セミリアイア「晩年」日記

セミリアイア「晩年」日記

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

q蔵

q蔵

カレンダー

お気に入りブログ

まだ登録されていません

コメント新着

コメントに書き込みはありません。

フリーページ

2019.04.11
XML
カテゴリ: 評論
前項まで書いたことは、現在の社会的風潮としての「終活」であり、それ以上論ずることはない。

ここから、自分なりの「終活」について書こう。

ハイデガーは人間を「死へと向かう存在」と定義し、そのことを忘れている現存在の頽落を「Das Man(世人)」として批判した。彼の思想の根底はヨーロッパ個人主義であり、「死」はあくまでもその人において完結するものだった。

しかし、本当にそうなのだろうか。我々は誰それの「死」を経験しながら生きているのだが、自分の「死」は経験することができない。「死」はハイデガーのいうように「現存在の絶対的不可能性」なのだから、「死」とともにすべての経験は消失する。したがって私は「私は死んだ」という経験を語れない。そこで、私の「死」ははたして完結するのだろうか?

こういう文脈でいえば「孤独死」などが問題になるはずはない。「孤独死」だろうが、家族に看取られながらの「安らかな死」だろうが、死の本質は変わらない。上野千鶴子が最近書いた、孤独死をさもあってはならないことのように騒ぎ立てる世間の風潮に対する批判は、ハイデガー流の無神論的実存主義をベースにしている。

もし「終活」という言葉を、ハイデガー的にとらえればそれは「終わりに向かって生きる」ことの自覚ということになるだろう。常に自らの現存在が絶対的不可能になることを考え、「世人」としての非本来的生き方をやめ、本来的生を生きる。

そう言われても、いったいどう生きればいいのか分からない。しかし少なくとも、そうなれば、残余のことはどうでもいい話になる。日本社会が右傾化しようが、非寛容社会になろうが、年金だけではどうにも老後は破産することになろうが、自分の資産を誰が相続しようが、それは「世人」の頽落した生き方の中の問題であって、どうでもいいことだと、ハイデガーなら言うはずである。

自分もある年齢まではそう考えていた。だが、今は、その立場にはまったく立っていない。

自分の考えを一言でいうと「終活」とは「きちんと死ねるように生きる」ことである。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019.04.11 06:22:35


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: