セミリアイア「晩年」日記

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2019.08.11
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カテゴリ: 評論
一連の事件では、被害者と加害者にそれほど深い関わりがないことが多い。中にはまったく関わらないものもある。

加害者は、それでも非常に強い憎悪を抱いている。その憎悪を向けるべき対象をいわば恣意的に、あるいは偶然にまかせて決定している。

例えば、貧困に苦しむ加害者が、富裕層の多い繁華街で事件を起こすなら、まだ了解可能である。しかし、なぜこの町なのか、なぜこの施設なのかがよく分からない事件も多い。

いずれにしても、憎悪という負の感情があるのは確かだ。この感情は、不幸な者が幸福な者に向けて抱く「怨恨」(ルサンチマン)と同じである。

不幸がいつも怨恨あるいは憎悪を生み出すかというと、決してそうではない。そういう感情は「孤独」という状況の中で生まれる。

例えば、非正規の酷い労働環境で生きるために働かなくてはならない人間は間違いなく不幸だが、彼とともにその不幸を分かつ仲間がいれば、愚痴のこぼし合いであっても、それで救われることは多い。

それが一人もいなければ、今はSNSという手段がある。しかし、匿名で不特定な他者がいつも彼の不幸に共感してくれるとは思えない。むしろ、彼の不幸感をより肥大することの方が多いだろう。

あるいは、彼が自らの不幸の責任を転嫁できる人間がいれば、少なくとも無差別的な殺傷事件は起こさないだろう。家族であれ、上司であれ、前妻であれ、憎悪はその人間に集中していく。

しかし、無差別殺傷事件の加害者は何ものかのせいで不幸だと考えることができない。だから、加害者自身が最後は自殺する例も多い。自分の不幸な人生の清算に見知らぬ他人を巻き込むのだ。





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最終更新日  2019.08.11 18:07:34


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