しつつも、市場経済導入などの経済開放政策を取り、中華人民共和国の近代化を進めた。その結果、経済の改革開放が進み、「世界の工場」と呼ばれるほど経済は急成長をした。一方、急激な経済成長とともに貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。また、政府は、中華人民共和国の分裂を促すような動きや、共産党の一党体制を維持する上で脅威となる動きに対しては強硬な姿勢をとり続けている。1989年の六四天安門事件や2005年の反国家分裂法成立などはその一例である。1989年の六四天安門事件は、民主化要求の大規模政治運動であったが、当時ソ連ではゴルバチョフ書記長により、経済の自由化のみならず、政治の自由化まで推し進められようとしていたが、とう小平の自由化は経済に限定されていた。1985年にゴルバチョフが北京を訪れた際、世界はゴルバチョフを賞賛するとともに、とう小平の改革開放路線を中途半端なものとして批判した。この空気は、国内にもくすぶり、共産党員の中にも「政治開放が必要」との声も上がるほどであったが、その延長線上で天安門事件が起こる。しかし、とう小平は、天安門広場に集まった学生に戦車と銃を向け「経済は開放しても、共産党独裁は変えない」という強いメッセージを示した。ソ連が崩壊したのは、その2年後の1991年である。国家の維持と繁栄という視点からすれば、とう小平の選択はゴルバチョフを凌駕したといえる。その後、経済の開放を強力に推し進めた結果、国民の生活水準は大きく飛躍した。今でも、沿岸都市部と内陸農村部での経済格差は大きなものがあるが、内陸部の農村の生活は王朝時代から貧しく、電気も水道もない生活を近年まで続けてきたため、現在はその当時に比べれば雲泥の差のある生活を行うにいたっている。このため、都市部との格差が大きいからといって、その格差を糾弾する強い意識は生まれてはこない。昨今、市場経済を至近に見るにつけ、民主化すればするほどに、貧富の差がなくなるどころか、拡大してゆく現実を国民は知ってしまった。このため、かつての「民主化要求」はもはや革命の動機にはなっていない。後略】* * * 2010年現在、中国は世界金融危機、世界同時不況に巻き込まれながらも、経済成長を続けている。これは日本にとって救いともなり、脅威ともなる。10年後の日中関係はどうなっているのだろうか。
2011年02月12日
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70年150年周期説第一次世界大戦開始は1914年である。この考えを基に 図「各戦争間の歴史的スパン」を作成した。この図を見れば、ルネサンス初期の英仏百年戦争開始1338年からイギリス発展の時代初期の三十年戦争開始1618年までが280年間。イギリス発展の時代初期の三十年戦争開始1618年からアメリカ発展の時代初期の独立戦争開始1775年までが157年間。アメリカ発展の時代初期の独立戦争開始1775年から超ルネサンス時代初期の第一次世界大戦開始1914年までが139年間となる。ここで、ヨーロッパ発展の時代初期の英仏百年戦争開始1338年より130~150年経過した頃から同じ様な歴史の流れがあると、おおよそ140年間隔で法則性が現れるので、面白い。しかし、それはないと思われる。 それはともかく、超ルネサンス初期の起点となる大規模戦争は世界的総力戦と言う空前の戦いである第一次世界大戦を置いて他にない。
2011年02月12日
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70年150年周期説 超ルネサンス時代(現代から未来へ)初期2009年には新型インフルエンザが流行したが、第一次世界大戦末期からスペイン風邪が大流行した。感染者6億人、死者4000~5000万人とされる。)出典「スペイン風邪」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2010年2月11日 (木) 08:45 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/より【前略被害状況 スペインかぜは、記録にある限り、人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)である。[7]感染者は6億人、死者は5000万人(諸説あり)[8]に及び、当時の世界人口は約18億人~20億人であると推定されているため、全人類の約3割がスペインかぜに感染したことになる。日本では当時の人口5500万人に対し39万人(当時の内務省は39万人と発表したが、最新の研究では48万人に達していたと推定されている)が死亡、米国でも50万人が死亡した。これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、もっとも多くのヒトを短期間で死に至らしめた記録的なものである[9](ただし第一次大戦の戦死者のうちかなり多くの部分は戦闘活動による死亡ではなくスペインかぜによる死亡が含まれていることから、スペインかぜの死亡と第一次大戦の戦死者には重複がある)。流行の経緯としては、第1波は1918年3月に米国デトロイトやサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり[1]、米軍のヨーロッパ進軍とともに大西洋を渡り、5月-6月にヨーロッパで流行した。第2波は1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり重症な合併症を起こし死者が急増した。第3波は1919年春から秋にかけて第2波と同じく世界的に流行した(日本ではこの第3波が一番被害が大きかった)。1920年に死去したマックス・ヴェーバーも、スペインかぜによるとされる。日本での流行による死亡者の中には著名人も含まれている。代表的な例では皇族の竹田宮恒久王、元内務大臣末松謙澄、東京駅の設計を担当した辰野金吾、劇作家の島村抱月、西郷隆盛の従兄弟である大山巌の夫人で女子教育者の大山捨松、西郷の息子で軍人の西郷寅太郎などがあげられる。後略】* * * スペイン風邪の流行により第一次世界大戦の終結が早まったと言われる。「オリーブの木の幹を切って 」の表現が最もよく当てはまるのは、第一次世界大戦、スペイン風邪の流行、第二次世界大戦の頃である。第一次世界大戦の勝敗の行方に重要な役割を果たしたアメリカ合衆国が台頭してきたのは帝国主義の時代とも言われる時期である。1880年代にはアメリカの工業生産がイギリスを抜いて世界一となっている。超ルネサンス開始時期(おおよそ1870年代の頃)よりイギリス、ドイツ、フランス、アメリカ、ベルギー、イタリアなどによる大々的な国家の膨張政策が顕著になり、第一次世界大戦開始(1914年)に至る。前述したように、その期間(1875~1914年頃とされる。)を帝国主義の時代と呼ぶ事もある。超ルネサンス時代初期はこの頃になる。
2011年02月11日
