セミリアイア「晩年」日記

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2019.04.12
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カテゴリ: 評論
人間は一人では死ねない、というのは社会的な意味でもそのとおりである。

孤独死した人は、戸籍上は死者になっていないし、年金は支給し続けられるし、税金も督促され続ける。どこかの時点で、死体が発見され、行政の誰かが手続きを完了して初めて、「彼は死んだ」ことになる。つまり、一人では死ねない。

さらに、彼の実存という意味では、たとえそういう手続きが何とか完了したとしても、彼は死んだことにならない。

叔母が亡くなった前後、自分は飛行機を乗り継いで叔母の病院に行った。大学病院から、これ以上治療はできないということで、住んでいた町の病院に移る時。それから、亡くなったというしらせを受けた時。

前もって頼んであった葬儀社に行き、さまざまな行政上の手続きをした。また、火葬の時は、叔母が生前お世話になっていた方々にできる限り連絡をし、20名くらいの方が集まってくれた。当時はまだ定年前、現役で仕事をしていた。職場の補佐たちにも事情を話し、いつでも行けるようにしていたから、そうできた。妻もさまざまな点で協力してくれた。

叔母は、自分が子どもの時に、最もよく遊びに行っていた親戚だったし、その後も交流が続き、自分の息子が中学生の時にも確か一週間以上お世話になった。娘も一度会いに行っている。

叔母の臨終の瞬間に、自分はもちろん立ち会えなかったが、確かに叔母を「看取った」と思っている。

遺骨は、自分の両親の墓に納めた。両親にそういう意向があったわけではない。叔母からもはっきりとした希望は聞いていなかった。自分の独断である。生まれ故郷であり、弓の試合もあるので、年に一回はお参りしてくる。息子も出張の時に寄ってくれ、娘夫婦も旅行の途中で寄ってくれた。

「叔母が亡くなった」と言明したのは自分であり、その言明によって叔母は実存的意味でも死んだのだ。それは叔母一人ではできなかったことだ。



そういう意味で、叔母は立派に「終活」をしていたのであり、自分たち夫婦もそういう「終活」をすべきなのだと考えている。つまり、自分ではできない「関係」の消失の言明をしてくれる人、相互にそういう信愛の情を持ってくれる人との関係の中で生きること、まさに、きちんと「終わる」ために「活きる」ことが「終活」の本当の意味なのだ。

この項終わり。





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最終更新日  2019.04.12 06:51:30


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