セミリアイア「晩年」日記

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2019.05.02
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カテゴリ: 評論
ボランティアが盛んになる一方で、社会が非寛容になっていく。前項ではこのことを世代論・格差論として考えてみたが、それですべての説明がつくわけではない。

むしろ、連休にはボランティアに積極的に向かう人間が、日常生活では他者に対して非常に非寛容である、ということも多いのではないかとも考えられる。

ボランティアは自分の住む地域でもできないこともないのだが、わざわざ遠くに出向いてする場合は結構多い。都会の場合、近隣との交流はほとんどないことが常態である。そういう中で、他者に何らかの奉仕活動をするのは、「余計なおせっかい」として好まれないことも多い。そこでは「互いに無関心」というのが暗黙の生活ルールである。その中で手に入れられる「安楽」も確かにある。都会でも貧しい地域であれば、「子ども食堂」などの地域ボランティアも十分可能だが、アッパーミドルの地域ではその必要もない。そこでも虐待を受けている子どもたちはいるかもしれないが、それを担当するのは行政であり、何かしようとしても「余計なおせっかい」扱いされるのがオチだ。

また、その人の職場は基本的に競争社会だから、そこでの勝者として生き残るためには、同僚に手を貸していやるのは、大体は自身のマイナスになる。マイナスになった者同士が傷を舐め合うのは勝手だが、そういう仲間には絶対入りたくない。できれば、できないやつは排除したい。

しかし、人間として、災害や貧困にあえいでいる人たちがいることはわかっているし、そこに何のコミットもしないというのはどうにも居心地が悪い。

こういう動機で弱者への支援をする場合、多くは募金に応じるというやり方を選択するが、それでも直接支援をしたい場合、ボランティアという選択肢はある。会社では非情に能力のない部下を切り捨てる上司が、また近所では何かありそうな隣家の子どもを見ても、見て見ぬふりをする主婦が、少額ではない募金をしたり、直接被災地に出向く活動をしたりすることはあるだろう。

以上、前項と合わせてみると「非寛容社会」のリバランスとしてのボランティアという構造が見えてくるのだが、いずれにしても問題はボランティアではなく、「非寛容社会」である。

なぜ、そのような社会になってしまったのか、次項からはそこを論考していきたい。





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最終更新日  2019.05.02 06:00:13


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