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70年150年周期説超ルネサンス時代(現代から未来へ) 初期超ルネサンス時代初期の開始時期は人類史上最初の世界大戦である第一次世界大戦を引き起こす直接のきっかけとなったオーストリア・ハンガリー帝国やドイツ帝国の成立時期あるいはドイツ帝国の台頭期とするのが妥当だと考えられる。またこの頃は、アメリカの台頭期でもあった。 1875~1914年頃を帝国主義の時代と呼ぶ事がある。イギリス、ドイツ、フランス、アメリカ、ベルギーなどが大々的に国家の膨張政策を取り各々の国益、利害の対立が激しい摩擦を産み、世界戦に突入して行った時代であった。 出典「第一次世界大戦」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2009年7月4日 (土) 20:05。UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/より【第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英語:World War I)は、1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦である。ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の大多数の国が参戦した。第二次世界大戦が勃発する以前は大戦争(The Great War)、諸国民の戦争(War of the Nations)、欧州大戦(War in Europe)とも呼ばれていた。当初には諸戦争を終わらせる戦争(War to end wars)という表現もあった。概要 当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあった。列強の参謀本部は敵国の侵略に備え、総動員を含む戦争計画を立案していた。1914年、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されるというサラエボ事件を契機に、各国の軍部は総動員を発令した。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる[2]。各国はドイツ・オーストリア・オスマントルコ・ブルガリアからなる中央同盟国(同盟国とも称する)と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国(協商国とも称する)の2つの陣営に分かれ、日本、イタリア、アメリカ合衆国も後に連合国側に立ち参戦した。多くの人々は戦争が早期に(「クリスマスまでには」)終結すると楽観していた。しかし、機関銃の組織的運用等により防御側優位の状況が生じ、弾幕を避けるために塹壕を掘りながら戦いを進める「塹壕戦」が主流となったため戦線は膠着し、戦争は長期化した。この結果、大戦参加国は国民経済を総動員する国家総力戦を強いられることとなり、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされた。長期戦により、戦時統制による一般市民の生活への影響が増大し、特に国力に劣る中央同盟国は経済が疲弊した。1918年に入るとトルコ、オーストリアなどが降伏し、11月にドイツのキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ大戦は終結した。足かけ5年にわたった戦争で900万人以上の兵士が戦死し、戦争終結時には史上2番目に犠牲者の多い戦争として記録された[3]。そしてこの戦争は、ボリシェヴィキがロシア革命を起こす契機となり、20世紀に社会主義が世界を席巻する契機ともなった。中略背景 オーストリア=ハンガリー帝国と東方問題 1867年、アウスグライヒによりオーストリア=ハンガリー帝国が誕生した。ハプスブルク家の家長はオーストリア皇帝とハンガリー王を兼任し、ハンガリーは軍事・外交・財政を除く広範な自治権を得た。しかしこの大規模な改革によってすら、帝国内の複雑な民族問題が解決されるには至らなかった。当時の帝国内には9言語を話す16の主要な民族グループ、および5つの主な宗教が混在していた。帝国の最大の関心は東方問題にあった。帝国各地で台頭するスラヴ人の民族主義運動は、帝国政府を主導するドイツ人とマジャール人にとって悩みの種だった。1912年から1913年にかけて行われたバルカン戦争の結果、隣国のスラブ人国家であるセルビアの領土が約2倍に拡張され、帝国は国内のスラブ民族運動を警戒する必要に迫られた。一方でセルビア人民族主義者は、帝国南部は南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えていた。この冒険的民族主義に対して、自らスラブ人の守護者を任ずるロシアは一定の支持を与えていた。オーストリア政府は、スラブ人民族主義運動が他の民族グループへと伝播し、さらにロシアが介入する事態を危惧していた。ドイツ帝国とシュリーフェン・プランシュリーフェン・プランの立案者であるドイツ参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンドイツ帝国は1871年に普仏戦争でフランス第二帝政に勝利し成立した。ドイツはフランスからアルザス・ロレーヌ地方を奪ったが、フランス国内には反独感情が残された。ドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルクは、フランスを国際的に孤立化させてアルザス・ロレーヌ奪回の意図を挫き、ドイツの安全を図る目的から、1882年にオーストリア、イタリアと三国同盟を締結、1887年にはロシアのバルカン半島への進出を黙認する見返りに独露再保障条約を締結し、ビスマルク体制を構築した。しかし1890年にビスマルクが失脚すると、独露再保障条約は延長されなかった。さらに1894年、フランスとロシアは露仏同盟を締結し、ドイツが対フランス・対ロシアの二正面作戦に直面する可能性が高まった。ドイツ参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンは、二正面作戦に勝利するための手段としてシュリーフェン・プランを立案した。この戦争計画は、広大なロシアが総動員完結までに要する時間差を利用するもので、ロシアが総動員を発令したならば、直ちに中立国ベルギーを侵略してフランス軍の背後に回りこみ、対仏戦争に早期に勝利し、その後反転してロシアを叩く計画だった。しかしシュリーフェン・プランは、純軍事技術的側面を優先させて外交による戦争回避の努力を無視し、また中立国ベルギーを侵犯することによる国際的汚名やイギリスの参戦を招く危険性がありながら押し通すというものだった。シュリーフェン・プランは、ドイツを世界規模の大戦争へと突き落とす可能性の高い、きわめて危険な戦争計画でもあった。イギリスの対ドイツ政策イギリスは自国の安全保障の観点から、伝統的にグレートブリテン島対岸の低地諸国を中立化させる政策を実行してきた。1839年のロンドン条約において、イギリスはベルギーを独立させ、その中立を保証した。イギリスは、フランスとドイツの間で戦争が発生した場合に、もしベルギーの中立が侵犯されれば、先に侵犯した側の相手側に立って参戦すると表明していた。だが19世紀末になると、ドイツの国力の伸張により、次第にイギリスとドイツとの対立関係が深まっていった。イギリスとドイツは海上における覇権を競って建艦競争を繰り広げた。イギリスは覇権維持のため、1904年にフランスとの長年の対立関係を解消して英仏協商を締結し、他にも1902年に日英同盟を、1907年に英露協商を締結した。こうしてヨーロッパ列強は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商との対立を軸とし、さらに多数の地域的な対立を抱えるという複雑な国際関係を形成した。後略】* * *
2011年02月11日
