セミリアイア「晩年」日記

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2019.01.09
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カテゴリ: 評論
教師の職業的人格を一言で言い表せば「独善性」である。もともと独善的な人間が、教師という職業を目指すことが多い。

彼らは、すでに大学入試において底辺の国公立大学である教育大学にしか入れなかったのだから、自らの「権力意志」が企業や公務員の世界では満たされないだろう、ということはうすうす知っている。「権力意志」は人を支配したいという欲求に突き動かされるものだから、支配できそうな人間がうようよいる学校という場は、彼らにとって格好の職場と思える。

しかも、いまだに残っている教師=聖職論という神話が、彼らの隠れた動機を都合よくすり替えてくれる。人を育てる教師という仕事はこの上なく尊い、というわけだが、教える内容の理解すらおぼつかない人間が人を育てられるわけはない。「あの先生のおかげで今の私がある」というような素晴らしい教師は、小学校から大学院まで通っても、せいぜいが一人か二人。残り多数は、「あいつのせいで随分余計な苦労をさせられた」という苦い思い出となるか、まったく記憶にも残っていないか、である。勉強もせずに前者のような教師になれると思うこと自体が愚かなのだが、それを助長しているのが、ひところ流行った「学園ドラマ」である。ろくに見てもいないのだが、熱心な視聴者であっても、例えば金八先生が、授業の準備を一生懸命している姿が放映されたことはないだろう。彼らの職業選択に影響を与えたのは、デューイでもペスタロッチでも『エミール』でもなく、学園ドラマなのだ。

以上のような構造を把握できれば、もう少しましな教師になってもよさそうなのだが、残念ながら自覚のかけらもない。せいぜいが現実はそれほど生徒にも慕われず、反動的に「いくら嫌われても、自分は教師として厳しく接する」という姿勢に転ずるだけだ。

さらに教師という仕事自体が彼らの「独善性」を日々助長する。

教師が板書すれば、クラスの全員がノートに書き写す。指名すれば、教科書を読み、宿題を出せば必死にやってきて、期日を守って提出する。こういう一連の経験が彼らの「独善性」を助長する。自分が何を板書するか、誰に指名するか、どういう宿題を出すか、についての自己反省はなく、それができない生徒を「厳しく指導」することが、自分の仕事だと思っている。

「先生の言うことだから、聞け」というのが彼らの最大の理論であり、聞く価値があることを、それにふさわしいやり方で話しているのかどうかについては一切頓着しない。こういう日々を数年過ごせば、最初はそうでなかった少数の教師も「独善性」を己の人格の核とする。「習い性となる」という古い言葉は正しい。





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最終更新日  2019.04.06 07:08:54


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