セミリアイア「晩年」日記

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2019.07.28
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カテゴリ: 評論
一歩譲って、いや、そうではなく「気持ち」の問題として「寄り添う」のです、という反論があるかもしれない。それなら、分からないわけでもない。災害や犯罪の被害者は、報道されれば気の毒としか思えないし、それは「思い」をその方々に「遣る」こと、つまりその方々の身になって悲しみや憤りを感じることだ。それを「寄り添う」というのなら、それでかまわない。

普通の人でも、数分の黙祷を捧げることならできるだろう。しかし、30分もしないうちに、日常の気分は戻ってくる。くだらないテレビをみたり、他愛ない冗談を言ったりして、その日を過ごす。それが日常というものだ。

東日本大震災の時、知人にはいろいろと物を送った。復興した蒲鉾店から息子の結婚式の引き出物を注文した。職場でも募金があったから、財布から千円札を数枚寄付した。それは「がんばってね」という単純な思いからしたことで、決して「寄り添った」ことではない。できる範囲でできることをしたまでである。

ところで、最近、ニュースを見ていて違和感を強く感じるシーンがある。例えば交通事故で複数の死傷者が出て、運転者は高齢者、などというニュース性の強い報道があると、その翌日に現場付近に献花をするあまりのも数多くの人たちの映像が必ず流れる。近所の顔見知りの人なら分かる。あるいは、同じ保育園に通っていた園児の母親なら分かる。わからないのは、これといった縁がないのに、他人事とは思えず花を供えるたくさんの人たちだ。テレビでみて、「気の毒に」とは誰しも思うだろうが、わざわざ花を手向けに出かけるのはなぜなのか。そういうと語弊があるが、「そうまでして寄り添わなければならないのは、何か理由があるのだろう」という感想を持つ。

歩道にあれだけの供花が並ぶと、交通の妨げになってしまう。それほど強く同情したのであれば、匿名の香典を送るのがいい。たとえ数千円でも、それが供花の数ほど来れば、遺族も助かるだろう。ただそれはテレビ映像にはならないだろうが。

「寄り添う」側の問題として、考えてみると、現代日本社会の病理の一端が見えてくるのだが、それは次回に。





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最終更新日  2019.07.28 04:35:16


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