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第五章 70年150年周期説超ルネサンス時代(現代から未来へ) これまではヨーロッパ発展の時代、イギリス発展の時代、アメリカ発展の時代における「70年150年周期説」について考察してきた。現在までの歴史にはこれ以上「70年150年説」が完全に当てはまる歴史の流れは無いと考える。そこで、これからは現代から未来について考えたい。「ルネサンスから未来へ 第一部」の記述は ルネサンスを起点としている。そこでこれから考える「現代から未来」の期間を「超ルネサンス時代」と呼ぶことにする。筆者は超ルネサンス時代が必ず到来すると考えている。いや、超ルネサンス時代は既に到来しているのである。70年150年周期説を見出す発端となったのはヨーロッパ発展の時代なのだが、特に現代において、非常に明確に70年150年周期説が当てはまる展開となっている。 目次超ルネサンス時代初期超ルネサンス時代 第2段階 1・中国の経済的発展 2・イラン、イスラム革命 3・ソ連のアフガニスタン侵攻 4・世界で宗教テロが目立ち始める 5・イラン、イラク戦争 6・ロナルド・W・レーガン大統領 7・米ソ冷戦終結宣言 8・ベルリンの壁崩壊 9・湾岸戦争 10・ソヴィエト連邦の崩壊 11・EU(欧州連合)発足 12・アメリカ同時多発テロ事件 70年150年周期説 70年150年周期説《超ルネサンス時代(現代から未来へ)・初期》 そこで、超ルネサンス時代初期の大規模かつ最重要な戦いを、一連の戦いとも考えられる空前の世界戦、第一次世界大戦、第二次世界大戦に当てはめたい。と言うよりも、もし超ルネサンス時代があるとすれば、その初期はこの時期をおいて他にないと考えられる。そして起点となる戦争を決定すれば、超ルネサンス開始時期も決まってくると考えられる。それは後述するオーストリア=ハンガリー帝国の成立時期、あるいは第一次世界大戦、第二次世界大戦において台風の目となったドイツ国(1871~1945年)の成立時期。または、三国同盟締結(1882年)後のドイツ国の台頭時期と考えられる。この頃は第一次、第二次世界大戦終結に決定的な影響を与えたアメリカ合衆国の台頭期でもあった。ドイツ国は第一次世界大戦において中央同盟国(同盟国とも称する)の主力として、第二次世界大戦においては枢軸国の主力として戦った。日本は第一次世界大戦において連合国側に立ち、第二次世界大戦においては枢軸国側に立って戦った。中央同盟国は(ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリア王国)枢軸国は (ナチス・ドイツ、大日本帝国、イタリア王国)出典「ドイツ帝国」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新2009年9月6日 (日) 03:04。 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/より【ドイツ帝国(ドイツていこく、ドイツ語:Deutsches Kaiserreich (ドイチェス・カイザーライヒ))は、1871年1月18日から1918年11月9日まで存続した、プロイセン国王をドイツ皇帝に戴く連邦国家を指す歴史的名称である。国家概要 帝国そのものは法律上君主制ではなかったが、皇帝が絶対的な権力を持ち、現在のドイツ連邦共和国の領域の他、フランスやポーランドの一部、アフリカのナミビア他海外植民地を統治していた。この国は普仏戦争勝利の勢いのままに、1871年パリ郊外のヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」で行われたプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式に始まった。そして、第一次世界大戦の敗北とドイツ革命の勃発による、1918年11月の第3代皇帝ヴィルヘルム2世のオランダ亡命によって終わった。正式な国名は、ドイツ語ではドイツ革命などの国家体制の変遷によるReich(ライヒ)の邦訳の変遷に関らず一貫して「ドイツ国」(Deutsches Reich)である。これは「ドイツ共和国」とも和訳されるヴァイマル共和国(1918年 - 1933年)、「ナチス・ドイツ」(1933年 - 1945年)の時代を通じて変わらなかった。そのため、この時代だけを区別する場合は皇帝を意味するKaiserをつけてDeutsches Kaiserreichと呼ぶ。後略】* * *
2011年02月10日
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70年150年周期説 超ルネサンス時代第2段階(現代から未来へ)概略冷戦終結冷戦終結、ソヴィエト連邦の崩壊以前は、アメリカとソ連あるいは資本主義圏と共産主義、社会主義圏との戦い、あるいは代理戦争的様相が世界の潮流を成していた。しかし、冷戦終結以後は湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争に象徴されるように、アメリカとイスラム主義国あるいはキリスト教圏とイスラム教圏との戦いが世界の潮流を成しているかのようである。湾岸戦争においても多国籍軍(主力はアメリカ)があれほど迅速に組織され、軍事活動を円滑に行う事ができたのも冷戦終結があったからである。しかし、一国主義を強め、湾岸戦争に見られるように、アメリカ主体のイスラム圏攻撃に歯止めが掛かりにくくなり、イスラム圏の国々においてさえ自らの主義、主張を押し通そうとするアメリカの姿勢が9・11同時多発テロを呼び込むことになったとも考えられる。湾岸戦争では、アメリカのブッシュ(現ブッシュ大統領の父)大統領がサウジアラビアでの米軍駐留を認めさせ、米軍基地が設けられた。サウジアラビアにはイスラム教の聖地メッカ、メディナがあり、宗教的反感が高まった。異教徒であるアメリカ人がイスラム教の聖地のある国からイスラム圏の国を攻撃したのである。このことが9・11同時多発テロにおける大きな要因の1つとなったのは確実である。テロの主犯格はサウジアラビア人であった。もちろん要因はこれ一つではない。古くはヨーロッパの十字軍遠征にもさかのぼる。また、欧米諸国の植民地化政策により多くの国が植民地となり抑圧と搾取、差別と偏見を受けた。植民地の時代を脱け出した後もイスラム圏諸国はアメリカやヨーロッパの搾取と抑圧等に強い不満を持っていると考えられる。改めて記述するが、第二次世界大戦以後長期にわたって続いた冷戦体制は崩壊し、多くの問題を内包しながら新しい混沌の時代に移行していったのである。東西冷戦終結から9・11アメリカ同時多発テロの頃が非常に大きな節目となった。そして、世界情勢は東西冷戦体制時代よりもさらに複雑化している。 2009年1月1日付け朝日新聞の9面「揺れる国際社会」の見出しにこう書かれている「冷戦が終わった1989年 変化は始まった」。 記事内容の概要は「東西冷戦の終結、民主化、インターネットの飛躍的な普及、経済のグローバル化。一方で民族紛争が火を噴き、国際テロの脅威の拡散など1989年がさまざまな変化の一つの起点になった。20年がたち、変化はなお加速している。」2009年11月10日付けの中日新聞社説によれば、「東西冷戦を終結させた時代の熱気は絶えて久しいが、現在の地球規模の問題の多くはその冷戦終結に直結している。」とある。そして、その問題として、核兵器拡散、民族紛争、金融・経済危機、イスラム過激派テロ、環境・エネルギー問題などが挙げられている。 私もこの考えに賛同する。