セミリアイア「晩年」日記

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2019.11.05
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カテゴリ: 評論
もう120年も前に、夏目漱石が、現在の学習院大学の学生たちを前に行った有名な講演の演題が「私の個人主義」だった。

漱石は、英文学者としてイギリスに留学したが、その時の学問上の苦悩からやっとたどり着いた立場を、「個人主義」として語っている。その中に、「近頃、『自我』とか『覚醒』とか称して、何をしてもかまわないという符牒(意味)に使っているようでありますが、私が個人主義と申し上げるのは、これとはまったく違います」という趣旨の一節があるが、この状況は現在もまったく変わっていない。

「個人主義」=「利己主義」という極めて浅薄な理解が、いまだに続いている。そのことを、まず論じなければならない。

一般に「~~主義」とは、「~~」を核心的正しさとみなす、という価値観の表明であり、例えば「自由主義」は「統制主義」に、「資本主義」は「共産主義」に対置される。

そのように考えれば、「利己主義」は「利他主義」に対置される。己を利することを核心的価値とするか、他を利することを核心的価値とするか。

しかし、これはそう単純な二項対立ではない。例えば、資本主義経済の中では、誰もがより多くの資産の形成を目的として働いている。そこでは、ある程度、十分なフローとストックがあって、初めて「利他」の立場に立ち得る。マザー・テレサは何も持たない人ではなかった。資産家の娘であったからこそ、それを投げ出すことができた。フランシスコもそうだった。仏陀もしかり。彼らは、自身の資産を投げ出した後も、「利他」のための巨額の「浄財」を集め得るカリスマ性があった。

首里城の火災があり、続々と寄付金が集まっている。熊本城の時もそうだったが、今回はそれ以上のペースだ。「ふるさと納税」が多いが、返礼品辞退率も高い。地元のニュースでも「何もできないけど、少しだけでも」という声が多かった。自分たちも、今月は沖縄に行くので、少しだけでも協力したい。

こういう人たちは、自分の生活にある程度の余裕があるからこそ、多少の募金等の「利他」的活動に参加できるのであって、それより、毎日の衣生活、住宅ローンの支払い、子どもの教育費を優先しなければならない場合も多い。また、「利他」といっても、家族や友人のためにある種の支援をする場合もあるし、自分の帰属する集団のために支援する場合もある。いずれにしても、それは「できる範囲」での「利他」であり、つまり「己」をある程度「利」した上で可能になる「利他」である。

つまり、「利己」の上に「利他」は成立しているというのが、現実の姿である。両者は二項対立ではない。



自分にとっての第一義的価値は、自分を形成することである。ニーチェは「教育とは結局自己教育である」と言ったが、まさにその通りだと思う。それは結局「利己主義」だという批判があるかもしれないが、自分の仕事自体が本来利潤を追求しない「利他的」な仕事であり、それを曲がりなりにも40年続けているのだから、その批判はまったく当たらない。単なる金儲けに人生を費やしたのではないのだ。





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最終更新日  2019.11.05 06:48:38


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