敢えて、最も重要な転換年を挙げるならば1989年になると考えている。これは超ルネサンス時代の記述を読んでいただければわかると思う。ただし、私の場合はもっと広く転換期と捉えている。東西冷戦終結に関しても、冷戦構造が大きく崩れて行くのは1989年以前にある。そこで筆者は「1984年ころ(前後)」からともっと大きく捉えている。しかし、再度、最も重要な転換年を挙げるならば1989年になると考えているのは全く同じである。そして、第1次世界大戦勃発1914年より150年経過した2064年頃には常識を遥かに超えた文字通りの超大転換期が到来すると予測している。超ルネサンス時代(現代)まとめ第一次世界大戦勃発(1914年)より70年経過した頃(1984年頃)に、米ソ冷戦終結(1989年)が成された。第2次世界大戦後の世界秩序がこの時期に大きく崩れ去ったのである。筆者がこの説に最初に行き着いたのはヨーロッパ発展の時代であったが、70年150年周期説は現代において最も分かりやすい形で進行していると考えられる。70年150年周期説によれば現在の金融危機、世界同時不況、オバマ大統領誕生のニュースも、大航海時代の到来:産業革命:第一次世界大戦、世界恐慌、第2次世界大戦ほどの節目にはならない。大転換期は第一次世界大戦勃発(1914年)より150年ほど経過した頃(2064年頃)に到来すると考えられる。その頃には想像を絶するような変革が成されるだろう。
2011年02月09日
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70年150年周期説 超ルネサンス時代(現代から未来へ)概略 ここでアメリカ発展の時代の後に来る(重複する期間もある)、現代から未来に渡る歴史区間(筆者が超ルネサンス時代と呼ぶ期間)の概要を示したい。70年150年周期説を見出す発端となったのはヨーロッパ発展の時代なのだが、特に現代において、非常に明確に70年150年周期説が当てはまる展開となっている。 起点となる戦争は空前の世界戦、第一次世界大戦(1914~1918年)を置いて他にない。 第一次世界大戦開始(1914年)、死者が4000万人~5000万人と言われるスペイン風邪の流行、世界恐慌、第2次世界大戦(野生のオリーブの木の幹を切って)から70年(7年)ほど経過した1980~90年の頃にそれまでの歴史を大きく縛り形作って来た冷戦体制が崩壊する。米ソ冷戦終結宣言は(1989年)。この頃に第2段階(大転換期・節目)が到来した。第二次世界大戦後の世界において最も重要な構造(枠組み)となったのが、東西冷戦構造である。出典「冷戦」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2009年9月5日 (土) 12:59 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/【冷戦(れいせん。Cold War)とは、第二次世界大戦後の世界を二分した、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造である。中略概要冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を盟主とする共産主義を名目とする陣営が東ヨーロッパに集まっていたことから「東側」、対するアメリカ合衆国を盟主とした資本主義を名目とする陣営が西ヨーロッパに集まっていたことから「西側」と呼んで対峙した。その対立は軍事、外交、経済だけでなく、宇宙開発や航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。又、冷戦の対立構造の中で西ヨーロッパは統合が進み、欧州共同体や欧州連合の結成へ向かった。ヨーロッパのみならず、アジア、中東、南アメリカなどでも、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているが為に経済的、人的な情報の交流が少なく、冷戦勃発当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「鉄のカーテン」と表現した。ちなみにアフリカは西側の植民地が多いため西側の動きも見られた。このアメリカ陣営とソ連陣営のどちらにも与しない国家(開発途上国)は、「第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営の思惑の中で翻弄された。しかし、こうした両陣営の思惑を逆手に取り、両陣営を天秤に乗せる事で多額の援助を引き出す「援助外交」も活発に行なわれた。又、この米ソ両陣営の対立構造を「大国の覇権主義」と否定した国々は、インドなどを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった(といっても有名無実である国も多かった)。尚、経済発展が進んだ開発途上国が「第三世界」と呼ばれ、経済発展が遅れている開発途上国は「第四世界」と呼ばれる事もある。ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったためヤルタからマルタへということも言われる。中略冷戦終結後の経過 「一極体制」および「平成#国際関係史」も参照米蘇冷戦が終結した当初の1990年代初期においては、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』で述べたことを受けて、希望と幸福が訪れると見る向きもあった。しかし、冷戦終結直後の1991年12月に、冷戦の盟主国の一角であるソ連が死滅すると世界の均衡が崩れ、アメリカが唯一の超大国となってアメリカ的システムが絶対化されるアメリカナイゼーションが世界を席巻した。政治のアメリカナイゼーションは「民主化」の名で、経済のアメリカナイゼーションは「グローバリゼーション」の名で推進された。同時に冷戦終結により、それまでクレムリンやホワイトハウスに抑圧されていた世界各地の民族問題が再燃した。東ヨーロッパを見ると、1992年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに平和裏に分離した反面、1993年に起こったユーゴスラビア紛争は、民族同士の憎しみに火を付けてその後も続いた。カフカス地方ではアゼルバイジャンやアルメニアで内戦となり、チェチェンをはじめ各小民族が独立闘争を起こし、各国で内戦に発展した(第一次チェチェン紛争)。この内戦はロシア軍による圧倒的な火力で制圧されているが、追い込まれた独立派はテロ行為に走り、収拾がつかなくなっている(第二次チェチェン紛争)。又、このテロにはイスラム原理主義過激派の関与が疑われている。西ヨーロッパの冷戦は終わったが、東アジアではモンゴルの民主化、ベトナムとアメリカの和解の外は、中華人民共和国と中華民国の対立、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の対立が現在も続いており、日本国内では日本共産党と朝鮮総連は現在も公安当局(公安調査庁、公安警察)に監視されているなど、こちらは解決の見通しが立っていない。特に、中華人民共和国は1989年から軍備増強を強力に推し進めており、近年になって周辺国(中華民国や韓国や日本)にとって脅威となっていると言われるようになった(中国脅威論、米中冷戦)。中華人民共和国は名実ともに一党独裁国家であり、2000年代に入って暴動が多発するなど、国内が不安定化している。フランシス・フクヤマの論に従えば、一党独裁国家である中華人民共和国は、政府(中国共産党政権)が死ぬ時が必ず訪れるという論になる。ロシアは、ソ連が死滅すると共和制国家として甦生し、ボリス・エリツィン政権下で経済の再建と資本主義化が推進された。しかし、これが裏目に出てロシアの経済は悪化し、特にアジア通貨危機後の1998年にはロシア財政危機が起きて一層悪化するなど、「冷戦の敗戦国」として欧米の経済援助に甘んじていた。しかし、2003年頃より原油価格高騰の恩恵により経済は好転し、それを背景にウラジーミル・プーチン政権は再び「強いロシア」の復権を謳い、EUやNATOへの旧ソ連加盟国の取り込みを進めていた欧米に対して、牽制の動きを見せるようになった。現在のロシアも独裁体制に近く、フクヤマの論に従えば、政権が死ぬ時が必ずやってくるということになる。つまり、将来において中華人民共和国やロシアの現政府が倒されて民主化された時、大国同士の冷戦や世界大戦の危険性は消えて、全世界において民主主義体制が半永久的に続き、歴史が終わるとされる。民主主義の枠内であれば、政権交代により社会問題や他国との国際問題を解決できるとされる。しかし、現段階では、アメリカ主導の民主主義体制・資本主義体制が、民衆に必ずしも幸福をもたらしていない実状が、アメリカ発の世界同時不況により立証された。ポスト冷戦時代になると、資本主義・民主主義は、資本家による労働者の使い捨てや、不況の世界規模化といった災難を解決できていない。しかし、時間は長期になるが民主主義体制の枠内なら問題は解決可能という見方もある。又、フクヤマの論は、アメリカによる「民主化」(時には武力を伴う)を容認する内容だという誤った解釈がなされ、「自由」があることをいわば「売り」とするアメリカナイゼーションが世界中で急速に進んでいる。ただ、実状がアメリカの多国籍企業の為の利益の追及であるにせよ、結果的に第二次世界大戦以後、アメリカの同盟国・友好国・アメリカにより民主化された国(イラクなど)の民が自由を手に入れたのは事実である。冷戦中は反共主義という理由でアメリカの支援を受けていた独裁国家も、冷戦が終わるとサウジアラビアなどを除いて次々と民主化されている。アメリカは「冷戦の勝戦国」という自信から、1991年の湾岸戦争に引き続いて中東への介入を深め、ビル・クリントン政権はパレスチナ問題に積極的に関わり、初めて和平合意をもたらした。しかし、イスラエルの凶変から和平は暗礁に乗り上げ、パレスチナ過激派によるテロとイスラエル軍による虐殺によって、パレスチナは泥沼の様相を呈した。又、アフガニスタンやスーダンには1998年にミサイル攻撃を強行し、特にアフガニスタンには4回に亘る経済制裁を与えた。アフリカに対しては、スーダンの外にはソマリアにも国際連合の力で内戦に介入したが失敗し、これによって、クリントン政権は地上軍の派遣を恐れるようになった。イラクに対しては湾岸戦争以来敵対しており、イラク武装解除問題に関しても、武器査察が滞る度に空爆を加えた。これらのアメリカによる中東への介入やグローバリゼーションに反感を抱くイスラム原理主義過激派は、2001年にアメリカ同時多発テロ事件を惹き起こし、対テロ戦争と呼ばれるアメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争となった。核開発競争によって生産された高性能核弾頭を、現在もアメリカとロシアが数千発保有している。冷戦初期に核のアメリカ一極集中を恐れた一部の科学者は、核の抑止力で世界の均衡を保とうと、ソ連とイギリスとフランスに開発法を伝授し、ソ連から中華人民共和国にも継承されて、現在の核五大国が形成された。この外にも、中華人民共和国やソ連から流出した開発法によって(中蘇対立なども要因となっているが)インドやパキスタンの核保有や、アメリカから供与された技術によってイスラエルの核保有に及んでいる。2008年8月には南オセチア紛争が起こり、米露間に軍事的緊張が生じ、「冷戦の再来」「新冷戦」などと呼ばれる状況となっており、緊張状態が続いている。経済と雇用は冷戦時代とは比べ物にならない程に悪化し、実際に訪れた現象は希望と幸福ではなく、絶望と災難であった。1989年~1991年に起こった社会主義政権の死滅により、「無規制」「解雇自由」「大資本家のみの繁盛」を特徴とするアメリカ型経済システム(新自由主義)が「グローバリゼーション」の名で世界中に広まり、多国籍企業は地球規模でパイを奪い合う「大競争時代」を作り上げた。この結果、日本を初め世界中が「日銭の世界」と化して、世界中で不安定雇用労働者(プレカリアート)が爆発的に増大した。冷戦時代末期(1980年代)のアメリカでは「ダウンサイジング」という名の整理解雇ブームが民衆を襲っていたが、これが世界規模に拡大したのである。又、冷戦時代には、アウグスト・ピノチェト政権のチリがアメリカ型経済システムを敷いていた事から、冷戦終結後には、世界各国がピノチェト政権のチリと同じ状態になったとも言える。冷戦時代末期のIMF不況と1990年代のグローバリゼーションに遭遇したラテンアメリカでは、2000年代になると反米・左派の政権が続々と生まれ、社会主義が復活する動きを見せている。又、反米や社会主義を掲げるラテンアメリカの政権は、アメリカを牽制する動きを見せている。】* * * ウィキペディアの冷戦に関する記述は非常に長いので前後の極一部分だけを引用させていただいた。是非ウィキペディアを参照していただきたい。第二次世界大戦以後長期にわたって続いた冷戦体制は崩壊し、多くの問題を内包しながら新しい時代に移行していったのである。
2011年02月07日
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70年150年周期説2010年に成美堂出版「1冊でわかる イラストでわかる図解世界史」を読んだ。「大ヒット!24万部突破!!」とある。確かに、地図やイラストの力は大きい。百聞は一見に如かずと言うが、文明の誕生から現在に至るまでの大きな歴史の流れが解り易く説明されている。私もこんなビジュアルな70年150年周期説を作ってみたいのだが、個人では不可能としかいえない。そこで、「1冊でわかる イラストでわかる図解世界史」を見ながら筆者のブログやホームページを読んでいただければかなり解り易くなると思われる。これは筆者お勧めの本の一つである。歴史に対する解釈には様々な異論があるものだが、この歴史書には賛同する部分が実に多い。ルネサンスの開始時期は14世紀であり、絵画のジオットも「イタリア・ルネサンスの開花」に記載されている。美術や建築などの分野だけに捉われずに判断すれば、当然そうなるはずである。大航海時代も15世紀末~18世紀末となっており、筆者の考えと同じだと言える。大航海時代以降のポルトガル、スペイン、オランダの繁栄、フランスその他のヨーロッパ諸国やロシアの勢力拡大、イギリスの勢力拡大などがわかり易くまとめられている。超ルネサンス開始時期(現代)にあたる帝国主義の誕生(19世紀後半~20世紀初頭)の項目も地図を見ると非常にわかりやすい。「1冊でわかる イラストでわかる図解世界史」の図や記述によれば、第2次産業革命開始後に帝国主義政策が強力に推し進められ、軋轢が深まっていく過程がよくわかる。帝国主義列強による世界分割が激化する。特にアフリカの分割が急速にすすんでいる。そして第4編「地球世界の形成」ではまず「南北戦争をへて発展したアメリカ」が取り上げられている。次に第13章「世界戦争の時代」に入り、第14章「東西冷戦の時代と21世紀」へ続く。最後は100「拡散する21世紀の紛争」である。さて、21世紀の今後はどうなるのだろうか?あなたならどう予測する?
2011年02月06日
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全般このように、類似した歴史的意義を持つ現象が殆ど同一の歴史的スパン(悠久なる歴史の流れの中では同一の歴史期間と断言しても良いほどである)を持って現れる事自体、偶然とは言えないのだ。このような組み合わせが偶然に同時に起きるはずはない。これほどまでに限定して考察してもこれらの類似性に対して偶然の産物とは言えない。まして考えられないほどの類似的意義をもつ出来事、同一性をもった歴史的スパンがある事実は明らかに偶然性を否定している。(と筆者は考えているわけである。蛇足以外のなにものでもないのだが付け加えておきたい。)そして次に、例えばA1:大航海時代の幕開けB5:蒸気船実用化。準大航海時代の幕開けC3:ロケット機関開発、宇宙へ、新大航海時代の幕開けと呼べる歴史的に重大、重要な意義を持つ時代が他に幾つもあっただろうか。このように表現できる歴史的重要期は大きく捉えれば3ヶ所ないし4ヵ所と考えるのが妥当と思われる。ヨーロッパ発展の時代の大航海時代、蒸気機関による大航海時代、原動機及び内燃機関による大航海時代、ロケット機関による宇宙への大航海時代である。しかし、原動機および内燃機関による大航海時代に「70年150年説」を適用できるとは、現在の所考えられない。さらにA2:世界の覇権に向けてヨーロッパの勢力が抜きん出てゆくB2:世界の覇権に向けてイギリスの勢力が抜きん出てゆくC2:世界の覇権に向けてアメリカの勢力が抜きん出てゆく A3:世界経済が新局面に入って行くB3:世界経済が新局面に入って行くC3:世界経済が新局面に入って行く(世界経済が新局面に入って行く。これはヨーロッパ発展の時代においては大航海時代、イギリス発展の時代においては産業革命、アメリカ発展の時代においては大恐慌と二度に渡る世界大戦の影響が大きい。)A6:ヨーロッパの伸長。ヨーロッパ(特に西欧)諸国にとって大転換期あるいは大飛躍期となった。世界中の国家にとっても大転換期となった。B6:イギリスの伸長。イギリスにとって大転換期あるいは大飛躍期となった。世界中の国家にとっても大転換期となった。C7:アメリカの伸長、アメリカにとって大転換期あるいは大飛躍期となった。世界中の国家にとっても大転換期となった。 その他の、時代を画する出来事がこれほどまでに重なる事は歴史上、ヨーロッパ発展の時代、イギリス発展の時代、アメリカ発展の時代を置いて他にはないとしか言えない。さらに、地球的規模で世界的覇権を打ち立てた国又は地域はヨーロッパ発展の時代におけるヨーロッパ、イギリス発展の時代におけるイギリス、アメリカ発展の時代におけるアメリカ以外にはない。かつての世界的帝国ローマ、空前の大帝国「元」といえどもアメリカ大陸にまで実質的な影響力を与えたわけではないし、勢力を行使したわけでもない。本当に全地球的な影響力を与え、全地球的勢力を行使し得たのは、ルネサンス以降、特に大航海時代以降の欧米勢力である。したがって、同様の類似性はルネサンスより前の時代では認められないと考えられる。そして、もう1度ヨーロッパ発展の時代、イギリス発展の時代、アメリカ発展の時代の年表を見ていただいて、初期、中期、飛躍期が一致する事を確認していただきたい。これまでに紹介したヨーロッパ発展の時代、イギリス発展の時代、アメリカ発展の時代そしてこれから記述する超ルネサンス、この4つの大きな歴史の流れを「勢力争いから見た歴史の流れ」としてまとめておいた。この表を見ながら本文をよく読んでいただければ、ヨーロッパ発展の時代初期、イギリス発展の時代初期、アメリカ発展の時代初期における起点から丁度150年経過した頃に、全く偶然に(本当は、筆者はこれが偶然である確率は全くないと考えている)、各々の勢力拡大の一大転機が訪れていることがよく解かる。
2011年02月06日
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アメリカ発展の時代 完成期・飛躍期(概略) アメリカ独立戦争から約150年経過した頃からC1:第一次、第二次世界大戦(西欧の没落)C2:世界の覇権に向けてアメリカの勢力が抜きん出てゆくC3:ロケット機関開発、宇宙へ、新大航海時代の幕開けC4:世界経済が新局面に入って行くC5:アメリカの経済的大発展C6:原子力、電子工業等の発展C7:アメリカの伸長、アメリカにとって大転換期あるいは大飛躍期となった。世界中の国家にとっても大転換期となった。この頃から、パックス・アメリカーナと表現されるアメリカ全盛時代に入って行く。アメリカ発展の時代における盛期、全盛期あるいは完成期・飛躍期といえる。パックス・アメリカーナの定義は様々なようだが、第一次、第二次世界大戦の頃がアメリカのみならず、世界的な大転換期となった。また、アメリカにとって非常に大きな飛躍期となった。 詳しくは「アメリカ発展の時代 完成期・飛躍期」を御覧ください。
2011年02月05日
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70年150年周期説(概略 アメリカ発展の時代) アメリカ発展の時代初期(概略)アメリカ(合衆国)発展の時代初期は、アメリカ独立戦争、アメリカ合衆国建国前後の頃になると考えられる。新天地アメリカにおいて当時のヨーロッパを支配していた古い体制、宗教的束縛からの解放などさらに新しい光が差し始めた。アメリカには多くの新教徒などが信仰の自由や様々な抑圧、束縛からの解放を求めて移住していた。その流れが独立戦争により大きく加速される。アメリカ独立以前はイギリスの植民地であり、イギリス国王の支配下にあった。更なる発展の為には、イギリスの抑圧からの開放を必要としていたのである。当時のヨーロッパは世界的先進国家集団ではあったが、国民主権国家はまだ生まれておらず、国王や君主が大きな力を持っていた。最初の国民主権国家はアメリカにおいて成立し、アメリカではその体制が継続される。遅れて国民主権国家を築いたフランスでは恐怖政治に陥り、後に王政復古やナポレオンによる独裁政治が行われる。 アメリカ発展の時代・第2段階(概略)独立戦争を起点として約70年経過した頃からアメリカにおける産業革命が進行し始める。さらにこの頃に急激な領土の拡大が成される。これで太平洋岸への領土拡大が完成する。しかし、新しく成立した州を奴隷州とするか自由州とするかで南北対立が深まる。そして、南北戦争へと急激に展開して行く。これはアメリカ発展の時代における重要で大きな激動期であった。南北戦争におけるアメリカ人の戦死者は第二次世界大戦の約二倍である。アメリカ史上最大の戦死者を出して南北戦争は終わった。南北戦争以後、国内的には長期安定化に向かう。対外的には、さらに拡大して行く事になる。まさに、1845年頃よりアメリカ発展の時代は第2段階(新段階)に入っていったと考えられる。以下は三笠書房 2001年11月5日 第6刷発行 猿谷要著「この一冊でアメリカの歴史がわかる!P.104」より【第3章 なぜ一躍「世界の大国」になったのか?[この章の概観]この章が取り扱うのは、南北戦争が終った一八六五年から第一次世界大戦が終る一九一八年までの約半世紀である。日本の時代でいえば、大政奉還の二年前から大正七年まで、ほぼ半世紀近かった明治の時代がこれにあたることになり、私たちは日本の明治時代のアメリカはどうだったのかと思いながら考えていけばいいだろう。第二章までのアメリカ、つまり南北戦争までのアメリカ(その頃、日本は徳川時代)は、田園的で牧歌的な、古い衣裳をまとったアメリカであった。この章から始まるアメリカは、工場群が黒い煙を噴き上げる都会的なアメリカ、現在私たちが知っている姿に急に近づいたアメリカである。確かに南北戦争の終結とともに時代は一変する。しかし歴史のうえで断絶はあり得ない。】* * * アメリカの歴史は南北戦争の頃(南北戦争の前後)を節目として時代が一変する。これまでの記述から言える事は、アメリカの急速な領土拡大から南北戦争の頃が大転換期となった事実である。以下にヨーロッパ発展の時代年表1、イギリス発展の時代年表1、アメリカ発展の時代年表1を掲載するが、年表の同じ部分に大転換期が訪れ、それから同じ歴史的間隔を置いて各時代の完成期あるいは盛期が訪れているのは確かだとしか言いようが無いと考えている。 詳しくは「アメリカ発展の時代」を御覧ください。
2011年02月05日
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ヨーロッパ発展の時代2(概略 イギリス発展の時代 完成期・飛躍期) 三十年戦争を起点として約150年経過した頃からB1:七年戦争終結。産業革命 B2:世界の覇権に向けてイギリスの勢力が抜きん出てゆく B3:世界経済が新局面に入って行くB4:イギリスの経済的大発展B5:蒸気船実用化。準大航海時代の幕開けB6:イギリスの伸長。イギリスにとって大転換期あるいは大飛躍期となった。世界中の国家にとっても大転換期となった。 イギリス産業革命に関する詳しい記述は「産業革命」を御覧ください。この頃はイギリス発展の時代における盛期、あるいは完成期・飛躍期といえる。以上の事から、イギリス発展の時代においても、三十年戦争を起点として70年経過した頃から第2段階に入って行き、約150年後に七年戦争で大植民地帝国を築き、産業革命が始まって世界中で最も優位な立場にたった。これは非常に明確である。これまで述べてきた事柄により、明らかに「70年150年説」が適用される。 パックス・ブリタニカの定義は様々なようだが、七年戦争、パリ条約、産業革命の頃がイギリスのみならず、世界的な大転換期となった。また、イギリスにとって非常に大きな飛躍期となった。 詳しくは「イギリス発展の時代初期」「イギリス発展の時代 第2段階から飛躍期」を御覧ください。
2011年02月04日
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ヨーロッパ発展の時代2(概略 イギリス発展の時代・第2段階)そして、三十年戦争を起点として約70年経過した頃から英仏第二次百年戦争が始まる。この時にはこれまでの覇権国に対する挑戦者ではなく、むしろフランスの挑戦を受ける覇権国としての立場を築くことになる。イギリス発展の時代初期直前、イギリスはヨーロッパにおいて弱小国家にすぎなかった。英仏第二次百年戦争という大きな枠組みの中で動き出したイギリスはヨーロッパにおける勢力争いで更に高いレベルに達し、世界の覇権において優位な状況を保つ強国になったのである。これは明らかに新段階(本書では第2段階)に入っていった事を意味する。三〇年戦争が勃発した1618年より70年経過した1688年頃の大きな出来事として、 l ニュートン 自然科学史上最高の古典とされる「プリンキピア」(1687年)出版l 名誉革命 (1688年) l 権利の章典 (1689年)l 英仏第二次百年戦争始まる(1689~1815年)l インド産綿織物の需要が高まり、主要な輸入品となる。イギリスで綿織物工業が発展する。l イングランド銀行設立(1694年)、ロンドン株式取引所設立(1698年)などによりイギリスの経済活動は根底からの変革をとげる。などが揚げられる。ここで名誉革命、英仏第二次百年戦争に関わる重要な鍵となった人物に注目したい。出典「ウィリアム3世 (イングランド王)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2009年3月30日 (月) 00:30 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/より【ウィリアム3世(William III (of Orange) 、1650年11月14日 - 1702年3月8日)は、オラニエ公・ナッサウ伯(在位:1650年11月14日 - 1702年3月8日)、ネーデルラント連邦共和国統領(在職:1672年6月28日 - 1702年3月8日)、イングランド王・スコットランド王・アイルランド王(在位:1689年2月13日 - 1702年3月8日)。スコットランド王としてはウィリアム2世。イングランド女王・スコットランド女王・アイルランド女王メアリー2世は妻。オランダ名はヴィレム3世(Willem III van Oranje-Nassau)。オラニエ=ナッサウ家の出身であるが、ステュアート朝の王の1人に数えられている。中略イングランド王位 1688年、イングランド議会の要請を受け、ヴィレム3世はオランダ軍を率いてイングランドに上陸。義理の父ジェームズ2世をフランスに追放した。イングランドでは1人の死者も出すことなく体制変革に成功したため、名誉革命と呼ばれている。1689年2月にヴィレムはウィリアム3世として国王に即位し、女王となった妻メアリー2世とともにイングランドの共同統治者となった。当初、イングランド議会の意向はメアリーの単独統治であり、ヴィレムは女王の夫(王配)としてのみ遇されるはずであった。しかしヴィレムはそれに反発し、オランダ軍の撤収もちらつかせながら、チャールズ1世の外孫である自らも王位に就くことを望んだため、イングランドはウィリアム3世とメアリー2世を同格の君主として戴くことになった。ここにおいて、これまで3度の英蘭戦争を戦ってきた両国は同君連合に近い形となった(オランダ統領は元首ではあっても君主とはいえないが、事実上オランダの君主と言える)。ウィリアム3世の治世中、イングランド軍の司令官にオランダ人が任命されたり、オランダ人がイギリス貴族に叙任されることもあった。ウィリアム3世のイングランドは直ちにアウクスブルク同盟に参加した(この同盟は大同盟と呼ばれ、アウクスブルク同盟戦争は大同盟戦争とも呼ばれることになる)。これに対しルイ14世は、フランスに亡命したジェームズ2世を援助し、フランス軍を率いてアイルランドを制圧すると、ウィリアム3世は自ら軍を率いてアイルランドに渡り、ボインの戦いでジェームズ2世を破った。またスコットランドの反乱も鎮圧されると、今度は本国オランダに帰ってルイ14世と戦った。英仏の抗争は北アメリカにも拡大し、英領アメリカの植民地とフランス領カナダで戦争が行なわれた。これはウィリアム王戦争と呼ばれる。ウィリアム3世の生涯は、オランダに対するフランスの侵略と戦うことに費やされた。中略歴史的評価 王政復古したチャールズ2世やジェームズ2世時代のイングランドは、太陽王ルイ14世が支配するフランスの衛星国のような存在だった。ところがウィリアム3世はオランダをフランスの侵略から守るために、大同盟戦争でイングランドを反フランス路線に引き込んだ。そもそも名誉革命自体が、この目的のためにイングランドの政治的混乱に乗じた、ウィリアム3世の軍事侵攻による政変劇に過ぎないとする見方さえある。18世紀になるとイギリス(グレートブリテン王国)は常にフランスに対抗し、スペイン継承戦争からオーストリア継承戦争を経て七年戦争でイギリスはカナダ、インドなどフランスの海外植民地をすべて奪い、19世紀のナポレオン戦争で世界的な覇権を樹立する。この一連の戦争は第二次英仏百年戦争と総称されることもある。イギリス帝国の前半期はフランスとの抗争に打ち勝った時代だといってよい。このようなイギリスの反フランス路線をセットしたのがウィリアム3世だった。国内的に権利の章典がイギリス議会政治の一里塚だった以上に、国際関係においてイギリス史の転換点を構築した。一方、オランダにとって、統領ウィレム3世のイングランド王即位によるイングランドとの連合は、長期的には不利益をもたらした。イングランドとの条約でオランダ海軍はイングランドを上回らないよう制限が設けられ、共同作戦の指揮権も握られた。以後オランダ海軍はイングランド海軍の下風に甘んじることになった。さらに貿易や海運でもイングランドに掣肘されることになり、オランダは次第に凋落へと向かっていった。】* * *イギリスがフランスより優位に立つ事ができたのは、オランダのオラニエ公ウィレム(ウィリアム三世)による所が大きい。17世紀の終わり頃、覇権国オランダが凋落の傾向にあった時、最も強い力を持ったのはイギリスではなくフランスであった。当時のフランスはルイ14世(太陽王)を君主に頂き、勢力を拡大していた。1688年にフランスとアウグスブルク同盟(オランダ、スペイン、スウェーデン、神聖ローマ皇帝レオポルト1世、バイエルン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯、ファルツ選帝侯など)との間で戦争が始まる。この後、同じ年に名誉革命が勃発し、1689年、オランダ統領オラニエ公ウィレム3世がイングランド王ウィリアム3世としてイングランド王に推戴される。イギリスはアウグスブルク同盟に参加、反フランスの先頭に立っていたオランダと共にフランスに対抗、大同盟戦争を戦うことになる。イギリス、フランス両国から見ればこれが第2次英仏百年戦争の始まりとなる。第2次英仏百年戦争は「絶対王政フランス」対「議会王政(立憲王政)イギリス」の戦いとも考えられる。名誉革命を境としてオランダと同君連合に近い強い結びつきを得たイギリスが、これまでのフランス優位の立場を逆転していく。イギリス発展の時代としてみれば名誉革命の頃に第2段階(新たなステージ)に入って行った事は確実である。 名誉革命以後、立憲王政(立憲君主制)が確立し、1715年、1745年に反革命勢力ジャコバイトの反乱が起きるが、鎮圧され、国内は長期安定化に向かう。対外的には、さらに拡大して行く事になる。政治体制もほぼ確立した。グレート・ブリテンも成立した。この頃はイギリス発展の時代における非常に重要で大きな激動期であった。ただし、この頃はパックス・ブリタニカと呼べるほどの優位を築き上げたわけではない。フランスと拮抗する勢力を持ったにすぎない。 詳しくは「イギリス発展の時代 第2段階から飛躍期」を御覧ください。
2011年02月03日
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70年150年周期説《概略 ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代)》ヨーロッパ発展の時代2(概略 イギリス発展の時代・初期)イギリス発展の時代初期において、様々な分野で、当時のヨーロッパを支配していた古い体制、宗教的束縛からの解放、新しい光が差し始めた〔ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代・初期)参照〕。イギリスの場合はルターの宗教改革からは遥かに遅れていた。ところがエリザベス女王の時代に新教徒が圧倒的多数を占める様になり情勢は全く異なってゆく。この頃はシェークスピアなどが活躍し、文芸が花開いた。また、イギリス海軍がスペインの無敵艦隊を撃破した。この頃がイギリス発展の時代初期と考えられる。下図を見て頂ければ解かるように、それまではイギリス領土の縮小時代であった。英仏百年戦争以後、特にジャンヌ・ダルク(フランス)の活躍以後のイギリス退潮の歴史を見て、明らかにイギリス発展の時代に入ったと解かるのはエリザベス女王治世後半の頃を置いて他にない。 出典「エリザベス1世 (イングランド女王)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2009年5月6日 (水) 13:09 。 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/【エリザベス1世(Elizabeth I, ユリウス暦1533年9月7日 - グレゴリオ暦1603年3月24日)、イングランドとアイルランドの女王(在位:1558年 - 1603年)。テューダー朝最後(第6代)の女王。当時弱小国家であったイングランドの独立を維持し、「よき女王エリザベス」と慕われた。別名グロリアーナ(Gloriana、「栄光あるもの」の意)。後略】* * *イギリスは英仏百年戦争が継続されている頃には後のフランス領内に広範囲に及ぶイギリス領を持っていたのである。現在のフランスの首都パリはこの当時イギリス領であった。しかし、フランスの少女ジャンヌ・ダルクの活躍以後、イギリス領土は縮小の一途を辿ることになる。これは、ヨーロッパにおけるイギリスの相対的な勢力の衰退であった。エリザベス女王治世直前には、イギリス発展の時代どころか、イギリスから見れば目と鼻の先にあるヨーロッパ大陸への足がかりさえなくしてしまう。当時イギリスは弱小国家だったのである。イギリス発展の時代はエリザベス女王治世の頃からと言える。しかし、エリザベス女王治世初期はむしろ混乱期であった。1569年には北部大貴族の反乱が起こるが、翌年には鎮圧される。イギリス発展の時代開始時期は大体この頃か少し後だと考えられる。この後もエリザベス廃位の陰謀が何度も企てられる。状況が落着くのは1587年、これまでエリザベスに強く抵抗してきたスコットランド女王メアリ・スチュアートの処刑(1587年)以後である。その翌年1588年にイギリス海軍はスペイン無敵艦隊を撃破する。イギリス発展の時代初期はこの頃からとしか考えられない。詳しくは「イギリス発展の時代初期」を御覧ください。
2011年02月02日
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